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 「読むこと」を考える 

1.わたしたちは「読むこと」に何を求めているのか

読み終わって本を投げ出したくなった、という経験はないだろうか?
どうなっていくんだろう、と思いながら、先へ、先へと読み進む。そうして、「僕らは小説の終わりが近いことを予期して心の中で身がまえる。本を読み進んでいき、あと一、二ページしか残っていないことに気づき、本を閉じる用意をする。」(ディヴィッド・ロッジ『交換教授』高儀進訳 白水社Uブックス)
ところが話のつじつまは一向に合ってこない。不安になる。もしかして……。

 女王様はギクッとして目が覚めた。……
「ああ、神様、夢だったのね!」女王様はうめき声を上げ、シーツを頭からかぶった。

――The End(スー・タウンゼント『女王様と私』)

これはほんとうに頭に来る。こんな結末のために、自分は347ページもつきあったのか!

もちろんこの夢オチは中国の『枕中記』(「邯鄲の枕」という諺のもとになった唐代の伝奇小説)や『不思議の国のアリス』など、昔からいくつかの作品で使われている。けれどもそういう作品は、結末が主人公の「夢」であったことに十分な必然性があるため、言葉を換えれば、読み手が「夢」であることを無理なく受け入れられるため、「夢オチ」じゃないか、許せん! と、本を投げ捨てたくなることはない。

つまり、「夢オチ」が頭に来るのは、波乱に満ちたストーリーだったはずが、収拾がつけられなくなった作者が、ただ終わらせるためだけにもってきた、粗雑で乱暴な結末だからである。
わたしたちはどうして粗雑で乱暴な結末を読まされると腹が立つのだろうか。

たとえば、人と会ったときのことを考えてみよう。
仕事上の関係者から「来週の件なんですが…」と話しかけられれば、すぐに「来週の件」に意識の焦点を合わせ、それに向けて身がまえる。そうして話しかけた側は、聞き手のそうした態度を見て、用件に入る。
あるいは友人から「このあいだ、おもしろいことがあった」と話しかけられれば、なんだろう、と思い、「おもしろいこと」を聞かせてくれるものと期待しながら、話の続きを待つ。そうして話す側は、「おもしろい」と思ってくれるように話をする。

聞き手が上の空であれば、話し手もそれに応じて話を変えるし、内容が聞き手の予想したものと食い違えば、聞き手はそれに合わせて態度を変えていく。
つまり、コミュニケーションというのは、宅急便のように情報が一方的に話し手から聞き手へと送られるものではなく、聞き手、話し手双方の共同作業なのである。

この共同作業を成り立たせている約束事は何か?
それは、話し手からすれば「わたしの話は意味がありますよ」という、聞き手からすれば「わたしはその話の意味を理解しますよ」という暗黙の了解事項である。

本を読むというのも、これと一緒で、わたしたちは、この本は、おもしろい話、あるいは泣かせてくれる話、知識が得られる話、あるいはとりあえずの時間つぶしを求めるだけでも、ともかくも「この話に意味がある」と期待して読み始める。

そうして1ページずつめくりながら、時間をかけて、筋を追いつつ、先の展開を予想し、展開するにつれて、自分の予想と現実の内容のずれを修正しつつ、いくつかの場面を記憶にとどめ、いくつかは忘れ、のちにまた思いだし、ところどころで、ああ、これはそういうことだったのか、と納得したり、え? こんなことあったっけ、と元に戻ったりしながら読んでいく。つまり、「意味を見つけだそう、理解しよう」と思う。読書という行為が一種のコミュニケーションであるゆえんだ。

ところが「夢オチ」というのは、この共同作業を最後の段階で作者が放棄したものだ。
いいや、全部夢でした、ってことにしちゃえ。かまうものか。だいたい、眼が覚めたときから話が始まる小説があんなにあるんだもの、終わるときに眼が覚めたっていいじゃないか。夢なんだから、何が起こったって不思議はないし、つじつまが合わなくったっていいじゃないか。所詮、夢は夢なんだ。

こうして、わたしたちがいままでやってきた共同作業は、作者によって「意味などないのだ、だって夢だから」と宣言される。だから、「夢オチ」は、作者の裏切り行為ともいえるし、読み手は腹が立つのだ。

ところが、作者はどう考えてもわたしたちを裏切ってはいないはずなのだが、しかも、この本には意味がありそうなのだが、読み終わっても何か判然としない、という感覚に襲われることがある。どうにも自分はこの共同作業がうまくやれなかったらしい。

先が読めない。展開についていけない。いったい何を言っているのかわからない。それでも辛抱して読むには読んだけれど、そうして、作者はなにか言っているらしいのだけれど、自分にはそれがどうもはっきりわからない。みんなが良い、と言っているのだけれど、自分にはちっとも良いと思えない。

