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ここではJohn Cheeverの短編 "The Five-Forty-Eight "を訳しています。
1954年発表のこの短篇では、チーヴァーのほかの作品の登場人物たちと同様、主人公は郊外の自宅からニューヨークの中心部に通う裕福なビジネスマンです。タイトルの "The Five-Forty-Eight" とは、いつもの急行電車を逃してしまった主人公が乗って帰宅する普通電車のこと。オフィスを出てから家に帰るまでのあいだ、主人公はいったいどんな“オデュッセイア”を経験したのでしょうか。
原文はhttp://members.lycos.co.uk/shortstories/cheeverfivefortyeight.htmlで読むことができます。



ニューヨーク発五時四十八分


by ジョン・チーヴァー

メモ


 エレベーターから出たところで、ブレイクは彼女がいることに気がついた。ロビーでは数人、大半はガールフレンドを待っている男たちだったが、立ったままエレベーターの扉にじっと目を注いでいる。そのなかに彼女はいた。敵意のこもった、思い詰めた表情を見れば、待っている相手が自分なのは一目瞭然だ。そちらには近づかないことにした。向こうには何の法的権利もありはしない。そもそも、話すことすらないのだから。彼はきびすを返し、ロビーのはずれのガラスドアに向かいながら、かすかな罪悪感と居心地の悪さを感じていた。昔の友だちや同級生が、粗末ななりをしていたり、病気だったり、あるいは何かしら悲惨な状況にあるのを見て、顔を会わさないですむよう回り道したときの気持ちに近かった。

ウェスタン・ユニオンビルの大時計が五時十八分を指している。急行に間に合いそうだ。回転ドアの順番を待っているときに、まだ雨が降っているのを知った。雨は一日中続いていたが、いま初めて、街中の騒音が雨のせいでどれだけ増幅されているか気がついた。通りへ出ると、マディソン街目指して東の方角へきびきびとした足取りで歩きだした。車が渋滞し、遠くの交差点からせきたてるように鳴らすクラクションの音が聞こえてくる。歩道は人であふれていた。彼女は何を望んでいたのだろう、と考えた。一日が終わってオフィスから出てくる自分の姿をひと目見たところで、いったいどうなるというのだろう。やがて、あとをつけてきているのかもしれない、という気がした。

 ふつうは街なかを歩きながら後ろを振り返ったりはしないものだ。ブレイクが振り返らなかったのも、ひとえにその習慣のせいだった。しばらくのあいだ――まったく愚かなことではあるが――歩きながら、耳を澄ますことまでした。雨の暮れ方の雑踏のざわめきのなかから、女の足音が聞き分けられるとでもいうように。

やがて彼は通りの反対側の先に、立ち並ぶビルの壁面が、一箇所でとぎれているのに気づいた。取り壊されたあとに、何かが新しく建設中らしい。鋼鉄の骨組みが歩道沿いの柵の上に少しだけ突き出して、その隙間から日の光が差しこんでいた。ブレイクは通りをはさんだちょうど向かいまで来ると足を止め、ショーウィンドウをのぞき込んだ。

室内装飾か競売業者の店らしい。窓の向こうは、そこに暮らす誰かが友人をもてなしているかのようにしつらえてあった。コーヒー・テーブルにはカップが載って、雑誌が用意され、花瓶に花が活けてある。だが花は枯れ、カップは空で、そこにいるはずの客の姿もない。

ブレイクはウィンドウのガラスに映るくっきりとした自分の姿と、背後をよぎる影のような人びとの姿を見た。そこにあの女の姿が映った。あまりの近さに衝撃を受けた。真後ろ、ほんの三十センチかそこらのところに立っている。振り向いて、何か用かと尋ねてもよかった。だが話しかける代わりに、そこに映る彼女のゆがんだ顔から急いで身を引き剥がし、通りを歩いた。あの女はおれに危害を加えようとしているのかもしれない――殺そうとしているのかも。

 ガラスに映った顔を見て急に動き出したので、帽子のつばにたまっていた雨が首筋を伝って落ちた。まるで冷や汗のようで、ひどく気持ちが悪い。冷たい雨が顔と剥きだしの手に降りかかった。濡れた排水口と舗道から不快な臭いが立ち上り、次第に足も濡れてきて、風邪をひくかもしれないと思った。どれも、雨の日の外出につきものの不快感にはちがいない。だがその不快感のせいで、あとをつけてくる彼女への恐怖感が増大するだけでなく、自分の身体感覚が病的なまでに過敏になり、同時にこの身体が容易に傷つけられうるのだという意識もまた、病的なまでに高まってくるのだった。

向こうにマディソン・アヴェニューの交差点が見える。街の灯は、こちらよりさらに明るい。マディソン・アヴェニューにまでたどりつけたら、もう大丈夫のような気がした。角に入り口が二箇所あるパン屋がある。市内を横断する広い通りに面したドアから入り、ほかの通勤客がするようにコーヒーリングをひとつ買って、マディソン・アヴェニュー側のドアから外に出た。マディソン・アヴェニューを歩きだしてから、彼女が新聞を売るスタンドの横で待っているのに気がついた。

 彼女は頭が良い方ではなかった。まくのはさほどむずかしくはあるまい。タクシーをつかまえて一方のドアから乗り込み、反対側から出ることだってできる。警官に話しかけたっていい。走ることも可能だった――とはいえ、実際に走ったら、彼女の目論む暴力沙汰の引き金になるかもしれない。彼はいま、知り尽くした一画に近づきつつあった。地上の通りと地下通路が迷路のように絡み合い、エレベーターはいくつも並んでいるし、ロビーも混雑していて、尾行をまくのも簡単だ。

そんなことを考えながら、コーヒーリングの甘く温かい匂いを嗅いでいると、元気がでてきた。人でにぎわう通りの真ん中で、危害を加えられるかもしれないと思うこと自体、ばかげたことだった。確かにあの女はばかで、しかも誤解していて、おそらくは孤独だ――だが、それだけのことではないか。

自分は、とりたててどうということもない男ではあるし、職場から駅まで尾行されなければならないようないわれなどない。だいそれた秘密を握っているわけでもない。ブリーフケースに入っている報告書も、戦争とも平和とも、麻薬密売とも、水爆だのなんだの、考える限り、いかなる国際的陰謀とも無縁だ。あとをつけてくる女やトレンチコートの男たち、濡れた歩道から連想は広がった。行く手に男性専用のバーのドアが見える。そうだ、簡単な手があったぞ!

