――私が食べるのは、神が与えてくれたものだ。
彼の毒を、一服、また一服、一生続けて。
私たちは二人とも毒を盛られてしまったのだよ、アマデウス。
私にはお前という毒が。
お前には私という毒が。
ピーター・シェーファー『アマデウス』

――恐怖に導かれて、悪を避けるために善をなす者は、
理性に導かれていない。(IV-63)
スピノザ『エチカ』

怒る人々

忠臣蔵


0.できることなら……

つい先日、図書館のカウンターで怒っている人を見かけた。予約した本がなかなか手に入らないと、職員に言っても無駄なことをいつまでも言い募っている。相手の説明を聞こうともせず、威圧的な大声で自分の主張を繰り返す。その態度はあたりの雰囲気を確実に悪いものにしていた。

公衆の面前で怒っている人は、たまにいるものだ。金切り声をあげて小さな子供をしかりつけているお母さん、駅員や店員の態度が悪いと食ってかかっている中年男性、唇をゆがめてそこにいないだれかを口汚くののしっている女子高生たち。その独特の語調に、わたしたちの目は思わずそちらに引きつけられ、事態を察すると、今度はあわてて目を背ける。まるで見てはならないものを見てしまったかのように。おそらくわたしたちは「怒り」というのは、人前にさらしてはならない感情であると思っているし、見るのも聞くのもはばかられると感じているのだろう。

一方で、新聞やニュースで「虐待」や「いじめ」が伝えられる。これは公然化されない怒りがねじ曲がり、事件の形をとって現れたものとも言える。怒りというのは、単に人前であらわにしなければいい、というものでもないらしい。

怒りというのは確かにネガティヴな感情である。周囲の気持ちを暗くするし、怒っている人間の不快感は伝播する。相手に怒られれば、なんとかその怒りを解こうと努めるし、その努力が実らなければ、憂鬱にもなり、相手の理不尽さに今度はこちらの腹も立ってくる。だれだって怒らずにすむのなら、怒らずにいたい、気持ちよく笑って過ごしたいはずだ。にもかかわらず、わたしたちは現実に怒りを感じるし、怒る必要がある場合もあるだろう。さまざまな文学作品に描かれた「怒り」を見ながら、「怒り」とはどういうものか、どうやってこの「怒り」とつきあっていったらいいのかを考えてみたい。

1.私憤と公憤

ところで、一般には人前であらわにするものではないとされている怒りだが、ことさらに怒ってみせる人々もいる。テレビの報道番組などでニュースを伝えたあとに、「こういうことが許されるのでしょうか」と眉間にしわを寄せるキャスターや、討論番組ではもっとはっきりと声をあらげるタレントや文化人である。投書欄では市井の人々による「こういう不祥事は許し難い」「首相は(政治家は、官僚は、企業経営者は、日本は、アメリカは、中国は、北朝鮮は)いったい何を考えているのだ」といった語調はめずらしくないし、個人のブログなどでも、もっとくだけた表現で、自分がいかに怒っているかが表明される。

ほかの怒りはあらわにすることが躊躇されるのに、こうした性格の怒りはどうして恥ずかしくないのだろう。テレビの出演者たちのそれは、演技にすら見えることがある。炎上ブログに「反省しろ、謝れ」と書き込まれるコメントは、祭りに参加して楽しんでいるかのようだ。ここでは怒ることははずかしいどころか、公認されたものであるらしい。

わたしたちはこうした人々の怒りにふれても、ちっとも動揺しない。ときに、怒る人々の言葉に自分自身の正義感が刺激されて、一緒になって腹を立てることもあるのだが、その怒りはやはりどこか自分のものでないような、ある種の立場を取っているだけ、立場を同じくする人に合わせて怒ってみせているだけのような気がする。まちがっていることをまちがっていると言って何が悪い? 自分の私利私欲からこういっているのではないのだ、自分は純粋な正義感から、あるいは倫理観からこう言っているのだ、と言ってみたところで、その怒りはどこまでいっても自分のものにはなっていかない。

どうやら怒りというのは、あまりあらわにすべきではない、個人の内側にとどめておいたほうがよい怒りと、他の人と共有可能な、公然化してもいっこうにかまわない、それでいて、どこまでいっても自分のものにはならない怒りがあるらしい。

さて、文学作品に出てくる怒りといってまず思い出すのは、冒頭、いきなり怒っているメロスである。それもただ「怒る」のではない。

メロスは激怒した。

(太宰治「走れメロス」

と、その怒りようも生半可なものではない。彼が怒っている相手は王様である。メロスの怒りは、個人的な怒りではない。では、これはもう許せません、と拳を握って政治家や官僚に怒ってみせるニュースキャスターの怒りと同じ種類のものなのだろうか。

老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
「王様は、人を殺します。」
「なぜ殺すのだ。」
「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」
「たくさんの人を殺したのか。」
「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお世嗣を。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアレキス様を。」
「おどろいた。国王は乱心か。」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました。」
 聞いて、メロスは激怒した。「呆れた王だ。生かして置けぬ。」

「市全体が、やけに寂しい」から、道行く人をつかまえて理由を問いただす。そうして、その一人が言ったことをもとに、一気に「生かして置けぬ。」というのだから、話の展開がずいぶん荒っぽい。そうしてこのメロス、「生かして置けぬ。」と宮殿に短刀を持って、のこのこ入っていくのである。

