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ここではロバート・バーの「健忘症連盟」の翻訳をやっています。
この作品は「奇妙な味」(江戸川乱歩)のミステリとして、世界各種の短編ミステリのアンソロジーにかならずといっていいほど収録されています。
この作品を含むロバート・バーの短編集 "The Triumph of Eugene Valmont"(原文全文はhttp://www.gutenberg.org/etext/19369)は1906年に発表、日本では明治39年、日露戦争が終わった翌年で、ミステリの世界ではシャーロック・ホームズが活躍していました。霧深いロンドン、馬車が行き交い、ガス灯が照らす時代に、エルキュール・ポワロより一足早く、「モナミ」とフランス語で呼びかける探偵の登場です。
バーはイギリスのグラスゴーに生まれ、幼少時にカナダに移住、そこで教育を受けたのち、アメリカで新聞記者となります。のちに特派員としてイギリスに移り、そこでユーモア小説を書くようになりました。上記の短編集を含め、七冊ほどのミステリ短編集を発表していますが、今日まで残っているのは、ほぼこの作品だけといってもいい。
さて、このアイデアは日本の高名な作家も、有名な作品の中でふれているのですが、それはだれか。その謎は最後に。
原文は http://www.pos1.info/a/abscote.htm で読むことができます。章ごとの番号は、原作では13章から18章となっていますが、ここでは便宜的に1から順番にふっています。



健忘症連盟


by ロバート・バー


本


 1.捜査令状のむなしさ

 数年前、私はなんとも不思議な出来事を経験をした。ある犯罪容疑でひとりの人物を追跡しているうちに、その男の犯罪の証拠を見つけたのだ。私が証拠を掴もうとしていたささやかな過ちにおいては無実だった彼が、別の極めて由々しい罪においては有罪だったのである。しかし彼と共犯者たちは処罰を逃れてしまった。そのいきさつをこれから話すことにしよう。

 ラドヤード・キプリングの「ベダリア・ハロッズフット」を覚えておいでだろうか。妻を殺した夫があわや逮捕されそうになるのだが、それもただ酔っ払った、というだけの理由だった。そのとき彼のブーツには、殺害時の血痕がついていたにもかかわらず、である。このラルフ・サマトリーズの事件は、これをちょうどひっくり返したようなものだった。イギリスの捜査当局は彼を殺人にも匹敵するような容疑で彼をなんとか拘束しようとしていたのだが、その間私も、酔っぱらいよりはるかに重大な罪の証拠を集めようとしていたのだった。

 イギリスの捜査当局というのは、かたじけなくも私の存在に気がついてくださるようなときには、憐れみの目で見おろすのがお好きらしい。事実、スコットランド・ヤードのスペンサー・ヘイルに、ウージェーヌ・ヴァルモンをどう思うかと聞いてみればいい。そのとりすました男はもったいぶった笑み(そういう表情ならしょっちゅうお目にかかれるのだが)を浮かべることだろう。さらにそう聞いてきたのが親しい友人ならば、右目でウィンクしてこう答えるはずだ。
「ああ、ヴァルモンはなかなかまともな男だよ。だがな、フランス人なんだぞ!」
こう言っておけば、それ以上何を聞くことがあろう、とでもいうように。

 私自身はイギリスの警官には大変好意を抱いているし、もし明日、乱闘騒ぎに巻きこまれるようなことになれば、スペンサー・ヘイルほど一緒にいてほしい男もない。いかなる状況であれ、牡牛を倒すような拳が求められる場面では、我が友ヘイルは、まったく役に立つ相棒なのである。知性や精神の洞察力、加えて手際の良ささえ求めなければ。私は極めて慎み深い人間であるので、もう何も言わないでおこう。

 おもしろいことに、この大男が、自分はただ一緒にパイプを吹かしたいだけなのだ、というふうを装って、夜になると私の部屋にやってくるのである。この人の善い大男と私のちがいはまさに、彼のごつくて黒いパイプと、私の繊細な紙巻きタバコのようなもの。私がタバコをやたらと吹かすのは、そうやって彼のタバコのひどい臭いから少しでも身を守ろうとしているである。私がおもしろがって眺めていると、この大男は、すっかり上機嫌を装いつつ、私など指先でひねりつぶしてやると言いたげに目をきらめかせながら、実は目下頭を悩ませている懸案のヒントを、なんとしてでも掴もうとしているのだった。私はといえば、敏捷なグレイハウンドが、鈍重なマスティフをやすやすとかわすように、彼をはぐらかす。そうしてやっと笑いながらこう言ってやるのだ。
「おやおや、モナミ(わが友)ヘイル君、ならばその話をおっしゃってください。もしかしたらお力になれるかもしれませんよ」

 初めのうちの一度か二度は、大きな頭を横に振りながら、公表されてもいないことを自分の一存で明かすわけにはいかない、と断っていた。だが、それをやめるきっかけになったのは、こういう事情である。私はヘイルが言うことを、確かにそれはその通りだ、と太鼓判を押してやったあと、おもむろに、ヘイル自身がそうと知らずに見つけていた細かな状況を、あますところなく物語ってやった。ただ、名前だけはヘイルが言おうとしなかったので、名無しのままだったが。つまり、私からヒントを引き出そうと、三十分ほどためらいがちにしゃべり散らした断片から組み立て直してやったのである。もちろん助言なら、聞きさえすればいくらでもしてやったのだが。ともかく、そういうことがあってからというもの、ヘイルがやってくるのは口外を禁じられていないときに限られたが、ひとつかふたつの込みいった事件を、幸いにして彼のために解いてやることができたのだった。

 忠実なるスペンサー・ヘイルは、スコットランド・ヤードを中心とする捜査機構をしのぐものなど、どこにも存在しないと固く信じていたが、その彼にして、フランス人の方が優っていると打ちあけた領域があった。とはいえ、不承不承認めながらも、こうつけ加えるのは忘れなかったが。つまり、あなたがたフランス人は、イギリスでは禁じられていることがつねに認められているのだから、と。これはすなわち、家のもちぬしが不在の折りにすばやく、家中を捜査することを指している。エドガー・アラン・ポーの卓越した小説『盗まれた手紙』をお読みになれば、ここで言っていることが記されている。実際、捜査に当たった私が説明するよりも見事に描かれているのだから。

 さて、私を取り巻くイギリス人たちは、誇りを持ってこの言葉を口にする。「イギリス人にとって家とは城である」と。この城にあっては、警官といえども合法的令状なしに立ち入ることはできない。確かにこれは建前としてはまったく結構なことではあるが、ある人物の家へ、トランペットを吹き鳴らし、小太鼓を叩く連隊を従えて行進していく以外に方法がないとしたら、捜しものが見つからない、とガッカリするのは筋違いだ。法的規制というのはすべからくそうしたものであるのだから。もちろん、イギリス人というのはまことに優れた人々であるし、そのことならいつでも喜んで証言する用意はある。だが冷静に分別を働かす場面なると、フランス人の足下にも及ぶまい。パリでは、有罪の証拠資料を手に入れるつもりなら、その所有者に葉書でこちらの意向を通知するような真似はしないし、こうしたやり方はフランスにあっては、ごくふつうに黙認されているのである。知人にも、夜、繁華街に出かけようとするときには、鍵束をアパートの守衛に預け、「留守中、警察が来てひっかきまわす物音が聞こえるようなときは、手助けに行ってくれたまえ。私からの配慮であると言ってな」と申しつける男までいるのである。

 私が主任捜査官としてフランス政府の公僕を務めていたある日、外務大臣がお忍びで滞在するホテルを訪ねるように、という指令を受けた。ちょうどビスマルクが我が国に二度目の攻撃を仕掛けようともくろんでいた時期で、幸い、私はずいぶん働くことができ、機密情報局に、かの鉄血宰相の思惑を挫くような書類をいくつも提供していたのだった。私の祖国に対する貢献は、十分表彰に値したはずだが、つぎの内閣が私の働きの一切を忘れてしまったときも、ほのめかすことはしなかった。私などよりも立派な人物が、“共和国の記憶とは儚いもの”と言っているではないか。だが、こうしたことはいずれも、私がこれから語る話とは何の関係もない。これから話すのは、私が迂闊にも引き起こした騒動の顛末なのだが、他の国ならただではすまなかったにちがいない。だが幸いなことにフランスでは――すべて了解済のことであったために、大事には至らなかったのである。

 ヨーロッパ広しといえど、私ほど正体を隠すことに長けた人間はいまい。常に冷静沈着なウージェーヌ・ヴァルモンは、なにごとにも動ずることはないのだ。だがこのときばかりは非常に緊張し、あまりに没頭していた。私は外務大臣の私宅にふたりきりでいた。必要な書類のひとつが外務省の大臣の執務室に残ったままになっていることがわかった、というか、少なくとも大臣はそう考えたのである。
「ああ、あれは局の机の中だ。困ったことになったぞ。使いを出さなくては」

「閣下」私は完全に我を忘れて飛び上がり、叫んだ。「それならここにございます」そうして秘密の引き出しのボタンを押してそこを開くと、大臣の求めていた書類を取りだし手渡した。

 大臣のもの問いたげな目つきと、口元に浮かんだ微笑を見るまで、私は自分のやったことの意味に気がつかずにいた。

「ヴァルモン」大臣は穏やかに言った。「君はいったい誰のためにこの屋敷を捜索したのだね?」

「閣下」私もまた大臣と変わらぬ平静な口調で答えた。「今夜、閣下のご命令をいただき、フランス共和国大統領の信頼なさっておられるデュモレーン男爵のお屋敷の家宅捜索をいたします。万一、大統領、あるいは男爵が、私の非公式な訪問を知って、その家宅捜索がいったい誰のためになされているのか聞かれたら、私は何とお答えしたらよいものでしょうか」

「君はこう言えばいいさ、ヴァルモン、君はフランス情報局の利益を代表している、とね」

「間違いなくそう答えることにいたしましょう。閣下、さきほどの閣下のご質問にも、私はフランス情報局のために捜索をした、と、謹んで申し上げます」

 外務大臣は声を上げて笑った。心からの、何の他意も感じられない笑いだった。

「私は君を褒めたかっただけだよ、ヴァルモン、君の入念な捜査とたいした記憶力をね。確かにこれは私が執務室に忘れたと思っていた書類に間違いない」

 英国外相ランズダウン卿が、もしスペンサー・ヘイルが私のように機密書類の所在を熟知していると知ったら、何と言うことだろう。ともかく、話がふたたび我が友ヘイルに戻ってきので、彼をこれ以上待たせないことにしよう。


 2.スコットランド・ヤードのミスター・スペンサー・ヘイル


 初めてサマトリーズ事件のことを聞いた十一月の日のことはよく覚えている。その日、ロンドンは霧が深く垂れこめて、私も二、三度も道に迷うほどで、言い値で払おうとどれだけ言っても、一台の馬車もつかまえることはできなかった。通りを行く数少ない御者たちも、馬をゆっくりと走らせながら厩へ帰っているところだったのだ。いわゆる「ロンドン日和」というやつで、私の気も滅入り、清冽なパリが恋しかった。パリならもやがかかるようなことがあっても、少なくとも澄んだ、白い蒸気のようなもので、このひどいロンドンの息も詰まりそうな煤煙まじりの霧ではない。あまりに霧が深いために、通りをゆく人々も、舗道に張りついた新聞の見出しを読むこともならず、どうやらその日は競馬もなかったようで、新聞売りの少年たちは、そのつぎに大きな出来事、アメリカの大統領選挙について、なにやら喚いていた。私も一部買うと、ポケットに突っこんだ。

アパートに戻った時刻はずいぶん遅くなっていて、ふだんはあまり家で取ることもない夕食をすませてから、室内履きに履き替え、暖炉の前のソファに身を沈めて夕刊を読み始めた。驚いたことに、あの弁舌鮮やかななブライアン候補が敗れていた。銀問題のことは何も知らないに等しかったのだが、候補の演説の才にはたいそう感銘を受けていたのだ。候補は銀山をいくつも所有していたが、銀の価格の暴落で、その経営も立ちゆかなくなっていると聞き、気の毒に思っていたこともあった。とはいうものの、もちろん彼がいまなお財閥であることには変わりなく、億万長者の風評も繰りかえし取りざたされたために、有権者の平均が極めて貧しい、裕福とはいいがたい状況、ちょうどフランスにおける小作農とよく似た状況にある民主国家では、敗れることは必至だったのかもしれない。私は以前から、この西方の巨大な共和国に多大なる関心を抱いており、その政治状況の的確な把握に努めてきた。読者諸君もご存じのことと思うが、私は自分に寄せられた賛辞など、披露しようとは思わない。だが、アメリカ人の依頼人が、かつてこう認めたことがあった。アメリカ政治の真の本質――依頼人が使ったのはこの言葉であったように思う――をヴァルモンさんのお話をうかがって、初めて理解できましたよ、と。もっとも彼はこうもつけ加えるのを忘れなかったが。これまでずっと仕事に忙殺されていましたので。