 彼はギブソンを一杯注文し、バーにいる男ふたりのあいだに肩を入れるようにして割りこみ、たとえ彼女が窓からのぞいても、見つからないようにした。店は電車やバスに乗る前に、一杯やって帰ろうという通勤客で混み合っている。誰もが服だけでなく、靴や傘にまで、雨の夕暮れ時のすえた臭いを染みつかせたまま店に持ち込んでいた。だが、ギブソンを味わううちに、ブレイクの緊張もほぐれていく。周りにはありふれた、多くはさほど若くない顔ばかりで、悩みといえばせいぜいが税率や、だれが販売促進部長になるだろう、程度のことなのではあるまいか。彼は女の名前を思い出そうとした――ミス・デントだったか、ミス・ベントか、それともミス・レント――自分が思い出せないのに気がついて驚いた。記憶力が良いだけでなく、記憶している範囲も広いのを、常々自慢に思っていたし、たかだか半年前のことだったのである。


 ある日の午後、人事部が彼女を派遣してきた。秘書をひとり求めていたところだった。やってきたのは色の浅黒い、おそらくは二十代で、ほっそりした体つきの内気な女だった。飾り気のないワンピースを着ていたが、スタイルが格別いいわけでもない。ストッキングの片方がよじれていた。だが、柔らかな声をしていて、彼は試しに使ってみることにした。働き始めて数日が過ぎたころ、わたしは八ヶ月も入院していたんです、だからなかなか仕事が見つからなくて、でもチャンスを与えてくださってどうもありがとうございます、と彼に礼を言った。髪は黒く、目も黒かった。その深い色に、彼は好ましいものを感じた。

徐々につきあいが深まるにつれ、彼女があまりに神経質で、おそらくそのせいで孤独なのだろうと思った。一度、話を聞いているうちに、彼が大勢の友人に囲まれ、金持ちで、愛情あふれる大家族の一員であると勝手に想像していることに気がついて、逆に、何も持っていない人間は、どのような感じ方をするものか、彼は理解したのだった。彼女の目には、自分以外のあらゆる人びとが、実際よりはるかに輝かしい生活を送っているように映るのだ。彼女が彼の机にバラを一輪飾ったときは、それをくずかごに捨てた。「バラは好きじゃないんだ」とだけ伝えた。

 彼女は有能だったし、時間に几帳面、タイプライターの腕も確かで、たったひとつのことを除いては文句のつけようがなかった。そのひとつとは、筆跡だった。彼女から受ける印象とはどうしても一致しない、子供じみた拙い字を書くのである。彼はばくぜんと、丸みを帯びた左傾書体で書くのではないかと想像していた。事実、ところどころそうした書体をまねようとはした跡はある。だがそこにいびつな活字体が混ざるのだ。その字を見ていると、感情的な葛藤が内面にあるのではないかという気がした。本来なら紙の上に書いているはずの連続した線が、葛藤のせいでずたずたにされてしまっているのではないか。

彼女が彼の下で働くようになって三週間ほどが過ぎたとき――三週間は超えていなかったはずだ――、ふたりは遅くまで一緒に仕事をした。仕事が退けてから、彼は一杯おごろう、と誘った。「ほんとうにお酒が召し上がりたいんでしたら」と彼女は言った。「うちにウィスキーがあるんですけど」

 彼女の部屋は、彼の目にはクローゼットのなかのように映った。隅にはスーツの箱や帽子の箱が積み上げられ、ベッドとドレッサーと彼が腰を下ろした椅子がかろうじて置けるほどの広さしかないにも関わらず、一方の壁ぎわにはアップライトピアノがあった。譜面立てにはベートーヴェンのソナタ集が載っている。

彼女は飲物を一杯作ってから、何か楽なものに着替えてきます、と言った。彼は、そうしてくれ、と言った。つまるところ、彼はそのために来たのだから。彼が少しでも良心の呵責を感じていれば、ふたりはそんな思慮を欠いた行動を取らなかったにちがいない。彼女のおずおずとした物腰や、ものの見方決めている“自分は何もかも取り上げられてしまった人間なのだ”という意識をみれば、あとくされの恐れがまったくないことは明らかだった。彼がつきあった女たちは大勢いたが、その大半は自尊心が欠けていた。だからこそ、相手にしたのだ。

一時間ほどして、彼がふたたび服を身につけたとき、彼女はむせび泣いていた。彼の方はすっかり満ち足りて、体も温まり眠くなっていたので、彼女が涙を流していることなど、ほとんど気にも留めなかった。身なりを整えているときに、彼女の手書きの掃除婦宛てのメモがドレッサーに置いてあるのに気がついた。部屋の明かりはバスルームから差しこむ電灯だけで――ドアが半開きになっていた――、薄暗いなかで見ると、のたくったような字は、およそ彼女が書いたものとは思えなかった。まるでどこかよその、むかつくような女が書いた字に見える。翌日、彼に考えられる唯一の合理的な行動を取った。彼女が昼食のために席を外しているあいだに人事部に電話をかけて、彼女をクビにしたのである。そうして彼はその日、午前中で仕事を終えた。数日後、彼女がオフィスへ彼との面談を求めてやってきた。彼は交換手の女の子に、彼女が会いに来ても、中に入れないよう命じた。そうして、今日の夕方まで、彼女に会わずにきたのだった。


