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What's new?


♪ みなさま、こんにちは。「やればできるじゃん」(自画自賛)の陰陽師です。引き続いて「金魚的日常リターンズ 後編」をアップしました。

♪ いや、たいしてやることもなかったんですけどね、ブログバージョンと、ちょーっとだけ変わってます。どこがどう変わってるか、なんて確かめないでね。

♪ 古来からネコを扱った文学作品はいろいろあります。エピローグ、何にしようか迷いに迷ったのだけれど(百閧フ『猫の耳の秋風』も捨てがたかった)、梶井基次郎を引用している阿部昭の文章から引いてみました。梶井基次郎の『愛撫』は青空文庫で読めますから、興味を引かれたかたは、ぜひ、そちらをお読みください。

♪ この基次郎の『愛撫』、あと『桜の樹の下には』、『城のある町にて』、この三つの短編は、わたしが中学二年のとき、現国の先生が授業中に読んでくれたのが最初です(わたし、この先生が好きだったんです)。家に帰って、寝転がっているヴァーミヤンの耳を、しげしげと観察したときのことを、改めて思い出しました。

♪ こんなふうに考えると、過去って、どこかへ流れていってしまうのではなく、自分の内側の深いところに留まっているのがよくわかります。そこへどんどん下りていって、引き出すことができる。そうして、いま、ここにいる自分が、その過去を、もういちど生き直すことができる。ネコたちのことを思い出しながら、改めてその観を強くしました。

♪ 過ぎゆく日々のなかで、いろんなことが起こります。つらいこと、くやしいこと、悲しいこと、そうして、楽しいことや、うれしいこと。その多くは、時間の経過とともに薄れていったり、忘れてしまったりするのでしょう。だけど、それはどこかに行ってしまうのではない。自分のなかに留まっていくのだ、そうして、いま、生きているわたしとともにあるのだ、と思います。

♪ 蒸し暑い日が続きます。なんとかガンバッテ、つぎはアンダーソンアップしますから、お楽しみに。
"May force be with you!"
それじゃ、また♪


July.05,2005



♪ いやー、ほんとうにお久しぶりでございます。
やっと更新ができました。ほんとは順番が逆なんですが、なんとか地獄の夏休みオシゴトが始まる前に、せっせと更新していきたいと思っています。

♪ まず第一弾は、つい先頃までブログで連載していた「金魚的日常リターンズ」のまずは前編を。
これはサイト更新のための企画でございまして、翻訳の推敲をしながら、ブログの更新もしていこう、という苦し紛れの思いつきでした。

♪ そもそもは電車の中で、向かいの席の人が「ねこのきもち」という雑誌を読んでいたのを目にしたのが発端です。あの雑誌には、いったいどんなことが書いてあるんだろう。ねこのきもち、なんて、人間がうかがい知ることができるんだろうか。そんなことをああでもない、こうでもない、と考えるうちに、わたしが知っていたネコたちのことをお話ししたくなったんです。

♪ まずは、前編を。たぶん明日か明後日には、後編をアップできると思います。だから、また近いうち、遊びに来てくださいね。

♪ ネコを飼っていらっしゃるかたに。そうして、過去、ネコを飼っていらっしゃったかたに。それから、ネコは飼ったことがない、というかたにも。

♪ それじゃ、また。近いうちにお会いしましょう。


July.04,2005



♪みなさま、お久しぶりでございます。手を入れ出すとキリのない翻訳ですが、なんとかアップまでこぎつけることができました。サキ・コレクションとして、短めの短編がみっつです。このなかのどれかひとつでも、おもしろいものが見つかれば、これほどうれしいことはありません。

手を入れながら、これを訳していた当時のことを思い出していました。短編を三つ、ブログに連載していた時期も比較的長かったので、その間にもいろいろなことがあったなぁ、と。

なによりも大きなできごととして、尼ヶ崎の列車脱線事故がありました。諸関係から、他人事というよりは、もっと身近な出来事として、衝撃を受け、さまざまに考えたのです。

事件からしばらくたって、被害に遭われた方のさまざまな「美談」が紙面をにぎわしたころがありました。よくあることなのだけれど、わたしはいつも、そういうものを見るたびに、耐え難い思いに襲われます。

亡くなられた方は、ほんとうにお気の毒だと思います。普通に仕事や学校に行こうとして、電車に乗って、そこで思いがけずに事故に遭い、生涯を終えてしまう。そんな偶然とはいったい何なのか。偶然に生の側にいるわたしたちは、そのことをどう考えればよいのか。

亡くなった方々の生きた日々の「物語」は、語られなければなりません。それは、残った者の義務であると思います。けれども、新聞などに載る「物語」、ありきたりで、一般化され、血の通わないものとなった「物語」は、生き、死んだその人の「物語」とは、似て非なるものです。そうした一般化された、一種の「美談」となった物語を消費することは、そうした方々の、ほんとうの生のありようといったものを消費しようとすることなのではないのか。

一連の報道を見ながら、そんなことを考えていました。 わたしたちは、あらゆるできごとを「物語」として見ています。「物語」とわたしたちの関わり、というものを、もっと深く考えていきたい、と思ったできごとでした。

♪気がついてみれば、五月も終わりです。ブログのほうに連載した記事も、もうひとつHTMLにしなきゃいけません。やることはあとからあとから出てくるけれど、まぁぼちぼちとやっていますので、ときどき遊びにきていただければ、これほどうれしいことはありません。

♪それでは、また。徐々に蒸し暑くなってきますが。暑ければ暑い、で、楽しいこともある、んじゃないかな? みなさまも良い日々をお過ごしください。


May.29,2005



♪お久しぶりでございます。また挨拶戻っちゃいましたね。
なんとなく思いつきで始めた小ネタ集、傑作が集まったので、独立してひとつのコラムにまとめさせていただきました。

