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芥川龍之介と不安


Keep passing the open windows.
(開いた窓の前では立ち止まるな)
――John Irving "The Hotel New Hampshire"

ランプ

1.不安と「酒虫」


「近年にない暑さである。」

これは今年の夏のことを言っているのではない。
いまから91年前、こういう書き出しで中国の伝奇小説をもとに、短篇を書いた人物がいた、とくれば誰だかわかりますね?
中島敦? 中島敦は明治42年(1909)生まれだから、まだ17歳。未だ習作さえ書いていない。正解は芥川龍之介である。

芥川龍之介は大正五年(1916)、中国の『聊斎志異』のなかに出てくる「酒虫」をもとに同名の短編小説を書いた。

『聊斎志異』のほうは多少暑苦しい、というぐらいに留まるが、芥川版は、これでもか、というぐらいである。

 近年にない暑さである。どこを見ても、泥で固めた家々の屋根瓦が、鉛のやうに鈍く日の光を反射して、その下に懸けてある燕の巣さへ、この塩梅では中にゐる雛や卵を、そのまゝ蒸殺してしまふかと思はれる。まして、畑と云ふ畑は、麻でも黍でも、皆、土いきれにぐつたりと頭をさげて、何一つ、青いなりに、萎れてゐないものはない。その畑の上に見える空も、この頃の温気に中(あ)てられたせいか、地上に近い大気は、晴れながら、どんよりと濁つて、その所々に、霰を炮烙で煎つたやうな、形ばかりの雲の峰が、つぶつぶと浮かんでゐる。

(「酒虫)」

確かに今朝の空はこんな感じだった。曇っているわけではないのに「晴れながら、どんよりと濁つて」いた。ここに出てくる霰(あられ)というのは、冬に降ってくるみぞれだのあられだのの方ではなく、永谷園のお茶づけ海苔のなかに入っている、あのコロコロしたやつだろう。あれは表面に焼き色がついているので、「炮烙で煎つた」あとの状態が、あのあられにちがいない。つまり、内側から膨れたようなむくむくした雲が、積乱雲にまで発達しないままにぽつり、ぽつりと浮かんでいるわけだ。

その炎天下、太った男が裸になって汗を流しながら寝ころんでいる。もう、情景を思い浮かべるだけでこちらの体感温度まで2〜3℃上がってしまいそうな場面である。
熱中症にでもなったらどうするんだ、と言いたいところだが、当時はそういう病名がないので、症状も存在しない。日本に来た外国人が「肩が凝る」という言葉を知って初めて肩が凝るようになるのと同じで、「熱中症」という言葉がなければ熱中症で死ぬ人もいないのである。そのころは熱中症にはちがう名前がついていて、ちがう病気に分類されていたのだろう。

ともかくその太った男、劉(りゅう)は手足を縛られて横になっている。
訪ねてきた旅のお坊さんに言われたからだ。文中には葱嶺(そうれい)からやってきたお坊さん、とある。葱嶺というのはバミール高原で中国の西の端、そこを超えれば西域である。あとのほうで「蛮僧」という言葉も出てくるので、このお坊さんはチベット仏教のお坊さんなのだろう。ともかくこの異国から来たお坊さんが、劉に、どれだけ酒を飲んでも酔わないのは「酒虫」が体内にいるからだ、駆除しなくては、と診断をくだしたのである。

ところがこの方法、すこぶる荒っぽい。日に灼かれながら、動かないように手足を縛って裸で横になるという治療方法なのである。虫が参るか、人間が参るか、というところだ。すぐ近くに素焼きの瓶があり、その中には酒が入っている。酒の匂いにその酒虫を誘い出そうというもくろみなのだが、喉が渇いた劉のほうも、酒の匂いが苦しさをいや増すばかり。治療の中止を訴えようとしたところ……。

 すると、その途端である。劉は、何とも知れない塊が、少しづゝ胸から喉へ這ひ上つて来るのを感じ出した。それが或は蚯蚓のやうに、蠕動してゐるかと思ふと、或は守宮のやうに、少しづゝ居ざつてゐるやうでもある。兎に角或柔い物が、柔いなりに、むづりむづりと、食道を上へせり上つて来るのである。さうしてとうとうしまひに、それが、喉仏の下を、無理にすりぬけたと思ふと、今度はいきなり、鰌(どぜう)か何かのやうにぬるりと暗い所をぬけ出して、勢よく外へとんで出た。

