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読む空気、生まれる空気

もし「礼節が人を作る」のなら
これを言った人は現代のヒーローだね
無知に出くわしても笑って受け流すことだって必要だ
自分自身であること
だれが何と言おうと
―― Sting "Englishman In New York"

トト神


1.空気を読むってどういうことなんだろう

表題とは関係のない話から。
昔、現代文の試験の楽しみは、解答したあとでゆっくりと読む問題文だった。

どうしても全文を通読しておかなければならない設問というのは、実はそれほど多くはない。いわゆる客観テスト、選択問題だけのテストとなると、問題文を読まなければ答えられないような問題など、あまりお目にかかることはない。選択肢のなかで、一番もっともらしい答えを選べば、だいたい間違いない。迷うようなことがあったとしても、設問箇所の前後を読めば、だいたい見当がつく。そうやって「もっともらしい選択肢」をぱぱぱっと選んでさっさと片づけてしまってから、問題文をじっくりと鑑賞していた。

論述式にしても、設問を読んでおけば、ポイントを絞って読むことができる。「筆者の言いたいこと」などは、おしまいのほうの、なんとなく字面の密度の高いあたり、つまりは漢字の熟語がたくさん出てくるあたりに答えは埋まっているのである。目印のような要点らしい熟語を集めて作文していけば、たいていはどうにかなり、面倒なことはさっさと終えて、あとはゆっくり読書の時間だ。

問題文としてあげられた評論や小説は、いつだっておもしろかった。とくに評論というのは小説とはちがって、日頃、わたしの視野のなかには入ってこないような「読み物」だった。最初から読むと、肝心な箇所に到達するまでが大変なのだが、そうした問題文ならば、山場の箇所だけを示してくれる。しかも、設問が格好のナビゲーションの役目を果たしてくれるので、読みのポイントを絞ることもできる。
ときに、これは設問の方がおかしいぞ、と思うこともあったし、それはちがうだろう、と思うような「正解」の選択肢もあったが、それでも、加藤周一も林達夫も福田恆存も外山滋比古も唐木順三も森有正も日高敏隆も鶴見俊輔も、すべて代ゼミや河合塾や駿台の模擬テストやZ会や学校の試験問題で名前を知ったのである。

なんとおもしろいのだろう、これからどう続いていくんだろう。図書館へ寄ってこの人の本を探してみなくては、と問題を解くたびに思ったし、実際にわたしはそうすることで読書の範囲をひろげていった。問題文にとられた箇所はわかったような気がしたが、全体を通してみればよくわからないものもあったし、いま思うと、当時どこまで読めていたのだろうとも思う。それでもわたしは固かろうが、お腹を下そうが、「はらぺこあおむし」のように、手当たり次第、なんだって食いついていった。

筆者でさえ答えられない、だの、試験問題というかたちでぶつ切りにするのは作品に対する暴力だ、などという批判があるのは十分に知っている。それでも、試験問題になるということは、中学生や高校生が評論や小説に接する機会でもあるのだ。わたしのように、それを入り口に評論を読むようになった元高校生も少なくないだろう。どういうかたちであるにせよ、触れる機会はできるだけ多い方がいい。そういう意味で、試験問題として、そういう文章を出題することには少なからぬ意義があるように思う。

ところで、この試験問題の解き方にはルールがある。
ルールさえ呑みこんでいれば、たとえどんなに問題文が難解で、その内容がよくわからなかったとしても、設問に対する「正解」を見つけ出すことはそれほどむずかしいことではない。ところがこのルールの存在に気がつかなければ、たとえ筆者/作者であろうと、出題者が要求する「正解」にはたどりつけないし、「正解」と筆者/作者の意図がずれていることも十分にあり得る。

このルールを石川千秋は『秘伝 中学入試国語読解法』や『大学受験のための小説講義』などの一連の著作のなかで「「国語」という教科の目的は道徳教育にある」としている。だが、これは漠然とではあっても、国語の点数の良い子というのはかならず気がついているはずだ。

ちょっと問題文なしで、以下の問いを読んでみてほしい。

問七
――線部C「学課の授業中は「どうせできないんだ」というように沈滞している空気が、このときばかりは生き生きと熱中してくるのである」とありますが、その理由として適当なものを、次の1〜5から選び、その記号で答えなさい。(一つとはかぎりません。)

