home翻訳「くじ」>ある物語の顛末


ここでは Shirley Jackson が1960年に行った講演 "Biography of a Story"の翻訳をやっています。
1948年、雑誌「ニューヨーカー」に発表された短篇小説「くじ」は、今日ではちょっと想像がつかないほどの大騒動を引き起こしました。それから十二年の歳月を経て、ジャクスン自身が「くじ」という作品が生まれた背景や、雑誌に載ってからの騒ぎの一端を、当時を振り返りつつ語ったものが、この講演です。
原文は、ジャクスンの死後、夫で文学批評家のスタンレー・ハイマンが編んだ遺稿集 "Come Along With Me" に所収されています。



ある物語の顛末


by シャーリー・ジャクスン



 1948年6月28日の朝、わたしはヴァーモント州にある、小さな町の郵便局まで、歩いて郵便物を取りに行きました。

いまにして思えば、そのときのわたしは、まったくのんきなものでした。郵便箱にあった二通の請求書と一通か二通の手紙を取り出して、局長としばらく立ち話をしてから郵便局をあとにしたのですが、このときを最後に、それから数ヶ月間というもの、平静な気持ちで手紙を開封できなくなるとは、夢にも思いませんでした。翌週には、郵便箱を局内最大のものに取り替えなければならなくなり、局長との世間話などもってのほかでした。というのも、局長はもはやわたしには口をきいてくれなくなったからです。

1948年6月28日は、わたしの小説が掲載された「ニューヨーカー」の発売日でした。その短篇は、わたしの作品のうちで最初に世に出たものでもなければ、最後でもなかったのですが、それから先、わたしは幾度となくこう言われたものです――仮にあなたがこの一作しか書かず、出版されることもなかったとしても、世間は決してあなたの名前を忘れることはないでしょう、と。

 わたしがその物語を書いたのは、さかのぼること三週間前、夏の到来を思わせる、陽射しが明るく降り注ぐ朝のことでした。空はどこまでも青く澄み、日の光も暖かく、天からの警告――朝、何の仕事をしてもかまわないが、新しい話を書くことだけはやめなさい――も聞こえて来ませんでした。

アイデアが訪れたのは、娘を乳母車に乗せて坂道をのぼっているときのことです。先にも言ったように、朝といってもいささか暑い日でしたし、坂は急、しかも乳母車には娘のほかにその日の食料品まで積んでありました。おそらく、坂道を上りきる最後の50メートルの苦しみが、物語にいくばくかの棘を与えたのにちがいありません。

ともかく娘をベビーサークルに入れ、冷凍野菜をフリーザーに片づけたころには、アイデアは頭の中ですっかりできあがっていたので、ひとたび書き始めるや、ペンはなめらかに滑り出し、最後まで止まることがありませんでした。実際、あとで読み返しても、細かな箇所をひとつかふたつ手直ししただけで、書き直す必要がなかったのです。タイプで仕上げて、翌日エージェントに送った作品は、およそ細部に至るまで、最初の草稿とほとんど変わらないものでした。

おそらくどの作家も賛成してくれるでしょうが、こんなことはめったに起こるものではありません。わたしにわかっているのはただ、書いたものを読み返してみたときに、この話はいじりまわさない方がいい、と強く感じたということだけです。何も、非の打ち所のない作品だと言いたいわけではないのです。ただ、もういじらない方がいいと思った。まじめでてらいのない作品だと思ったし、すらすらと書けたことがうれしくもあり、同時に意外でもありました。悪くないできばえだ、という自信もあったので、エージェントがどこかの雑誌に売ってくれて、出版してもらえればいいなあ、と思いました。

 わたしのエージェントはその作品をあまり気に入ってはくれませんでした。それでも――当時、彼女がくれた手紙によれば――自分の仕事は売ることであって、好きになることではない、と考えたようです。彼女はすぐに「ニューヨーカー」に送り、書き上げてからほぼ一週間後、わたしは「ニューヨーカー」のフィクション部門の編集者から、電話を受けとりました。編集者もその作品を気に入っていないのは明らかだったのですが、「ニューヨーカー」は買うことにしたようでした。

ただ、編集者は一箇所、訂正するように言ってきました。物語のなかでふれられる日付を、作品が掲載される号の発行日に変えることはできないか、というのです。わたしは、かまいませんとも、と答えました。

それから彼は、先生はこの作品について独自の見解といったものをお持ちでしょうか、と、ためらいがちに聞いてきました。当時、「ニューヨーカー」の編集長だったハロルド・ロス氏も、この作品を完全に理解しているかどうか、確信が持てずにいる、というのです。そこでわたしに、この作品についてさらに詳しく解説してもらうことはできないか、と持ちかけてきたのです。わたしは、お断りします、とだけ答えました。

編集者によれば、ロス氏は、この作品に頭を悩ませる読者が出てくるかもしれないと考えているようでした。さらに、ままあることなのだそうですが、誰かが内容について、雑誌社に電話で問い合わせたり、手紙を寄越したりするかもしれない、そのとき、これだけは言っておきたいという点があるか、と重ねて聞いてきました。いいえ、特にありません、とわたしは答えました。これはわたしが書いた、ただの物語なのですから、と。

