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ここではロアルド・ダールの「番犬に注意」の翻訳をやっています。
これはダールの処女短編集 "Over to You" に所収されています。
タイトルの "Over to You" とは、無線交信の最後の「どうぞ」にあたる決まり文句なのですが、実際にダールは第二次世界大戦に従軍し、戦闘機に乗り、空中戦を経験しており、そのときの体験をもとに、短編を執筆するようになりました。
後期の作品のようにあっと驚くようなオチはないのですが、あとに残っていくものがあります。
これもダール、忘れられない作品です。
原文は http://www.classicshorts.com/stories/botd.html で読むことができます。



番犬に注意


by ロアルド・ダール


スピットファイア


 はるか下は、白く波うつ雲の海がはてしもなく広がるばかりだった。頭上には太陽があったが、雲に劣らずそれも白かった。空高くから見る太陽は、いささかも黄色みを帯びることはないのだ。

 あいかわらず彼はスピットファイアを飛ばしていた。右手は操縦桿にかかり、操舵棹は左脚一本で操作する。たやすいことだった。飛行機の飛び具合は快調だったし、自分がやっていることもしっかりと把握できている。

 万事OK、と思った。おれはうまくやっている。たいしたもんだ。復路もちゃんとわかっている。三十分もすれば着くだろう。着陸して、滑走に移り、エンジンのスイッチを切る、それからこう言うんだ、おい、ここから出るのに手を貸してくれよ。いつもどおりの声で何気なく言うからだれも気がつかない。そこでこんなふうに続ける、だれかおれを出してくれ、と。ひとりじゃ外に出られないんだ、なにしろ脚を一本、なくしちまったからな。みんな笑って、おれが冗談を言っている、と思う。そこでおれはまた言うんだ。ならこっちへ来て見てみろよ、嘘だと思うんなら。そこでヨーキーが翼に上って中を見る。血だのなんだのでしっちゃかめっちゃかになっているここを見て、たぶん吐いちまうだろう。だから笑ってこう言ってやるんだ、おい、頼むから手を貸してくれよ。

 彼はまた右脚をちらりと見やった。とはいえほとんど残ってはいなかったのだが。砲弾の破片に太股をちょうど膝の上のあたりから吹っ飛ばされてしまったために、そこには原型を留めない肉塊とおびただしい血だまりがあるだけだった。痛みはなかった。見おろしても、肉体の一部を見ているような気がしなかった。自分とは何の関係もないもの。たまたまコックピットにぐちゃぐちゃしたものがあるだけだ。奇妙な、めずらしい、変に興味をそそるような何か。ソファの上で猫の死骸を見つけたようなものだ。

 実際、いささかも不調は感じられず、気分は爽快だった。意気揚々とし、不安のきざしさえなかった。

 わざわざ無線で救急車を呼んでくれるよう頼むまでもない。そんな必要なんかないさ。着陸したら、いつもと同じように坐ったままこう言う。だれかちょっと来て、手を貸してくれよ、脚が一本、なくなっちまったんだ。おもしろいだろうな。しゃべりながらちょっと笑ってやろう。おれが冷静に落ちついて話すもんだから、みんな冗談だと思うはずだ。ヨーキーが翼にのぼってもどし始めたら、こう言ってやろう。ヨーキー、このヘッポコ野郎、おれの車の用意はもうできてるか? 飛行機からおりて報告をすませたらロンドンへ行こう。あのウィスキーのハーフ・ボトルを持っていって、ブリューイーにやるんだ。彼女の部屋に腰を落ちつけて、そいつを飲む。水なら風呂場の蛇口をひねりゃいい。ベッドに行くまではあまりしゃべらないほうがいいな。で、そのときがきたらこう言おう。ブリューイー、びっくりしないでくれよ、おれは今日、片脚がなくなっちまったんだ。だけどおまえさえ気にしないでくれたら、おれは平気だから。たいして痛くもないんだ。車を使えば、行くところも不自由しないし。昔から歩くのはきらいだったしな、ま、バグダッドの銅細工師のバザールのある通りは別だが。だけどそこなら人力車で入っていける。家へ帰ったら薪割りだってできるさ。ところがおれが斧を振り上げると、いつも頭が柄から抜けて飛んでっちまうんだな、これが。そういうときにはお湯だ、お湯がありゃいい。斧を浴槽に浸けて、柄のところを膨張させるんだ。このまえ家に帰ったときも、そりゃどっさり薪を割ったんだぜ。それから斧を湯舟に浸けて……。