わたしたちが『メロス』を読んで「おいおい」と思わないのは、ひとえに舞台が現代の日本ではないからなのだろう。「(古伝説と、シルレルの詩から。)」という最後の注記や「メロス」「セリヌンティウス」などという固有名詞によって物語の枠組みが与えられているために、時代劇を見ながら展開の不自然さをあげつらう人がいないように、わたしたちはこの不自然さをあまり問題にはしないのだ。だが現実にこんな人がいたら、わたしたちはその人を「テロリスト」と呼ぶにちがいない。

メロスの怒りは単純だ。常識的な「善い−悪い」、王が人を殺す、人を殺すのは悪い、というきわめて単純な思考法で相手を断罪している。

わたしたちもまたメロスのように、社会的な不正を目の当たりにすると怒りを覚える。さまざまな出来事をとらえ、その原因を作った人々を単純に線で結んで、こいつが悪い、許せない、と考える。その理由もいくつかある既存の立場のうち(保守/リベラル、環境保護、人権……)自分の好ましいものを選択し(複数可)、その思考の枠組みに乗っかって、いくつかを組み合わせていけばそれでいい。

この怒りは自分固有のものではない。他の人と共有しうる怒りである。そうやって、怒っている自分を「多数派」の「正しい」ところに置いたまま、自分のあり方を一切問わないで怒ることができるのだ。
電車の中でさわぐ子供がいて、それを叱らない親がいれば、「誰が悪いか」はあまりに明白だ。ここで、「最近の親は……」と怒ってみせたところで、みんなが悪いと思うものを悪いと言っているだけ、その人固有の怒りはどこにもない。さらに、その怒りをあらわにしたところで、たちまち身に危険が及ぶこともない。

だが、メロスが話を聞いた老人が小声でしゃべるのは、事実を話しただけで身に危険が及ぶからである。ジョージ・オーウェルの『1984』でも、主人公ウィンストン・スミスが古道具屋で買ったノートに自分の考えを書きつけることも、たちまち身を危険にさらすことになる。彼らが怒らないのは不正を感じていないわけではない。怒りを奪われている(このことはのちに考察する)だけなのである。

そもそもメロスは辺境に住んでいるために、直接に王の影響を受けているわけではない。王に対する怒りは、個人的なものではない。だが、老人の話を聞いて、社会的な怒りを覚える。ところがメロスがニュースキャスターとちがうのは、それを自分の怒りとしていく点なのだ。怒ってみせるのではなく、激怒する、つまり、自分の身に引き受けて怒る。そうしてそこから怒りの原因を取り除こうと、行動に出る。身に危険を引き受けてでも、自分の怒りとして表明することを求めるのである。そこに対立と葛藤、つまり物語が生まれた。

わたしたちが社会的怒りを表明しても、そのリスクを負うこともない。そのために、それは単なる意見の表明であり、自分がどういった立場を取るかの表明以上のものになりようがない。それを理解してくれる人、賛成してくれる人はかならずあらわれ、ことによれば反対する人も同時にあらわれて、双方口角泡を飛ばして激論することになるかもしれないが、それはそれだけのことなのである。ここから事態を変えていこうと思えば、共有された社会的怒りを、メロスのように自分の怒りに置き換えていく筋道を作ることが必要だ。このとき、わたしたちはもはや安全な場所で「怒ってみせる」ことなどできなくなっている。何もテロリストになるばかりが方法ではないにせよ、変えていこうと思えば、少なからぬリスクを負うことになっていく。

ともかく、ここで押さえておきたいのは、怒りには共有可能な社会的な怒りと、個人的な怒りがあるということだ。共有可能な怒りの表明は、特殊な状況ではないかぎり、それほどむずかしいことではない。けれど、むずかしくない情況の下では、結局、この怒りは何も産み出さない、ということである。では、今度は個人的な怒りを見てみよう。

その2.「オレ様」の怒り

ところで『走れメロス』では、メロスが怒っているだけでなく、王様も怒っている。

「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」
「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」こんどはメロスが嘲笑した。「罪の無い人を殺して、何が平和だ。」
「だまれ、下賤の者。」王は、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ。」

人間は私欲のかたまり、裏切るものだ、と考えて、妹婿や世継ぎや妹をつぎつぎと殺していく。こんな論理はあるものか、と思うのだが、それでも王様の中ではその論理が成立しているらしい。

こういう「自分だけの論理」で怒り出す人々なら、わたしたちの身の回りにもめずらしくない。図書館でリクエストした本がなかなか読めないと職員に怒りをぶちまけるおじさんにしても、駐車違反で捕まって「みんなやってるやん。なんでわたしだけ言われなあかんのん」と逆切れするおばちゃんも、「午前の診療時間が十二時まで、って、ほんの十分、遅れただけでしょう? まだお医者さん、奧にいるじゃないですか。なんで午後の診療時間まで、三時間も待たなきゃいけないんですか、いま診てくださいよ」と十二時十五分に言い張る外来患者も、その人たちのなかでは「自分の論理」の方が正しいのである。

