ここでは Philip K. Dick の"Second Variety"の翻訳をやっています。
この作品の初出は1953年。1952年から作家活動に入ったディックの最初期の作品です。
1953年というと、アメリカ−ソ連の対立が、ヨーロッパからアジア・中東・南米へと世界規模に広まっていき、全面戦争の危機を深めていった時期に当たります。この短篇も、そうした時代の空気を色濃く浮かび上がらせたものと言えるでしょう。
そこで核兵器が使用されたらどうなるか。ヒロシマ・ナガサキの情景が地上のいたるところに出現することになるだろう。死の灰におおわれた世界で、人間は生き延びることができるのか。それとも、新たな「種」に取って変わられるのか。もしそうであるとするなら、新たな「種」はどのように人間を淘汰していくのか。「人間」と「そうでないもの」の境界を執拗なまでに描き続けたディックのモチーフが、ここには早くも登場しています。
なお、作中に出てくる「ロシア」は「ソヴィエト連邦」のことで、本来ならそれで統一すべきなのかもしれませんが、ここでは原文に "Russian" と記述されているところは「ロシア人(兵)」と訳しています。ご了承ください。
原文はhttp://www.dvara.net/HK/Second_Variety_v1.0.rtfで読むことができます。
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変種第二号
by フィリップ・K・ディック
荒れはてた丘の斜面を、ロシア人兵士が銃を構え、緊張した面もちで登っていた。周囲に目を配りながら、乾いた唇を舌で湿す。その顔はこわばっていた。何度か手袋をはめた手をあげ、上着の襟元をゆるめて首筋の汗をぬぐった。
エリックはレオーネ伍長を振り返った。「伍長がやりますか? それともオレが?」潜望鏡を調節し、ロシア兵の顔を画面いっぱいにまで広げた。厳しい、暗い面貌に、深いしわが刻まれている。
レオーネは考えていた。ロシア兵は接近してくる。それも、ほとんど駆けてくるような速さだ。「撃つな。待て」レオーネは身体をこわばらせた。「こっちの出番はなさそうだ」
ロシア兵はペースをあげ、積もった灰やがれきの山を蹴散らしながら進んでくる。丘のてっぺんにさしかかったあたりで足を止め、ぜいぜい言いながら、周囲に視線を走らせた。灰色の雲が低く垂れこめている。あちこちで突き出ているのは裸木の太い幹だった。焼け野原と化した大地には、がれきが散乱し、ビルの残骸が、まるで黄ばんだ頭蓋骨のように、そこここに立ったまま朽ちていた。
ロシア兵は不安げなようすだった。なにかがおかしい、と思っているようだ。丘を降り始めた。もう掩蔽壕(※えんぺいごう:斜面や地面を掘り抜いて作った強固な軍事シェルター)まで数歩というところだ。エリックはいらいらした。銃をいじりながら、レオーネに目をやった。
「心配いらない」レオーネは言った。「ここまでは来られりゃしない。あいつらが始末してくれるはずだ」
「ほんとでしょうね? もうすぐそこまで来てるんですよ」
「あいつらは掩蔽壕のすぐそばを徘徊してるんだ。やっこさん、これからひどいところに足を突っこむことになる。来るぞ」
ロシア兵は積もった灰のなかにブーツをめりこませ、すべりそうになりながら、銃を高く掲げて、急いで丘を降りようとしていた。不意に足を止めると、双眼鏡を持ち上げて顔に当てた。
「こっちを見てますよ」エリックが言った。
ロシア兵はふたたびこちらに向かってくる。彼らには、ロシア兵のふたつの青い石のような目が見てとれた。口を半開きにしている。ひげを剃る必要があった。あごには無精ひげが伸びている。高い頬骨の片方に、四角く切った絆創膏が張ってあり、そのまわりが青くなっていた。真菌性の発疹だ。上着は泥まみれで裂けている。手袋は片方がなくなっていた。
走るのに合わせて、ベルトのカウンターが身体に当たって上下に揺れた。レオーネがエリックの腕にふれた。「おいでなすったぞ」
小さな金属状の物体が、真昼の日の光を浴びて鈍く光りながら、地面を横切ってやってくる。金属の球体だ。ロシア兵を追いかけて、丘を素早く飛ぶように近づいてくる。ごく小さな、あいつらのなかでも最小のやつだ。ふたつのカミソリの刃のようなクロー(※かぎ爪)を突き出し、その白い刃を、ぼうっとかすんで見えるほどの速さで回転させている。ロシア人の耳にもその音が聞こえたらしい。振り向きざまに撃った。球体は粉々に砕けた。だが、すでに第二弾が現れ、最初のものに続いた。ロシア兵はもういちど撃った。
三番目の球体が、カチカチと音を立て、回転しながらロシア人の脚に飛びついた。そこからさらに、肩まで跳び上がる。回転する刃はロシア兵の喉元深く沈んだ。
エリックは緊張を解いた。「やれやれ、これで終わりだ。まったく、あいつらにはぞっとするな。ときどき昔の方が良かったような気がしますよ」
「もし我々が発明してなかったら、向こうが発明していただろうな」レオーネがぶるぶる震える手で煙草に火をつけた。「だが、あのロシア兵はなんでまたひとりでこっちまでやって来たんだろう。援護している人間がいるようにも見えなかったが」スコット中尉が地下道を抜け、掩蔽号にそっとすべりこんできた。「どうした? スクリーンに何か見えたか」
「イワン(※ロシア兵)がひとりやってきました」
「たったひとりでか?」
エリックがスクリーンをそちらに回した。スコットはそれをのぞきこむ。いまでは無数の金属球が横たわった死体に群がっていた。鈍く光る金属球は、音を立てて回転し、ロシア人の身体を運び去ろうと解体作業に余念がなかった。
「なんて数のクローだ」スコットはつぶやいた。「ハエみたいに群がってくるんだな。もう獲物も残ってないじゃないか」スコットは嫌悪の表情を浮かべて、スクリーンを押しやった。「ハエみたいなやつらだ……。それにしてもロシア兵がここまで来たのが解せない。我が軍が一帯にクローを配置しているのは知っていただろうに」
大型ロボットが一体、小さな球体の群れに加わっていた。あれこれ指図しているそのロボットからは、接眼レンズのはまった先端の丸い管が突き出している。もはや兵士の遺体はどれほども残っていない。クローの群れが丘の斜面を運び降ろしていた。
「中尉殿」レオーネが言った。「許可をくだされば、あそこに出て、ロシア兵をちょっと調べてみたいのですが」
「なぜだ」
「何かを届けにきたのかもしれないと思いまして」
スコットは考えた。やがて肩をすくめた。「いいだろう。だが、気をつけるんだぞ」
「自分にはタブがありますから」レオーネは手首に巻いた金属のバンドを軽く叩いた。「これで近づけないでしょう」
レオーネはライフルを取り上げ、コンクリートのブロックと飛び出した鉄骨にはさまれたくねくねと折れ曲がる地下通路を抜けて、慎重に掩蔽壕の出口まで進んでいった。地上の空気は冷たい。兵士の遺体目指して、柔らかな灰の上を大股で歩いた。風が吹きつけ、灰の粉が巻き上がり、顔を襲う。目を細くすぼめて、なおも進んだ。
クローの群れは、彼が近づくのに合わせてずるずると後退する。なかには硬直して動けなくなったのもあった。彼はタブにさわってみた。こいつのためなら、イワンも何だってよこしただろう……。タブから放射される、波長の短い高エネルギー放射線は、クローを無力化し、機能停止に追い込むのだ。ふたつの接眼レンズをゆらゆらさせている大きなロボットさえ、近づいていく彼に、うやうやしく引き下がっていく。彼は兵士の遺体にかがみこんだ。死体は手袋をはめた手をきつく握っている。なにか握っているらしい。レオーネは指を引き離した。アルミ製の密閉容器だった。いまなお光沢を保っている。
それをポケットに滑りこませると、掩蔽壕へ戻った。背後ではクローの群れが息を吹き返し、解体作業に戻っていく。行進が再開し、金属球の群れがそれぞれ荷を担いで灰の上を動いていった。クローのねじ山が地面を引っ掻く音が聞こえる。彼は背筋に冷たいものが走った。
スコットは、レオーネがポケットから取り出した光る筒を食い入るように見詰めていた。「やつがそれを?」
「手の中にあったんです」レオーネはふたを開けた。「中尉殿、ご覧になりますか」
スコットは筒を受けとった。手のひらに中身を落とす。小さなシルクペーパーが一枚、丁寧に折りたたんで入っていた。明かりのそばにすわって、それを広げた。
「中尉、何と書いてあるんです」エリックが聞いた。将校が数名、地下道を通ってやってきた。ヘンドリックス少佐の姿があった。「少佐」スコットが言った。「これをご覧になってください」
ヘンドリックスは紙片を読んだ。「来たのはこれだけか」
「伝令は一名、到着はたったいまです」
「どこにいる?」ヘンドリックスは鋭い口調で聞いた。
「クローたちにやられました」
ヘンドリックス少佐は小さくうめいた。「これを」彼は紙片をほかの将校たちに渡した。「我々が待っていたのは、おそらくこれだ。彼らも答えを出すまで時間がかかったのだろう」
「では、向こうは話し合いの意思があると?」スコットが聞いた。「我々もそれに応じるんですか?」
「それは我々が決めることではない」ヘンドリックスは腰をおろした。「通信士官はどこにいる? 月基地(ムーンベース)と話がしたい」外部アンテナを高くあげて、通信士官が細心の注意を払って掩蔽壕上空で偵察しているロシア機のいかなる気配も見逃すまいとスキャンしているあいだ、レオーネはじっと考えていた。
「少佐」スコットがヘンドリックスに言った。「連中が急にやってくるなんて奇妙な話ではありませんか。クローなら、我々はもう一年も前から使い続けています。いまになって突然白旗を掲げてくるなんて」
「ひょっとしたら、クローたちは敵の掩蔽壕に入り込むようになったのかもしれないな」
「大きいやつ、例の角の生えたやつが、イワンの掩蔽壕のひとつに先週侵入しました」エリックが言った。「蓋を閉じる間もなく、一個小隊が全滅したそうです」
「どうしてそれを知っている?」
「仲間に聞きました。やつらは戻ってきたんだそうです……遺体を抱えて」
「ムーンベースです、少佐」通信士官が言った。スクリーンにはムーンベースで受信している士官が映っている。制服にはしわひとつなく、掩蔽壕にいる者たちとは対照的だった。ひげもきちんと剃っている。
「こちらは地球、L−ホイッスル管轄区域だ。トンプソン将軍を頼む」
通信士官は見えなくなった。すぐにトンプソン将軍のいかつい顔に焦点が合う。
「どうした、少佐」
「我々のクローが、メッセージを携えたロシア軍の伝令を捕獲しました。伝言に応じて良いものかどうか、判断を仰ぎたいと思っています――過去にも同様の策略はありましたので」
「何と言ってきたのかね」
「ロシア側は、政策決定レベルの将校を一名、彼らの戦線まで派遣することを希望しています。会談を開きたいということです。会談の性格については言及していません。ここにはただ……」少佐は紙片に目を落とした。「重大かつ緊急事態の出来につき、国連軍およびロシア軍代表者間で協議開始が望ましい、とあります」
少佐はメッセージをスクリーンに向けて掲げ、将軍にも目を通せるようにした。トンプソンの目が動く。
「どうすべきでしょうか」ヘンドリックスは尋ねた。
「一名派遣するのだ」
「罠ではないとお考えですね」
「あるいは罠かもしれない。だが彼らの提示した前線司令部の位置は、間違いのないものだ。なんにせよ、やってみるだけの価値はあるだろう」
「将校を一名派遣します。戻り次第、結果はご報告いたします」
「結構だ。少佐」トンプソンは接続を切った。スクリーンは暗くなった。地上のアンテナは、ゆっくりと地下にもぐる。ヘンドリックスは何ごとかじっと考えながら、紙片を巻いていた。
「私が行きます」レオーネが言った。
「先方が望んでいるのは、政策決定レベルの人間だ」ヘンドリックスはあごをなでた。「政策決定レベルか。もう何ヶ月も外に出てないな。外の空気に当たってみてもいいころだ」
「危険はないのですか」
ヘンドリックスは潜望鏡をあげてのぞき込んだ。ロシア兵の死骸は消え失せていた。視界のなかにはクローが一体いるだけだ。かぎ爪を折りたたんで戻し、灰のなかに姿を消そうとしていた。カニのように、そう、まるで醜怪な金属のカニのように……。
「気がかりはあいつだけだ」ヘンドリックスは手首をさすった。「これを肌身離さずにいる限り、危険がないことは理解している。だが、やつらにはまだ何かありそうな気がするんだ。まったくいやな代物だな。発明されるべきではなかったのではないかな。どこか間違ってるような気がするのだ。ちっぽけなくせに、徹底的に非道で……」
「もし我々が開発しなければ、イワンたちが開発していたでしょう」
ヘンドリックスは潜望鏡を戻した。「なんにせよ、この戦争も我々が勝利する日も近い。おそらくそれはいいことなのだろう」
「少佐もイワンたちのように苛立っておいでのように聞こえますが」
ヘンドリックスは腕時計を見た。「暗くなる前に向こうへ着こうと思ったら、そろそろ出発した方が良さそうだ」
一度、息を深く吸い込んでから、彼は灰色の瓦礫におおわれた地表に脚を降ろした。やがて煙草に火をつけて、あたりを注意深く見回した。
屍のような風景だった。身じろぎするものとてない。数キロ先まで見渡しても、灰と砂利、建物の残骸が続くだけだ。葉も枝もなくなり、幹だけとなった木々。頭上にはどこまでも渦を巻いていく灰色の雲が、地球と太陽のあいだを漂っている。
ヘンドリックス少佐はまた歩き始めた。視界の右手を何かがさっとよぎる。丸い金属状の物体だ。クローが何かを全速力で追いかけているのだ。おそらく小動物、ネズミの類を。クローたちはネズミも捕捉する。内職といったところか。ヘンドリックスは、小さな丘のてっぺんに着いたところで、双眼鏡を取り上げた。数キロ先にロシアの戦線がのびてきている。彼らはそこに前線司令部を置いているのだ。あの伝令はあそこから来た。
ずんぐりしたロボットが一台、横を通っていった。うねうねと波打つ腕を泳がせながら、あたりを探索している。ロボットはそのまま進み、やがて廃墟の影へ消えていった。ヘンドリックスはそれを見送っていた。あのタイプを目にするのは初めてだった。見たことのない型のロボットが、ますます増えていく。地下の工場から、種類もサイズもさまざまな新型ロボットが、つぎつぎと送り込まれてくるのだ。ヘンドリックスは煙草の火を消して、足を速めた。