 そのとき太陽が飛行機のエンジンカバーにまぶしく照りつけているのが見えた。金属板に並ぶリベットが目に入り、自分がどこにいるか思いだした。いまや気分上々とはほど遠いことに気がついた。吐き気がするし、眩暈もする。頭がしだいに垂れてきて、胸につきそうになっているのは、もはや首に支える力がなくなっているためらしい。だが、自分がスピットファイアに乗っていることは認識していたし、右手の指の間に操縦桿を感じることもできた。

 意識が遠のきそうだ。いまにも気絶するかもしれない。

 高度計を見た。高度2,1000フィート。自分を試すために、百の位も千と同じように正確に読みとれるかどうかやってみようとした。2,1000といくつだろう? 盤が霞んで針さえはっきり見えない。脱出しなければならない、と悟った。もう一秒だって無駄にはできない、さもなければ意識がなくなってしまう。大急ぎで、左手でがむしゃらに操縦席のフードを後ろへずらそうとしたが、力が残っていなかった。ちょっとの間、右手を操縦桿から離して両手を使うと、なんとか後方へ押しやることができた。たちまち冷たい風が顔に襲いかかり、それに助けられた。一瞬、意識が鮮明になり、よどみない、的確な動作が戻ってきた。優秀なパイロットにはよくあることだった。酸素マスクから数回、すばやく深呼吸し、同時にコックピットの片側から外を見おろした。眼下は白い雲の海が広がるばかりで、自分がどこにいるかもわからなかった。

 イギリス海峡あたりだな、と思った。海に落ちるにちがいない。

 減速しながらヘルメットを脱いで、ベルトを外し、操縦桿を力一杯左へ倒す。スピットファイアは左翼を下げ、ゆるやかに上下反転した。パイロットは飛び出した。

 落ちていきながら目を開けたのは、意識があるうちにひもを引いておかなければならないからだった。片方に太陽があり、反対側に真っ白な雲が見え、落ちていきながら空中で宙返りし、白い雲が太陽を追いかけ、太陽が白い雲を追いかけるのを見た。その追いかけっこが小さな円を描く。どんどん回転は速くなって、太陽は雲になり、雲は太陽になり、やがて雲が近づいてきて、突然太陽の姿がなくなり、あとはひたすら白一色となった。世界のすべてが白になり、そのなかにはなにもない。あまりにも白いために、ときどき黒く見え、やがて白の時と黒の時が交互に訪れたが、それでも白のことが多かった。見ていると白から黒になって、それから白にもどったが、白のほうが長く続き、黒はほんの数秒間だった。やがて彼は白のあいだは眠って、世界が黒くなる直前に目を覚ますようにした。だが黒はほんの一瞬だった。ときにはそれが閃光のよう、ちょうどだれかが明かりのスイッチを消し、またすぐにつけたようになる。そうして白くなるたびに、彼はまどろむのだった。


 ある日、そのときは白だったのだが、のばした手に何かがふれた。それをつまんで指でつぶす。しばらくそこに横になったまま、指先にふれるものをもの憂くもてあそんだ。やがてゆっくりと目を開けて、指先を見やると、自分が何か白いものをいじっているのがわかった。シーツの端だ。それがシーツであることは、素材の手ざわりや縁のかがりかたでわかった。固く目を閉じ、またすぐに開ける。今度は部屋が見えた。自分が寝ているベッド、灰色の壁とドア、窓には緑のカーテンがかかっている。ベッドサイドのテーブルには、バラが数本活けてあった。