こういう人たちの怒りを、仮にここでは「オレ様の怒り」と名づけることにしよう。
「オレ様の怒り」の特徴は、なによりも、怒りをぶつける相手より、自分の方が正しいと思っている点にある。その怒りの根拠は「自分の正当性」にあるのだ。
図書館なら、市民の求める本を早急に揃えるべきだ(税金を払っているのだから)、ほかの人もみんな停めているのだから、自分一人が駐車違反の切符を切られるのは不当だ、自分は病気なのだからお医者さんは診療すべきだ、というふうに、どれだけ奇妙でも、彼らのなかでは「自分の方が正しい」のである。

なぜ「自分の方が正しい」のか。根本にあるのは、自分は相手より優れているという思い上がりである。この三つの例の根底にあるのは、お金(税金)を払っているのは自分の方じゃないか、ということである。現代では王様がいない代わりに、お金を払う者がその地位につけるらしい。

さて、この「オレ様の怒り」をベースにした作品はないかと思ったら、ここにおもしろい実例が見つかった。菊池寛の『吉良上野の立場』」という作品である。

最近では「忠臣蔵」を知らない人も多いので、ここでは軽くおさらいをしておこう。
赤穂藩主浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)が江戸城中で吉良上野介に斬りかかったために、その責めを負って浅野は切腹、赤穂家はお取りつぶしになるという事件が起こった。ところが浅野が斬りかかったのには原因があったのだ。史実としては諸説あるらしいのだが、芝居では、天皇の遣いで来た勅使の接待役となった浅野に対して、指導する立場にあった吉良が、浅野からのわいろが少なかったことに腹を立て、さまざまな意地悪をした、ということになっている。度重なる嫌がらせに腹を立て、とうとう浅野は怒りを爆発させ、吉良に斬りかかったというのである。

ところが城中で刃傷沙汰を起こしたとして、浅野が切腹させられたにもかかわらず、その原因を作った吉良の方は、何のとがめもなかった。この処分に不満を募らせたのが、藩が取りつぶされ路頭に迷った赤穂家の旧藩士たちである。彼らが旧藩主の遺志をついで、吉良を敵(かたき)として討った。それが「忠臣蔵」の話なのである。

さて『吉良上野の立場』は、「忠臣蔵」の悪役、吉良上野介の側からこの出来事を見たものである。まず、吉良上野介は、浅野からのわいろが少ない、と怒る。

「浅野から」といって、藤井の持って来た手土産を差し出した。
「それだけか」
「はい」
「外に、何にも添えてなかったか」
「添えてございません」
「彼奴め、近年手元不如意とか、諸事倹約とか、内匠と同じようなことをいっていたが、そうか」
 上野は冷えたお茶を一口のんで、
「主も主なら家来も家来だ」
「何か、申しましたか」
「ばかだよ。あいつらは。揃いも揃って吝ん坊だ!」」
「どういたしました」」
「浅野は、表高こそ五万三千石だが、ほかに塩田が五千石ある。こいつは知行以外の収入で、小大名中の裕福者といえば、五本の指の中へはいる家ではないか。それに、手元不如意だなどと、何をいっている!」
「まったく」
「下らぬ手土産一つで、慣例の金子さえ持って来ん。大判の一枚、小判の十枚、わしは欲しいからいうのじゃない。慣例は、重んじてもらわなけりゃ困る。一度、前に勤めたことがあるから、今度はわしの指図は受けんという肚なのだろうが、こういうことに慣例を重んじないということがあるか。馳走費をたった七百両に減らすし、わしに慣例の金子さえ持って来ん。こういうこと、主人が何といおうと、家の長老たるべきものが、よきに計らうべきだが、藤井も安井も算勘の吏で、時務ということを知らん。国家老の大石でもおれば、こんなばかなことをすまいが。浅野は、今度の役で評判を悪くするぞ。公儀の覚えもめでたくなくなるぞ」

ここで吉良上野介から見れば、わいろをよこさない浅野の方が悪いということになる。でも、「わいろ」は「わいろ」でしょう? それをほしがるなんて、しかも、よこさない清廉な浅野を「吝ん坊」呼ばわりするなんて……と、いまのわたしたちから見れば、この部分、そのまま「オレ様の理屈」、吉良にしか通じない論理のようにも思える。だが、ほんとうにそうだったのだろうか。

wikipediaの「元禄赤穂事件」にはこういう記述がある。

また進物・賄賂についても現代社会と当時の社会ではだいぶ感覚が異なっていたことも考慮せねばならない。何もかも公費の予算から支出される現代の公務員と異なり、高家や勅使饗応役の大名は必要経費を自弁しなければならなかった。広大な領地と莫大な石高を持つ大名ならこれも何とかなるであろうが、一方の高家は家格は高いとはいえど所詮旗本に過ぎないので、わずかな領地・石高しか持っていない(吉良家は高家の最名門の家柄であるが、それでも石高で言えば4,200石。5万石の浅野内匠頭の収入に及ぶべくもない)。したがって高家が饗応役を命じられた大名から進物をもらうことは、賄賂というよりも授業料・必要経費の性格が強く、当時は別に卑しまれている類のものではなかった。

これを見ると、「大判の一枚、小判の十枚、わしは欲しいからいうのじゃない。慣例は、重んじてもらわなけりゃ困る。」という吉良の言葉も、たんなる強欲というばかりではないように思えてくる。事実、八の終わりの部分では、第三者である上杉の付家老、千坂兵部が「この頑固さを、世間でいうように、強欲とか吝嗇とかに片づけてしまうのは当らないと思った」と判断しているのだ。