 わたしにはその言葉以上、何の心づもりもしていませんでした。毎日、郵便物を取りに行き、娘を乗せた乳母車を押して坂を昇ったり降りたりし、「ニューヨーカー」から届くはずの小切手を楽しみにし、食料品の買い出しに出かけました。天気の良い日はなおも続き、すばらしい夏になりそうでした。そうして6月28日、わたしの作品を掲載した「ニューヨーカー」が発売されたのです。

 幕開けはごく穏やかなものでした。「ニューヨーカー」で働く友人から手紙が来たのです。彼は「あなたの作品は、社の内外で、ちょっとした騒ぎを引き起こしているみたいです」と書いていました。わたしはうれしくなりました。友だちが自分の書いたものに注目してくれるなんて、と思うと、気分が良かったのです。

その日、手紙のあとで「ニューヨーカー」の編集者も電話をくれました。作品について数人の読者が電話を寄越してきた、これから先、もし同様の電話があった場合、作者として伝えておかなければならない点はないか、と聞いてくるのです。ありません、とわたしは言いました。ただの物語にすぎないのですから、と。

 さらに別の友だちから来た不思議な手紙は、わたしをいっそうとまどわせるものでした。「今朝、バスの中で、あなたの作品のことを話している男性がいました」と彼女は書いていました。「なんてステキなこと。わたしはその人に、作者を知ってるんですよ、と言おうかと思いました。でも、その人の話の中身を聞いてしまってからは、何も言わなくて良かった、と思いました」

 作品や本を世に送り出す上で、何より恐ろしいのは、自分の書いたものを人が読む、それも、見ず知らずの他人がそれを読むとはどういうことなのかを、はっきり思い知らされることにあります。ところがわたしときたら、それまでそれがどういうことなのか、およそ理解してはいなかったのです。もちろん、何百万という人びとが、わたしの作品を読んで高揚し、心が満ち足り喜んでくれるところを夢想して、うっとりすることはあったのですが。

ところがその何百万人が、元気を出す代わりに、腰を下ろしてわたしに手紙を書く、それも、開くのも恐ろしい手紙をよこすようになるとは、夢にも思いませんでした。その夏届いた三百通余りの手紙のうち、わたしに好意的だったものは、たったの十三通、しかもそのほとんどは、友人からでした。母でさえ、叱責の手紙をよこしたのです。

「お父さんもわたしも、『ニューヨーカー』に載ったあの小説は、どうにも好きにはなれませんでした」と容赦なく言ってきました。「なんだか最近の若い人たちときたら、こんな陰気な話ばかりが頭にあるみたいですが。どうしてみんなの気持ちを前向きにするようなものを書かないのでしょう」と。

 七月も半ばになると、わたしはヴァーモントで安全に暮らせているだけでも、運が良かったのだ、と思うようになっていました。こんな小さな町では誰も「ニューヨーカー」という雑誌の名前など聞いたこともなかったし、まして、わたしの作品を読んでいる人などいなかったからです。何百万という人びと、加えてわたしの母が、わたしに対する嫌悪を表明しているというのに。

 雑誌社では、通話記録は残していなかったのですが、雑誌社気付けで届くわたし宛ての手紙は、こちらで返事が出せるよう、すべて転送されてくることになっていました。「ニューヨーカー」宛ての手紙(そのいくつかは、編集長ハロルド・ロス氏個人に宛てられたものでしたが、その種のものがほかのどれより憎悪に満ちていました)には、雑誌社の方で返事を出し、その返事のコピーに元の手紙を添えて分厚い束にして、わたしの元へ届けられました。わたしはいまでも手紙をすべて保管していますが、もしこれが「ニューヨーカー」の読者を代表するサンプルであるなら、というか、その号に限っての読者大衆のサンプルであったとしても、わたしは即座に書くことそのものを断念したにちがいありません。

 手紙から判断するなら、小説の読者というのは、何でもすぐ真に受ける人びとであり、無作法で、しばしば無教養で、しかも笑われることをことのほか怖れているようでした。差出人の多くは、「ニューヨーカー」が誌上で自分たちをバカにしようとしたのだ、と確信していて、なかでも警戒心に満ちた手紙は、大文字で 〔公開を禁ず〕 とか、〔この手紙を雑誌に転載しないでください〕 とか、きわめつけは 〔この手紙を公表するに当たっては、御社規定の原稿料をお支払いください〕 などと書かれていたのです。匿名の手紙も二、三混ざってはいましたが、それは破棄されることになりました。

それまで「ニューヨーカー」は掲載作品に対して、いかなる論評も加えることはなかったのですが、そのときに限っては一度、これまで掲載したどの作品より大きな反響があったことを明らかにしました。すでに新聞が数紙、同様のことを書いていました。真夏の頃、「サンフランシスコ・クロニクル」は一面で、この物語の意味するところを教えてほしいものだ、と書いたし、ニューヨークやシカゴの新聞は、一連のコラムの中で「ニューヨーカー」の定期購読が続々とキャンセルされていることを報じました。

 おもしろいことに、夏の初めに来た手紙には、特徴的な三つのテーマがありました。当惑と、推測と、昔ながらの罵詈雑言、この三つの共通点を持っていたのです。後年、この作品がさまざまなアンソロジーに所収され、戯曲化されたりテレビ化されたり、さらには原形を留めぬほど、不可思議な改変を経てバレエにまでなったりするうちに、わたしの元に届く手紙の調子が変わってきました。概して言葉は礼儀正しくなり、その内容は、おもに質問に限られるようになりました。たとえば、この物語は一体何を意味しているのか、といったことです。

初期の手紙からは総じて、ショックのあまりに目をまん丸くして、無邪気に驚いている人びとの様子がうかがえました。その頃、人びとの頭を占めていたのは、この物語が意味するところなどではなかく、もっぱら、いったいどこでこうしたくじ引きが行われているのか、そこへ行けば自分も見物できるのか、といったことでした。一部を引用しますので、その声に耳を傾けてみてください。

【カンザス】 この風習が見られる場所・年をご教示ください。

【オレゴン】 この話に出てくる野蛮な風習は、いったいどこで行われているのでしょうか。

【ニューヨーク】 このような裁きの儀式が未だに存続しているのでしょうか。だとすれば、どこに?