 ブレイクは二杯目のギブソンを飲み干すと、壁の時計を見て、急行に乗り損ねたことを知った。五時四十八分の普通に乗ればいい。バーを出たが、空はまだ明るかった。雨は依然として降り続いている。通りを注意深く見渡して、みじめったらしい女の姿がないことを確かめた。駅へ向かう途中、一度か二度、肩越しに振り返ってみたが、異常は見られない。だが、まだ完全には自分自身を取りもどしたとは言えないな、と気がついた。およそ忘れ物をするような人間ではない自分が、コーヒーリングをバーに忘れてきたからである。この失策は彼をいらだたせた。

 彼は新聞を買った。普通列車に乗ってみると、定員の半分ほどしか乗っておらず、彼は川が見える側の席を選んでレインコートを脱いだ。彼は茶色い髪をしたやせぎすの男で、どこから見ても人目を引くところはなかった。だが、見る人が見れば、青白い顔や灰色の目が、いやなあと味を残すのを感じるはずだ。彼が身につけているのは、平凡な、服装規制主義者が選びそうなものである。レインコートはマッシュルームを思わせる薄茶色。帽子は濃い茶色で、スーツも同じだった。ネクタイに走る明るいラインを除けば、色らしい色は見られず、まるで身を隠そうとでもしているかのようだった。

 近所の人がいはしないかと、電車のなかを見回した。ミセス・コンプトンが何列か前方の、右側の席にすわっている。ミセス・コンプトンはにっこりしたが、その笑みは瞬間的に消滅した。その素早さときたら、怖ろしいほどだ。散髪が必要な頭をしたミスター・ワトキンスもいる。服装規制など、どこ吹く風といったようすの彼は、コーデュロイのジャケットを着ていた。彼とブレイクはかつて争ったことがあったので、ふたりは口もきかなかった。

 ミセス・コンプトンのほほえみがあっというまに消えてしまっても、ブレイクはいささかの痛痒も感じなかった。コンプトン家はブレイク家の隣で、ミセス・コンプトンというひとは、いらぬおせっかいを焼かないことがいかに大切か、決して理解しようとしないのだ。妻のルイーズがミセス・コンプトンのところへ悩みを相談に行っていることは知っていたが、涙混じりにこぼす愚痴をなだめるかわりに、どうやら自分のことを、信者の告白を聞く司祭ぐらいに考えているらしく、ブレイク夫妻のプライベートに属するあれこれに、あふれんばかりの好奇心を抱いているようすである。おそらくつい先日のケンカにことも、相談を受けているにちがいない。

ある晩、ブレイクが残業をすませ、疲れて帰宅した。ところがルイーズは夕食の用意を何もしていなかったのである。彼はルイーズを従えて台所に入り、今日は五日だ、と台所のカレンダーの5という数字を指さした。そうしてその日付を丸で囲んだ。「一週間後は十二日だ」と言った。「二週間後は十九日だ」今度は19という数字に印をつける。「二週間、おまえとは口をきかないことにする」と彼は言った。「十九日までだ」妻は泣いて抗議したが、哀願しようがどうしようが、彼の心は微動だにしなくなって、すでに十年近くが過ぎていた。

ルイーズは年を取ってしまった。いまや顔の皺は深々と刻み込まれ、夕刊を読もうと鼻にメガネをかけた妻の姿は、彼の目には不愉快な他人そのものだ。唯一の取り柄の肉体的魅力すら、なくなってしまっていた。九年前にブレイクは、夫婦それぞれの部屋を結ぶ通路に本棚を作って、鍵のかけられる木のドアを、本棚のなかにはめこんだのである。というのも、子供たちが自分の本を読むことをきらったからだった。

だが、ふたりが長きに渡って仲違いを続けたことも、ブレイクにとってはさほどのこととも思えなかったのである。自分が争っている相手は妻で、女から生まれた男は、だれでも同じことをしているではないか。それこそ人間の本性なのである。だからこそ、ホテルの中庭でも、換気シャフトからも、夏の夕方の歩道でも、荒々しい言葉が聞こえてくるのだ。

 ブレイクとミスター・ワトキンスの間のとげとげしい空気もブレイクの家族が原因だったが、ミセス・コンプトンの笑顔をあっというまに消した問題にくらべれば、さほど深刻でもやっかいでもなかった。ワトキンス家は借家だった。ミスター・ワトキンスは来る日も来る日も服装規制を逸脱し続けているし、――八時十四分の電車にサンダル履きで乗ってきたことさえあった――しかも彼は商業美術の世界の住人なのである。

ブレイクの長男、チャーリーは十四歳で、ワトキンスの息子と仲が良かった。チャーリーはワトキンス一家が暮らす、見るからにだらしのない借家に入り浸っていた。友だちづきあいが原因で、チャーリーは行儀の面でも、服装の面でも、すっかり影響を受けたのである。そのうち、ワトキンス家で食事をすませるようになり、土曜の夜もそこで過ごすようになった。とうとう身の回りのものほとんどをワトキンス家に持ちこんで、月の半分は夜も帰らなくなるに及んで、ブレイクも腰を上げざるをえなくなった。ブレイクはチャーリーではなく、ミスター・ワトキンスに話をし、当然の結果として、あれこれ批判じみた指摘をすることになった。ブレイクはミスター・ワトキンスの長い汚れた髪や、コーデュロイのジャケットを眺め、改めて自分が正しかったことを確認した。