こうして見事、「酒虫」を取りだすことに成功する。

それからというもの、劉は酒は一滴も飲めなくなる。それは良かった、と思ったのも束の間、劉の健康は衰え、痩せ、さらには財産も失ってしまう。「酒虫」を体内から取りだした結果、劉は何もかも失って死んでしまうという、健康のために財産と命を失った、なかなか悲惨な話なのである。

ところで『聊斎志異』と芥川の短篇は、大筋同じなのであるが、細かいところでいくつか異なっている。

最大の違いは、虫が出てきてからだ。『聊斎志異』では酒虫が体内から出た劉の、お礼をしたいという申し出に対し、お坊さんは「金はいらない、その代わりその虫をくれ」と言う。甕に水を満たしてその虫を入れてかき回すと、すばらしい酒ができるというのである。確かに実験してみると、すばらしい酒ができた。その虫は酒の精だったのである。

ところが芥川版では虫の正体など興味を持たない。そのかわり、どうして劉が何もかも失うに至ったかが考察される。

 第一の答。酒虫は、劉の福であつて、劉の病ではない。偶、暗愚の蛮僧に遇つた為に、好んで、この天与の福を失ふやうな事になつたのである。

 第二の答。酒虫は、劉の病であつて、劉の福ではない。何故と云へば、一飲一甕を尽すなどと云ふ事は、到底、常人の考へられない所だからである。そこで、もし酒虫を除かなかつたなら、劉は必久しからずして、死んだのに相違ない。して見ると、貧病、迭(かたみ)に至るのも、寧(むしろ)劉にとつては、幸福と云ふべきである。

 第三の答。酒虫は、劉の病でもなければ、劉の福でもない。劉は、昔から酒ばかり飲んでゐた。劉の一生から酒を除けば、後には、何も残らない。して見ると、劉は即酒虫、酒虫は即劉である。だから、劉が酒虫を去つたのは自ら己を殺したのも同前である。つまり、酒が飲めなくなつた日から、劉は劉にして、劉ではない。劉自身が既になくなつてゐたとしたら、昔日の劉の健康なり家産なりが、失はれたのも、至極、当然な話であらう。

芥川は最後に「これらの答の中で、どれが、最よく、当を得てゐるか、それは自分にもわからない」と白々しいことを言っているが、どれがそのほんとうの理由であると考えているかはあきらかである。すなわち、三番目だ。つまり、生来持っている資質を捨てると結局は「何も残らない」ことになる、と、この物語に託して言っているわけだ。

ところで芥川はこの「酒虫」をいったい何のメタファーとして使っていたのだろう。それはこの作品を読むだけではよくわからない。漠然と人間の性質一般を指しているようにも思える。だが、わたしは酒虫を「不安」と読み替えてみたい。

いつもわたしたちとともにある不安。これから先どうなっていくのだろう。これをするとどう思われるだろう。そこにいなければ自分が忘れられてしまうのではないだろうか。
何かひとつ行動を起こそうとするたび、先のことを考えるたび、決断をひとつ下すたび、さまざまな不安が起こってくる。この不安さえなければ、心はどれほど平安だろう。何だって思う通り、自分がしたいようにできるのに。

仮にいま、楽しい出来事を自分が経験しているさなかであっても、わたしたちはかならずしもそれに「酔える」とはかぎらない。その出来事がまだ終わってもいないのに、終わってしまうことを悲しみ、もう二度とこんな経験は味わえないのではないかと未来を悲観する。ずっと抱えている関係ないことの不安が顔を出し、あるいはこの出来事を経験している自分を誰かに知ってほしいと思い、同時にこれを経験している自分はどう評価されるだろう、ということまで気にかかる。楽しいはずの出来事さえ、不安に損なわれてしまう。

わたしが最初に「不安」にとらわれたのは、小学校の二年の時だった。お風呂に入ろうとして服を脱いでいるときに、ふと、「不安」に呑みこまれてしまったのである。何かの不安、というのなら、それまでにもなんども経験していたのだが、そうではなく、もっとずっと漠然とした不安、何かに焦点化することのできない不安にすっぽりと呑みこまれ、何も考えられず、息をするのも苦しいほどになってしまったのだ。