戦争に人造人間を投入するというのは、一考に値する作戦だった。だが、どうしてそんな話になったのだろう。その必要があったからだ。戦争を仕掛けたソヴィエト連邦側からすれば、当然のことだったのだろうが、ソ連は緒戦に大勝利を収めた。北米大陸のほとんどは、地図の上から吹っ飛んだのだ。当然、素早い反撃が開始された。戦争が始まるはるか前から、ロシア上空にはおびただしい数の円盤型爆撃機が旋回しながら待機していたのだ。ワシントンが攻撃を受けて数時間後には、円盤はロシア全土につぎつぎと着陸した。だが、それでもワシントンを救うことはできなかった。
アメリカ・ブロックの政府が、最初の年に月に移住した。ほかにできることはなかったのである。ヨーロッパは消滅した。灰と骨のあいだから、くすんだ色の雑草が顔を出す、廃墟の山となった。北米のほとんども不毛の地になりはてた。植物は育たず、いかなる生物も生存できない。数百万人がカナダと南米大陸へ渡ろうとした。
だが二年目になって、ソヴィエト軍のパラシュート部隊が降下を始めた。最初は数名だったが、やがてどんどん増員されていった。彼らが着用していたのは、初めて本当に効力のある放射線防護装備で、実はアメリカ製、政府とともに月に輸送された物資の残り物だったのだ。軍隊以外のすべてが月へ移った。あとに残った軍隊は、ここに数千、あそこに一小隊と留まって、死力を尽くして戦った。部隊がどこにいるか、正確に把握している者もなかった。隠れることのできる場所ならどこでも身を潜め、廃墟や下水管、地下壕に、ネズミやヘビと一緒になって隠れては、夜になって戦闘活動を開始した。
戦争は、ソヴィエト連邦が勝利を収めるかに見えた。毎日、月から数発のロケット弾が発射されたが、地上には敵と戦うための武器も、ほとんど残ってはいなかったのだ。敵は望むところに出没する。あらゆる局面において、戦争は実質的に終了していた。効果的な反撃など、起こしようがなかったのだ。
そのとき、最初のクローたちが登場した。そうして、一夜のうちに戦況は一変したのだった。
最初のクローは不器用なものだった。のろかった。イワンたちは、クローが地下のトンネルから顔を出すが早いか、たたきつぶして一掃した。だが、やがて改良され、素早く、狡猾になっていった。クローはすべて、地球の工場で生産されていた。ソヴィエト戦線の後方の地下深く、かつて核ロケット弾が製造され、いまではほとんど忘れ去られていた工場だった。
クローたちは一層速度を増し、同時に大きくなっていった。新型も現れた。触手を持つもの、空を飛ぶものも登場した。ジャンプする種類もいくつかあった。月の最高の技術者たちが設計を重ね、いよいよ精巧で、柔軟性に富むものにしていった。クローたちは、不気味な存在に転じた。イワンたちもクローには手を焼いていた。小型のクローのなかには、身を隠すことを覚え、灰のなかに身を潜めて、待ち伏せするものも出てきた。
やがてクローたちは、ロシアの掩蔽壕に入り込むようになった。換気や監視のために蓋を上げた瞬間、素早く滑り込むのだ。一体のクロー、かぎ爪を回転させる金属の球体がたったひとつ、掩蔽壕内部に入るだけで十分だった。ひとつが入り込めば、あとがそれに続く。このような兵器さえあれば、もはや戦争も長くは続かない。
もしかしたら、戦争はもう終わっているのかもしれない。
ヘンドリックスがこれから聞くのは、そのニュースかもしれなかった。ソ連共産党政治局も、リングにタオルを投げ入れることにしたのだろうか。遅きに過ぎはしなかったか。六年である。あんな戦闘、あんな戦争を、かくも長く続けたのである。旋回しつつロシア全土を攻撃する、何百、何千という自動報復円盤。結晶バクテリア。宙を引き裂くソ連製誘導ミサイル。連鎖爆撃。
そうして今度はロボット、クローだった。クローはほかの兵器とはちがっていた。彼らは文字通り、生きている。政府がそれを認めようが認めまいが関係ない。彼らは機械ではなかった。生き物だった。回転し、這いまわり、体を震わせながら突然灰のなかから現れて、人間の方に突進し、その体をよじのぼって喉笛に襲いかかる。彼らはその任務を果たすために設計されていた。それが彼らの仕事だった。
彼らは立派にその任務を果たした。新しい型のものが登場して以降、いよいよそれは見事なものとなっていた。いまでは修復さえ自分でこなす。彼らは自立した。放射線タブが国連軍を防御してくれるが、もしタブをなくせば、軍服とは無関係に、等しくクローの餌食となった。地下深くでは、自動機械がクローを型抜きして作成していた。人間は遠くにいた。あまりに危険が大きかったのだ。クローのそばにはだれも寄りたがらない。クローに任されていたのだ。しかも、その仕事ぶりはますますあがっているようだった。新型のものは一層俊敏で、複雑になっていた。高性能になっていた。
どうやら戦争に勝利したのは、クローたちらしい。
ヘンドリックス少佐は二本目の煙草に火をつけた。気の滅入る風景が続く。灰と廃墟を除けば、何もないのだ。一人きりだ。世界中で生きているのは自分だけのような気がした。右手に広がるのは、かつての町の残骸だ。わずかに残った壁と瓦礫の山でそれと知れる。火の消えたマッチを捨て、歩を早めた。
不意に足が止まった。素早く銃を構え、体に緊張が走る。最初、それは……。崩れたビルの陰から何者かが現れ、こちらにゆっくりと、ためらいがちに歩いてきたのだ。ヘンドリックスは目をしばたたいた。「止まれ!」
男の子は立ちすくんだ。ヘンドリックスは銃をおろした。男の子は黙ったままじっと立ち、ヘンドリックスを見つめている。小さな体つき、まだ年端もいかない子供だ。八歳ぐらいか。だが、実際の年齢は定かではない。生き残った子供のほとんどは発育不全なのだ。色あせた青いセーターを着て、汚れたぼろぼろの半ズボンをはいている。伸びきった髪の毛は、もつれ、からみあっていた。茶色い髪。顔にかぶさり、耳をすっぽり隠している。両手に何かを抱いていた。
「何を持っている」ヘンドリックスは鋭く聞いた。
男の子はそれを差し出した。ぬいぐるみのクマ、テディ・ベアだ。少年は大きな目をしていたが、そこには何の気色も浮かんでなかった。
ヘンドリックスは緊張を緩めた。「よこさなくていい。持っていていいよ」
男の子はまたクマを抱きしめた。
「どこに住んでいるんだ」ヘンドリックスはたずねた。
「あそこ」
「あの廃墟か?」
「そう」
「地下に?」
「そう」
「そこは何人ぐらいいるんだ」
「なん……なんにん、って?」
「君たちは何人いるのか、と聞いたんだ。君のいるところには、何人ぐらいの人が集まって暮らしているのか?」
少年は答えなかった。
ヘンドリックスは眉をひそめた。「まさか君ひとりってことはないんだろう?」
少年は首を横にふった。
「どうやって生活してるんだ?」
「食べるものがあるよ」
「どんな食べ物だ?」
「いろいろ」
ヘンドリックスはまじまじとその子を見た。「君はいくつだね?」
「十三歳」
そんなはずはあるまい。いや、その通りなのか。少年はやせこけて発育不良だ。それにおそらくは無精子症だろう。放射線被曝を何年も受けてきたのだから。こんなに小さくても驚くにはあたるまい。手も足も、針金のパイプクリーナーのように細く、関節が飛び出している。ヘンドリックスは少年の腕をさわってみた。皮膚が乾いて、肌理が粗い。放射線を浴びた肌だ。腰をかがめて、少年の顔を間近で見た。表情というものがない。大きい目、大きく、暗い目。
「目が見えないのか」ヘンドリックスはたずねた。
「だいたいは見えるよ」
「どうやってクローから逃げてきたんだ?」
「クロー?」
「丸いやつだ。走ったり、もぐったりする」
「わかんない」
おそらくこの付近には、クローはいないのだろう。クローがいない場所も多い。やつらのほとんどは、掩蔽壕の周りに集まっているのだ。そこには人間がいるから。クローたちは、熱、生き物の熱を感知するように設計されていた。
「運が良かったんだ」ヘンドリックスは身を起こした。「さて。どこに行くつもりだったんだ?」
「もど……もどる、あそこ……ぼく、一緒に行っていい?」
「私とか?」ヘンドリックスは腕組みをした。「遠くまで行く予定なんだ。十キロ以上歩くことになる。急がなきゃならん」時計を見た。「日が暮れないうちに向こうへ着かなくては」
「ぼくも行きたい」
ヘンドリックスは背中の荷物を探った。「行ったって何もないぞ。ほら」持ってきた食料の缶詰をいくつか放ってやった。「これを持って帰るんだ。いいな?」
男の子は何も言わなかった。
「帰りもここを通ろう。明日か明後日。そのときこのあたりで君を見かけたら、連れて帰ってやろう。いいな?」
「いまいっしょに行きたい」
「相当な距離を歩くんだぞ」
「歩けるよ」
ヘンドリックスは落ち着かなげに体を動かした。願ってもない標的じゃないか。ふたりづれで歩いていくなんて。おまけに子供連れともなると、遅くなるだろう。だが帰りもこの道を通るという保証はなかった。もしこの子がほんとうに、まったくのひとりぼっちだとしたら……。「しょうがない。一緒においで」
男の子と同行することになった。ヘンドリックスの歩幅は大きい。ぬいぐるみのクマをぎゅっと抱いたまま、男の子は黙ってついていく。しばらくして「名前は何という」とヘンドリックスはたずねた。
「ディヴィッド・エドワード・デリング」
「ディヴィッドか。君の……君のお母さんやお父さんはどうしたんだ?」
「死んじゃった」
「どうして」
「爆撃のとき」
「何年前のことだね?」
「六年前」
ヘンドリックスの歩調が落ちた。「君は六年もひとりきりでいたのか?」
「ううん。最初のころはほかにもいた。みんな、どっかへ行った」
「それから、ひとりになったんだな?」
「そう」
ヘンドリックスは男の子を見下ろした。この子は妙だ、ほとんど口もきかない。ひどく内向的だ。だが、これがこの子たち、生き残った子供たちなのだ。静か。禁欲的。妙な運命論のようなものにとらえられている。何ごとにも驚かない。何があっても、そのまま受け入れる。彼らが何かを期待しようにも、もはや道徳的にも肉体的にも、何の規範もなければ、ものごとの自然のありようということもないのだった。慣習や、生活のなかでの反復といった、学習による強制力も消え失せた。あとに残ったのは、非人間的な経験だけだ。「歩くのが速すぎるか?」とヘンドリックスは聞いた。
「ううん」
「なんで私に気がついた?」
「待ってたから」
「待ってた?」ヘンドリックスはわけがわからなかった。「何を待っていたんだ」
「つかまえようと思って」
「何をつかまえるつもりだったのか?」
「食べるもの」
「そういうことか」ヘンドリックスの口元が険しくなった。十三歳の子供がネズミや地リスや腐りかけた缶詰を食べて生きながらえている。廃墟になった町の地下の穴ぐらで。放射能が吹きだまり、クローの群れがうろうろし、空では惰行飛行しながら、ロシア軍が地雷の雨を降らせている。
「どこ行くの」デイヴィッドが聞いた。
「ロシアの前線だ」
「ロシア?」
「敵だ。戦争を始めたやつらだ。やつらが先に核爆弾を落としたんだ。全部、連中が始めたんだ」
少年はうなずいた。その顔にはどんな表情も浮かんでいない。
「私はアメリカ人だ」ヘンドリックスは言った。
それにも返事はなかった。ふたりは休まず歩いた。ヘンドリックスが少し前を歩き、デイヴィッドが続いた。汚れたクマをしっかりと胸に抱いている。
四時近くになって、ふたりは食事をするために止まった。ヘンドリックスはコンクリート板が重なり合ってできたくぼみに火を起こした。雑草を引き抜き、そこへ木ぎれを積み重ねる。ロシアの前線まで、もうどれほどもなかった。
昔、このあたりは果樹園やブドウ畑が見渡す限り続いていく渓谷だった。いまもその名残りをとどめているのは、枯れた切り株と、はるか彼方に広がる、地平線へと伸びていく山脈だけだ。灰が風に煽られてもうもうとたちこめ、やがて雑草や建物の残骸、そこかしこに残っている壁や道路の残骸を覆っていく。
ヘンドリックスはコーヒーをわかし、ゆでたマトンとパンを温めた。「食えよ」パンとマトンをデイヴィッドに手渡した。デイヴィッドは火のそばにしゃがんでいた。飛び出した膝小僧が真っ白い。食べ物をしげしげとと眺めまわしてから、首を横に振って返した。
「いらない」
「いらないだって? 少しは食べてみたらどうだ」
「いらない」
ヘンドリックスは肩をすくめた。きっとこの子はミュータントなのだ。特殊な物を食べつけているんだろう。それならそれでいい。腹が減れば、自分で何か見つけて食うさ。この子は妙だ。だが、世界中、いたるところでいろんなことが変わりつつあるんだ。生命だって、もはや前と同じではあるまい。ふたたび前のようになることもないだろう。人類もいずれ、そのことを悟らなければなるまい。
「好きなようにするがいいさ」ヘンドリックスはそう言った。自分だけパンとマトンを食べ、コーヒーで飲み下した。固くて飲み込みにくかったので、ゆっくりと食べた。食事が終わると立ちあがって、火を踏み消した。
デイヴィッドはのろのろと腰を上げ、子供のくせに老けた目で彼をじっと見ていた。
「行くぞ」ヘンドリックスは言った。
「うん」
ヘンドリックスは両手で銃を抱えて歩いた。敵は近い。何が起こってもいいように気持ちを引きしめた。ロシア軍も、自分たちの送り出した伝令の返事を携えて、使者が来ることは予期しているはずだった。だが、一筋縄ではいかない連中のことだ。判断が誤っている可能性はつねにあった。あたりの景色に目を走らせる。砂利と灰、小高い丘がふたつみっつ、黒焦げの木々があるだけだ。コンクリートの壁はどうか。前方のどこかにロシア前線の最初の掩蔽壕があるのだ。前線司令部が。地下深くに。潜望鏡や銃口がのぞいていないか。ひょっとして、アンテナは。
「ここから近いの?」デイヴィッドがたずねた。
「そうだ。疲れたか」
「ううん」
「ならどうしてそんなことを聞く」
デイヴィッドは返事をしない。後ろからおぼつかなげな足どりで、灰の上を歩いてくる。脚も靴も灰にまみれていた。やつれた顔にも筋ができている。青白い肌に灰の隈取りだ。この子の顔には血の気というものがない。地下室や下水渠、地下シェルターで大きくなった、最近の子供たちの特徴だ。ヘンドリックスは歩を緩めた。双眼鏡を目に当てて、前方の地面を調べる。やつらはどこかそこらで、おれがくるのを待っているのだろうか。おれを見張っているのだろうか、ちょうど部下たちがロシアの伝令を見張っていたように。ひやりとしたものが背筋を走った。おそらく自分の部下がそうしていたように、いつでも自分を殺せるように待ち構えているのだろう。ヘンドリックスは立ち止まり、顔の汗をぬぐった。
「クソッ」不安がこみあげる。だが、向こうは自分を待っているのだ。
状況はちがう。
