ほんの動物 ――わたしたちと「隣人」をめぐるささやかな考察



0.初めの疑問 ――なぜ涙が出るんだろう?

昔から思っていた。読者を泣かすことができる本を書こうと思えば、淡々と動物との暮らしを綴り、最後にその死を描けばよい、と。事実、『かわいそうなぞう』を初めとして、その手の本は枚挙に暇がない。

確かに死というのは、E.M.フォースターも『小説の諸相』のなかで言っているけれど、結末をつけるのに便利なものだ。わたしが最初に書いた小説では(八歳のときだったのでその点はご了承ください)、最後に悪人が登場人物全員を毒殺し、探偵に撃たれて死ぬ、というものだった。書き出しは順調だったのだけれど、登場人物を増やすことでストーリーを転がしていったため、どうにも収拾がつかなくなって、殺すことで一気に結末へ持っていったのである。だが、ノートにエンピツで書いた「小説」ならいざしらず、それなりの作品ともなると、人間の死を描くためには、そこに至るまでのプロセスが非常に重要になってくる。そういう部分がなおざりにされたものは(それでも感動したがり、泣きたがりの読者はずいぶん多いようだけれど、そういう人たちを除くと)、はっきり言って、読むのはたいそう辛い。

だが、動物の場合、わたしも含めて、どうもその基準が相当甘いような気がする。あっけなく心を動かされ、涙腺を刺激されるのだ。

なぜ、わたしたちは見ず知らずの動物の死に涙することができるのだろう。
英雄の死よりも、悲劇の王の死よりも、一匹の動物の死のほうが、胸が痛むのだろう。

本に描かれた動物を見ながら、そのことを少し考えてみたい。

1.動物と暮らすということ

とりあえあず、動物でも人間でもないものを扱った本を見てみよう。中年男とクマのぬいぐるみ、まさにこれは手術台の上のミシンと蝙蝠傘流の、できるだけ意外な組み合わせをモチーフにした短編なのだけれど、わたしたちがある特別な存在に惹かれていくプロセスがよく描かれている。引用するのは『いつかテディ・ベアを』(ローレンス・ブロック傑作集3『夜明けの光の中に』所収 田口俊樹訳)。

主人公は中年の映画評論家。離婚して、現在は一人暮らし。女性との気軽なつきあいを楽しんでいるのだが、その彼には秘密がある。ぬいぐるみのクマを抱いて寝ているのだ。

 こういったことには彼自身が驚いていた。動物のぬいぐるみを抱いて寝るというのは、ある日それを買いに行って、一緒に寝ることを意図して始めたことではなかった。そういうことをする大人もいるだろうし、それは別に変なこととは思わない。しかし、彼の場合はそうではなかった。まったくちがっていた。

つきあっていたガールフレンドは、子供のころ母親にぬいぐるみのクマを処分されたことがトラウマになっているという。その彼女にプレゼントしようと買ったところ、あっさりとふられてしまった。仕方なくクロゼットにしまっていたのだけれど、眠れぬ夜、ベッドに持っていくと、「妙に気持ちが安らいだ。それは実際妙な安らぎ方だったが、心地よさに変わりはなかった。」

以来、そのクマと一緒に寝るようになってしまう。旅行に出るときは、クマをスーツケースの底にしまいこむ。女性が泊まりに来たときは、クロゼットに隠す。だがそのときは、「一瞬はっきり痛みのようなものを感じた」

主人公はさまざまなことを考える。スティーヴン・キングの映画なら、このクマは自分の目の前に現れる女性たちに嫉妬して、残虐な方法で殺そうとするだろう……。こんなふうにバカバカしいことを思うのも、ひとえに自分がこのぬいぐるみのクマに惹きつけられている、愛情を感じ、ともにいることで心から安らぎを覚えていることを認めたくないからだ。

この感情に、わたしたちは馴染みはないだろうか。
最初はそんなつもりではなかった。けれどもいつのまにかその存在に心は暖められ、離れていると不安になり、いや、ちがう、これはそんな感情ではない、ただの気の迷い、疲れているからだ、と何度もうち消す。まさかこの自分が、冗談じゃない、そんなバカな……。 だが、気がつくといつもその存在のことを考えている。身近に感じたい。何かしてやりたい。

 ある晩、彼はクマの夢を見た。
 彼が夢を見るのは珍しいことで、見たとしても曖昧で断片的なものが多いのだが、この夢は鮮明で実に詳細な夢だった。まるで映画を見ているかのように、彼の心の網膜に映し出された。ただ映画とちがうのは、彼自身がその中に出てくることだった。
『ピグマリオン』(『マイ・フェア・レディ』の原作)と『蛙のプリンス』(※と訳書にはあるがこれはおそらくグリム童話の「かえるの王子様」のことだと思う)を足して二で割ったような、魔法にかけられたクマが出てくる夢だった。そのクマは人間の不変の愛を勝ち取ることができれば、クマでいることから解き放たれ、愛してくれた人間の理想的なパ−トナ−となることができる。そのことを知った彼はクマを愛し、クマを抱いて眠る。そして眼覚めると彼の腕の中には、そう、まさに夢の女がいるというものだった。

 そのあとほんとうに眼が覚めた。彼が必死に抱きしめていたのは、もちろんいつものぬいぐるみのクマだった。ああ、よかった、と彼は思った。
 なぜならそれは悪夢だったからだ。彼はクマが何かに変わってしまうことを少しも望んではいなかった。たとえ夢の女に変わるとしても。
 彼は起き出してベッドを整え、クマを寝かすと、クマの顎の下を軽くつついて言った。
「おい、変わるんじゃないぞ」

外見上の「違和感」さえも、それが相手の唯一性、かけがえのなさの証である。相手の存在が、まるごといとおしい。

主人公のとまどいは、非常にわたしたちにもなじみ深いものである。そう、恋愛の始まりだ。

けれども見方を変えてみよう。ずっと動物と暮らしていて、身近に動物がいることに慣れてしまっている人には、この感覚はちょっとわかりづらいかもしれないけれど、ひょんなことから新しく動物を飼い始めた人、あるいは長いインターバルがあって、大人になって不意に飼い始めた人にはよくわかる感情ではないだろうか。
たかが動物なのに、なんでこんなにかわいいんだ? なんでこんなに自分は夢中になっている?

もちろん恋愛と生き物を飼うことは同じではないし、さらにぬいぐるみと一緒に寝ることは同じではない。けれども、他者に心を惹かれる、それも、抵抗しようが、うち消そうが、否応なく惹かれていく、そうしながら、相手の存在によって心が暖められ、相手の側にいたい、見ていたい、相手のために何かしてやりたい、という気持ちになる、この点では差はない。

おそらく、わたしたちが自分以外のものに心を惹かれる、というのは、相手がなんであろうが、大きな差はないのだ。
ぬいぐるみのクマは生きてはいない、だからこそ、ぬいぐるみのクマから「愛されたい」とは思わない。穏やかで、すこぶる安定した関係を保っていられる。けれども人間が相手だと、自分の思いが受け容れられているかどうか不安でたまらない。好意を告げられた瞬間は、天にも昇る気持ちだけれど、キャロル・キングの"Will You Love Me Tomorrow?"の歌詞そのままに、朝の光で魔法が解けるのではないか、と怯えたりもする。
では、生き物とわたしたちの関係というのは、どのようなものなのだろう。

