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ダイアン・アーバスを読む試み

「写真家」の透視力は、《見る》ことによってではなく、その場にいることによって成り立つ。

ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』(花輪光訳 みすず書房)

写真に興味を持つようになったのは、撮り手によって写真があまりにも違うことに気がついたときからだ。
風景でも物でもそうなのだけれど、とりわけ人物写真ではその違いが顕著になる。
同じ人物を撮ったとは思えないことさえあった。

試しに友だちとカメラを交換して撮ってみた。
結果はおなじだった。
私のカメラで撮った友だちの写真は、あくまでも彼女の写真であり、彼女のカメラで撮った私の写真は、どうやっても私が撮ったものにしか見えなかった。
撮り手によって、被写体は姿を変えるのだ。
それはどういうことなのだろう。
写真というのは、カメラが、言い換えれば機械が撮っているのではないのか?
撮り手というのは、シャッターを押しているだけなのではないのか?
ひとの「まなざし」というのは、そこまで力を持つものなのだろうか。
そのときから、わたしは写真を「何が写っているか」ではなく、「だれが写したか」見るようになった。


アーバスの写真に出会ったのは、おそらく映画「シャイニング」が最初だろう(ちなみにキューブリックは、カメラマン時代アーバスの教えを受けた)。

http://masters-of-photography.com/A/arbus/arbus_twins_full.html

耳について離れないキイキイという音を立てて疾走する三輪車と一緒に、極端なローアングルから見上げるホテルの室内も、高速で移動していく。そして瞬間的に挿入される双子の写真。

アーバスの写真は、現実の裂け目からほんの少し覗いた異世界、「こっちにおいで」と手招きする少女たちの姿だった。

キングの原作では、ダニーが見るのは壁に飛び散った血糊や肉片のイメージだ。
けれどもアーバスの写真は、私が想像しうるどんな「血糊や肉片」よりも、リアルで、徹底してリアルであるがゆえに、怖かった。


わたしはアーバスの写真について論じることができるほど、写真に詳しいわけではない。
けれども、本を読むことはできる。
アーバスについて書かれた、これまでのところ唯一の評伝、パトリシア・ボズワース『炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス』(名谷一郎訳 文藝春秋)を読みながら、アーバスについて考えてみたい。

ある程度の知識があるひとなら、アーバスが四十代で自殺したことを知っているだろう。
とくにアーバスの写真は、扱った題材が題材だけに、写真から「死」の臭いを感じとってしまうのは、不可避であるのかもしれない。
このような写真を撮っていれば自殺してしまうのも仕方がないね、というように。

けれども、そのような「物語」に当てはめて彼女の写真を見ようとする限り、彼女の「まなざし」はすり抜けていってしまう。
彼女の生き方を見ながら、とりわけ、その言葉を追いながら、彼女の「まなざし」を理解したいと思う。



写真そのものはつねに目に見えない。人が見るのは指向対象(被写体)であって、写真そのものではないのである

(ロラン・バルト 引用同)


アーバスの写真はこのサイトで代表的なものを見ることができます。

http://masters-of-photography.com/A/arbus/arbus.html



2004-10-19




ダイアンは1923年、ニューヨークに生まれる。
ロシア系ユダヤ人の父親のデヴィッド・ネメロフは、五番街に店舗を構える高級デパートラセックスの経営者だった。
両親のほかにメイドがふたり、料理人もふたり、運転手、後年、名高い詩人となる兄ハワードの乳母にダイアンの乳母。
そのような環境で、周囲から孤立し、聡明な兄と妹は特別な結びつきを持って成長していった(ダイアンが五歳の時、妹ルネが生まれる)。

14歳の時、ダイアンは放課後デパートに行き、ラセックス専属のファッション画家からスケッチの指導を受けるようになる。
そこの美術部で、ラセックスで働きながらシティ・カレッジの夜学で学ぶ19歳のアラン・アーバスに出会う。
一目見るなり、ふたりは「熱烈に愛し合うようになった」。

ダイアンの絵は非凡なもので「感情、色彩、質感、均整など、すべての点で申し分なかった。そのまま美術館に飾られてもよい作品だと思った。……しかし、才能に恵まれているという事実は、ダイアンにとってあまり意味をもたなかった。自分の才能を人に高く評価されると、ダイアンは当惑してしまった。才能なんて、爪や何かのように彼女の一部にすぎず、どうということもなかったのだ」と、当時の友人であり、後に『タイム』誌の美術担当編集者になるアレグザンダー・エリオットは語っている。