♪ " Coffee, Tea, or Me? " なんて、いきなりフライト・アテンダントさんに話しかけられたら?
ほとんどあり得ない設定ですが、自分だったらなんて答えるだろう、どう答えたら笑えるだろう、って、みなさんもどうか頭をひねってみてください。これはおかしいぞ、笑えるぞ、というネタができましたら、ぜひぜひ投稿、よろしくお願いします。もちろん、アズマさんとエリカさんに突っ込まれてみたい方も、ぜひぜひよろしく♪

♪肝心のサキの翻訳、三編まとめてアップって考えてるので、明日か、明後日くらいになるかな。いや、がんばって今週中にはアップしますので、そちらもよろしく。

♪気がついたら五月も半ばを過ぎました。相変わらず慌ただしく、あたふたとした毎日です。それでも去年から始めた仕事も、ちょっとずつ慣れ、ほんの一年のほどの蓄積でも、ずいぶんちがうものだな、と思ったりします。
そんななかで、1ヶ月ちょっと前だったら、言われても絶対に信じなかったようなwonderful surpriseが起こったり、かと思ったら、頭に来ること、落ち込むことが起こったり。いろんなことがありつつ、日は過ぎていきます。いろんなことがあるから、楽しい。そんな毎日に、少しずつ、刻み目をつけていけたらな、と思っています。
その刻み目の間隔が、若干広いのが心苦しいのですが。気が向いたら、また遊びにいらしてください。

♪それじゃ、また。ステキな五月の日々をお過ごしください。


May.17,2005



♪お約束通り、昨日に続いての更新です。やればできるじゃん、と自画自賛。

『象を撃つ』これも翻訳の推敲は二週間ぐらいまえに終わってたんだけど、ずるずるとアップを引き伸ばしていました。すいません。

また例によってアップする前に、細かいところをチョコチョコいじったりして、十何回目かにこの作品を読んだのだけれど、どうしたって、このモウルメインがどんなところかわからないんです。文章のなかから浮かび上がってくる、「棕櫚でふいた」「竹の小屋」、それがうねうねと続く迷路のような家並み、あるいは、果てしなく続いていくぬかるんだ泥田。

ヴェトナム戦争の映画などで断片的に見た情景を頭に描きながら、ことばをさがしていくわけですが、どこまでわたしの日本語が「ほんとうらしさ」を伴っているかどうか。

わたしたちは、程度の差はあるけれど、だれもがみな、一種の「井の中の蛙」であることにはちがいないと思うんです。アメリカ映画に出てくる日本のイメージが、どうしようもない歪みを持っているのを指摘するのは簡単なことだけれど、現実に自分自身がさまざまなレヴェルで、同じような歪みをもってものごとを見、考え、受けとめている。それをいったいどうしたらいいのか、わたしにはよくわかりません。

たとえば『象を撃つ』にしても、オーウェルがほんとうに象を撃ったかどうか、そのような現場に行き合わせたかどうか、は、よくわからないところがある。それでも、それが「事実」(かっこつきの)であれ、フィクションであれ、言ってみればそんなことはどうでもいいことだとも思うのです。なんというか、その「どうでもよさ」というのが「歪み」を超えられるなにかではないか、みたいなことを、漠然と頭のなかで転がしているのですが。

なんかよくわからない話をしてしまいました。こんなことを、あーでもない、こーでもない、と考えてるから、部屋に戻ったとき、駅前のスーパーで買ったはずの買い物袋がどこにもない! と、家捜しするハメになるんですが(ええ、自転車のカゴに入れっぱなしにしてました。アイスクリーム買ってなくて良かった……)。

ということで、それじゃ、また。次回の更新は、きっともっと早いはずです♪


April.25,2005



♪こんにちは。おひさしぶりです(なんかいつも書き出しはこのセリフ)。

♪やっと更新できました。見捨てずにこのサイトをご訪問くださった方々、ほんとうに、心からの感謝を申し上げます。
『英会話教室的日常』、これは数年前にある媒体で発表したものを、形式を改めて、加筆・修正したものです。
当時、シチュエイション・コメディみたいなものが書きたかったんですね。英会話教室を舞台に、マンガ的な登場人物を配置して。何かその当時考えていたことを懐かしく思い出しました。

実はこれ、連載時に某英会話教室から抗議が来たんです。英会話教室や講師のイメージを著しく傷つけるものである、と。全然メジャーな媒体ではなかったので、よくもまあこんなところまで、という印象のほうが強かった。
なにしろ地味なサイトで、ほそぼそとやってますから、まさかここにまで抗議はこないと思いますが、いや、これはフィクションです。登場人物もすべて現実には存在しないと、ちゃんと銘記してありますので(リードの文章、あるミステリのシリーズの冒頭のパクリなんですが、わかった人、手を挙げて!)どうか関係者の方々、万一目に留まるようなことがあっても、笑い飛ばしてやってください。抗議なんかしないでね♪ 貴教室のことではありません。

♪いやはや、それにしても忙しい、忙しい、と言っているうちに、どんどん季節は流れ、はやゴールデン・ウィークの声を聞くころになりました。いやー、関係ないっす(溜息)。細かい仕事、ぼこぼこ入ってます(落涙)。どこにも行けません(号泣)。キンギョの水槽のメンテもしなきゃいけないし。いやいや、愚痴をこぼしてばかりでは始まりませんね。なんとかブログやサイトの更新も、せっせとやっていく決意です。