 私は手から新聞がすべりおちるにまかせた。というのも、霧がアパートのなかにまで入りこみ、電灯をつけていたにもかかわらず、読むのが次第に辛くなってきたのだ。そこへ召使いが、ミスター・スペンサー・ヘイルがお見えです、と告げた。もちろん夜ならいつでも歓迎だが、とくに外が雨や霧の日にはなおのこと、新聞など読むより、友人と話をしていたほうが、どれだけ楽しいかしれない。

「モン・デュー(やあやあ)、親愛なるムッシュー・ヘイル、こんな霧の夜をついてやってくるとは、なんと勇敢な方だろう」

「こんばんは、ムッシュー・ヴァルモン」ヘイルは得意げに言った。「パリじゃこんな霧にはお目にかかれないでしょう」

「そのとおり、この点ではあなたのお国には敵わない」そう認めると、私は立ち上がって挨拶を交わし、椅子を勧めた。

「最新のニュースをお読みだったんですね」とヘイルは新聞を指した。「ブライアンが負けて良かったですな。じき、もっといい世の中になるでしょう」

 私は手を振って椅子に腰をおろした。スペンサー・ヘイルとは何であれ語り合うことにやぶさかではないが、アメリカの政治に関してはまた別だ。彼はなにひとつ理解していない。イギリス人というものはたいてい他国の国内状況について、まったくの無知なのである。

「こんな夜にやって来るなんて、定めし重大な懸案事項があるにちがいないですね。スコットランド・ヤードも霧深し、というところかな」

 この繊細な地口もまったく通じなかったようで、ヘイルはおかしくもないという顔つきで言った。「霧が深いのはロンドンのどこもかしこもですよ、まったく。イングランドのほとんどがそうでしょう」

「確かにそのとおり」と重ねてみても、これもまた通じてはいないようだった。

 それでも、彼がつぎにこんなことを言った。ほかの人間の口から出たことなら、私のしゃれも通じたかと思うところだが。

「ムッシュー・ヴァルモン、あなたは実に、実に、頭の切れる方だから、アメリカの大統領選の争点と同じ問題で、私がここへ来た、と言うだけで十分じゃないんですか? まあ、田舎の人間が相手ならもっと説明しなきゃならんところだが、あなたならそんな必要はないでしょう」

 ときに疎ましくなるのは、この作り笑いと、目を細める仕草、スペンサー・ヘイルが私を閉口させてやろうと難題を持ちかけるときに決まって浮かべるその表情である。ヘイルの持ちかける問題に困ったことなど一度もない、と言ってしまえば嘘になるが、それも実際のところは彼が解きあぐねて困り切っている問題があまりにも単純だから、必要のないことまで込みいった考えをめぐらして隘路に迷い込んだだけなのだ。

 私は指先を重ねあわせて、しばらく天井を穴の開くほど見つめた。ヘイルは自分の黒いパイプに火をつけた。召使いがヘイルの肘の脇にウイスキーソーダを置くと、忍び足で部屋を下がる。ドアが閉まると、私は天井からヘイルのニヤニヤ笑いに目を移した。

「連中は逃げましたか」私は静かに聞いた。

「誰がです」

「贋金造りたちです」

 ヘイルは口からぽろりとパイプを落としたが、なんとか床へ落ちる前につかまえた。それからグラスの酒を一口ごくりと飲んだ。

「まぐれがうまく当たりましたね」

「まったくね」私はあっさりそう言っておいた。

「さあ、ヴァルモン、白状しろ、ってところでしょうか」

私は肩をすくめた。訪ねてきてくれたお客様に刃向かうわけにはいかない。

「ああ、もう、いいかげんにしろ!」ヘイルは礼儀をかなぐり捨てた。困惑すると強い言葉や俗語が飛び出すのだ。

「単純なことですよ、モナミ。アメリカの大統領選での争点は銀の価格です。そうしてそれが急落したせいでブライアン候補は敗れ、農場に鉱山を持つ西部の農民たちはみな被害を受けている。アメリカでは銀が問題の種、ゆえに、銀はスコットランド・ヤードを悩ます、ということでしょう。非常に結構。当然起こってくるのは、誰かが銀の延べ棒を盗んだのではないか、という推定です。だが銀の盗難事件が起こったのは三ヶ月も前、サザンプトンでドイツの蒸気船から荷揚げされたときのことでした。そうして、わがスペンサー・ヘイル君が、連中が延べ棒の印を酸で消そうとしていたまさにそのとき、見事に一味をお縄にしたんでしたよね。さて、犯罪というものは続いて起こるものではない、モンテ・カルロのルーレットの数字のようにはね。盗人というのは知恵がある。ミスター・ヘイルがスコットランド・ヤードにおわしますときに銀の延べ棒が盗めるものか。ね、そういうことでしょう」

「いや、真面目な話、ヴァルモンさん」ヘイルは一口飲むと、言葉を続けた。「ときどきあなたにはとてつもない推理力が備わっているんじゃないかっていう気がしますよ」

「それはどうもありがとう。さて、目下の懸案事項は銀の盗難ではないことになりますね。さて、アメリカの選挙戦の争点となったのは、銀の価格だ。銀の価格が下落しなければ、銀問題など起こるはずもなかったですからね。となると、あなたを悩ませている事件は、銀の低の価格に関連しているはずだ、つまり、これは偽造事件、貨幣の偽造も銀の価値を下落を引き起こしますから。おそらくあなたは従来なかったほどの非合法活動が水面下で進行しているのに気がつかれたにちがいない。不心得者がシリングや半クラウン銀貨を鋳造するのに、粗悪な金属を使う代わりに、本物の銀を使っている、しかも銀の価格が高かった頃ならいざしらず、いまならそれで莫大な利益を生むことができる、というわけです。あなたもおなじみの昔のやりくちではない、新しい事態には古い公式は適応できませんからね。とまあこういうふうに推理したわけです」

「たしかにヴァルモンさん、ご明察ですな。あなたのおっしゃるとおりです。本物の銀を使って偽造硬貨を鋳造しているプロの一味がいるんです。半クラウン(2,5シリング)につき1シリングの利ざやが上がるんだそうです。一味の足跡はつかめてないんだが、そいつを表に出しているやつならわかっています」

「それでもう十分ではありませんか」私は言った。

「そうなんです、だが、いまのところその証拠が見つかっていない。今夜ここに来たのも、あなた方フランス流のトリックをやっていただけないものかと思いましてね。ごくこっそりと」

「フランス流のトリックとは何のことです、ムッシュー・スペンサー・ヘイル」いささか気色ばんで私は聞き返したが、そのときはヘイルが夢中になると、たしなみを忘れてしまうということを一瞬失念していたのだった。

「悪気はなかったんです」迂闊な刑事はそう言ったが、実際、この人の良い男はついヘマなことを言ってから、謝る羽目になるのだ。「私としては、どなたかにある人物の家の中に、捜査令状なしに入っていただきたかったんですよ、証拠を見つけて私に知らせ、その男が証拠隠滅を図る前に我々が急行する、という具合にね」

「その男とはいったい誰なんです。住まいはどこなんですか」

「ラルフ・サマトリーズ、こじんまりとした瀟洒な家に住んでますよ、広告にそのままそうありそうな家です、場所もご同様のおしゃれな通り、パーク・レーンだ」

「なるほど。どうしてあなたはその人物が怪しいとお考えになったのですか」

「つまりこういうことなんです。そこは住むにはいささか金がかかる地域だ。それにはちょっとばかり金にものを言わせることが必要です。ところがこのサマトリーズはこれといった職にも就いていないのに、毎週金曜日になると、ピカデリーにあるユナイテッド・キャピタル銀行に現れては、金をつめた袋を預けている。たいていその中身は銀貨です」

「そうですか。それでその金というのは?」

「その金のなかには、我々の調べによると、イギリス造幣局で鋳造されたものではない新しい硬貨が相当数混ざっているんです」

「ということは、そのすべてが新しいというわけでもない?」

「そうです。やつはもっと抜け目がないんですよ。男はポケットに新しく鋳造した5シリング硬貨を詰めこんで、ロンドン中を歩きまわってあれこれ買い物をして、家へ帰ることには今度は正規の貨幣、釣り銭の半クラウン銀貨やフローリン銀貨(※2シリングに相当)、シリングや六ペンスでポケットはいっぱい、というわけです」

「そういうことですか。ならば、その人物のポケットが贋の5シリング硬貨でいっぱいになっているときに逮捕してしまわないんです」

「そうしようと思えばできますよ、もちろん私もそれは考えました。でもね、捕まえたいのは一味全員です。やつを逮捕したら、どこで貨幣を鋳造しているのかも突きとめられないうちに、一味は高飛びしてしまうでしょうね」

「どうしてその男自身が偽造犯ではないと思うんです?」

 哀れなヘイルの胸の内を読みとるのはいともたやすいことだった。言葉に詰まって、現場を押さえられた犯人のようにあわてふためいている。

「私に話したところで、ご心配には及びませんよ」やがて私はなだめるように言ってやった。「あなたが部下の一人をミスター・サマトリーズの家に遣わして、その部下がサマトリーズが贋金作りではないことを突きとめたのでしょう。でも、あなたの部下は他の連中を特定するような証拠を見つけられずにいるのですね」

「これまたドンピシャですな、ムッシュー・ヴァルモン。数週間前から部下のひとりがサマトリーズ家の執事を務めているんですが、おっしゃるとおり、まだ何の証拠もあがっていません」

「まだ執事は続けているんですか」

「ええ」

「ではどこまでわかったか聞かせてください。サマトリーズは毎週金曜に、ピカデリーの銀行に、硬貨のつまった袋を預けるんですね。そうして銀行は袋のひとつかふたつを調べることを認めてくれたのですね」

「そうなんです。だが、銀行というのはなかなか厄介な相手でね。刑事がうろつくのを嫌うし、警察にたてつくわけじゃないんだが、聞かれたこと以上は決して答えない、しかもミスター・サマトリーズはもう何年にも渡ってユナイテッド・キャピタルの顧客なんです」

「その金がどこから来るのかはつきとめていますか」

「それはわかっています。金は毎晩、きちんとした市役所の職員といった風体の男が届けにきて、それから大きな金庫、鍵はその男が持っているんですが、一階のダイニングルームにある金庫に収めています」

「その職員風の男には尾行をつけているんですね?」

「つけています。彼はパーク・レーンの家で毎晩寝に帰り、朝になるとトッテナム・コート通りのふるぼけた骨董屋に仕事に行く、日中はそこで過ごし、夜には金の袋を持って帰ってくるんです」

「いったいどうして逮捕して尋問しないんです?」

「いやいや、ムッシュー・ヴァルモン、これもサマトリーズ本人を逮捕しないのと同じ理由ですよ。ふたりとも逮捕するのは簡単ですが、どんな証拠もありませんし、第一、橋渡し役ばかりを捕まえたところで、黒幕は逃げてしまうでしょう」

「その古い骨董屋に不審な点はないのですか」

「ありません。通常の店と変わるところはありません」

「このゲームがあなたの目の前で繰り広げられるようになって、どれほどになります?」

「ほぼ六週間になります」

「サマトリーズは結婚している?」

「いいえ」

「家には女性の使用人はいますか」

「いいえ、ただ毎朝掃除婦が部屋の掃除をしに来ます」

「ほかにはどんな使用人がいるんです」

「例の執事、それから身の回りの世話をする召使い、あとはフランス人のコックです」

「ほほう、フランス人のコックねえ。この事件はおもしろいですよ。サマトリーズはあなたの部下のもくろみのまんまと裏をかいているというわけですか? 家を隅々まで歩きまわるのを禁じたりして」