両手で銃をきつくつかんで、灰の上を大股で進んだ。後ろからデイヴィッドがやってくる。ヘンドリックスは唇を固く結び、あたりを見回した。いつ何時、そいつが来るとも限らない。白い閃光が炸裂して、ズドン、地中深くコンクリートの掩蔽壕から慎重に狙い定めた一発が。
片腕をあげて、大きく弧を描いた。動きはない。右手には崖が続いていて、そのてっぺんには枯れた木の幹が並んでいた。野生の蔓が木にからみついているのは、それがかつてはあずまやだったからなのだろう。そこから先は、行けども行けども黒ずんだ雑草が続くばかりだ。ヘンドリックスは崖を注意深く眺めた。あの上に何かあるのではないか? 見張りにはもってこいの場所だ。
用心深く崖に近づいていく彼の後ろを、デイヴィッドは黙ってついてきた。自分の指揮下にあるとすれば、崖の上に歩哨を配置し、管轄区域に侵入を試みる軍隊を監視させるだろう。もちろんここを我が軍が制圧しているのなら、クローを周囲に配置して、完全な警備体制を敷くにちがいない。脚を止め、腰に手を当てて大股で立った。
「ここなの?」デイヴィッドは聞いた。
「この近くだ」
「じゃあなんで止まったの?」
「隙を与えたくない」ヘンドリックスはそろそろと前進した。崖はいまや目と鼻の先、右手すぐ前方に迫っている。見下ろされている。不安は増した。もしイワンが上にいれば、万事休すだ。彼はもう一度手を振った。連中だってカプセルの書簡の返事を携えた、国連軍の軍服を着た人間を待っているはずだ。すべてが罠でないかぎり。
「ちゃんとついて来い」振り返ってデイヴィッドに言った。「遅れるんじゃないぞ」
「ついていってるよ」
「真後ろに来るんだ。すぐ近くに連中はいる。どんな隙も見せるんじゃない。さあ、来るんだ」
「ぼくなら大丈夫だよ」デイヴィッドは彼のあとを、数歩離れてついてくる。ぬいぐるみのクマをしっかりと抱きしめたまま。
「好きにしろ」ヘンドリックスはふたたび双眼鏡をのぞいた。突然、緊張が走った。いま、何か動いたのではなかったか? 崖に注意深く目を走らせた。何もかも静まりかえっている。死んだように。あの上に生き物はいない。木の幹と灰があるだけだ。ネズミの数匹やそこらなら、いるかもしれないが。大きな黒いドブネズミが、クローからも逃げ延びて。突然変異のネズミは、唾液と灰を混ぜて自分たち専用のシェルターをこしらえているのだ。しっくいのようなものだ。これも適応ということか。
ヘンドリックスはふたたび歩き始めた。崖の上に背の高い人影が現れた。マントが風にはためいている。灰緑色。ロシア兵だ。その後ろに、二人目の兵士が現れた。これもロシア兵。ふたりとも銃を抱え、ねらいを定めている。ヘンドリックスは凍りついた。口が開いた。兵士達は片膝をついて、斜面を見下ろす角度にねらいを定めている。三番目の兵士が加わった。いくぶん小柄な体を灰緑色の軍服に包んでいる。女だ。ふたりの兵士のうしろに立った。
ヘンドリックスはなんとか声をふりしぼることができた。「やめろ!」気が狂ったように手を振り回した。「私は……」
ふたりのロシア兵が発砲した。
ヘンドリックスの背後で、かすかにパンッという音がした。熱波が彼を包み、前のめりに地面に押し倒される。顔が灰にこすれ、目にも鼻にも入った。咳き込みながら、なんとか膝立ちになろうとした。全部罠だったのだ。もうだめだ。おれは殺されるためにここに来たのだ。去勢牛のように。
ふたりの兵士と女が柔らかい灰をすべるようにして、崖の斜面を降りてきた。ヘンドリックスの感覚は麻痺してしまっていた。頭がずきずきする。おぼつかない手つきでライフルを構え、ねらいを定めた。千トンもあるかのようだ。抱えていられない。鼻も頬も、ひりひりと痛んだ。火薬の臭いがあたりを満たした。きつい、刺すような悪臭だった。
「撃つな」最初に現れたロシア人が、ひどくなまった英語で言った。
三人は近づいてくると彼を取り囲んだ。「ライフルを降ろせ、ヤンキー」もうひとりが言った。ヘンドリックスは呆然としていた。何もかもがあっという間だった。おれはつかまったのだ。やつらはあの子を撃ったのだ。彼は後ろを向いた。デイヴィッドの姿はなかった。彼の亡骸が地面に散乱している。
三人のロシア人は興味深げにヘンドリックスを眺めまわした。ヘンドリックスは座りこみ、鼻血をふき、灰のかたまりを掻きだした。頭をふって、なんとかはっきりさせようとする。「なんであんなことをした?」かすれた声で聞いた。「あの子だよ」
「なんでだって?」
ひとりの兵士が手を差し延べ、手荒に彼を立たせた。そうしてヘンドリックスの向きを変えさせた。「見ろ」
ヘンドリックスは眼を閉じた。
「見るんだ」ふたりのロシア兵は彼を前に引っ張った。「見ろ。急げ。時間はないんだ、ヤンキー」
ヘンドリックスは見た。息を呑んだ。
「わかったか? これでおまえにもわかっただろう?」
デイヴィッドの体から金属の歯車が転がり出していた。継電器の金属部が光っている。いくつものパーツ、配線。ロシア人のひとりが、残骸の山を蹴飛ばした。部品が吹き飛び、転がっていった。歯車やばねや棒が。プラスティックの箇所は陥没し、一部が焦げていた。ヘンドリックスは震える身をかがめた。頭部の前面がはがれている。彼の目にもはっきりとわかった。精巧な脳、配線、継電器、小さな管やスイッチ、何千ものねじ……。
「ロボットだ」彼の腕をつかんでいる兵士が言った。「おれたちはあれがあんたのあとをつけているときから監視していた」
「あとをつけていた?」
「あれのやり口さ。ずっとあとをつけてくる。掩蔽壕の中まで。そうやってあれは入り込むんだ」
ヘンドリックスは呆然として目をしばたたかせた。「だが……」
「来るんだ」ロシア兵たちは、彼を崖の方へ連れて行った。「いつまでもいるわけにはいかない。ここは危ないんだ。このあたりにはあれが何百体といるんだから」
「さあ、急いで」兵士たちは灰に足を取られながら彼を引っ張っていく。女が先に頂上に着いて、待ち受けた。
「前線司令部へ行くのか」ヘンドリックスはつぶやいた。「ソヴィエト連邦と交渉するためにここに来たのだが……」
「前線司令部などあるものか。やつらに入り込まれたんだ。そのうち説明してやるよ」崖のてっぺんに着いた。「これが残った全員だ。おれたち三人が。残りは掩蔽壕でやられてしまった」
「ここを通って。降りるのよ」女が地面に埋め込まれたマンホールの蓋を開けた。「入って」ヘンドリックスは体を低くした。ふたりの兵士と女もあとに続いて梯子を降りていく。女は彼らの後で蓋をしめ、しっかりとかんぬきをかけた。
「あんたが見つかって良かったよ」ひとりの兵士がうなるように言った。
「あれは目指す場所に着くまで、あんたのあとをつけていっただろうからな」
「煙草を一本ちょうだい」女が言った。「もう何週間もアメリカ製の煙草を吸ってないの」ヘンドリックスは箱ごと、女の方に押しやった。女は一本抜くと、ほかのふたりに回した。狭い部屋の片隅にあるランプが、切れ切れに光を投げかけている。天井の低い、狭い部屋だった。四人は小さな木製のテーブルを囲んで腰を下ろした。汚れた皿が数枚、端に寄せて重ねてある。ぼろぼろになったカーテンの奥に、もうひとつの部屋がのぞいていた。ヘンドリックスのところからは、隅にあるコートと毛布、フックにつるしてある洋服が見えた。
「おれたちはここにいた」ヘンドリックスの隣りの兵士が言った。ヘルメットをぬぎ、ブロンドの髪をうしろになでつけた。「おれはルディ・マクサー伍長。ポーランド人だ。二年前にソ連軍に徴兵された」そう言うと、手を差し出した。
ヘンドリックスはためらったが、それでも握手した。「ジョゼフ・ヘンドリックス少佐だ……」
「クラウス・エプスタインだ」もうひとりの兵士とも握手した。髪の毛の薄くなった小柄な色の黒い男だった。エプスタインは神経質そうに耳を引っ張った。「オーストリア人だ。徴兵になったのは、いつだったか、神のみぞ知る、さ。覚えちゃおらんよ。おれたち三人は、あのときここにいたんだ。ルディとおれと、あとタッソーはな」彼は女の方を指さした。「だからおれたちは助かった。あとの連中はみんな掩蔽壕でやられた」
「それは……それは、やつらが入って来たからだな?」
エプスタインは煙草に火をつけた。「最初はたった一体に過ぎなかった。あんたをつけてきたタイプだ。それから大勢を引き込んだ」
ヘンドリックスは驚いた。「タイプ? ほかにもあんなやつらがいるのか?」
「男の子。デイヴィッドだったな。ぬいぐるみのクマを抱いたデイヴィッド。変種第三号だ。いちばん成果をあげた」
「ほかにはどんなタイプがる?」
エプスタインは上着に手を入れた。「ほれ」袋に入れて紐でくくってある写真の束を、テーブルに放った。「自分で見たらいい」
ヘンドリックスは紐をほどいた。
「おれたちが伝えたかったのは」ルディ・マクサーが言った。「このことだった。おれたち、っていうのは、ロシア軍が、ってことだが。一週間ほど前にわかったんだ。あんた方のクローが、独力で新しい設計によるものを作りだしたってことが。自分で自分を新型にしたのさ。いままでのものよりはるかに強力だ。こっちの前線の後方の、あんたらの地下工場で作っている。あんたたちはあれに、型抜きも、修理も任せていただろう。だからあれはどんどん精巧になっちまった。こんなことが起こったのも、あんたたちの責任だぞ」
ヘンドリックスはしげしげと眺めた。スナップは慌てて撮ったものらしく、ピンぼけではっきりしない。最初の数枚にはデイヴィッドが写っていた。ひとりきり、道を歩いているデイヴィッド。デイヴィッドともうひとりのデイヴィッド。三人のデイヴィッド。どれもまったくそっくりだ。それぞれ、ぼろぼろのクマを抱いている。
どれも痛々しい。
「ほかのも見て」タッソーが言った。
つぎの写真は、背のひどく高い兵士が道ばたに腰を下ろしているのをかなり遠くから撮影したものだった。片腕を吊って、切断された片脚を投げ出し、膝に切りっぱなしの松葉杖を載せている。つぎにもふたりの傷痍兵、まったく同じ、ふたりの男が並んで立っている。
「それが変種第一号だ。傷痍兵型だ」クラウスは手を延ばして写真を手に取った。「な、クローは人間そっくりにデザインされるようになってきたんだ。人間を見つけるために。新しいのができるたびに、あれは前のより精巧になってきたろう? クローはどんどんやってきて、我が軍の防衛線の奥深くに入り込んで来た。だがな、あれが単なる機械であるかぎり、かぎ爪や角や触手を持った金属の球であるかぎり、ほかの標的と一緒で、狙い撃ちすることができるんだ。ひと目見ただけで、すぐにロボット兵器だと気がつく。ひとたび見つけさえすればな」
「変種第一号は、我が軍の北翼を壊滅させた」ルディは言った。「兵が捕捉されても、長いこと誰も気がつかなかったんだ。気がついたときは手遅れだった。あれが、つまり、傷痍兵がノックして、入れてくれ、と頼んだ。だから入れてやったんだ。入ってしまえばあいつらのもんだった。機械には目を光らせていたんだが……」
「当時はあの型だけだと考えられていた」クラウス・エプスタインが言った。「誰も、ほかにも型があるなんて思いもしなかった。この写真がこっちに回ってきた。我が軍が伝令を送ったときには、わかっているのはたったひとつだった。変種第一号、あの大男の傷痍兵だ。あれだけだと思っていたんだ」
「君たちの戦線が陥落したのは……」
「変種第三号のおかげさ。デイヴィッドとクマだ。あれはさらに威力があった」クラウスは苦々しげに笑った。「兵士ってのは子供には弱いんだ。やつらを中に入れて食い物をやろうとした。じき、やつらのねらいは何だったか、思い知らされることになったがな。少なくとも、あの掩蔽壕にいた連中は」
「おれたち三人は、運が良かったんだ」ルディは言った。「クラウスとおれは……あれが起こったときは、タッソーのところに行っていたんだ。ここはタッソーのすみかでね」彼は大きな手を振った。「このちっぽけな地下室は。おれたちは……その、ことをすませて……で、梯子をのぼって帰ろうとしたんだ。そのときにここから見えた。そこにあれがいたんだ。掩蔽壕の周りを取り囲んでいた。戦闘はまだ続いていたんだ。デイヴィッドとクマが。何百といたよ。で、クラウスが写真を撮ったんだ」
クラウスは写真を重ね合わせ直した。
「そっちの前線全域でこれが続いたのか」ヘンドリックスはたずねた。
「そうだ」
「我々の側の前線はどうなっているんだろう……」考えることもなく、ヘンドリックスは自分の腕のタブにふれた。
「あんたの放射線タブも、もう防御の役目は果たしてない。あれはもう平気なんだ。ロシア人であろうが、アメリカ人であろうが、ポーランド人であろうが、ドイツ人であろうが。なんだって同じだ。設計された通りのことをやってるんだから。当初の計画をまっとうしつつあるのさ。いかなる生命体をも見つけ次第、追跡してとらえる、っていうな」
「やつらは熱に応答する」クラウスが言った。「あんたたちが最初にそう作ったんだからな。もっとも、あんたたちの設計したやつは、いまあんたが身につけている放射線タブで追っ払うことができたがな。いまや連中はその上を行ってるんだ。新型の変種は鉛ライニングが施してあるんだ」
「それで、もうひとつの変種っていうのは?」ヘンドリックスがたずねた。「デイヴィッド型、傷痍兵型、あともうひとつは何だ」
「おれたちにもわからない」クラウスは壁を指さした。壁にはへりがぎざぎざになった金属板が二枚かかっている。ヘンドリックスは立ちあがって、その二枚をあらためた。二枚とも曲がったり、へこんだりしている。「左のは傷痍兵から取り出したものだ」ルディが言った。「おれたちが捕まえた。古い掩蔽壕の方へ行こうとしていたんだ。そいつをここから撃った。ちょうどあんたの後ろを歩いているデイヴィッドを撃ったようにな」
金属板には『 1−V(変種第一号)』と刻印されている。ヘンドリックスはもう一枚も手に取った。「で、こっちはディヴィッド型に埋め込まれてあったんだな?」
「そうだ」
金属板の刻印はこうなっていた。『3−V』
クラウスはヘンドリックスの広い肩にもたれかかるようにして、うしろからのぞきこんだ。「あんたにもおれたちが何で頭を悩ませてるか、わかっただろう。変種がもうひとつあるんだよ。もしかしたら、放擲されてしまったのかもしれない。あるいは、うまくいかなかったのかもな。だが、なんにせよ変種第二号はどこかにあるにちがいない。一号と三号があるんだから」
「あんたは運が良かった」ルディは言った。あのデイヴィッド型がずっとあとをついてきたにもかかわらず、指一本ふれなかったんだから。きっとあんたがどこかにある掩蔽壕に入ると思ってたんだろう」