それだけ才能があったにも関わらず、ダイアンは絵を描くことを止め、進学もせず、「ただアラン・アーバス夫人になりたいだけ」と答えた。
『炎のごとく』にある、当時のクラスメートの証言が印象的だ。
「ダイアンは、とにかく自分の才能が恐ろしかっただけなのでしょう……
彼女が恐れていたのは、才能ゆえに人から孤立してしまうことだったのです」

18歳になるのを待ちかねたように、1941年4月、アランとの結婚式をあげる。

両親は金持ちだったが、ダイアンとアランの生活はつましいものだった。アランは写真学校に通うようになり、ダイアンは浴室に暗室を作った。アランは帰ると、自分が学んだことをダイアンに教え、そうやってダイアンはスナップ写真を撮り始めた。
1944年、従軍していたアランが報道班員としてビルマに派遣され、その不在中にダイアンは長女のドゥーンを出産する。
46年、アランが復員すると、ふたりはチームを組んでファッション写真の仕事を始めるようになった。

ふたりに最初の定期的な仕事をくれたのは、ダイアンの父親のデヴィッド・ネメロフだった。新聞広告用にラセックスのファッションと毛皮を撮影する仕事である。
以降、ふたりは徐々に名前を知られるようになり、『グラマー』『ヴォーグ』などのファッション誌でつぎつぎに仕事をする。
ただ、ダイアンはファッション写真の仕事を嫌っていた。
モデルは与えられた服を、ただ撮影の間だけ着せてもらうにすぎない。そのような写真を撮り続けることは、ダイアンにとって苦痛でしかなかった。「服が身体の一部になれば、着る人の個性があらわれるはずだ……そうなれば、服はすばらしいものになるし、違ったかたちで身体にフィットするだろう」

ダイアンの仕事の中心は、もっぱらアランの助手的な役割、スタイリストなどを一手に引き受けることだった。
すでにこの時期から、アランはダイアンが写真家として自分より優れた資質を持っていることに気がついていたが、「アランはこれを素直に認めたばかりか、そのことを口にした。兄か父親のようにダイアンの視覚的才能を誇りにしたのだ」
別の証言者はこう語る。「アランの技術はすぐれていた……問題はその技術を生かすはっきりしたアイデアがないことだった。そこにダイアンが登場するわけだ。彼女にはいつでも何かアイデアがあった」

1957年、あるパーティの席上で、ダイアンは友人から、スタイリストというのはどんな仕事をするのかを聞かれ、わけもなく泣き出してしまったことがあった。
以前から、慢性的な鬱病に苦しめられてきてもいたのだ。
この後、ダイアンはスタイリストを務めることをいっさい止め、まもなく「ダイアン・アンド・アラン・アーバス・スタジオ」はコンビを解消する、とアランは決めた。
アランは引き続きスタジオを運営するが、ダイアンは、ファッション写真と手を切って、自由に歩き回り、好きなものを撮影することにする、と。

しばらく、ダイアンは何をするでもない状態が続いた。
見知らぬ通行人を写そうとしても、ひどく内気なために声をかけることができないのだ。
写真のワークショップに参加したり、過去の写真家の作品を勉強したり。
そうしたなか、ダイアンは「極端」と「誇張」をテーマとするリゼット・モデルの写真に強く引かれるようになる。

そうして、1958年、リゼット・モデルが教えるニュー・スクールに入学手続きを取る。
写真家ダイアン・アーバスへと至る道の一歩を踏み出したのである。


当時アーバスが強く引かれたリゼット・モデルの写真は、ここで見ることができます。

http://masters-of-photography.com/M/model/model.html





2004-10-20




リゼット・モデルは当時アメリカで最も有名な写真の教師だった。
「カメラは探知の道具です……わたしたちは自分の知っているものや知らないものを撮影する……何かに目を向けるとき、それはひとつの問いかけであり、ときには写真がその答となるのです……言いかえれば、撮ることによって何かを証明しようというのではなく、それによって何かを教えてもらうということです」