オーウェルがまだ残ってるんですけど、なんとか明日中にそっちも載せたいと思います。

♪桜も終わって、ハナミズキがあちこちで咲くころになりました。ハナミズキ、もともとは日本にはない種で、アメリカから来たらしい。木といっても、いかにも園芸用という感じの、華奢な木です。この木が白やうすいピンクの花をつけているのを見ると、いつもバレリーナの女の子を思い出します。まだ、大人になるまえの、華奢な女の子が、背筋をピンと伸ばして、腕をひろげてポーズをつけているような。華やかだったり、深みがあったりするわけではないのですが、通り道や庭なんかに植えてあるのを見ると、いつもそんなことを思い出します。

♪ということで、それじゃ、また。ええ、明日にはオーウェル、載せますとも。


April.24,2005



♪もうすぐ三月も終わりだというのに、インフルエンザに罹って、寝ていました。ほんと、四千円(税別)も払って、予防接種を受けていたのに、です。「予防接種受けてるんだったら、軽くてすみますよ」と言われたのですが、三日間ほど高熱が続いた後も、だらだらと微熱が引かず、参りました。これでも軽くすんだ、と言えるのか。何のための予防接種なんだか、と愚痴のひとつも言いたくなります。

♪『小説のなかの「他者」と現実の「他者」』アップしました。ブログに掲載したものに、かなり手を加えてあります。それでもまだ書き足りない部分がいっぱいあって、志は高いんだけど(無謀ともいう)、考えがついていってない感じです。ことばがたらないところ、ここはこうなんじゃない、と思うところがありましたら、どうかご意見、ご感想、お寄せくださいね。

♪なかなか更新もできませんが、見に来てくださる方には、ほんとうに感謝しています。いらしてくださって、ありがとう。そして、また遊びにいらっしゃってください。

♪それじゃ、また。


March.28,2005



♪P.G.ウッドハウスの短編『階上の男』をアップしました。これを読んでハッピーな気分になるか、「けっ」と思うかは、あなた次第♪ わたしがどう思ったか、はヒ・ミ・ツ(あとがきを読むとだいたい見当はつくけれど)。

ただウッドハウスのことを調べていて、ジョージ・オーウェルが書いた文章に出くわしたんですが、こっちのほうがわたしにとってはずっと興味深いものでした。有名人というものは、確かに「記号」として扱われるのだなぁ、と。In Defence of P. G. Wodehouseは英文で全文が読めますので、興味がおありの方はご覧になってみてください。オーウェルといえば『象を撃つ』、岩波の『オーウェル評論集』を始め、あちこちのアンソロジーには所収されていて、ずいぶん翻訳は手に入りやすいのですが、そのうち訳してみるかもしれません。

♪あと、『英語の詩を読む』は「見えない」というご指摘をいただいたので、タグを打ち直しました。実はこのサイト、初心者のわたしがhtmlのお勉強をかねてやっているので(笑)、実は相当に危うい。見にくいところがありましたら、どうかお知らせください。

♪毎年、冬の終わりくらいになると、胃が痛むんです。で、今年も恒例のそのシーズンがやってきて、病院に行きました。新しいお医者さんだったんですが、まぁいろいろ症状とか話すうち、「冬と夏、どっちが好きですか?」と聞かれた。なんでも、人間の身体というのは、夏向き、冬向きとあって、冬向きの人は夏が嫌いで、夏バテしやすい、夏向きの人は冬が嫌いで、風邪なんかを引きやすいんだそうです。うーん、そういうものなのかなー、と思いました(半信半疑)。お医者さんからそんなことを聞くとは思ってもみなかったので、ちょっと驚きました。まぁ出してもらったのは、お馴染みの制酸剤なんですけど。

♪寒くなったり暖かくなったり、気温の変動は続きます。みなさま、お身体にはお気をつけて。あと、花粉症の方も。どうかご自愛なさってください。それじゃ、また。


March.18,2005



♪「『文学を読む』ことについていまさらながら考えてみる」、アップしました。
なんらかの形で『ヨーロッパ文学講義』『ロシア文学講義』について書いてみたくて、ひねり出したのがこれなんですが、結局『ヨーロッパ…』のほうの、実際の講義に入る前の「良き読者と良き作家」についてしかふれていません。ただ、もうこれはほんとうに読むしかないんです。これだけ読んだって仕方がない。ナボコフが愛した(愛していない本も『ロシア……』のほうには扱っているけれど)オリジナルを読み、『講義』を読み、ナボコフの目を借りてもういちど読む、まぁそういったひたすらに時間を贅沢に使うための本なんですが。わたしが初めてこの本を手にしたときは、まだ『マンスフィールド・パーク』が翻訳されてなくて、仕方がないからペンギン・クラシックスのペーパーバックを買ってきて、それでもナボコフが言っていることを理解したくて、苦労しながら読んだ記憶があります。

「作者の死」とか「規範化」とか、書き始めるまえはいろいろ考えてたこともあったんですが、うまく入らなかったんで、全部落としました。結果、わりとラクに読めるものになったんじゃないかな、と思います。相変わらず格調低い文章ですが。
なんでもうちょっと知的な香りが漂う文章が書けないのかなー。書いてあることは十分に把握できなくても、すごく知的なことが書いてあるような気がする、ありがたい感じがする、っていう文章があるじゃないですか。一度でいいから、そういうのが書いてみたい(笑)。残念ながら、ある程度、自分の書きスタイルというものができてしまっていて、もはや「ないものねだり」に近いのですが。
それはともかく、「作者の死」はブログのほうのコメントのところでちょっとだけふれてます。そのうち何らかの形で書いてみたいと思っています。

♪ところでね、このごろショッピング・モールなどを歩いていると、「いらっしゃいませーーーーーぇっ」(ぐーっと伸ばしていって、語尾でひょいっとあげる)っていうおねえちゃんたちの声があちこちでこだましています(わたしのいる地域だけなのかな)。作り声というか、ハイトーンなのに潰れて出てくる発声は、何かすごく不思議な感じで、それがひとりならともかく、同じような声、同じような発声であちこちから聞こえてくるのは、いささか不気味ですらあります。
考えてみれば、その昔、商店街の一角にあった市場では、八百屋さんが手を叩きながら呼び込みをやっていた。さらにさかのぼれば、さおだけ売り、金魚売り、物売りに応じていろんな呼び声があった。
そういうものの一変種(さしずめ「販売スタッフ」の呼び声、とでもいうところでしょうか)と考えられないこともない。考えてみるとおもしろいものです。みなさんがお住まいの地域ではいかがですか?