 テーブルのバラの横に洗面器があるのが目に入った。白いほうろうびきの洗面器で、その隣には小さな薬のコップがある。

 ここは病院なんだ、と彼は思った。おれは病院にいる。だが何も覚えていない。枕に頭をのせて仰向けのまま天井を眺めながら、何が起こったのだろう、と考えた。つるつるしたグレーの天井、清潔で灰色に塗られている天井を見ているうちに、ふと一匹の蠅が這っているのに気がついた。蠅のようす、灰色の海にぽつんと浮かぶ小さな黒い点が脳の表面をかすめ、その瞬間、何もかもがいちどきによみがえってきた。スピットファイアを思いだし、2,1000フィートを示す高度計を思いだす。両手を使って、フードを後方へずらしたことも、脱出したことも。脚のことも思いだした。

 どうやらいまは無事のようだ。ベッドの足下のほうを見やったが、よくわからない。片手を上掛けの下に入れて、膝を探った。一方はわかったが、反対側で手が触れたのは何か柔らかな、包帯にぐるぐる巻きにされたものだった。

 そのときドアが開いて看護婦が入ってきた。

「こんにちは」彼女は言った。「やっと目が覚めたようね」

 美人ではなかったが、大柄で清潔な感じの女性だった。三十と四十のあいだぐらい、金髪だった。それ以外はよくわからない。

「ここはどこなんですか?」

「あなた、運が良かったのよ。海岸近くの森に降りたの。ここはブライトン(※イギリス海峡に面したイギリス南部の街)。あなたがここに搬送されてから二日になるわ。もう手当も終わってるのよ。調子は良さそうね」

「脚がなくなってしまった」

「大丈夫、新しい脚を作ってあげるから。もう休んだ方がいいわよ。一時間ほどで先生が診察してくださるわ」そういうと、洗面器と薬のコップを取り上げて出ていった。

 だが彼は眠らなかった。もしまた目を閉じて、何もかもが消え失せてしまったらどうしよう、と恐ろしく、どうしても開けたままでいたかった。横になった体勢で天井を見上げる。蠅はまだそこにいた。ひどく元気がいい。サササッと十センチほど前進するとそこで止まる。それからまた進んで、また止まる。前進と停止を繰りかえしながら、ときおり天井から飛び立ち、小さな円を描きながらぶんぶんうるさく飛び回る。だがそのたびに天井の同じ場所に戻ってきて、また前進と停止を繰りかえすのだ。ずいぶん長いあいだ見ているうちに、やがてそれはもはや蠅ではなくなり、灰色の海に浮かぶひとつの黒い点となった。なおもそれを見続けているところに、看護婦がドアを開け、脇に立って医者を通した。陸軍の軍医で階級は少佐、前の大戦のときの勲章のリボンをいくつも胸に着けていた。小柄な禿頭の男は明るい表情で、優しい目をしていた。

「結構、結構。ついに目を覚ます腹が固まったらしいね。気分はどうかね」

「良好です」

「そうこなくちゃな。じきに起きあがって歩けるようになる」
医者は彼の腕をとって脈を診た。

「ところで」と医者が言った。
「きみの飛行中隊から電話があって、容態を聞いていたよ。見舞いに来たいという話だったが、もう一日か二日、待ったほうがいいだろうと言っておいた。きみは元気だし、この先いつでも来られるんだから、とね。少しのあいだ、おとなしく寝て、ムリをしないことだよ。何か読むものはもらったかね?」

 医者はバラが置いてあるテーブルを見やった。
「ないのか。まあ、君の面倒は看護婦がみてくれるさ。ほしいものがあったら何でも言ったらいい」
そういうと片手を上げて部屋を出ていき、大柄で清潔な看護婦もそれに続いた。