 だが、たとえミセス・コンプトンが一瞬でほほえみを引っこめようが、ミスター・ワトキンスの髪の毛が汚かろうが、地中深くを走る五時四十八分発電車の坐り心地の悪い席に収まることができたブレイクの喜びは、少しも薄れることはなかった。車両は古く、奇妙な話だが、昔、いくつもの家族が空襲避難所で夜を明かしたことがあったが、そのときの臭いがした。天井の明かりが乗客の頭や肩へ、鈍い光を投げかけている。すすけた窓ガラスには、どこかよそを走っているときにでもついたのだろう、雨粒が筋になって流れ、鼻を突くパイプやタバコの煙が、それぞれの新聞の向こうからもくもくと立ち上ると雲となってただよい始めたが、この光景も、ブレイクの目には、自分が安全へといたる道の途上にあることを物語っているように思えるのだった。危険がわが身をかすめはしたが、過ぎ去ったいまとなっては、ミセス・コンプトンやミスター・ワトキンスに対してさえ、暖かな気持ちを抱いていたのである

 電車は地下を抜け、淡い日の光のなかへと入っていった。スラム街と市街地を見ていると、後ろをつけてきた女のことがぼんやりと思い出された。彼女とのことをじっくり思い返したり、後悔の念に襲われたりしないように、夕刊に意識を向けた。目の隅に外の風景が飛び込んでくる。あたりは工業地帯で、ものさびしい時間帯だった。機械格納庫や倉庫が流れていき、上空では雲の切れ間から黄色い夕日が一筋差しこんでいた。

「ブレイクさん」と呼ばれた。彼は顔を上げた。彼女がいた。電車が揺れるので、背もたれを片手でつかんで体を支え、そこに立っている。不意に名前を思い出した。ミス・デントだ。「こんにちは、ミス・デント」と彼は言った。

「ここに坐ってもかまいませんか?」

「どうぞ」

「すみません。ご親切にどうも。こんなふうにご迷惑をおかけしたくはないんです。わたし、ほんとうに……」

顔を上げて彼女の顔を見たときはぎょっとしたが、その気弱そうな声にすぐに安堵した。ブレイクは腰を少しずらした。実をともなわない、反射的な歓迎のそぶりである。そこへ女は腰を下ろした。ため息が聞こえた。女の濡れた服が臭う。形の崩れた黒い帽子には、安っぽい羽根飾りが縫いつけてある。彼はそのコートが薄い布製であることに気がついた。手袋をはめ、大きなハンドバッグを持っている。

「ミス・デントはこの方面にお住まいかな」

 ハンドバッグを開いて、ハンカチに手を伸ばす。彼女は泣いていたのだった。誰かに見られているのではないかと周囲をうかがったが、見ている者はいなかった。これまで、帰りの電車のなかで、数えられないほどの人びとと隣り合ってきた。着ている服に目を留め、手袋に空いた穴にまで気がついた。居眠りしている通勤客が寝言を言うのを聞いて、いったいどんな悩みがあるのだろうと思ったこともある。新聞に鼻先をつっこむ前に、乗客をあらかた分類した。金持ちと貧乏人、聡明な人と薄ぼんやり、近所の人に見知らぬ人、だがひとりとして泣いている者はいなかった。女がハンドバッグを開いたとき、女のつけていた香水を思い出した。酒を飲みに行った晩、彼の肌にしつこくからみついたにおいだった。

「ずっと調子が悪かったんです。二週間も寝込んでしまって、今日初めて外に出たんです。ほんとにひどい病気だったんです」

「それは気の毒だったね、ミス・デント」ミスター・ワトキンスやミセス・コンプトンに聞こえるように、大きな声を出した。「いまどこで働いているのかね?」

「何ですって?」

「いまはどこで働いているのかと聞いたんだよ」

「あら、ご冗談はおよしになって」彼女は静かにそう言った。

「どういうことだね」

「あなたのせいで、どこも雇ってくれなくなったんです

 彼は背筋を伸ばし、両肩にぐっと力を入れた。ささやかな、そうしてかなうはずもない願いが、上体を起こす動きとなって現れたのだ――自分がいま、ここではないどこかよそにいればいいのに、という。この女は厄介ごとを押しつけてくるつもりらしい。ブレイクは息を吸った。のっぴきならない気分で、半分ほどしか乗客の乗っていない、薄暗い車両のなかを見回した。現実的になるんだ、実際にはそれほどひどいことになっているわけじゃない、と言いきかせる。彼女の荒い息づかいが聞こえてきて、雨を含んだコートの臭いが鼻を突く。電車が停まった。カトリックのシスターと、オーバーオールを着た男が降りていった。電車がまた動き始めたとき、ブレイクは帽子をかぶり、レインコートに手を伸ばした。

「どこへいらっしゃるの?」

「隣の車両に移ろうと思ってね」

「あら、そんなことなさらないで」と彼女は言った。「だめよ、だめ、だめ」真っ青な顔が耳のすぐそばまで近づいて、暖かな息が頬をかすめる。「そんなことをなさってはだめ」とささやいた。「わたしから逃げようなんてなさらないで。わたし、銃を持ってるんです。あなたを殺さなきゃならなくなるかもしれない。そんなことはしたくはないんですけど。ただお話がしたいだけなのよ。動かないで、動いたら殺すと思います。動かないで、動かないでください」

 ブレイクはどさりと腰を落とした。立ち上がって、助けを求める叫び声を上げようとしても、とてもではないけれどできそうにはなかった。舌が二倍ほどにふくれあがって、動かそうとしてもおかしな具合に上あごにくっついてしまっている。脚にはまるで力が入らない。いまは、ほとばしるように鋭く打っている動悸がおさまって、自分の直面する危険がどれほどのものか、判断できるようになるまで待つことしかできそうにない。女は少し身体をずらして腰を下ろし、ハンドバッグのなかの銃で、彼の腹にねらいをさだめている。

「もうおわかりになったでしょ」女は言った。「わたしが真剣だってこと」何か言おうとしても、声は出そうになかった。彼はうなずいた。「ちょっと黙って坐っていましょう。気がすっかりたかぶってしまって、頭が混乱してるの。静かにしてたら、考えをまた整理することもできるから」