♪三月になったというのに、寒いです(前も書いた)。ほんと、寒いとそれだけで胃は痛くなるし、肩は凝るし、ロクなもんじゃありません。このクソ寒いのに、肘まで水につけながら、キンギョの水換えを週に一回はやらなきゃなりません。水槽、ひとつ増やしました。なにか呪われているような気さえします。
寒い日が続きますが、みなさんもお身体には気をつけて。それじゃ、また。


March.06,2005



♪三月になったけど、まだまだ寒いですね。
「英語の詩を読む」をアップしました。一部、先行訳を参考にした部分もありますが、全部翻訳はオリジナルです。
どういう形にしようかと思ったんですが、とにかくまず原音の響きを感じてほしくて、原文を載せることにしました。訳はあくまでも意味を理解するうえでの参考にしていただけたら、と思っています。

「児童文学評論」のメルマガを読んでいるんですが、そこで翻訳家の金原瑞人さんがおもしろいことを書いていらっしゃいました。
>アマゾンとかで、翻訳本の読者感想を読んでいてたまに見かけるのが、
>「原書はそんなにむつかしくないから、絶対に原書で読むのがお勧め! 原書
>のほうがずっとおもしろい。翻訳、ちょっとちがうなと思うところあるし…
>…」という内容のもの。
> あたりまえじゃん、と思う。
その「あたりまえじゃん」の理由として、
1.文章から受ける印象は個人的なもの。翻訳家の印象と自分の印象が一致するはずがない。
2.読み速度が違う。時間をかけて読むことで、細かいところまでしっかりと読みとっている。
なんだそうです。

1点目に関しては、まさにその通りなんですが(事実この点に関しては、歴史的・哲学的に深い深い考察がさまざまになされていて、「翻訳の不可能性」とか「翻訳者の使命」とか、いろんなことが言われてます)、2点目に関しては、んー、どうかなぁ、という感じもします。

おもしろく読もうと思ったら、どうしてもある程度のスピードは必要です。清水幾太郎は、本を書く方は「観念の急流の中で」書いているから、読む方もその急流に乗らなくてはならない(『本はどう読むか』)と言ってるし、経験的にも時間をかけて読むより、一気に読んだものの方が、しっかり読めているような気がする。

ただ、翻訳するとなると、話は別です。一語一語日本語に置き換えながら、あれ、前はずいぶんいいと思ったのに、それほどでもないなー、とか、あー、こんなに深い意味があったのか、いったいどこを読んでたんだろう、とか、うー、いったい何を言ってるんだ〜、とか、まぁそんなことを延々と考えながら訳していったわけです。個人的には大変おもしろい経験でした。どれかひとつでも、読んでくださった方の気持ちにぴったりくるものがあれば、これほどうれしいことはありません。

♪ということで、それじゃ、また。早く暖かくならないかなー。


March.02,2005



♪「声に出して読むということ」、ブログ掲載時のものに大幅に加筆・修正してアップすることができました。
そもそもこういうことを考えるようになったのは、去年の春先、渡辺保の『黙阿弥の明治維新』を読んだのがきっかけです。この本は、江戸最後の狂言作家であった河竹黙阿弥が、実は現代演劇の創始者でもあったことの論証が何よりもポイントで、いわばずいぶんずれた、というか、好き勝手な読み方をさせてもらったのですが、とにかく、ことばのリズムを感じるうちに、意味が脱落していく、という点が非常に興味深く、ばくぜんと頭のなかで転がしていたんです。
それが先日、尼ヶ崎彬の『ことばと身体』という本を紹介していただいて、うまいぐあいに結びついた。
まだ十分考えきることができていない部分も多々ありますが、大変楽しく書くことができました。
もしこれを読んで、声に出して読んでみようかな、と思われる方がいらっしゃいましたら、これほどうれしいことはありません。
特に竹内俊晴の『日本語のレッスン』(講談社現代新書)は、息の吐き方、日本語の発生のやり方から書き起こしてあって、大変実践的ないい本です。音読に興味を持たれた方は、ぜひ読んでいただきたい本だと思います。

♪まだまだ寒いですが、もうすぐ冬も終わり。ふと見ると、キンギョがまたずいぶんでかくなっていました。でかくならないキンギョは、病気というわけでもなさそうなのに、弱って数匹死んでしまいました。どう考えても水槽を増やさなくてはならないようです。うーん、頭が痛い。

♪先日防災点検の人が来ました。ベランダにバケツ三つならべて水の汲み置きがしてあるのを見て、感心してくれました。キンギョの水換え用のために汲み置きをしてるんだとは、言えませんでした。
水換えをするときには、このほかに、ウチで一番デカいパスタ用の鍋とやかんいっぱいに湯を沸かし、水温を測って調節しながら水換えをするのです。すんげー大変です、キンギョ。
この報われることのない大変さをだれかに知ってほしいので、またそのうち『金魚的日常』のつづきを書くかもしれません。まぁいつになるかわかりませんが、そのときはまたよろしく。