ダイアンとモデルが初めてまとまった話をしたのは、主題についてだった。「わたしが撮りたいのは、悪いものです」考えた挙げ句、そう言ったダイアンに、リゼットはこう答えた。
「悪いものでも何でも、撮らなければならないと思う対象を撮らなければ、写真は撮れません」

モデルに励まされて、ダイアンは子どものころから直視するのを禁じられてきた人や場所を記録し始める。
「両性具有者、身体障害者、奇形者、死者と死にかけている人――そういう 人たちから、彼女は決して目をそらさなかった。それには勇気と自立心が必要だった」と後年モデルはそう回想している。
「モデルは、多くの時間を費やし、自分の経験と知識をニュー・スクールのクラスに注ぎこみ、ダイアンには知る限りのことを教えた。すなわち、芸術においては何ごとにも完璧な答や手っ取り早い解決法はない、すべての写真家がそれぞれ異なった見方をする……見るというのは学習の過程であり、肝心なのは自分のテーマをひたむきに追求することで、さもなければそれは捨てたほうがよいのだ、と。ダイアンこそは、モデルが自身の姿として思い描いた写真家だった。ダイアンは人間としては弱かったが、芸術家としては強靭であり、モデルが目をかけたのもその点だった」

写真を撮らせてくれるよう、人に頼まなければならない。それは内気なダイアンにとって、なによりも辛いことだった。
けれども、ダイアンは写真の前に立つ人のことをよく知っていた。
「まさしくカメラの前に立つことによって、人は自分自身から抜けだして、客体となることを余儀なくされる……その人はもはや自己でなくなるのだが、それでも自らそうだと想像する自己になろうとする……人は自分の肉体から抜けでて他者の体内に入りこむことはできないのだが、それこそ写真がやろうとすることなのだ」

そうやって本格的に写真を撮り始めたダイアンは、38歳になっていた。後年、その理由を『ニューズウィーク』のインタビューでこう語っている。「女性は人生の第一期を結婚相手を見つけて妻となり、母となるための勉強にあてます。そうした役割を覚えるのにせいいっぱいで、ほかの役割を演ずる余裕はないのです」

このころからアランとは次第に気持ちが通わなくなってくる。
アランはかねてから捨てきれずにいた舞台俳優になる、という夢を追って、俳優養成所に通い始めていた。ファッション写真の仕事は、生活を支えるために続けられなければならなかったが、それはアランにとって苦痛でしかなかった。
そうしてふたりは別居するようになる。

ダイアンの写真は金にはならなかった。
それでも、グランドセントラル駅にたむろする浮浪者やサーカスの芸人の写真を撮り続け、数々の雑誌に自分の写真を持ち込んだ。
そうやってダイアンは初めての大きな仕事である『エスクァイヤ』と契約することができた。
初めてダイアンの写真を見た当時のアート・ディレクター、ロバート・ベントン(後に映画『クレイマー・クレイマー』で脚本賞と監督賞を受賞する)はこう回想している。
「ダイアンは題材の重要性を知っていた。それに得意な題材を見つける特別な勘をもっていて、その大賞にカメラで立ち向かう彼女の方法はまさに前代未聞だった。彼女は小人あるいは倒錯者だというのがどういうことなのかを表現できるようだった。そういった人たちに近づいていた――それでいて客観的な態度を保っていたのだ」
『エスクァイヤ』に採用されたことがきっかけとなって、ダイアンは『ハーパーズ・バザー』でも仕事をするようになる。
身長が8フィート(約240cm)もあるエディ・カーメルと知り合ったのはこのころだったが、十年近く彼の写真を撮り続けて、初めてネガからプリントに起こしたのはこの一枚だった。

http://masters-of-photography.com/A/arbus/arbus_jewish_giant_full.html

ダイアンは対象と会話を交わし、心を通わしながら、自分の求めるイメージを熟成させ、辛抱強くそのときを待った。そうして「この瞬間」を捉えたのだ。

ダイアンの仕事は、次第に芸術家の間で認められるようになっていった。


※引用は特に注のないかぎり、ボズワース『炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス』(名谷一郎訳 文藝春秋)に依っています。