 ふたりが行ってしまうと、また横になって天井を眺めた。相変わらずそこにいる蠅を眺めいると、遠くで飛行機の飛んでいる音が聞こえてきた。寝ころんだままエンジン音に耳を澄ます。かなり遠い。機種は何だろう、と考えた。うーん、分かりそうだ……。不意に彼の頭が動いた。爆撃されたことのある人間がユンカース88のエンジン音を忘れるはずがない。ドイツの爆撃機ならほとんど分かるが、なかでもユンカース88ははっきりしている。あいつのエンジンはデュエットしてるみたいなんだ。ビブラートのかかった深い響きのバスに、ピッチの高いテナーがかぶさる。このテナーこそがJU-88(ユンカース88)の音で、それが聞こえればもう決まりだ。

 耳を凝らしてその音に聞き入り、まちがいない、と確信した。だがサイレンはどこだ、銃撃の音も聞こえないぞ。この真っ昼間、一機だけでブライトンあたりまで飛んでくるとは、あのドイツの飛行機乗りもいい度胸をしてるじゃないか。

 飛行機は近づいてくることもなく、エンジン音はさらに遠ざかり、やがて消えてしまった。しばらくしてもう一機きた。今度のも遠かったが、同じく震えるバスと高くさえずるようなテナーは、まちがいなくJU-88だった。あの音なら戦闘中に毎日聞いていたのだから。

 合点のいかない話だった。ベッド脇のテーブルにベルがある。手を伸ばしてそれを鳴らした。廊下をやってくる足音が聞こえ、看護婦が入ってきた。

「看護婦さん、あの飛行機は何でした?」

「わたしにはわからないわ。何も聞こえなかったから。たぶん戦闘機か爆撃機でしょう。フランスから帰ってきたんじゃない? どうしてそんなことを聞くの? どうかしたの?」

「あれはJU-88だった。確かにJU-88だ。あのエンジン音ならよく知ってるんだ。二機もいた。こんなところで何をしていたんだ?」

 看護婦はベッドまでやってくると、シーツの皺をのばしてマットレスの下へたくしこんだ。

「あらあら、いったいどんな空想をしてたのかしらね。そんな心配はしなくて大丈夫よ。何か読むものでも持ってきましょうか」

「いらない、だけどありがとう」

 看護婦は枕を軽く叩くと、彼の額にかかっていた髪の毛をかき上げた。

「ユンカースなんて、もう昼間に来ることはないわ。あなただってそのことは知ってるでしょう。たぶんランカスターかフライング・フォートレス(※B-17爆撃機)だったのよ」

「看護婦さん」

「どうしたの」

「タバコ、もらえるかな」

「もちろんいいわよ」

 看護婦は出ていったかと思うとすぐにプレイヤーズの箱とマッチを手に戻ってきた。一本彼に渡し、彼がくわえるとマッチを擦って火をつけてやった。

「また何か必要なものがあったら、ベルを鳴らしてね」そういうと、出ていった。

 もういちど、午後も遅くなって飛行機の音が聞こえてきた。遠かったが、それでも単発機であることはわかった。だが機種まではわからない。わかったのは高速ということだけだった。スピットファイアでもハリケーンでもない。アメリカの飛行機でもなかった。米軍機はもっとやかましいのだ。機種がわからないことがひどくひっかかった。たぶんおれは調子が悪いんだ。耳がどうかしているんだ。少し意識がもうろうとしているのかもしれない。つめて考えられないんだ。

 その日の夕方、看護婦はお湯を入れた洗面器を持ってやってくると、彼の体の清拭を始めた。

「まあ、ここが爆撃されるかもしれないなんて考えないことね」

 看護婦はパジャマの上着を脱がせると、石けんをつけた浴用タオルで右腕をこすった。彼はそれには答えなかった。

 浴用タオルをお湯ですすぎ、石けんをあらためてこすりつけ、こんどは胸を拭っていく。

「今夜は調子が良さそうね。あなたはここへ運び込まれてすぐ手術を受けたのよ。そりゃもうみごとな手術だったわよ。だからもう安心していいのよ。わたし、RAF(※イギリス空軍)に兄弟がいるのよ」それから言い足した。「爆撃手なの」