  1. 先生が、やらない者たちに厳しい罰を与えたから。
  2. 子供たちに少しでもためになることを与えてやりたいという先生の熱意があったから。
  3. 勉強ができないぶん、運動能力が発達していたから。
  4. 自分たちの将来に役立つ技術なのだという思いがあったから。
  5. やらない者はおちこぼれになると先生がおどしたから。
  6. 実社会にでることの恐ろしさを実感したから。
    (1988年攻玉社中学入試国語より
    引用は石川千秋『大学受験のための小説講義』ちくま新書)

問題文がなくても、正解が「2」と「4」だということはすぐわかる。
「学校」という場で「1」や「5」が正解になるはずがない、ということは、どんな小学生でも「知って」いるはずだ。「3」の、「勉強」と「運動能力」のあいだに何の相関関係もないことも、考えるまでもない。
「先生の思い」に対応するのが「2」、「生徒の思い」に対応するのが「4」、そうしてその「2」と「4」がぴたりと一致したから「沈滞している空気が」「生き生きと熱中してくる」。
いかにそれがおためごかしでうさんくさかろうと、「2」は「正解」だし、「実社会にでる恐ろしさ」が誰にも否定できない真実であったとしても「6」は「正解」にはならない。

だから「道徳」なのだ、と石川はいう。「学校空間で採用されているたった一つの読みの枠組み」はそれしかないから、たとえその解釈にどれほど説得力があっても、あるいは、テクスト全体の読解に、別の角度から光を当てる創造的な解釈であっても、たった一つの枠組みを外れればそれは「誤答」になる。

 僕たちはゲームをするときは、はじめにルールを教えてもらう。どういうことをすればよいのか、何をしてはいけないのか、あるいはどうすれば高い得点が得られるのか、そういうことを学ぶ。ところが「国語」という教科ではルールがあるにもかかわらず、それを教えてくれない。いや、ルールを学ぶことが「国語」という教科の目的だと考えられているのだ。

「自由に書きなさい」といわれても、それはまやかしでしかない。ルールに違反すればバツがつけられる。それなのに、そのルール自体はいつまでたっても教えてもらえない。これはアン・フェアーなことだ。このことが「国語」という教科をむずかしくさせているのだ。

 最初にルールを一言で言ってしまおう。「国語」という教科の目的は、道徳教育にある。それが学校という空間のルールだからだ。

(石川千秋『秘伝 中学入試国語読解法』新潮選書)

そもそも学校というところは、子供が社会の一員になれるように、訓練し、仕立て上げていく場である。何のかんの言っても学校の最大の目的はそれだ。一定時間、前を向いて座っていることから始まって、あまたの社会規範を受け入れ、従う主体へと作り上げていく場が学校なのである。「国語」という教科の目的が道徳教育にあるのも、至極もっともな話なのである。

だが、わたしがここで石川の著作を引いたのは、「学校」での国語教育の目的を知ってほしかったからではない。そうではなくて、この「見えないルール」というのは、いかなる場においても存在するということを指摘したいのだ。職場でも、家族でも、友人のあいだでも、たとえ人がたったふたりで会話をしていても、この「ルール」はかならず存在する。

いわゆる「コミュニケーション・スキルの高い人」、つまり、円滑に会話のキャッチボールを楽しめる人というのは、この誰も教えてくれないルールを、意識的・無意識的に察知し、それにしたがってゲームができる人だ。
それに対して「空気が読めない人」、場をしらけさす人、その人がしゃべりだしたとたん、まわりがそわそわし始めるような人というのは、このルールを察知できず、というか、ルールがあることさえ知らず、ボールを打ったらいきなりサードベースめがけて走り出してしまったり、打つべきボールを捕ってしまったり、逆に捕るべきボールを打ってしまうような人なのである。

別に「空気を読む」ことがコミュニケーションにおいて一番大切なことであると言いたいわけではない。もう一度、石川を引こう。

そのことを知ることは、受験に有利になる以上に、学校的思想から自由になる第一歩なのだということを、実は言いたかったのだ。学校的思想から自由になることは、学校をやめることではない。知らず知らずのうちに学校という生命体の細胞の一つになってしまうのではなく、学校とはこういうものだとよく知った上で、学校との関係を自分から作り直すことだ。そんな風にしてこの学校社会を生き延びて欲しい。