♪まだまだ寒いので、みなさまお身体にはお気をつけて。それじゃ、また。


Feb.20,2005



♪お久しぶりでございます。短編というか、中編といってもいいぐらいの長さの『閉ざされたドア』、やっとアップすることができました。読後感は決して良いものではないのだけれど、ウォートンのほかの作品同様に、主人公はいつまでも心に残ります、って、残らない場合は、ひとえにわたしの日本語がまずいんです。ええ、そういうことです。

これを訳しながら、ひとつのできごとを思い出していました。
数年前のことです。ある場所を歩いていたんです。L字型の通路で、角を曲がった向こうに人がいるのが見えました。
手すりを両手で握って、鉄棒でもするみたいに身体を浮かせています。七階なのに危ないなー、と思いながら、なおもそちらに歩いていくと、その人もわたしに気がついて、身体を下ろし、後ろのドアが開くのを待っているように向きを変えました。
そこからさらに渡り廊下で隣の建物に行って、わたしはすっかりその人のことを忘れてしまいました。数時間後、救急車の音がして、その階の別の場所から人が飛び降りたという話を聞きました。
ぎょっとしました。その人が自殺しようとしているなんて、まったく頭を過ぎりもしなかったんです。
しばらく落ち込みました。なんというか、自分のずれ具合に。「柵に身を乗り出し」ている状態を、「鉄棒してる」と思ってしまうなんて……。なんでまったく気がつかなかったんだろう。何かできたかもしれないのに。
あとでその人は一命を取り留めた、という話を聞きましたが、それでもわたしの気持ちはしばらく晴れませんでした。
なんか、鈍いんでしょうね(溜息)。

別にだからといって言うわけでもないんですが、自分だって相応に辛い経験はあります。端からどう見えるにせよ、そのひとの抱える問題は、そのひとにとって、のっぴきならないほど切実なものです。それを「甘えている」などと言う荒っぽい精神のもちぬしとは、あまりつきあいたいとは思いません。それでも、やはり「自ら死を選ぶ」という行動に、わたしはなんら意義を見出すことはできません。

おそらく、生きていることでたったひとつ確かなことは、自分がいつか死ぬ、ということです。死に向かって、緩慢に歩いている。けれども、「死」そのものを主体として経験することは、絶対にできません。それが「死」という経験の特殊な性格としてあると思う。「私」に起こりながらも、「私」としては経験できないできごとです。そうした行為を自分で選ぶ(というか、単にその時期を自分で決めるだけに過ぎないということだと思うのですが)ことに意味があるとは思えない。

だけど、こういうことを考えても、実際の人を見て、全然気がつかない、っていうのは、どうしようもありませんよね。あー、やっぱり鈍いんだ〜(また落ち込んできた)。

駅からの帰り道、いい匂いだ、と思ってあたりを見回したら、塀越しに蝋梅が咲いているのが見えました。夕闇のなか、透きとおるほど澄んだ黄色い小さな花がいくつも咲いていました。いろんなことがありながら、日は続いていきます。
それじゃ、また。


Feb.10,2005



♪なんだかや〜っと更新できたような気がします。いや、仕事が忙しくて……なんて書くと、忙しいっていうのに忙しいんだ、なんて言われちゃいそうですが。
英語をふつうの人よりは、ちょっとだけよけいにやってきました。あまり勉強してきた、という意識はなく、強いて言えば、英語のなかに身を置いてみた、という感じ。
長期間アメリカやイギリスへ行ったわけではありません。むしろ、意識的に、一方の重心を「日本語」に置きながら、英語というものに関わっていこうとしてきました。
長いこと、日本語と英語のちがいについて、何か書いてみたいと思っていたんです。で、できあがったものが『「私」と「I」の狭間で』なんですけど、こうやって読み返してみると、なんとも中途半端な印象を受けます。ま、いまのわたしに書けるのは、この程度、ということで。もし良かったら、読んでみてください。
もうひとつの『英語大変記』は、これはまぁわたしが英語をどんなふうにやってきたか、という内幕ですね。ほんと、上でも「勉強してきた、という意識はない」と書いていますが、いわゆる勉強、しなかったんだろうなぁ、だからこんなふうに全然覚えてないんだろうなぁ。中高時代の先生、ごめんなさい。そういえば授業中に本ばっかり読んでたっけ……。

♪センター試験、終わりましたね。わたし自身はセンターに関してはロクな思い出がないんですが、幸せな思い出がある人もいるみたいで、「ボクはセンターで英語と数学と物理が満点だった」と自己紹介された経験があります。
そういうときって、なんて返事をしたらいいんでしょうね?
「すごいですねー」(無難なところで)
「すごい記憶力ですねー。そんな前の試験の点数まで覚えてらっしゃるなんて」(嫌味がチト露骨すぎる?)
「まー、試験の点数っていうのは、試験の点数ってことで、それ以上でも、それ以下でもないんじゃないんですか?」(実感)
何かおもしろいの思いついた方、教えてくださいね。

♪ということで、また。
寒いので、みなさまお風邪などお召しになりませんよう。


Jan.17,2005



あけましておめでとうございます。

森鴎外は、新聞社から依頼された新年用の原稿に、葬式の話を書いた、と中村光夫が書いていたように記憶しています。葬式というのは、人間にとって一番大切な儀式であって、正月にこそふさわしい、と言って。
結局、新聞社の側はその原稿をボツにせざるを得なかった。
いまでこそ、文豪と崇め奉られている鴎外ですが(その割には、教科書に載っている『舞姫』ぐらいしか読んだことがない人も多い)、当時、必ずしも主流ではなく、とくに花袋らの自然主義文学が一世を風靡したころになると、世間に背を向けて歴史小説を書いていたような印象があります。おそらくその「ボツ原稿」もその時期のことではないか、と思います。