アメリカの人類学者、エリザベス・マーシャル・トーマスは、ネコと人間の関係について、このように考察している。

 じつのところ、猫と人間を結ぶきずなはさまざまにある。そのもっとも重要で、おそらくもっともわかりやすいきずなが、所有の関係である。わたしたちはほかのあらゆる所有物とおなじように、猫を所有する――彼らは、わたしたちが好き勝手にできるものなのだ。……しかし興味深いことに、わたしたちが人間の所有原則に従って猫を所有すると同時に、猫は猫の所有原則に従ってわたしたちを所有している。野生の猫がテリトリーとそこに住むネズミやシカの狩猟権とを所有するように、家猫も人間の住居とそこにいる人間にかんする権利を所有するのだ。人間が家猫の獲物にならないのは事実としても、わたしたちはネズミの群れ以上にかんたんに食糧を提供する。だからこそ猫はわたしたちの家に尿をかけてマーキングをおこない、わたしたちの体に臭腺を軽くこすりつけるのだ。 ……

人間と猫を結ぶ第二のきずなは、おそらくもっとも基本的な、親と子の関係である。猫を子どものように扱う人は大勢いて、それが猫の大きな魅力になってもいる。…人間の赤ん坊とおなじように、猫は高い声、小さな顎、大きな目、そして短い毛の立った頭をもっている。そんな聴覚と視覚からの刺激が、わたしたち人間の親心をくすぐることになる。

 そしてわたしたちが猫を子どもとして扱うとすれば、彼らのほうもわたしたちを親とみなして接する。人間の大人の身長は、猫の顔の位置とほぼおなじ膝から上で成猫の体のおよそ三倍はある。それはすなわち、成猫から見ると、大まかに言って親猫と子の体の比率に相当する。……

 しかし人間が親で猫が子どもという図式は、ものごとの半分しか説明していない。猫の目からすると、自分たちのほうが親で、飼い主はその子どもでもあるのだ。……

 獲物を家の中まで運んできて人間の飼い主に見せるとき、猫たちは教育を買ってでているのだろう。おそらく彼らはわたしたちに食べさせたいのだ。そしてわたしたちを教育するつもりなのだ。……

 わたしたちは何歳ぐらいに思われているのだろう。……わたしたちはひとり立ちにはまだ早い、青年期の若者とみなされているのだろう。そうであれば、不思議はない。わたしたちはきっと、救いがたいほど不器用ではないにしても、未熟者であり礼儀知らずとも思われているにちがいない。

(エリザベス・マーシャル・トーマス『猫たちの隠された生活』木村博江訳 草思社)

わたしたちは猫を「飼っている」、つまり「所有」していると思っている。けれども、逆に彼らから見れば、所有され、保護されている存在でもあるという。生き物とわたしたちの関係というのは、対象によってそれぞれに変わってくるだろう。犬ならば、もっと主従の関係が強くなるだろうし、ハムスターならば、帰ってきたら飛んで出迎えてくれる、ということはないだろう。あるいはまた、それぞれの猫、犬の個性というようなものもある。

それでも、生き物を飼っていれば、間違いなく、気持ちのやりとりをするようにはなっていく。そうして、そのやりとりが楽しいのだ。わたしたちが、ときに、犬や猫や金魚でさえも過剰な擬人化をしてしまい、そこから多くの感情を読みとろうとするのも、この気持ちのやりとりゆえなのである。

もうひとつ、決定的にちがうことがある。
長田弘『ねこに未来はない』(晶文社)にはこのような一節がある。

もしねこを飼うという行為にどこか他のひとの介入をゆるさない濃密な親密さがあるとすれば、その親密さは、おそらく、いつかじぶんとねことのあいだになにげなく、あっけなく、唐突にひび割れのようにあらわれるだろうはっきりとした隔絶を予感している飼い主たちのくぐもった感情に、正しくみあったものであるにちがいありません。

 実際、ねこがいなくなるたびに、ぼくたちをいちばんさきに生なましい力で襲ったのは、ねこがいなくなったということにたいする悲しさや怒りというよりは、むしろ「やっぱりいなくなってしまった」ともいうべき、いわば実現した不安の淋しい確認だったといったほうが、より正確なような気がするのです。

 つまり、ねこをながく飼ってきたひとはこころのどこかでいつもねこがいなくなる日のことを覚悟しているのであり、そして、そうした覚悟をあらかじめじぶんで先どりして、いま・ここにいるねこをかわいがることのうちにいっそうまぜあわせることに熱中するのだ、そんな気がたまらなくするのです。

ネコばかりではない。あらゆる動物の飼い主は、いつかかならず来る「別れ」を意識のうちに織り込みながら、その「別れ」ができるだけ遅くなることを祈りながら、ともに暮らす。これは、何度か恋愛を経験してきた人が、いつか必ずこれも終わるのだ、と、どこかで知っていることにも近いのかもしれない。

だが、逆にいうと、限られた時間だからこそ、その一瞬がいとおしいのだ。長田弘のいうように、「覚悟」を「いま・ここ」に混ぜ合わせることで、いっそう、濃密で凝集したひとときを過ごすのだろう。生き物と暮らすことは(あるいは恋愛をすることは)、多少の程度の差こそあれ、引き延ばされたような日常生活に、すこしずつ〈非日常〉の要素を混入させていく、ということなのかもしれない。その濃密な時間こそ、実はわたしたちが求めているものなのかもしれない。


2.すてきな相棒


『怒りの葡萄』『二十日鼠と人間』『気まぐれバス』などの作品を発表し、アメリカの「国民的作家」と呼ばれるまでに評価の高まったスタインベックは、五十八歳のとき、キャンピングカーに乗って、祖国アメリカ再発見の旅に出る。その旅行記が『チャーリーとの旅 ――アメリカを求めて』(大前正臣訳 サイマル出版会)である。

白状するが、私もここでバカげた不安にとりつかれた。つれはなし、無名の人間として、家族や友人や仲間の助けを受けないで一人でいるのは、何年ぶりだろうか。実際には危険なことはない。ただもう、さびしいのである。何よりも心もとなく、荒涼とした感じなのである。
 そこで私は同行者をつれてゆくことにした。チャーリーという名前のフランス生まれの老プードル犬である。

このチャーリーは、見知らぬ人に対しては外交官となり、不審な人物が近づけば大声で吠えて危険を知らせる。なにしろ賢いので、ゴミ屑を漁っても、ちゃんと宝物を嗅ぎ分ける。大作家は、チャーリーが拾い上げた紙くずをのばして、それが裁判所命令であることを確かめ、本来のもちぬしの生活のありようをこと細かに想像し、アメリカ人像をまたひとつ、組み立てていくのである。

もちろん、チャーリーはつねに作家の期待に応えてくれるわけではない。南オレゴンの高さ90メートルを超すアメリカ杉の巨木を見せようとしたときは……。

 私は道をそれ、この神のような巨木から五〇フィート以内の近さに近寄った。枝を見るためには、顔をあおむけ、垂直に見上げねばならない。これこそ待ちに待った時であった。私は後ろのドアを開き、チャーリーを外に出し、立ったまま黙ってチャーリーを見守った。というのは、これこそ犬の夢見る最高の天かもしれないからである。
 チャーリーはクンクン鼻を鳴らし、首輪をふった。草のもとまでぶらぶら歩き、若木にじゃれ、小川のほとりへいって水を飲み、それから、何をしようかとあたりを見まわした。

「チャーリーよ」私は呼んだ。「ごらん!」私は“おじいさん”を指さした。チャーリーは尾をふったが、また水を飲んだ。私はいった。「なるほどね。顔をもっと上げないから、枝が見えないんだな。それで木だとわからないんだな」。私はチャーリーのもとまでぶらぶら歩き、鼻面をグイと立てた。「いいかね、チャーリー。これは木のなかの木だよ。これは探究のきわみの果てさ」