 助けがくるはずだ、とブレイクは考えた。問題はそれまでの数分間だ。誰かが自分の表情や、女の奇妙な姿勢に気がついて立ち止まり、声をかけてくれるはずだ。それで何もかも片がつくのだ。自分がやらなければならないことはただひとつ、誰かが窮状に気がつくまで待つことだけだ。窓の外には川と空が広がっていた。彼が見ているあいだにも、雨雲はシャッターを下ろすかのようにぐんぐん低くなり、水平線上に広がる一筋のオレンジ色の帯は明るさを増していく。鮮やかな光は水面に広がり――彼には日差しが傾いていくのが見えた――、淡い色の炎がなめるように土手に広がっていった。やがてその陽もかき消えた。

一分経てば、助けが来る、と思った。つぎに、電車が停まる前に来る、と思った。だが、電車が停まり、降車する客と乗車する客が行き交って、ブレイクは隣りに坐る彼女の情けによって、まだ生きていた。助けは来ないかもしれないという可能性と、正面きって向き合うことができない。自分の苦境は誰にも気づいてもらえない可能性や、ミセス・コンプトンも、彼が貧乏な親戚をシェイディ・ヒルにでも夕食に連れて行くところなのだろうと考える可能性に彼が思い至ったのは、もう少しあとになってからだった。やがて彼の口中に唾液がもどり、何とか話せるようになった。

「ミス・デント」

「はい」

「何が望みなのかね?」

「お話ししたいんです」

「オフィスに来ればいいじゃないか」

「あら、だめよ。オフィスには二週間のあいだ、毎日行ったんだもの」

「今度会えるように約束しよう」

「いやです。ここで話したらいいじゃありませんか。お手紙を書いたのですけれど、病気で出しにいけなかったんです。わたしが考えていること、全部書きました。こうやって電車に乗るのっていいですね。わたし、電車が好きなんです。旅行できるほどお金がないのがずっと悩みだったんですけど。たぶん、あなたにとってはこの景色も毎晩のことだから、気をつけて見ることもないんでしょうね。でも、長いあいだ病気でふせっていた人間の目にはいいものよ。あの川や丘には神様はいらっしゃらないことになってるんでしょうけど、わたしにはいらっしゃるような気がする。『では、知恵はどこに見いだされるのであろうか』聖書にはそう書いてありますよね。『分別はどこにあるのか。深い淵は言う。“わたしの中にはない。”海も言う。“わたしのところにもない。滅びの国や死は言う 「それについて耳にしたことはある。”

ええ、あなたが何を考えてらっしゃるか、わかります。気がふれてるって思ってるのね。いまはまた病気がぶりかえしているが、そのうち良くなるだろうって。あなたとお話してると、少しずつ気分が良くなってくるの。あなたのところで働くようになる前は、ずっと入院してたんですけど、そこでは全然治療してくれなかったんです。ただ、わたしの自尊心を取り上げようとしただけ。この三ヶ月というもの、わたしはずっと失業してます。もしわたしがあなたを殺したとしても、病院に戻す以外、何もできないでしょうね。だから、わたし、何も怖くないんです。だけど、もう少しのあいだ、静かに坐っていましょう。落ち着かなくっちゃ」

 列車はのろのろと川の土手を上り、ブレイクは必死で逃れるすべを考えようとしたが、目前に脅威が迫っているときに考えるなど、土台、無理な話である。理にかなった計画を立てる代わりに、そもそも初めて会ったときにこの女を避けていれば、と、ありもしなかった可能性に思いは向かうのだった。だが、なんでそうしなかったのだろう、と後悔し始めるが早いか、自分の考えの不毛さに気がついた。彼女が初めて何ヶ月も入院していたと言ったときに、何の疑惑も抱かなかったことを後悔するようなものだ。それを言うなら、彼女の内気なところ、おどおどとしたものごし、さらに、鳥の足跡のような筆跡という警告だって、やりすごしてしまったのだから。いまになって、過去の過ちを取りもどすすべもなく、彼は大人になってから、おそらくは初めて、後悔というのがどれほどの激しさで押し寄せてくるかを理解したのだった。窓の外では、とっぷりと暮れた川で釣りをする数人の男たちの姿と、岸辺にうち寄せた木ぎれを釘付けしたような、崩れかけたボートハウスが見えた。

 ミスター・ワトキンスは居眠りしていた。いびきが聞こえてくる。ミセス・コンプトンは新聞を読んでいる。電車はキーッと音を立て、減速し、つぎの駅で息切れしたように停まった。ブレイクの目に、南行き列車の入るプラットフォームが映ったが、そこには市街地へ行こうとする客が数人待っていた。弁当箱をぶらさげた作業員がひとり、めかしこんだ女、スーツケースを持った女。お互いが離ればなれに立っていた。人びとの背後に、広告が貼ってある。ワインで乾杯しているカップルのポスター、キャッツ・ポー社製ゴム底のポスター、それにハワイアン・ダンサーのポスター。ポスターが伝える陽気な空気も、プラットフォームの水たまりを超えられず、そこで立ち消えてしまうらしかった。プラットフォームも、そこに立つ人びとも、ひどく孤独に見えた。電車は駅をあとにして、スラム街のまばらな灯火のなかへ、さらには田舎と川が広がる闇の中へ入っていった。

「シェイディ・ヒルに着く前に、手紙を読んでほしいんです」と彼女が言った。「座席の上にあるの。取ってください。あなたに宛てて出そうと思ったんだけど、病気がひどかったから外に出られなかったの。二週間も閉じこもっていたのよ。失業して三ヶ月。家主のおばさん以外を除けば、誰とも話をしてない。ね、どうかわたしの手紙を読んで」

 ブレイクは女が座席に置いていた手紙を拾い上げた。安っぽい紙の感触にぞっとし、指が汚れるような気がした。手紙は畳まれた上からさらに折り曲げてある。そこには「愛する夫へ」とあった。あの気ちがいじみた、行き先を見失ったような文字だ。