昔の人は「心」は「腑」、つまり「胃」に宿ると考えていたという。確かに不安が兆すと、てきめんに胃にくる。胃はきりきりと痛み、ものは食べられなくなり、吐き気がしてくる。そのときも、わたしは自分の状態を「不安」という言葉で表現することはまだできなくて、両親に「お腹が痛い」と訴えたのである。
盲腸ではないか、盲腸だったら痛がりようがちがう、と、父と母がああでもないこうでもないと言っているのを、そうではない、と思いながら、親であってもこれはわかってもらえない、親にもどうすることもできないのだ、と、絶望的な気分になっていた。

それからわたしの「不安」との長い長いつきあいが始まるが、その過程で気がついたことがある。「不安」で一番つらいのは、頭にタガがはめられたように、ほかの何ごとも目に入らない、考えることもできなくなる、何も手につかず、不安をかみしめ、反芻するしかなくなってしまうことである。
それでも、むりやりそこから自分を引きはがし、「おもしろいこと」「自分の興味のあること」をやってみる。すると意識の重心が少しずつ移っていく。結局「おもしろいこと」や「楽しめること」「自分が夢中になれること」ほど効くものはないのである。

そんな気分になれない、と思う。それよりは、こうなっている原因を探って、このような状態に二度と陥らないように、不安の元を取り除かなければ、と思ったこともあった。けれどもどれほど「原因」を見つけるために、不安をさまざまな角度から検討して繰りかえし考えたとしても、結局は不安の環から逃れることはできない。この体内の不安という名の「酒虫」は、どうやっても出ていかないのである。

出ていかないものを、むりやり出そうとすることは、それはもしかしたら劉の体から「酒虫」を出してしまうことと同じなのかもしれない。わたしたちが「不安」という名前で呼んでいるのは、「劉は即酒虫、酒虫は即劉」であるように、わたしたちそのものなのかも。「おもしろいこと」「興味のあること」が取って代わるのも、実は「不安」も「好奇心」も、「わたし」が、さまざまな外的な刺激を受けて、さまざまに現れる、ということなのではあるまいか。「酒虫」を外に出した劉が枯れてしまうように、不安も外に出してはならないものなのかもしれない。

ところで、「不安」は、芥川自身にとっても大きな問題だった。
自殺直前、芥川はある友人に手紙を送った。遺書である。そのなかで自分の自殺の理由を「少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。」(「或旧友へ送る手記」)と書いている。

その手紙の中で芥川自身が「君は或は僕の言葉を信用することは出来ないであらう。」と言っているように、おそらく「唯ぼんやりした不安」という「理由」は、彼が見ても説得力を欠くように思われたのかもしれない。
だが、「理由」というのは、そもそも因果関係がよくわからないときに、自分自身や周囲に説明するためにわたしたちが作り出す物語なのである。

君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。

芥川は「酒虫」を書いたとき、「酒虫」が不安のメタファーともなりうることに気がつかなかったのだろうか。この「唯ぼんやりした不安」即「自分」であるならば、その不安を内に飼いながら、ともに生きていく、という選択肢はあり得なかったのだろうか。


2.ドッペルゲンガーに出会ったら


ドッペルゲンガーというものがある。
以前、「中島敦と身体のふしぎ」でも引用した南伸坊の『仙人の壺』にも出てくるし、『唐代伝奇集』にもある。エドガー・アラン・ポーにも『ウィリアム・ウィルソン』というのがあるし、怪談でも定番かもしれない。近代日本文学では有名なのが、自分のドッペルゲンガーを見たことのある芥川龍之介である。

さて、『唐代伝奇集』に出てくるのは「魂の抜け出た話」というタイトルで、わたしの場合、ドリーム・シアターを聴いていくら魂を抜かれても、たいてい曲が終わったら戻ってくるのだが、この場合は五年間も戻ってこない倩娘(せんじょう)という女性の話である。