暮れだから、正月だからといって、人の生死は関係ありません。年末のスマトラ沖地震の被害は、死者15万人とも報道されており、それだけの人が一時に亡くなる、というのは一体どういうことなのだろう、と考えずにはいられません。

スマトラ沖、と聞いて思いだすのは、金子光晴の『マレー蘭印紀行』です。
「うつくしいなどという言葉では云足りない。悲しいといえばよいのだろうか。あんまりきよらかすぎるので、非人情の世界にみえる」と詩人が書いたその島が、いまどうなったのか、と思うと、胸が痛みます。

伝染病の蔓延など、二次的な被害が最小限で収まることを祈りつつ。

季節ネタではありますが、ブログに書いた「年頭の挨拶」がそれなりの分量だったので(実はこういうのは書いてみるまでどのくらいになるかわからないんです(^^;))、こちらにもアップしました。"The Working Song"、ブログに頂いたコメントも一緒にアップさせていただきました。

♪ということで、今年もヨロシク、です。
それじゃ、また。


Jan.5,2005



♪いやぁ、暮れちゃいましたねぇ。大晦日ですか? 驚きですね。一年が早い早い。

♪サーバーの短編をアップしました。ブログ掲載時とはタイトルが変わっていますが、その事情については前書きでちょこっとふれています。
え? 何か忘れていないかって? 忘れてはいませんけど、いろいろあって……。そちらは年を越しちゃいましたが、そのうちに。
今年最後というので、軽く読めて、読後感の良い、しかもラクに訳せるもの(^^;)という基準で選んでみましたがいかがでしたか?

♪今年は、個人的にはいろんな面で大きな変化のあった年でした。やってることがそれほど変わったわけではないにせよ、立場が変わったことで、とまどうことも多かったように思います。
半年ほどして、新しい環境にもなれたころ、ブログを始めて。なんとなく始めたブログでしたが、書きたいことややってみたいことが次々出てきて、サイトを開設するところまで行きました。
ブログを始めていなかったら、ルーティンワークに追われるだけの日々だったかもしれません。翻訳にしても、文章書きにしても、やりたいと思っているだけでは、なかなかできることではありませんから。
わたしのささやかな挑戦におつきあいくださったみなさま、どうもありがとうございました。
ということで、最後にジョン・レノンのことばを。

"Life is what happens to you while you're busy making other plans"(BEAUTIFUL BOY)
   「人生とは、何かを計画しているとき起きてしまう別のできごと」

みなさまに来年もすてきな「別のできごと」がたくさん起こりますように。


Dec.31,2004



♪「この話 したっけ」という項目を新たに追加しました。
本の話もちょこっと出てくる、軽めのエッセイという感じで読んでいただければ、と思っています。
ブログのほうでとりあえず三本書いてみましたが、不定期連載、ということで、忙しくなったり、ネタに困ったりすると出てくるかと思いますので、なにとぞ以降もよろしく。

♪『家族の友人』、手を入れ出すとキリがなくなって、ほとんど訳し直しに近い状態になっています。こちらの方もなんとか年内にアップしたいと思っていますのでいましばらくお待ちを。

♪実は冬休みというのは、例年、長時間労働をしなければならない時期なんです(どうもここで忙しい、と言い訳ばかりしているような気がするな……)。『読みながら考え……』のほうにも書きたいことは溜まってるし、やってみたい翻訳もいくつもあるんですが、なかなか書くところまでは至りません。
変わり映えのしないサイトなんで、毎日いらっしゃってもあまりいいことはないかと思いますが、ときどき遊びにいらっしゃってください。

♪ところで。「この話 したっけ」というタイトル、どこかで見たことがあるな、と思われた方はいらっしゃいません? 実はこのタイトル、パクリです(笑)。
ひところ、早川書房が文芸書の翻訳に力を入れていた時期がありましたよね。早川だけではなく、毎月何点も新刊が出て、ちょっとした翻訳バブルの時期でしたが、もう十年ぐらい前になるでしょうか。その時期、本の間に毎月「新刊案内」が挟んであって、それに青山南の連載コラムがあった。そのタイトルが「この話 したっけ」でした。アメリカで話題の本が紹介してあって、それにちょっとしたコメントがついていたような記憶があります。
これが読みたくて、早川の新刊本はいつも手に取っていたのですが、いつの間にか新刊を読むことがすっかり少なくなって、見ることもなくなってしまいました。いまも続いているのかな。どなたかご存じの方がいらっしゃったら、教えてください。

♪だけど「クリスマスに思う」に書いてはみたものの、今年はジョン・レノンの"Happy Christmas"、なんだかあまり聞かないような気がします。マライア・キャリーの脳みそが緩みそうな歌はあっちこっちでかかっているけれど。
"War is over if you want it"なんて確かにずいぶん楽天的だし、いまの情勢でこんな歌にどれだけの力があるのか、相当に疑わしくはあるのだけれど、それでも、いろんな事情でかからなくなってしまったのなら、それはずいぶん怖いことだと思います。
わたしが好きなのはギルバート・オサリバンの
"Christmas Song"

(大意)
ホワイトクリスマスなんて夢見てるわけじゃない
一日中、平和な日だったら、って思ってるだけさ

メリー・クリスマス、そしてハッピー・ニューイヤー
恐怖のうちに暮らしている人にそのことばを
それから、すぐに祈ろうじゃないか
その人たちが求めている平和は、すぐに戻ってくることを