【ニューヨーク】 この国(おそらくこの話の舞台はアメリカ合衆国であると思われます)のさまざまな場所で行われている伝統的儀式については、限られた知識しか持ち合わせていない読者にとって、ここに描かれた儀式の残酷さは、信じられないとまでは言えないにせよ、はなはだ常識を外れているように思えます。おそらく単にわたしがこうした風習や儀式に疎いだけのことなのでしょうが。

【ニューヨーク】 こうした信じがたい儀式が、中西部のいくつかの州では行われているのでしょうか。いったいいつぐらいから始まったもので、その目的は何なのでしょう。

【ネヴァダ】 この作品はフィクションだとは思いますが、もしかして事実に基づいてるなんてことがあるんでしょうか。

【メリーランド】 ここに出てくる風習が実際に存在するかどうか、教えてください。

【ニューヨーク】 どうかわたしの好奇心に答えを与えてやってください。このような儀式が未だに行われているかどうか、行われているのなら、その場所について。

【カリフォルニア】 これが事実に基づいているのなら、由来となった出来事が発生した日時と場所を教えていただけませんか。

【テキサス】 合衆国のどの地方で、このような組織的かつ合法的な、明らかにリンチと見なされる行為がなされたのか、さしつかえなければ教えていただきたい。ニューイングランドや同程度に開けた土地において、このような集団的サディズムの発露が、平均的市民の生活のかなめになっていることが、はたしてあるのだろうか。

【ジョージア】 お時間がありましたら、この作品で描かれた奇妙な風習について、どうかもっと詳しく教えてください。

【ブルックリン N.Y.】 この作品のもとになった出来事や言い伝えに関する特定の資料、もしくは典拠があるのなら、勉強してみたいと考えています。この作品を読んで、合衆国の儀式やくじに関して自分が何の知識も持っていないことがわかって、刺激を受けました。

【カリフォルニア】 もしほんとうに起こったことなら、記録が残っているはずです。

【ニューヨーク】 こんな話は『事件の真相』誌でも読んだことがない。

【ニューヨーク】 これは実際に起こったことにもとづいているのですか? 豊作を祈願して、人間を生け贄にするようなならわしが、英国の田舎ではまだ続いているのですか。恐ろしい思想ですね。

【オハイオ】 この作品は事実にもとづいているのだと思います。そうではありませんか? 精神分析医として、わたしはこの時代錯誤的儀式のもつ精神力学的可能性について、興味をそそられました。

【ミシシッピ】 この作品は、わたしがまったく知らなかった風習のことを書かれていたように思います。

【カリフォルニア】 かなり前、こんな風習がフランスのある地方で、ある時代に行われていたと読んだ記憶があります。けれども、これがこの合衆国でも実施されていたとは、聞いたことがありませんでした。このような情報をどのようにして得られたのでしょうか。また、この種のことが、現代においても行われているかどうか、教えていただけないでしょうか。

【ペンシルバニア】 いまも続いている習慣を描かれたのですか。

【ニューヨーク】 豊穣祈願のために人身御供を捧げるところがニューイングランドにはいまなお存在しているのですか。

【ボストン】 この話は明らかにイギリスのならわし、もしくは伝統であって、我が国は一切関知しないものである。

【カナダ】 このくじ引きは、合衆国で未だに受け継がれている、おそらくは中世あたりに端を発する野蛮な行事と考えてかまいませんか。国内のどこで行われているのでしょうか。

【ロスアンゼルス】  これまで奇妙なカルト的集団についても読んできたが、この作品には当惑させられた。

【テキサス】 このグループは、おそらくイギリスから来た初期入植者の末裔ではないでしょうか。彼らはドルイド教の豊作祈願の儀式を受け継いでいるのではありませんか。

【ケベック】 これはアメリカのどこかでいまなお行われている習慣なんですか。

【ロンドン在住 心理学者】 私は英国の友人や患者たちから説明を求められています。合衆国では野蛮な石打ちの刑がいまなお存続しているのか、この作品全体として、いったい何を言おうとしているのか、さらに、どこでこの事件が起こったか、知りたがっています。

【オレゴン】 合衆国のどこかには、わたしたち極西部に住む者の知らない魔女の業の名残りが未だ存在するのでしょうか。

【インド マドラス】 この作品が事実にもとづくものなのかどうか、もしそうなら、この中で描かれているように、ある家族をくじ引きによって選びだし、ほかの村人が石打ちの刑を執行するという風習が、合衆国のどこかにいまなお残っているのかどうか、知りたいと思います、『ニューヨーカー』は我が国でも、私共の勤務しておりますUSIS図書館にて読まれており、未だこの作品についての問い合わせはないものの、そのことは起こりうる事態として想定されます。回答できるように準備をしておきたいと考えております。