「これで、俺が討たれてみい、俺は末世までも悪人になってしまう。敵討ということをほめ上げるために、世間は後世に俺を強欲非道の人間にしないではおかないのだ。俺は、なるほど内匠頭を少しいじめた。だが、内匠頭は、わしの面目を潰すようなことをしている。わしの差図をきかない上に、慣例の金さえ持って来ないのだ。これはどっちがいいか悪いか。しかし、先方が乱暴で、刃傷といった乱手をやるために、たちまち俺の方が欲深のように世間でとられてしまった。あいつはわしを斬り損じたが、精神的にわしは十分斬られているのだ。それだのに、まだ家来までがわしを斬ろうなどと、主人に斬られそこなったからといって、その家来に敵と狙われる理由がどこにあるか。まるで、理屈も筋も通らない恨み方ではないか。わしに何の罪がある。ひどい! まったくでたらめだ!」

このあたりまでくると、わたしたちは事態を吉良の側から見るようになっている。城中で斬りつけた浅野の行為こそせめられるべきで、むしろ吉良は被害者だったのではないか、と思えてくるのだ。

わたしたちは、最初は芝居にあるように、吉良上野介を意地悪で強欲な人物と考えながら、菊池寛の短篇を読んでいく。最初は「吉良だけの理屈」と考えていたのだが、徐々に「自分の論理」を押し通しているのは浅野も同じではないか、ということに気がつくようになる。つまり、吉良が「オレ様の論理」を押し通すだけでなく、浅野も「オレ様の論理」を押し通そうとしている。この刃傷沙汰に至るまでに、「オレ様の怒り」と「オレ様の怒り」がぶつかりあっているのである。

つまり、ここでわたしたちが見ておかなければならないのは、どちらかが「絶対的に正しい」わけではない、ということなのだ。
先に「オレ様の怒り」の特徴を
1.怒りをぶつける相手に対して、自分の方が相手より正しいと思っている。
2.自分は相手より優れているという思い上がりが根本にはある。
と整理したが、たとえば図書館の窓口で怒りまくっているおじさんを「ああ、あれは『オレ様の怒り』だなあ」と判断しているわたし自身が、おじさんより自分の方を正しく思い、相手より自分の方が優れている、という思い上がりがある。

だれかの言動に対して「正しい−まちがっている」という判断をくだすわたしたちは、かならず自分の方が正しく、自分の方が優れている、という立場から相手を見ているのだ。だが、たいていの出来事は『吉良上野の立場』でもあきらかなように、だれの側から見るかによって、出来事そのものがまったく異なる様相を帯びてくる。

ここではっきりさせておかなければならないことは、絶対に正しいというのはありえない、ということだ。わたしたちはどこかの立場に身を置いてものごとを見なければならないのだし、百パーセント客観的、公平無私という立場もありえない。

結局、怒りというのは大なり小なり、「オレ様の怒り」なのである。個人の怒りというのは、どこまでいっても「オレ様の怒り」以外ではありようがない。

理不尽に怒りまくる人を見て腹を立てるわたしたちも、実はその理不尽に怒りまくる人と同じ論理の中にいる。彼らを見て腹を立てるわたしたちも、実は同じことをやっている。

だとしたら、やはり怒ることはよくないのだろうか。腹が立ってもぐっとこらえ、にっこりほほえむべきなのだろうか。つぎにそのことを考えてみよう。

3.怒らない人々

レイ・ブラッドベリの近未来小説『華氏451度』の主人公は、最初は笑っている。モンターグの仕事は焚書官、本に火をつけて燃やすのが任務である。

 焔に焦がされ、その照りかえしを受ける人々は、だれもがおなじにはげしい笑いをうかべるものだが、モンターグもまた、そのような笑いを笑っていた。……
 退庁の時間がきて、くらい屋外へ出ても、火に似たその微笑は、顔の筋肉がつかんだまま、はなそうともしない。それは消え去ることがない。かれの記憶するかぎり、かつて一度も消えたことがない。

(レイ・ブラッドベリ『『華氏451度』宇野利泰訳 ハヤカワ文庫)

本を燃やした後、帰宅する途中で、隣に住む十七歳の少女クラリスと会う。

「あんたが燃やした本のうち、どれか読んだことがあって?」
 かれは笑って
「それはきみ、法律違反だよ」……
「こんな話をきいたんだけど、ほんとうかしら? ずっとむかし、火事をあつかうお役人の仕事は、火をつけるのじゃなくて、消すことだったんですってね」
「そんなばかなことがあってたまるか。家というものは、むかしから、焼けないようにできている。ぼくのことばにうそはないぜ」
「おかしいわ、あたし、たしかに聞いたことがあるのよ。むろん、ずっとむかしの話でしょうけど、建物がまちがって燃えだすことがあるんで、お役所のひとに、火を消してもらったんだって」
 かれは笑った。
 それを彼女は、ちらっと見て、
「なぜ笑うの?」
 かれはまたしても、吹きだしそうになる笑いをかみ殺して
「わからないね。笑ってはいけないのかい?」
「だって、あたしの質問が変でなかったら、返事ぐらいしたっていいでしょう? 笑っているだけで、質問にこたえてもくれないなんて――」