これは、自分に理解する力がないんだろうか?
あるいはこの作者は自分には「合わない」んだろうか?
そんなふうに思ったことはないだろうか。

そうではないんです、たぶん。
「読む」ということには、いくつかの技術が必要とされる。
わたしがこれからここで書こうとしていることは、ほとんどの人が無意識のうちにやっていることだとも思う。
けれども、それをもう少し意識的にやることで、小説から、もっと多くのものを引き出せる。共同作業をうまく進めることができる。
あるいは、すごくいい、と思うのだけれど、どこがどういいのかうまく言えない、と思っていたことが、少しははっきりしてくるのではないだろうか。

そういうテクニックをいくつか紹介してみたいと思う。

まずここで、サンプルをひとつあげてみよう。
グレアム・グリーン『八人の見えない日本の紳士たち』
これを読みながら、「読む」技術について考えてみたい。しばらく、おつきあいください。





2.作者の意図?

さて、グレアム・グリーンの短編『八人の見えない日本の紳士たち』はいかがでしたか?

一読して、もう十分この短編を味わいつくした、という人は、以下の文章は読む必要がありません。ここまでおつきあいどうもありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。

けれども「いったい何が書いてあったんだろう。どうもピンとこなかった」
「作者はこの短編を通して、何が言いたかったのだろう」
「これは日本人に対する(あるいは女性に対する)偏見があるのではないか」
と思った人は、どうかもうすこしこの先、おつきあいを。

まず、読んでいく前に確認しておきたいのが

「作者の意図」という見方はしない。

高校時代までに国語の試験でかならず出てきた設問、「この作品を通して作者はいったい何が言いたかったのだろう」という考え方は、ここではしない。

そもそも「作者の言いたかったことは何か」という問いは、いったい何をあきらかにしようとしてきたのだろう?

ある種の本は、著者が「これは何についての本であるか」、つまり「著者が言いたかったこと」を説明してくれている。
たとえば、ヘロドトスの『歴史』はこんなぐあいだ。

 本書はハリカナッソス出身のヘロドトスが、人間界の出来事が時の移ろうとともに忘れ去られ、ギリシャ人や異邦人の果たした偉大な驚嘆すべき事蹟の数々――とりわけて両者がいかなる原因から戦いを交えるにいたったかの事情――も、やがて世の人に知られなくなるのを恐れて、自ら研究調査したところを書き述べたものである。

(松平千秋訳 岩波文庫)

これは大変に助かるし、おおいにありがたい。 そうして、読者はヘロドトスが研究調査したペルシャ戦争について、理解しようと心構えをし、知識を得ていく。

論説文、あるいは評論というのは、このヘロドトスのように、著者がある問題意識を持ち、それを解くために、仮説を立て、調査や実験の結果をもとに論証していったその結果である。多くの場合、本のなかにはその答えしか書いていないために、読み手はまず、序文や冒頭部分を良く読んで、「問い」を見つけることが必要になってくる。問いを見つけるということは、とりもなおさず、その本の、統一的な主題を見つけるということでもなる。そうなると、「著者の言いたかったこと」とは、「著者が疑問に思ったこと」であり、「その答え」ということになる。

けれども、フィクションにこれを応用できるのだろうか?

作家のフラナリー・オコナーは、「物語の意味」という短いエッセイのなかでこのように言っている。

物語は、他の方法では言えない何かを言う方法なのだ。作品の意味が何であるかを言おうとしたら、その物語の中の言葉がすべて必要である。……それは何についての物語か、とたずねる人がいたら、正当な答えはただ一つ、その物語を読めと言ってやるしかない。

(『秘儀と習俗』所収 上杉明訳 春秋社)

フィクションというのは、何らかの知識や情報を伝えるためのものではない。「他の方法では言えない何か」を伝えるために、フィクションという方法が選ばれたのである。
言葉を換えれば、明確に問いがあり、答えがある、という形式で伝えられないものがフィクションなのである。あえていうなら、全体が問いであり、全体が答えということになる。
だから、物語の意味を見つけようと思ったら、自分でみつけていかなければならない。

ここで確認しておこう。
作品の意味とは、作者が心に抱いた何らかの考えではなく、作者が作品のなかに表現したことにある。わたしたちは作者の考えを聞くために読むのではない。読書は暗号の解読ではない。

そうして、わたしたちが意味が、たとえ作者が考えたこととはちがっていたとしても、それはそれでかまわない。しかも、それはひとつではない。読者の数だけ無限に存在する。
まず、こういう立場から読んでいく。

それではどこから手をつけていったらいいのだろう。
あらすじを追いかける? それとも「要約」しながら読まなくちゃいけないの?

とりあえず、ここから始めてみよう。
この物語は、誰が語っているのだろう?