「人を愛することによって、わたしたちは聖なる愛へと導かれるといわれますが、ほんとうのことなのでしょうか。わたしは夜ごと、あなたを夢に見ます。狂おしいほどの欲望を味わっています。わたしには常日頃から夢を見るという才能がありました。火曜日には血を噴き出している火山の夢を見ました。入院しているとき、お医者さんたちはわたしを治してあげる、と言いましたが、わたしの自尊心を取り上げようとするだけでした。あの人たちは、わたしに縫い物や籠細工の夢ばかり見てほしかったのでしょうけれど、わたしは何とか自分の持って生まれた夢見る力を守ろうとしたんです。わたしには千里眼が備わっています。だから、いつ電話が鳴るかもわかるんです。これまでただの一度も、心からの友人がいたことはなかったのだけれど……」

 電車はふたたび停まった。そこにもまたプラットフォームがあり、乾杯しているカップルと、ゴム底と、ハワイアン・ダンサーのポスターがあった。不意に、女がまた耳元に顔をよせてささやく。「何を考えてるか、知ってるわ。顔に書いてあるんですもの。あなた、シェイディ・ヒルに着いたら、わたしから逃げられると思ってるんでしょ? あのね、わたし、もう何週間もこの計画を練っていたのよ。ほかに考えなきゃいけないことなんてなかったから。あなたを傷つけたいわけじゃないんです。もし、わたしに好きなように話をさせてくれるのであればね。わたし、ずっと悪魔のことを考えてたのよ。つまり、もしこの世に悪魔がいるんだったら、それに、もし邪悪さを体現してるような人がいるんだったら、そんなやつらの息の根を、ひとり残らず止めてやることが、わたしたちの義務なんじゃないかしら、って。あなたがいつだって弱い者を餌食にする人だってわたしにはわかる。知ってるのよ。ああ、ときどきわたし、あなたを殺さなきゃって思うの。ときどき、わたしが幸わせになるためのたったひとつの障害が、あなたなんじゃないか、って思うのよ。ときどき……」

 女は銃をブレイクに当てた。銃口が下腹部に当たる。この距離なら、銃弾の射入口は小さかろうが、背中の射出口はサッカーボールぐらいの大きさになることだろう。戦争中に見た、埋葬されていない死体のことがよみがえってくる。記憶がどっと押し寄せた――はらわた、目、砕けた骨、排泄物などのさまざまな汚物。

「わたしがこの世で求めていたのは、ほんのささやかな愛」女が言った。銃を押しつける力が弱くなった。ミスター・ワトキンスは居眠りを続けたままだ。ミセス・コンプトンは両手を膝の上で組んで、静かに坐っている。車内はがたごとと揺れていた。それに合わせて両側の窓の間でかすかに揺れているのは、乗客の着ている上着やマッシュルーム色のレインコートだ。ブレイクは肘を窓枠にのせ、左の靴をスチーム・パイプの覆いの上に置いていた。車内は陰気な教室めいた臭いを放っている。乗客たちは、それぞれがばらばらになって、眠っているように見えた。ブレイクは、この熱っぽい臭いや、濡れた服や、ぼんやりした明かりから、もう二度と逃げられないのかもしれない、という気がした。彼は何とかして自分をだまそうとした。これまでにもときどき、自分を元気づけるためにそうしてきたのだ。だが、だまそうにもそんなエネルギーは、どこにも残っていなかった。

 車掌がドアから頭をのぞかせて言った。
「シェイディ・ヒル、つぎはシェイディ・ヒル」

「さあ」彼女が言った。「わたしの前を歩いていくのよ」

ミスター・ワトキンスはやおら目を覚ますと、コートを着こんで帽子を被り、ミセス・コンプトンに笑いかけた。ミセス・コンプトンの方は、いかにも母親らしい仕草で、いくつもの包みを手元にかき寄せている。ふたりは出口に向かった。ブレイクもその流れに加わったが、ふたりは話しかけもしなければ、後ろの女に気がついたようすもなかった。車掌は勢いよくドアを開け、隣の車両の乗降口にも近所の人びとが数人、同じように急行に乗り遅れたのだろう、青白い光の下で疲れた顔をして、辛抱強く帰りの電車の行程が終わるのを待っているのが見えた。

ブレイクは顔を上げた。開いたドアの向こうに、町はずれの住む者もない屋敷や、「立ち入り禁止」と木に釘付けされた看板、オイルタンクが近づいてきた。鉄筋コンクリートの橋桁が、開いたドアの鼻先をかすめるほどに近い、手を延ばせばふれることができそうな距離のまま過ぎていく。やがて北行きプラットフォームの電灯柱の最初の一本が見えてきた。黒と金色の「シェイディ・ヒル」の看板、整備協会が手入れしているちっぽけな芝生と花壇、タクシー乗り場と古ぼけたバス発着場を過ぎた。ふたたび雨が降り出している。土砂降りだ。ざあざあという雨音が聞こえ、街の明かりが舗道に反射しているのが見える。水が跳ね、したたり落ちる、意味を結ばない音を聞いていると、シェルター(避難所)という言葉が頭に浮かんできた。その言葉はあまりに軽やかで、しかも場違いで、自分が思い出すことができないほど過去のある時期に深く結びついているような気がしてきた。

 後ろに女を引き連れたまま、彼は電車のステップを降りた。駅の前では十数台の車が、エンジンをかけたまま待っている。数人の人びとが、それぞれの車両から降りてきた。顔見知りばかりだったが、誰ひとりとして彼に、乗りませんか、と声をかけてくれる者はいない。彼らはそれぞれに、あるいはふたり連れだって、歩いていく――雨の降る場所をまっすぐに抜けて、駅の避難所を目指して。そこでは車がクラクションを鳴らして待っているのだ。家に帰る時間だった。一杯やる時間であり、愛の時間、夕食の時間だ。雨をついて、向こうの丘にはいくつもの明かりがともっている。風呂に入れられた子供たち、料理された肉、きれいになって輝いている皿を照らす明かりだ。