モンターグの笑いは、まるで仮面のようだ。焚書という仕事から、クラリスの問いから身を守るための笑い。自分自身すらも、自分の内部に立ち入らせまいとする笑い。だが、そうやって守っているはずの彼の内部は空洞だった。ともに暮らす妻と会った記憶すらもないのだ。

ある日、モンターグは密告を受ける。屋根裏に本の山があり、老女がそれを守っている。モンターグたちはいつも通り石油をかけて焼こうとする。本を守っている老女は、そこをどく代わりに、自分に火をつけ、本と一緒に自らを燃やしてしまう。翌日、モンターグは初めて病気になる。

「きみは、ぼくが昨夜、なにをしたか聞きたいとは思わないのか?」
「どんなことをなさったの?」
「本を千冊も焼いたのさ、女もひとり焼いた」
「それで?……署のビーティさんへの電話、わたしがかけなくてもいいんでしょう?」
「いや、きみがかけるんだ!」
「そんなに、どならなくてもいいわよ」
「どなりなんかしない」
 かれはベッドから起きあがった。すると、急に、怒りがこみあげてきて、顔をまっ赤にしたが、同時に、熱で、からだがふるえた。

怒ったことのないモンターグは、まず体の不調が現れる。そこから初めて怒りがこみあげるのだが、いったい何に対する怒りなのかよくわからない。ここから徐々に、モンターグはこれまで封じられていた怒りを感じる能力を獲得し、言葉として蓄え、それを育てていく。怒りが言葉と結びつくことによって、いっときの感情の表出を超えるものとなっていく。
人々にそうさせないために、焚書は行われていたのだ。

怒りを封じるのは、弾圧者ばかりではない。「あなたのため」「おまえのため」という「思いやり」によって、その人の怒りが封じられることもある。

今日ではフェミニズム文学の先駆的な作品として読まれることの多いシャーロット・パーキンス・ギルマンの「黄色い壁紙」の語り手である「わたし」も怒ることができないでいる。

高名な医者の夫や父親や兄までもがこぞって彼女を「一時的な憂鬱症」と診断し、仕事も、家事も、育児も取り上げてしまう。その結果、彼女はほとんど一日寝て過ごすしかなくなる。

 夫は大変に沈着冷静で愛情深く、とくに事情がない限り、わたしを不安にさせないように気を配っていた。

 わたしの予定は一日中一時間ごとに決められている。あらゆる心配事を取り除いてくれている夫に対して、さほどありがたく思っていない自分が、なんだか卑しい恩知らずであるように思える。

(私訳「黄色い壁紙」)

夫はあらゆる心労を彼女から取り除いてやるのが「愛情」だと思っている。ところが彼女はそれを「愛情」とは感じられず、そういう自分を「卑しい恩知らず」と思うのである。ここで彼女の漠然とした不快感は、彼女にも自覚されないまま、不快な模様の壁紙に結びついてしまうのだ。というのも、彼女のすることは横になって壁を見つめることしかなかったからである。

 ときどき、ジョンにはわけもなく腹が立つことがあるのだけれど、以前には、ここまで神経を尖らせることはなかった。おそらくはそれも精神状態のせいなのだろう。

 けれどジョンはわたしがそう言うと、きみは自制心が足りないんだ、と怒る。だからわたしは苦心してなんとか自分を抑えるようにする――少なくとも夫の前だけでは。そうするとひどく疲れるのだけれど。

「わたし」の不快感は、いっときの腹立ち以上のものになることはない。その代わりに自分を抑え、疲労を募らせていく。

ここでわかるのは、怒りを封じるということは、その人を一個の独立した人格として認めないということだ。政治的な理由から、ときには、自分の庇護のもとに置こうとする気持ちから、その人間の自立を侵害しようとする者は、まず怒りを封じる。おまえは価値がない人間だ、おまえはこの扱いで十分だ、そう思いこませることによって、その人がたとえ不快感を感じても、なかなか怒りとして育っていかない。

逆に言うと、人は怒ることによって、自分が一個の人間であると周囲に宣言しているのだ。自分は価値ある人間だ、こんな扱いを受けて良い人間ではない、自分にふさわしい扱いをしてほしい。そのことを周囲に訴えるために、人は怒るのである。

怒りを封じられている人も、不快感を覚える。だが、不快感が怒りに育つ前に、「自分が悪い」と考えてしまい、怒りを押し殺す。「自分が悪い」と思えば、周囲は気がつかない。怒りをむき出しにする人間が、厄介な存在となり、あるいは「クレーマー」だの「面倒な人」だの「大人気ない人」だのと目されるのに対し、「自分が悪い」と考える人は、周囲の人にとってきわめて都合がいい。
また当人にとっても「自分が悪い」と考えることは、気の持ち方ひとつの、簡単な解決策なのである。

だが押し殺された怒りは、その人を損なっていく。「黄色い壁紙」の主人公は、最後に非常に不幸なかたちで自分を解放させるのである。

さて、ここで押さえておきたいのは、漠然とした不快感というのは、自分のおかれた状況が好ましいものではないことに気がつく重要なサインだということだ。モンターグしても、「黄色い壁紙」の主人公にしても、まず体調を崩す。抑圧された怒りは、まず身体の変調となってあらわれるのである。