「おれはブライトンの学校に行っていたんだ」

 看護婦はさっと顔をあげた。「あら、それは良かったわね。この町にも知り合いがいるでしょうね」

「ああ。大勢知ってる」

 腕と胸を拭い終わると、こんどは上掛けをめくって左脚を出しにかかった。包帯が巻いてある右脚の切断部がシーツからはみ出さないように慎重にとりのけた。紐をほどいてパジャマのズボンを脱がせる。ズボンの右脚も切りとられていたので、包帯も邪魔にならず、簡単に脱ぐことが出来た。左脚と残った部分が始まった。彼にとっては清拭を受けるのはこれが初めてで、きまりの悪さはどうしようもなかった。看護婦は脚のしたに別のタオルをひろげて、浴用タオルを使って洗っていく。
「このひどい石けんったら、ちっとも泡がたちやしない。水のせいね。すごく硬度が高い水なんだわ」

「きょうびの石けんはどれもひどいもんだよ。もちろん硬水となるとどうしようもないね」
そう言っているうちに、脳裏によみがえってくるものがあった。ブライトンの寄宿学校時代の風呂のことを、横長い石造りの浴室に四つ並んでいた浴槽のことを思いだしたのだ。硬度のひどく低い軟水だったから、体から石けんを洗い流すためにあとでシャワーを浴びなければならなかった。お湯の表面には泡がぶくぶくたって、その下の脚など見えなかったこともよみがえってきた。おまけに、ときどきカルシウムの錠剤を飲まされては、校医が繰りかえし、軟水は歯に悪いのだ、と言っていたことまで。

「ブライトンじゃ、水は……」

 彼の言葉は最後までいかないうちに消えた。ふとあることが心に浮かんだのだ。あまりに突拍子もない、馬鹿げた思いつきだったので、一瞬、看護婦に話して一緒に笑おうかと思ったほどだ。

 看護婦は顔を上げた。「水がどうしたの」

「なんでもない。夢でも見てたのさ」

 看護婦は洗面器で浴用タオルをすすぐと、脚の石けんをぬぐい、別のタオルでさらに拭いた。

「洗ってもらってさっぱりした。気持ちがよくなったよ」両手で顔をなでながら言い足した。「ひげを剃りたいんだが」

「それは明日にしましょう。明日になればきっと自分でできるはずよ」

 その夜、彼は寝られなかった。眠れないまま横になってユンカース88のことや水の硬度のことを考えた。意識がそこから離れなかった。あれはJU-88だった、と独り言をいった。それは確かだ。だが、そんなことはありえないんだ、やつらがこのあたりを真っ昼間にあんな低空で飛んでくるはずがない。いくら機種が正しくても、そんなことがあるわけがないんだ。たぶん意識が混濁しているんだ。長い間横になったまままんじりともせずそうしたことを考えていた。一度、ベッドに起きあがって声に出して言った。「おれが気が狂ってないことを証明してやろう。こむずかしい、知性あふれる演説だってできるんだ。演題は戦後のドイツの処分についてにしよう」だがそれを始める前に、彼は眠りに落ちていった。

 窓のカーテンの隙間から朝日が差しこんできたそのときに、彼は目を覚ました。部屋の中はまだ暗かったが、外はうっすらと白み始めている。横になったままカーテンのあいだから洩れる淡い光を見ていると、昨日のことが思い返された。ユンカース88や硬水のこと、大柄で朗らかな看護婦と優しい軍医のことを反芻してみる。一粒の小さな疑惑の種が心のなかで根を下ろし、徐々に成長し始めていた。