【イギリス】 申し訳ありませんが、わたしには年に一度、人身御供を選び出すような国があることを想定することができません。率直に言わせていただきますが、合衆国といえど、そのようなことが起こりうるとは、信じられません。少なくとも、リンチを生業とするような法人組織や、全米葬儀社連合といった強力な組織がスポンサーなしには。わたしはかつてラオス(インドシナ)中央部のある原始的部族から、赤ん坊を供物として捧げられたことがありますが。通訳(中国人)は、わたしがその赤ん坊を殺して、血に対する欲望を満足させ、ほかの部族民に対しては、手出しをしないよう、ということだと教えてくれました。どうか合衆国では決してそのようなことが起こっていませんように。

 さきほども述べたように、もしこれが一般読者のサンプルだとしたら、わたしは執筆などとうにやめていたでしょう。当時、わたしは日に十通から十二通の手紙を家に持ち帰り、「ニューヨーカー」から週に一度、小包が届いていたのですが、その中に一通、ほかのどの手紙にも増して、わたしを悩ませた手紙がありました。

それはカリフォルニアから来た手紙で、ごく短い、楽しげでざっくばらんな調子で書かれていました。差出人は、自分の名前や評判は、当然わたしも知っているものと思っているようでしたが、わたしにはその名前に心当たりがなかったのです。返事を書く前に、何とかその人を思い出そうと、数日頭を悩ませました。名前を思い出しかけては、するっと滑り落ちてしまうのは、どんなときでもいらだたしいものですから。

おそらく最近この人の本を読んだか、書評を読んだかしたのだろう。それとも雑誌の最新号で小説を読んだのかもしれない。もしかしたら――そもそもわたしはカリフォルニア出身ですから――高校の同窓生じゃないかしら、と。ともかく返事は書かなければなりませんから、何か当たり障りのない外交辞令を並べておくことにしました。

返事を出して数日が過ぎたある日のこと、わたしと同じく、カリフォルニア出身の友人が数人、遊びに来ました。そうして、その頃、誰もがわたしに聞いてきた質問をしたのです――最近、どんな手紙をもらった?

そこでわたしは例の、どうしても思い出せない謎の差出人の手紙を見せました。みんなが、あら、まあ、と言います。あなた、ほんとうにこの人から手紙をもらったの? と。

誰か教えて、と、のどから手が出そうな勢いでわたしは聞きました。この人はいったい誰なの?

あらあら、どうしてこの人のことが忘れられるのよ。もう何週間も、カリフォルニア中の新聞に載ってたじゃない。それに、ニューヨークの新聞にだって。

その彼は、妻を斧で斬殺したあげく、かろうじて謀殺罪だけはまぬがれた人物だったのです。冷汗が背筋を伝わるのをはっきりと感じながら、わたしは彼に出した手紙のカーボンコピーを探しに行きました。

「わたしの作品に好意的な手紙をくださってどうもありがとうございます」とわたしは書いていました。「あなたのお仕事も、大変にすばらしいものと尊敬しております」と。


 さて、このような手紙に共通するテーマの二つ目を、わたしは推測と呼んでいました。机に向かって、この作品の意味や、これを書いた理由をあれこれ考えた人たちが、自説を得々と披露していたり、この物語はおよそ意味などないという見解を聞かせてくれたりする手紙です。

【ニュージャージー】 おそらく作者が単にこんな悪夢を見たというだけのことですね。

【ニューヨーク】 これって本気にしてほしいだけなんでしょう?

【ニューヨーク】 唯一の目的は、読者に不快な衝撃を与えることにあったのですね。

【カリフォルニア】 作者はこの作品を通して、我々の社会を通底する、みずからの攻撃性をマイノリティに対する偏見を媒介させて解放しようとする論理に対し、スケープゴートを選ぶという、現行の論理と同様に合理的な(もしくは、さらに合理的ともいえる)論理を対置させようと挑戦を試みている。被害者を選び出す上での完膚なきまでに恐ろしく、血も凍るような方法は、我々の心の奥底に潜む敵意を処理するやり方の写し絵なのである。

【ヴァージニア】 この作品に対する疑問点を列挙しようとしたのですが、わたしにとってそれは、未知の言葉で話そうとするに等しいことがわかりました。たったひとつ、わたしの頭に浮かんだことは、作者は、わたしたちが大統領候補者に対して、あまりに厳しい見方をすべきではないと言いたかったのではないか、ということです。

【コネティカット】 「ニューヨーカー」は知的悪ふざけという編集方針を、今後も引き続き採用していくつもりなのでしょうか。

【ニューヨーク】 そんなに有名になりたかったのか?

【ニューオーリンズ】 みんながかわいそうに怯えきった犠牲者を石打ちの刑にする前に、せめてその日の女王にしてやるとか、何かいいことをしてやればよかったと思う。

【ニューヨーク】 一般大衆とコミュニケーションを求める人は、少なくとも正気でなくては。

【ニュージャージー】 以前、わたしはこれを夢に見たことがあり、そのとき感じた気分は、この作品の催眠効果の一部なのかどうか、教えていただけますか。

【マサチューセッツ】 あわてて甥っ子の百科事典に飛びつき、謎を解く鍵はないかと「石打の刑」や「罰」について調べたのですが、何の役にも立ちませんでした。

【カリフォルニア】 これは単なるフィクションなんですか? どうしてこんなものを掲載したんですか? たとえ話なんですか? 説明を求める手紙は、ほかには来ていませんか?