怒りが、自分が一個の人間であるとの周囲への宣言であるとすると、周囲はその怒りをどう受け止めたら良いのだろうか。つぎは怒りの受け止め方について考えてみよう。

4.受け止められた怒り、受け止められなかった怒り

芥川龍之介の「忠義」は、史実に材を取った、怒りの物語である。

「神経衰弱」に陥った板倉修理は、常軌を逸した振る舞いをするようになる。それを家老の家老の前島林右衛門が諌める。

 林右衛門は、爾来、機会さえあれば修理に苦諫を進めた。が、修理の逆上は、少しも鎮まるけはいがない。寧ろ、諫めれば諫めるほど、焦れれば焦れるほど、眼に見えて、進んで来る。現に一度などは、危く林右衛門を手討ちにさえ、しようとした。「主を主とも思わぬ奴じゃ。本家の手前さえなくば、切ってすてようものを。」――そう云う修理の眼の中にあったものは、既に怒りばかりではない。林右衛門は、そこに、また消し難い憎しみの色をも、読んだのである。

 その中に、主従の間に纏綿する感情は、林右衛門の重ねる苦諫に従って、いつとなく荒んで来た。と云うのは、独り修理が林右衛門を憎むようになったと云うばかりではない。林右衛門の心にもまた、知らず知らず、修理に対する憎しみが、芽をふいて来た事を云うのである。少くとも、最後の一刻を除いて、修理に対する彼の忠心は、終始変らないものと信じていた。「君(きみ)君為(きみた)らざれば、臣臣為らず」――これは孟子の「道」だったばかりではない。その後には、人間の自然の「道」がある。しかし、林右衛門は、それを認めようとしなかった。

修理が逆上した「神経衰弱」も、置かれた状況のためというよりは、一種の器質的なものだったのかもしれない。だが修理の怒りが向けられた林右衛門の対応が、その逆上を加速させていく。林右衛門の念頭にあるのはあくまでも「家」であって、修理はその家に災厄をもたらしかねない存在なのである。林右衛門は修理の怒りを決して正面から受け止めようとせず、ただ諌めるだけである。

 病弱な修理は、第一に、林右衛門の頑健な体を憎んだ。それから、本家の附人として、彼が陰に持っている権柄を憎んだ。最後に、彼の「家」を中心とする忠義を憎んだ。「主を主とも思わぬ奴じゃ。」――こう云う修理の語の中には、これらの憎しみが、燻りながら燃える火のように、暗い焔を蔵していたのである。

この林右衛門に対する憎しみがやがて大きな不幸を生むことになる。だが、いったんは林右衛門が去った後、修理の状態は小康を得るのである。というのも、彼の怒りを受け止めてくれる人間が登場したからである。もし登城して前島林右衛門の消息を聞かれなかったら(あるいは、前島林右衛門が家中を出ることがなかったら)以降の事件は起こらなかったかもしれないのだ。

 林右衛門の立ち退いた後は、田中宇左衛門が代って、家老を勤めた。彼は乳人をしていた関係上、修理を見る眼が、自らほかの家来とはちがっている。彼は親のような心もちで、修理の逆上をいたわった。修理もまた、彼にだけは、比較的従順に振舞ったらしい。そこで、主従の関係は、林右衛門のいた時から見ると、遥に滑になって来た。
 宇左衛門は、修理の発作が、夏が来ると共に、漸く怠り出したのを喜んだ。彼も万一修理が殿中で無礼を働きはしないかと云う事を、惧れない訳ではない。が、林右衛門は、それを「家」に関る大事として、惧れた。併し、彼は、それを「主」に関る大事として惧れたのである。

ここで林右衛門と宇左衛門の修理の怒りの受け止め方の違いを見てみよう。林右衛門にとって大切なのは、「家」であって修理ではない。「家」を第一に考え、修理を諌める。そのことで修理はいよいよ荒れていく。

それに対して宇左衛門は乳人(乳母の男性版)であったために「彼は親のような心もちで、修理の逆上をいたわった」。そのために修理の心も穏やかになっていく。

この両者の対極的な対応と、それに対する修理の反応は、わたしたちにも非常に納得がいくものである。これはイソップの「北風か太陽か」という問題ではない。

林右衛門というのは「本家の板倉式部から、附人として来ているので、修理も彼には、日頃から一目置いていた」「病苦と云うものの経験のない赭ら顔の大男で、文武の両道に秀でている点では、家中の侍で、彼の右に出るものは、幾人もない」存在である。つまり、身分こそ修理の下であるが、修理はコンプレックスを抱いているし、林右衛門のほうは相手を尊敬していない。修理の怒りを諫めることはしても、受け止めようとはしない。

一方、宇左衛門にとって修理は単なる「主君」というだけではない。修理という個人を大切に思い、誠意をもって仕えようとしているのである。修理の怒りも辛抱強く受け止めようとする。

怒りを受け止めるとは、相手の言うがままになることではない。批判したり、自分の意見を言ったりする前に、何よりもまず、相手の言葉に耳を傾けることなのである。

先に見たように、怒っている人間は、周囲に自分が一個の人間であることを認めさせようとしているのである。処遇や扱いを改善してやれるときばかりではないだろう。要求をのむことができない場合もあるだろう。その要求が的はずれで、こちらの怒りが引き起こされるかもしれない。
それでもまずは耳を傾ける。主張する一個の人間の声を聞くのだ。