 チャーリーはけたたましくくしゃみをした。どんな犬でも鼻をあまり高く上げると、くしゃみをする。私は、チャーリーに激しい怒りと憎しみを感じた。大事にしてきた計画を、ありがたく味わわないやつ、ぶちこわしにするやつにたいして感ずる怒りと憎しみである。私はチャーリーを引きずって、大木のもとまでつれてゆき、鼻面を幹の肌にこすりつけた。チャーリーは冷ややかに私を見つめたが、私をゆるし、ハシバミの茂みにぶらぶら歩いていった。
「悪意か冗談でチャーリーがあんなことをやったのなら、たちどころに殺していただろうな。こいつは探り出さずにはおかないからな」私は独り言をいった。

チャーリーとスタインベックの関係は、飼い犬とその主人という関係をはるかに越えて、まさに相棒というにふさわしい。というか、犬である必要はあまり感じないのだ。ロード・ノヴェルに登場するでこぼこコンビに近い関係である。

たったひとりの家族、という場合もある。ドリス・レッシングの短編『老女と猫』(『猫好きに捧げるショート・ストーリーズ』所収 大社淑子訳)は、猫でなければ成り立たない物語だ。

ロンドンに住むヘティは二十世紀と一緒に誕生した。建設労働者だった夫は第二次世界大戦直後に亡くなり、あとは女手ひとつで四人の子供を育てた。子供たちが巣立ったあとは、小さな公営アパートで一人暮らし。古着をただ同然で巻き上げ、それを行商しながら生活する。

子供たちが古着のぼろ売りを恥ずかしがって、母親にかまわないでほしいと考えていることがひとたびわかると、彼女はそれを受け入れた。そして、いつも乱暴に笑い飛ばしてしまう苦々しい気持ちは、クリスマスのようなときだけ胸に湧きあがってきた。そんなとき、彼女は猫にむかって歌ったり、念仏のように語りかけたりする。「この性悪の老いぼれ猫ちゃん、汚い年寄り雄猫ちゃん、おまえなんかはお呼びじゃないよ。そうだろ、ティビィ、お呼びじゃないよ。おまえはただの野良猫で、老いぼれ泥棒猫にすぎないからね。ヘイ、ティブス、ティブス、ティブス」

公営アパートでは規則が変わって、猫を殺さなければならなくなる。ちょうど体調を崩して家賃も滞納していたヘティは、そこを出て、スラムに移る。
猫とヘティの平和な日々が五年ほど続いたけれど、スラムの一画が区画整理の対象となってしまった。気まぐれな福祉政策のおかげで養老院に入れることになったが、そこには猫を連れて行くことができないのだ。ほかの住人たちが養老院に移っても、ヘティだけはこっそりとそこに残った。猫が取ってきてくれる鳩を、なんとか火をおこし、料理して食べていたが、やがて本格的な冬が来、いよいよ工事も始まってしまう。

雪とみぞれが吹きこむ大きく開いた窓からは遠い、ふきさらしの部屋の比較的乾いた一隅に、彼女はもうひとつの――最後の――巣を作った。瓦礫のなかからプラスチックの被覆材の切れ端を見つけてきて、まずそれを敷き、湿気があがってこないようにした。それから、その上に二枚の毛布を広げ、毛布の上に古着の固まりを山のように積み重ねた。上に置くプラスチックの切れ端がもう一枚あったらいいのにと思ったが、その代わりに新聞紙を使った。彼女はその真ん中にもぐりこみ、手に近いところにパンを置いた。それからうとうとし、しばらく待ってから、パンを少しかじった。そして、雪が静かに降りこむさまを眺めた。ティビーは古着の山からのぞいている老いて青ざめた顔の近くにすわっていたが、前足を出して、その顔に触れた。彼はニャーニャーと鳴き、そわそわしていたが、やがて霜の降りた朝の戸外へ出て、鳩を持って帰ってきた。まだ少しもがいて羽をバタバタさせているこの鳥を、猫は老女のすぐそばに置いた。しかしヘティは、やっと暖まりかけたものの暖かくしておくのがむずかしい衣類の山から出るのが怖かった。実は、床から床板のかけらを剥がし、火を起こして、鳩の毛をむしり、焼くだけの時間、起きていられなかったのだ。それで、冷たい手を出して、猫を撫でてやった。
「ティビー、老いぼれちゃん、おまえはそれをわたしに持ってきてくれたんだね。ここにおいで、ここに入っておいで……」

ヘティは自分が見つけ出してもらい、病院に連れて行ってもらわなければ死んでしまうだろう、と思う。

 しかしそうなれば、かわいそうな猫はどうなる? 彼女は年取った動物のボサボサの頭を親指の付け根のふくらみでなでながら、つぶやいた。「ティビー、ティビー、あいつらはおまえを捕まえはしないよ。そうよ。おまえは大丈夫、ええ、わたしが面倒を見てあげるから」

そうしてヘティはそのまま死んでしまう。

このヘティとティビーの関係は、肉親より友人より、深い結びつきだ。人間と結びつこうとするときは、こちらもそれなりのものを差し出さなければならない。けれども相手が動物なら、ほんのささやかなものを差し出すだけで、あとは相手を思う気持ちさえあれば、深く結びつくことができる。その深い結びつきゆえに、猫と別れることより、自分の死の方を選んだのである。

こういう関係を見ると、人間が人間と結びつくことのむずかしさを考えないではいられない。あるいは、たとえそれが猫であっても、他者と結びつくことによって、ヘティの精神が、一種の気高さを獲得していくプロセスということも考えてしまう。
人間は愛情を向ける対象、自分を愛してくれる存在がなければ、生きていけないし、そうしてその存在によって、高められもするのだ、と思ってしまう。

やはりネコ、といえば内田百閧あげないわけにはいかないだろう。
近所で生まれた子猫が、百閧フところに居着いてしまった。もともとが野良猫だからノラと名づけた。ところがそのノラがいなくなったのだ。引用は中公文庫『ノラや』より。

 三月二十九日金曜日(※二十七日の午後から帰ってこなくなっている)
 快晴夕ストーヴをたく。
 朝になつてもお天気になつても、ノラは帰つて来ない。ノラの事で頭が一ぱいで、今日の順序をどうしていいか解らない。夕方暗くなり掛かつても帰つて来ない。何事も座辺の片づけも手につかない。……

 三月三十日土曜日
 ……
 毎日私が泣いて淋しがるので、家内がだれかに代る代る来て貰つて一緒に御飯を食べる事にしてはどうかと云ふ。その気になつて今日は平山君に来て貰つた。
 食膳の上は、一献中はまぎれたが、彼が帰つた後、もうこの時刻では今夜もノラは帰つて来ないだらうと思ふ。可哀想で淋しくて堪らない。
 ノラが帰らぬ事で頭が一ぱいで、やり掛けた仕事の事も考へられないし、私の様な身体はこんな状態が続いてはもたないと思ふ。しかしどうしても自ら制する事が出来ない。

 四月六日土曜日
 ……
 朝日新聞の案内広告に猫探しの広告を出さうと思ふ。その文案を作つた。

   迷猫 麹町界隈薄赤の虎ブチに白
 尻尾は太く先が曲つてゐる
 お心当の方はお知らせ乞猫戻れば
 乍失礼呈薄謝三千円電33abcd

 四月二十六日金曜日
 晴曇晴曇。夜雨。
 今朝も昨日からの続きでくよくよして、涙が流れて困る。夕方近くなり、夜に入れば、一寸したはずみで又新らしく涙が出て、ノラがいつもゐた廊下を歩くだけで泣きたくなる。雨の音が一番いけない。