(引用同)

これはあらゆる場にあてはまる。
「学校的思想」があるように「職場的思想」「グループ的思想」というものがある。どんな場でも、そこにはルールがある。学校や職場のように、かっちりとしたものばかりではない。もっとゆるやかで、たえず微妙に変わっていきながらもみんながそれに従ってプレイしているようなルールが支配する場もある。「空気」という言葉で呼ばれているのは、実はそのルールのことなんじゃないだろうか。そこでの「ルール」を見出すことが、場にただ巻きこまれるのではなく、主体的に関係を作っていくことの第一歩なのではないか、と思うのである。

まず、どんな場でもそこでおこなわれている「ゲーム」には「ルール」があるのを知ること。「ゲーム」を楽しむにはその「ルール」を理解すること。
ルールを教えてもらっていないという点では、全員平等だ。にもかかわらず、従える人と、従えない人が出てくるのは、この点なのである。従えない人というのは、その「ルール」に気がつかず、どこでも自分のやり方を押し通そうとする人だ。それは、「自分をしっかり持っている」こととはあまり関係がないのではあるまいか。

「ルール」はほとんどの場合、ごく常識的なルールのはずだ。常識とどれほどもちがわない、ごくモデラートな考え方がもとになった取り決め。ただ、何かが少し強調されているはずだ。いったいどういうものが善しとされ、この話はどこへ向かおうとしているのか。それを人の会話の端々や仕草、目つきや表情から「読みとる」こと。ちょうど国語の試験に出てくる小説の問題を読みながら、本文には出てこない登場人物の「気持ち」を読みとるように。

ひとりで生きているわけではないわたしたちは、好むと好まざるとに関わらず、さまざまな集団の中に所属しなければならない。そういうなかでできるだけ自由に生きていこうと思ったら、石川の言うように「学校とはこういうものだとよく知った上で、学校との関係を自分から作り直すこと」である。「空気」もそのために読むのである。

そういう角度から、もう少し、この「空気」について考えてみたい。


2.KYって何だ?


ところで、先日、新聞サイトでこんなコラムを読んだ。ここでは全文を引用させていただく。

発信箱:KYといわれても

 若者言葉に「KY」という。その意は「空気が読めない」。自己中心の愚かさを指すのか、雰囲気に合わせられない不器用さをなじるのか知らないが、「KY」と耳にささやかれたら「この場の空気を読め」という警告らしい。

 しかし、KYだろうと何だろうと、人間、周囲の空気にのまれず自分を通さねばならぬ時がある。2年以内に制度が始まろうとしている裁判員もそうだ。

 米映画「十二人の怒れる男」(1957年)は殺人事件裁判の12人の陪審員たちの評議を描く。被告はハイティーンの非行少年。父を刺殺したとして第1級殺人罪で起訴された。有罪なら死刑だ。

 「あんなガキ」「何しろ不良だ」と11人は有罪を決め付け、仕事や今夜の大リーグの試合へと心は飛んでいる。

 だが1人が即決に抗し、話し合いを求める。「皆に気を変えろとは言わない。ただ人の生死を5分で決めていいのか」

 陪審制は全員一致が原則だ。「こんな手合いがいて困る」と周囲はぼやき、くってかかるが、彼は屈しない。そして評議が進むにつれ、気づかなかった合理的な疑問が浮かんでくる−−。

 仕組みに差異はあるが、重大刑事事件を扱う裁判員にも課題は共通する。思念を尽くした判断や内心の疑念を、周囲の空気と一致しなくてもきちんと表明し、説くことができるか。

 こわもてで大声を上げる必要はない。あの陪審員は名優ヘンリー・フォンダが演じた。帰りたがるヤンキースファンの陪審員にほほ笑み、静かに説く場面がいい。

 「1時間話そう。ゲームは8時だ」(論説室)

(毎日新聞 2007年5月22日 東京朝刊)