だが、そのことは他人の怒りに自分が正面から向き合うということでもある。人の怒りに向き合うことは、あまり気持ちのいいものではない。

5.怒らないではいられない

店や病院の受付けや駅や図書館のカウンターで怒っている人を見ると、わたしたちはそれが赤の他人であっても、そうしてわたしたちが怒りをぶつけられている当事者ではなくても不愉快になる。怒りに満ちた声は、わたしたちに不快感を起こさせる。

そう思っているのは、わたしたちだけではない。夏目漱石の『それから』の主人公代助は、いっそう鋭いかたちでそのことを意識している。

彼の近頃の主義として、人と喧嘩をするのは、人間の堕落の一範鋳になつてゐた。。喧嘩の一部分として、人を怒らせるのは、怒らせる事自身よりは、怒つた人の顔色が、如何に不愉快にわが眼に映ずるかと云ふ点に於て、大切なわが生命を傷ける打撃に外ならぬと心得てゐた。彼は罪悪に就ても彼れ自身に特有な考を有つてゐた。けれども、それが為に、自然の儘に振舞ひさへすれば、罰を免かれ得るとは信じてゐなかつた。人を斬つたものゝ受くる罰は、斬られた人の肉から出る血潮であると固く信じてゐた。迸しる血の色を見て、清い心の迷乱を引き起さないものはあるまいと感ずるからである。代助は夫程神経の鋭どい男であつた。だから顔の色を赤くした父を見た時、妙に不快になつた。

(「それから」九の四)

代助が喧嘩をしない、つまり、自分が相手に対して怒らないのは、怒った人の顔が不快で、それを見ていると「大切なわが生命を傷ける打撃に外ならぬ」と感じているからなのである。

この代助はいわゆる高等遊民、父親の庇護を受けて、社会から超然として生きている。働こうと思えば、不愉快な目にも遭わなければならないが、働かなくてもすむのだから、人との接触は最小限にとどめて、目の前の人間を怒らせないようにしておけばそれでいい。喧嘩をしない、ということは、つまり自分が相手に対して怒ることもない。もちろん代助が働かないのには、「そりや僕が悪いんぢやない。つまり世の中が悪いのだ。もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ」という理由がある。つまり、彼は日本の状態に我慢がならないのだが、自分一人が何をしてもどうしようもない、という諦観を同時に感じているのでもある。

代助は過去に愛していた三千代を友人の平岡に譲った経緯がある。三千代と結婚して地方へ行った平岡は、三年後、事業に失敗し、金も失って東京に戻ってくる。彼らに生活費を用立てることから再会した代助は、平岡夫妻のあいだにすでに愛がなくなっていることを知る。三千代は健康を害している。その三千代と、ふたたびともに生きようとする代助だったが、平岡が父親に暴露したために、父親からの援助はうち切られ、代助は自活の道を探さざるをえなくなる。

自分の愛を貫こうと思えば、代助はさまざまな怒りに自らをさらしていかざるをえなくなる。代助自身は、三千代に会わせまいとする平岡に対して「残酷だ」ということはあっても、怒りをむき出しにすることはない。それでも、自分に向けられた怒りは、正面から受け止めていく。父親からの怒りにも自分の身をさらし、兄の絶縁も受け止める。つまり、自分が不快になり、それが自分の身体にも打撃を与えるから、怒っている人間を見たくなかった代助は、さまざまな人の怒りを正面から受け止めることができるまでに成長していくのである。

ここでわかるのは、社会の中で生活していくということは、時に理不尽であり、それぞれの思惑を抱えた他人の怒りにさらされるということでもあるのだ。怒りを受け止めるのは楽なことではない。だが、それを受け止める。そしてまたこちらからも怒っていく。そういう怒りのコミュニケーションというのもまた、社会で生きていく上で、学ばなければならないことのひとつなのだろう。

6.怒りを大切にする

喜怒哀楽という。出来事に遭遇するわたしたちは、それを受けて、さまざまな心境の変化を経験する。

ある出来事が原因で、自分のうちに不快な感情が生まれる。
この不快感をどうするのか。
ひとつの方法として、怒りを飲み込んでしまうやり方がある。怒る人がでてくると、物事の進行は滞り、怒りは周囲に不快感をもたらすからである。
『それから』の代助は言う。
「人を怒らせるのは、怒らせる事自身よりは、怒つた人の顔色が、如何に不愉快にわが眼に映ずるかと云ふ点に於て、大切なわが生命を傷ける打撃に外ならぬと心得てゐた。」
他人の怒った顔を見るのは生理的に耐え難い。それぐらいなら怒らせない方がまし、短い間のことではあるし、自分さえ我慢していればそれですむ。

このようなことを続けているうちに、わたしたちは自分の怒りというものを徐々に感じなくなってしまう。「黄色い壁紙」の主人公は最初、夫に対して漠然とした怒りを感じているが、夫に怒りをぶつける代わりに引っ込めることを選ぶ。そうした鬱屈した怒りが蓄積していき、さいごには狂気に陥ることになる。

