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伴走者として

もう一歩、深く知るようになって
― U2 "One Step Closer"


ドラえもん


中学のとき、好きな先生がいた。
わたしはこの先生に、冬樹社版の『坂口安吾全集』を借りて、一冊ずつ全巻を読んでいったのだ。
歴史小説や王朝もの、推理小説、捕物帖などはおもしろくても、わけのわからない小説もたくさんあったし、『堕落論』などはちっともピンとこなかった。それでも咀嚼できようができまいが、ひたすら文字を追い、ページを繰った。
巻によっては、まだ開いた痕跡さえなくて、真新しいページをぱりぱり音をさせながらめくったこともあった。そういうときは、本を読む前に手を洗い、クロス張りの表紙を覆うパラフィン紙に指の跡をつけないように緊張しながら読んだものだ。

授業が終わると教壇に近寄っていって、読み終わった本を返す。
どれだけのことが言えたのだろう。それでも、お礼と一緒に、どれがおもしろかった、どれはよくわからなかった、などと言っていたのだと思う。

そんなある日、思い立って放課後、先生のところへ行った。
日々感じていた周囲との齟齬や、将来に対するばくぜんとした不安のようなものを話したかった。
自分はどうしたらいいんだろう。
自分に何ができるんだろう。
ほかのだれもわかってくれなくても、この先生ならわかってくれる、という期待も、どこかにあったのだと思う。

自分がどういったふうに話をして、それに対して、どのように答えてもらったのか、いまはもうまったく覚えていない。ただ、ごくごくありきたりの、当たり障りのない返事をもらって、ああ、やっぱりわかってもらえなかった、と、ふたがれたような胸をかかえて教官室を出て、渡り廊下を歩いていると、薄いグレーの雲が、まるで手を伸ばせばつかめるほど低くたれこめていたことを覚えている。

それからずいぶん時が過ぎ、さまざまな出来事があり、また本を読み、あるいは多くの話を聞いてきた。
そうしながら気がついたことがいくつかあった。

そのひとつが、「いい話」「感動する話」をするのは、それほどむずかしいことではない、ということである。

困難を抱えていたり、行き詰まっていたりする人に、「正論」を言うことは、むしろ簡単なことだ。
人の悪いところはよく見える、という。
あなたのこういうところがまちがっている、あなたはこうすべきだ、と、指摘する。
なるほど、それはまったくその通りでもあるのだろう。

けれども、その人が、無関係の第三者から見て「誤った」選択をしてきたのも、それなりの必然があったのだ。さまざまな要素があって、その結果として、いくつかの選択を続けていき、そうやってそこにたどりついていったのだ。

ところで、『ドラえもん』の基本的なストーリー展開をごぞんじだろうか。
のび太がいつも困った状況を回避しようと、ドラえもんに秘密道具を出してくれるように頼む。ところが、最初は役に立つように思えたその秘密道具も、やがて事態をいっそう混乱させることになる。そうしてエントロピーが最大値になったところで、たいていの物語は終わるのだ。

なぜドラえもんの秘密道具は事態を打開できないのか。
それは、「秘密道具」は事態を引き起こしている根本的な原因に、一切関与していないからだ。
通常「困ったこと」として表面化する、たとえば「寝坊して遅刻した」「宿題をやっていくのを忘れた」「テストで0点を取った」という事態を解決するための道具は、あくまでもその場限りのもので、その場こそ取り繕えても、それ以上の効果は望めない。
たとえば「真実の旗印」という道具は、その旗を背中に背負っていれば、どんなことをいってもそれが正しい、ということになる。そうやってのび太君はお母さんに「0点が一番いい点なんだよ」と言いくるめ、納得させることには成功するのだけれど、その調子でいろんな相手を言いくるめ続けていたら、突然風が吹いてきて、その旗が折れて……ということになるわけだ。

つまり『ドラえもん』というマンガは、子供にはそのおもしろい道具を見せておきながら、自分で解決しなければ、結局は大変なことになるのだよ、と教えている、大変に教育的配慮の行き届いたマンガなのだ。

そうして、いわゆるアドバイスというのも、このドラえもんの秘密道具とどれほどちがうのだろうか、と思うのである。
アドバイスをする人間は、あたりまえだけれど、行き詰まったり、困難を抱えたりしている人間と同じ位置に立っているわけではない。
困難を抱えた人間が、その位置から問題を取り出し、「原因」をこれまでの状況全体から取り出すのを聞いて、判断しているのにすぎない。
もしかしたら、その問題の立て方自体がまちがっているのかもしれないし、もっと多くの要因が複雑に絡み合って「原因」となっているのかもしれない。

そういうことは、アドバイスをする人間には決してわかることではないのだ。

わたしたちが日々生きている状況は、決して「あれがああしてああなって、それがそうしてそうなって、その結果、これがこうしてこうなった」という具合に起きているのではない。
それは、あくまでも日々の生活のなかから「かくかくしかじか」を「出来事」として取り出し、始めと終わりを持つ「物語」として考えるからにほかならない。

「自分はこんな問題を抱えている」と考える人も、最初はあくまでも、ばくぜんと、「何かヘンだな、うまくないな」程度の感覚を覚えていたにすぎない。そこから自分の日々の生活を振り返って、問題を抽出し、物語の形で理解するようになったのだ。

そうして、これをだれかに話す。
けれども、話す時点で、すでに物語となっている、ということは、始まり(原因)と終わり(結果)がその物語に含まれているわけで、もうその時点でそうなった事態の原因をその人は把握しているのだ。はっきりと気がついているかどうかはともかく。
あるいは、その「物語」が、どこまでその人の「生きにくさ」を軽減できるかどうかはともかく。