3.誰が語っているのか

「八人の見えない日本の紳士たち」の語り手はわかりますね?
これはとても簡単。作中に「わたし」という一人称が出てきて、その人物がホテルのレストランで見たことを語っている。
この「わたし」は、本を出版することになっている「娘」と「同業者」と言っていること、そうして「娘の母親」と同年代であると言っていることから、中年の、経験を積んだ作家であることが理解できる。

あ、これ、作者のことだな、きっと。作者は自分の体験をここで語っているのだ。

そう思った人は、ダメダメです。いや、あなたがダメだって言っているのではないから、怒らないでね。ただ、読み方を変えたほうがいいよ、って言ってるだけです。

まず第一に注意しなければならないのが、「わたし」≠作者ということだ。
わたしたちはこのように、情報として知っている作者の経歴と、ある作中人物とが近い場合、とくにそれが語り手であったりすると、容易に作者と混同して考えたがる。これはとくに日本の場合、「私小説」が未だに大きな影響を与えていることもあるのだろうけれど、たとえば『舞姫』の語り手「余」=太田豊太郎=森鴎外と考えたり、『人間失格』の手記の部分の語り手=大庭葉蔵=太宰治と考えたりする人が非常に多い!

けれども、そうなんだろうか。

サマセット・モームの『かみそりの刃』という小説は、「わたし」という一人称の語り手が登場するが、この語り手は作家で、モームという名前がついている。つまり、この「作家モーム」がラリー・ダレルという青年の話を語ってくれるという体裁を取っているのだ。もちろんこの「ラリー・ダレル」は、たとえモデルとなる人物がいたにせよ、あくまでフィクションで、描かれるのは、モームの創造した人物である。

ここまでくると、仕掛けはわかりますね?
そうした一連の作品は、あたかも作者が語っているかのような構造を持ちこむことによって、「これはほんとうにあったことなんですよ」「絵空事ではなく、実際の話なんですよ」と、作品にリアリティを与えようとしているのだ。
さらに作家である語り手の場合は、「これは作家である自分が語っている」と、その語りに権威を与えているのである。

つまり、まず誰が語っているか、どんな権威で、どんな信頼性をもって語っているのか、から、すでに仕掛けは始まっているのだ。

語り手=わたしは誰なのか? 作家か、画家か、医者か、それとも床屋か、泥棒か、元学校教師でいまは電車の技師か、あるいは高校をドロップアウトして精神病院にいる18歳の少年か。実はわたしたちも、なかば無意識のうちにその語り手によって、微妙に受けとり方を変えているのである。

あるいはまた、このような物語であっても「語り手」は存在する。

 六月二十七日の朝は、晴れ渡った空の下、さわやかな夏の日となった。花は一面に咲き乱れ、草は青々と繁っている。村の人々は、郵便局と銀行の間の広場に、十時ごろから集まり始めた。人口が多いために、くじをひくのに二日もかかってしまい、六月の二十日から始めなければならないというような街もあるらしいのだが、三百人ほどしかいないこの村では、全員がくじをひいても二時間もかからないうちに終わってしまうので、午前十時に始めても時間内に終わるどころか、村人たちが昼食を取りに家に帰る時間も十分にあるのだった。

(シャーリー・ジャクスン 『くじ』 私訳)

読み手であるわたしたちは、このような正体不明の語り手に対しては、「だれが話しているのか」「どんな目的をもって話しているのか」「どんな権威を背景に話しているのか」とあまり疑問をもたない。そうではなく、話の中身に直接意識は向かう。

たとえば新聞のニュースを考えてみよう。わたしたちはある事件のニュースを読んで、そこにふくまれた事実がどのようにして選ばれたか、なにが排除されたか、なぜこの事実とこの事実が選ばれて記事に組織されたか、組織される前提にはどのような思想があるか、記事に形成されるにあたってどのように加工されたか、別の形での報道のありようはなかったか、ということは考えない。けれどもそれが人の手によって書かれたものであるかぎり、かならずそうしたプロセスを経ているのである。それがあたかも「客観的な事実」であるかのような体裁をとっているのは、そこに至るまでのプロセスが覆い隠されているからにほかならない。

『くじ』の語り手が正体を隠しているのも、ニュースの報道と同じなのである。読み手に語り手の存在を感じさせないことによって、出来事そのものへと意識を向かわせる。そうして、客観的に記述することで、読み手に「これはほんとうにあったことなのかもしれない」と思わせるのである。

さらに、誰かよくわからない何でも知っている語り手を作者から区別して考えることの利点には、つぎのようなものがある。
以下のふたつの冒頭を見比べてほしい。

 従四位下左近衛少将兼越中守細川忠利は、寛永十八年辛巳の春、よそよりは早く咲く領地肥後国の花を見すてて、五十四万石の大名の晴れ晴れしい行列に前後を囲ませ、南より北へ歩みを運ぶ春とともに、江戸を志して参勤の途に上ろうとしているうち、はからず病にかかって、典医の方剤も功を奏せず、日に増し重くなるばかりなので、江戸へは出発日延べの飛脚が立つ。

(『阿部一族』)