「とんでもない! 協力的と言ってもいいぐらいですよ。一度など、サマトリーズは金庫に行って金を出し、ポジャーズ――私の部下の名前です――に金勘定を手伝わせ、しかもその硬貨の入った袋を銀行に届けさせたぐらいなんですから」

「ではポジャーズは内部をすっかりあらためたのですね」

「そうです」

「硬貨の鋳造ができるような施設はなかった?」

「ありません。あんなところで鋳造するなんて、もとより不可能な話なんです。おまけに先にも言ったように、金はきちんとした格好の事務員が運んでくるんですから」

「あなたは私にポジャーズの代わりをやれとおっしゃるんですね」

「いや、ムッシュー・ヴァルモン、正直に言いますが、そうじゃない。ポジャーズはできる限りのことはやってるんですが、もしあなたが家に入って、ポジャーズの手引きで、夜のうちにでも捜索してくださったらなあ、と思って。お暇な折りでいいんですがね」

「そういうことですか。だが、それはちょっとイギリスでは危険ではありませんか。私としてはポジャーズの後がまという合法的役どころのほうが好ましく思えるのですが。サマトリーズは何の仕事もしてないんでしたよね」

「そうです。仕事と呼べるようなことはね。作家と称しているようなんですが、そういうのは仕事とはいえないんじゃないでしょうか」

「ほほう、作家ですか。じゃ、いつ執筆しているのですか」

「書斎に一日中こもってますよ」

「昼食を食べに出るようなことはないのですか」

「出ません。ポジャーズによると、書斎で小さなアルコールランプをともしてコーヒーを入れて、サンドイッチをひときれかふたきれ、それでしまいなんだそうです」

「パーク・レーン住まいにしては、ひどく質素ですね」

「そうなんです、ムッシュー・ヴァルモン。その代わりに夜には時間をかけて、フランス人コックの作った、あなたがたがお好きなような料理をいろいろと楽しんでいるようです」

「洗練された人物だ! ヘイル君、私はミスター・サマトリーズとお近づきになる日が楽しみになってきました。君の部下のポジャーズ君は外出が制限されていますか」

「そんなことはありません。夜だろうが昼だろうが、いつでも出てこれますよ」

「非常に結構です、ヘイル捜査官。明日ポジャーズ君を連れてきてください、その作家先生が書斎にこもったらすぐに、いや、それより、身なりのいい事務員が家を出てトッテナム・コート通りへ出たらすぐに。あなたのお話から推理すると、主人が書き物をしに部屋へ閉じこもってから三十分ほどしたら、出ていくのではありませんか」

「その通りです、ヴァルモンさん。なんでそのことをご存じなんですか」

「単なる憶測ですよ、ヘイル君。件のパーク・レーンの家には、ずいぶん奇妙なことがあるようですよ、ですから主人の方が使いより朝早くから仕事にかかるぐらいのことは驚くには及びません。それよりラルフ・サマトリーズは働き者のポジャーズ君が何のために家にいるのかよく知っているように思うのですがね」

「どうしてまたそんなことを」

「これという理由があるわけではないんですが、あなたのお話をうかがっていると、だんだんサマトリーズは鋭い男のように思えてきてね。反対に、ポジャーズの手際は聞けば聞くほど良いとは言えないように感じられるのですよ。ともかく、明日ここへ連れてきてください。聞きたいこともいくつかありますし……」


 3.パーク・レーンの奇妙な家


 翌日の十一時頃、大柄なポジャーズが帽子を手に、上司のあとからやってきた。幅広の無表情だが、てこでも動かなそうなつるりとした顔は、もちろん、お仕着せのせいもあったのだろうが、想像以上に本物の執事らしく見えた。私の質問に答える態度も、十分に訓練を積んだ召使いのそれで、必要なとき以外は口を開かない。全体に、私が考えていたよりポジャーズはずっと上で、確かに我が友ヘイルが、部下のなかで優秀であると考えているのも理由のないことではなかった。

「おかけください、ミスター・ヘイル、ポジャーズ君も」

 ポジャーズは私の申し出を無視して彫像のように立ったままでいたが、上司の身ぶりに、即座に腰をおろした。イギリス人というのはまったく規律正しい連中である。

「さて、ミスター・ヘイル、最初にポジャーズ君の扮装に敬意を表さなくては。すばらしいですよ。あなた方は私たちがフランスでやっていたのにくらべると、ずっと凝っていない変装だが、この点に関してはあなた方の方法に理があるようですね」

「まあ私らの方がちょっと余分に知っているかもしれませんね、ムッシュー・ヴァルモン」ヘイルの言い方が得意そうだったのもいたしかたあるまい。

「ところで、ポジャーズ君、例の事務員のことをちょっと聞きたいのです。夕方、何時頃にやってくるんです」

「きっかり六時です」

「呼び鈴を鳴らすのですか、それとも自分で鍵を開けて入ってくる?」

「鍵を使っています」

「金はどうやって運んでいるのですか」

「錠つきの小さな革かばんです、それを肩にかけています」

「まっすぐにダイニング・ルームに入ってくる?」

「そのとおりです」

「金庫を開けて、金を中に入れるところを見たことはありますか」

「あります」

「金庫は文字盤ですか、それとも鍵?」

「鍵です。旧式の型のものです」

「それから金が入った革かばんの錠を開けるのですね?」

「その通りです」

「となると、ほんの数分の間に三つの鍵を使い分けるのですね。鍵はバラバラですか、それとも束になっていますか?」

「束ねられています」

「君は主人がその鍵束を持っているのを見たことはありますか」

「いえ、ありません」

「それでも主人が金庫を開けるのは一度見た、と聞きましたが」

「その通りです」

「主人はバラの鍵を使ったのですか、それとも鍵束のうちのひとつを使った?」

ポジャーズはおもむろに頭を掻いて、言った。「記憶にありません」

「おやおやポジャーズ君、あの家で重大なことを見逃していますよ。ほんとうに思い出せませんか」

「だめです」

「金はしまって金庫に鍵をかけた、さて、事務員はそれから何をするのです」

「自分の部屋に上がっていきます」

「部屋はどこですか」

「三階にあります」

「君はいったいどこに寝るのですか」

「四階に、ほかの召使いと一緒に」

「主人の寝室はどこです」

「二階にあります。書斎の隣です」

「家は四階建てで、あと、地下室もありますね?」

「その通りです」

「かなり手狭な家のように思えてきたのですが、まちがっていませんか?」

「そう言えますね」

「事務員は主人と一緒に夕食をとるのですか」

「いいえ。事務員は家の中で食事をすることはありません」

「では、朝食の前に家を出る?」

「いいえ、そうではありません」

「誰かが朝食を部屋に運んでやるのですか」

「いいえ、そんなことはしません」

「家を出るのは何時ですか」

「十時です」

「朝食の時間は?」

「九時です」

「主人が書斎にこもるのは何時ですか」

「九時半です」

「内側から鍵をかけるんですね」

「そうです」

「昼間、何かで呼び鈴を鳴らすようなことはないのですか」

「私の知る限りではありません」

「いったいどんな人物なんでしょう」

 ここでポジャーズは心得た領域とばかりに、微に入り細を穿つ説明を始めた。

「私が聞きたいのはそういうことじゃないんです、ポジャーズ君。物静かなのか、おしゃべりなのか、怒りっぽいか。こそこそしているところ、疑り深いところ、不安そうなところ、びくびくしているところ、冷静なところ、興奮しやすいところ、そんなところを見たことはありませんか」

「そうですね、もの静かな男であることはまちがいありません。自分の用を言いつけることもさほどないし、怒ったり、興奮したりするところも見たことがありません」

「ではポジャーズ君、あなたはパーク・レーンの家に行って二週間になります。あなたは鋭く、隙のない、注意深い人だ。あなたが何か普通ではないと感じるようなことが起こったことはありませんか」

「さあ、はっきりと言えるようなことは思い当たりません」ポジャーズは困ったように上司と私に代わる代わる目を遣りながら答えた。

「あなたは任務として以前にも何度か執事をやっていますね、そうでなければそこまで板に付いているはずがない。そうではありませんか」

 ポジャーズは答える代わりに上司をちらりと見た。確かに職務に関する質問であり、上司の許可の必要なものだろう。だがヘイルがすぐに答えた。「その通りです。ポジャーズはもう十回以上、方々に潜入しています」

「なるほど、ポジャーズ君、ではあなたが以前に雇われた屋敷のことを思いだしてください。そうしてサマトリーズの家がそうしたところとどこかちがっていないか、教えてほしいのです」

 ポジャーズは長い間考えていた。

「そうですね、確かにサマトリーズは書き物に極端に熱心です」

「ああ、そうでしょうね。けれどそれが仕事でしょう、ポジャーズ君。朝の九時半から夜の七時までかかりきりになっているのですね?」

「そうです」

「ほかには何かありませんか。どんなちっぽけなことでもいいのですが」

「そういえば、読書好きみたいですよ、というか少なくとも新聞は大好きですね」

「いつ読んでいますか」

「読んでいるところは見たことがないんです。私の知る限り、新聞を広げていたことはありませんが、全部の種類を書斎へ持って行くのです」

「おやおや、朝刊を全紙ですか」

「そうです。それから夕刊も」

「朝刊はどこに置いておくのですか」

「書斎のテーブルに」

「夕刊の方は?」

「夕刊が来たときには書斎は鍵がかかっています。ですからダイニングルームのサイドテーブルに置くのですが、主人が書斎に上がるときに一緒に持っていくのです」

「君がそこに行ってから毎日そうですか」

「そうです」

「この興味深い事実は上司に報告したのでしょうね、当然のことながら」

「いえ……していません」ポジャーズはとまどいながらそう答えた。

「そうすべきでしたよ。ミスター・ヘイルならばこの重要な点を、十分に活用できたでしょうからね」

「そりゃないですよ、ヴァルモンさん」ヘイルが割って入った。「からかってらっしゃるんですね。朝刊を全種類とっている人は大勢いますよ」

「そんなことはありません。社交クラブやホテルだって、一流紙をとっているだけです。ポジャーズ君は新聞全紙と言いましたよね?」

「ええ、っと、ほとんど全部の種類です」

「どちらです? その違いは大きいですよ」

「相当たくさんの種類です」

「何紙ですか」

「わかりません」

「それは簡単に割り出せます、ヴァルモンさん」ヘイルがいらだって大きな声を出した。「そんなに大切だってほんとうにあなたが思っているのでしたら」

「これは大変重要なことなので、私はポジャーズ君と一緒に家に行くつもりなのです。君は帰ってから、私を家に入れてくれることができますね」

「ええ、もちろん」

「また新聞に話を戻すのですが、ポジャーズ君、用がすんだ新聞はどうしてるんですか」

「週に一度、 回収業者に売ります」

「誰が書斎から持ち出すのですか」

「私です」

「丁寧に読んだ様子がうかがえますか」

「それが、少なくとも数紙はひろげたあとさえないんです。そうでなければ、極めて丁寧にたたみ直されたか」

「そのなかに切り抜きの跡を見つけたことはありませんか」

「いいえ」

「ミスター・サマトリーズはスクラップブックを持っていますか」

「私の知る限りは持っていません」

「さて、この事件はまったく単純なものです」私はそう言うと、椅子に身をあずけ、困惑顔のヘイルに、天使のような笑顔を向けた。この悦に入った表情こそ、何よりヘイルをいらだたせるのだ。

「何がそんなに単純なんです?」ヘイルの怒りにまかせた胴間声は、おそらくエチケットの許容範囲とは言えまい。

「サマトリーズは贋金作りでもなければ、一味とどんな関係もありはしません」

「じゃ、何者なんです?」

「それはまた新たな調査が明らかにすべきことがらです。おそらく彼は、反対に、大変正直な人物であるように思いますよ。トッテナム・コート通りの実直な小売商が浮かびあがってきます。庶民的な職業と上流のお屋敷街パーク・レーンのあいだに、つながりが見つかったら、と、やきもきしているのかもしれません」

 スペンサー・ヘイルはごくまれに理性のきらめきを見せて友人を驚かせることがあるのだが、そのとき口にしたのもそうした意見だった。

「それは道理に合いません、ムッシュー・ヴァルモン。商売と屋敷の釣り合いを気にするだなんて、社交界入りをもくろむ男だか、普通はこっちの方が多いかな、娘を社交界に押しこもうとしている男みたいじゃありませんか。だがサマトリーズには家族はいません。やつ本人はどこへも行かないし、人を接待するでもなければ、どこかに招かれることもない。社交クラブにも所属していない。つまりトッテナム・コート通りにある店が釣り合いがとれないと恥ずかしがるなんて馬鹿げてますよ。やつは他の理由から、つながりがあることを隠しているんだし、それを探さなきゃ」