倩娘は王宙と恋仲である。ところが両親は娘を他の男と婚約させてしまう。宙は怒って旅に出るが、その日の夕方、倩娘がはだしで追いかけてきて、ふたりは駆け落ちすることになる。二人は蜀の国で五年間、一緒に生活し、子供も二人生まれる。そのころ倩娘は故郷にいる両親が恋しくてたまらなくなるので、家族で連れ立って帰ることになる。ところが、一足先に宙が挨拶に向かうと、両親は、娘は病で伏せってからもう五年になるというのに、一体、何ごとを言うか、と怒る。つぎに倩娘が訪ねていくと、それまで伏せっていた娘は起き出して服を着替え迎えに出る。ふたりの娘が会ったら、ぴたりとひとつに重なって、着物までが重なったという。

この「魂の抜け出た話」は、ドッペルゲンガーと会ったことでふたつの体が融合し、その結果ハッピーエンドになるのだが、たいていのドッペルゲンガーものは、芥川龍之介が『二つの手紙』のなかで「ドッペルゲンゲルの出現は、屡々(しばしば)当事者の死を予告するからでございます」と書いているように、主人公の「死」の象徴として現れる。

「二つの手紙」では、まず語り手が、コンサートに妻と出かける。小用にたって戻ってくると、妻が誰かと一緒にいる。

閣下、私は、その時その男に始めて私自身を認めたのでございます。
 第二の私は、第一の私と同じ羽織を着て居りました。第一の私と同じ袴を穿いて居りました。そうしてまた、第一の私と、同じ姿勢を装って居りました。もしそれがこちらを向いたとしたならば、恐らくその顔もまた、私と同じだった事でございましょう。私はその時の私の心もちを、何と形容していいかわかりません。私の周囲には大ぜいの人間が、しっきりなしに動いて居ります。私の頭の上には多くの電燈が、昼のような光を放って居ります。云わば私の前後左右には、神秘と両立し難い一切の条件が、備っていたとでも申しましょうか。そうして私は実に、そう云う外界の中に、突然この存在以外の存在を、目前に見たのでございます。私の錯愕は、そのために、一層驚くべきものになりました。私の恐怖は、そのために、一層恐るべきものになりました。もし妻がその時眼をあげて、私の方を一瞥しなかったなら、私は恐らく大声をあげて、周囲の注意をこの奇怪な幻影に惹こうとした事でございましょう。
 しかし、妻の視線は、幸にも私の視線と合しました。そうして、それとほとんど同時に、第二の私は丁度硝子に亀裂の入るような早さで、見る間に私の眼界から消え去ってしまいました。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ではない。明るい電燈の下、その姿は見まちがいようがない。しかも、文明を享受する人々が集う場所、そういうことが起こってはいけない場所なのである。そこで自分の姿を見た主人公は、エアポケットに落ちこんだような、周囲と隔絶されてしまったような気持ち、逆に自分の方が「影」になったような気持ちを味わったはずである。

だが、その衝撃もうすれたある日、自宅に戻ってみると、今度はなんと妻と自分のドッペルゲンガーが自分がその経験を書いた日記を読んでいる。

私の立っている閾の上からは、机に向って並んでいる二人の横顔が見えました。窓から来るつめたい光をうけて、その顔は二つとも鋭い明暗を作って居ります。そうして、その顔の前にある、黄いろい絹の笠をかけた電燈が、私の眼にはほとんどまっ黒に映りました。しかも、何と云う皮肉でございましょう。彼等は、私がこの奇怪な現象を記録して置いた、私の日記を読んでいるのでございます。これは机の上に開いてある本の形で、すぐにそれがわかりました。

なんともいえず気味の悪い箇所である。ドッペルゲンガーが、そのことを書いた日記を読んでいる。彼らは自分がドッペルゲンガー、つまり「影」の側であることを知っているのだろう。「影」が実体が怯えていることを確かめている。自分たちの効果を確認している。

ところが主人公の生活を破綻に追いこむのはドッペルゲンガーではないのである。ドッペルゲンガーのために不貞を噂されるようになった妻が、世間の風評を苦に、失踪してしまうのである。主人公の怒りはドッペルゲンガーではなく「世間はついに、無辜の人を殺しました。そうして閣下自身も、その悪む可き幇助者の一人になられたのでございます。」と世間に向けられる。主人公は世間と関係を絶ち、ドッペルゲンガーの研究に従事する決意で、この短篇は終わる。つまり、ドッペルゲンガーにできたのは、主人公を脅かすことだけだったのである。