2004-10-21





わたしが数多く撮ったのは、異形の人々です。
わたしは最初からそうした被写体を含めて撮ってきましたし、そのことは刺激的な経験でもありました。
そのころ、わたしは異形の人々を崇拝していました。いまでも崇拝している人が何人かいます。彼らと親しい友人になった、などということを言おうとしているのではなく、かれらを見ていると、恥ずかしさと畏怖の入り交じった気持ちになった、と言いたいのです。
異形の人々を扱った伝説には、ひとつの特徴があります。
行く手をさえぎる人物が登場し、難題を投げかけてくるのです。
多くの人は、そんな心に深い傷をつけかねないような経験に、いつか出くわすのではないか、とおびえながら人生を生きています。
けれども異形の人々は、すでにトラウマを抱えて生まれてきました。
かれらは最初から人生のテストに合格しているのです。その意味で、貴族なのです。

(ダイアン・アーバスの言葉から 訳は陰陽師)





『エスクァイア』のロバート・ベントンは、定期的にダイアンに仕事を依頼した。
50年代、マリリン・モンローと並ぶセックス・シンボルであったジェーン・マンスフィールドが、'60年代になって母となった写真も、そうしたなかの一枚である。

http://www.thevillager.com/villager_39/diane.jpg

ベントンは当時を振り返ってこう語る。
「「ダイアンは最新のコンタクト・シートをもって美術部にやってきたが、わたしはいつも驚かされた……というより、つねにこちらの予想がくつがえされたのだ」……でっぷり肥って誇らしげな母親となったジェーン・マンスフィールドも、ダイアンが撮るとニューヨークの奇形者と同じような緊張感をはらんでいたのである。そのうちにベントンは「われわれ(写真を見る者)も彼ら(撮影された人びと)とまったく変わりがない」ことに気がついたという。「それがダイアンならではの独特なスタイルだった――、一見したところは単純だが、非凡なアプローチによってすべての対象と取り組み、相手が何者であろうと態度は変わらなかった。そして、奇形者でも普通の人間でも、ある面では同じ存在だということを示す。ダイアンの作品の中では『奇形者』とか『健常者』という言葉は意味がなくなってしまう。ダイアンにとってはどちらも同じだし、相手によって手心を加えることもなかったからだ」

60年代半ばごろから、ダイアンは二十世紀初頭ドイツの写真家アウグスト・ザンダーの写真を研究するようになった。



http://www.getty.edu/art/collections/bio/a1786-1.html

ザンダーはさまざまな職業に就く人間を撮影し、それを分類し配列することで、「二十世紀の肖像」を撮ろうとした。

われわれは、真実を見ることに耐えることができねばならない。だが、何よりもまず、われわれは真実をわれわれとともに生きる人びとに、そして後世に伝えるべきである。それがわれわれにとって好ましいものであろうと、好ましくないものであろうと。私が健全な人間として、不遜にも、事物をあるべき姿やありうる姿においてではなく、あるがままの姿において見るとしても、許していただきたい。

(多木浩二『写真論集成』岩波現代文庫《写真集August Sander : Menschen des 20. Jahrhunderts,Schirmer/Moser Verlag GmbH, 1980》)

ダイアンはザンダーの写真を学ぶことで、あらためて、人間の内面を引き出すカメラの力を意識するようになったのである。

1965年、ダイアンの作品が、ニューヨーク近代美術館の「最新入手作品」四十点のうちの三点として展示される。
そのひとつが「ヌーディストキャンプのある家族の夕べ」である。作品に対する観客の反応は厳しいものだった。
展示されている間、職員は毎日ダイアンのポートレイトに吐きかけられた唾を拭き取らなければならなかったという。

1967年、ニューヨーク近代美術館で「ニュー・ドキュメンツ」展が開催された。ダイアンがこれまで撮ってきた写真の中から、三十点が公開された。双生児のポートレイト、「ヘアカラーをつけた男」などのダイアンのポートレイトは最大の注目を集める。
だがマスコミや一般の観客の評価は「奇怪」「悪趣味」「覗き趣味」と、悪意に満ちたものがほとんどで、「卑俗な興味の対象となり、対象者がそこにおのれを投影してくれないのではないか」というダイアンの危惧は現実のものとなった。

健康状態は依然として芳しいものではなかった。肝炎を患い、また間断のない欝症状とも闘いながら、それでもダイアンは写真を撮り続け、一方で65年からパーソンズ・デザインスクールで教え始める。
経済的には恵まれなかったが、彼女の評価は、写真家や写真家の卵の間で、揺るぎのないものになりつつあった。