車は一台ずつ、家の主を乗せて帰ってゆき、やがて四人が取り残された。遭難中の客のうちのふたりは、この郊外の町でただひとつのタクシーに乗って去っていった。
「ごめんなさい、あなた」数分後、車で駆けつけた女が、心からすまなそうな声で夫に言った。「家中の時計が遅れてたの」最後の男は自分の腕時計に目をやると、雨に目を移し、それから雨のなかへと去っていった。ブレイクはその男に、別れの挨拶をしなければならない理由があるような気がした――パーティが終わって友だちに言うさよならではなく、わたしたちの精神や心が、望まないまま容赦なく引き裂かれていくときに告げるさよならを。男の足音は、駐車場を横切り、歩道へ向かうまで聞こえて、やがて消えていった。

駅舎のなかで電話が一台鳴り始めた。ベルの音はやかましく、一定の間隔を置いて続くのだが、だれも出ようとしない。誰かがつぎに出るオールバニー行きの電車の時刻を知りたがったのだが、駅長のミスター・フラナガンは、一時間も前に帰宅していたのだった。帰る前に、駅の明かりはすべてつけたままにしておいた。明かりは無人の待合室を照らしていた。ブリキのかさのかかった明かりは等間隔で、プラットフォームにもともっていて、ほの明るい、目的をもたない光独特のわびしさをただよわせている。電灯はハワイアン・ダンサーと、乾杯しているカップル、ゴム底のポスターを照らしていた。

「ここ、初めて来たわ」女が言った。「こんなところだとは思わなかった。こんなわびしい景色を見ることになるだなんて、予想もしてなかったわ。明るいところから離れましょう。あっちへ行きましょう」

 脚が痛かった。力という力が抜けてしまっている。「さあ、行くのよ」と女が言った。

 駅の北側は、貨物倉庫と石炭置き場と入江になっていた。入江には、肉屋とパン屋とガソリンスタンドの店主の小型ヨットが繋留してあり、日曜日になると釣りに出かけるヨットも、いまは降り込む雨のせいで、船縁り近くまで水に浸かっていた。貨物倉庫に向かって歩きながら、ブレイクは地面を走る影を見、きしるような音を聞いたように思った。そこへ、一匹のネズミが紙袋から頭を突き出したのが見えた。ネズミはじっと彼を見つめている。そのまま紙袋を口にくわえて、下水溝へ引っ張っていった。

「止まって」と女が言った。「こっちを向いて。あらあら、あなたのこと、かわいそうに思わない方がどうかしてるんでしょうね。あなたの情けない顔を見せてあげたいわ。だけどあなたには、わたしがどんな思いを味わってきたかわからない。昼間のうちは外へ出るのさえ怖いのよ。空から空が落ちてくるかもしれないような気がして。おとぎばなしに出てくるチキン・リキンみたいなものよ(※上から何かが落ちてきてあわてふためき、空が落ちてくると怯えるおとぎばなしの登場人物)。暗くなってくると、ようやく自分らしくなるような気がするの。だけど、それでもあなたよりはましね。だってときどきはいい夢だって見られるんだから。ピクニックとか、天国とか、兄弟愛とか、それから月の光を浴びたお城や、川べりに柳並木が続いている川とか、外国の街なんかの夢を見るのよ。それに、あなたよりわたしの方が、愛についてよく知ってるんだと思う」

 暗い川から船外機エンジンの音が聞こえてきた。暗い水面を渡ってゆっくりと近づいてくるその音は、過ぎ去った夏とかつての喜びに満ちた、甘やかな記憶を呼び起こす。その記憶は彼の皮膚をぞくぞくとさせ、山のなかの暗闇や、子供たちの歌声を思った。

「病院の人たちは、わたしのことを治そうともしてくれなかった」彼女が言った。「あの人たちって……」

 北の方角からやってきた電車の音のせいで、声が聞こえなくなったが、それでも彼女はしゃべるのをやめなかった。騒音が耳を聾し、目の前を流れていく明るい車窓には、食べたり飲んだり眠ったり何か読んだりしている人びとの姿が浮かび上がっていた。電車が鉄橋を越えて行ってしまうと、音は遠くなり、彼の耳には彼女のわめく声が飛び込んできた。

「ひざまずくの! ひざまずくのよ! 言うとおりにして。ひざまずきなさい!」

 彼はひざをついた。そうしてこうべを垂れた。

「そうよ。ほら、わたしの言うとおりにすれば、危害を加えなくてすむんだから。ほんとはこんなこと、したくないのよ。あなたを助けてあげたいの。だけどあなたの顔を見てたら、もう助けてあげられないんじゃないかっていう気がしてくる。もしわたしがもっといい人間で、愛情深くて、正気だとしても――ああ、いまのわたしよりもっといい人間だったら――ときどき思うのよ、もしわたしがそんなふうな人間で、若くてきれいだとしても、それに、もしわたしが正しいやり方を教えてあげるためにあなたを呼んだとしても、あなた、わたしのことなんて気にも留めないでしょうね。ええ、あたし、あなたより上等な人間よ。いい人間なの。だからこんなふうに自分の時間を無駄にしたり、人生を損なったりしちゃいけないんだわ。顔を地面につけて! 言うとおりにするの。顔を地面につけなさい!」

 彼は汚い地面に伏せた。石炭が顔をこする。彼は地面に倒れて手を延ばし、むせび泣いた。

「これで気分がちょっとましになったわ」彼女が言った。「これであなたと手を切ることができる。こんなこと一切合切から手を引けるんだわ。わたしのなかにだって、親切心や正気なところがある、それをちゃんと使うことだってできるってわかったでしょ。だからわたし、手を切れる」