だから、その話を聞いた人が「原因」を簡単に見つけだせるのは、あたりまえの話なのである。推理小説を読んで「犯人が分かる」のと一緒なのだ。

わたしたちを取り巻く日々は、決して「物語」としてものごとが起こるわけではない。「原因」は、あくまでもわたしたちの「解釈」にすぎない。

そうしてなによりも、「解釈」は解釈に過ぎず、事態を打開するのは、その人の行動によってでしかない。「こうしたらいい」からといって、ほかの人間が代わりにしてやることはできないのだ。

もちろん、その人の日々の暮らしぶりとして、端から見ていてあきらかにそこがおかしい、と指摘できる点もある。けれども、その「おかしい」選択を必要とした状況を変えずに、おかしいところだけを直させたとしても、それはドラえもんの「正義の旗印」を使うことと変わらない場合だって十分にありうる。その「アドバイス」どおりにしたことが、事態を一層混乱させることだってあるだろう。そんなとき、アドバイスをした人間は、そうなったことの責任が取れるのだろうか。

そういうことを考えると、端の人間に言えることというのは、ごく一般的な、当たり障りのないこと以上ではなくなってしまうのだ。

いっそ、一般的な当たり障りのない話なら、困難を抱えた人間とは直接には関係のない「いい話」「元気が出る話」「勇気が出る話」をすることだってできる。
自分がうまくいった話。
困難な状態にあった人が、それをはねのけた話。
苦労しながら頑張り抜いた人の話。
それを聞いた人は、それを聞いて、よし、自分も頑張ろう、と思うかもしれない。

けれども、そう思わないかもしれない。
そんなことを思える状況にはないかも。
そんなことは、端の人間にわかることではないのだ。

どこまでいっても、自分の問題を解決できるのは、自分しかいない。
困難な状況を、「何が問題なのか」「どこに問題があるのか」という形で整理できるのも。
この状況の「原因」が、どこにあるのか、と見極めることができるのも。
どうしたらいいか、あるいは解決を妨げている何ものかがあるのか、ということも。
結局は、その人が自分で見つけるしかないのだ。

なのに、聞いた人間は、どうしてそこから「アドバイス」をしてしまうんだろう。
それは、他人のものであっても、好ましくないニュースを聞きたくないという心理があるからではないのだろうか。

昔の女王の誰かは、悪いニュースを持ってきた家来の首を刎ねた、というのを何かで読んだ記憶があるのだけれど、首を刎ねることまではしなくても、わたしたちは悪いニュースはできれば聞きたくない、と思っている。愚痴を言う人間はきらわれるし、体の調子が悪い、と聞けば「早く病院へ行った方がいいよ」という。つまり、好ましくない状態は見たくないし、聞きたくないし、関わりたくないのだ。

困難を抱えていたり、行き詰まったりしている人を見ると、その状態をさっさとなんとかしろ、と思う。だから、こうしたほうがいい、ああしたほうがいい、と「アドバイス」をしてしまう。

たまに「あなたのためを思って言ってあげてるんだから」などという人までいるけれど、それは二重の意味で、嘘だ。
ひとつには、たとえその通りにしたところで、それが「あなたのため」になるかどうかは、だれにも決してわかることではない、という意味で。
もうひとつは、先にもいったように、ほんとうはただ「悪いニュース」を聞きたくない、それをやめさせるために「アドバイス」をしている、という意味で。

ならば、アドバイスをする代わりに、相手が言うことを、すべて「ごもっとも」「その通り」「あなたは悪くない」というのはどうなんだろうか。

わたしには、それも「もういい加減にしろよ」と言っているのと同じのように思えてしまう。
つまり、「こうしたほうがいい」にしても、「あなたは悪くない」にしても、聞き手が結論を出してしまっていることには変わりはないのだ。

繰りかえしになるけれど、聞いている側は、状況がわからない。たとえ相手のことを相当に知っていたところで、当事者と同じ位置には決して立てない。そうして、問題の解決に向けて行動を起こすこともない。

もうひとつ言ってしまえば、生きている限り、ほんとうの意味で問題が解決することなどはあり得ないのだ。
状況は変わるかもしれない。以前の状況から引き起こされた問題には、とりあえずケリがつくかもしれない。けれど、それは単に一種の「平衡状態」にすぎない。
新しい状況では、かならずまた新しい問題が浮上してくる。その問題は、平衡状態に達するまで続いていく。

総決算も、逆転サヨナラホームランも、生きつづける限りはあり得ない。
だれもがたったひとりの当事者として、自分の問題を抱えていくしかない。

そんなわたしたちは、どうやって他者と関わることができるのだろう。
大切に思い、また力にもなってあげたい相手と、どうやって関わったらいいのだろう。

ここでもそのヒントをくれるのは、『ドラえもん』だ。
おそらく、ドラえもんがのび太の助けになっているとしたら、それは、ドラえもんが「そこにいる」という一点においてだ。
ナイフで自分の指を切り落としてしまいかけるような中学生の「坊ちゃん」に、清がいたように。

もしわたしたちが他者の何らかの助けになることができるとしたら、それはおそらくそういうあり方しかないような気がする。

たとえ、あなたがどういう状態にあっても、自分はここにいるから、と。
どういうことになっても、逃げないで、ずっとここにいてあげるから、と。
そういうサインを送り続けること。

これは、簡単なようで、実はものすごく大変なことであるように思える。
これを超える他者との関わり方、というのを、わたしは思いつかない。

初出Sep.17 2006 改訂Sep.20 2006

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