読みながら考え、考えながら読む
ここにはひとつのテーマをめぐって、何冊かの本を横断しながら考えたことをまとめた文章を置いてあります。

幸田文は、あるとき父露伴に「本を読んでものがわかるというのはどういうこと?」と訊いたといいます。それに対して、露伴はこう答えたのだそうです。
――「氷の張るようなものだ」と。
「一ツの知識がつっと水の上へ直線の手を伸ばす、その直線の手からは又も一ツの知識の直線が派生する、派生はさらに派生をふやす、そして近い直線の先端と先端とはあるとき急に牽きあい伸びあって結合する。すると直線の環に囲まれた内側の水面には薄氷が行きわたる。それが「わかる」ということだと云う。」(幸田文『ちぎれ雲』)

ここに収めたものは、わたしの氷たちです。薄い、朝のうちに溶けてしまうような氷かもしれません。石ころを載せればいっぱいになるほどの、小さな氷かもしれません。
それでも、手を伸ばすため、結ぶために本を読みながら、小さな氷を少しずつ張っていけば、ほかの氷と出会えるかもしれない。いつか厚い氷となって、その上を渡ってどこかに行けるかもしれない。そうだったらいいなと思っています。

わたしの氷が、あなたの氷と出会えることを夢見つつ。

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「友だちが敵になるとき」 … 2010-07-27


 本のことを考えた

◆ 読むこと、聞くこと、思い返すこと……2008.10.06
話し言葉から書き言葉へ、本から電子メールへ、ツールの変化によって、わたしたちの読み方はどう変わっていったのか、考えてみました。

◆ 「読むこと」を考える……2006.02.22
小説を読んでもどうも頭に残らない、うわっつらしか読めてないんじゃないか、そんな気持でいる人に、こんなふうに読んでみたら? と思って書いています。

◆ リリアン・ヘルマン ――ともに生きる……2005.12.30
1950年代、赤狩りの嵐が吹き荒れたアメリカを生きたひとりの劇作家・作家について書いています。

◆ 絵本のたのしみ……2005.09.24
絵本について書いていますが、絵本好きな人にはあまり楽しめないかもしれません。

◆ 『夢十夜』「第三夜」を考える―……2005.08.30
夏目漱石の『夢十夜』のなかの「第三夜」について考えています。

◆ 暑いときにはコワイ本……2005.08.02
コワい子供やコワい先生、いくつかのテーマに沿って、コワい本をピックアップしました。ここにあげた「グリフォン」「変種第二号」は自分でも翻訳しています。

◆ 「「文学を読む」ことについていまさらながら考えてみる」……2005.03.05
まとめてしまえば、本を読むのが好きな人は好きなんだから、ほっといてちょうだい、ということです(笑)。

◆ メアリー・マッカーシーはいかがですか……2004.12.20
ええと、これは、うーん……まあ、マッカーシーの『グループ』が一時期すごく好きだったってことなんでしょうね(笑)。一応こんなことも書いた時期があった、ということで。

◆ YAとして読む『蠅の王』……2004.10.08
記念すべき第一作です。まだこの時期、何を書こうとしているのかわかってません。熱い思いだけはある、ということで、記念に残しておきます。


 言葉のことを考えた

◆ 「狐のようで獅子のようで犬のよう ――たとえ話の動物たち」 … 2009-11-29
小さな頃、わたしたちが最初に出会った物語の多くには、さまざまな動物たちが登場してきました。キツネやライオン、オオカミなど、実際には見たこともない動物たちのイメージが、そんな物語を通してわたしたちの内側にも浸透してきて、逆にそこからわたしたちの人に対する見方、考え方をも形づくっているように思えてきます。「タヌキオヤジ」だなんていう言葉を、野生のタヌキを見たこともないわたしたちが使っているなんて、考えてみると不思議ではありませんか。

◆ 「事実」とはなんだろうか……2006.06.16
「小説」や「物語」と「真実」や「事実」は対義語なんでしょうか。でも、わたしたちはいったい何を「事実」と呼んでいるのでしょう。「事実」や「真実」も一種の物語なんじゃないか。そんなことを考えています。