ホワイトクリスマスなんて夢見てるわけじゃない
一日中、平和な日だったら、って思ってるだけさ

みなさま、よいクリスマスを。


Dec.23,2004



♪みなさま、お久しぶりです。
本業のほうがやたら忙しくなって、ブログのほうを続けるだけでせいいっぱい、なかなかこちらまで手が回りませんでした。おまけに風邪を引いちゃったおかげで、喘息のほうが少し悪くなり、薬を飲むと頭がぼけちゃって、何を書いてるんだかよくわからなくなる、そんな最悪の状況がしばらく続いていました。
だけど、よくしたもので、仕事がなんとか片づいたら、喘息のほうも良くなる(なんなんでしょうね、やっぱり心因的なものもあるのかな)。そういうわけで、やっとひとつ、アップできました。

♪頭ぼけぼけの状態で書いたブログに、ずいぶん手は入れました。ただ、実際の作品を読まないまま、あらすじだけ読んだっておもしろくもなんともない。こんな文章に何らかの価値があるのかな、という疑いは未だ残っています。マッカーシーについても、書きたいことは十分の一も書けてない。そのうちまた項を改めて、書いてみたいと思っています。

♪最近、ふつうの家でもクリスマスのイルミネーションを飾るようになりましたね。まぁやりたい人がやってくれりゃいいんですが、あれ、どうしてるんでしょう。やっぱり寝るときは消してるのかな。駅からの帰り道、サンタは舞い、トナカイは踊るド派手な電飾の家があるんですが、そこでも
「寝る前にスイッチ忘れんと切っときや」
なんて会話がなされたりしてるんでしょうか。
何かちがうような……。

♪それじゃ、また。


Dec.20,2004



♪やっと『家族の友人』が終わりました。
きつかったです。ストーリーらしいストーリーがないのはわかっていたのだけれど、評論とはまたちがう、ストーリーのない創作の、メアリー・マッカーシーらしい硬質な文体を支えるたの、自分の文章が最後まで見つからなかったのが、何よりも辛かったです。そうした意味で、自分の力の無さを痛感しました(もちろん英語のできなさも)。
ただ、自分ではいい勉強になったのだけれど、こうしたものを自分のノートに書き付けるのではなく、披露していく。ほかのひとに読んでもらう。はっきりいって、そのレベルではないのは、だれよりも自分がよくわかっています。もう少し手を入れたいと思いますので、もうしばらくお待ちください。

♪このあと、ブログの方では、もう少しメアリー・マッカーシーについて書いてみたいと思っています。『家族の友人』よりはおもしろいものになると思うので、お楽しみに。

♪「本好きへの100の質問」というのに答えてみました。
よろしかったらのぞいてみてください。答えるのは楽しかったけれど、えらく時間がかかってしまった(HTMLにするのが大変だった)。

♪えと、一応「翻訳」と称したものを載せているので、自分のレベルを書いておきます。
翻訳に関しては、一応、五年くらい勉強しています。実践より、むしろ理論面に興味があるんだけど、下訳の経験もあります。
一度、自分のレベルがどのくらいか知りたくて、翻訳の新人賞に応募したことがあります。二次審査までは通過したけれど、賞を取るところまではいきませんでした。確かにプロ(といっても、超一流のプロじゃなくて、とりあえずお金がもらえるくらいの、駆け出しのことを言っています)になる三歩ぐらい手前の力かな、と思っています。
ただ、翻訳は、理論面含めて、ものすごく興味深いです。ずっとやっていきたいことのひとつです。

♪それじゃ、また。


Dec.11,2004



♪『山の上の火』という、エチオピアの民話を集めた本があります(クーランダー、レスロー文 渡辺茂男訳 岩波書店)。
タイトルにもなっているのはこんな話。
主人が奴隷のアルハに賭をもちかけます。寒い夜、山の上で、飲み物も食べ物も着物も毛布もなしに一晩立っていられたら、おまえに畑と牛をやろう。
アルハは、物知りじいさんにその話をする。すると、おじいさんは、向かいの山の岩の上で、おまえのために一晩中、火を燃やしてやろう、と言うのです。
風が吹きつけ、凍え死にしそうな山の上で、アルハは目を凝らして、その火を見続ける。おじいさんが自分のために燃やし続けてくれる火を。そうやって一晩、耐え抜きます。

真っ暗いなか、ちらちらと風に揺れる遠くの火。
この視覚的なイメージと相まって、この話は心に残りました。

ときどき、霧がかかってこの火が見えなくなることもあるけれど、わたしたちはだれでも、こんな火を遠くに持っているのではないでしょうか。
そうして、わたしの灯す小さな火が、遠くにいる人をほんの少しでも暖めていたなら。
それに優る喜びはありません。

♪って、全然更新とは関係ない(ひぇ〜)。
もー、マッカーシーなんてキライです。いつまでたっても終わりゃしない。なんでこんなに苦労するんだろう……。
おつきあいくださっているみなさま、ご辛抱をおかけして申し訳ありません。
忙しい合間を縫って、ぼちぼち訳しているので、いましばらくのご容赦を。

♪それじゃ、また。


Dec.5,2004



♪ブログでやってるメアリー・マッカーシーの『家族の友人』、苦労しています。一応、過去のノートはあるんだけど、いざ訳してみると、「これ、なんのことを言ってるの?」みたいなところがたくさんあって、加えてマッカーシー独特の文体にも手こずってます。
閲覧カウンタの方も、うなぎさがり(笑)。
だれも読まなくなる日も近い感じです。
まぁちょっとずつ読んだって、おもしろくもなんともない、というのはよくわかります。もうしばらくお待ちください(うーん、かといって、すごくおもしろかった、とか、読んでタメになった、とかいうんじゃないんですけどね。強いて言えば、人に対する見方がちょっと変わった、っていう感じかな)。