「ヘイル君、知恵の女神だってそこまで理路整然とした論理の筋道を展開することはできませんよ。さて、モナミ、あなたはほんとうに私の助けがいるのですか、それともそれだけあれば十分けりがつけられそうですか」

「これだけあれば十分ですって? 昨晩お宅へうかがったときから、わかったことは何一つないじゃないですか」

「昨夜ヘイル君はこの男が偽造貨幣団の一味だと考えていたじゃありませんか。今日はそうではないとわかった」

「あなたがそうではないと言っているのがわかっただけです」

 私は肩をすくめると、眉を持ち上げてヘイルに笑いかけた。

「同じことでしょうに、ムッシュー・ヘイル」

「ほほう、うぬぼれ屋にも数あれど、ですかね?」人の良いヘイルにはそれ以上のことは言えないのだ。

「必要なら、いつでもご助力は惜しみませんよ」

「ご親切にどうも。正直、あなたの助けが必要です」

「それならばポジャーズ君、君は我々の友人であるサマトリーズ氏の家に戻って、昨日配達された朝刊と夕刊を全部まとめて取って置いてくれませんか。可能でしょうか、それとも石炭庫にまぜこぜになって山積みされてしまったでしょうか」

「大丈夫です。あとで必要になったときのために、新聞はその日ごとに重ねておくよう申しつけられているんです。地下室にはいつも一週間分が保存されていて、回収業者にはその前の週のぶんを売ることになっています」

「すばらしい。それではいつのでもいいから一日分の新聞を抜き出して、私が見ることができるようにしておいてください。私はきっかり三時半にあなたのところへ行きましょう。そうしたら三階の事務員の寝室に上げてください。そこは昼間は鍵がかかっていないのでしょう?」

「かかっていません」

 辛抱強いポジャーズはそこで出ていった。スペンサー・ヘイルは部下が出ていくと自分も立ち上がった。

「ほかに私にできることはありませんか」

「トッテナム・コート通りの店の番地を教えてください。ひょっとしたらその偽造された新しい五シリング硬貨を一枚お持ちじゃありませんか」

 サイフを開けると一枚の白い銀貨を取り出して、私に預けた。

「夜になる前にこれを使ってみようと思います」私はそう言ってポケットに収めた。「あなたの部下に逮捕しないでいただきたいものですな」

「それは大丈夫」ヘイルは笑いながらそう言うと、部屋をあとにした。

 三時半、私を待ち受けていたポジャーズが、玄関前の階段を上がっていると扉を開けてくれたので、呼び鈴を鳴らさずにすんだ。家は奇妙なほど静まりかえっている。フランス人のコックはまちがいなく地下室にいたので、地上階にいるのは、書斎のサマトリーズを除くと――そこにいるかどうかは疑わしいものだと私は思っていたが――私たちふたりだけだった。ポジャーズはまっさきに三階の事務員の部屋に案内してくれたが、重い沈黙と密やかさのなか、わざわざ忍び足で歩く必要もあるまいに、と思われた。

「この部屋を調べることにしましょう。下の書斎のドアのところで待っていてくださいませんか」

 寝室は、家全体の大きさを考えるなら、まずまずの広さだった。ベッドは整えられており、部屋に椅子が二脚あったが、普通ならあるはずの洗面台と両面鏡が見あたらない。だが、部屋の向こう側にカーテンが見えたので、それを開けると、予想通り、奥行き1メートル強、幅1,5メートルほどの作りつけの洗面所があった。部屋の幅は4,5メートルほどなので、残りの三分の二、正体不明の空間があることになる。それから扉を開けてみると、そこはクロゼットで洋服がぎっしりとかかっていた。このクロゼットと洗面台でもまだ1,5メートルの隙間が残る。私は最初、秘密の階段の入り口は、この洗面台にしつらえられているにちがいないと考えていたのだが、羽目板をよくよく調べてみると、ノックするとうつろな音こそするものの、板は突起と溝を嵌め合わせる実矧ぎ(さねはぎ)になっていて、隠しドアはない。ということは、階段への入り口は、クロゼットのなかにあるはずだ。右手の壁は、洗面所の実矧ぎ板によく似ていたが、何気なく見たりさわったりするのならともかく、私の眼には一目でドアとわかった。掛けがねは、古びたズボンがかかっているフックをうまく動かすと外れた。フックを上へ押すと、ドアが外側に開いて、そこが階段のてっぺんになる。二階へ下りていくと、同じような掛けがねがあって、階下の同じようなクロゼットに入ることができた。ふたつの部屋はまったく同じ大きさで、一方はもう一方の真上に位置している。たったひとつ異なっていのは、下の部屋で書斎に向かって開くドアは、上の部屋では廊下に向かって開くのである。

 書斎はきわめて整然としており、あまり使われていないか、そうでなければもちぬしはきわめて几帳面な人物なのだろう。テーブルの上には新聞の山のほかには何もない。私は端まで歩いて、鍵穴の鍵を回し、部屋を出てぎょっとしているポジャーズの前に現れた。

「これはこれは。たまげました」彼は嘆声を上げた。

「まったくね」私は答えた。「あなたは二週間ものあいだ、空っぽの部屋の前を忍び足で歩いていたんです。さあ、ポジャーズ君、私と一緒にいらっしゃい、どういう仕掛けか見せてあげますよ」

 彼が書斎に入ってきたところで、私はもう一度ドアに鍵をかけ、贋の執事が習い性となった忍び足で歩くのを率いて階段を上がり、真上の寝室へ出た。そうして何もかも、あった通りに直して部屋を出た。正規の階段をおりて玄関ホールに行くと、ポジャーズがすべての新聞をきちんと梱包してくれていた。その包みを自分のアパートに持って帰ると、助手のひとりに指示を与えて、新聞を調べるのは彼に任せ、それから私はまた出ていった。


4.トッテナム・コート通りの奇妙な店


 私は馬車をつかまえるとトッテナム・コート通りのはずれまで行き、通りを歩いてJ・シンプソンの古ぼけた骨董品店に向かった。しばらくのあいだ、売り物がぎっしりと並ぶショーウインドを眺め、ガラスの向こうの小さな鉄の十字架、昔の職人の手作りらしいものを選んで、中に入った。

 ポジャーズから外見は聞いていたので、応対に出てきたのが、正真正銘、かの「きちんとした格好の事務員」氏、夜になれば毎晩パーク・レーンに金のかばんを運ぶ人物であり、同時に私は確信していたのだが、ラルフ・サマトリーズその人であることがわかった。

 物腰はありふれた店員と何ら変わるところがない。十字架の値段は7シリング6ペンスだというので、私は1ポンド金貨で払った。

「おつりは銀貨でお支払いしてもよろしゅうございますか」と聞いてきたので、「好きにしてくれ」と投げやりに返事をしておいたが、いったんはおさまっていた疑念が、ふと頭をもたげた。

 半クラウン一枚、二シリング硬貨を三枚、一シリング硬貨をばらで四枚のおつりをよこしたが、どの硬貨も国内で使い古された銀貨ばかり、まちがいなく英国造幣局発行の、手を加えられたものではなかった。これで彼が贋金をつかませようとしているという仮説は捨てられたも同然である。どういった種類のアンティークに興味がおありなのですか、と聞いてきたので、ただ、何ということもない、まるっきり素人の趣味なんだよ、と答えた。すると、どうぞあちこち好きなだけご覧になってください、と言う。私が言われたとおりに見回り始めると、彼は、カタログとおぼしい冊子を入れた封筒に、宛名を書いたり、切手を貼ったりする仕事に戻った。

 私に目を遣ることもなければ、品物を勧めることもない。私は手当たり次第に小さなインクスタンドを選び出し、値段を聞いた。二シリングです、というので、例の贋5シリング硬貨を使ってみることにした。彼は受けとり、特に何かを言うわけでもなく、釣りを寄越した。こうして彼が贋金作りの連中とつながっているのではないか、という疑念は、あとかたもなく消えてしまったのである。

 ちょうどそのとき、若い男が店に一人で入ってきた。一見してすぐ、お客ではないことがわかる。男は店の奥へ足早に歩いていき、間仕切りの向こうへ姿を消した。その間仕切りにはガラスがはまっていて、入り口がそこから見えるようになっている。

「ちょっと失礼」主人はそう言うと、若い男を追いかけて、奥の私室へ入っていった。

 私がさまざまな奇妙なコレクションを観察していると、硬貨を机にあけたときのような、ざーっという音が聞こえた。それから人の耳を憚るようなひそひそ声が聞こえる。私は入り口近く、私室に通じるガラス窓を片目の隅にとらえたまま、表戸の鍵を音もなく鍵穴から抜くと、蝋で型を取り、誰にも見とがめられないうちに鍵を戻した。ちょうどその時、さらにもう一人、若い男が入ってきて、私の脇を抜けて、奧の私室へ入っていった。新しい男の声がする。「おじゃまします、シンプソンさん。ロジャース、調子はどうだ?」

「やあ、マクファーソン」ロジャースと呼ばれた男が答えると、すぐに店に出てきた。シンプソンさん、おやすみなさい、と別れを告げてから、口笛を吹きながら通りへ出ていったが、ほどなく彼が同じ言葉を繰りかえすのが聞こえたかと思うと、また若い男が――今度の彼はティレルと呼ばれていた――入ってきた。

 私はこの三つの名前を頭に刻み込んだ。やがて二人連れが入ってきたが、名前がわからなかったので、顔つきを覚えるだけで我慢するしかなかった。こうした男たちはどうやら集金人で、そのたびに金のたてるざーっという音が聞こえていた。だがこの小さな店は、どう見ても大きな商いをしているようには思えない。私は三十分以上も店にいたが、いつまでたっても客のひとりも現れなかった。かりに掛け売りをしていたとしても、集金人はひとりで十分のはずであるのに、五人も入ってきて、それぞれ金を納めていく。その山を今夜もサマトリーズは持って帰るのである。

 私はやつが宛名を書いていた例のパンフレットを、一部頂戴することに決めた。カウンターの後ろに重ねてあるのを、手を伸ばして一番上を造作なく取り上げる。私はそれをポケットにすべりこませた。五人目の男が通りへ出ていくと、サマトリーズ自身が現れたが、今度はぎっしりとふくらんだ革のかばんを手にしていた。鍵はかかっているが肩掛けがたれさがっている。時刻は五時半になろうとしているところで、どうやら私を追い出して、店を閉めたそうなようすだった。

「何かおもしろそうなものはございましたか」

「いやまあ、なくはない、といったところかな。それにしてもずいぶんおもしろそうなものを集めているようだが、こう暗くっちゃよく見えんよ」

「五時半閉店なんですが」

「ああそうか」私は時計を確かめながら言った。「また来るよ」

「ありがとうございます」サマトリーズがそれだけ答えたところで、私は店をあとにした。

 通りの反対側の露地に入ったところで見ていると、サマトリーズは自分の手で鎧戸をおろし、それからオーヴァーを着こんで現れた。金のかばんを肩からかけている。ドアに錠をおろし、手で押して確かめてから、通りへ出た。片手には宛名書きを書いていたパンフレットの束を抱えている。距離を保って後をつけると、最初に通りがかった郵便局のポストにパンフレットを投函するのが見え、それから急ぎ足にパーク・レーンの家に戻っていった。

 私は自分のアパートに戻って助手を呼んだ。

「薬だのせっけんだのといったありきたりの広告を除くと、そうでない広告はこの一種類だけ、これが全紙、朝刊にも夕刊にも共通して出ています。広告はそっくり同じではありませんが、共通点がふたつ、いや、三つかな。どれも健忘症の治療を提供する旨が謳ってあります。申込書には同じ宛先が記され、一番興味があることを書くようになっていて、宛先はどれも一緒、トッテナム・コート通りのドクター・ウィロウビィです」