【イリノイ】 仮にこれが人間の内なる残酷さについての単なるたとえ話であったとしても、あまり趣味の良いものではありませんね。人間は、確かに愚かであり残酷でもあるにせよ、自分たちが迫害しようとする対象には、何らかの罪の理由を想像したり、でっち上げたりする程度の分別は持っているものです。キリスト教における殉教者やニューイングランドの魔女、あるいはユダヤ人にせよ、黒人にせよ、みなそうでした。けれどもこの作品では、だれひとりとしてミセス・ハッチンスンに対して含むところがあるわけではありません。彼らは単に、さっさとすませて、家に帰りたい、昼食を取りたい、と考えているだけです。

【カリフォルニア】 これは何かの寓話なんですか?

【カリフォルニア】 全部ただの冗談だと言ってください。

【ロスアンゼルス デイリーニュース】 テシーは魔女だったのだろうか? いや、ちがう。魔女はくじで選ばれたりはしない。いずれにしろ、ここにいるのは現代人なのである。核戦争後の世界では、急増する人口を養うのに十分な食糧がなく、毎年ひとりずつ抹殺しなくてはならないのだろうか。そんなバカなことがあるはずがない。あるいは、単なる古くからの慣習で、打破するのが困難というだけなのか。もしかしたら、そうなのかもしれない。だが同時に、ひょっとしたらこの物語には意味などないのかもしれない、という不愉快な印象も受ける。いくつかの雑誌は、いつからか、こうした方向へねじ曲げられてしまっているが、我が愛する「ニューヨーカー」もそうなってしまったようだ。

【ミズーリ】 この作品で、あなたはデモクラシーをねじ曲げるとどうなるか、教えてくれたのですね。

【カリフォルニア】 曖昧模糊としすぎです。

【カリフォルニア】 妻と私がこのような苦境に陥ったらどうしたらいいだろうとの空想に囚われていました。私であれば、逃げ出すでしょう。

【イリノイ】 村のゴシップがどのようにして犠牲者を滅亡に追いやるかという象徴なのでしょうか。

【プエルトリコ】 あなたがたは、手に入れたものならなんでも刊行するのですね。最後のパラグラフなど、雑誌に載るよりもむしろゴミ箱に投げ捨てた方が良さそうなのに。

【ニューヨーク】 人間は、自分の個人的なことに及ばないうちは、どれほどまがまがしいことであっても、受け入れてしまうとあなたは言いたいのですか?

【マサチューセッツ】 わたしは中年にさしかかろうとしている人間ですが、耄碌というのは、こんなにも早く始まるのでしょうか。それとも、自分がいままで思っていたほどには、頭が良くなかったということなのでしょうか。

【カナダ】 言いたいことはただひとつ、これは一体、何なんだ?

【メイン】 雑誌はとうてい話題になるところのないようなものでも、掲載に踏み切ることがあるようですね。

【カリフォルニア】 あなたがおっしゃりたいことが、どうして読者の頭を混乱させることになるのか、私にはわかりません。これほど明白なこともないように思われますが。

【スイス】 何を意味しているのですか? 微妙な寓意が隠されているのでしょうか。

【インディアナ】 このあと残酷なことが起こる続きのところはどうなったんですか?

【カリフォルニア】 私は何か読み落としてしまったようです。おそらく犠牲者の性格には、村人の嫌悪を煽るようなところがあったのでしょう。人びとが嫌悪感や恐怖、そうでなければ嗜虐的な喜びを見せるものと予期していたのですが、彼らは無口で感情に乏しいニューイングランド人としか思えません。

【オハイオ】 友人が、貴誌の編集方針は、明らかに赤化しているのではないかとひそかに危ぶんでいて、この作品もそのようなものとして解釈しています。彼をなんとか落ち着かせることができるよう、どうか私に助言をお願いします。彼は、あなたがたはいまやスターリンの道具であると確信しています。もし、あなたがたが実際に破壊分子であり、この話題について議論したくなくても、責めるつもりはありませんし、もちろんあなたがたはあらゆる面で、憲法上の権利によって守られています。けれども、最低限、このくそいまいましい話の説明だけはしてください。

【ヴェネズエラ】 この作品を二度読み返し、そのことで判明したことはたったひとつ。ここから得られるものは、頭の中の石ころだけだ。不毛な話である。

【ヴァージニア】 植字工が三行ほど、タイプし忘れています。

【ミズーリ】 あなたが本にしたんです。今度は説明する番です。

【ニューヨーク】 我々のうち数名の者は、ここには人間の残酷さについての象徴化された悪が描かれていると考えています。

【インディアナ】 この小説を最初に読んだとき、ここには道徳的な意義は提示されていない、この物語は単なる恐い話であって、それだけのことだと思っていました。けれども、これほど多くの人をぎょっとさせたのですから、何らかの意図があったはずです。そこにはただひとつの答えしかないように思います。すなわち、社会の力が個人を圧倒していることを示しているからこそ、かくも多くの人びとが困惑したのでしょう。私たちは社会がやすやすとひとりひとりを押しつぶすところを目の当たりにしてきました。そうして同時に、社会には、個々人や、少人数、ときには大勢の人びとさえも押しつぶすのに、なんら合理的な理由を必要としないことがわかったのです。