『ノラや』は百68歳のときである。
わたしが初めてこの作品を読んだとき、一種異様な印象を受けた。百閧ニいうと、腹を立ていきなり、読んでいた新聞に火をつけたり、家を飛び出したり、非常に癇性な、激烈な性格のもちぬし、という印象があったのだ。
正直、この手放しの嘆き悲しみよう、そうして、それをそのまま書き付ける百閧ェ、ちょっと心配になってくるようでもある。これも一種の創作である、と見るべきなのだろうけれど、どのように読んだらいいか、よくわからないのだ。

それでもここであえてあげたのは、この三つの作品に共通するのは、世間一般でいう、「常識的なペットと人間の関係」から、どれも逸脱が見られる、ということなのだ。もちろん程度にはずいぶん差がある。スタインベックのそれは、犬に古木を見せ、感動を共有してくれないから、といって腹を立てる、言ってみれば、ほほえましいものである。けれども、レッシングの作品に描かれる老女は、最後には自分の生命をも相手に差し出し、いなくなった猫を思って、百閧ヘところかまわず泣き、それをそのまま作品にしてしまう。

日常生活に混入された〈非日常〉は、ときに、日常に裂け目を入れて、正常−異常の境界を、あやふやにしてしまうことがある。

3.ペットにはならない動物たち

人間とともに暮らしていても、わたしたちがふだんまったく意識しない動物たちがいる。そのなかには食肉にされる動物たちも含まれるだろう。

 一九六〇年の夏休みのこと、私たち一家はニューヨーク州路ロチェスターの郊外の家からカリフォルニアまで旅をした。当時私は七歳。それは旅行の四日目、アイオワあたりでの出来事だった。父が運転する青いビュイックの後部座席から、草をはむ牛の大群が見えた。なぜあんなにたくさん牛がいるのか、私は隣りにすわる姉のジェーンにたずねた。
「あれがみんなハンバーガーになるのよ」とジェーンは言った。
父の横にいる母が振り向いて、「ジェーン、しーっ!」
私は姉にどうやって牛がハンバーガーになるのか聞いてみた。
「うーん、農家の人が作ってくれるの」彼女の返事はあいまいだった。
「じゃあ、牛をどうするの?」
「列車に乗せるの」
「それから?」
その時母が割って入った。「ピーター、車のナンバープレートでビンゴゲームやらない?」

(ピーター・ローベンハイム『私の牛がハンバーガーになるまで ―牛肉と食文化をめぐる、ある真実の物語』石井礼子訳 日本教文社)

ジャーナリストの著者ローベンハイムは、この子供のときからの疑問である「列車に乗せ」られたあとの牛がどういう経路をたどってハンバーガーになるのか、その一部始終を見届けるために、自分でも実際に三頭の子牛を飼うことにする。

何世代か前まではあらゆる文化圏の人々が食べ物の出所と密に接し、それをよく理解していた。しかし今のアメリカを例にとれば、農業に従事しているのは国民のわずか二パーセント足らずで、それを知る者は皆無に等しい状態だ。……
もし“牛”と“ハンバーガー”という隔たった二つの点を結び、生きた動物が食べ物になる過程を間近で観察するとしたら、自分の中でいったい何が起きるだろう? 食用の動物を育てる人々に会い、彼らの仕事を観察し、人の胃袋を満たすために働くことを生産者がどう感じているかを知ったとしたら? そうして、子どもの頃から強く心をとらえ、それと同時に不安や脅威の対象となっていたプロセスを正しく理解できたら、自分はどう変わるのだろうか。

ところが、受精から出産に立ち会った子牛たちを買い取り、そうして飼育場に預ける。ピーター・ヴォングリスはよその牧場で働きながら、副業に十数頭の子牛を飼い、肉を売り出し、一部は自家用にする、ということをやっている人物である。

筆者は子牛の様子を見に行きながら、ピーターを始めとする飼育場や牧場の人々との絆が深まるだけでなく、手ずから餌を食べさせ、なつかれることで、子牛に対する愛情までも強くなっていく。そうして一年半が過ぎ、半年後に迫った決断、すなわち自分の子牛を食肉処理場に送ることを迷うようになる。

 ピーターは去勢牛を飼育する。どんなに疲れていようと毎日世話をし、暑い日も寒い日も飲み水を切らさぬよう心をくだき、彼の労苦のたまものである穀物やコーンを牛に与える。彼は牛を溺愛したり愛玩動物のように扱ったりはしないものの、意図的に虐げるようなまねもしない。そして時が来ると牛を所定の場所に連れていく。そこでは年季を積んだ作業者たちが手際よく牛をしとめ、その体を巧みに肉へとさばいていく。こうしてピーターは自分の家族に食物を運ぶ。牛はそのための媒介なのだ。きちんと仕事をやりおおせれば、彼は冷蔵庫に肉をたくわえることができる。

 これが、工業化がすすむ以前の、そして今でもピーターや他の畜産従事者が実践している、この国の食肉生産のすがたなのだ。私は今まで、そのすがたをはっきりと認識していなかったのかもしれない。この事実に気づいた時、私に深い安らぎがおとずれた。ピーターをはじめとする農業関係者に抱いていた敬意と、彼らの生活の根幹的な部分に対する理解とが一つにつながったからである。

結局ローベンハイムは二頭の牛(買い取った牛のうち、一頭は途中で死んでしまう)を処理場に送ることはせず、死ぬまで面倒を見てくれる「ファーム・サンクチュアリ」に送ることにする。
「私の牛」はハンバーガーにならなかったのである。

食肉牛がどのように「種付け」されて、育てられているか、ばかりでなく、「食物を作る」という行為が神聖なものに繋がっている、という指摘、あるいは食肉牛に対して、抗生物質や成長ホルモンを与えることにしても、単純に善し悪しで片づけられない問題を含んでいるということも、さまざまな点で教えられることの多い本ではあった。

それでも、わたしはローベンハイムの下した結論に、なんとなく割り切れない思いが残ってしまう。
なんというか、二頭の牛が助かってヨカッタ、と素直に喜べない気持ちがある。

理屈抜きに、私は二頭の牛に死んでほしくない、肉になってほしくないと思ったのだ。
 ナンバー7とナンバー8の肉が誰かの役に立つのは事実だろう。生きるため、家族を養うため二頭を食べなければならないのなら、私は殺す。だが幸い私の場合はそうではない。長女がそうであるように、私の家族は肉がなくても生きていける。

一種のアメリカ人の典型を、わたしはここに見てしまう。疑問に思えば解明に乗り出そうとする軽いフットワークも、できるだけ偏見を持つまい、とする態度も、さまざまな人に意見を聞いていこうとするフレンドリーな態度も、そうして、最終的には自分の優位さを背景に、自分の価値判断を押し切ってしまうところも。

このよくわからない違和感の正体は、あとでもういちど考えてみたい。


4.殺さなくては生きていけない

「家畜に愛情を感じたことはないのかい?」私はピーターにたずねた。
「ないね」彼は即座に答えた。だがこんな話を聞かせてくれた。
「一頭の雄の子牛がいたんだ。名前はミッキー。兄のマイケルが死んだ二、三日後に生まれたんで、兄貴にちなんでそう名づけたのさ。なんだかまるでペットみたいになってたよ。ブリジットはそいつを馬がわりにして背中にまたがって遊んでいた。だが、いよいよミッキーを手放す時がやってきた。自分の牧場の未経産牛に種付けさせるのにほしがってた男に売ることになったのさ」
「もし君がまだミッキーを飼っていたら、その肉を食べることができるかい?」
「ああもちろん。問題ないね。なぜミッキーがここにいるのか俺にはその理由がわかっているから」