 越後の春日を経て今津へ出る道を、珍らしい旅人の一群れが歩いている。母は三十歳を踰えたばかりの女で、二人の子供を連れている。姉は十四、弟は十二である。それに四十ぐらいの女中が一人ついて、くたびれた同胞二人を、「もうじきにお宿にお着きなさいます」と言って励まして歩かせようとする。二人の中で、姉娘は足を引きずるようにして歩いているが、それでも気が勝っていて、疲れたのを母や弟に知らせまいとして、折り折り思い出したように弾力のある歩きつきをして見せる。近い道を物詣りにでも歩くのなら、ふさわしくも見えそうな一群れであるが、笠やら杖やらかいがいしい出立ちをしているのが、誰の目にも珍らしく、また気の毒に感ぜられるのである。

(『山椒大夫』)

このふたつの作品は、ともに森鴎外の作品である。
そうして、この語り手は、ともに作品のなかには登場しない、例の「何でも知っている」語り手である。
けれども、このふたつの作品の語りの声はずいぶんちがう。ともに「森鴎外がわたしたちに話して聞かせてくれている」と思ってしまうと、このふたつの「語り」の声のちがいを見逃すことになってしまう。

こういう語り手のことを「含意された作者」と呼ぶこともあるのだけれど、とにかく、ここで理解しておいてほしいのは、どんな作品であっても、そこには「語り手」がいるということだ。

あらゆる物語には、語り手がいる。この語り手は、作品には登場しない何でも知っている語り手なのか。あるいは、「わたし」「ぼく」「おれ」「あたし」「余」「吾輩」「拙者」と、さまざまな一人称で語る、作品の登場人物なのか。登場人物であるとすれば、『坊っちゃん』のように、中心的に活躍するのか、それとも『雁』のように、脇へ退いて物語の中心となる人物の行動を教えてくれるのか。あるいは、フローベールの『ボヴァリー夫人』のように、冒頭で二度、教室で「わたしたち」として登場したあと、あっというまに姿を消してしまうのか。『こころ』のように、途中で語り手が交替するか。

語りによって物語はまったく変わってくる。
たとえば『坊ちゃん』のように、主人公が語る場合、物語は主人公の行動や反応を通じて劇化される。
わたしたちは容易に主人公と一体化し、主人公の不安や怒り、喜びを分かち合う。

主人公が語る物語におけるほかの登場人物たちは、客観的な表現を与えられて、迫真性のあるものとなる。ただし、彼らは内面から描出されることはなく、しかも主人公の個人的な偏見を通して見たものだ。さらに、語り手がどんな人物であるかは客観的な描写が与えられていないため、読み手が想像するしかない。『坊ちゃん』を考えると、このことは非常によくわかるだろう。わたしたちは、赤シャツを、野だいこを、山嵐をありありと思い浮かべることはできるけれど、坊ちゃん自身はそうしたサブ・キャラクターにくらべると、印象がはっきりしない。

そうして、一人称の主人公の作品は、独白、あるいは告白であって、読み手はそれを「立ち聞き」するのだ。

それに対して、一人称ではあるけれど、主人公ではない人物が語る場合がある。シャーロック・ホームズ、初期のエルキュール・ポワロも別に語り手がいたし、『グレート・ギャツビー』、森鴎外の『雁』、漱石の『こころ』の第一部、そうしてサンプルにあげた『八人の見えない日本人紳士たち』もこの体裁を取っている。

こうした作品では、語り手は観察者である。語り手は主人公に関心をもっており、語られる出来事は、主人公にふりかかるものである。語り手と読み手はともに、主人公に対して、あるいは出来事に対して、手がかりをひとつ、またひとつと発見していく。物語は発見をめぐって展開するのだ。そうして語り手は読み手にそれを「報告」してくれる。

けれども語り手はすべてを知っているわけではないし、出来事が終わった後でも、主人公のことを、あるいはその出来事の全貌を把握しているとはいいがたい場合も少なくない。そんなとき、「真の解決」は読み手に委ねられたことになる。わたしたちは、そうした場合、独力で証拠を集めなければならなくなる。隠された真実を発見しようと、もういちど本を手にする。読み手のより積極的なかかわり方を可能にする語りでもあるのだ。

このように、誰が語るか、というのは、読む上で、非常に重要な要素なのである。

さらに「語り」に派生する問題として、「誰が見ているのか」ということがある。つぎはこれを検討してみよう





4.誰が見ているのか

語り手とは、わたしたちに物語をする人物である。このほかに、出来事や、ほかの登場人物を見ている人物がいる。

初期の小説では、何でも知っている語り手の視点は、小説のなかのすみずみまで行き渡っていた。トルストイの『アンナ・カレーニナ』(以下引用は中村融訳 岩波文庫)は、かの有名なこのせりふから始まる。

 幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。

匿名の語り手はこのように一般論を述べてから、「オブロンスキイ家ではなにもかもがめちゃくちゃだった」と、さしあたって焦点となるオブロンスキイ家に読み手を誘う。しばらく一家の現状を少し高みから俯瞰し、この間の経緯も概観した後、当主のステパンの心のなかに入っていく。