「どうもありがとう」切り抜いた広告を私の前に置いた助手に、私は声をかけた。

 何枚か読んでみる。いずれも小さい広告だから、新聞を読んだときには気がつかなかったが、どれもひどく奇妙なものだった。なかには健忘症患者の名簿に、それぞれの趣味を添えて知らせてくれれば、その名簿に対して一シリングから六シリングまでの報奨金を出す、というのまである。ほかの多くの切り抜きは、ドクター・ウィロウビィは健忘症の治療の専門家である、と謳っていた。費用は無料、治療はしないが、パンフレットを送付する。パンフレットを読んでたとえ効果がなかったとしても、決して害にはならない。ドクターは患者を個別的に診察することはできないし、手紙での問い合わせに答えることもできない。そうして住所はトッテナム・コート通りの古ぼけた骨董屋と同じだった。ポケットにしまっていたパンフレットを出してみると、『クリスチャン・サイエンスと健忘症』とタイトルがついており、著者名がドクター・スタンフォード・ウィロウビィとなっている。奥付に広告と同一の但し書きがついていて、ドクターは患者と面談もしないし手紙での問い合わせにも応じない、とあった。

 私は紙を一枚引き寄せて、ドクター・ウィロウビィに手紙を書いた。私は大変忘れっぽいので、パンフレットを送ってくだされば、幸甚に存じます、趣味は初版本の蒐集です、と書き添えた。それから「ロンドン西区インペリアル・フラット、アルポート・ウェブスター」と署名した。

 ここで説明しておくと、人々にあまねく行き渡った名前、ウージェーヌ・ヴァルモンではない名前で人に会った方が良いこともある。私のアパートはドアが二つあって、一方には「ウージェーヌ・ヴァルモン」と記してあり、もう一方には枠だけが取り付けてある。そこに私が選んだ名前を入れたパネルをすべりこませることができるようになっているのだ。一階の右の壁面には、アパートの住人の名前がすべて掲載されているのだが、そこにも同じ仕掛けがしてある。

 封をし、宛名を書き、切手を貼って、召使いにアルポート・ウェブスターという名前を出しておくように、もし誰かがこの架空の人物を訪ねてきたら、会う約束を取りつけておいてくれ、と頼んだ。

 翌日の夕方、六時少し前に、アンガス・マクファーソンと書かれた名刺が、ミスター・アルポート・ウェブスター宛に届いた。私にはその若い男が、一昨日あの小さな店に入ってきた二番目の男、ミスター・シンプソンに課金を届けに来ていた人間であることはすぐにわかった。本を三冊小脇に抱えていたが、感じのいい、ものやわらかな話し方から、勧誘員の仕事を十分に会得していることが見て取れた。

「おかけになりませんか、マクファーソンさん。それで、どういったご用件でしょうか」

 彼は三冊の本を、背表紙を上にしてテーブルに置いた。

「ウェブスター様は初版本に興味をお持ちとうかがいましたので」

「確かにそれだけが私の楽しみと言えるでしょうね。だがなかなか金を食う道楽でしてね」

「おっしゃるとおりですね」マクファーソンはいたわるようにうなずくと、言葉を続けた。「ここに三冊ございますが、一冊はちょうどおっしゃられたとおりのものなんです。一部百ポンドでご提供させていただいておりますが、ロンドンの競売にかけられた最後の一冊は、123ポンドの値をつけたそうです。イギリス中、どこの本屋をお探しになっても、このお値段でこれだけのお宝は、ほかにはないものでございますよ」

 私は三冊をじっくりとあらためて、すぐに彼が本当のことを言っていることがわかった。その彼はテーブルの向こうに立ったままでいる。

「どうぞおかけになってください、マクファーソンさん。あなたは百五十ポンドの価値のものを、そんなふうに無造作に小脇に抱えてロンドン中を歩きまわっていらっしゃるのですか」

若い男は笑った。

「危ないことなどございません、ウェブスター様。みんな私が小脇に抱えているのは、安売りの店で手に入れた本三冊で、家へ持って帰っているところだ、ぐらいにしか思いますまい」

 私は彼が百ポンドだと言った本を名残惜しげに手に取ったまま、それとなく彼を見やった。「たとえばこの本なんですが、どうやって手に入れたんですか」

 彼は感じのいい、開けっぴろげな表情を浮かべると、ためらうことなく正直に答えた。
「実はそれは私の本ではないのです、ウェブスター様。私は稀覯本の目利きぐらいのつもりでおりますが、もちろん自分で好きなだけ蒐集できるほどの財産は持っておりません。とはいえロンドンのあちこちに、なかなか良い本をお持ちの方なら存じ上げております。さしあたってこの三冊は、ウェスト・エンドにお住まいのある紳士の蔵書から出たものでございます。その方には私もずいぶん買っていただきましたので、信用がおける男だと考えてくださったんでしょう。この三冊、実際の価値より低い値でいいから、と処分なさるおつもりで、私にその取引を任せてくださってるんです。稀覯本に興味がおありの方を見つけるのが私の商売でございまして、私もそれなりに儲けさせていただいております」

「それで、どこで私が愛書家であるとお知りになった?」

マクファーソンは愛想良く笑った。

「いやいやウェブスター様、正直に申し上げますが、ほんの偶然でして。よくしていることなんですが、こうしたアパートを訪ねては、ドアに出ている名前の方に名刺を通していただく、そうやって、うまく中へ通してくださったら、さきほどおたずねしたように『稀覯本に興味をお持ちですか』とうかがうのです。もし興味がない、とおっしゃられたら、失礼致しました、とお詫びしてひきあげる。興味がおありだとおっしゃられたときには、私の品を見て頂く、という具合です」

「なるほど」とうなずきながら、よくもまあもっともらしい嘘があとからあとから出てくるものだ、この若いやつは無邪気な顔をして、と思っていた。だが次に私が聞いたことに対する答えは嘘ではなかった。

「今日、初めておいでになったんだから、マクファーソンさんにもう少しうかがってもよろしいですね。ウェスト・エンドにお住まいの本の持ち主はどういう方なんですか」

「ミスター・ラルフ・サマトリーズとおっしゃる方です。パーク・レーンにお住まいです」

「パーク・レーンですか。はあ、なるほど」

「この本をお宅に置かせていただけると、私としてもうれしい限りです、ウェブスター様。もしミスター・サマトリーズとお話になりたいとお考えでしたら、私のことは決して悪くはおっしゃらないと思っております」

「ああ、そんなことはちっとも思ってませんよ。そんな立派な方に迷惑をかけようとは思っていません」

「忘れておりました」若い男は続けた。「私には資本家の友人、いわば後援者とも言えるような人物がおります。なにしろさきほども申しましたように、私自身はほとんど資金がございません。どなたでもある程度まとまった金額になると、支払いはなかなか厄介なものでございます。私の場合、掘り出し物を見つけると、その友人が本を購入し、私がお客様と契約して、毎週いくばくかずつお支払いくださるよう取り決めます。そこでお買い物の額がかなりのものになりましても、分割払いの金額をお客様に応じて低く設定いたしますので、それほどにはお感じいただかないようになっております」

「昼間はお勤めのようですな」

「はい、私はシティ(※ロンドン金融中心街)で事務員をやっております」

私たちはふたたび作り話の幸せな王国に舞い戻った。

「もしかりにこの本を10ポンドで買うとしたら、毎週どれほど支払ったらよいのですか?」

「もちろんお望みの額で結構ですよ。さしあたって毎回5シリングでは高すぎますか」

「そんなことはありません」

「それは結構。ではいま、5シリングいただけましたら、ご本をお客様にお渡しし、来週の今日、また5シリングをいただきにうかがいます」

 私はポケットから半クラウン銀貨を二枚だし、彼に渡した。
「残りの支払いのために、何か書類に署名でもしたほうがいいですかな」

 若い男はにっこりと笑った。

「とんでもございません。そんな書式など必要ございません。お客様、これは半ば私の道楽のようなものですから。むろん、先々のことを考えていないと言っては嘘になりますが。お客様のような愛書家の方々のご厚誼を得ておきましたら、と考えております。いつかは保険会社を辞めまして、小さな商いでも始めて、私が養った本の知識を活かせたら、と」

 それからポケットから撮りだした小さな手帖に何か書きこむと、丁寧な挨拶をして出ていった。ひとりになった私は、いったいこれはどういうことなのだろうと考えたのだった。

 翌朝、ふたつの品物が届いた。ひとつはパンフレット『クリスチャン・サイエンスと健忘症』、私が骨董屋から持ち出したのとまったく同じものが郵送されてきた。もうひとつは小さな鍵で、私が古ぼけた骨董屋の表戸から取った蝋の型から作らせたのだ。これを作ったのはホルボーン近くのへんぴな通りに住むアナーキストの友人で、いい腕のもちぬしなのである。

 その晩、十時になると、私は骨董屋に忍びこんだ。小さな蓄電池をポケットに入れ、グロー電球をボタンホールに刺したが、これは泥棒にも探偵にも、きわめて便利な道具だ。

 店の帳簿は金庫の中にあるだろう、と目星をつけていた。もし金庫がパーク・レーンの金庫と同種のものなら、手元の合い鍵で開くだろうし、そうでない場合には、鍵穴の型を取り、あとはアナーキストの友人にまかせればよい。だが驚いたことに、商い関連の書類はすべて机の中にしまってあり、鍵さえもかかっていなかった。帳簿は三種類、通常の毎日の売り上げ帳と金銭出納帳、それに店の台帳の三冊である。えらく旧式な経理をやっているのだった。ところが紙ばさみのなかには六枚の大判の用紙が入っていて、それぞれの見出しに「ロジャース顧客一覧」「マクファーソン顧客一覧」「ティレル顧客一覧」と、既によく知っている名前が記されていて、他の三つにも同様の見出しがあった。この名簿はどれも最初の欄に名前、二番目に住所、三番目には合計金額が書いてあり、続く小さな四角い枠のなかに2シリング6ペンスから1ポンドまでの金額が記されている。マクファーソンのリストの最後には、アルポート・ウェブスターという名前に続いて、インペリアル・フラット、10ポンド、とあり、さらに小さな四角のなかに5シリングとあった。それぞれ勧誘員の名前がついているこの六枚の用紙は、あきらかに現在の集金の記録であり、見たところ、いささかの犯罪の要素もなかった。私の信条「疑わしい点に行き当たるまでは、いかなる事件でも底まで見届けたと思わない」がなければ、そこで来たときと同様、何の得るところもないまま店をあとにしていただろう。

 六枚の紙は薄い紙ばさみのなかに、綴じることなく入っていたが、机の上に分厚い帳簿が何冊もある。そのうちの一冊を抜き出してみると、そこには数年前からの同じようなリストが入っていた。マクファーソンの現在のリストに、センタム卿の名前があったが、彼は変わり者の貴族で、私とは多少の面識があった。ページを繰って現在のリストのすぐ前を見ると、その名前はそこにもある。リストを順番にさかのぼって、名前が最初に登場するところまでいった。それは三年以上も前のことで、センタム卿は50ポンドの家具を買ったのだが、その代金として、センタム卿は週に1ポンド、なんと三年以上も支払いを続け、総計で少なくとも170ポンドに達しているのだ。たちまち、すばらしく単純な計略が私の腑に落ちた。このからくりにたいそう興味をそそられて、私はガスランプに火をつけた。調査が終わるまで時間がかかるだろうし、私の小さなライトではもつまいと考えたからである。

 獲物のほうが抜け目がなくて、したたかなシンプソンも当てが外れたこともあったらしく、分割払いの正規の回数が終わったところで「支払完了」の文字が名前の欄の上に記されている場合もあった。だが、こうした抜け目のない人間の穴は、ちゃんとつぎの獲物が埋めており、顧客の健忘症で成り立ったシンプソンの商売は、十件のうち九件まではうまくいっているらしい。シンプソン配下の集金人たちは、完済したのちもずっと、集金を続けているのだ。センタム卿の場合など、支払いは明らかに一種の習慣となってしまっていて、老人は週に一ポンドずつ、物腰の柔らかなマクファーソンに、借財が消滅してから二年間も払い続けていたのである。

 分厚い帳簿の中から、1893年という日付の入ったルーズリーフを一枚抜き取った。そこにはセンタム卿が飾り脚テーブルを50ポンドで購入したことが書いてあり、センタム卿はその時からいま現在、1896年11月にいたるまで、週に一ポンドずつ支払いを続けているのである。この書類一枚、三年前のファイルから抜き出しても、現在のものがなくなるのとはわけがちがうはずだ。私はマクファーソンの現在の顧客の名前と住所を写すと、すべてを元通りにして、ガスを消し、店の外へ出てから、表戸に鍵をかけた。ポケットの1893年の名簿をもとに、今度あのもの柔らかな友人マクファーソンをちょいと驚かしてやろうと考えていた。