「一体が入れば、それで終わりだ」クラウスが言った。「動きは早い。一体が残る全部を引きいれる。不屈だ。ひとつの目的のための機械だ。たったひとつのことをやるためだけに作られたんだ」彼は口元の汗をぬぐった。「おれたちはそれを目の当たりにした」
だれも口をきく者はなかった。
「ヤンキーさん、タバコをもう一本くれない?」タッソーが言った。「さっきのはおいしかったわ。どんな味だか忘れかけてた」
その夜のことだった。空は漆黒の闇だった。たちこめる灰を透かしても、星影は見えない。クラウスが警戒しながら、蓋を上げたので、ヘンドリックスにも外を見ることができた。ルディは暗闇を指さした。「向こうに掩蔽壕がいくつもある。そこにおれたちはいたんだ。ここから1キロもない。あれが起こったとき、クラウスとおれがあそこにいなかったのは、偶然だった。褒められたことじゃないがな。女好きのおかげで命拾いだ」
「ほかのみんなは生きちゃいまい」クラウスは沈んだ声で言った。「あっというまに押し寄せたんだ。今朝、ソ連共産党政治局の決定が届いた。おれたちにも通知が来たよ――前線司令部から転送されてきた。伝令がすぐ、送られた。おれたちも伝令があんたたちの前線へ向かうのを見送ったよ。見えなくなるまで護衛したんだ」
「アレックス・ラドリフスキーだ。おれたち、ふたりとも、やつのことはよく知っていた。姿が見えなくなったのは六時だ。太陽がちょうど昇ったときだった。昼になってクラウスとおれは一時間ほど休憩を取った。掩蔽壕を這い出して、そこを離れたんだ。誰も見ちゃいなかった。おれたちはここに来た。この地下室は、もとは大きな農場の一部だったんだ。タッソーがここにいることは、みんな知ってた。この狭い場所に身を潜めてるってことはな。おれたちは、前にも来たことがあった。掩蔽壕のほかのやつらも来ていた。今日がたまたまおれたちの番だったんだ」
「だからおれたちは助かった」クラウスが言った。「なりゆきってやつだ。他のやつだったかもしれないのに。おれたちは……おれたちは、ことをすませると、地上に出て崖をおりようとした。あれを見たのはそのときだ。デイヴィッドたちだよ。すぐにわかった。変種第一号、傷痍兵の写真を前に見てたからな。人民委員会が説明つきで写真を配布していたから。もう一歩、帰るのが早かったら、おれたちも見つかっていただろう。実際、ここに戻ってくるまで、デイヴィッドを二体、やっつけなきゃならなかった。そこらじゅうに何百もいたんだからな。アリみたいなもんさ。写真を撮ってからまたここに戻ると、蓋にがっちりとかんぬきをかけた」
「一体だけのときをつかまえられれば、たいしたことはないんだ。おれたちの方が早く動けるから。だがな、やつらはまったくの冷酷無比なんだ。生き物じゃないからな。人間めがけてわき目もふらず、一直線さ。だからおれたちは撃ったんだ」
ヘンドリックス少佐は蓋の縁によりかかって、闇に目を凝らした。「蓋を開けたままで危なくないのか」
「用心してる限りはな。おまけに蓋を閉めたまま、どうやって通信機を使ったらいいんだ」
ヘンドリックスはベルトについた小型の通信機をゆっくりと持ち上げた。耳にそれを押し当てる。金属は冷たく、湿っていた。マイクにふっと息を吹きこみ、短いアンテナをたてる。かすかにブーンという音が耳に響いた。「そのとおりらしいな」だが、彼はまだ躊躇していた。
「もし何かあったら引っ張り降ろしてやるよ」クラウスが言った。
「頼む」ヘンドリックスは通信機を肩に載せたまま、しばらく待った。「だが、おもしろいな」
「何がだ」
「あれさ、ニュー・タイプだよ。クローの新しい変種だ。我々を生かすも殺すもやつら次第だ。いまごろはもしかしたら国連軍の戦線にも入り込んでいるのかもしれない。自分が新たな種の起源を目の当たりにしているのだと言われても、おれは驚かないね。新しい種。進化だ。人類のあとに来る種族だ」
ルディは鼻を鳴らした。「人間のあとに来る種族なんているわけがない」
「なぜだ? どうしてないと言える? もしかしたらおれたちがいま見ているのは、人類の終焉と新しい社会の誕生なのかもしれないんだぞ」
「あれは種なんかじゃない。殺戮機械にすぎんよ。あんたたちは人を葬り去るためにあれを作ったんだろ。そのとおり、あれにできるのはそれだけだ。ひとつきりの目的のために作られた機械じゃないか」
「確かにいまはそうかもしれない。だが、今後はどうなるだろうか。戦争が終わったあとは。ひょっとしたら、殺すべき人間がすべて壊滅してしまったあと、彼らのほんとうの潜在能力が発揮され始めるんじゃないんだろうか」
「あんたが話しているのを聞いてると、まるであれが生きてるみたいだぞ」
「そうじゃないのかな」
しばらく沈黙が続いた。「ありゃ機械だよ」ルディが言った。「人間の形をしていても、あれは機械にすぎん」
「少佐、あんたの通信機を使ってくれ」クラウスが言った。「ここでずっと寝ずの番をしているわけにはいかないんだ」
通信機をきつく握りしめ、ヘンドリックスは掩蔽壕の司令部を呼んだ。耳を澄ましてじっと待つ。応答はなかった。沈黙が続く。リード線を丹念に調べてみた。万事異常はない。
「スコット!」マイクに向かって言った。「聞こえるか」応答なし。音量を最大にしてもう一度呼んだ。空電が聞こえるだけだった。
「応答がない。私の声が聞こえていても、出ないことにしているのかもしれないが」
「緊急事態だと言ってくれ」
「通信を強要されていると考えるだろう。君らの命令で」ヘンドリックスはふたたび通信を試みた。これまでわかったことのあらましを説明する。だが、受信機からは、かすかなノイズのほかは何も聞こえてこなかった。
「放射線だまりがあると、通信のほとんどはそこで消されてしまうんだ」しばらくしてからクラウスが言った。「きっとそのせいだ」
ヘンドリックスは通信を切った。「だめだ。応答がない。放射線だまり? かもしれない。もしかしたら、声が聞こえても応答するつもりはないのかもしれない。正直言って、私だってそうするだろう。もし伝令がソヴィエト軍の前線から通信してきたとしてもな。こんな話を信じなきゃならない理由はないものな。私の言うことは全部聞こえていたとしても……」
「それとも、手遅れだったか」
ヘンドリックスはうなずいた。
「ふたをしめた方が良さそうだ」ルディが落ち着かないようすでそう言った。「意味もないのに危ない橋を渡るのはごめんだ」
彼らはゆっくりと地下道を降りていった。クラウスは慎重に入り口の蓋を閉めた。三人は台所へ降りていく。重い空気がまとわりついた。
「やつらにそこまで素早くことを運べるだろうか」ヘンドリックスは言った。「私が掩蔽壕を出たのは正午だ。いまからたかだか十時間前のことだ。どうしたらそんなに素早く移動することができるんだ?」
「あっという間なんだよ。最初の一体が入りさえすれば、時間はいらないんだ。あれの動きは途方もないんだ。あんただってあのちっぽけなクローが、何をするか知ってるだろう。たった一個が信じられないことをする。指の一本一本が剃刀なんだからな。狂気の沙汰だよ」
「そうだな」ヘンドリックスはいらだたしげに離れた。だが、ふたりに背を向けたところで立ち止まった。
「どうしたんだ」ルディがたずねた。
「ムーンベースだ。なんてことだ、もしやつらがあそこへ行くようなことにでもなったら……」
「ムーンベースだって?」
ヘンドリックスは振り返った。「やつらがムーンベースへ行けるわけがない。いったいどうやって行くっていうんだ? そんなこと不可能だよ。ありえない」
「そのムーンベースっていうのはいったい何なんだ。噂には聞いたことがあるが、はっきりしたことは何も聞いてない。実際のところはどうなってるんだ。あんたは何を気にかけてるんだ?」
「我々は月から物資補給を受けている。政府もそこに、つまり、月の地下にある。アメリカ国民と全産業もそうだ。だから軍も戦闘を続けることができるんだ。もしやつらが地球から離陸して、月に行く方法を見つけたとしたらどうなる?」
「一体で十分なんだよ。ひとたび最初の一体が入り込めば、そいつが残りを引き込むんだから。そっくり同じのが何百体。あんたも見ておくべきだったな。まったく同じなんだから。アリみたいなもんだ」
「完全な社会主義ね」タッソーが言った。「共産主義国家の理想じゃない? 人民すべてに相互互換性があるなんて」
クラウスは腹を立てたように言った。「もういい。で? つぎは何をしたらいい」
ヘンドリックスは狭い部屋のなかを行ったり来たりしている。空気には食物と汗の臭いが充満していた。残った三人は、ヘンドリックスをじっと見つめていた。やがてタッソーがカーテンを開けて、もうひとつの部屋に入った。「ちょっと休ませて」タッソーの背後でカーテンが閉じた。ルディとクラウスは食卓のいすにすわって、まだヘンドリックスから目を離さずにいた。「あんた次第だよ」クラウスが言った。「おれたちにはそっちの状況はわからんからな」
ヘンドリックスはうなずいた。
「問題がある」ルディはさびたポットからコーヒーを注いで飲んだ。「しばらくのあいだはここも大丈夫だろうが、いつまでもいるわけにはいかない。食料やなんかが十分にあるわけじゃないからな」
「だが、もし外に出たら」
「外に出たら襲ってくるさ。ま、少なくとも襲われると思った方がいい。なんにせよ、たいして遠くには行けない。少佐、司令部がある掩蔽壕まで、ここからどれぐらいだ?」
「5〜6キロといったところだな」
「向こうまで行けるかもしれない。おれたちは四人。四人なら、死角はできない。やつらだって後ろからそっとつけてくることもできんだろう。ライフルは三挺、アサルトライフルも三挺ある。タッソーはおれの拳銃を使えばいい」ルディはベルトを軽く叩いた。「ロシア軍ってとこはな、靴がないことはあっても、銃ならいくらでもあるんだ。四人が武器を持っていれば、そのうちのひとりでもあんたたちの司令部がある壕に行けるかもしれない。もちろん少佐、あんたが行ければいいに決まってるんだが」
「もしあっちに行ったあとだったら?」クラウスがたずねた。
ルディは肩をすくめた。「そのときはここに戻ってくるまでさ」
ヘンドリックスは脚を止めた。「やつらがすでにアメリカ軍の前線にまで入り込んでいる可能性は、どれくらいだろうか」
「そりゃわからんさ。可能性はかなり高いだろうが。なにしろあれは組織されている。自分たちが何をしているのか、がっちりと把握してるんだ。いったん動き出したら、イナゴの大群が移動するようなもんだ。休むことを知らないし、しかも速い。機密性とスピードこそが連中の命だ。奇襲だ。だれも知らないうちに押し寄せてくるんだ」
「なるほど」ヘンドリックスはつぶやいた。
隣の部屋から、タッソーが体を動かす気配が聞こえてきた。「少佐」
ヘンドリックスはカーテンを開けた。「何だ?」
タッソーは折り畳みベッドから、物憂げにヘンドリックスを見上げていた。「アメリカタバコはもう残ってない?」
ヘンドリックスは部屋に入り、女の向かいにある木のスツールに腰をおろした。ポケットをさぐって言った。「ないな。みんな吸ってしまった」
「あら、残念」
「君はどこから来た?」しばらくしてヘンドリックスはたずねた。
「ロシアよ」
「じゃ、どうしてここにいるんだ?」
「ここって?」
「以前、ここはフランスだったんだ。ノルマンディ地方だ。ソ連軍と一緒に移動して来たのか?」
「なんでそんなことを?」
「ちょっと知りたかっただけさ」ヘンドリックスは女をじっと見つめた。上着を脱いで、ベッドの端に投げ出している。若い。二十歳ぐらいか。華奢な体つき。長い髪が枕に広がっている。彼女の方も言葉もなく、ヘンドリックスを見つめていた。黒く大きな目をしている。
「なに考えてるの?」タッソーが聞いた。
「別に何も。いくつだ?」
「十八」彼女は自分の両手を枕に、瞬きもせず、じっと彼から目を離さなかった。ロシア軍のズボンとシャツを着ている。灰緑色のものだ。放射線カウンターと薬包入れを装備した分厚い革のベルトを巻いている。あと、救急キットも。
「きみはロシア軍の一員なのか?」
「いいえ」
「じゃ、その制服はどこで手に入れた?」
女は肩をすくめた。「もらい物よ」
「いつ……何歳のときにここに来た?」
「十六」
「そんなに若くから?」
女の目が細くなった。「どういう意味よ」
ヘンドリックスはあごをなでた。「きみの人生も、もし戦争がなかったら、ずいぶんちがうものになっていただろうな。十六か。きみは十六でここに来た。こんな生活をするために」
「あのね、あたしだって生きていかなきゃならなかったの」
「説教してるわけじゃない」
「あなたの人生だってちがうものになってたはずよ」タッソーは小さな声で言った。手を伸ばしてブーツのひもを解いた。蹴ってそれを脱ぐと、そのまま床に落とした。「少佐、あっちの部屋に行ってくれない? あたし、ねむたいの」
「四人でここに生活するとなると、問題が出てくるな。ここにみんなで暮らすのは無理だろう。たったふたつの部屋しかないのか?」
「そういうこと」
「もともとの地下室はどのくらいの大きさだったんだ? これより広かったんじゃないのか? ほかにもあった部屋が、瓦礫で埋まった、ということはないのか? もしそうなら、一部屋空けることもできるんじゃないか」
「かもね。あたしにはよくわからない」タッソーはベルトをゆるめた。シャツのボタンをはずして、ベッドの上で楽な格好になる。「ほんとにもうタバコは残ってないの?」
「一箱しか持ってなかった」
「うーん、残念。だけどあなたの壕に戻れば、もっとあるんでしょ」もう一方のブーツも床に落ちた。タッソーは明かりのひもに手を伸ばした。「おやすみなさい」
「寝るのか?」
「そうよ」
部屋は闇に閉ざされた。ヘンドリックスは立ちあがるとカーテンを通って台所に入った。そこで脚が止まり、棒立ちになった。
ルディが壁を背に立っている。顔は蒼白、目は異様な光を帯びていた。口をしきりに動かしているが、声が出てこない。クラウスがルディの前に立ち、ピストルの銃口をルディのみぞおちに当てていた。ふたりとも身動きひとつしない。クラウスは銃をきつくにぎりしめ、固い表情をしている。ルディは青ざめ、無言のまま、壁に張りつけられていた。
「これは……」ヘンドリックスがつぶやきかけたが、クラウスはみなまで言わせなかった。
「少佐、何も言うな。こっちへきてくれ。あんたの銃も出してくれないか」
ヘンドリックスは銃を抜いた。「どうしたんだ」
「やつを抑えてるんだ」クラウスはヘンドリックスに前へ出るように指図した。「おれの横に来てくれ、急いで!」
