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本に線を引きますか


引きません。

おそらく本に「線を引く」のは、ここが大切だからマーキングしておこう、という意図の下に引くのだと思う。けれど、引く人に聞いてみたいのだが、線を引いたくらいで、その部分が頭に入るのだろうか。

 

ほんとうにここ数年、記憶力の減退は目を覆うばかりで(って、そんな年でもないんですけどね)、覚えておかなくてはならないことも、どんどん忘れる。とくに、それが気の進まないことだったりすると(出なくちゃいけない会議だったり、かけなきゃいけない電話だったり)、気持ちいいくらい、跡形もなく忘れてしまっている。
本屋で待ち合わせしたのはいいけれど、探していた本を見つけてすっかり興奮してしまって、待ち合わせしていたこともすっかり忘れて家へすっ飛んで帰り、夢中で読んでいるとき電話がかかってくる、などという経験もあった。

いまは「ここが大切」(というか、使えそうだ)と思った場所は付箋紙を貼り付けておき、ノートを作るようにしている。実際そうでもしなければ、頭なんぞに残りはしないのだ。

おまけにその本を読み返すとき、線が引いてあったりすると、そこばかりが気になってしょうがない。わたしはそれを「思考の轍にはまる」と名づけているのだけれど、結局、最初に読んだのと同じ読み方をしてしまって、再読する意味がないような気がするのだ。ナボコフは『ヨーロッパ文学講義』のなかで

まことに奇妙なことだが、ひとは書物を読むことはできない。ただ再読することができるだけだ。良き読者、一流の読者、積極的で創造的な読者は再読者なのである。その理由を話そう。はじめて読むとき、苦労して目を左から右へ、一行一行とページを追って動かせてゆく作業そのもの、こういう複雑な肉体的仕事、空間的にいっても、時間的にいっても、その書物の中になにが書かれているかを知る過程そのものが、わたしたちと芸術的鑑賞のあいだに立ちはだかる障りなのだ。

(『ヨーロッパ文学講義』野島秀勝訳 TBSブリタニカ)

と言っているのだが、わたしが再読するのは「芸術的鑑賞」のためというよりは、ひたすら必要に迫られてであることが多い。良き読者ではない所以なのだが、とにかく「芸術的鑑賞」であろうと、必要に迫られてであろうと、線なんぞが引いてあったら、どうしてもそこに目が行ってしまうだろうし、さらにひどいことには、線を引いたときのあれやこれやなどをつらつら思いだして、気持ちがすっかり逸れてしまうからなのだ(これはわたしだけか?)。

と、こうはっきり断言してしまうのも、実は経験があるからなのである。

庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』、わたしはこのシリーズを親の本棚にあったのを見つけて、中学生の頃に読んだのだけれど、そのなかに、主人公の下のお兄さんが、本に書き込みをする、という部分があったのだ。“!”や、腹が立ったところに“カッカ”、やられたと思ったところに“メッタ”(だったと思う。全部甚だ怪しい記憶だけで書いている)と書き込んでいて、それを弟である薫クンが、お兄さんの追体験をするように読んでいく、という内容だったように思う。
当時は「追体験」という部分はあっさり素通りしてしまって、書き込むことがなんだかカッコいいことのように思えたのだ。
先日、『グループ』の紹介をしようと本を開いて、ぎょっとした。なんと、ちょうどその「書き込み熱」に取り憑かれた時期にあたっていたらしく、なんだかんだと書き込みがしてあり(「フレイザー」ということばの横に『金枝篇』、ヘンリー・ジェイムズの横に『ねじの回転』『デイジー・ミラー』…)、線がやたらに引いてある(「元来ヘレナは決して革新派ではない。母親の控えめでお上品な改良主義に〈反撥〉しているだけで、他人を変えるとか、自分が他人に変えられるとかということになると、ツンとソッポを向いてしまう」に傍線、最後に“!”付き)。

実際、過去の自分の亡霊? に会ったようなものだった。
当時、何を思ってそんなところに線を引いたか、その引き金になったできごとをはっきりと思い出し、岩波文庫の『金枝篇』が旧字体で読めたものではなかったことや、『ねじの回転』は絶対に性的な暗示があるにちがいない、だけどそれは何なんだろう、と頭を悩ませたことまで、全部頭に蘇ってしまったのだった。かなりげっそりするような体験だった(懐かしく思い返せるほど、その時代は自分の中で過去のものになっていない、ということか)。

線を引いたり、書き込みをしたりしていた時期は短かった。当時でさえ、読み返してみて恥ずかしかったのだ。だから、以降読んだ本は、一切痕跡は残っていない。

本を読むことについての、大変おもしろい本に、青山南の『眺めたり触ったり』(早川書房)がある。 それには、線を引くことについて、このように書かれている。

本に初めて線を引いたのはいつのことだったか。中学の終わりころか、高校の始めのころか。なにやらおどおどしながら線を引いていたことだけはよく覚えている。参考書を相手にしていたときのように赤や青の鉛筆でぐいーっと線を引くなんて真似はできず、ふつうの黒の鉛筆で、いつでもすぐ消せるように、薄く線を引いた。なにしろ、線を引くじぶんに自信がないのだ。とんちんかんなところに線を引いてるんではないか、と不安でならなかった。
 読んでいるじぶんが共鳴した文章、読んでいるじぶんを励ましてくれる文章、読んでいるじぶんの現在を照らしだしてくれる文章、そういう文章にぼくは線を引いていたのだが、だけど、そのいっぽうでは、おれがいまこうして線を引いている文章ってこの本の作者にはどうでもいい文章なんではないか、この本の本質とは関係ない文章なんではないか、と気にしていた。
 優先すべきは、書いた作者か、読んでいるじぶんか。
 線の引き始めのころは、作者だと思っていた。

この箇所は、つぎのようなエピソードに続いていく。

後年、筆者はピート・ハミルに会う。たまたまユードラ・ウェルティの話になって、偶然『ウェルティとの会話』という本を読んでいたハミルが、その本をくれたのだ。なんとその本にはあちこちに線が引いてある。「黄色い蛍光マーカーでぐいーっと、それはもう力いっぱいにだ」。青山はすっかりうれしくなってしまう。

だって、こういうのって、一冊だが二冊の本みたいなものだからだ。本そのものは「ウェルティの本」だが、ハミルが線を引いた箇所を拾って読んでいくなら「ウェルティの本で作ったハミルの本」ということになるではないか。
 そうだ、線を引くひとは、線を引きながらべつな本を作っているのだ!

そうか、わたしは自分の作った本が読みたくないのか!
確かにそうかもしれない。一冊の本から引き出せるものを、まだ固定したくない、そういう思いがどこかにあるような気がする。

さて、青山南ではないけれど、わたしもそういう本ならものすごくほしいと思う。自分が引いた線ではない、敬愛する人の線や書き込みの詰まった本。
だってその本を読んでどう思ったか、っていうことは、その人自身を語ることにほかならないじゃありませんか。






初出Dec.21,2004、改訂Dec.23,2004