 部屋の中を見まわしてみる。看護婦は昨夜のうちにバラを片づけてしまっていて、テーブルには一箱のタバコとマッチ、灰皿があるだけだった。それ以外は何もない部屋だった。ぬくもりも親しさもまるで感じられない。いかにも居心地が悪そうな部屋だ。寒々としてうつろで、ひどく静かだった。

 疑惑の種はゆっくりと成長し、やがてそこに加わったのは不安、おぼつかない、現れては消える不安、脅かされるほどではないけれど、気をつけろ、と警告するような不安だった。ちょうど、人が何かを怖れているときではなく、何かがまちがっていると思うときに感じるような。すぐに疑惑と不安がふくれあがって、じっとしておれなくなり、怒りが湧いてきた。額にふれてみると汗がにじんでいる。何かしなくてはならない、どうにかして自分が正しいかまちがっているかはっきりさせなければ、と考えた。顔を上げると、ふたたび窓と緑のカーテンが目に入った。窓はベッドから正面の位置だったが、そこまで十メートル近くある。どうにかしてそこまで行き、外を見なくては。この考えが強迫観念のようになって、窓以外の一切を押しやった。だが、この脚で? 片手を上掛けの下に差し入れて、分厚く包帯の巻かれた残った部分にふれてみる。右脚で残っているのはそれだけだった。なんとかなりそうだ。痛みはなかった。簡単ではないだろうが。

 彼は上体を起こした。上掛けを脇にやり、左脚を床におろす。じわじわと慎重に体を倒して、床に両手をつけた。ベッドから身を外へ出してカーペットに片膝をつく。脚の残った部分に目をやった。ひどく短く太く、包帯でぐるぐる巻きにされている。しだいに痛み始め、ずきんずきんとしてくるのが感じられた。そのまま突っ伏して、カーペットに横になったまま何もしないでいたかったが、自分が続けなければならないことはわかっていた。

 二本の腕と一本の脚で窓に向かって這った。両腕を可能な限り遠くまで伸ばし、軽く体を浮かせ、左脚をすべらせるようにして腕の近くまで運ぶ。そのたびに傷口は痛んで、うめき声が小さく洩れた。だが両手と片膝で床を這っていくのはやめなかった。窓のところまでくると、敷居に片手ずつかける。ゆっくりと体を持ち上げてから左脚だけで立った。さっとカーテンを開けて、外を見た。

 灰色の瓦屋根の小さな家がぽつんと一軒、細い道のわきに建っていて、そのすぐうしろは耕作地が広がっている。家の前には手入れされてない庭があり、生け垣が庭と道を隔てていた。生け垣を見ているうちに、立て札に気がついた。板きれを釘で短い杭にうちつけただけの立て札は、ちっとも刈り込まれていない生け垣のために、伸び放題の枝に囲まれて、まるで生け垣の真ん中から看板が出ているように見える。白いペンキで何か書いてあって、彼は窓ガラスに額を押しつけて、その文字を読もうとした。最初の文字は "G" だとわかった。二番目は "A"、三番目は "R"。一文字ずつ、苦労しながら文字をたどった。単語は三つ、なんとか判読した文字を、ゆっくりと声に出して綴っていった。"G-A-R-D-E A-U C-H-I-E-N. Garde au chien(※番犬に注意)." それがそこに書いてあることだった。

 片脚でバランスをとりながら、両手で敷居の端をしっかりつかんでそこに立ち、立て札と白いペンキの文字に目をこらした。しばらく何も考えることができなかった。立ったまま看板を見て、その言葉を胸のなかで繰りかえすうち、徐々に、そのことの意味をはっきりと悟った。目を上げて家と耕作地を見る。家の左手には小さな果樹園があり、さらにその向こうには緑の田園が広がっていた。
「ここはフランスだ」彼はつぶやいた。「おれがいるのはフランスなんだ」