ルディは身を動かし両腕をおろした。唇を湿しながらヘンドリックスに顔を向ける。白目の部分に荒々しい色が浮かんでいた。汗が額から頬へと流れ落ちていく。視線がヘンドリックスの上にじっと注がれた。「少佐、やつは狂っちまった。なんとか止めてくれ」細くかすれたルディの声が、かろうじて聞き取れた。
「いったいどうしたんだ?」ヘンドリックスは強い調子で聞いた。
銃はそのままでクラウスは答えた。「少佐、おれたちの話を覚えてるだろう? 変種には三つのタイプがあるって。第一号と第三号はわかった。だが二号がわからない。いや、少なくとも、ちょっと前まではわからなかった」クラウスはいっそう強く銃の台尻をにぎりしめた。「これまではわからなかったが、もうわかったんだ」引き金を引いた。爆音がとどろき、銃から飛び出した白い煙がルディの体全体をなめまわす。
「少佐、これが変種第二号さ」
タッソーがカーテンを開けた。「クラウス! あんた、何してんの」
ずるずると壁からすべり落ちて床にくずおれる真っ黒に焼け焦げた体から、クラウスは目を離して向き直った。「変種第二号だ、タッソー。これでもうわかったぞ。三つの型が全部特定できたんだ。危険はこれでずいぶん軽減されるはずだ。おれは……」
タッソーの視線はクラウスを越えて、ルディの遺体に落ちた。黒焦げになり、煙が立ち上り、服の断片がかろうじて判別できる。「あの人を殺したのね」
「あの人だと? あれさ。おれはずっと見てたんだ。勘が働いたんだが、確信はなかった。少なくとも、これまではな。だが、今夜はもう間違いないことがわかったんだ」クラウスは銃の台尻を神経質そうにこすった。「おれたちは運が良かったよ。それがわからないのか? もう一時間もしたら、きっと……」
「間違いない、ですって?」タッソーはクラウスを押しのけ、床の上でまだくすぶっている遺体の上にかがみこんだ。その顔は厳しくなっていく。「少佐、あんたも見てちょうだい。この骨もこの肉も」
ヘンドリックスも彼女の横にしゃがんだ。遺体はまぎれもなく人間のそれだ。焦げた肉、焦げた骨片、頭蓋骨の一部。靱帯、内臓、血。壁に沿って血だまりが広がっていく。
「歯車なんてない」タッソーは静かに言うと、立ちあがった。「歯車もなければ、部品もない、継電器もない。クローなんかじゃない。変種第二号じゃなかった」タッソーは腕を組んだ。「あんた、これをどう説明するつもり?」
クラウスはテーブルに腰をおろした。その顔からは急速に血の気が引いていく。頭を抱え、前に後ろに体はぐらぐらと揺れた。
「しっかりなさい!」タッソーの指が、クラウスの肩を強くつかんだ。
「なんでこんなことしたのよ。何でこの人を殺したの」
「クラウスは恐怖に取りつかれてしまったんだ」ヘンドリックスは言った。「あれやこれや、こうしたこと全部、我々の周りでつぎつぎに起こっていく事態に」
「かも、ね」
「じゃ、なんだっていうんだ? 何を考えてる?」
「彼にはルディを殺す理由がずっと前からあったのかも。はっきりとした理由が」
「どんな理由だ」
「もしかしたら、ルディは何かをかぎつけたのかも」
ヘンドリックスはタッソーの冷たい顔をまじまじと見た。「どんなことだ」
「彼のこと。クラウスのことよ」
とっさにクラウスが顔を上げた。「この女が言いたいことは、あんたにもわかってるんだろう? こいつはおれが変種第二号だって言いたいんだ。な、少佐。おれがルディを殺したのは理由があるんだって、あんたにも思わせようとしてるんだ。おれは……」
「そうじゃないんだったら、なんでルディを殺したのよ」
「言っただろう」クラウスは面倒くさそうに頭を振った。「クローだと思ったんだ。突きとめた、と思ったんだ」
「なぜ?」
「やつを見張っていた。怪しかったからな」
「どうして?」
「何かを感じたんだ。何かが、聞こえてきたんだ。おれは……」そこでクラウスは口をつぐむ。
「続けて」
「おれたちはテーブルでトランプをやっていた。あんたたちがあっちの部屋にいるときだ。静かだった。そしたら、ブーンという音が聞こえたような気がしたんだ、やつの方から」
誰も口を開かなかった。
「信じられる?」タッソーがヘンドリックスに聞いた。
「ああ。ほんとうにそう思ったのだろう」
「あたしには信じられないわ。ちゃんと理由があったからこそ、殺したのよ」タッソーは部屋の隅に立てかけてあるライフルに手を触れた。「少佐……」
「よせ」ヘンドリックスは首を横に振った。「いまはこんなことはやめるんだ。ひとりで充分だ。おれたちはみんな怖れている。クラウスと同じだ。もしクラウスを殺せば、ルディにやったことと同じ結果が待っているだけだ」
クラウスは感謝のこもったまなざしで彼を見上げた。「ありがとう。おれ、怖かったんだよ、わかるだろう? いま怖がってるのはタッソーだ、ちょうどおれみたいに。おれを殺したいんだ」
「人を殺すのはもう十分だ」ヘンドリックスは梯子の下まで歩いた。「上でもう一度通信を試みることにする。もし通じなかったら、朝を待って前線に戻ることにするよ」
クラウスがさっと立ちあがった。「おれも一緒に行って協力するよ」
夜気は冷えびえとしていた。地表の温度が下がっている。クラウスは深呼吸し、肺を外気で満たした。彼とヘンドリックスは地下道を通って地上に出た。クラウスは大股に立ってライフルを構え、あたりを油断なく見張り、耳を澄ましていた。ヘンドリックスは地下道の入り口に身を低くして、小さな通信機を調節していた。
「何か聞こえたか」しばらくしてクラウスが聞いた。
「いや、まだだ」
「がんばれ。ここで起こったことを教えてやらなきゃ」
ヘンドリックスは何とか音をとらえようとした。どうやってもうまくいかない。とうとうアンテナを降ろした。「うまくいかない。あっちには私の声が聞こえないみたいだ。それとも聞こえてるんだが、応答しないか。そうでなきゃ……」
「そうでなきゃあっちはもう存在してないか」
「もう一度やってみよう」ヘンドリックスはアンテナを立てた。「スコット、聞こえるか? 応答せよ!」
耳を澄ませる。空電しか入らない。そのとき、ひどくかすかな音が聞こえた。「こちらスコット」
ヘンドリックスの指に力がこもった。「スコット! おまえか?」
「こちらスコット」
クラウスが腰をかがめた。「司令部か?」
「スコット、よく聞いてくれ。そちらでは把握しているのか? あいつらのことだ。クローだよ。私の言うことが聞こえているか? 聞いてるか?」
「はい」かすかな声が聞こえた。かろうじて聞き取れるほどの声だ。何を言っているかまではわからない。
「私の言葉が聞こえたか? そっちの掩蔽壕は何も異常ないか? 何も入り込んできてないか?」
「万事異常ありません」
「やつらが入り込もうとしてこなかったか?」
音声がいっそう弱くなった。
「いいえ」
ヘンドリックスはクラウスの方を振り返った。「あっちは大丈夫だ」
「攻撃は受けてないのか?」
「受けてない」ヘンドリックスは受信機をいっそう強く耳に当てた。「スコット、君の声がほとんど聞こえないんだ。ムーンベースには知らせたのか。向こうは知っているか? あっちは警戒態勢を取っているか?」
返事がない。
「スコット! 聞こえるか?」
沈黙。
ヘンドリックスは落胆して力が抜けた。「消えてしまった。きっと放射線だまりのせいだろう」
ヘンドリックスとクラウスは顔を見合わせた。どちらも無言のままだった。しばらくしてクラウスが言った。「あんたの部下の声だったか? 誰の声か、はっきり聞き取れたか?」
「小さくてよくわからなかった」
「確かじゃないんだな」
「ああ」
「じゃあ、もしかしたら……」
「わからない。いまは何とも言えない。戻ってふたを閉めよう」
ふたりは梯子をのろのろと降りると、暖かな地下室に入っていった。クラウスは背後でかんぬきをかける。タッソーはそこで無表情のまま待っていた。
「うまくいった?」
ふたりとも返事をしなかった。「まあな」やっとクラウスが言った。「どう思う、少佐。あれはあんたの部下だったのか、それともやつらだったのか」
「わからない」
「ってことは、事態は前と同じってことだ」
ヘンドリックスはあごを引いて床をじっと見つめていた。「行ってみなくては。確かめるために」
「どのみち、ここには食料も数週間分しかないんだ。そうなりゃ、どうあっても出て行かなきゃならないしな」
「そういうことだ」
「どうしたのよ」タッソーが聞いた。「あんたのところの掩蔽壕と話はできたの? 何があったっていうのよ」
「あれは私の部下だったのかもしれない」ヘンドリックスはゆっくりと言った。「もしかしたら、やつらだったのかも。だが、ここにいたのでは絶対にわからない」彼は自分の時計を見た。「横になって少しでも休もう。明日は早く起きなきゃな」
「早く?」
「クローに出くわさずにすむのは早朝がよさそうだ」ヘンドリックスは言った。
朝の空気は澄んでいて、身が引き締まるようだった。ヘンドリックス少佐は双眼鏡であたりを調べた。
「何かいるか?」
「いや」
「おれたちの掩蔽壕がわかるか?」
「どっちの方角だ?」
「貸してみろ」クラウスは双眼鏡を取ると調節した。「どこを見たらいいか、おれは知ってるからな」長いあいだ、黙ったままのぞいていた。タッソーが地下道の入り口から上がってきた。「何か見える?」
「何も」クラウスは双眼鏡をヘンドリックスに返した。「見る限り、あれの姿はないな。行こうや。長居は無用だ」
三人は柔らかい灰に足を取られながら、崖を降りていった。平たい岩の上を一匹のトカゲが走り抜ける。その瞬間三人は、はっとして立ちすくんだ。
「何だ」クラウスがそっとつぶやいた。
「トカゲだよ」
トカゲは止まることなく、灰の上をすごい速さで駆けていく。灰とそっくり同じ色だ。
「完全なる適応だな」クラウスが言った。「これでロシア側が正しかったことが証明されたな。ルイセンコ論争だよ」(※ソ連の農業経済学者ルイセンコが、外部に適応することによって体細胞が得た獲得形質は遺伝すると主張、従来の遺伝学や進化論とのあいだで論争になった)
崖の下まで降りてくると、三人はそこで止まり、身を寄せ合ってあたりを見回した。「さて、行くとするか」ヘンドリックスが動き出した。「結構な距離を歩くことになるぞ」
クラウスが隣りに並んだ。タッソーは後ろにつき、ピストルを油断なく構えている。「少佐、ずっと聞こうと思ってたんだがな」クラウスは言った。「あんた、どんなふうにディヴィッドに会ったんだ。あんたのあとをずっとついてきたデイヴィッドだが」
「途中で会ったんだ。どこかの廃墟だった」
「あれはどんなことを言った?」
「たいして何も言わなかったな。ひとりだと言っていた。ひとりぼっちだって」
「あんたは機械だとは思わなかったんだろう? 生きてる人間みたいにしゃべったんだろ? 変だと思わなかったのか?」
「ほとんどしゃべらなかったんだ。だからとくに不自然だとも思わなかった」
「そりゃおかしいな。人間みたいにしゃべる機械に、あんた、だまされたのか。まるで生きてるみたいだな。しまいにはどうなることやら」
「あれはどれもあんたたちヤンキーが設計した通りに動いてる」タッソーが言った。「あんたたちは生命体を追いつめ、殺すように設計した。どこで何をしてようと人間を見つけしだいに」
ヘンドリックスはクラウスをきつい目で見た。「なんでそんなことを聞く? 何を考えているんだ?」
「別に何も」クラウスは答えた。
「クラウスはあんたを変種第二号だと思ってるのよ」タッソーはふたりの背後からこともなげにそう言った。「いまはあんたに目をつけてるの」
クラウスはぱっと赤くなった。「悪いか? 我が軍がヤンキーに伝令を送って、そこであんたが来た。もしかしたらここまで獲物を見つけに来たんじゃないのか?」
ヘンドリックスは尖った声で笑った。「私は国連軍の掩蔽壕から来たんだぞ。人間なら周囲にたくさんいたんだ」
「ソ連の前線に入り込む願ってもないチャンスだと思ったのかもしれないじゃないか。あんたは機会をうかがった。そしてあんたは……」
「そのころソ連の前線はもう乗っ取られていたんじゃないのか。私が司令部の掩蔽壕を出る前に、君たちの前線は、やつらに入り込まれてしまっていたんだ。そのことを忘れちゃこまるよ」
タッソーが隣りに並んだ。「少佐、それじゃ何の証明にもなってないわよ」
「なぜだ」
「変種たちは相互にほとんど意思疎通がないみたいなの。それぞれ別の工場で作られてるから。共同行動は取ってない。ほかのタイプたちが何をしてるか知らずに、ソヴィエトの前線に向かったのかもしれない。もしかしたら、ほかのタイプがどんなだかも知らないのかも」
「なんでそんなにクローのことに詳しいんだ」ヘンドリックスは言った。
「だって見てたんだもの。やつらのことは観察してたの。やつらがソヴィエトの掩蔽壕を占拠するのをずっと」
「おまえ、ずいぶん詳しいな」クラウスも言った。「実際にはほとんど見てなかったじゃないか。そんなに鋭い観察ができるなんて、おかしいんじゃないか」
タッソーは声を上げて笑った。「今度はあたしを疑うわけね?」
「もうよせ」ヘンドリックスは言った。一同は黙ったまま歩き続けた。
「ずっと歩くの?」しばらくしてタッソーが言った。「あたし、あんまり歩くのは慣れてないのよ」見渡す限り、灰の降り積もった平原が広がるのを眺め回した。「この景色はもううんざり」
「どこまで行っても同じさ」クラウスが言った。
「やつらの襲撃があったとき、あんたも掩蔽壕にいればよかったのに」
「で、おれじゃなきゃ別の誰かがおまえと一緒にいたってわけか」クラウスがぼそっと言った。
タッソーは両手をポケットにつっこんだまま笑った。「きっとね」
太陽が沈もうとしている。ヘンドリックスは慎重に歩を進めながら、手を振ってタッソーとクラウスを下がらせた。クラウスはしゃがんだまま、銃の台尻を地面に立てている。タッソーはコンクリート板を探してそこに腰を下ろし、ため息をひとつついた。
「やっと休めるわ」
「静かに」クラウスが鋭く言った。
ヘンドリックスは前方の丘を上った。昨日、ロシア軍の伝令が上ってきた同じ丘だ。ヘンドリックスは手足を伸ばして身を伏せると、双眼鏡で向こうの様子をのぞいた。何も見えない。そこにあるのは灰と見なれた木々だけだ。だが、50メートルほど先には、司令部の掩蔽壕の入り口がある。彼が出てきた掩蔽壕だ。ヘンドリックスは物音を立てないように監視を続けた。動くものはない。生命の徴候もない。身じろぎする気配もない。
クラウスが腹這いでやってきて隣りに並んだ。「どこだ?」
「降りたところだ」ヘンドリックスは双眼鏡を渡した。夕焼け空を背景に、灰が雲のようにたちこめている。暗くなりかけていた。明るさが残っているのも、せいぜいあと二、三時間ほどだろう。そんなにもないだろうか。