【コネティカット】 おそらくこの作品は、先の大戦が勃発したときに、選択徴兵制の機能を持つようになった抽選制を、小規模で再現したものではないのでしょうか。

 飛び抜けて強硬な手紙を書いてきたのは、好きなだけ罵詈雑言を浴びせることができるチャンスに飛びついた人たちです。まあ、こうした書き手の動機をわざわざ解明してみようとは思いませんし、そんなことが可能であったとしても、単に小説を書いているだけの他人に向かって胸が悪くなるような手紙を出す手合いに対しては、言うべき言葉もありません。ここでは彼らの見解の一部を紹介するだけにとどめましょう。

【カナダ】 ミス・ジャクスンに、カナダに入国するな、と伝えてください。

【ニューヨーク】 作家みずからによる謝罪を要求したい。

【マサチューセッツ】 どうやら「サタデー・イブニング・ポスト」に切り換える潮時らしいですね。

【マサチューセッツ】 これから先、決して「ニューヨーカー」は買わないことにします。『くじ』のような邪悪な小説を、策略に引っかかって読まされたことについて、大変な憤りを感じています。

【コネティカット】 シャーリー・ジャクスンって誰だ? 天才なのか、オーソン・ウェルズの陰険な女版なのか、判断がつかない。

【ニューヨーク】 私たちは、高等教育を受け、教養ある階層の一員であると考えていますが、文学の真実性に対する信頼の一切が、消え失せてしまいました。

【ミネソタ】 「ニューヨーカー」に掲載されるような小説に抗議をするとは、夢にも思っていなかった。だが、編集部のみなさん、ほんとうに『くじ』は、信じがたいほど悪趣味である。私はこれを湯船に浸かって読んだのだが、自分の頭をそのまま沈めて、何もかも終わりにしてしまいたくなった。

【カリフォルニア】 ある世界的に高名な人類学者から】 作者の意図が、象徴化によって完膚なきまでに人を迷わし、さらにいわれのない不快感を与えることにあるのだとすれば、確かに女史は成功していると言えよう。

【ジョージア】 「ニューヨーカー」の発行部数を考えると、この作品はあまりに少数の読者だけを対象としてないでしょうか。

【カリフォルニア】 『くじ』を楽しんだ者もいましたが、それ以外はみんな、ただただ腹を立てていました。

【ミシガン】 確かに現代風ではある。

【カリフォルニア】 こんな作品を読むにつけ、貴誌が「リーダーズ・ダイジェスト」ほど人気がなく、海外でも発行されている雑誌でなくて良かったと思います。ドイツやロシアや日本の現実主義者さえも、アメリカ人にくらべれば、自分のことを純粋だと思うにちがいありません。内輪の恥はさらけ出すな、という古くからの格言は、おそらく当代ではすっかり時代遅れのものになってしまったのでしょう。いずれにせよ、この作品を読んで、来年からはもう貴誌の講読をしないことに決めました。

【イリノイ】 最大級のお世辞を言ったとしても、『くじ』は好きになれないという以上のことは言えません。

【ミズーリ】 この作品を送ってきたとき、おそらく作者はどこでこんなことが起こったかとか、こうした状況が確かに存在しうるという証拠を同封したにちがいない。そうであるなら、読者にはその証拠の一部を見る権利があるのではないか。もしそうでないなら、故意に人間性に対する虚偽の叙述をした咎により、読者は編集部を告訴する権利がある。おそらく編集者諸氏は、人間の邪悪さの最低値を新たに提示する作品を掲載したことを、得意がっているにちがいない。だが、諸氏が悪に心を奪われた結果、人びとを悪しき道に迷い込ませたのであるから、証拠を開示する責任も諸氏にあると考える。こんな作品をあと数回掲載するつもりなら、諸氏は最も熱心な読者層――つい先日まで私もそこに含まれていた――にも離反されるだろう。

【ニューハンプシャー】 『くじ』という作品には、非常に失望させられた。この類の話は「エスクァイア」あたりにこそふさわしいもので、「ニューヨーカー」らしさとは無縁のものである。

【マサチューセッツ】 この話の結末は、妻にひどい衝撃を与え、実際、読後一日、二日というものは、この話の何から何までが、腹が立ってしょうがないようでした。

【ニューヨーク】 隅から隅まで読んだのですが、正直言って、何の事やら皆目わかりませんでした。話はおぞましいし、読後感は陰々滅々、こんなものを掲載する意図がわかりません。

 さて、ここでイリノイから来た手紙の全文を読んでみましょう。

編集長殿

 私はこれまで、貴誌六月号に掲載されたような、巧妙にして邪悪な作品を読んだことがありません。この作品が、私がこれまで高く評価してきた雑誌の編集者の好みを反映しているのだとすると、アメリカ文学のこれからはいったいどうなってしまうのでしょう。この作品を掲載することにした背景に、一体どのようなお考えがあったのか、不思議でしょうがありません。どう考えても読者を楽しませるようなものではないし、だとしたら、そこにどのような意図があったのか。

確かに作品の中に、天才的なひらめきがあることは明かですが、ただそれはおぞましい奇形を創り出す、よこしまな才能です。貴誌は、こうした低俗なものを選ぶことによって、読者の信頼を裏切りました。読者は気がつかないうちに村人たちの日常会話に引き込まれ、徐々に高まっていく緊張を感じるだけです。そうして読者は、熟練した手際で念入りに作り込まれた結末に衝撃を受け、作品全体に対する吐き気と、こんなものを掲載するような雑誌に対する不信の念とともに残されるのです。