 いつしか右の太股がひどくうずくようになっていた。残った部分をハンマーで殴られているような感じで、不意に、あまりに激しい痛みに朦朧としてきて、倒れるかもしれない、と思った。あわてて床に膝をついて這いながら戻ると、ベッドによじのぼった。上掛けを引っ張り上げてすっぽりとくるまり、枕に頭をもたせて仰向けになる。相変わらず、生け垣のなかの小さな立て札と耕作地と果樹園のほかは何も考えられない。とりわけ立て札の言葉だけは、決して頭から去らなかった。



 しばらくして看護婦が入ってきた。お湯を入れた洗面器を持ってやってくると、声をかけてきた。「おはようございます。今日は気分はどう?」

「おはよう、看護婦さん」

 いぜんとして包帯の下の痛みは強かったが、この女には何も言いたくなかった。目をやると、忙しそうに清拭の準備をしている。もうすこし詳しく観察することにした。髪は明るい金髪。背が高く、がっちりとした体格で、にこにこと愛想がいい。だが目にぴりぴりとした色がある。落ち着きがないのだ。視線が片時もひとつところに留まらず、部屋のあちこちをいそがしくさまよっている。動作にしても、どこかそんなところがある。少してきぱきしすぎ、神経過敏な感じが、いかにもなにげなさそうな口調とそぐわない。

 看護婦は洗面器を置くと、パジャマの上着を脱がせて、彼の体を拭き始めた。

「よく寝られた?」

「ああ」

「それはよかった」そういうと、腕から胸にかけて拭いていく。

「朝食後に空軍省のだれかが面会にいらっしゃるそうよ」と彼女は続けた。「報告だかなんだかが必要なんですって。どういうことかあなたの方がよくわかってるわよね。どうやって撃たれたか、とかそんなことでしょ。そんなに長い時間、いさせないようにわたしがしておいてあげるから、心配しないで大丈夫よ」

 彼は返事をしなかった。看護婦は清拭をすませると、彼に歯ブラシと歯磨き粉を渡した。彼は歯を磨き、口をすすいでから洗面器に吐き出した。

 そのあと看護婦はトレーにのった朝食を持ってきたが、彼は食べたくなかった。体に力が入らなかったし、気分も悪く、できることならじっと横になって、これまでに起こったことをよく考えたかった。あるせりふが頭の中をかけめぐる。同じ中隊に所属する情報部員のもので、彼は毎日出動前の飛行士たちに繰りかえし、言い聞かせていたのだった。いまでもそのジョニーの姿、パイプを手に、分散飛行待機所の壁にもたれて話をしているところが目に浮かぶ。「で、もしやつらにつかまったらな、いいか、忘れるんじゃないぞ、名前と階級と認識番号だけだ。そのほかは何も言うな。絶対に、それ以外のことは言っちゃだめだ」

「はい、どうぞ」看護婦はトレーを彼の膝の上にのせた。「卵を持ってきてあげたわ。ひとりで大丈夫?」

「ああ」

 看護婦はベッドの傍らに立った。「気分は悪くない?」

「悪くないよ」

「なら結構。卵がもうひとつほしかったら、取ってきてあげるけど」

「これで十分だ」

「なら、何かしてほしいことがあったら、ベルを鳴らしてね」そう言うと、彼女は出ていった。

ちょうど食べ終わったごろに、看護婦がまた戻ってきた。

「ロバーツ空軍中佐がいらっしゃいました。四、五分だけなら、って言ってありますからね」

彼に向かって手で合図すると、こんどは空軍中佐が入ってきた。

「休んでいるところを申し訳ない」

 ごく普通の英国空軍士官で、少しくたびれた軍服には空軍記章と空軍殊勲十字章がついていた。かなりの長身で痩せており、黒髪がふさふさとしている。歯は不揃いで隙間があいていて、口を閉じても歯が少しはみ出していた。話しながらポケットから印刷された用紙と鉛筆を取り出して、椅子を引き寄せ、腰をおろした。