初期の「二つの手紙」から十年を経て遺作となった「歯車」となると、同じドッペルゲンガーを扱った作品とはいえ、ずいぶん異なっている。「二つの手紙」があくまでもドッペルゲンガーをモチーフとした創作であるのに対し、こちらのほうは創作なのかエッセイなのか、あるいは一種の覚え書きなのか、エピソードはストーリーを築くことを拒み、言葉はことごとくが「死」を指し示すサインとしてあらわれるだけで、たえずずれ、横滑りしながら、それでも追い立てられるようにして書きつづけられている。

第二の僕、――独逸人の所謂 Doppelgaenger は仕合せにも僕自身に見えたことはなかつた。しかし亜米利加の映画俳優になつたK君の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけてゐた。(僕は突然K君の夫人に「先達(せんだつて)はつい御挨拶もしませんで」と言はれ、当惑したことを覚えてゐる。)それからもう故人になつた或隻脚の飜訳家もやはり銀座の或煙草屋に第二の僕を見かけてゐた。死は或は僕よりも第二の僕に来るのかも知れなかつた。若し又僕に来たとしても、――僕は鏡に後ろを向け、窓の前の机へ帰つて行つた。

ここではドッペルゲンガーを見るのは本人ではなく、知人ふたりだ。だがこの作品のドッペルゲンガーは「二つの手紙」とはずいぶん印象が異なる。こちらではドッペルゲンガーも「レエン・コオトの男」や歯車のイメージと同じ、主人公の「死」を告げるサインのひとつでしかない。
芥川龍之介はドッペルゲンガーを見たことがある作家として有名なのだが、ほんとうのところはどうなのだろう。「二つの手紙」のようにはっきりと見たのではなく、このエピソードに出てくるような伝聞、もしかしたら見まちがい、他人の空似、日時の混同などの記憶違いがもとになっていたのかもしれない。

さて、このドッペルゲンガーというのはいったい何なのだろうか。

精神医学的には、自己視、自己像幻視と呼ばれ、また二重身、分身体験などとも言われる。ドッペルゲンガー(Doppelganger ※ a はウムラウト)という言い方は、ドイツの民間伝承に基づくものである。…

…二重身といっても、さまざまの体験があり、それはなんらかの意味で自我意識の異常を示すものであるが、心理的には相当異なる機制によるものと思われる。また精神病理学的に言っても、正常人、神経症、精神分裂病、いずれの場合にも起こり得るし、てんかんや脳腫瘍などの器質的な障害によっても生じるものである。

(河合隼雄『影の現象学』講談社学術文庫)

これをまとめれば、見える人には見える、そうして見える理由は定かではない、ということになろうか(まとめ過ぎか)。あたりまえのことではあるが、ドッペルゲンガーを見ることと自分の死期を知ることのあいだには、何の因果関係もない。

だが、確かに不気味な経験であることはまちがいないだろう。
フロイトは『不気味なもの』のなかでこんな出来事に遭遇したことを書いている。
深夜、列車に乗っていたフロイトのコンパートメントの扉を開けて老人が入ってきたと思ったら、それが鏡に映った自分自身の姿だったとわかった瞬間、耐えがたいほどの不気味さを感じた……。これはどういうことなのだろうか。もうちょっとわかりやすい解説を見てみよう。

たとえば死者が生き返ったら不気味だろう? でも白雪姫が目を開いてよみがえっても、不気味とは思わないんだ。いわれてはっとするけれど、このちがいはどこからくるのだろう。フロイトはいう。気味がわるいと感じるのは、ほんとうはなじみのものが、とつぜんあらわれるからだと。

 主体が抑圧して、無意識の領域におさえこんでいたものが、ふたたびもどってきた場合。それが不気味だとフロイトはいう。(…略…)鏡にうつった自分の顔をふくめ、「自分」といういちばんなじみきったもの、いつもはわすれているような代物が、ぬうっと目の前にあらわれるのは、叫びたいほど不気味なものだ。