このコラムのポイントは「陪審制では周囲の空気にのまれず自分を通さねばならぬ時がある」という部分なのだろう。
だが、わたしがこれを読んで奇妙に思ったのは、「自分を通す」、すなわち自分の主張を周囲に聞いてもらい、なおかつ支持してもらうためには、それこそなによりも空気を読まなくてはならないのではないか、と思ったからだ。

仲間内でだべっているようなときなら、別に空気など読まないまま場違いなことを言ってしらけさせようが、「少しは空気読めよ」といやな顔をされようが、それほどたいした問題ではない。だが、言うべきことがあり、自分の意見に賛同してほしい、周囲を動かしたい、という具体的な目的があるときは、その場を支配している見えないルールがいったい何なのかを読みとらなければ賛同者を得ることはむずかしい。

筆者氏は「十二人の怒れる男」に言及しているけれど、ほんとうにこの映画を見たのだろうか。
ヘンリー・フォンダ扮する8号陪審員は、最初から確固たる見解があったわけではない。自分に投げかけられる疑問にひとつひとつ答えていくなかで、事件をさまざまなパースペクティヴからとらえなおしていく。この話し合いを通じて、彼自身もさまざまな発見をしつつ、周囲を自分の主張に同調させていく。
つまり、この映画は、確固たる見解を持った人物が、周囲に屈さず自分の意見を貫き通す物語ではなく、ひとりの人間に胚胎した考えを、話し合うというプロセスを通して、彼が全体化させていく、という物語なのである。陪審員室の空気を誰よりも読み、そうしてその流れを意識的に変えていくのは、この8号陪審員なのだ。

先にも言ったように、「空気を読む」とはその場のルールを理解し、そのルールに従ってうまくゲームをすることだ。忘れてはならないのは、ゲームをよりおもしろくするために、わたしたち自身がそのルールを変えることができるということだ。もちろんむずかしい場合もあるだろうし、時間がかかる場合もあるだろうが、それでも、ルールを必要以上に絶対視し、場に身動きできないほどがっちりと絡め取られてしまうのは、本末転倒だ。ほんとうに「KY」と耳元で囁く人がいるのかどうか知らないが、「空気」を維持するためにゲームをやっているわけではないのだから。

このコラムのように「空気を読む」ことと、「自分の意志を貫く」ことを対置することには何の意味もない。あらかじめどこかに「自分の考え」があるわけではない。場の「空気」のなかで生まれ、さまざまな人の影響を受けながら、次第に確かなものになっていくのがその人の「考え」である。周囲の人にも自分の考えを知ってほしい、共感してほしい、ともに行動してほしい、と思ったら、ゲームは俄然、戦略的なものになる。ゲームの目的は、楽しむことから勝つことに切り替わる。勝つためにはいっそう鋭い読みと、そのための戦略が必要になってくることは言うまでもないだろう。


3.コミュニケーション・ダンス


「空気を読む」ということは、何も最近になって急に言われ始めたことではない。時代の気分」「気配を察知する」「殺気を感じる」「雰囲気がいい」などという言葉は昔からあったし、これらの言葉はどれもその場の空気を指す言葉である。

人が集まる場では、かならずその場に「空気」が生まれる。「雰囲気に呑まれ」て、言いたいことが言えなかったのも、見方を変えると「場の空気を読」んで、言いたかったことを引っこめたのだし、「周囲の重苦しい気分が伝染して、自分まで憂鬱になってしまった」ようなことが起こるのは、その人が場の空気を読んだ結果でもある。

以前、こんな経験をしたことがあった。ある人と会って、大変楽しいひとときを過ごした。何の話が楽しかったのか、その時間が過ぎてから、はっきりと思いだすこともできない。にもかかわらず、楽しい時間を過ごしたことだけが記憶され、思い返すたびに、胸を暖かくしてくれるような記憶となって残った。
つぎにもう一度、その人と会う機会を持つことができた。楽しみにしていたのに、どうも少しちがう感じがする。はっきりとはわからないが、どこか相手が心から楽しんではいないように思える。自分が忙しい相手に無理やり都合をつけさせたのではないか。そのひっかかりはずっと残った。二度目に会ったときの会話の内容は、一度目よりはるかによく覚えている。にもかかわらず、一度目のような、暖かな記憶としては刻まれていないのである。