「わからないな」クラウスが言った。
「あそこに木があるだろう。切り株だ。レンガの山の脇だ。入り口はレンガの右手にある」
「あんたの言葉を信じるしかないな」
「君とタッソーはここから私を援護してくれ。掩蔽壕の入り口まで、ずっと視界はさえぎられないはずだ」
「ひとりで行くつもりなのか」
「私は手首にタブをつけてるから安全だ。掩蔽壕のまわりはクローの群れの活動区域だ。灰の中はやつらだらけだ。カニのようにな。タブなしでは命はない」
「そうか」
「ゆっくりと歩いていくつもりだ。何かわかったらすぐ……」
「もしやつらが掩蔽壕のなかに入り込んでたら、あんたは生きて戻ることはできないぞ。なにしろ素早いんだから。あんたはまだよくわかってないみたいだな」
「じゃ、どうしたらいい」
クラウスは考えていた。「おれにもわからん。とにかく地表に呼び出すんだ。そしたらわかるだろう」
ヘンドリックスはベルトから通信機を取り出すと、アンテナを伸ばした。「やってみよう」
クラウスがタッソーに合図を送った。タッソーは手慣れたようすで丘の斜面をふたりのいるところまで匍匐前進でのぼってきた。
「少佐はひとりで行く」クラウスが言った。「おれたちはここで援護する。少佐が戻ってくるのが見えたら、すぐに少佐の背後を狙って撃つんだ。やつらの動きは早いからな」
「あんたはあんまり楽観的じゃないのね」タッソーが言った。
「ああ、そうだ」
ヘンドリックスは銃尾を開いて入念に点検した。「もしかしたらすべていつもどおりかもしれない」
「あんたは見てないからな。何百というやつらの姿を。全部が同じの。アリのようにぞろぞろとあふれ出してくるのを」
「向こうに降りていく前に確かめられるといいんだが」ヘンドリックスは銃をロックし、片手で握りしめ、もう一方の手には通信機を持った。「さて、幸運を祈っていてくれ」
クラウスは手を差し出した。「確かなことがわかるまで、降りていくんじゃない。地上から話しかけるんだ。相手が姿を見せるように」
ヘンドリックスは立ちあがった。丘の斜面に脚をふみだした。ほどなく、枯れた木の切り株を過ぎ、レンガや瓦礫の山に向かってゆっくりと歩いていく。司令部の掩蔽壕の入り口に向かって。動く気配はない。彼は通信機を持ち上げ、スイッチを入れた。
「スコット、応答せよ」
しんとしている。
「スコット、こちらヘンドリックス。応答せよ。私はいま壕の外にいる。潜望鏡で姿が確認できるはずだ」
耳を澄ませる。通信機を握る手に力がこもる。だが、何の音も聞こえない。空電だけだ。ヘンドリックスは前進した。一体のクローが灰のなかから現れ、すさまじい勢いでやってきたが、一メートルほどのところで急に立ち止まり、やがて逃げだした。つぎに、かぎ爪のある大型のクローが現れた。近くでじっと様子をうかがっていたが、やがて背後にまわりこみ、礼儀正しく一メートルほど距離をおいて、あとをついてきた。その直後に二体目の大型のクローがそれに加わった。クローたちはおとなしく、掩蔽壕に向かってゆっくりと歩いていく彼のあとに続いた。
ヘンドリックスが立ち止まり、後ろをついてきたクローたちもそれにならった。もうどれほどもない。壕の階段は目の前だ。「スコット、応答せよ。私は壕のすぐ上にいる。外だ。地上だ。私の声が聞こえるか?」彼は待った。銃を脇に抱え、通信機をきつく耳に当てて待った。時間が過ぎた。聞き逃すまいと耳をそばだてたが、何も聞こえない。かすかな空電だけだ。
やがて遠くの方から、金属的な声が聞こえてきた。「こちらスコット」
無表情な声だ。冷たい。彼には聞き分けることができなかった。イヤフォンは小さい。
「スコット、よく聞け。私はすぐ上に立っている。地表で、壕の入り口を見下ろす場所に立っている」
「はい」
「聞こえるな」
「はい」
「私が見えるか」
「はい」
「潜望鏡から見えているんだな? 照準を私に合わせているな?」
「はい」
ヘンドリックスは判断がつきかねていた。クローの群れは彼を囲んでじっと待っている。「壕は異常はないか。何か変わったことは起こってないか」
「まったく異常はありません」
「地上に出てきてくれないか。ちょっと君の様子が見たい」
「降りてきてください」
「私が君に命令をしているのだ」
沈黙。
「上がって来ているのか」ヘンドリックスは耳を澄ました。返事はない。「命令だ。地上に上がって来い」
「降りてください」
ヘンドリックスはあごをきつく引いた。「レオーネと話がしたい」
長い間が空いた。空電に耳を凝らす。やがて声が聞こえた。硬く、細い、金属的な声だ。さきほどと同じだ。「こちら、レオーネです」
「ヘンドリックスだ。地上にいる。壕の入り口のところだ。どちらかひとり、ここまできてくれ」
「降りてください」
「なぜ降りろと言う。命令しているのは私だぞ!」沈黙。ヘンドリックスは通信機を降ろした。周囲を注意深く見回す。入り口は目の前だ。足下と言ってもいい。アンテナを降ろすと、通信機をベルトに戻した。慎重に銃を両手で掲げる。一歩ずつ前進した。向こうにその姿が見えているなら、彼が入り口に向かっていることがわかるだろう。一瞬、彼は目をつぶった。
ついに階段のてっぺんに足がかかった。こちらに向かって上がってくる、ふたりのデイヴィッドの姿が見える。そっくり同じ、表情のない顔。彼が発砲すると、バラバラになった。なおも続々とデイヴィッドの群れが無言で上がってくる。どれもまったく同じデイヴィッドだ。
ヘンドリックスは向きを変え、壕を離れて丘に向かって必死で走り出した。
丘の上ではタッソーとクラウスが、下に向けて発砲していた。小型のクローの群れが、早くもふたりめがけて突進している。きらきらと輝く金属球は全速力で、気でも違ったように灰のなかを駆けていく。だが、彼にはそんなものに気を留めている余裕などなかった。
膝をついて銃を頬に当て、掩蔽壕に向かって構えた。デイヴィッドたちは集団で出てきた。いずれもクマのぬいぐるみを抱え、やせて飛び出した膝小僧をがくがくさせながら、地上に出てくる階段を上ってくる。ヘンドリックスは真ん中のデイヴィッドめがけて発砲した。デイヴィッドたちは飛び散り、歯車やバネが四方八方に飛び散った。もうもうと立ち上る微細な破片越しに、ヘンドリックスはもう一度発砲した。
巨大な人影がよろよろと壕の入り口に姿を見せた。ヘンドリックスはぎょっとして手を止めた。男だ。兵士だ。一本足で松葉杖をついている。
「少佐!」タッソーの声が飛んできた。ふたたび発砲が始まった。大男が前進し、デイヴィッドたちが周りを固める。ヘンドリックスは驚愕で凍りついていた状態を脱し、何とか動けるようになっていた。変種第一号、傷痍兵だ。ねらいを定めて発砲する。傷痍兵は粉々になり、部品や継電器が飛び散った。さらに多くのデイヴィッドが壕から外に出てくる。ヘンドリックスは少しずつ後退しながら、腰を落としてねらいをつけては発砲を続けた。丘の斜面をクローの群れがひしめきあいながら上っていく。ヘンドリックスも走ったり、腰をかがめたりしながら上った。タッソーはクラウスから離れ、右手の方へゆっくりと弧を描くようにして丘を離れていた。
デイヴィッドの一体が、ぬっとヘンドリックスのそばに寄ってきた。小さな白い、無表情な顔には茶色い髪が目にかかっている。デイヴィッドは突然、両手を広げると体を前に倒した。ぬいぐるみのクマが下に落ち、地面をぴょんぴょんと跳ねながら、ヘンドリックスに向かってくる。ヘンドリックスは発砲した。クマもデイヴィッドも崩れ落ちた。ヘンドリックスはにやりと笑うと、目をしばたたいた。まるで夢の中みたいじゃないか。
「こっちよ!」タッソーの声がした。ヘンドリックスは声のする方に向かった。タッソーはコンクリートの柱の陰にいた。崩れる前はビルの壁だったらしい。クラウスに渡されたピストルで、ヘンドリックス越しに発砲を続けている。
「助かった」息をあえがせながら、タッソーに加勢した。タッソーはヘンドリックスを引っ張って、自分の背後、コンクリートの陰に押しやり、自分のベルトをさぐった。「目を閉じて!」腰から手榴弾を外す。素早くキャップを外して固定した。「目をつぶって伏せるのよ」
タッソーは手榴弾を投げた。弧を描いて飛んでいく。見事な腕だった。手榴弾は蔽壕の入り口まで弾みながら転がっていく。ふたりの傷痍兵がレンガの山のかたわらに、ふらつきながら立っていた。デイヴィッドたちはその後ろから、続々と地上に吐き出されてくる。傷痍兵のうちのひとりが手榴弾に近づき、拾おうとぎこちなくかがみ込んだ。
手榴弾は爆発した。衝撃がヘンドリックスのところまで押し寄せ、前のめりに押し倒された。熱風が波打ちながら背中の上を行き過ぎる。ぼんやりと見えたのは、コンクリートの裏に立つタッソーが、たちこめる白煙をついてこちらにやってくるデイヴィッドたちめがけて、落ち着いて、着実に発砲している姿だった。
背後の丘の斜面では、クラウスが四方をクローの群れに包囲され、孤軍奮闘している。クラウスは退却しながら発砲し、そこからさらに退いて、なんとかその輪を突破しようとしていた。ヘンドリックスはなんとか立ちあがろうとした。頭が痛む。ほとんど視界がきかない。あらゆるものが荒れ狂い、旋回しながら、彼を痛めつけてくる。右腕は動かそうとしても動かなかった。
タッソーが彼のところまで引き返してきた。「さあ、行きましょう」
「クラウスが……クラウスがまだあっちにいるんだ」
「行くのよ!」タッソーはコンクリートの柱のそばにいたヘンドリックスの背中を引っ張った。なんとか頭をはっきりさせようと、振ってみる。タッソーは素早く先に立ち、緊張したまなざしで、爆発から逃れたクローたちがいないかどうか、警戒している。一体のデイヴィッドが、立ち上る炎と煙のなかから現れた。タッソーは撃った。もう何もやってこない。
「クラウスは。クラウスはどうするつもりだ」ヘンドリックスは脚を止め、ふらふらしながら立っていた。「クラウスは……」
「さあ、来るのよ」
ふたりは来た道を引き返し、掩蔽壕から少しずつ離れていった。小型のクローが数体ついてきたが、しばらく行ったところであきらめて去った。ずいぶんたってから、とうとうタッソーも脚を止めた。「ここなら休んで一息ついても大丈夫そうね」
ヘンドリックスは瓦礫の山に腰をおろした。あえぎながら首をぬぐう。「クラウスをあそこに見捨ててきてしまった」
タッソーは返事をしない。銃を開いて新しい薬包をすべりこませている。
ヘンドリックスはそれを見つめ、とまどっていた。「わざと彼を置き去りにしたのか」
タッソーはカチッと音を立てて銃を閉じた。無表情のまま、周囲の瓦礫の山をじっと見ている。あたかも観察すべき何ものかがいるかのように。
「何だ?」ヘンドリックスは聞いた。「何を探してるんだ? 何かが来るのか?」ヘンドリックスは何とか理解しようと頭を振った。彼女は何をしているんだ? 何を待っている? 自分には何も見えない。周りにあるのは灰と、廃墟だ。あとはところどころに、木が、葉も枝もない幹だけが、あるだけだ。「何を……」
タッソーはそれをさえぎった。「静かにして」タッソーの目は細められている。急に銃を構えた。ヘンドリックスは振り返り、その視線の先を探した。ふたりがやってきた方角から人影が現れた。人影は、ふらふらしながらこちらに向かってくる。服はぼろぼろだった。足を引きずりながら、ひどくのろのろと、警戒しながら近づいていた。ときおり止まり、休みながら、なんとか力を回復しようとしているらしかった。今度は危うく倒れそうになり、なんとか足を踏ん張り持ちこたえた。そこからまた近づいてくる。
クラウスだった。
ヘンドリックスは立ちあがった。「クラウス!」彼の方へ駆け寄っていく。「よくここまで……」
タッソーが撃った。ヘンドリックスは弾かれたように振り返った。もう一度発砲すると、一本の線のような熱波が彼をかすめた。熱線はクラウスの胸に命中した。爆発し、ギアや歯車が吹き飛んだ。それでも一瞬のことで、彼はなおも歩いた。やがて体が前に後ろに揺らいだ。それから両腕を広げて地面にどさっと倒れた。歯車がまたいくつか転がった。
あたりは静まりかえっていた。
タッソーがヘンドリックスを振り返る。「これであんたにもクラウスがなんでルディを殺したか、わかったでしょ」
ヘンドリックスはのろのろと腰をおろした。頭を振る。茫然自失していた。考えることができなかった。
「わかった?」タッソーが聞いた。「あんたにも飲み込めた?」
ヘンドリックスは答えなかった。何もかもが、どんどん速度を速めて、彼の手からすべり落ちていく。暗闇が渦を巻き、襲いかかった。彼は目を閉じた。
ヘンドリックスはゆっくりと目を開けた。体中が痛む。なんとかすわろうとしたが、刺すような痛みが腕から肩を貫く。彼はあえいだ。
「起きようとしちゃだめ」タッソーがいった。かがみ込んで、彼の額に冷たい手を当てた。
夜だった。頭上には星が宙をただよう灰をすかして輝いていた。ヘンドリックスは歯を食いしばって横になった。タッソーは表情一つ変えずそれを見ている。タッソーは木ぎれや雑草で火を起こしていた。弱い炎がちろちろと、上につるした金属のカップをなめる。あたりは静まりかえっていた。焚き火の向こうは一面の闇に塗りつぶされている。
「ということは、彼が変種第二号だったのか」ヘンドリックスはつぶやいた。
「あたしには最初からわかってたわ」
「なら、どうしてもっと早く破壊しなかったんだ?」その理由が知りたかった。
「あんたがやめさせたんでしょ」タッソーは焚き火のそばによって、金属のカップをのぞきこんだ。「コーヒーよ。もうじき飲めるわ」
タッソーは戻ってきて、彼の隣りに腰を下ろした。やがてピストルを開けると、発射装置を分解しながら、夢中になって調べ始めた。
「ほんとにすごい銃だわ」タッソーは半ば独り言のように言った。「構造がずばぬけてる」
「やつらはどうなった? クローたちは」
「手榴弾の衝撃で、ほとんどが壊れたわ。繊細なのね。精巧に作られてるとそうなるみたい」
「デイヴィッドもか?」
「そうよ」
「あんな手榴弾をどうやって手に入れた?」
タッソーは肩をすくめた。「あたしたちが設計したの。あたしたちの技術をみくびってもらっちゃ困るわね、少佐。もしあの手榴弾がなかったら、あんたもあたしもいまごろここにはいやしない」
「確かにあれはすごかった」
タッソーは脚を伸ばして、つま先を火で暖めた。「やつがルディを殺したのに、あんたが何にも気がつかないもんだから、あたし、びっくりしちゃった。なんでやつが……」
「前にも言ったろう。怯えているんだとばかり思ったんだ」