 トラファルガー広場に着いたときはずいぶん遅い時刻だったが、ミスター・スペンサー・ヘイルはまだ勤務中のはずだ。私は無性に訪ねたくなった。職場で勤務中のヘイルは、彼の一番いい状態とは言えない。というのも彼の頑丈な身体も官僚主義にがちがちに固まってしまっているのだ。精神的にも、自分の地位をことさらに重要に感じているし、しかも職場では大きくて黒いパイプであのひどいタバコを吹かすのも禁じられている。警察に着くと、そのつもりでいてください、と、前にも言っていたように、無愛想な態度で私に相対した。出迎えると、藪から棒にこんなことを言い出したのである。

「ヴァルモン君、この仕事はあとどれくらいで片づきますかね」

「何の仕事のことをおっしゃっておいでです?」私は穏やかに聞き返した。

「決まってるだろう、サマトリーズの件だ」

「ああ、そのことか」私は驚いて大きな声を出した。「サマトリーズ事件はもう片づいていますよ、もちろんね。もしあなた方がお急ぎなのがわかっていたら、何もかも昨日のうちに片をつけておいたのに。あなたとポジャーズ君と、あと何人がこの件に関わっているのか知らないが、16日だか17日ほどもかかっているではありませんか。それに較べると私はたったひとりでやっているのですから、あえて時間をかけているのですよ。お急ぎだとは知りませんでした」

「ちょっと待った、ヴァルモン君。それはちょっと聞き捨てならんな。君はもうやつの尻尾を押さえる証拠を手に入れたというのかね」

「絶対かつ完全な証拠を」

「なら誰がその偽造犯なんだ」

「私の立派な友人であるミスター・ヘイル、私はあなたに結論に飛びついてはならないとこれまで何度も申し上げてきましたね? あなたが最初に事件のお話をしてくださったときに、サマトリーズは贋金作り犯でもなければ、その一員でもないと申し上げたでしょう。私が十分な証拠を手に入れたのは、まったく別の事件、犯罪史上類を見ないような、ユニークなケースなんです。私はあの店の秘密を暴き、あなたが尾行をつけるのも無理ないほど疑わしい行動の、あらゆる原因となっているものを発見したのです。とにかく来週の水曜日の夕方、六時十五分前に、逮捕をする用意をして、私のところにお越しください」

「私が一体誰を、何の容疑で逮捕するのか知らなくては」

「確かにその通りですね、モナミ、ヘイル。ただ私はあなたに逮捕させるとは言っておりません。ただ、その用意をしておいてください、と申し上げただけです。もしいま私が明らかにした話に耳を傾けてくださる時間があるなら、喜んでお聞かせしますよ。たしかにこの事件には独特の側面があります。もし、いまご都合が悪いようでしたら、お時間のあるとき、訪ねていらっしゃってください。あらかじめお電話をくだされば、私が在宅かどうかわかるので、あなたの貴重な時間も無駄にならなくてすみますよ」

 そう言って深々とお辞儀をして見せると、ヘイルの顔には、私がからかっているのかどうなのか決めかねているらしい怪訝な表情が浮かんだが、すぐに、彼がつねづねいうところの「警官の威信」とやらは、いまこの場で一部始終を知りたいという願望の前に崩れ落ちたのである。つまり、我が友ヘイル君の好奇心をうまくかきたてることに成功したのだ。彼は眉根を寄せて話に聞き入っていたが、たまりかねて「そんなことが!」と叫んだ。

「この若い男が、水曜日の午後六時に私のところへ二度目に五シリングを取りに来るのです。だからこうやってあなたに話を持ちかけているんですよ。制服姿のあなたが待ちかまえているところに彼がやってくる。私が知りたくてたまらないのは、いきなり警官の前にでてしまったときのミスター・マクファーソンの顔です。差し支えなければそのあとに、私に少し尋問させていただきたいのです。スコットランド・ヤード流の、自分は有罪だと思わせないようなやり方ではなく、私たちがパリで採用している、自由で気楽なスタイルでやりたいんです。それから事件をあなた方にお渡ししますから、あとはお好きなように始末をつけてください」

「よくもまあ、あとからあとからたいした言葉が出てくるもんですな、ムッシュー・ヴァルモン」これがこの警官の賛辞なのである。「かならず水曜日の六時十五分前にうかがいます」

「それまでどうかこの話はだれにもおっしゃらないでください。ぬかりなく取りはからって、マクファーソンを驚かせるんです。それが肝心ですから。水曜の夜までは、この件にくれぐれも手をお出しにならないよう、お願いしますよ」

 スペンサー・ヘイルは感服して、黙ったままうなずくばかりだった。私は丁寧に別れを告げた。


 5.健忘症連盟

 私の部屋のようなところでは、照明は由々しい問題なのだが、この点電灯というのは、なかなか使い勝手のいいものである。私はこの電灯の利点を十分に活用することにした。照明を操作して、ある一箇所のみに光が注ぐようにして、それ以外の場所は薄暗くなるようにしたのである。水曜日の夜になると、電灯を調節してドアに向かって最大光量が注ぐようにし、私はテーブルの端の薄暗いところに座った。ヘイルはその反対側に、降り注ぐ光を浴びて、一種独特の彫りの深い面もちは、厳しく誇り高い正義の彫像を思わせた。部屋に脚を踏み入れた者はだれでも、まず照りつける光に目がくらみ、それから法に則った制服姿のヘイルの巨大な姿を目にすることになるのだ。

 アンガス・マクファーソンは部屋に入ってくると、不意をつかれたのがはっきりと見て取れ、敷居のところで棒立ちになると、巨大な警官を凝然と見つめた。最初、きびすを返して逃げ出そうとしたようだが、背後でドアが閉じると、おそらく彼にも聞こえたように――私たちみんながその音を聞いた――かけがねがかちりと落ちたのである。彼は閉じこめられたのだ。

「あ、えーと……」彼は言葉につまったらしい。「ウェブスター様にお目にかかりたいのですが」

 それを聞いて、私はテーブルの下のボタンに手を伸ばした。その瞬間、私の姿が光に光の中に浮かび出る。私を見て、マクファーソンの表情に陰気な笑みが広がっていき、もっともらしいことを言って、知らん顔でその場をやり過ごそうとした。

「おや、そこにおいででしたか、ウェブスター様。気がつきませんでした」

 緊迫した瞬間だった。私は強い印象を与えようと、ゆっくりと口を開いた。

「あなたもおそらくはウージェーヌ・ヴァルモンという名前をご存じないわけではありますまい」

 彼はふてぶてしくこう応えた。「お言葉ですが、そのようなお名前は、ついぞうかがったことはございません」

 これ以上はないというほどのひどいタイミングで「あははは……」と脳足りんのスペンサー・ヘイルが馬鹿笑いを始め、私が考えに考えて演出したドラマティックな場面を、ぶちこわした。イギリスにろくな戯曲がないのも驚くにあたらない。連中ときたら人生の感動的な場面を愛でる気持ちなど、薬にするほども持ち合わせていないのだ。彼らにはおよそ人生の明暗に際し、生き生きと反応することがない。

「ははは……」ロバがいななくような声をあげて、なおもヘイルは笑い、緊張感に充ちた空気は、一気に凡庸なものに変質してしまった。だが、人間、何をなすべきか。かくなるうえは神の与えたもうた道具を使いこなすよりほかない。私はヘイルのところをわきまえない馬鹿笑いを無視することにした。

「おかけなさい」マクファーソンは私の言葉に従った。

「今週、君はセンタム卿のお宅を訪問したね」私は厳しい調子を保った。

「さようでございます」

「そうしてセンタム卿から1ポンド集金した」

「はい」

「1893年の10月、君はセンタム卿にアンティークの飾り脚テーブルを50ポンドで売ったね」

「その通りです」

「先週、君はここに来たとき、ラルフ・サマトリーズの名前を出し、彼はパーク・レーンに屋敷を構える紳士だと言った。そのとき、君はそれが君の雇い主だとは知らなかったのかね」

 マクファーソンは私から眼を離さなかったが、このときは返事をしなかった。私は冷静に言葉を続けた。「君はパーク・レーンのサマトリーズとトッテナム・コート通りのシンプソンは同一人物であることも知っているね」

「はて」マクファーソンは言った。「何をおっしゃっておられるのか見当がつきかねますが、本名以外で商いをやっていくというのは、それほどめずらしいことではございません。別に法律に違反するようなことではないと存じますが」

「もうすぐその法律違反は問題になりますよ、ミスター・マクファーソン。あなたとロジャース、ティレル、それからあとの三人は、このシンプソンという男の共犯だ」

「確かに私たちはおっしゃるとおりあの方に雇われております。共犯とおっしゃられても、通常の事務員と何ら変わるものではございません」

「ミスター・マクファーソン、あなた方のもくろんだ策略については、私はもう十分にあきらかにしたと思いますよ。いまあなたはスコットランド・ヤードのミスター・スペンサー・ヘイルの立ち会いの下にいます。あなたの自白を聞こうと待っていらっしゃるんですよ」

 ここでヘイルの馬鹿が割りこんできた。「だから覚えておくように。君が言うことはすべて……」

「失礼、ミスター・ヘイル」私は急いで遮った。「すぐにこの件はあなたにお渡ししますから、あの約束を思いだして、いまのところはすべて私に任せてください。さて、ミスター・マクファーソン、自白してはいかがです? いますぐに」

「自白ですって? 共犯者ともおっしゃいましたよね?」マクファーソンは見事なまでに自然な驚きを装った。「あなたはずいぶんおかしな言葉をお使いですね、ミスター……、ミスター……どなたでしたっけ。あなたのお名前は何とおっしゃいましたか?」

「ハッハッハッ」ヘイルはまた馬鹿笑いをした。「この方はムッシュー・ヴァルモンとおっしゃるのだ」

「ミスター・ヘイル、お願いします、もう少しでいいんです、この男を私にまかせてください。さて、マクファーソン、何か申し開きはあるかね」

「何の罪も犯していないのに、申し開きの必要があるはずもないじゃないですか。あなたが私どもの商いについて、細かいことをいろいろご存じだとおっしゃりたいんでしたら、それは喜んで認めますし、あまりの的中ぶりに感心したと申し上げましょう。どういう点がご不満なのか、もっとわかるように説明してくだされば、できるかぎりの説明はいたします。誤解があるのはまちがいないのですが、どうにも、もう少し説明していただかなくては、ここに参ります途中と同じ、濃い霧のなかにいるようなものでございますから」

 マクファーソンのふるまいは、確かに分別のあるもので、意識してやっていたわけではなかろうが、その外交手腕にかけては、私の向かいに体を固くして座っている我が友スペンサー・ヘイルよりも、よほどうわてだった。マクファーソンは穏やかな声音で諭そうとしており、誤解もまもなく溶けるだろうと思って、あえて怒りを抑えているようすである。外から見ると、彼の言動は無実そのもので、抵抗しすぎるでもなく、しすぎないわけでもない。だが、私には彼を、もうひとつ驚かすものを用意していた。トランプの切り札とでもいうべきもので、私はそれをテーブルの上に拡げて見せたのである。

「さて」私は大きな声を出した。「この紙は見たことがありますね」

 彼はちらりと目を遣っただけで、手に取ろうともしなかった。

「ええ、あります。それは私どものファイルから抜き出されたものですね。私どもはそれを訪問リストと読んでおりますが」

「さあ、マクファーソン」私は厳しい声を出した。「君は自白を拒んでいるが、我々はすべてをつかんでいる。ドクター・ウィロウビィのことも聞いたことはないんだろうな」

「いえ、知ってます。クリスチャン・サイエンスについての馬鹿げたパンフレットを書いている人です」

「その通りだ、マクファーソン。クリスチャン・サイエンスと健忘症についてだ」

「そんなところですね。もう長いこと読んでませんから」

「この教養豊かな博士と会ったことはあるかね、マクファーソン君」

「ええ、ありますよ。ドクター・ウィロウビィはミスター・サマトリーズのペン・ネームですから。あの方は、クリスチャン・サイエンスのような類のことを信じていらっしゃるので、それについて書いていらっしゃるのです」