 この不気味なものとおなじような役割をはたすのが不安だとフロイトはいう。不安は、精神の抑圧の結果として生まれる。そして抑圧が必要になる状況が接近したことを示すアラームでもある。自分にもっともなじみでありながら、それを目の前にするのが恐いもの、それがぼくたちを不安にするし、そのおぞましいものが意識に近づいたことを知らせるのが不安だと。

 いいかえよう。不安なものは、じつは主体がよく知っていながら認識したくないもの、無意識のうちに遠ざけているものを、意識にもたらすという意味をもっている。

(中山元『思考の用語辞典』ちくま学芸文庫)

ドッペルゲンガーが単なる不思議さを超えて不気味なものとなってくるのは、それが何か災いをなすからでも、禍々しいことを告げるからでもない。わたしたちが漠然と感じている、自分のことならよく知っているという意識、日頃抱いている自分のイメージに裂け目を入れて、そこから未知のもの、得体の知れないものがのぞくから不気味なのである。

だが、ドッペルゲンガーに会うにせよ会わないにせよ、「わたし」といい「自分」ともいうこの存在は、自分にとって決して既知の存在ではない。性格などというものは、「自分」という人間を、世間に向かって通用させるための物語でしかなく、新たな出来事が起こるたびに、「自分」はさまざまに振る舞う。自分とは本来、そういうものであるはずなのだ。

タイトルにもなり、繰りかえし出てくる歯車のイメージは、今日では「閃輝性暗点症」の症状を忠実に表現したものとされている。閃輝性暗点症というのはおもに疲労から起こるもので、頭痛(とくに偏頭痛)をともなうことがあっても、器質的な病気ではないので、特に後遺症もなく自然におさまるのだそうだ。

閃輝性暗点症が疲労のアラームであるように、ドッペルゲンガーを、不安を通して出会う未知の自分ととらえることができれば、あるいは、自分が抑圧しているものに気がつくアラームとしてとらえることができさえすれば、おそらく芥川の生涯も、ずいぶん生きやすいものになっていたたにちがいない。ただその結果、「歯車」や「或阿呆の一生」「河童」「西方の人」などの晩年の作品は、生まれることはなかったかもしれないが。


3.占いと予兆(サイン)


数年前のことだが、わたしより年長でしかるべき地位にある女性と話をする機会があった。その人が今度香港に行く、という。てっきりわたしは仕事か観光のいずれかだろうと思って話を聞いていたのだが、驚いたことに日帰りで、忙しい時間をやりくりして、占い師に会いにいき、そのまますぐに帰ってくるのだということだった。

占い、ですか?
わたしの顔には、おそらくうさんくさがっている表情が浮かんでいたのだろう。その人は、キッとした顔で、「占いは科学で裏づけられてるのよ」という。十数年前に独立して以来、その占い師に要所要所で判断を仰いできたのだそうだ。

まだ起こってもないことがどうしてその人にわかるんですか、と聞いたら、「だから占い師なんじゃない」という返事。「大昔から続いてきたことには意味があるのよ。意味がなかったら、とっくに廃れてるはずでしょ」ということだった。「大昔から続いてきた」ということは、単に大昔から人は行動に指針を与えてくれる誰かを求め、自分の選択が正しいと保障してくれる誰かを求めてきた、という以上のことは意味しないだろう、と思ったが、どうせ平行線をたどるだけの話をそれ以上続ける気にもなれず、話題を変えた。

わたしはなにも古くからおこなわれてきた儀礼やしきたり、慣習といったことを軽く見るつもりはない。たとえいまのわたしたちの目から見れば「非科学的」に見えたり、「迷信」じゃないかと思ったとしても、それがきわめて「科学的」であり「合理的」だった時代もあったのだ。現在のわたしたちの見方が、そうした時代の人々に較べてほんとうに「正しい」のかどうか、それを判定できるような、超越的な立場に立てるような人はいない。

占いだって意味はある。

知性は自分の無知にぼんやり気づいており、無知の危機を理解している。知性は、行動の結果が確実であり、さし迫った未来が予見されうる、したがってすでに科学が存在するきわめて小さな範囲のまわりに、行動の意欲をそぐような予見できない広大な領域が存在することを見ぬく。しかしそれでも行動しなければならない。そのとき生の推進力の直接の結果にほかならない魔術が介入する。