「ほんと? あのね、少佐、あたしはちょっとのあいだ、あんたを疑ったわよ。だって、やつを殺そうとしたのを止めるんですもの。てっきりやつをかばうつもりなんだと思ったわ」そう言うと笑った。
「ここは安全なのか」ややあってヘンドリックスは聞いてみた。
「少しのあいだならね。やつらがほかの地域から援軍をかき集めてくるまでってことだけど」タッソーはボロ布の切れ端で、銃の内部を磨き始めた。それを終えると、発射装置を組み立てなおす。銃を閉じると銃身に沿って指を走らせた。
「私たちは運が良かったんだな」ヘンドリックスはつぶやいた。
「そうね。とってもラッキーだった」
「あそこから引っ張り出してくれたことを感謝するよ」
タッソーは返事をしない。彼にすばやく向けた目は、焚き火の火を反射して、きらきらと輝いていた。ヘンドリックスは腕を確かめた。指を動かすことができなくなっている。自分の片側全体が鈍くなったような感じだった。体の奥の方がずっと鈍い痛みに疼いている。
「どんな感じ?」タッソーが聞いた。
「腕をやられた」
「ほかは?」
「内臓がどうにかなったみたいだ」
「爆発したとき、あんたがうつぶせにならないからよ」
ヘンドリックスは何も言わなかった。タッソーがコーヒーをカップから、平たい金属の器に移すのをじっと見ていた。タッソーはそれを彼のところまで持ってきてくれた。
「ありがとう」ヘンドリックスは苦労しながら飲もうとした。容易には飲み込めない。内臓がひっくり返りそうな感じがして、皿を脇に押しやった。「いまはもうたくさんだ」
タッソーは残りを飲み干した。時間が過ぎた。頭の上にもうもうとたちこめる灰の向こうに、暗い夜空が広がっている。ヘンドリックスは頭を空っぽにして休んだ。しばらくのち、ふたたび気がついたときには、タッソーは立ったまま、ヘンドリックスを見下ろしていた。「どうした」彼は口の中でつぶやいた。
「少しは気分が良くなった?」
「多少は回復したようだ」
「あのね、少佐。もしあたしがあんたを無理矢理ここまで引っ張って来なかったら、あんた、死んでたわよ。ルディみたいに」
「わかってる」
「あたしがなんであんたを引っ張ってきたか、その理由を知りたくない? あそこに放っておいてもよかったのに」
「どうして私を連れてきてくれたんだ?」
「それはあたしたちがここを脱出しなきゃいけないから」タッソーは穏やかな目で焚き火を見つめながら、棒きれで火をかきまわした。「ここで生きていける人間なんていない。やつらの援軍が来たら、もうあたしたちに生き延びるチャンスはなくなってしまう。あんたが気を失ってるあいだ、あたしはずっと考えた。やつらが来るまで、きっともう三時間ぐらいはあるはず」
「で、ここから脱出する手だてを私に期待しているんだな」
「そういうこと。あたしをここから出してほしいのよ」
「何で私ならできると思うんだね?」
「だってあたしにはどうしたらいいか全然わかんないんだもの」一方から光を受けて輝く目は、彼をひたと見すえていた。「もしあんたが抜け出す方法を考えなかったら、あたしたち、三時間もすれば殺されてしまう。それ以外の道はない。わかった、少佐? どうするつもり? あたしは一晩中待ってた。あんたが気を失ってる間、ここにすわって、耳を澄ましてじっと待ってたの。夜はもうじき明けるわ」
ヘンドリックスは考えていた。そしてついに「変だな」とだけ言った。
「何が変なのよ」
「君が私ならここを抜け出せると考えたことだよ。私に一体何ができると思ったんだ」
「ムーンベースに連れてってくれる?」
「ムーンベースへ? どうやって?」
「方法はきっとあるわ」
ヘンドリックスは頭を振った。「ないね。私は何も知らない」
タッソーは何も言わなかった。ひたと見据えられていた目が、一瞬揺らいだ。頭をかがめ、ぶっきらぼうに顔を背けた。さっと立ちあがる。「コーヒーは?」
「結構だ」
「勝手にして」タッソーは黙って飲んだ。彼にはタッソーの顔が見えなかった。あれこれ思いつつ仰向けになって何とか頭を集中させようとした。考えをまとめるのはむずかしい。頭がまだ痛かった。おまけに全身がだるくてたまらない。
「もしかしたら、ひとつだけ方法があるかもしれない」不意に彼は言った。
「え?」
「あとどのくらいで夜が明ける?」
「二時間。もうじき太陽が昇るわ」
「この付近に宇宙艇があるはずだ。見たことはないんだが。だが、あることは知っている」
「どんな宇宙艇なの?」その声は鋭かった。
「巡航ロケットだ」
「あたしたち、それで離陸できるの? ムーンベースに行けるの?」
「そのはずだ。非常時には」彼は額をこすった。
「どうかした?」
「頭がね。うまく頭が働かない、うまいこと……集中できないんだ。あの爆弾のせいで」
「その宇宙艇はここから近いの?」タッソーは彼のかたわらににじりよってくると、そこに腰をおろした。「ここからどのくらい行ったところにあるの? どこなの?」
「思い出そうとしてるんだ」
タッソーの指が腕に食い込む。「この近くなの?」有無を言わせぬ声だった。「どこにあるの? 地下に格納してるんじゃないかしら? 地下に隠してあるとか」
「そうだ。格納庫だ」
「どうやったら見つけられる? 標識が出てるの? 場所を割り出すための暗号標識かなにか?」
ヘンドリックスは一心に考えた。「いやいや。標識はない」
「だったらどうやって見つけるの?」
「目印がある」
「どんな目印よ?」
ヘンドリックスには答えられなかった。ゆらめく光を受けた彼の目は虚ろで、何も見えていないかのようだ。彼の腕をつかむタッソーの手に、力がこもった。
「どんな目印なの? 何があるの?」
「考えることができない。休ませてくれ」
「わかったわ」手を離すと彼女は立ちあがった。ヘンドリックスは地面に仰向けに寝転がり、眼を閉じた。タッソーはポケットに両手をつっこんで、向こうへ歩いていった。石をひとつ蹴飛ばし、立ち止まって空を見上げている。夜の闇はいまはもう薄い灰色に変わっていた。朝が近いのだ。
タッソーはピストルを握りしめたまま、焚き火の周りを円を描くように歩いていた。ヘンドリックス少佐は地面に横になり、眼を閉じたまま、身じろぎもしない。次第に空高くまで灰色に染まっていく。あたりの景色は見分けがつくようになり、灰の降り積もる平野部が四方に広がっていた。灰とビルの廃墟、そこここに残る壁、コンクリートのかけらの山、裸になった木の幹。
空気は冷たく身を切るようだった。どこか遠くの方で、一羽の鳥が、数度、ものわびしい声で鳴いた。
ヘンドリックスがもぞもぞと体を動かした。目を開ける。「夜が明けたのか? もうそんな時間か?」
「そうよ」
ヘンドリックスは少しだけ上体を起こした。「何か知りたがってなかったか。君は私に何かを聞いていたような気がする」
「じゃ、思い出したのね」
「ああ」
「じゃ、何?」張りつめた声だった。「何なの?」きつい声で繰りかえす。
「井戸だよ。井戸の残骸だ。井戸の底に格納庫がある」
「井戸ね」タッソーは緊張を解いた。「じゃ、あたしたち、井戸を探したらいいのね」時計を見た。「あと一時間しかない、少佐。一時間で見つかるかしら?」
「手を貸してくれ」ヘンドリックスは言った。
タッソーはピストルを脇へ置き、彼が立ちあがるのを助けた。
「なんだか大変そうね」
「そうだな」ヘンドリックスは唇をきつく結んだ。「だが、ここからそんなに遠いわけじゃない」
ふたりは歩き出した。昇り始めた太陽のおかげで、空気にいくぶんかの暖かみが感じられる。大地は平坦で荒れ果て、どこまでいっても灰色、見渡す限り、生命の徴候は感じられない。数羽の鳥が、頭上はるか上空をゆっくりと円を描きながら静かに飛んでいた。
「何か見えたか?」ヘンドリックスは尋ねた。「クローはいないか?」
「いまのところ、姿はないわ」
コンクリートやレンガの残骸がそびえ立つ廃墟を通り過ぎていく。セメントの土台。ネズミが大慌てで走り去り、警戒していたタッソーは、ぎょっとして飛び退いた。
「ここは昔は町だった」ヘンドリックスは言った。「いや、村だな。田舎の村だ。ブドウがたくさん採れる地域だったんだ、そこをいま歩いてる」
歩いているのは、雑草におおわれ、亀裂が縦横に走る、もはや原型をとどめていない通りだった。「気をつけろ」ヘンドリックスは注意した。
穴が口を開けている。剥きだしになった地下室だった。ねじ曲がったパイプのギザギザの端が突き出している。つぎに通りかかった家の残骸は、浴槽が横向きに転がっていた。壊れた椅子。スプーンや陶器の皿のかけら。通りの真ん中で、地面が陥没している。くぼみは雑草や瓦礫や骨があふれていた。
「こっちだ」ヘンドリックスはつぶやいた。
「この道でいいの?」
「右だ」
大型戦車が放置してある。ヘンドリックスのベルトのカウンターが、カチカチと不気味な音をたてた。戦車は放射線被曝していた。そこから十メートルほどのところに、ミイラ化した死体が口を開けたまま大の字に転がっていた。道を越えると平坦な原野が続く。石、雑草、割れたガラス。「あそこだ」ヘンドリックスが言った。
石の井戸が傾き、壊れかけている。数枚の板で蓋をしてあった。井戸のほとんどは瓦礫の山に埋もれている。ヘンドリックスはおぼつかない足取りで歩いていき、タッソーはその横をついていった。
「ここで間違いないのね?」タッソーが聞いた。「とてもじゃないけど、そんな感じはしないわよ」
「間違いない」ヘンドリックスは井戸の縁に腰をおろした。歯をきつく食いしばっている。息が荒くなっていた。顔の汗をぬぐう。「上級士官が脱出するときのために用意されたものだ。何か起こったときのために。たとえば掩蔽壕が敵の手に落ちるような事態に備えてね」
「あんたのために?」
「そうだ」
「宇宙艇はどこにあるの? ここにあるの?」
「私たちの足の下だ」ヘンドリックスは井戸の石の表面に両手を走らせた。「この眼球認証システムは私だけに反応して、ほかの誰にも反応しない。私の宇宙艇だからな。ま、そういうことになっていた、と言うべきか」
鋭くカチッと鳴る音がし、すぐに地面の下から低いうなるような音が聞こえてきた。
「さがるんだ」ヘンドリックスは言った。彼とタッソーは井戸から離れた。
地面の一画が後ろへ下がっていく。金属のフレームが、レンガや雑草を押しのけて、灰の中からゆっくりと上がってきた。宇宙艇の船首が見えてきたところで止まった。「さて、この通り」ヘンドリックスは言った。
宇宙艇は小型のものだった。先の丸くなった金属棒のような宇宙艇は、金網のはまった囲いの中に宙づりにされて、静かに出番を待っていた。宇宙艇が持ち上がったせいでできた空洞に、灰がざーっと降り注ぐ。ヘンドリックスは近づいた。金網の囲いを上り、ハッチをゆるめて手前に引く。宇宙艇の内部のコントロール・バンクや与圧式操縦席が見えてきた。
タッソーは隣りに並んで中を一心にのぞいた。「あたしはロケットの操縦に慣れてないのよ」やがて彼女はそう言った。
ヘンドリックスはちらりと彼女を見やった。「運転するのは私だ」
「あんたが? ひとつしか座席はないのよ、少佐。これがひとりしか輸送できないように作られてるってことは、あたしにだってわかる」
ヘンドリックスの息づかいが変わった。彼も船内を食い入るように見回した。タッソーは正しい。座席はひとつだ。ひとりの人間しか運ぶようにはできていないのだ。「なるほど」彼はゆっくりと言った。「で、そのひとりの人間は、君だ、と言いたいのか」
彼女はうなずいた。「もちろん」
「どうして」
「あんたは無理よ。月に行くあいだ、きっと生きてられやしないわ。ケガしてるんだもの。向こうに着陸はムリよ」
「興味深い指摘ではある。だが、私はムーンベースの場所を知っている。君は知らない。何ヶ月月の周りを回っても、見つけられないかもしれないな。うまく隠されているからな。何を探したらいいかもわからなくて……」
「いちかばちかやってみなくちゃ。そりゃ、見つけられないかもしれない。あたしだけじゃね。だけど、あんたが教えてくれるはず。だって、あんたが生きてられるかどうかだって、そのことにかかってるわけでしょ」
「どういうことだ?」
「あたしがムーンベースをうまく見つけられたら、あんたを助けるために宇宙艇を派遣させることもできるじゃない。すぐに見つけられたら、ってことだけど。もし間に合わなかったら、あんたはお陀仏ね。ロケットにはきっと食料も積んであるでしょう? だからあたしはそこそこのあいだは生きていられると思うし……」
ヘンドリックスは素早く動いた。だが傷ついた腕は、いうことを聞かない。タッソーはひょいとそれをかわした。電光石火のごとく彼女の手が飛んできた。銃尾を握っている手が振り下ろされるのがヘンドリックスの目に映る。一撃をよけようとしたが、タッソーの動きの方が早かった。金属の銃尾が側頭部、耳のすぐ上に打ち下ろされる。しびれるような痛みが全身を貫いた。痛みとともに闇が雲のように目の前にたちこめた。彼は地面にくずおれた。
ぼんやりとタッソーが立って見下ろし、つま先で自分を蹴っているのが見えた。
「少佐! 起きるのよ」
目を開け、うめき声がもれた。
「よく聞いて」腰を折った彼女は、銃口を彼に向けた。「急がなきゃ。時間がもうないの。宇宙艇の用意はできたけど、出発する前に、聞くだけのことは聞いておかなきゃね」
ヘンドリックスは頭を振って、なんとか意識をはっきりさせようとした。
「早く答えなさい! ムーンベースはどこにあるの? どうやったら見つかるの? 目印は何?」
ヘンドリックスは何も言わなかった。
「答えて!」
「残念だな」
「少佐、この船には糧食が積んである。数週間は周回できる。そのうち、ムーンベースだって見つけられる。だけどあんたは三十分もしたら、もう生きちゃいないわよ。あんたが生き延びるたったひとつのチャンスは……」言葉がとぎれた。
斜面に沿って立つ廃墟のそばで、何か動くものがあった。灰の下だ。タッソーは素早く振り向き、狙いをつける。発砲した。炎がぱっと跳ね上がった。何ものかがあわてふためいて、灰の中を転がるように逃げていった。もう一度発砲した。クローがはじけ飛び、歯車が宙を舞った。
「見たでしょ?」タッソーが言った。「斥候よ。もう時間はないわ」
「向こうの連中を寄越してくれるんだな?」
「ええ。できるだけ早く」
ヘンドリックスはタッソーを見上げた。食い入るように見詰めた。「君はほんとうにそうするんだな?」一種異様な表情が彼の顔に浮かんだ。死にものぐるいの渇望とでもいうような。「君は戻ってくるんだな? 私をムーンベースへ連れて行ってくれるんだな?」
「あんたをムーンベースへ連れてったげるわよ。その前に、どこだか教えてよ! 時間がないんだから」