(引用同)

普段、スーパーで、薄くスライスされパック包装された肉を買ってくるわたしは、それがかつては生きていた牛や豚や鶏だった、と意識することもない。最近ではあらかじめ細かく切り分けられていて、直接手でさわらなくても調理できる状態にまでなっている肉や、下ごしらえがすみ、えらや内臓の下処理の必要のない魚も少なくない。自分がほんの数日前まで、生きていた動物や魚を食べているのだ、という実感は、薄れるばかりだ。

そうして、ともに暮らす動物として意識にのぼるのは、あくまでもペットであり、家畜ではない。けれども、実際のところ、わたしと一番密接な生き物は、こうした食肉にされる家畜や、海で、あるいは養殖された魚なのだろう。

家畜を飼っている人々はどのように感じているのだろう。日々世話をしてやる生き物が、まもなく殺され、解体され、食肉にされるということを十分に知り、それを仕事としてやっている人々は。たとえ名前をつけず、番号で呼んだとしても、情が移ったりはしないのだろうか。

ロバート・ニュートン・ペックの『豚の死なない日』(金原瑞人訳 白水社)の主人公のロバートは十三歳の少年である。父親は、農場の仕事の傍ら、豚のと殺を生業としている。

 父さんはかがんで、パッチワークのキルトをぼくの首のところまでかけてくれた。父さんの手がにおう。今日も豚を殺してきたんだ。強いにおいが父さんの手にしみついている。すえた死のにおいだ。父さんは朝から晩まで、ほとんどいつもこのにおいをさせている。けれど道曜日になると、下着だけになって、キッチンの流し場に立ち、石けんをとかしたお湯に膝までつかる。そうして豚と死を洗い落とすのだ。

 日曜日の朝の父さんは最高にいいにおいがする。シェーカーの礼拝で、ぼくは父さんの隣りにすわる。いつも使っている大きな茶色の石けんのにおいだ。ときどき、町で売っているポマードのにおいがすることもある。だけど生活のために豚を殺すときには、日曜日の朝のようにいいにおいというわけにはいかない。

 そんなときの父さんは、つらい仕事のにおいがする。

ロバートは牛のお産を助けたお礼に、子豚をもらう。ピンキーと名前をつけてそれはそれはかわいがってやるのだけれど、やがて子供を産むはずのピンキーは、不妊症だったことがわかる。餌をたくさん食べるピンキーを、ペットとして飼う余裕など、一家にはない。

「ロバート、やるぞ」
 ぼくは何をやるのかきかなかった。きかなくてもわかっていた。……

 ぼくは道具をいくつかと、骨をひくのに使う鋸を持つと、父さんについて物置を出 て、牛小屋の南側にまわった。ソロモンがキャプスタンで運んでくれた古いトウモロコシ箱――つまりピンキ−の家がある場所だ。ピンキ−は中で眠っていた。清潔なわらの上で、体を丸めてぬくぬくと寝ている。やさしい、温かなにおいがする。
 「おいで、ピンキ−」ぼくはできるだけ明るい声で呼ぼうとした。「朝だよ」しか し喉がつまって、言葉が出てこない。足でそっとつついてみるが、起きてこない。し かたなく棒でたたくと、ようやく立ち上がった。ピンキ−はぼくのそばにきて、脚に 鼻面をこすりつけた。くるっと巻いたしっぽを振っている。一日が始まったことを喜 んでいるようだ。豚は鈍感で、しっぽなんて振らないんだ、という人もいる。だけど 少なくとも、ピンキ−にはぼくがだれだかわかっているし、しっぽもぼくをわかっているのだ。

「父さん、ぼくにはできないよ」
「できるできないの問題じゃない。ロバ−ト、やらなければならないんだ」
 ぼくが立ち上がって離れると、父さんはピンキ−の頭のほうに近づいた。ピンキ− は降りつもったばかりの雪の中に立って、ぼくの足元をみている。父さんがバ−ルを 握り直し、頭上高く振り上げる。ぼくは目を閉じ、ピンキ−のかわりに悲鳴をあげて やろうと口を開いた。そして待った。待っていると、ついにその音がぼくの耳を打った。

 ぐしゃっというすさまじい音。鉄の一撃が豚の頭を砕く音だ。その瞬間、ぼくは父 さんを憎んだ……父さんに殺された数えきれないほどの豚にかわって、ぼくは父さ んを憎んだ。
「ぐずぐずするな」父さんがいった。
 ぼくは目を開けてピンキ−のそばにいった。ピンキ−は雪の中に倒れていた。まだ 動いているし、息もあるが、起きあがれない。ぼくはその体を仰向けに転がすと、上 にまたがって立ち、前脚をつかんでまっすぐに持ちあげた。父さんは左手で、鼻先が 地面につくまでピンキ−のあごを横向きに押さえつけ、右手で刃の曲がったずんぐり した包丁をかまえた。そして喉に包丁を深々と突きたてると、まっすぐに手前に引い た。頸動脈が切れて、泡のまじった血が吹き出し、洪水のように流れてくる。ぼくの 長靴にもピンキ−の血がかかる。ぼくはかけだして、泣き叫びたかった。しかしじっと立ったまま、ピンキ−のばたつく足をつかんでいた。

 あたりは静まりかえっている。まるでクリスマスの朝みたいだ。父さんがピンキ− をさばくあいだ、ぼくは両足をしっかり持ちあげていた。血はあとからあとから流れ 出してくる。ぼくたちの足元の雪の上に熱い血が流れ、湯気を立てている。
 ピンキ−が死の間際のけいれんをおこしているのが両足から伝わってくる。目をそ むけずにはいられなかった。父さんは手を休めない。ぼくはピンキ−の足をつかんだ まま、古いトウモロコシ箱をみつめた。ピンキ−の家だったところだ。……

 父さんは信じられないほど荒い息をしていた。こんなにすばやく仕事をする人はみたことがない。手は凍りつきそうなほど冷たいだろうに、休まず働き続けている。手袋もしていない。ついにその手が止まり、ぼくを肉の塊から引き離すと、自分のほうを向かせた。ぼくはピンキーに背を向けて立った。父さんはすぐ目の前に立っていた。汗まみれで、体中から湯気が立っている。ぼくはもうがまんができなかった。ピンキーのことが頭に浮かんできた。ぼくの大切な、大きくてきれいで真っ白なピンキー。どこにでもついてきたピンキー。ぼくのたったひとつの宝物だったピンキー。この世でたったひとつ、「これはぼくのだよ」そういって指さすことのできたものだったのに。ピンキーはもういない。そこには血の海があるだけだ。ぼくは泣いた。

「ああ、父さん。胸がつぶれそうだよ」
「わしもだ」父さんがいった。「だが、よくやった。おまえはもう一人前だ」……
「これが大人になるということだ。これが、やらなければならないことをやるということだ」

ローベンハイムの『私の牛が…』によると、アメリカでは年間4500万頭、一日に12万3000頭、一時間に5000頭が、と畜解体され、肉になっているという。
冒頭であげたローベンハイムのルポルタージュに登場するピーターは、「家畜に愛情を感じたことはないのかい?」という問いに、「ないね」と即答するけれど、このヴェテランの飼育業者でさえ、複雑な感情を抱いていることがうかがえる。それでも、それが「やらなければならないこと」である以上、「やらなければならない」のだ。