◆ 物語をモノガタってみる……2005.11.05
物語というのは、単に「昔々おじいさんとおばあさんがおりました」というお話だけを指すのではなくて、わたしたちの考え方の基本的な構造なのではないか、ということを書いています。上の「「事実」とはなんだろうか」や「報道の読み方」もここから派生しました。

◆ 声に出して読むということ……2005.02.22
読書といえば、黙読があたりまえになったわたしたちですが、人間が黙読するようになったのは、ある時期以降のことです。黙読以前の「読み方」と、いまとでは大きな変化が起きているのではないか。黙読で何かを失ったのではないのか。そんなことを考えています。

◆ 「私」と「I」の狭間で……2005.02.08
同じ一人称である「私」と「I」とは、実は似て非なるものではないか、という問題意識で書いています。これを書いた時期は、まだこの問題意識が最後まで支えきれないで、別の言葉を学ぼう、みたいなことでお茶を濁してますが、また改めて考えてみたいテーマです。

◆ ことばで読む ことばを読む……2004.11.17
「愛とは何か」「友情とは何か」と、わたしたちは言葉の向こうに何かがあるのではないかと、言葉の奥をのぞいて見ようとします。けれども、言葉は言葉でしかない、その「向こう」などないのだ、ということを書いています。


 人間のことを考えた

◆ 濡れ衣が乾くまで……2009.02.20
小説や戯曲には「濡れ衣」を扱ったものが多くあります。現実にそんな場面に遭遇することは、それほど多くはないのでしょうが、どうして小説や戯曲は「濡れ衣」を描くのか。わたしたちはそこから何を読み取ることができるのか。そんなことを考えています。

◆ 良い人? 悪い人??……2008.04.08
小説には「善人」と「悪人」が出てきます。善人が良いことをするのが良い小説で、悪人が悪いことをするのが悪い小説なのか? ことはもう少し複雑です。わたしたちは自分が生きている社会の規範と無関係に小説を読んでいるわけではありません。小説と現実の道徳規準というのは、どのような関連を持っているのか、考えてみました。

◆ 怒る人々……2007.12.05
怒りというのは厄介な感情です。小説では怒りがどのように描かれているのか。怒ったことによって、人はどうなり、怒らないことでどうなっていくのか。そんなさまざまなケースを集めています。

◆ 嫌っても、嫌われても……2007.11.28
人やものごとを「嫌い」と言い切ってしまうのは、どこか小気味良いところがありますが、逆に、自分のことを嫌っている人がいるというのは、気持が落ち着かないものです。誤解なら晴らしたい、できることなら和解したい、それができないなら、こっちから嫌ってやる……そんなふうになってしまうことが少なくない。いくつかの作品を概観しながら、うまく人を嫌いになり、嫌われることを引き受ける方法を探っています。

◆ 「真似」る話……2007.07.09
真似された、と感じた人は、たいてい腹を立てます。その怒りはどこから来るのか。逆に、真似ようとするのはどんなときなのか。いくつかの小説に描かれる「真似」を通して、人を真似るということについて考えました。

◆ 芸術家たち……2007.04.15
芸術家を描いた小説はたくさんありますが、芸術家ってそんなに特別な人なんでしょうか。わたしたちとどうちがうのでしょうか。そんなことを考えています。

◆ あなたのなかの「子供」……2007.02.11
人はいつから子供でなくなるのか。大人になったあとは、子供はどこへ行ってしまうのか。さまざまな小説を通して、子供について考えてみました。

◆ 「賭け」する人々……2006.09.26
人はなぜ賭けをするんでしょう。小説の中で賭けをした人はどうなっちゃうんでしょう。それが、見事なまでに悲惨な結果になります。たとえ勝っても、です。賭けなんて、しないに越したことはない。生きてるだけで、丸儲け。それで十分です。

◆ 小説のなかの「他者」と現実の「他者」……2005.03.28
「萌え」などと二次元のキャラクターに恋をする人を異端視する人もいますが、そんなことは昔から人はやってきました。字面の向こうに「人間」を仮想するということは、いったいどういうことなのか。そうすることで、どのような影響が現実に起こってくるのか。もうちょっと書き足せば、おもしろいものになるかなあ、という気がするのは、気のせいでしょうか(笑)。