「気分はどうかね」

返答なし。

「脚のことは運が悪かったな。気持ちはわかるよ。撃たれる前にたいそうな戦いぶりを見せてくれたそうじゃないか」

 ベッドの男は静かに横たわったまま、椅子に坐った男をじっと見つめた。

 椅子の男は言った。「それじゃ、こいつを片づけることにしよう。戦闘報告に記入しなきゃならんので、面倒だろうがいくつか質問に答えてもらいたい。さて、と。最初に、きみの所属部隊は?」

 ベッドの男は身じろぎもしなかった。空軍中佐を直視したまま答えた。
「氏名、ピーター・ウィリアムスン。階級。空軍少佐。認識番号972457」





The End



戦争という非日常


その昔、ロアルド・ダールはずいぶん読んだので、"Beware of the Dog" も、てっきり読んだとばかり思っていた。そんなある日、この作品でよくわからない点がある、とメールをいただいたのだった。

Classic Short Storyにあることは知っていたので、すぐに読んでみた。質問箇所はすぐにわかったのだが、話のオチがわからなかった。どこにオチがあるんだろう。

わたしと同じように思った人間は少なくなかったらしく、このサイトにある掲示板(英語)にも、この話のポイントがわからない、という質問が出ていた。

すべて夢だ、とするものなどさまざまな解釈を読みながら、しだいにわたしは気がついた。これをダールの作品だと思うから、アッと驚くような「オチ」を期待してしまう。だが、これは戦争文学として読むべきなのだ、と。

実際、敵の捕虜になるというのは、それだけでものすごい恐怖だろう。しかも主人公は片脚を失うという重傷を負っている。

敵は自分を欺き、そこが捕虜収容所ではないふうを装っている。それに気がついた主人公は、ある意味、目覚めた場所が収容所であったと気がつくよりも、いっそうの恐怖を味わったことだろう。一体何のために彼らはこんなことをしているのか。

おそらくここはイギリスの病院と偽って、イギリスの負傷兵から情報を聞き出すことを目的とした施設なのだろう。看護婦も、医者も、「空軍中佐」も「番犬」なのである。主人公が偶然に見かけた看板の「番犬に注意」の言葉が、ドイツ戦闘機のエンジン音、硬水といった些細な手がかりを寄せ集める「啓示」となったのである。

だが、それにしても「捕虜になった」と気がついた主人公の恐怖に思いいたらず、主人公が、自分は敵の手のなかにあるのだと気がついたことは理解できても、ほかに「オチ」を探してしまう自分はつくづくどうしようもないな、と思ったのだった。いくら、ダールの短編、という先入観があったにせよ。

もちろんこの作品には、のちのストーリー・テラーらしい、語り口の巧みさ、簡単な描写でその人の全体を浮かびあがらせていく技術はすでにあらわれているのだけれど、それ以上に、この作品には、ダールという人はこんなふうにリアルな恐怖を体験したのだ、とうかがわせる側面が印象深い。だからこそ、のちの作品が、人の生も死も掌の上で転がしているような印象を受けるのだな、と思うのだ。

爆撃手として、空爆を行った経験。実際に撃たれ、墜落して頭蓋骨骨折という重傷を負った経験。ダール独特のペシミスティックな人間観の裏には、こういうものがあったのだ。

なぜ戦争なら人を殺していいのか。
ダールの作品では、人はしばしば実にあっけなく死んでいき、わたしたちはその死にあっと思ったり、思わずニヤリと笑いを誘われたりもするのだが、それもダールによるその問いに対する逆説的な答えだったのかもしれない。

都市に対して無差別爆撃を加えている爆撃手から見る人間は、どうしてもそう見えるのだ、と。
記号のように、まるで書き割りの中で芝居をする操り人形のように。
そうでなければ、空爆などできないのだ、と。

そういう体験は、わたしには限りなく恐ろしいもののように思える。

初出April.17-23 2007 改訂April.25, 2007

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