「ああ、そういうことか。君はそうやって少しずつ自白するつもりなんだな、マクファーソン君。我々には率直に話した方がいい」

「私もちょうど同じことを申し上げようと思っていたんです、ムッシュー・ヴァルモン。ミスター・サマトリーズ、もしくは私自身にどんな嫌疑がかかっているのか、もっと簡単に言ってくだされば、私にも何がおっしゃりたいのかよくわかるのですが」

「君の容疑は金銭詐取だ。その罪で著名な資本家もひとかたならず刑務所送りになっている」

 スペンサー・ヘイルは太い人差し指を私の前で振り、「チョッ、チョッ、ヴァルモンさん、脅迫は駄目です。脅迫は駄目なんですよ」と言ったが、私は気にも留めず続けた。

「たとえばセンタム卿の場合だ。君たちは50ポンドのテーブルを分割払いで売った。卿は毎週1ポンドずつ支払ったから、一年もしないうちに完済したはずだ。だが卿の記憶ははなはだたよりにならぬものだ。君たちの顧客みんながそうであるようにね。だからこそ君は私のところへ来たのだね。私がウィロウビィの怪しげな広告に返事を出したからだ。そうやって君たちは集金に集金を重ねて、もはや三年以上になる。これで嫌疑についてはわかっただろう」

 ミスター・マクファーソンは小首を傾げて私の告発を聞いていた。最初は、これまでと同じく、いかにも気遣わしげに一心に耳を傾けている風をたくみに装い、表情も曇らせていたのだが、徐々に話が呑み込めてくるにつけ、表情も晴れていく。私が話し終わるころには、口元には愛想のよい笑みが浮かんでいた。

「なるほど確かに見事な策略ですね。健忘症連盟、とでも呼んだ方が良さそうだ。これまでに聞いたこともないような話です。サマトリーズにもしユーモアのセンスがあったら――実際には薬にするほどもないんですけどね――善良なクリスチャン・サイエンス熱が、いつのまにか詐欺で人様のお金に手を着けたという容疑に結びついたと聞けば、さぞかしおもしろがるだろうなあ。残念ながらこの件には虚飾などどこにもないんです。私の知る限りでは、ただ自分の顧客名簿に載っている方々を訪ねて、お支払いいただいているだけなんです。どうやらあなたは私とサマトリーズの両方を捕まえたいらしい。あなたのその大胆不敵な仮説によれば、共同謀議によって起訴ということになるのでしょう。ところがどうしてそんな誤解が起こったのか、私にはよくわかるのです。

「あなたは私どもがセンタム卿に曲がり脚のテーブルを一年前にお買い求めいただいて以来、何の取引もない、というふうに、一足飛びに結論づけてしまわれた。幸いなことに、卿は私どもの大変良いお客様で、折りにつけ、さまざまなものを買って頂いております。卿が私どもに借りがある状態のこともあれば、一時的に卿の側の過払いの状態のこともございます。一種の継続契約のもとで、週に一ポンドずつお支払いいただいているんです。ほかにも同様の方法でお取引きさせていただいているお客様もいらっしゃいますが、おかげさまで私どもはその収益を当てこむことができますし、その見返り、といいますか、お客様の方ではそれぞれ興味をお持ちの方面の品々を、他のお客様に先駆けて購入することができます。先ほども申し上げましたとおり、私どもは事務所にあるこうした顧客名簿を“訪問リスト”と呼んでおりますが、この訪問リストは、私どもの用語で“百科事典”と呼ばれるものとつきあわせなければ、十分なものとはなりません。それを“百科事典”と呼ぶのは、非常に冊数が多いからなんです。一年に一冊ですが、さかのぼっても一体いつから始まっているのか見当もつきません。訪問リストの金額の上に、ところどころ小さな数字があるのに気がついておいでだと思います。この数字は百科事典の該当ページです。そのページには新しくお買いあげいただいた商品とその金額が記入してございます、言ってみれば元帳ですな」

「それは大変おもしろい説明だな、ミスター・マクファーソン。君のいう“百科事典”とやらはトッテナム・コート通りの店にあるのかね」

「いいえ、そうではありません。百科事典は一冊ずつ、鍵がかかるようになっております。こちらの帳簿のほうに私どもの商いの公表されない部分が記してあり、パーク・レーンのミスター・サマトリーズの家の金庫に保管されています。ためしにこのセンタム卿の取引を見てみましょう。ある日付の下に、薄く102と書いてあったとする。そこで、その年の百科事典の102ページを見てみると、センタム卿にご購入いただいた品物の一覧と、それぞれの値段が書いてあります。単純なことです。もしちょっとだけでも電話をお借りできましたら、ミスター・サマトリーズにお願いしてみますよ、まだ夕食の時間ではないから。1893年の分を持ってきてください、と。15分もしないうちに、あらゆることが完全に法律の範囲内でなされていることが納得していただけると思っています」

 正直言って、この男の自然な物腰と自信は私をたじろがせるものだった。ヘイルの唇に、そんな話は一言も信じないぞ、という皮肉な笑みが浮かんでいるのを見ると、ますます不安が高まった。テーブルの上の電話を、マクファーソンは説明を終えると、手を伸ばし、自分の方へ引き寄せた。そこへスペンサー・ヘイルが割って入った。

「すまないが電話は私がかけるよ。ミスター・サマトリーズの番号は何番だね」

「ハイド・パーク140です」

 ヘイルはすぐに交換を呼び出し、パーク・レーンの家につながった。ヘイルがしゃべるのが聞こえる。「ミスター・サマトリーズのお宅ですか。ああ、君か、ポジャーズ。ミスター・サマトリーズは在宅かね。結構。ヘイルだがね。いまヴァルモンさんのアパートにいる。そう、インペリアル・フラットだよ、知ってるだろう。そうそう、このあいだ、君が私と一緒に行ったところだよ。よろしい、それで、ミスター・サマトリーズのところへ行って、ミスター・マクファーソンが1893年の百科事典が必要だと言っている、と伝えてくれ。わかったかね? そう、百科事典だ。それが何の事典だとかいうことはわからなくていい。ミスター・マクファーソンだ。いや、私の名前など、絶対に出してはだめだ。ただ、ミスター・マクファーソンが1893年の百科事典が必要だと言っている、と伝えればいいんだ。そうして君がこっちへ持ってくるんだ。そう、ミスター・マクファーソンはインペリアル・フラットにいる、と言っていい。だが、私の名前は出すんじゃないぞ。そういうことだ。やつが本を出したら、君は馬車を使って、できるだけ早くそれをもってこい。もしサマトリーズが出すのをいやがりでもしたら、その時は君と一緒に来るように言うんだぞ。もし来ないとでも言ったなら、逮捕して、それからほんと一緒につれてこい。よし。とにかくできるだけ急ぐんだ。待ってるぞ」

 マクファーソンはヘイルが電話をかけるのに、何の反対もしなかった。ただ椅子の背に身を預けて座り、諦めきった表情を浮かべている。もしその姿をカンヴァスに描くとしたら、そのタイトルは「冤罪」となりそうだ。ヘイルが電話を切ると、マクファーソンは言った。

「もちろんあなたの職務についてはあなたが一番ご存じなんでしょうが、あなたの部下がサマトリーズを逮捕しようものなら、ロンドン中でいい物笑いの種になりますよ。金銭詐取という犯罪があるのなら、不当逮捕だって犯罪だ、ミスター・サマトリーズはそんな侮辱に黙って引き下がるような人ではありませんからね。それから、言わせてもらえば、あなたがたのおっしゃる健忘症理論というのも、考えれば考えるほど、まったくぶざまな説のように思えてきますよ。もしこの件が新聞にでも嗅ぎつけられたら、ヘイルさん、まちがいなくあなたはスコットランド・ヤード長官を前に、三十分かそこらは具合の悪い思いをしなくちゃならないでしょうね」

「そのくらいのことは覚悟の上さ。ご忠告ありがとう」ヘイルは頑なに言い張った。

「私は逮捕されてるんですか」若い男は尋ねた。

「いや」

「なら失礼して私は退出いたしますよ。ミスター・サマトリーズなら帳簿のなかであなたがたが知りたいことを全部お見せするでしょうし、私などよりずっと合点のいく説明をしてくれるでしょう。何しろ私などよりはるかによく知っているのですから。ともかくみなさん、これで失礼させていただきます」

「だめだ、とにかくもう少しここにいてくれ」ヘイルは若い男が立つのにつられて立ち上がってわめいた。

「ということは、逮捕されているのかな」

「とにかくポジャーズが本を持ってくるまで、ここを出ちゃいかん」

「さようですか」そう言うとマクファーソンはふたたび腰をおろした。

 さて、話も底をつき、私は飲み物の用意をしたり、葉巻やタバコの箱を出したりした。ヘイルは自分が飲みたいものを混ぜ合わせていたが、マクファーソンのほうは自分の国のワインをいやがり、グラス一杯のミネラル・ウォーターだけにしておいて、タバコに火をつけた。つぎの言葉には私も感心せざるをえなかったが、にこにこしながらこう言ってのけたのだ。

「ムッシュー・ヴァルモン、お待ちのあいだに、私が用立てておりますうちの5シリング、いただけますか」

 私は声をあげて笑うと、ポケットから硬貨を取りだし払った。マクファーソンは礼を言った。

「ムッシュー・ヴァルモンはスコットランド・ヤードに関係がおありなんですか」マクファーソンは、いかにも無為の間を持たせようとするような調子で聞いてきた。だが、私が口を開く前に、ヘイルがうっかり口を滑らせてしまった。「とんでもない」

「ではあなたは警官として公式な地位におありじゃないんですね、ムッシュー・ヴァルモン」

「そういうことだ」私はヘイルがお節介を焼く前にさっさと答えた。

「それは我が国にとって損失ですねえ」このあっぱれな青年は、心からそう思っているようすである。

私もこんな頭の切れる人間が私の下で修行を積んだら、相当なものになるだろうと思い始めていた。

「我が国の警察の失態ときたら、論外ですからね。もし連中が、たとえばフランスから戦術を学びさえすれば、あの不愉快な仕事ぶりもずいぶん許容できるものになっていくでしょうに。被害者にもっと不快感を与えないようなやり方を取るとかしてね」

「フランスか」ヘイルは鼻で嗤う。「はっ、やつらは無罪と証明されるまで罪人扱いするんだぞ」

「そうですよね、ヘイルさん、まるでここ、インペリアル・フラットと同じですよね。あなた方はミスター・サマトリーズが有罪だと決めてしまっておいでだ。あの人の無実が証明されるまで、納得なさるおつもりはないんでしょう。あらかじめ言わせていただきますが、もうすぐあの方から驚くような話をお聞きになるはずですよ」

 ヘイルは不機嫌そうにうなると、腕時計を見た。時間は遅々として進まず、私たちは座ったままタバコを吹かし、しまいには私までがイライラしだした。マクファーソンは私たちの落ち着かない様子を見ながら、ぼくは霧のなかをやって来たんですが、先週もこのぐらい深かったですね、とか、きっと馬車をつかまえるのも大変でしょうね、などとしゃべっていた。ちょうどその彼が話しているときに、ドアの鍵が外から開いて、ポジャーズが入ってきた。手に分厚い本を持っている。ポジャーズはそれを上司に渡したが、ヘイルはページをめくって驚くと、背表紙を確かめて大声を出した。

「『スポーツ大百科 1893年』じゃないか! こりゃいったいどういう冗談なんだ、ミスター・マクファーソン」

 マクファーソンの顔には気の毒そうな表情が浮かび、近づいて本を手に取った。ため息混じりに言った。「ぼくに電話をかけさせてくださったらなあ。ヘイルさん、ぼくならサマトリーズに必要なのは何か、はっきり伝えることができたんですよ。こんな誤解が起こるんじゃないかと思ってたんだ。このごろ、ちょっと前のスポーツ関連の本が人気が出てきてるんです、だからミスター・サマトリーズもぼくが言っているのはこのことだと思ったにちがいない。ほかに方法がないから、あなたの部下をもう一度パーク・レーンにやって、必要なのは鍵がかかった1893年の帳簿だ、とミスター・サマトリーズに伝えてもらいましょう。どうかぼくにそのことを一筆書かせてください。あ、もちろん書いたら持っていく前にお見せしますよ」マクファーソンは、ヘイルが肩越しにのぞきこもうと立ち上がったので、そう言った。