 身の回りのことを考えた

◆ 鏡よ、鏡……2007.05.31
そもそもはカポーティの小説「ミリアム」を訳したことがきっかけでした。主人公はミセス・ミラー、綴りはちがいますが「鏡」が響いています。そうして「Miriam(ミリアム)」という名前には「鏡」が含まれている。わたしたちを映し出す鏡。わたしたちが鏡となって映し出す「もの」や「こと」。そんなことについて考えてみたかったんです。

◆ ものを贈る話……2006.08.20
贈ったり、贈られたり、プレゼントはわたしたちにとって身近な行為です。年末が近づくと「贈るのは気持」とお歳暮のコマーシャルも始まります。ものをやりとりしながら、わたしたちはほんとうのところ、いったい何をやりとりしているのか。「贈り物」小説を集めて考えています。

◆ 闇を探す……2006.04.06
ちょうどこれを書く前に、近所の駐車場に大きな照明が設置されました。大通りから少し入った住宅街の駐車場は、車上荒らしの格好の標的だったようです。おかげでわたしの部屋も、夜、電気を消しても、外の明かりが入ってくるようになりました。闇はなくしてしまえば良いのか。かつて谷崎が礼賛した『陰翳』をもう一度確かめてみたいと思いました。

◆ ものを食べる話……2006.03.09
小説から食べる場面を集めています。引用の仕方ひとつとっても、この時期はまだヘッタクソなんですが、どういうわけか愛着のある文章のひとつです。

◆ ほんの動物……2005.12.03
動物の出てくる小説を集めていったい何がしたかったのか、いま振り返れば判然としませんが(笑)、とにかく動物といえばペット、という見方をくつがえしたくて、「食べるための動物」という項目を置いています。ある種類の動物をかわいがり、ある種類の動物を殺すことに反対し、ある種類の動物を食料と見なす。わたしたちと動物の関係は単純ではありません。その「一筋縄ではいかな」さを考えようとした……んじゃなかったんだろうか。


 メディアのことを考えた

◆ 半世紀前のやらせが教えてくれること……2009.10.15
テレビ番組にはいつのまにか「やらせ」という言葉がついてまわるようになりました。どうやらテレビの黎明期から「やらせ」は問題になっていたらしい。「やらせ」か「演出」か。わたしたちはテレビの「真実」をどこに見ればいいのだろう。そんなことを考えています。

◆ 三角形で見る映画……2008.07.20
映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」はなぜ一作目はそれなりにおもしろいのに、三作目は物語として破綻してしまっているのでしょう? 実は、映画には「英雄物語」と「三角形の物語」の二種類がある。そうして、三角形を当てはめると、隠されていた筋が浮かび上がってくるのです。ここでは「パイレーツ・オブ・カリビアン」や「羊たちの沈黙」「ガタカ」を通して「三角形」の構造を考えています。

◆ 報道の読み方……2006.11.06
事件を伝える新聞記事は、はたして中立なのか。書き手の主観を交えない文章というものがありうるのか。言葉を選んで文章を作ること自体、主観的な行為です。問題は、主観的な記事を、あたかも中立であるように読んでしまうことにあるといえます。わたしたちはメディアとどうつきあっていけばよいのか。この時期、しきりに報道された「たらい回し」のニュースをサンプルに、メディア・リテラシーについて書いています。これもまた愛着のある文章です。

◆ 写真を読むレッスン……2006.05.17
写真というのは「見る」ものなんでしょうか。そこに映し出されているカメラマンが、被写体の何を見ているのか、「読む」ものではないのでしょうか。この文章の問題意識はそこにあります。残念ながら、わたしの写真の見方がまだしっかりしていなくて、文章はえらくふらふらしてるんですが。そのうち、また書いてみたいテーマです。

◆ ダイアン・アーバスを読む試み……2004.11.03
ブログを始めて二本目に書いた文章です。アーバスというと、まとまった伝記が、かならずしも優れたものとは言えないボズワースの『炎のごとく』しかないのですが、それでもそのなかにはアーバスの大変魅力的な言葉がいくつも再録されています。アーバスの言葉を手がかりに、彼女の写真を見てみたい。アーバスが「フリークス」の向こうに見た「貴族性」をもっと深く理解したい。アーバスの写真は、少なくともわたしたちの目が、いかに道徳や規範に型押しされてしまっているかを教えてくれるはずだと思うんです。

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