1969年、別居中だった夫アランは、ダイアンと正式に離婚し、若い女優と再婚、ハリウッドに移って、俳優の仕事に本格的に取り組むことになった。
別居しても、アランは技術的にも、また精神的にも経済的にもダイアンを支え続けていた。
その彼女のスワミ(ヒンドゥー語で「導師」の意を持つ言葉で、ダイアンは14歳のころから彼をそう呼んでいた)がニューヨークから離れたことで、ダイアンは孤独になっていく。

ダイアンはペンタックス・カメラを手に入れたいと思っていた。卸値で買えるよう計らってくれた友人がいたが、その千ドルの工面がつかない。そこで写真のマスター・クラスを開講し、受講生から授業料を徴収することになった。
1970年ごろになるとダイアンは若手写真家の間で伝説的な存在になっていた。多くの希望者が集まった。

「ダイアンは生徒たちに「現実的なものを撮る」よううながした。「現実的なものこそ、幻想(ファンタジー)なのです。幻想は現実から生まれます。非常に現実的だからこそ、幻想的なのです……幻想的だからこそ現実的なのではありません。現実は現実です。現実を仔細に調べてみると、かならずや幻想に達します。現実という言葉を使うとき、それはカメラの前に実際にあるものの表現でなければなりません。わたしが言おうとしているのは、現実を現実と呼び、夢は夢と呼ぼうということです」……

 ダイアンはさらにこうも言った。
「写真は特殊なものを対象としなければなりません。リゼット・モデルにこう言われたのを思いだします。『対象が特殊であれば、それだけ普遍的になる』と」……

 あるときダイアンは授業の終わりに次のような考えを述べた。「どうしていいかわからなくなったら、写真から目をそらして、窓の外をごらんなさい。なぜなら、現実を見ることこそ、自分の写真をつくるという行為にほかならないからです。わたしはみなさんに写真の話ができます。わたしたちはみな口がきけ、目が見えます。わたしたちの前にはすべてが開かれているのです」」

1971年になると、ダイアンの鬱病は一層深刻なものになった。
人が自分の作品に感心する理由がわからない、他人にとって価値があると思えない、と言い張り、一方で「フリークの写真家」とレッテルを貼られることを怖れてもいた。
孤独になることを怖れつつ、仕事の完成を求めて、人びとを切り離そうともした。

七月、両手首を切って、空の水槽に横たわっている彼女が発見された。

ここでアーバス自身の写真を見ることができます。一番上の少しぼけているのが1971年、教え子のエヴァ・ルビンスタインが撮ったもの。ひとつおいて、5歳のダイアン、その下が15歳のダイアン。さらにひとつおいて、「あなたのこんなところが好き……」と題された『グラマー』に掲載されたダイアンとアラン。




2004-10-22




以前、小さな女の子と歩いているとき、向こうから車椅子の人がやってきた。
不意に、女の子は厳しい声で
「じろじろ見るんじゃありません」
とわたしをたしなめた。彼女のお母さんそっくりの口調で。

こんなこともあった。
前を歩いていた身なりの良い初老の女性ふたりが、急に立ち止まった。
「あんな人見たら、ほんまに気の毒になるわ」
「ほんまになぁ。よぉやってはるわ」
ふたりが歩を止めてまで見入ったのは、松葉杖を使いながら、大きく脚を外側に回転させて歩いていく人の姿だった。

わたしたちは「普通」とはちがうものを目にしたとき、「もっと見たい」という欲望を持つ。
けれども社会には規範があって、「見ても良いもの」「見てはならないもの」の間に厳しい線を引く。
その規範の強制力は、四歳の女の子にまで行き渡っているのだ。
「見てはならないもの」をそれでも「見たい」と思うとき、何らかのエクスキューズが必要になる。
初老の女性の、あたかも同情しているかのような口振り。
それさえ口にしておけば、自分の「見たい」という欲望も、免罪されるとでもいうように。

アーバスの写真は、その線を踏み越えるものだ。
見る者に対しても、踏み越えることを要求する。
「見てはならない」とされるものを見よ、と。
見ている自分のまなざしを自覚せよ、と。
規範の陰に隠れて、見たいという欲望を自らに問い直すこともせず、曖昧に目を逸らすのをやめよ、と。