わたしたちは、どこかで線をひかなければならない。自分が生きるために、ほかの生き物を殺さなくてはならないのだ。

おそらくそれは、一個人が家畜がかわいそうだから、といってヴェジタリアンになればすむ、といった単純な問題ではない。あるいは、わたしの子牛がかわいそうだから、処理場に連れて行かないことにした、という問題でもないのだ。たとえ自分がヴェジタリアンになったにせよ、食肉を続けている人間が多数存在する以上、と殺解体に携わる人々や、そうされることを前提として育てる人々に、「生きるために殺す」ことを、押しつけていることに変わりはない。

少なくとも、わたしたちは、自分が生きるために、ほかの生き物を殺しているのだ、ということを知っておく必要があるだろう。牛乳は、蛇口をひねって出てくるわけではないことも。通常三百五日の泌乳期間が終わり、ミルクを産出しなくなった牝牛も、食肉にされていくことも。

そうした牛や豚や鶏は、身近にいれば、まちがいなく、わたしたちが心を通わせ、愛情を抱くようになる生き物なのだ。わたしたちは、知らなければならない。食べるということは、ほかの〈いのち〉を殺すことなのだ。


5.人間優先ということ

近所に野良猫が七〜八匹集まっている公園がある。「猫に餌をやらないでください」「外猫飼い厳禁」書いた看板がいくつも出ているのだけれど、あまり効果はないのだろう。たまに側を通っても、なるべく眼を合わさないようにはしているのだけれど、おそらく看板の効果もなく、餌付けしている人間が少なからずいるようで、すぐにこちらに寄ってくる。

去年だか一昨年だかに十匹以上いて、駆除してもらったという話を聞いたのだが、またどこからか集まってきたのか、捨てる人間がいるのか、いつのまにかまた増えつつあるようだ。「外猫飼い」とは不思議な言葉だけれど、文字通り、自分の家ではなく、外で飼う、つまり野良猫に餌付けしているということだ。そういう人間は、この先どうなるか、考えたりはしないのだろうか。

イギリスの植民地だった南ローデシアの農場で少女期を過ごしたドリス・レッシングは、『なんといったって猫』(深町真理子訳 晶文社)のなかで、子供時代の強烈な体験を語っている。

家にはいつもたくさんの猫がいたのだ。七十マイル離れたソールズベリより近くには、獣医はひとりもいなかった。わたしの覚えているかぎりにおいて、猫が“医者にかかった”ことは一度もない――とくに雌猫の場合は。猫がいることは、たくさんの子猫がたびたび生まれることを意味する。だれかがもらい手のない子猫を始末しなければならない。おそらくは、家事使用人、あるいは台所働きのアフリカ人にでも任されていたのだろうか。何度と亡く、ブラヤ・イエナ(殺しておしまい!)という言葉を聞いた記憶がある。傷ついたり弱ったりした家畜や家禽――ブラヤ・イエナ!

 けれども、家には散弾銃というものがあり、連発拳銃もあった。そしてそれらを使うのは母の役目だった。……

 こういういきさつを考えると、いっそうわからなくなるある出来事がある。ある週末に、わたしと父とが約四十匹の猫とともに家にとりのこされたことがあるが、どうしてそういう恐ろしい事態に立ちいたったのかということである。
 その出来事について、わたしが説明らしい説明として思いだせるのは、こういう意見だけだ――「かあさんはきゅうに気が弱くなって、子猫を溺れ死にさせるのに耐えられなくなったのさ」……

 一年たらず、母が調停者として、仲裁人として、自然の妥当な増殖行為と妥当でないそれとの均衡を保つ役割を放棄しただけで、結果的にわが家のなかにも、家のまわりの小屋にも、農場周辺の藪のなかにも、猫がはびこることになった。猫、あらゆる年齢の猫、飼いならされたのと、野生のと、その中間のさまざまな段階の猫、毛のはげちょろけの、目のただれたの、奇形の、あるいは不具の猫。なお悪いことに、おなかの大きな猫も半ダース近くいた。ここ数週間のうちに、わが家が百匹もの猫の戦場と化すことは目に見えていたが、それを阻止する手だてはなかった。……

 とうとう最後に、猫たちはかりあつめられて、一室に入れられた。父が第一次世界大戦の遺物の連発拳銃を持って、その部屋にはいった。散弾銃よりもこのほうが確実だというのだった。やがて銃声が二度、三度、四度、五度と鳴りわたった。まだとらえられていない猫たちは、自らの運命をさとってか、追いまわされながら藪のいたるところでけたたましくわめきたて、あばれまわった。途中で一度、父は真っ青な顔をして、くちびるを腹だたしげにかたくひきむすび、目をうるませて部屋から出てきた。そして吐いた。それからひとしきり悪態をついたあと、もう一度部屋にとってかえし、また銃声がつづいた。やがてようやく父は出てきた。使用人たちが入れかわりにはいっていって、死骸を運びだし、古井戸に捨てにいった。……父は煙草を巻いていた。その手はいまだにふるえていた。父は目を上げて母を見、そして言った。
「二度とこんなことはなくすべきだ」
 そして、二度とおなじことはなかった、とわたしは思う。

ほかの生き物のいのちを奪って、食べなければ生きていけないばかりでなく、人間の生活をつつがなく回していこうと思えば、同じようにほかの生き物を殺していかなければならない。ときに「駆除」という言葉で呼ばれたり、「実験」という言葉で呼ばれたり、「処分」という言葉で呼ばれたりもするけれど、それはすべて〈殺す〉ということだ。けれども、その必要性は慎重に見極められなければならないだろうけれど、どこかで線を引かなければならないのも、また確かなことなのである。

アニマル・ライツという言葉も近年、耳にするようになった。動物愛護の精神は、非常にもっともだし、結構なことだけれど、動物の権利と人間の権利のどちらかを優先しなければならない場面はかならず起こる。そのとき、人間の権利のほうが優先されなければならない。

猫を飼おうと思えば、たとえそれが「不自然」であろうと、避妊手術を施さなければならないし、何らかの事情で飼えなくなり、引き取り手も見つからなければ、飼い主はその責任において、最終的な「処置」を施さなければならない。
それをエゴと呼ぼうが、人間の勝手と言おうが、人間が生きていくことのほうが、優先されなければならない。そのことはわたしたちが生きる社会の大原則のはずだ。

ところが、かならずしもそうとばかりは言えないような気がするのだ。

昔、新聞でこんな話を読んだことがある。
廃品回収をしながら、駅だか公園だかで寝泊まりしているホームレスの男性がいた。苦しい生活にもかかわらず、犬を飼っていた。
この人物が自立できるよう、ある教会の牧師が保証人になって、家を借りる手助けをした。
ところがある夜、この家から火が出た。犬は危険を知らせようとワンワン吠え、近所の人や消防が駆けつけた。火は無事消し止めたけれど、その男性は煙に巻かれて亡くなった。

新聞にその記事が載ると、あちこちからその犬を貰い受けたいという申し出が殺到し、その中からある一軒に貰われていった。

いかにも「いい話」ふうに新聞に書いてあるのが、ものすごく奇妙に思えた。
人間の「引き取り手」はいなくても、犬の引き取り手ならいくらでもいる、ということに。

つい最近も、「施設で老人の足の指を食べた」とされる猫の助命嘆願が相次いだ。もちろん動物のいのちが大切だ、という主張を批判するわけではないけれど、なんとなく、どこか転倒したものを感じてしまう。