《ああ、ああ、ああ!……》すべてのいきさつを思い起こしながら、彼はうめき声をあげた。すると彼の想像には妻とのいさかいの些細なことまでが残らず浮かびあがってきて、八方ふさがりの自分の立場が思い出された。なにより弱ったのは、罪が自分にあることだった。
《うむ! 彼女(あれ)は許すまい、許せるはずがない。なにより始末のわるいのは、いっさいの罪はおれにありながら、――罪はおれにありながら、おれがわるいと思っていないことだ。ここにすべての悲劇があるわけだ、――と彼は考えた。

こうして語り手はそこを出て、こんどは妻のドリイに移っていく。

 彼女はすばやい一瞥でこの生気と健康に輝いている良人の姿を頭の先から足の先まで見まわした。《そうだ! このひとは幸福そうで、満足しているわ!》――と彼女は思った、――《ところがあたしは?……それにあのにくらしいほどの人の良さ、これだからみんなはこのひとをあんなに愛したり、ほめたりしているのだけれど、あたしにはこの人の良さがにくらしいのだ》――と彼女は考えた。その口もとはきゅっとむすばれ、蒼ざめた、神経質な顔の右反面で頬の筋肉がぴくぴくと動いた。

実際、見事な手並みというしかないのだけれど、わたしたちはこの語り手の導きに従って、ひとりの人物の心のなかに入っていき、人物の目を通して事件を眺めることになる。そうして、その視点は、つぎの人物へと移っていく。もちろん語っているのは、この「何でも知っている匿名の語り手」ではあるのだけれど、わたしたちは、ステパンの、あるいはドリイの目を通じて出来事を見る。

ところが時代が下るに従って、この「何でも知っている」視点に、徐々に制限が加えられていく。やがて、出来事全体を、作中人物の視点から眺める、という手法がとられるようになる。

 うとうととして目がさめると女はいつのまにか、隣のじいさんと話を始めている。このじいさんはたしかに前の前の駅から乗ったいなか者である。発車まぎわに頓狂な声を出して駆け込んで来て、いきなり肌をぬいだと思ったら背中にお灸のあとがいっぱいあったので、三四郎の記憶に残っている。じいさんが汗をふいて、肌を入れて、女の隣に腰をかけたまでよく注意して見ていたくらいである。

(夏目漱石『三四郎』)

「三四郎」に登場する語り手は匿名だけれど、もはや「何でも知っている語り手」ではない。出来事は登場人物である三四郎の目を通して焦点化されるのである。

『三四郎』では、わたしたちに知ることができるのは、三四郎が知り得る範囲内に限定されていて、美禰子がなぜ「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」と言ったか、その意図は決して知ることはできない。わたしたちは三四郎の心のなかまでしか、立ち入ることはできない。

この方法は、物語に緊張感を生み、いくつも起こる出来事に一貫性を持たせることができる。そうしてまた、一人称の主人公の語りにつきものの欠点、つまり、主人公はどんな外見をしているのだろう? という疑問を、「客観的場面」(見ている人物の内面に入っていかず、外側から表現する)を導入することで、解消することもできるのである。この語り手は、出来事をその人物の内面から眺めるばかりでなく、ときどき外に出ていく。わたしたちはこれによって、三四郎の外見も知ることができる。

このような手法が取られた作品を読む場合は、『アンナ・カレーニナ』のように、語り手の見事な手並みに見とれつつ、うっとりして耳を傾けているわけにはいかない。いったい誰がこの出来事を見ているのか、と、目をこらしながら、ときにその目を疑うことも必要になってくる。そうして目が届かない先は、わたしたち自身が推理していかなくてはならないのである。





5.誰の話なのか

物語のなかで、登場人物というのは、決定的に重要である。作品の中で起こるすべてのことは、そのなかの人物についての理解と関連する。逆に言えば、読者が登場人物に対して理解するために、あらゆるできごとは起こるのである。

それはたとえ、鯨を追いかける話であろうが、カンザスで畑を耕すのをやめて怒りの声をあげるにいたる話であろうが、不倫の話であろうが、金貸しの老婆を殺す話であろうが、くじびきの話であろうが、カフェに二人連れの殺し屋がやってくる話であろうが、出来事は、かならず人物が(それは擬人化された猫であることも、ロボットであることも、ときにはトースターでさえあるけれど)それにたいしてどう考え、どう行動するかをひきだすために起こる。小説を読むという経験の中心的なものは、人物を理解することなのである。

物語が進むに従って、登場人物が現れてくる。
一般的に、長編小説の人物は、短編小説よりも複雑であることが多く、短編小説ではその人物の一面が強調されて、その複雑さは暗示されるにとどめられることが多い。わたしたちはその人物が何をし、何を言い、何を考え、何を感じているか、あるいはまたほかの人物がその人物に対して、何を言い、何を考え、何をするかによって、私たち自身でその人物の像を(半ば無意識のうちに)描いている。