彼女に投げかけられた当時の観衆のことば、「奇怪」「悪趣味」「覗き趣味」は、とりもなおさず、その写真を見ているその人のまなざしの意味だ。
アーバスの写真は鏡のように、「悪趣味」なまなざしで写真を見ている人の視線を、その人に向かって跳ね返す。
人びとは落ち着かなくなり、当惑する。
そこから自分の内側に降りていくのではなく、当惑を、それを見ることを強いたアーバスにぶつけたのだ。

アーバスが自死を選んだ原因は、さまざまに推測される。
慢性的な鬱病、抗鬱剤と経口避妊薬の併用からくる肝炎、60年代特有の性的放縦と、その一方での孤独、そして老いへの恐怖。
そして、自分の渾身の仕事に向けられる敵意。
ここでわたしはまったく無関係に、同じように自死を選んだ詩人アン・セクストンを悼んだアドリエンヌ・リッチの追悼文を思いだす。

私はアンの名誉と記念のために、私たちがみずからを破壊する方法のいくつかを列挙したいと思います。自分をつまらぬものだとみなすこと、これが一つです。女は大きな創造活動をする能力がないという嘘を信じること。自分自身や自分の仕事を真剣にうけとめないで、いつも自分の欲求よりも他者の欲求のほうが必要性がたかいと思ってしまうこと。男をまねしているだけの知的あるいは芸術的作品をつくりだして満足すること。そうやって、自分をもお互いをも欺き、自分の十全の可能性に肉薄せず、その作品に、私たちが子供や恋人になら注ぐだろうような注意も努力もはらわないこと。

 もう一つは、水平方向に向けた敵意――女への軽蔑、つまりほかの女たちは私たち自身であるがゆえに、ほかの女たちをおそれ、不信を抱くこと。「女はけっしてほんとうになにごとかをする気はない」とか、女の自己決定と生存(サヴァイバル)は男のおこなう「真の」革命の二の次であるとか、私たちの「最悪の敵は女である」とか、信じこむこと。……

 もう一つの種類の破壊性は、相手を間違えた同情です。……

 四番目は惑溺です。「愛」への惑溺――どことなく贖罪的な、女の生き方として、無私で犠牲的な愛の観念におぼれること。麻薬のトリップ、自分をごまかし、あるいはいけにえにする方法としての性への惑溺。抑鬱への惑溺は女である存在から抜け出すのに一番受け入れやすい方法です――
鬱病者なら自分の行動に責任があるとはみなされず、医者は薬を処方してくれるでしょうし、アルコールはその空白をおおう毛布を提供するからです。男の与える是認への惑溺。性的にであれ、知的にであれ、それでいいと請けあってくれる男が見つかるかぎり、私たちはたとえどんな代価を払っていても、自分はこれでいいにちがいない、自分の存在はお墨付きなのだと、思いがちなのです。……

 この四重の毒をきれいに洗い流すことができれば、私たちの精神とからだは、もっと安定した均衡をえて生き延び、構築しなおすための行動に向かえるでしょう。……

『書く女一人一人が生き残る者である』からです。

(アドリエンヌ・リッチ『嘘、秘密、沈黙。』大島かおり訳 晶文社)

アーバスが生きていればいまどんな写真を撮るだろう、と思わずにはいられない。
アーバスは大文字の「時代」や「社会」などというものは撮ろうとは思わなかった。
けれども、人の視線の中に、わたしたちを見返すポートレイトの主人公たちに、まぎれもなくそうしたものは描かれている。

もうひとつ、思いだすのがポール・セローの『写真の館』(村松潔訳 文藝春秋)である。
主人公の女性写真家、モード・コフィン・プラットは、アーバスが直接のモデルではない。
リゼット・モデルを思わせるところもあるし、有名作家の連作などは、リチャード・アヴェドンの作品を連想させる。けれども、わたしはモードの中に、やはりアーバス、時代をしたたかに生き延びたもうひとりのアーバスを思わずにはいられない。

年老いたモードは、みずからの作品を振り返って、こう語る。

この写真を見るのは本を読むのに似ている。長時間露光で撮った写真。人に見ることを教えてくれる写真。見る人は教訓を学んで立ち去るのだ。これを見たあとでは、もはやなにひとつ以前と同じには見えないだろう。世界が変わったわけではない。自分が変わってしまったのである。

(ポール・セロー『写真の館』)


2004-10-23