(アンリ・ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』平山高次訳 岩波文庫)

おまじないでも、だれともつかない人が毎週書いている雑誌の星占いであっても、それがその人の不安を一時的にでもなだめ、決断というしんどい行動に臨むときに背中を押してくれるのなら、占いだって十分に意味はある。自分のあり方をふと立ち止まって考えるきっかけになることだってあるだろうし、ものごとを別の角度から眺めるヒントをくれることだってあるだろう。

ただ、あたかも未来がすでに起こっていて、自分だけはそれを知っている、というような態度を取る占い師はキライだ。それに加えて、わたしのことを知りもしない会ったばかりの人間に、性格だの行動だの、ああだこうだ言われるのは、わたしならがまんできないし、「占い師」という看板を下げている人間を、ただそれだけの理由で信頼できる人というのも、なんだかな、と思うのである。だから、そういう人を見ると、一歩引いてしまう。

なんにせよ、人は先のことはわからない。わからないはずだ。まだ何も起こっていないのだから。それでも、過去起こったことから、あるいは他の人に起こったことから、わたしたちはなんとか先を読もうとする。身の回りから、未来を告げる予兆を探し、まだ何も書いてない、未来の白紙のページを透かして、そこに何か浮かびあがりはしないかと眼を凝らす。たとえそこに書いてあるのが怖ろしいことであっても、わからないことよりはわかることの方が良いとでもいうように。

芥川の「歯車」では、そこで起こるなにもかもが不吉なことの予兆であり、すべてが主人公の不安に結びついていく。そこに予兆を読みとったのはだれでもない自分、何もかもを不安に結びつけているのも自分だというのに。
聡明な芥川もそのことは気がつかなかったのだろうか。それとも、もはやそういう判断を下せるような精神状態にはなかったということなのだろうか。

十年間に芥川がその短編小説の内容と形式において示した多様性は、同時代の小説家のなかで群を抜いていた。
 社会主義またはマルクス主義を絶えず意識し、それに対して彼自身の立場をはっきりさせる必要を感じていたという点で、芥川は一八八五年の世代よりも、より若い一九〇〇年の世代の作家たちに近い。彼は国家を意識するよりも、階級を意識していた。……

 他方、東京の下町で旧家に育った芥川は、また江戸以来の文人趣味を継承していた。その衣服の趣味において、野暮を嫌う気質において、一種の礼儀の尊重において、殊に和漢の文芸の広範な知識と言葉に対する微妙な感受性において。……

 しかし西洋志向型の「大正教養主義」もまた、芥川において典型的であった。…芥川はその文章のなかで、ストリンドベリーやニーチェ、ゴーゴリやドストエフスキー、フローベールやボードレールを、頻りに引用していた。主としてそういうヨーロッパ大陸の著者を、彼は英訳で読んだのである。…彼の知識は、シェイクスピアからアイルランドの劇作家たちに及び、ヴィヨンからポール・ヴァレリーにまで及んでいた。

(加藤周一『日本文学史序説(下)』ちくま学芸文庫)

芥川は単に知的なだけの人物ではなかった。先人の知性に対して、謙虚であることを知っている人だった。伊藤整は『作家論』の「芥川龍之介」の項で、芥川の「雑筆」からこんな一文を引きながら、以下のように続けている。

ジアン・クリストフの中に、クリストフと同じやうにベエトオフエンがわかると思つてゐる俗物を書いた一節がある。わかると云ふ事は世間が考へる程、無造作に出来る事ではない。何事も芸道に志したからは、わかつた上にもわからうとする心がけが肝腎なやうだ。さもないと野狐に堕してしまふ。(「雑筆」)

もし生前の芥川氏のやうな明敏捕捉しがたい才気に溢れた人の口からかういふことを言はれたならば、忽ちあらゆる冷たい批評の鉾は逆に我身に向き直り、言ふものは口を止め、書くものは筆を投ずる外はないことであつたらう。

(伊藤整「芥川龍之介」『作家論』)