それをもう少し、意識的にやってみよう。
まず主要人物を確定する。
語り手が強い関心を持っている人物はいるか。繰り返し言及される登場人物は誰か。それとも、語り手自身がさまざまな行動を取ることで、物語の推進力となっているか。

多くの場合、主要人物には複雑な性格や、強い個性を与えられている。作中の他の登場人物は、主要人物に関心を払う。注目し、噂し、さまざまな情報が与えられ、あるいはその一部は隠され、わたしたちはもっとそれが知りたくなる。

けれども、その「複雑さ」「強さ」は単独で与えられているだけではなく、それを浮き立たせる対比的な人物がいる。それが副次的人物である。

多くの場合、副次的人物というのは、最大公約数的人物である。平均的なものの見方をし、主要人物の個性を計る目安となる。わたしたちはこの副次的人物があまり目立たないことが多いため、その登場を見逃しやすい。けれどもこの副次的人物を忘れていると、主要人物の行動の特質も、十分に理解しないままになってしまう。

さらに、副次的人物は、物語のなかに住みつく。わたしたちはこの副次的人物を通して、作品が設定された時代の仕事や日常生活や一般的な人々の考え方を知るのである。

さて、こうした登場人物は、そのまま物語のなかに投げ出されているわけではない。どういう形でわたしたちに与えられているのだろうか。つぎはそのことを考えてみよう。





6.ストーリーは何をするか

わたしたちは本を読むとき、ストーリーを追っていく。
ストーリーとは、E.M.フォースターの定義によると、「それからどうなった?」という質問に答えるもの、「時間の進行に従って事件や出来事を語ったもの」である。

事件や出来事にともなって、登場人物は行動する。わたしたちが登場人物を知るのも、その行動によってである。たとえば、その人間がどんな性格かを延々と描写されているのを読むより、

「起立」と先生がいった。
 彼は起立した。帽子が落ちる。組じゅうが笑い出した。
 かがんで拾おうとすると、隣の生徒がひじで帽子を突き落とした。彼はもう一度拾い上げた。
「まあかぶとを脱ぎたまえ」と、とんち屋の先生がいった。
 生徒たちがドッと来たので、かわいそうに少年はまごついて、帽子を手に持っていたものか、床に置いたものか、それともかぶったものかわからなくなった。彼はまた腰を下ろして帽子を膝に置いた。

(フローベール『ボヴァリー夫人』伊吹武彦訳 岩波文庫)

という描写を読んだほうが、ボヴァリー夫人の夫になるべく登場するこの人物をいっそうはっきりと、リアリティをもって知ることができる。

ストーリーは、現実に生きる人間を模写する、というよりも、行動を模写するのである。けれども、小説が描くのは、その奥の人間である。

登場人物を寄せ集めただけでは、いかにそれがおもしろい人物たちであろうと、物語にはならない。かならず何らかの行動が必要となる。そして、人が何かを行い、その行動が、つぎの行動を生むのを語るのが、ストーリーなのである。

実際の小説は、出来事が時間軸にそったままの形で提示されることばかりではないし、とりわけ出来事や作品内の時間が限られる短編では、ストーリーを追っただけでは、何の話なのかさえわからないことが多い。

『八人の見えない日本の紳士たち』のストーリーをためしに見てみよう。

「わたし」がベントリーに入っていくと、日本人の一団が食事をしており、若いカップルはワインを飲んでいる。ふたりは婚約しているらしいこと、娘は本を出版する予定であることがわかるが、結婚の時期をめぐって口論になる。ワインを飲み終えたふたりは出ていくが、娘の方は日本人がいたことに気づいていなかった。

ストーリーを追うだけでは、この作品の意味を見いだすことができないし、それどころかいったい何の話なのかさえよくわからない。つまり、わたしたちはストーリーを追いながら、プロット(出来事の因果関係)を見つけることができないのである。最大の疑問、「なぜこの話が語られなければならなかったのか?」は、ストーリーは与えてくれない。

劇的な出来事が起きたわけでもない。
めずらしいこと、おもしろいこと、悲劇的なこと、何であれ、語るに足るような出来事をわたしたちは見つけることができない。

そういうとき、もういちど、ストーリーは何のために語られるのか? という問いに帰ってみよう。それはわたしたちが人間を知るために語られるのである。





7.サンプルを読んでみる

ここまで見てきたことに気をつけて、もういちど『八人の見えない日本の紳士たち』を読んでみよう。
気をつけるのは
1.誰が語っているのか?
2.誰が見ているのか?
3.誰の話なのか?
 a.主要な登場人物はだれか?
 b.副次的登場人物はだれか? また、彼らはどのような機能を担っているか?