あるいは、動物を虐待した、育てられなくなったウサギを生き埋めにして殺してしまった、という報道のたびに出てくる、一種ヒステリックな反応を眼にしたとき、わたしが思い出すのはローレンス・ブロックの短編『動物収容所にて』(『ローレンス・ブロック傑作集1 おかしなことを聞くね』所収 田口俊樹訳 ハヤカワ文庫)である。

主人公が勤務する動物収容所は、ペットとして飼えなくなった犬だけでなく、ほかにもニワトリやアヒル、ポニーやブタを飼っている。そこで生まれた子羊が、近所の子供に殺されてしまった。主人公と上司のウィルは寝ずの番をして、忍び込んでくる子供を捕まえる。

 ウィルが考えていることはだいたい察しがつく。まずはじめに、少年のような心優しい子供が動物殺しの犯人などとはこちらが考えていないと思い込ませる。犯人は他のだれかで、彼はそんな悪質ないたずらとは無関係の善良な第三者なのだ。そして、本来なら彼が受けるべき報いがどんなものであるかをじっくりと教えてやる――きつい仕置きと重い罰とを。そうして自分の犯した罪の重大さをよくよく悟らせたところで、この収容所への敵意を愛着に変えさせるのだ。……

「さてと、ここが焼却炉だ」ウィルはひとわたり案内してから言った。
「ゴミ用のかい?」
「以前はな。しかしいまは公害なるとかで市の環境基準がやかましくてやたらにはゴミを燃やせなくなってしまった。そこでもっぱら死んだ動物を消却するのに使っている」……

少年はふっと思案した。
「ねえ、まだ生きてる動物をあのなかに入れたらどうなるのかなあ?」
「そう、それはじつに興味深い質問だね……生きたままこの中で焼き殺したりすることは残酷だからね」
「わかってるよ。ただ、ちょっとどんな風かなって想像してみたんだ」
「しかし、相手が残忍な子羊殺しの小僧の場合はまた話が別だ」言うが早いか少年の襟首とズボンの尻を両手でつかむや、ウィルはそのまま少年を頭から焼却炉のなかに放り込んだ。……
「ちょっとやりすぎじゃないのかな」ぼくは声をかけた。…
「これだけこっぴどくおどしておけば、もう二度と動物にいたずらしようなんて気は起こさなくなるだろうな」
「おどしだって?」ウィルの顔に、これまでぼくが見たこともないような表情が浮かんだ。
「おれがおどしでこんなことをしたと思っているのか?」
 ウィルは手を伸ばしてスイッチを入れた。

このブラック・ユーモアふうの作品は、これで終わる。けれど、声高に動物虐待を批判する人々は、ほんとうはウィルのようなことがやりたいのではないか、と、ちょっとだけ、思ってしまう。できるものなら(それで自分が罪に問われないのなら)同じことがしたいのではないか、と。動物の命は人間と同じ尊さを持つのだ、と主張することの行き着く先は、こういうことになるのではあるまいか。

動物虐待や、無責任にペットを捨てることは論外であるにしても、やはり、人間が生きていくために、食べるために、生活をつつがなく回していくために、動物の命を犠牲にしなくてはならないことがある。少なくともこのことをしっかりとわきまえておこう。そのうえで、そうならなくてもすむように、最善の方途を探ろう。一時的な愛着や感傷に引かれないようにしよう。現実にわたしたちができることは、その程度のことなのかもしれないけれど。

6.それでも、一緒に生きていく

知り合いに犬を飼っている人がいる。飼い始めて間もない頃、「ほんとうにかわいくてかわいくてたまらない。子供よりずっとかわいい。いままでこんなにかわいいと思ったことがない」と繰り返しいうのを聞いたことがある。この人から来る年賀状は、毎年、犬の写真だ。

愛猫がいなくなり、「ノラがゐなくなつてから、今日で三十五日目である。今日は帰るかと待つてゐて日が過ぎ、毎日晩になつた。猫の事その事より自分の心が悲しいのだと思ひ返す。しかしさう云ふ風に考へなほして見ても同じ事で、何の慰めにもならない。ノラが帰らなくなつてから初めて今夜、思ひ切つて風呂に這入つた。非常に痩せてゐる。二貫目ぐらゐ減つてゐるかも知れない。衰弱で目がよく見えなくなつた」と書く内田百閧ノ対して、ここまで手放しで心情を垂れ流すがごとく書いて大丈夫なんだろうか、と、 一種の精神的な弛緩を感じる一方で、いや、逆に苛烈な百閧セからこそ、こういうことが書けるのだ、と思ったりもする。

レッシングの『老女と猫』は創作だけれど、わたしが新聞記事で読んだ元ホームレスの廃品回収業者のように、生きていくのがやっと、という状況であっても、犬や猫を飼っている人は少なくないのかもしれない。

たしかに、かつてわたしが猫を飼っていたとき、そうして、その猫が「わたしのもの」だったとき(※「金魚的日常リターンズ」参照)、その猫に感じていた気持ちは、やはり特別なものだった。

なぜ、生き物はわたしたちのなかの特別な感情を揺さぶるのだろうか。
さきにも言ったように、恋愛感情に近い部分もあるけれど、明らかにそれとはちがう部分もある。恋愛は、特定の人間、多くの人間のなかのたった一人の人間に対して、唯一無二性を認めなければ恋愛をすることはできないけれど、生き物をいとおしむ気持ちというのは、必ずしも相手の中に、この唯一無二性を認めなくても生まれるようだ。それはどうしてなのだろう。
人間とはちがう外見。
言葉を話さないこと。
愛情を返してくれる(ように思える)こと。
やがて死ぬ存在であること。
けれども、なんとなくこれだけでは十分でないような気がする。

ここで、別の角度から考えてみよう。

The Policeの歌に“見つめていたい”というものがある。
(※http://www.eigo21.com/03/pops/68.htmのサイトに原詞・訳詞が載っています。ここから曲を聴くこともできます)
“見つめていたい”というと、なんとなくロマンティックにも聞こえるのだが、原題は"Every breath you take" つまり「君が吐く息のひとつひとつを(ぼくは見ていたい)」ということで、見ようによっては、というかよらなくても、かなりストーカーっぽい歌詞なのだ。

ただこの「君」が、猫だとしたらどうだろう。子猫がいる。一挙手一投足がかわいい。息をするたびに、小さい鼻の穴がふくらむところも、一声、にゃあ、となくところも、いつまで見ていても見飽きることがない。
もしこれが猫のことを歌った歌なら、ストーカーの歌にはならない。

ジョン・ファウルズの小説に『コレクター』(小笠原豊樹訳 白水社Uブックス)というものがある。蝶のコレクションが趣味の主人公ファーディナンドは、偶然、サッカーくじ(訳文ではフットボール賭博となっているけれど)で大金を獲得することになる。

 ぼくの本心としては(すでにロンドンで一番上等な七つ道具を買ってあった)、どこか田舎へ出かけて、珍しい種類や、変種の蝶を採集し、立派な標本を作りたかった。つまり好きな場所に好きなだけ滞在して、毎日外へ出て、採集したり、写真を撮ったりしたい。伯母たちが発つ前に、ぼくは運転免許をとり、特製の自動車を手に入れた。ぼくが欲しい種類はたくさんある――たとえばキアゲハ、クロシジミ、ムラサキシタバ、それにギンボシヒョウモンとかウラギンヒョウモンとかヒョウモン属の珍種。たいていのコレクターが生涯に一度ぶつかるかどうかという種類だ。蛾にも欲しいのがある。できれば蛾も集めたいと思う。
 ぼくが言いたいのは、つまり、彼女をお客に呼ぶという考えが湧いたのは全く突然のことであって、金が手に入ったときから計画したことではないという点だ。