 私は自分自身が経験した感覚をもとに、これを書いています。この感覚が貴誌の読者の大多数を占めるものでないのであれば、私の推測も的はずれになってしまいますが。倫理や人格を高めることなど、貴誌の関知するところではないのでしょうし、また、期待されてもいないのでしょうが、編集に携わる者として、『くじ』のような作品を受け入れないためにも、健全かつ良識的な採用基準を設ける必要があると感じます。

 これまで私は「ニューヨーカー」に対して、株主のような誇りを持って接してきました。ほかの私有物同様、友人とともにこの雑誌を分かち合い、何よりも楽しんできました。ところがこの最新号が届き、茶色の包装紙を取ろうとしたとき、私はいまだかつて味わったことのない嫌悪感がこみあげ、手が動かなくなり、とうとうその号はくずかごへ直行することになりました。これから先、新たに興味を抱くようなことはもうないでしょう。毎週読者を不快にさせるあなたがたのご尽力を無駄にしないためにも、即座に講読をやめさせてください。

さらにもう一通、これはインディアナ州から来た手紙です。

拝啓

 最新号では胸がむかつくような、小説らしさのかけらもない話を読ませてくれて、どうもありがとう。たぶんあれは外国の話のほんやくですよね。

 ひっこししやらなんやらで数週遅れたんだけど、幸か不幸かあんたたちの雑誌も、つづりと句読点の位置を最初から最後までひとつもまちがえなかったジャクスン女史も、私たちに追いついたんです。

 おそらくあの人の話を読んで、編集のあんたたちも、幸せな子供のころのことを思い出したんでしょう? そうと思うと、私たち、うれしくなります。あのころは、水面を跳ねさせるのにもってこいの石を、うちの年取った婆さんに投げても良かったから。もちろん理由なんてない、ただ、村の郵便局長が親切に持たせてくれたとか、丸々とした指先でさわるのがすべすべと気持ちよかった、ってだけで。

 別にジャクスン女史のとてつもなく明晰な文体や、ジャーナリストみたいな観察力に、文句が言いたいわけじゃないんです。あと、この田舎の投石者たちが体現しているはっきりした主題とか、どうやら私たちが途中で読み落としたらしい、ほのめかしだとか含みだとかに文句をつけてるんでもない。

 ただ、おれたち、これを読んだのは、食後じゃなくて、食前だったんです。おれたちはいまみんなして頭をつきあわせて、親切な隣の人の頭を、電動泡立て器の中に突っこむ話を書いているところです。隣の人のもつれた頭がほどけたところで、同じもの、送りますね。きっとこれは「ニューヨーカー」の大勢の読者をクスクス笑わせたり、そうでなかったとしても、少なくともお高くとまった連中をひそかに興奮させてやることができると思います。それに、うちのかみさんとおれが、庭のすべすべした丸っこい石を集めて、隅っこに小さなピラミッドみたいに、きれいに積み上げてるところなんです。これを知ったら、きっとあなたたちにも喜んでもらえるんじゃないかと思って。おれたち、そんなことをするぐらい、感じやすいんです。

 最後に紹介する手紙については、わたしはこれまで何度も悪ふざけではないのかと疑ってきたものです。『くじ』にまつわる手紙の中では、わたしの大のお気に入りなので、悪ふざけでなければ良いとは思っているのですが、絶対にそうではないとは言い切れません。この手紙の宛先は「ニューヨーカー」で、発信はロスアンジェルス。ありがちなことですが、鉛筆書き、ノートを破った、罫の入った紙に書かれています。つづりもめちゃくちゃです。

拝啓

 昨日、ロスアンジェルス駅で、6月26日付けの貴誌を入手しました。私は毎号欠かさず貴誌を読むという類の読者ではありませんが、今号は家へ持ち帰り、家族に見せたところ、あなた方は率直に読者に語りかけているという私の意見に、みんな賛成してくれました。

 私の叔母さんのエリースも、「崇高なる回転者」教団の巫女になるまえは、よく話を聞かせてくれていましたが、ちょうどシャーリー・ジャクスンが書いた『くじ』そっくりの話でした。ミス・ジャクスンが「崇高なる回転者」教団の信者かどうか、私にはわかりませんが、丸い石のことを書いているので、そう考えてまちがいないでしょう。ただ、彼女のお告げのいくつかについては、エリース叔母も私も賛同しかねます。

「崇高なる回転者」はくじ引きの箱なんて真じないし、お告げが実現するときは、救いの光による正しい福音がみんなに受け入れられるだろうと真じています。おそらく私たちは自分の罪の罰を受けることになるのだろうと思います。悪魔のおもちゃ(原子爆弾)による天罰の戦争で。贖罪のために人身御空を立てる必要があると、私は思いません。

 私たちの同胞は、ジャクスン嬢こそ真の預言者で、救いの光による真の福音のしとだと思います。つぎはいつ啓示を発表してくれるんですか。

魂の友

 わたしがこれまで投げかけられたありとあらゆる質問のなかで、いささかの躊躇もなく率直に答えられるのは、たったひとつだけです。この紳士の手紙の末尾に書かれた質問の答えです。つぎの啓示の発表はいつなのか。彼はそれを知りたがっているし、わたしは声を大にして答えます。二度とありません。わたしは永久に、くじ商売から足を洗ったのですから。