♪主人公の“フランシス・クリアリィ”、原文ではFrancis Clearyなんですが、この名前は“エリノア・リグビー”でしょうか、それとも“フレールー・ジャック”なのでしょうか?
エド・マクベインというわたしが小学生のころから読んでいるミステリ作家がいるんですけど、この人、超有名シリーズの87分署のほかに、弁護士マシュー・ホープのシリーズも書いてるんです。
そのなかに、いつも決まって出てくるフレーズがある。
マシュー・ホープには、人の名前は絶対に“エリノア・リグビー”型か、“フレールー・ジャック”型のどちらかだ、という持論があるんです。
その名前を歌ったときに四拍子になるか、二拍子かということじゃないかと思ってるんですが、そういう意味じゃないのかな。
だれかご存じの方がいらっしゃったら、教えてください。
四拍子か二拍子か、といったら間違いなく“フランシス・クリアリィ”は“エリノア・リグビー”型ですよね。
ただ、わたしは“フレールー・ジャック”を幼稚園の時に習ったのですが(カトリック系の幼稚園で、フランス語を教える、というのが売りだったんです)、完璧に「♪ふれー|るー|じゃっ|くぅー」と四拍子で歌っていました(そのあとは「どーねーぶー、どーねーぶー」と続きます。もうこんなものフランス語でもなんでもない)。

♪そういえばそのころ、どこかで流れていたナット・キング・コールの『クリスマスソング』を耳にして、「この人の声、聞いたら、お風呂に入ったあとのような気がする」と姉に言って、笑われた記憶があります(いまだに言われる)。
思うに、さわやかなんだけど、胸の内が暖かくなったような気がする、ってことが言いたかったはずなんですが、そんなに悪くない言い方だと思いません? 笑うなんてひどいですよね。
少なくとも、二十年もこの季節が来るたびに引き合いに出して笑うほど、ひどい喩えではないはずだ。
まったく、姉なんてものは……。

♪そうだな、クリスマス・アルバムを聴くとしたら、いまの気分はTake6の"He is Christmas"かな。
ただ、頭のなかでは“エリノア・リグビー”が鳴ってるんだけど。
それじゃ、また。


Dec.1,2004




♪やっと「金魚的日常」が終わりました。いやぁ〜、長かったです。
考えてみればウチへキンギョが来てから三年が過ぎていたわけですから、あれやこれやずいぶんいろいろなことがあったわけです。もちろん当時の記録が残っているはずはまったくなく、ほとんど記憶だけ、部分的に、ペットショップのお兄ちゃんに相談したメールが残っていたので、埋もれていた記憶の埃を払いながら、なんとか書きました。
一応、数字の帳尻は合わせながら書いたつもりですが、微妙に食い違ってるかもしれません。
そういうところはあまり突っ込まず(笑)、サラサラと読み流していただければ、と思っています。
かわいいキンギョの壁紙は、このサイト全体と同様、Arareさんに作っていただきました。どうもありがとうございました。

♪今日はブログの方はお休みにして、明日あたりから、新しい翻訳を始めていきたいと思っています。
乞うご期待。

♪それじゃ、また。


Nov.27,2004




♪忙しさにかまけて、サイトをほっぽらかしてたら、気がつくとカウンタ、400超えてました(キリ番の450、しっかり踏んだ管理人でございます)。
みなさまどうもありがとうございました。まだまだスカスカのサイトですが、徐々に充実させていく予定ですので、今後ともよろしく。

♪いまブログで続けている「金魚的日常」、最初は書き流す予定でしたが、なぜか?好評につき、連載終了次第、こちらにアップする予定です。あと二回ぐらいで終わる予定(今回はおぼろげな着地場所だけ決めて、アウトラインなしで書き始めたので、自分でもどうなるかよくわからないんです)。
キンギョ好きなあなたに。
キンギョなんて好きじゃないぞ〜、という人が見ても、全然おもしろくないと思います。
キンギョを飼うときの参考にもならないだろうなぁ……。

♪『A&P』のあとがきで、アップダイクの奥さんがハーバードでナボコフの文学講義を受けた、と書きましたが、ちょっと気になって本で確かめてみたら、ナボコフが講義をしたのはやっぱりコーネル大学でした。お詫びして訂正しておきます。ハーバードでは蝶の研究をしてたんでした。
だけど、どうやっても『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクター教授って、ナボコフがモデルだとしか思えないんだけどなぁ。わたしの気のせいでしょうか。誰も書いてくれないからここで言うんだけど。いや、もちろんナボコフがあんな猟奇的な人だった、ってことが言いたいんじゃなくて。モデルっていうより、イメージの核、っていった方が正確かな。

♪いま『アーレント=マッカーシー往復書簡』を読んでます。話がおもしろくなって、あーもっと聞きたい、というあたりで、クリスマスがどうとかこうとかに切り替わったりするので、ちょっとイライラする。まぁ手紙っていうのはそういうもんだけど。マッカーシーの話はそのうち書く予定。

♪Mujiの喫茶部で飲んだジンジャーレモンがおいしかったので、ウチでも作ってみました。生姜をすりおろして、その汁だけ入れたんだけど、ちょっと多すぎた。レモン風味の生姜湯だと思って、我慢して飲みました(ちょっと風邪気味)。ほんの少し、匂いがするぐらい入れるのが適量だと思います。

♪なんでこんな「更新お知らせ」ページにだらだら書いてるかというと、ページを作ってみたのはいいけれど、ページがスカスカになっちゃったからです。実は更新もひとつもないし(笑)。
リンクのページは水面下で進行中。
掲示板は作りません(きっぱり)。管理が面倒だし、どうせだれも書き込んでくれないだろうし(笑)。
何か管理人に言いたいことがあったら、ブログのコメント欄(その日のネタと関係なくてもいいです)か、メールでどうぞ。

♪それじゃ、また。


Nov.24,2004