サンプルの語り手は非常にわかりやすい。
「わたし」である。内容から、中年のおそらくは男性(性別を明らかにはしていないが、まず美しい娘に目が行くことから、おそらく男性であると理解していいだろう)の、それなりに経験を積んだ作家であることがわかる。

この作品は、おそらく出来事が起こってまだ間がないうちであることが予想される。というのも、娘の作品が出版されたかどうか、それが成功したかどうかは、語りの時点では明らかにされていない。
語り手は、ほかの登場人物(娘、婚約者、八人の日本人)について、初対面で何ら予備知識はない。

さて、登場人物は、語り手である「わたし」、「娘」、「婚約者」、「八人の日本の紳士」、「ウェイトレス」である。ほかに会話のなかに「ドワイトさん」「婚約者の母親」「婚約者の伯父」が登場する。

主要な登場人物は誰だろう?
ここではまず、もっとも多く語られる「娘」であると仮定してみよう。

「娘」は「小作りで愛らしい」「人形のような」容貌で、女子大を出て間がない、おそらくは当世風の乱暴なしゃべり方をする、と描かれる。
駆け出しの作家であり、「観察力」を買われている、と自分で言っている。

つぎに「婚約者」を見てみよう。
婚約者は
・娘に結婚式を持ちかけられ
・伯父からはワインの商いをするよう勧められ
・母親からはおそらくすぐに結婚しないように言われていることが想像される。
以上のことから、婚約者は明確な意志を持たない弱い存在であることが想像できる。

娘の強さを強調するための弱さ。
加えて、娘が乗り出そうとする文学と、母親と伯父の薦めによって、ワインの商いという世俗的な道へ進もうとすることが対比されている。

では、つぎの登場人物、八人の日本人紳士を見てみよう。

彼らの描写で特徴的なのは、
・互いによく似ていること
・礼儀正しく、つねに笑みを浮かべていること
・相手に対して思い遣りを持ったふるまいをすること

これは何と対比させているのだろうか?
娘と婚約者は、日本人と同じように、よく似ている。
だが、その関係は支配的な娘とそれに引きずり回されている婚約者といったように、まったく対称的である。

あるいは彼らの話は、聞いている「わたし」には、まるで理解できない。
同業であるために完璧に理解できる話と、異なる言葉で話されているために、まったく理解できない会話。そういう対象構造もあるのではないだろうか。

そうしてなによりも、この日本人には重要な機能がある。
タイトルは「八人の見えない日本の紳士たち」である。
なぜ「見えない」がついているのか?
観察眼を誇っているはずの「娘」に、見えなかったからである。一般人を代表する婚約者にすら見えていたのに。
日本人は、「娘」の観察眼のおぼつかなさを示す尺度として、機能しているのである。

さて、ここで語り手のことをもういちど考えてみよう。
語り手の「わたし」は、表面的には、この描かれる出来事のどれにも参加していない。

食事をし、あるいはワインを飲む登場人物のように、語り手がいったい何を食べているのか、あるいは飲んでいるのか、あるいは運ばれてくるのを待っているのか、注文したのかは描かれない。

けれども、見ることによって、聞くことによって、「わたし」は、この出来事に中心人物として関与している、とも言えるのである。

「娘」は最初、美しさで作家の興味を引く。
つぎに作家の同業者であることから、作家の興味はいっそう深いものになる。
「娘」のことを作家はどう見ているか?
「娘」が駆け出しの作家であることを知ったときから、「もっと彼女に見合った人生があるはずだ」という、決して好意的ではなかったあった作家の視線は、ふたりの話を聞きくうちにますます厳しいもの、「わたしは自分が『チェルシーの潮流』が惨憺たる結果に終わったあげく、娘が写真のモデルになり、青年はセント・ジェイムズ街でワインの商いで堅実に身を立てることになればいい、と考えていることに気がついた。」というまでになっていく。

「娘」のことを通して、作家は自分の仕事のことを語っている。

『チェルシーの潮流』が五年たってもまだ読み継がれているだろうか? 努力を要される年月に覚悟はできているか? 「なにひとつましなものが書けず、ひたすらに続く挫折」の期間に? 年齢を重ねても書くことはたやすくはならず、日々の努力はしだいに耐え難いものとなり、君の言う「観察力」は年を重ねるうちに衰えていく。四十代になれば、君は将来性ではなく、仕事によって評価されるのだ。

こう考えると、「若く美しい娘」をもてはやす昨今の風潮に厳しい目を向ける、経験を積んだ作家の物語である、と考えることもできるのだ。

これで、とりあえずはこの作品が「何を言ったものか」は掴んだ。さて、さらにもう一歩、ここから突っ込んで考えてみよう。

まず、この語り手はだれに話しているのだろうか。
語り手は、必ず聞き手の存在を前提としている。いくつかの手がかりをもとに、語り手が思い描いている聞き手を推理してみよう。

まず、この作品は英語で書かれている。
しかも、翻訳では「ホテル・ベントリーのレストラン」「19世紀初頭風」などと訳したけれど、原文は「ベントリー」「リージェンシー様式」と、イギリスの知識を持っていることを当然とした書きぶり、あるいは、女子大ふうのアクセント、19世紀末から20世紀初頭にかけて一世を風靡したヘンリー・ウォード夫人、といった固有名詞から、ある程度の教養を備えたイギリス人(でなくても、それに近い知識を持つ聞き手)を、聞き手として想定しているのである。

わたしたちはこの語り手が想定している聞き手として話を聞くだけではなく、こんどは「想定外の聞き手」として、語り手を疑ってみよう。

語り手が言っていることは正しいのか? 語り手は、自分が思っているほど、たいそうな観察眼を持っているのか。実は順調なスタートを切った新進作家を秘かに妬んでいるのではないのだろうか?