わたしたちが笑うことをつねに抑制しなければならなくなったとしたら、それは恐ろしいことだろう。喜んだり、楽しんだりの表出は、もちろん時と場合をわきまえなければならないにせよ、その存在そのものを否定されることはない。だが怒りはネガティヴな感情として否定される。わたしたち自身が自分が感じている怒りを否定してしまうのだ。そうやって抑圧していくことを繰り返していけば、その怒りも徐々に感じられなくなってくる。だが、感じない、といっても、意識レベルで感じないだけで、実際には感じている。相手の行動に、本来なら反対し、抵抗しようと怒りが生まれてくるところが、発散されないまま蓄積され、徐々にわたしたちを損なってしまうのである。

喜んだり笑ったりする感情の表出があたりまえであるように、怒りや悲しみの表出もまたあたりまえのことだろう。まずそのことを認めよう。問題はそこから「どう怒るか」なのである。

 愛についての忠告には私も飽きあきしている。書物や講演はもとより。テレビ討論までが愛の驚異を説き、女、男、動物、植物、食堂の家具にいたるまでをいかに愛すべきか、さらには全人類を愛することから生じる喜びを説くのにはうんざりさせられる。たしかに愛は素敵、愛はすばらしい。私もそう思うにやぶさかではない。しかし「愛こそすべて」とひっきりなしに、こうもうるさく吹きこまれると、人間的感情の価値についていやでも誤解が生じてくる。
 しからば、怒りについてはどうなのか。なぜ、これら人間的感情の専門家は一人として怒りについて有益な発言をしてくれないのか。……私たちに必要なのは、「いかに愛するか」についての新しい本ではなく、「いかに怒るか」についての簡単明快な忠告である。

(ラッセル・ベイカー『怒る楽しみ』新庄哲夫訳 集英社)

ということで、どう怒るかについて考えてみた。

まず前提として、1.怒りは自分の感情の表出であって、解決に寄与するものではないということを理解する。
怒りをぶつけている人の多くは、自分の怒りを表明することで、相手に事態を改善させようとしている。だが、自分の怒りを相手が理解してくれる保障はどこにもないし、さらに同意してくれる可能性はいっそう低いと考えた方がいい。自分が不快であると伝えることは大切だが、事態の改善は怒りとは別個に検討すべきことがらである。

2.自分が何に対して怒っているのか、正確に見定める。
わたしたちは実は何に対して怒っているのか、よくわかっていないことが多い。あの人の何もかもが気に食わず腹が立つ、のではなく、いまさっきのこの行動に対して自分は怒っているのだ、というかたちで表明する。

3.怒るときは、相手の怒りも受け止める。
壁を叩くときや柱をけっとばすときはともかく、多くの場合、怒りをぶつけるのは相手である。そうして多くの場合、こちらの怒りは相手の怒りを引き出す。自分ひとり怒って、相手はそれを聞いてくれる、というのも、あまりにムシのいい話だ。怒りの応酬というのも、コミュニケーションの一種なのである。

4.自分ばかりが正しいわけではない。
わたしたちは限られた情報しか持っていないし、自分の立場からしか理解できない。相手には相手の立場があり、考え方があるのだ。怒りを表明することはかまわない。だが、自分がまちがっているかもしれないし、あとで思い違いに気がついて恥ずかしい思いをするかもしれないことをつねに念頭に置いておく。

5.怒る目的を忘れない。
怒るのは何のためかというと、結局は相手と自分の関係のありようを改善するためなのである。もちろんそれは別途、ねばり強くその道は探っていかなければならないこともある。まず第一歩として、いまの状態に自分は不満であるということを表明することであり、そのために怒っているのだ。だから、どれほど怒りに駆られたとしても、相手そのものを否定するような言辞は慎まなければならない。

もしかしたら、いざ怒り出してしまえば、こんなルールなど、どこかにいってしまうのかもしれない。だからこそ、ふだんから考えておく必要がある。「自分の怒り方」を確立しておくことが必要なのだ。怒りがコミュニケーションの一種ならば、経験を積んでスキルをあげていくことも可能である。なによりも、自分の中に不快感を蓄積させないために、うまい怒り方を学んでいく必要があるだろう。

怒りとは、身体に密着した感情であり、怒りが高じるとぶるぶる身体が震えてきたり、顔が紅潮してくる。弱い場合でも、歯を食いしばったり、心臓の鼓動が速くなったり、目つきが鋭くなり目が据わってくる。つまり、攻撃性をはじめから含みもつ感情であり、まだ具体的に相手を攻撃しないまでも、身体の全体がすでに攻撃の準備段階に入っている、そんな感情です。

(中島義道『怒る技術』PHP)

怒りが「攻撃性をはじめから含みもつ感情」であることをわすれてはいけない。怒りは必要ではあるが、自分と相手の双方を損なう危険な感情でもあるのだ。そのことをわきまえたうえで、自分の怒りを育て、自分なりの怒り方を見つけていこう。海に向かってバカヤローと叫ぶばかりが、怒りの発散ではないのである。

然るべきことがらについて、然るべきひとびとに対して、さらにまた然るべき仕方において、然るべきときに、然るべき間だけ怒る人は賞賛される。かかるひとは「穏やかな」ひとといえよう。

(アリストテレス『ニコマコス倫理学』高田三郎訳 岩波文庫)


初出Nov.14-23 2007 改訂Dec.05 2007

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