「よし」ヘンドリックスは石のかけらを拾い上げ、上体を起こしてすわる体勢になった。「見ろ」ヘンドリックスは灰の上に描き始めた。タッソーは彼に並んで、石の軌跡に見入った。ヘンドリックスは月の表面の大まかな地図を描いていく。
「これがアペニン山脈だ。そうしてここにアルキメデス・クレーターがある。ムーンベースがあるのはアペニン山脈の端を越えて、三百キロほどいったところにある。正確な地点は私も知らない。地球にいる人間はだれも知らないんだ。だがアペニン山脈上空で、まず赤の信号弾を一発、つぎに緑の信号弾を一発、それから赤の信号弾を二発、間隔を空けずに投下する。基地のモニターがその信号をとらえるはずだ。基地は、むろんのことだが、地下にある。向こうは磁気繋留器で誘導して着陸させてくれるはずだ」
「操縦装置は? あたしに動かせるかしら」
「操縦はほぼ自動だ。君がやらなきゃならないのは、適切な時に信号弾を正しく投下することだけだ」
「わかったわ」
「座席は発進時の衝撃のほとんどを吸収する。空気と温度は自動的に調整される。宇宙艇は地球を離れると、無重力空間に入る。方向を月に向けていると、じきに月の上空二百キロほどの周回軌道に入っていく。そのまま軌道を飛んでいれば、やがて基地上空にさしかかるだろう。アペニン山脈の領域に入ったら、信号弾を投下するんだ」
タッソーは宇宙艇にすべりこむと、与圧式操縦席に身を沈めた。アーム・ロックが自動的にセットされる。タッソーは制御装置にふれた。「あんたは乗れなくてお気の毒さま、少佐。あんたのためにここにお膳立てができてたのに、肝心のあんたが月へ行けないなんて」
「ピストルは置いてってくれ」
タッソーはベルトからピストルを抜いた。手のなかで重さを量るように、何ごとか考えている。「ここからあまり遠くへ行かないで。探すのが大変だから」
「わかった。井戸の近くにいることにしよう」
タッソーはなめらかな金属の表面を指でなでていたが、やがて発信スイッチに手を載せた。「美しい船じゃない、少佐? よくできてる。あんたたちの技には感服するわ。ずっとすばらしい仕事をしてきたものね。いいものを作るんだわ。あんたたちの作品、あんたたちの創造したものは、最高の到達点ね」
「ピストルを寄越すんだ」ヘンドリックスはいらだたしげに言うと、手を延ばし、苦労しながら立ちあがろうとした。
「バイバイ、少佐」タッソーはピストルをヘンドリックスの向こうへ放った。銃は音を立てて落ちると、くるくるまわりながら転がっていく。ヘンドリックスは慌ててそれを追いかけた。腰をかがめて拾い上げる。そのとき宇宙艇のハッチが音を立てて閉まった。ロックがかかる。ヘンドリックスは元の場所に戻った。内側のドアも閉まろうとしている。彼はよろけながらピストルをかまえた。耳をつんざくような発射音がとどろいた。宇宙艇は金属のケージから発射し、溶けてぐにゃりと曲がったケージが後に残る。ヘンドリックスは体を丸め、後退した。宇宙艇は湧き上がる灰の雲のなかに打ち上げられ、空の彼方、姿を消した。
ヘンドリックスは突っ立ったまま、長い間、とうとう航跡雲が消えてしまうまで、空を見上げていた。動くものの影すらない。朝の大気は冷え冷えとして、あたりは静まりかえっていた。来た道を、当てもなくぶらぶらと引き返した。動き続けている方が気分がましだった。助けが来るまでには、まだずいぶん時間がかかるだろうから――もし来るとしたら、の話だが。ポケットを手探りして、やっとタバコの箱を見つけた。そういえばみんなタバコをほしがってたな。生憎、タバコは貴重品でね。
トカゲがかたわらの灰の上をすべるように這っていく。驚いたヘンドリックスは、しばらく動けなかった。トカゲはどこかへ行ってしまい、太陽がしだいに高く昇ろうとしていた。ハエが数匹、そばの平たい石の上にとまっている。ヘンドリックスはハエに向かって足を蹴り上げた。暑くなってきた。汗が顔からしたたり落ち、襟を濡らした。口のなかがからからになっている。
やがて歩くのをやめて、瓦礫の上に腰をおろした。救急キットを開けて、麻酔剤のカプセルを数個、飲み込んだ。あたりを見回す。ここはどこだ? 前方に何かが転がっている。地面に長々と横になっている。音も立てず、ぴくりとも動かない。
ヘンドリックスは素早く銃を抜いた。人間のようだ。やがて思い出した。クラウスの屍だ。変種第二号の。ここはタッソーがクラウスを撃った場所なのだ。灰の上に歯車や継電器、金属のパーツが転がっているのが見える。日の光を受けてきらきら光っていた。ヘンドリックスは立ち上がり、そこまで歩いた。足先で硬い体をつついて、向きを一部変えてみる。金属の胴部、アルミニウムの肋骨や背骨が見えた。ワイヤーがあふれ出した。まるで内臓のように。ワイヤーとスイッチと継電器の束。無数のモーターと軸。
腰をかがめた。倒れたときに脳を保護していた囲いが壊れたらしい。人工の脳が剥きだしになっていた。ヘンドリックスは目を奪われた。集積回路の迷路だ。ミニチュアサイズの電子管。髪の毛と見まごうばかりの極細ワイヤー。脳を収めていた囲いに触れてみた。ぱたんと向きが変わった。型番表示が見える、ヘンドリックスは目を凝らした。全身の血が凍った。
4−V。
長いことその表示板から目が離せなかった。変種第四号。二号ではなく。彼らは間違っていた。変種のタイプはもっとあったのだ。三つではなかった。もっとたくさん。少なくとも四種類。そうして、クラウスは変種第二号ではなかった。
突然ヘンドリックスの全身に緊張が走った。何かがやってくる。丘の向こうから灰の上を歩いてくる。あれは何だ? じっと目を凝らした。人影だ。人の形をしたものが、ゆっくりと灰をかきわけながら進んでくる。
彼に向かって。
ヘンドリックスはぱっと身を伏せると銃をかざした。汗が目にしたたり落ちる。人影が近づくにつれ、パニックに陥りそうになるのをけんめいに抑えた。
最初に見分けがついたのはデイヴィッドだった。先頭のデイヴィッドもヘンドリックスを見つけて速度を上げた。あとに続くほかのデイヴィッドたちの歩調も速くなった。二番目のデイヴィッド。三番目のデイヴィッド。そっくり同じデイヴィッドが、彼を目指して、言葉もなく、無表情のまま、やせこけた脚をぎくしゃく動かしながらやってくる。それぞれにぬいぐるみのクマを抱きしめて。
ヘンドリックスはねらいを定めて発砲した。前方の二体のデイヴィッドは木っ端みじんになった。三番目は歩き続ける。そのうしろに、何ものかがいた。彼を目指して静かに灰色の丘を登ってくる。傷痍兵が、デイヴィッドの後ろにぬっとそびえるように。そうして……そうして、傷痍兵のうしろにいたのは、ふたり連れだって歩くタッソーだった。頑丈なベルト、ロシア陸軍のズボンとシャツ、長い髪。見なれた姿、ほんのいましがたまで一緒にいた相手。宇宙艇の与圧式操縦席にすわっていたのと同じタッソーだ。すらりとしたふたりの女が黙りこくって歩いてくる。寸分たがわぬの。
彼らは目と鼻の先まで迫ってきた。急にデイヴィッドは前のめりになると、ぬいぐるみのクマを落とした。クマが地面をすごい勢いでやってくる。反射的に、引き金にかけていた指に力がこもった。一瞬にしてクマの姿は消えた。ふたりのタッソーは無表情のまま、並んで灰の上を歩いてくる。
すぐそばまで迫ってきたところで、ヘンドリックスは銃を腰だめにして撃った。
ふたりのタッソーは消えた。だがすでに新しい一団が丘を登り始めている。五、六人のタッソー、全員が一卵性双生児のような一団が一列になって、彼めがけて早足でやってくる。
おまけにおれはあの女に宇宙艇を与え、信号弾による合図も教えてやったんだからな。おれのおかげであいつは月へ、ムーンベースへ行くことになった。おれのせいで、タッソーは月に行けるようになってしまったんだ。
結局、手榴弾に関しては、おれの見方はまちがってなかった、ということだ。ほかのタイプ、デイヴィッド型や傷痍兵型の知識をふまえて手榴弾は設計されたものだ。あと、クラウス型もあったな。人間の設計によるものではない。おそらくあれは、人の手の及ばない、地下工場のひとつで設計されたのだ。タッソーの群れがすぐそこに迫っていた。よく知っている顔、ベルト、厚手のシャツ、注意深く所定の場所に留めてある手榴弾。
手榴弾!
タッソーの手がついに彼に及んだとき、ヘンドリックスの脳裏に、最後の皮肉な考えが浮かんだ。その考えのおかげで、多少気分はましになった。手榴弾。変種第二号がほかの変種を殺戮するために設計したのだ。その目的のためだけに。
やつらはすでに互いを相手に武器を作り始めている。
The End
どこから人間、どこまで人間
この短篇を読んでいると、1950年代というのがどんな時代だったのか、その時代を知らないわたしにも、その時代の手触りのようなものが伝わってくるように思う。作品全体にたれこめている何ともいえない暗さは、核の恐怖が当時それほど深刻だったということなのだろうし、閉塞感は冷戦と、50年代におけるアメリカの「赤の恐怖」をうかがわせる。繰りかえし出てくる「ひとつが入り込めば、あとがそれに続く」という言葉は、「共産主義者がひとり入り込めば、一気にそこから共産主義の思想が侵入する」という「赤狩りキャンペーン」のパラフレーズだろう(※アメリカの赤狩りについては「リリアン・ヘルマン ――ともに生きる」の4.で少しだけふれている)。ただ、ディックは皮肉にも、その言葉をロシア兵に言わせているのだが。
この作品が発表されて半世紀が過ぎ、ソヴィエト連邦は消滅し、米ソ二大国という図式も崩れてしまった。核兵器が廃絶されたわけではない。だが、日常的にわたしたちはそのことを忘れてしまっているし、核実験が行われた、というニュースを聞けば、恐怖ではなく、まだそんなことをやっているのか、という印象を抱く。おそらくその「感じ」こそが、「核兵器」がいつの間にか大きな問題ではなくなってしまったことのなによりの証左なのだろう。
だが、時代背景や、わたしたちを取り巻く「気分」は変わってしまっても、ディックの作品はやはりおもしろいし、この短篇にも色濃く漂っている不安感や根源的な恐怖感は、時間の経過とは関係なく、わたしたちに直接伝わってくる。
ディックは「人間」と「そうでないもの」の境界に、異常なまでにこだわった。「そうでないもの」が、こっそりとわたしたちの中に入り込み、気がつかないうちにわたしたちの一員にまぎれこんでいる不気味さや恐怖を、繰りかえし書き続けた。ディックは、わたしたちに問いかける。自分たちと同じように生活している「そうでないもの」と人間を距てるのはいったい何なのか。
「変種第二号」にでてくる「そうでないもの」とは、人間そっくりのクローの変種たちだ。福岡伸一の『生物と無生物のあいだ』には、「生命とは何か? それは自己複製を行うシステムである。」と、生命の定義が簡潔になされているのだが、自分たちで修理し、次世代を改良しつつ制作するシステムを持つクローたちは、たとえ金属のボディと歯車と継電器でできていたとしても、この定義からすると「生命体」と言っていいだろう。怖ろしい速さで進化を重ねる「生命体」というわけだ。
外見だけでなく、彼らはさまざまな面において、人間のコピーを行っていった。二号や四号を見ていると、相手の言葉の一部を換えて受け応えをしているのではなく、限られた目的のためとはいえ、自発的に言葉を発し、嘘をつく(二号の言語使用の巧みさは、いくらなんでもこれはないんじゃないか、と思ってしまうのだが)。彼らは言語を使用するし、言語によって思考すると言っていい。
ただ、この言語を持ち、思考するという能力は、やがてクローの行動を、本来の目的、“人間を追いかけ、殺戮する”という目的から逸脱させてしまうだろう。というのも、しばしば「人間の特徴」として言われるのが「本能の壊れた動物」ということだからである。言葉を持つがゆえに、人間として生まれながらにして持つ行動様式にゆがみが生じてしまった人間は、生きることにしても、愛することにしても、いちいち言葉で概念化し、意味づけなくてはならなくなってしまった。同様にクローも、いつしか「なぜ」という問いを発するようになるだろうし、さらには「自分とはいったい何者であるか」と考えるようになるだろう。このとき彼らはつねに一人称複数形で考えるのだろうか。
ヘンドリックスは言う。「ひょっとしたら、殺すべき人間がすべて壊滅してしまったあと、彼らのほんとうの潜在能力が発揮され始めるんじゃないんだろうか」
確かに、クローと人間のほんとうのちがいは、その目的に拘束されているあいだははっきりしないのかもしれない。
だが、この短篇の最後は、その日が来ないことを暗示する。
「本能」が壊れてしまった人間は、「種族保存」という本能すらも見失ってしまった。同じ人間を、ソヴィエト・ブロック、アメリカ・ブロックというやり方で分断し、互いに相手を敵と見なして殺戮を重ね、その結果として、自分たちが開発した兵器によって、人間という種は絶滅しようとしている。だが、その手助けをしてしまい、自責の念にかられていたヘンドリックスは、最後に予見するのだ。人間をコピーし、改良を重ねたクローたちも、同じように変種間の殺戮を開始した。人間は変種第二号によって、絶滅してしまうかもしれない。だが、近い未来において、変種第N号と変種第N’号は、クロー自身を絶滅させてしまうような殺戮兵器を開発させるだろう。生まれたばかりの「クロー」という種の寿命は、それほど長くはあるまい、と。
ディックは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』のなかで、人間とそうでないもののあいだに、「相手の生命を尊び、それに共感できるかどうか」という線を引いた。この短篇のなかでも、変種第二号や第三号の顔が、しきりと「無表情」と描写されるように、感情の有無を人間かどうかの基準としているのかもしれない。
だが、ほんとうにディックはそう考えていたのだろうか。そう考えていたとしたら、あれほどそのテーマで作品を描くことはなかったように思える。ディック自身、その答えを十分だとは考えていなかったからこそ、執拗なまでに問題にし続けたのだろう。
変種第二号が、ほかの変種たちを殺戮するための武器を開発したのは、変種第二号こそが唯一の正統な種であると考えたからだ。この判断は、「感情」とどこまでちがうのだろうか。
初出March.31-April 18 2009 改訂April.24, 2009
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