そう考えたのなら、もういちど読み返して証拠を集めなければならない。

「わたし」は、日本人をどこまで正確に見ているだろうか?
「魚料理」「お辞儀」「愛想笑い」…ステレオタイプの日本人像とは言えないか? 「わたし」の観察眼が自分が思っているほど正確ではないとすれば、「娘」の評価も鵜呑みにしてよいのだろうか。
そういう観点からもういちど、娘と婚約者の会話を読み直してみよう。

このように、作品はさまざまな解釈が可能である。
けれども、それは「何でもアリ」ということとは本質的にちがう。

その解釈を成り立たせる根拠が作品のなかになければならず、同時にその解釈は、人を説得しうるものでなければならない。何の根拠もない決めつけ、一部分だけを取り出した、勝手な思いこみ。それでは解釈とはいえない。
読むことは、作者の意図からは自由であっても、そこから何を読んでもかまわない、ということではないのである。





8.本を読む、ということ

物語が直接与えてくれるのは、ストーリーである。語り手は時間軸に沿って出来事を語っていく(もちろんこの時間軸はひっくり返されるもの、バラバラにされるもの、一部分だけが前に、あるいは後ろに配置されるもの、さまざまである)。
けれども、この出来事というのは、人を描くために語られるのである。出来事の背後には、かならず人間がいるし、その出来事に反応する人間もいる。
E.M.フォースターが言うように、自分には理解できないほかの人々を理解するために、わたしたちは文学に向かうのだ。

そうして登場人物の描写は、作品が進んで行くにつれ徐々に進展し、ところどころで修正される。
わたしたちはその修正を受け、自分の記憶も修正する。

たとえば、サンプルでは、娘が、自分は鋭い観察眼を持っている、とドワイトさんが言った、と言えば、とりあえずそれは聞いておく。ところが、語り手はどうやらこの娘に対して、好意的ではないらしい。となると、この「鋭い観察眼」も怪しいぞ、と、修正する。そうして最後に娘が日本人の存在に気がついていなかった、という部分を読んで、娘の「観察眼」は杜撰なものである、と再度修正し、同時に語り手の見方の「正しさ」を補強する傍証として理解する。

わたしたちはページをめくりながら、意味にまとまりをつけながら読んでいく。けれども、この意味のまとまりのなかには、必ず満たされない空白の部分がある。

たとえば、娘が「ドワイトさんが言うには、この十年間に出た処女作のなかで、こんなに鋭い観察力を発揮した小説はなかったんだって」と言ったときに、婚約者が「そりゃすごいね」と言う口振りが「悲しげだった」とあるが、なぜ「悲しげ」なのだろう、と思う。この空白がわたしたちの「問い」となる。答えを見つけようと、先へ進む。そうして「仮説」を立てる。この婚約者は、娘に成功してほしくないのだろうか?

読み進んでいくうちに、この「仮説」はたいがいの場合、修正を余儀なくされる。後の会話のなかから、婚約者は、娘の作品が当たるとは思っていないのではないか、と思うようになる。そこでわたしたちは、自分の記憶も修正する。

この「問い」→「仮説」→「修正」は決して終わることがない。単一の絶対的な解釈がある作品があるとすれば、それは文学作品としては、読む価値がないものである。

作品のなかの、いくつもの「問い」。
日本人が食べている魚、これは何かを象徴させているのだろうか?
ふたりはなぜ食事でなく、シャブリを飲んでいるのだろう?
作家の食事はこれから始まるのだろうか?
そうしてなによりも、この作家の目は信頼するに足るのだろうか?
このほかにも、読者の数だけ、この「埋まらない空白」は存在する。
できるだけ、おもしろい問いを考える。
作品から離れるのではなく、寄り添いながら、おもしろい答えを出してみる。

わたしたちは小説を読む。悲しいことに、ほとんどのことは忘れてしまうだろう、と思いながら、それでもなんらかの価値があるだろうと思って、本を読む。

ところがひどく漠然とした印象を受けただけで読み終えてしまった場合、自分に読む力がないか、作者に問題があるか、あるいはそのどちらでもない(多くの場合「自分には合わない、という言葉で表現される)、と考えてしまう。

そうではなく、いくつかの点に留意すれば、読書体験からより多くのものが引き出されるのではないか、と思うのである。その一助になれば、これほどうれしいことはない。

それでは、よい読書体験を。



初出 Feb.1-09, 2006 改訂 March.15, 2006



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