The End






作者と読者


学校国語には、「作者の意図」の問いがつきものだ。小学校時代は「作者は何を考えてこのようなことを書いたのでしょう」「この作品を通して作者が言いたかったことは何でしょう」という問いに答えを出すことが、授業のゴールであり、すべてはそこに至るまでの布石だった。

中学以降その問いは「作者の意図」と多少よそおいを改めるが、問われていることの中味はまったく変わらない。作者は何を考えてこの小説を書いたのか、これを通して何が言いたかったかが読解の要、それさえわかれば、作品を完全に理解したことになる、というわけである。学校を卒業してからも、エンタテインメント系の小説ならともかく、ちょっと難解でわかりにくい小説を読みでもしたら、「作者はいったい何が言いたかったんだろう」と考えてしまう。だが、小説を読むとは、作品の向こう側にあるはずの「作者の意図」を、目を細めて透かし見ることなのだろうか。

もし読むことがほんとうにそういうことなら、作者みずから自作を語ってくれる、ここに訳したような講演を読みさえすれば、わたしたちは「くじ」という作品を完全に理解できることになる。

ところが作者の語る「作品の背景」は、乳母車を押して坂道を上っているときにこの作品を思いつき、一気呵成に書き上げたことだけである。「意図」のようなものは、そもそも存在しなかったのだ。作者はそのことを端的にこう語る。「ただの物語にすぎないのですから」と。 だが、そんな説明には、どうも納得できない。たとえば作者がある暴力的な事件に遭遇し、そこから人間の残虐性に愕然とし、人びとにみずからの残虐性に自覚的になるように訴えたくて、この物語を書いた……というのなら、わたしたちも納得できる。ああ、これはそういう作品なのだな、と。だが、ジャクスンはそんなことはまったく考えていない。それを「作者の意図だ」と考えるのは、ジャクスンではなく、彼女が「何でもすぐ真に受ける人びとであり、無作法で、しばしば無教養で、しかも笑われることをことのほか怖れている」読者の方なのである。

どうして読者は「作者の意図」を必要とするのだろう。

「くじ」を読み始めたわたしたちは、否応なくニューイングランドの小さな田舎町の出来事に巻き込まれてしまう。読み始めたばかりで何もわからないところから、人びとが続々と集まってくるのを、何が始まるのだろう、と考え、くじとは何だろう、と考える。読み進むに連れて、昔から行われているらしい、とか、この村だけではなく、あちこちで行われているらしい、とか、さまざまな事実を与えられるけれど、謎の全貌が解き明かされるには至らない。それどころか、謎が謎を呼び、わたしたちはいっそう深い森の中に踏みこんでいく。

謎というのは、言葉を換えれば、事実と事実の間の「空白」である。読者はこの空白の部分に、さまざまな解釈を書き込んでいく。さまざまな人が登場し、新たにいろんなことがわかってくるにつれ、最初の推測はつぎの推測に書き換えられ、解釈は補正されていく。先に戻り、いくつかの手がかりを組み合わせて組織化し、なんとか意味の通った物語を創り出そうとする。つまり、読者自身が、作品をもとに、首尾一貫した物語を作ろうとしているのだ。

だが、最後まで読んでも、首尾一貫した物語にならないとき。結果が明らかになっても原因が定かでないようなときや、あるいは結果が定かでないとき、わたしたちの手元には、「空白」が残る。それを自分の解釈で埋めようとしても、これまで二転三転してきた自分の解釈が、ほんとうに正しいかどうかわからない。だからこそ、読者は「作者の意図」というお墨付きがほしくなるのだ。

ジャクスンは、読者からのさまざまな手紙を披露する。この手紙ひとつひとつが、読者の「解釈」だ。けれども、ジャクスンはそんな解釈を認めない。認めていないからこそ、「手紙から判断するなら、小説の読者というのは、何でもすぐ真に受ける人びとであり、無作法で、しばしば無教養で、しかも笑われることをことのほか怖れているようでした」と語るのである。「作者の意図」がないなら、どうして読者たちの解釈が認められないのか。

それはおそらく、ジャクスンも自分の書いた物語を一読者として読み、深く読んだ読者としての解釈があるからだ。作者ではなく、読者としてのジャクスンから見て、そうした手紙に見られる解釈などは、受け入れがたいからだ(そうしてまた、この講演録を読むわたしたちにも受け入れがたい)。解釈は決して「何でもアリ」ではなく、作品からの論理的制約を受ける。「人間の内なる残酷さ」と解釈してしまうと、「くじ」の少なからぬ部分を切り捨て、ねじ曲げてしまうことになる。ジャクスンを含むわたしたちは、その解釈には賛成しかねるのだ。

この講演は、わたしたちに「作者の意図」など、作者自身も作品を書く前には持ってなどいなかったことを教えてくれる。それと同時に、書いたのち、作者も読者と同様に、作品を読み、書いた人間としての解釈を持っていることも教えてくれる。その意味で、非常におもしろい講演である。

誰もが作品を読み、さまざまに推理し、解釈する。つぎのページをめくれば、その解釈を修正しなければならないかもしれない。最後まで読んで、解釈したとしても、作品の方が解釈を要求してくるかもしれない。時間を経て読み直せば、自分の解釈を修正することになるのかもしれない。そう考えると、小説を読むわたしたちが読み解こうとしているのは、自分自身、ということなのかもしれない。



初出 Oct.14 - 27 2010 改訂Nov.19, 2010

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