 私のノートの紙に、自分が言ったことを走り書きすると、ヘイルに渡し、ヘイルは目を走らせてからポジャーズに渡した。

「それをサマトリーズに渡して、できるだけ急いで戻ってくるんだ。馬車は外に待たせているな?」

「はい」

「外の霧はまだ深いか」

「一時間ほど前にくらべると、そうでもありません。通行に支障があるほどではなくなっています」

「結構。できるだけ早く帰ってくるんだ」

 ポジャーズは敬礼すると、本を小脇に抱えて部屋を出ていった。ふたたびドアに鍵がかかり、私たちはまた座りこむと黙ったままタバコを吸った。そこへ電話の音が沈黙を破った。ヘイルが受話器を耳に当てた。

「そうだ、インペリアル・フラットだ。その通り。ヴァルモン宅だ。ああ、マクファーソンはここにいる。え? 何だって? 何がない? よく聞こえないな。絶版でもうない、百科事典は絶版で、もうないんだな? ところで君は誰だ。ドクター・ウィロウビィ? ああ、ありがとう」

 マクファーソンは電話のところへ行くような素振りで立ち上がると、その代わりに(あまりにひかえめにふるまったので、彼が何をやっているのか、実際にことがなされてしまうまで、私も気がつかなかった)、彼が訪問リストと呼んでいた紙を一枚つまみあげ、悠然たる足どりで歩いていくと、暖炉の中で燃え上がる石炭の上へかざしたのである。瞬時に紙は炎に包まれ、煙となり、煙突へ吸いこまれてしまった。私は怒りにかられて飛び上がったが、いまさら取りもどそうとしたところで手遅れである。マクファーソンはこれまでにも何度か浮かんだことのある、自分を卑下するような微笑を浮かべて私たちを見た。

「どうしてリストを燃やすような真似をするんだ」私は言い寄った。

「ムッシュー・ヴァルモン、それはね、あれはあなたのものじゃなかったからですよ。それに、あなたはスコットランド・ヤードとは何の関係もない。あなたはあのリストを盗んだ。あなたはあの紙に対して何の権利も有してない。あなたはこの国で公職にあるわけでもない。もしそれがミスター・ヘイルのものだったら、ぼくもそんなことはしなかったでしょう。だがあの紙切れは、何の権限もないあなたが、ぼくの雇い主の家から盗み出したものだ。もちろんあなたは、家宅侵入を見つかり、それに抵抗したとして、雇い主から射殺されたってしかたがなかった。だから失礼ながら、そんな紙は灰にさせてもらいました。ぼくはいつもこうした書類は保存しておくべきではないと思っていたんです。ウージェーヌ・ヴァルモンのように頭のいい人間が精密に調べでもしたら、見当違いの解釈をそこから引き出しかねない。ところがミスター・サマトリーズはがんこで、どうしても取っておくといって聞かない。だからこういうところで手を打ったんです。もしぼくが電報や電話で“百科事典”と伝えたら、すぐにその記録を燃やしてしまう、とね。そうして彼の方も、電報や電話で“百科事典は絶版だ”と知らせる。そこでぼくにもうまく片がついたことがわかるわけです。

「さて、みなさん、ドアを開けてください。ぼくが力ずくで開けなくてもいいように。ぼくを正式に逮捕するか、自由を制限するのをやめるかしてください。電話を受けてくださったミスター・ヘイルには、大変感謝していますし、ドアに鍵をかけたからといって、ムッシュー・ヴァルモンの高潔さを問題にするつもりもありません。でも、喜劇はおしまいです。ぼくをここに引き留めたやり口は、まったく非合法的なものだったし、ミスター・ヘイルには失礼かもしれませんが、このやりかたはちょっとフランス的過ぎて、古いイギリスにはそぐわない。それに新聞で報道されでもしたら、あなたの上官だってあまりお気に召さなかったと思いますよ。ぼくは正式な逮捕か、ドアを開けるかのいずれかを要求します」

 私は無言でボタンを押し、召使いがドアをサッと開けた。マクファーソンは歩いていき、敷居のところで立ち止まり、振り返ってスペンサー・ヘイルを見た。ヘイルはスフィンクスのように座ったままだった。

「おやすみなさい、ミスター・ヘイル」

 返事はなかったが、私の方へも同じ感じのいい笑みを向けた。

「おやすみなさい、ムッシュー・ウージェーヌ・ヴァルモン。来週水曜日の六時にまた5シリングいただきに参ります」





The End



奇妙な味


おそらくこの作品を、日本でもっとも早く読んだうちのひとりが、夏目漱石だろう。山田風太郎はエッセイ集『風眼抄』でこう書いている。

 江戸川乱歩が選んだ古今の推理短編小説ベストテンの中に、ロバート・バーの「放心家組合」(あるいは「健忘症連盟」)という作品がある。…略…

 さて、ところで私は、この「放心家組合」を読んだとき、そのアイデアそのものにはそれほど感心しなかった。なぜかというと、このアイデアは漱石の「猫」に出てくるからである。

「……この間ある雑誌をよんだら、こう云う詐欺師の小説があった。僕がまあここで書画骨董店を開くとする。で店頭に大家の幅や、名人の道具類を並べておく。無論贋物じゃない、正直正銘、うそいつわりのない上等品ばかり並べておく。上等品だからみんな高価にきまってる。そこへ物数奇(ものずき)な御客さんが来て、この元信の幅はいくらだねと聞く。六百円なら六百円と僕が云うと、その客が欲しい事はほしいが、六百円では手元に持ち合せがないから、残念だがまあ見合せよう」
「そう云うときまってるかい」と主人は相変らず芝居気のない事を云う。迷亭君はぬからぬ顔で、
「まあさ、小説だよ。云うとしておくんだ。そこで僕がなに代は構いませんから、お気に入ったら持っていらっしゃいと云う。客はそうも行かないからと躊躇する。それじゃ月賦でいただきましょう、月賦も細く、長く、どうせこれから御贔屓になるんですから――いえ、ちっとも御遠慮には及びません。どうです月に十円くらいじゃ。何なら月に五円でも構いませんと僕が極きさくに云うんだ。それから僕と客の間に二三の問答があって、とど僕が狩野法眼元信の幅を六百円ただし月賦十円払込の事で売渡す」

「タイムスの百科全書見たようですね」
「タイムスはたしかだが、僕のはすこぶる不慥(ふたしか)だよ。これからがいよいよ巧妙なる詐偽に取りかかるのだぜ。よく聞きたまえ月十円ずつで六百円なら何年で皆済(かいさい)になると思う、寒月君」
「無論五年でしょう」
「無論五年。で五年の歳月は長いと思うか短かいと思うか、独仙君」
「一念万年、万年一念。短かくもあり、短かくもなしだ」
「何だそりゃ道歌か、常識のない道歌だね。そこで五年の間毎月十円ずつ払うのだから、つまり先方では六十回払えばいいのだ。しかしそこが習慣の恐ろしいところで、六十回も同じ事を毎月繰り返していると、六十一回にもやはり十円払う気になる。六十二回にも十円払う気になる。六十二回六十三回、回を重ねるにしたがってどうしても期日がくれば十円払わなくては気が済まないようになる。人間は利口のようだが、習慣に迷って、根本を忘れると云う大弱点がある。その弱点に乗じて僕が何度でも十円ずつ毎月得をするのさ」

 という一節を記憶していたからである。
 しかし、私の読んだ順はさておき、おそらく事実は逆だ。――果然この中の「この間ある雑誌を読んだら、こういう詐欺師の小説があった」というのはこの「放心家組合」に相違ない。

(山田風太郎『風眼抄』中公文庫)

山田風太郎が引用する『吾輩は猫である』は、最終章十一の部分である。同書によると、『猫』のこの回が書かれたのは明治39年、ロバート・バーの "The Triumph of Eugene Valmont"(『ウージェーヌ・ヴァルモンの勝利』)が出版されたのも、同じく1906年なのだが、おそらくはその前の「雑誌」に初出の段階で漱石は読んでいたのだろう。

1950年にアメリカのミステリ雑誌 "EQMM"(エラリー・クイーン・ミステリ・マガジン)が、推理小説始まって以来の傑作短篇を十二編選んだ。そのとき、五位に選ばれたのがこの作品で、ちなみに二位がエドガー・アラン・ポーの『盗まれた手紙』、三位がコナン・ドイルの『赤毛連盟』である。

日本では江戸川乱歩がこの十二編を始め、十五種のアンソロジーをもとに作品を集計し、さらに乱歩自身の評価を含めて二種類のベストテンを発表した。ひとつは「謎の構成に重きをおくもの」(選ばれたのは、ポーの『モルグ街の殺人』やドイルの『唇のねじれた男』など)、もうひとつが「奇妙な味に重きをおく場合」(こちらでは本作品やポーの『盗まれた手紙』、ドイルの『赤毛連盟』など)である。

この乱歩の言う「奇妙な味」とは、山田風太郎の同エッセイによると

乱歩の表現によれば、「無邪気なる残虐」味の有無ということになる。私はむしろ何くわぬ顔の恐ろしさ」と表現したい。…略…

 乱歩はこの犯罪者のヌケヌケとした弁明にこの奇妙な味の特徴がよく現われている、というのだが、むろんこの犯罪者のアイデアのヌケヌケしさにも感心して、これをベストテンに入れたのである。

というものらしい。確かに登場人物のマクファーソンの弁明は、敵ながらあっぱれ、というところだろう。

ところで、わたしがこの作品を読んで感じた「奇妙さ」というのは、そこではないのだ。
わたしたちはミステリを読むとき、まず、これはミステリである、と思って読みにかかる。犯罪は何だろう。探偵はだれだろう。容疑者はだれで、被害者はだれで……と目星をつけながら読んでいく。

主人公はたいていの場合探偵で、多くの場合、わたしたちは探偵の目を通して(あるいは探偵の活躍を書き留める記録者の目を通しながら探偵の活躍を中心に)物語を読んでいく。そうして、かならず「悪いやつ」は登場する。たとえ登場する犯人が、やむを得ず犯罪を犯し、憐れむべき人間であるような場合、被害者が、あるいは、黒幕が、はたまたそうさせた環境が、とにかくどこか絶対に「悪いやつ」がいるのである。「悪いやつ」がいなければ、善い人間も登場できない。探偵が正義を遂行するためには、悪が存在しなければならないのだ。

ところでこの「健忘症連盟」で、悪いやつは誰だと思います?

わたしたちは、この一人称の語り手、自慢たらたらのフランス人、ウージェーヌ・ヴァルモンの語りに従って、話に引きこまれていく。主役をヴァルモンと認め、お約束のような、デクノボーの警官スペンサー・ヘイルが登場し、犯罪らしきものがあきらかにされていく。

ところが硬貨偽造事件はいつのまにかちがう犯罪に横滑りする。犯人と目されていく人間も話題になるのだが、どうもはっきりしない。どんな姿形かもわからないし、出てきても一瞬だ。しかも証拠を掴むヴァルモンは、空き巣まがいの手段に訴える。

やがて、主犯の下で働いている青年が登場する。この頭の切れる青年は、ヴァルモンが追いつめようとしても、たくみに切り抜けるばかりか、後半の場をさらってしまう。当意即妙、しかも度胸のすわったところを見せるマクファーソンは、5章の主人公となっていくのだ。まんまとしてやられるヴァルモンに対し、読者はいつのまにか彼の側に立っている。

もちろんマクファーソンは罪に問われることもないのだが、わたしたちは探偵=善玉、犯人=悪玉、と読み始めて、いつのまにかずれていき、最後には頭の切れる犯罪者の側に立ち、探偵の方を、それを陥れる側と見方が変わってしまっているのだ。このスライドする感覚があまりに見事なので、読み終わったあと、なんともいえない奇妙な感覚を覚えることになる。わたしが思うところの「奇妙な味」とは、ずれていったあげく、いったいだれが悪いのかわからない、探偵も非合法活動をし、警官は愚かさをさらけ出し、犯人は弁舌巧みで好感が持てるがやはり正体がつかめない、という、どこまでいっても何も特定できない感覚にあるのではないか、と思う。その意味では、奇妙に新しい小説なのである。

風太郎は「漱石は『奇妙な味の小説』の味を充分に解する人であった」と書いているが、確かに漱石の作品のいくつか、たとえば『猫』のエピソードや『夢十夜』などは、「奇妙な味の小説」と言える。漱石が楽しんだ作品を、いまのわたしたちが同じように楽しむというのも、これまた奇妙な味がするものである。

初出July.11-23 2007 改訂July.28, 2007

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