やがて砂利を踏んで遠ざかっていく彼女の足音が聞こえた。やがてその音はプラットフォームの固い表面を踏む澄んだ音に変わり、いっそう遠くなった。やがて音は消えた。彼は顔を上げた。木の歩道橋を上っていき、反対側のプラットフォームへ降りてゆく姿が見える。薄明かりのなかの彼女は小さく、どこにでもいるような、無害な姿に見えた。彼は汚い地面から起きあがった――初めは警戒しながら。やがて彼女の物腰やようすから、自分のことなどすっかり忘れてしまっていることがわかった。彼女はやろうと決意したことを成し遂げたのだ、そうして、自分はもう安全だ。彼は立ち上がり、落ちていた帽子を地面から拾い上げ、歩いて家に向かった。



The End






あの孤独な人たちは、みんなどこから来たのだろう


いまから半世紀以上前、1954年発表の作品ということなど、読んでいるうちに忘れてしまうほど、現代的な短篇である。"bomb shelter"(ここでは「防空壕」ではなく「空襲避難所」と訳してみたが、やはり防空壕だったのかもしれない。おそらく第二次世界大戦中のことだろうが、いったいブレイク一家はどこの防空壕に入ったのだろう。ヨーロッパ出身という含意があるのだろうか)という単語や、ブレイクがソフト帽をかぶっているところ、ミス・デントの帽子の羽根飾りなどが出てくるところで、ああそうか、これはいまの話ではないのだな、と思うぐらいだ。

チーヴァーの短篇の登場人物たちは、ある日、突然降りかかってくる不条理に苦しめられ、困りきり、それを通じて、いままで自分が見ないようにしていた自分の姿を見つけてしまう。「とんでもないラジオ」では、他の部屋を筒抜けにするラジオが、「泳ぐ人」では、奇妙な流れ方をする時間が、そうしてこの作品では、一夜の情事の相手になったミス・デントが、その「不条理」を体現する。

主人公は、アッパーミドル、有能で、郊外にプールがついているかどうかは不明だが、立派な家を買えるほどの年収がある。反面、冷たく、気むずかしく、自分のことしか考えない。その彼の心境が、外界の描写、雑踏や車窓や車内の風景とたくみに連動しながら描かれていく。主人公が、見ようとしないできた自分のこれまでの身勝手さ、ご都合主義、冷たさが回想とともにあきらかになり、彼が窮地に追い込まれ、誰も助けてくれない、というより、気づいてさえくれない。そうして、最後の場面に至って、ぎりぎりのところで自分の過去の「総決算」を迫られる。責められ、謝罪を求められたあげく、地べたに土下座までさせられた主人公だが、むしろ彼は重荷を下ろした気持ちで家へ帰っていくのかもしれない。

だがそれにくらべて「不条理」であるミス・デントのことは、彼女がどこから来たか、このあとどこへ帰っていくのか、チーヴァーは何も教えてくれない。それでもいまのわたしたちに興味深いのは、わたしたちにも理解できる(つまりはわたしたちが気づこうとしないでいる自分の一部でもある)ブレイクではなく、よくわからないミス・デントの方ではあるまいか。

ミス・デントは、窓辺で誰かを待ちながら、ひとりきり、いろんな顔をしてみせている“エリノア・リグビー”のように、自分を使い捨てにしただけでなく、職を奪い、社会との細い絆さえずたずたにしてしまったブレイクに対する憎悪を育てていった。おそらくミス・デントが寝込んでいた三週間というのは、さなぎの中で憎悪が育った期間だったのだろう。そうやって時満ちて、憎悪が孵化をとげたとき、彼女は行動に出た。彼に向かって憎悪を爆発させ、彼女に対してやったことのすべてを謝罪させた。すべてを思い通りにとげてから、最後の場面では身も心も軽やかに彼から去っていく。

けれど、どうしてもわたしは、ミス・デントの姿に、マッカートニーの歌う

All the lonely people Where do they all come from?
All the lonely people Where do they all belong?
 あの孤独な人たちは、みんなどこから来たのだろう
 あの孤独な人たちは、どこにその居場所があるのだろう

という部分が重なってしまうのだ。

ブレイクは、仮にそこが「スイート・ホーム」と呼べなくても、家族は崩壊していたとしても、帰っていく場所がある。仕事という所属先もある。けれど、ブレイクに対して憎悪を晴らしたミス・デントが帰っていく先は、仮にあったとしても、クロゼットのような部屋。そこは彼女の居場所と呼べるのか。彼女の所属先はこれからさき、見つかるのか。

むしろ、ブレイクの身勝手さも、冷たさも、郊外に家を建てることができるまでに世間の中で勝ち抜こうとするなかで、身につけていった性質なのかもしれない。ミス・デントは、ずっと彼を自分よりはるかに幸せで、恵まれた人間として羨望し、おそらくその羨望を愛と思ってきたのだろうが、最後の場面で、彼がそこまで幸せではないことを察する。わびしい風景の先の家を、やっと手に入れただけの男であると気がつくのだ。そこで自分とブレイクの立場は逆転し、「自分からは何もかも奪われてしまった」という感覚が誤っていたこと、彼にはない、夢を見る能力やさまざまな感受性を自分が備えていたことに気がつく。

だがそれは、単に世間のなかに入っていって、自分の感受性とほかの人の感受性をすりあわせることをせず、逆に接触を断って、後生大事に自分のなかで守ってきたからではないのか。ブレイクと、ミス・デントは、いったいどれほどちがっているのだろう。

憎悪を晴らしたあと、彼女は胸の空白を、いったい何で埋めるのだろう。憎悪という養分を失っても、色鮮やかな火山の夢を見続けることができるのだろうか。



初出June.15-26 2009 改訂August.05, 2009
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