自殺の原因を考えるというのも、意味のない話である。先にも書いたように、芥川自身が「或旧友へ送る手記」で「ぼんやりした不安」と言っているのだから、それで十分なのかもしれない。長年芥川の近くにいた菊池寛も「芥川の事ども」のなかで、諸事情と関連させながら「結局、芥川自身が、言っているように主なる原因は「ボンヤリした不安」であろう。」と結論づけている。

それでもわたしはどうしても考えてしまうのだ。

わたしの好きな作品に「点鬼簿」というものがある。
この死の前年の作品は「僕の母は狂人だった。」という一文から始まる。続いて鬼籍に入った姉、父と三人の身内のことが語られるのだが、若い頃の(といっても芥川の作家活動は二十五歳から三十五歳のたった十年間でしかないのだが)つい披露せずにはおれないような才気、「地獄変」や「戯作三昧」「枯野抄」「不思議な島」「手巾」「河童」などに繰りかえし描かれる「芸術家とはこれほどまでに苦しく、かつ崇高なものである」という意識はいっさい抜け落ちて、短編小説というのか、エッセイというのか、淡い水彩のデッサンのような作品である。

同じ時期、芥川は評論「文芸的な、余りに文芸的な」のなかで、筋のない小説について書いている。

「話」らしい話のない小説は勿論唯(ただ)身辺雑事を描いただけの小説ではない。それはあらゆる小説中、最も詩に近い小説である。しかも散文詩などと呼ばれるものよりも遙かに小説に近いものである。

「点鬼簿」や「蜃気楼」などを読んでいると「最も詩に近い小説」というのもうなずけるように思う。そうして、このさりげない「僕の母は狂人だった。」という一文も、作家活動を積み重ね、古今東西の作品と思想を読み続けたのちに初めて書くことのできた文章であったのだろうと思う。

それと同時に、このことをさらりと書くことができるようになるまで、それだけの歳月が必要だったのだろう、とも思うのである。意識にたえずつきまとい、無意識のうちに遠ざけてきたもの。繰りかえし、さまざまな形をとって回帰してきたもの。それはこの冒頭の文章だったのではないか、と。

「点鬼簿」には「不安」は出てこない。たとえ書き手である芥川の胸の底には不安が沈殿していたとしても、その上澄みの透明な水を掬ったように、この作品に描かれる思い出には明るい光が当たっている。
芥川は最後に芭蕉の門人のひとり、内藤丈草の句を引用して、この小文を終わる。

かげろふや塚より外に住むばかり

丈草は「枯野抄」にも出てくる芭蕉の門人のひとりである。「枯野抄」では臨終に立ち会った門人たちの最後に登場して、漱石の臨終に際して感じた自分の思いを重ねあわせながら「丈艸のこの安らかな心もちは、久しく芭蕉の人格的圧力の桎梏に、空しく屈してゐた彼の自由な精神が、その本来の力を以て、漸く手足を伸ばさうとする、解放の喜びだつたのである。」と言わせている。
あるいはまた、柴田宵曲の『蕉門の人々―俳諧随筆』(岩波文庫)には芥川の書いた「丈草のこと」という一文が所収されていて、そこでは「蕉門に竜象の多いことは言うを待たない。しかし誰が最も的々と芭蕉の衣鉢を伝えたかと言えば恐らくは内藤丈草であろう」と評価していることがわかる。つまりは丈草というのは、蕉門のなかでだれよりも芥川が近しく思っている人物だったのだろう。

塚、つまり、墓の外にただ住んでいるというだけの自分である。
このときの丈草=芥川の意識の中では、外と内の境界は、かぎりなくはかないものだったのだろう。まるでかげろうのように。
こんな静謐な一瞬があったのはよかったな、と芥川のために思うのである。たとえその明るい風景のなかに自分の自殺がすでに避けがたいものとして織りこんであったとしても。

菊池寛は芥川龍之介のことをこう評した。

彼の如き高い教養と勝れた趣味と、和漢洋の学問を備えた作家は今後絶無であろう。古き和漢の伝統及び趣味と、欧州の学問趣味とを一身に備えた意味に於いて、過渡期の日本に於ける代表的な作家だろう。我々の次の時代に於いては、和漢の正統な伝統と趣味とが文芸に現れることなどは絶無であろうから。

(菊池寛「芥川の事ども」)




初出Aug.19-23 2007 改訂Aug.28 2007

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