この経験から、あらためて思うのは、会話というのは「何を話すか」ではない、ということだ。むしろ、やりとりする言葉を超えて、相手そのものにふれようとしているのだろう。そのときわたしが受けとめるのは、言葉以上に、相手がいま楽しそうかどうかの「気配」、ちょっとした仕草や表情、視線や笑い方、声の「感じ」、そうしたものなのだろう。

尼ヶ崎彬の『ことばと身体』という本には、非常に興味深い事例が紹介してある。

 ウィリアム・コンドンはコミュニケーションの現場を超低速で撮影したフィルムを観察し、話し手の身体各部の微細な動きが音声と完全に同期していることを発見した。これはまあ予測できることである。だが彼が次に聞き手の身体の動きを調べると、驚くべきことにそれは話し手の動きと、まるで鏡に向かい合うように同期していたのである。コンドンはこれを「相互シンクロニー」と名づけた。「このような相互シンクロニーの現象は、生後わずか二〇分の新生児にも見られ、そして、自閉症など一部のコミュニケーション障害を例外として、同期のリズムがくずれることはきわめて稀であった」(※佐々木正人『からだ:認識の原点』東京大学出版会)という。

 相互シンクロニー現象は、まさに私たちの身体が話相手の身体の動きをなぞることによってその話を身体レベルから理解しているのだということを示しているだろう。しかもこの同期は、相手の動きを見て自分の身体を操作するのではなく、相互的コミュニケーション活動の流れに導かれる形で、全く意識することなく呼応する身体によって行われるのである。……

 コミュニケーションの場が成立しているとき、しばしばそこは外界から切り離され、「自分たちだけの世界」が成立しているように感じられる。私たちは確かに何かを共有しているのを感じ、話題についての理解だけでなく、同じ気分を分かちあう。笑いは確実に伝染する。私たちは心身の全体で互いに同期しているからである。コンドンがフィルムに見た身体の動きは、この心身活動の表面にすぎないだろう。私たちは相手の言葉を「頭でわかる」だけでなく、身体でも理解しているのである。この身体的レベルでの理解を支えているのは全身の「なぞり」活動にほかなるまい。

このような会話の場では、「空気を読む」という言葉は場違いであるように思われる。どちらかがどちらかに合わせようとするのではなく、逆に、どちらでもない「相互主観」にそれぞれが導かれていく。

こういう状態を「心が通じあう」と呼ぶのだとすれば、わたしたちのコミュニケーションの理想は、空気を読んだり、自分の意見を通そうと戦略を練ったりすることではなく、こういう身体での理解にあるのかもしれない。

「空気を読む」ということがしきりと言われるようになったのは、むしろインターネットやメールが普及して、実際には場を共有しない形でのコミュニケーションが急速に増えていった時期である。おもしろいことに、本来ならば文字情報だけのやりとりであるはずの掲示板への書きこみなどの場でも、一連の流れを把握しろ、この場のルールを理解しろ、という意味で、「空気を読め」と言われるのである。

対面のコミュニケーションより、メールを通じてのコミュニケーションの割合が増えることで、わたしたちが相手の身体を「なぞる」割合はどうしても減っていく。文字のやりとりでは、いくら「顔文字」を駆使したところで、やはり相手の言葉を頭で理解することしかできない。これは、「心を通じ合わそう」とするわたしたちにとって、非常に不安なことなのかもしれない。
コミュニケーション・ダンスの場は保障されず、ひとりひとりが見えない相手の仕草を、「行間」から想像しようとする。だからこそ、何か目的があるからではなく、不安から「空気を読む」つまり、言葉の向こうにあるものに、わたしたちは神経をとがらせるようになっているのだ。

わたしたちのコミュニケーションがこれから先どうなっていくのかはわたしにはわからない。それでも、わたしたちが分かり合おうとしてコミュニケーションを行っているのは、いまも昔も、そうしておそらくこれから先も変わってはいかないはずだ。
もしかしたらわたしたちはいま、対面しないところで、言葉を超えたコミュニケーションを成り立たせようとする努力、言葉以外の何ものかを共同で生み出そうとしているところなのかもしれない。

初出May.3, 26,29, 2007 改訂Aug.21 2007

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