相手が蝶ならば良かった。あるいは、猫でも犬でも。けれどもファーディナンドは女性を好きになり、手放したくなくなってしまった。そこからこの暴力と暴力にさらされる側、支配するものとされるものが、絶えず役割を交替し、微妙に交錯する不思議なドラマが始まっていく(のだけれど、この話と関係ないのでここではふれない)。

動物なら許されることが、人間では許されない。それはなぜか。
それは、人間にはまず、その人の意志があり、それぞれの歴史があり、つながりがあり、生活があり、そうしたさまざまな社会的存在であるからなのだ。動物のように、自分が思うままに勝手に別の場所に連れて行ったり、もらったり、もらわれたりするわけにはいかない。言葉を換えれば、それぞれに「自前の物語」を持った存在だからだ。

もういちど、火事で亡くなった廃品回収業者のことを考えてみる。
わたしたちはその人の代わりに、その人が飼っていた犬が死んだとしたら、そうして、その記事を読んだとしたら、見ず知らずの犬であっても、犬のことを思い、涙を流すかもしれない。

それは、その動物を一種の「白紙」とみなして、そこに自由に「物語」を(美談でも、感動的な物語でも、好きなように)書き込むことができるからではないのか。そうすることによって、自分たちの中に、簡単に取り込んでいけるからではないのか。

ところが、生きている人間は白紙ではない。それぞれが自前の物語を備えた人間であり、その物語についてはわたしたちが受け容れるか、拒むかしかない。
ホームレス、高齢、男性、廃品回収業、そうしたさまざまな要素は、わたしたちが受け容れることをむずかしくしてしまう。自らのうちに取り込むことをむずかしくしてしまう。
他者を理解しようと思った場合、その他者の物語を自分の内側に取り込み、自分の物語として一緒に織り上げていくか、あるいは拒み、排除するしかないのだ。

自前の「物語」を持たない動物を受け容れることは、どんな「物語」でも好きなように書き込めるがゆえに、簡単に「わたしの物語」にすることができるたやすいことなのだ。おそらく感情移入、というのは、そういうことだ。だからこそ、生き物の死はいくらでも「悲しい物語」になりうる。


その一方で、動物であれ、人間であれ、他者を自分の内に取り込もうとすることは、程度の差こそあれ、一種の狂気を伴ったものではないか、とも思うのだ。
先に、日常生活に混入された〈非日常〉は、ときに、日常に裂け目を入れて、正常−異常の境界を、あやふやにしてしまうことがある、と書いた。百閧焉Aレッシングの描く老女も、常識的な行動とは言い難いし、スタインベックでさえ、微妙にタガが外れている。
それでも、わたしたちがその気持ちを理解できるのは、あるいはたとえストーカーっぽくはあってもThe Policeの歌がヒットしたのは、わたしたちがそれも十分に理解できる心情だからではあるまいか。あるいは、『コレクター』のファーディナンドが、最初はおぞましく見えつつも、読み進むうちに逆に、彼こそが囚われていることに気づき、憐憫を覚え、最後のほうには、彼の側に立ってものごとを見るようになる。それは、わたしたちのなかにも、そうした要素があるからではあるまいか。
自分のこの行動は、どこかストーカーじみたところがあるかもしれない、と思った経験はなかったろうか。少なくとも、わたしにはある。ひとりの人間を、バカみたいにいつまでも思い続ける自分のうちに、異常さを認めつつ、それでもここまでは大丈夫ではないか、と判断しているもうひとりの自分の存在をわたしは知っている。

もちろん、正常−異常、というのは、多分に恣意的なものだ。その時代や社会が認める境界線だけでなく、その人を取り巻く環境の境界線、そうして、その人自身が判断する境界線。そうして、わたしたちが日常に留まっているうちは、それは問題にならない。だが、ひとたび他者を愛するようになると、それが人間でも、生き物でも、たとえぬいぐるみのクマでさえも、常識を、日常の平凡なありかたを逸脱した行為なのだろう。

日常生活にはやらなければならないことが続き、仕事で頭が一杯となって、考えるゆとりもない。自分が申し分なく理解されているという感じはなく、深い満足を覚えることも、相手と自分の願望がぴったり重なることもない。けれども、そこに生き物であれ、人間であれ、あるいはぬいぐるみのクマであれ、愛するものがいるとき、この不透明でどんよりした日常生活に、裂け目が入る。相手のためにする自分の行動は、義務ではなく喜びになり、相手のすがたを見ているだけで心は満たされる。そうして、このときが続かないことを知りながら、「いま」ときが永遠であることを祈らずにはいられない。
だからこそ、わたしたちはいろんなものに惹かれるし、そうした本を読むのだろう。

ある暑い夏の一日、夫がコーン入りのアイスクリームを買ったときだった。最初にそれを一口食べたとき、夫は愛犬がじっと見守っているのに気づいた。そこで、どうせ残りは犬にむさぼり食われてしまうだろうと思いながらも、夫は愛犬にコーンをさしだした。ところが、一同がびっくりしたことには、犬は夫がしたのとそっくりおなじに、コーンのアイスクリームを少量だけうやうやしくなめとった。そこで夫がもう一口なめ、もう一度コーンをさしだすと、犬はまたすこしなめた。こうして彼らは順ぐりにアイスクリームをなめ、やがてコーンのふちまできた。ここで夫はコーンを一口かじった。犬はそのようすを見まもっていた。残りは犬がぺろりとのみこんでしまうだろうと予想した夫は、これが最後のつもりで、犬にコーンをさしだした。ところが犬はくちびるをめくりあげ、小さな門歯をむきだしにすると、根っこをすこしだけ上品にかじりとった。さらに二回、夫と犬とはかわるがわるコーンをかじり、最後に小さな先端だけが残った。

 信じられないって? いや、そうとも言いきれない。八年間というもの、夫とこの犬とは、信頼と相互の恩愛の絆をつくりあげてきた。どちらも相手にたいして不当な要求はせず、相手を下に見たり、自分が主人顔をすることもなく、たいがいはそれぞれ相手のいる前で、自分のしたいことをしてきた。

 こういう条件のもとでこそ――当事者双方がたがいに対等であると考えている、こうした環境のもとでこそ――かかる情景が生みだされうる。自ら考えて行動する犬、過剰な訓練によって自発性をつぶされていない犬、行動の指針として、自らの観察力と想像力に頼ることのできる犬、そういう犬だけが、共有の一形態として交互にひとつのものを食べあう、そういったきわめて人間的な作法を理解しうるのである。……

 で、残ったコーンの先端はだれが食べたかって? 夫が食べた。犬はその最後の順番を夫に譲ったのである。

 犬には思考や感情があるだろうか? もちろん、ある。もしなかったら、この世に犬というものはそんざいしなかったろう。

(エリザベス・M・トーマス『犬たちの隠された生活』深町真理子訳 草思社)

エリザベス・M・トーマスの描く、犬と人間の関係はステキだ。人間の代わりや、なにかの代用品、寂しさを埋めるための代替物でもない、独立した人間と犬の、あるがままで一対一の関係がある。人であれ、動物であれ、その相手としか築けないような関係を、築くことができたら。おそらくそのときは、こんなふうに、ひとつのアイスクリームコーンを、分け合いながら食べることができるのかもしれない。




初出Nov.24-29 2005 改訂Dec.3 2005




※ご意見・ご感想はこちらまで


home