ネコマネドリの巣の上で  

home 翻訳>『ネコマネドリの巣の上で』

ジェームズ・サーバーの短編『ネコマネドリの巣の上で』の翻訳をお送りします。
原文はhttp://home.eol.ca/~command/catbird.htmに掲載されています(ただし、12パラグラフ4行目"Boor"とあるのですが、これは"floor"の誤植であろうと思われます)。
邦訳は鳴海四郎氏によって『ツグミの巣ごもり』というタイトルで『ニューヨーカー短編集II』(早川書房)に所収されています。

 原題は"The Catbird Seat"、このCatbirdは北米に生息するマネシツグミ科の鳥です。
百科事典を見てみると、マネシツグミ科の鳥というのは、ほかの鳥の鳴き声や機械音を自分のさえずりに取り込むことで知られる、とありました。ネコマネドリも、ネコのような声を出すだけでなく、ほかの音を真似するようです。
イディオムとして "in the catbird seat"=「有利な立場にいる人」があり、このタイトルはもちろんそれを踏まえていますが、それだけでなく、「ものまね」という要素も、一役買っています。

ブログの方では、オンライン辞書「英辞郎」に載っていた「ネコナキドリ」という訳をそのまま使いましたが、日本では標準的に「ネコマネドリ」が標準とされていることや、上記のようなことも踏まえて、タイトルをブログ掲載時より改めました。





『ネコマネドリの巣の上で』

ジェームズ・サーバー



 月曜の夜、マーティン氏はブロードウェイ界隈で一番繁盛しているタバコ屋で、キャメルを一箱買った。劇場が開いている時間だったので、タバコを求める男たちも、七、八人はいる。店員はマーティン氏のほうをちらりとも見ず、氏はコートのポケットにタバコを納めると店を出た。F&S社の社員ならだれでも、マーティン氏がタバコを買っているのを見たなら驚いたはずだ。マーティン氏がタバコを吸わないのは、周知の事実だったし、実際、一度も吸ったことはなかったのである。だがマーティン氏を見かけた者はいなかった。

 マーティン氏がミセス・アージン・バロウズを消去しようと決心したのは、一週間前のちょうどこの日だった。「消去」ということばをマーティン氏は好んだ。というのも、このことばには、間違い――この場合、フィットワイラー氏の間違いである――を改める、という以上の含意が感じられなかったからである。
マーティン氏はこの一週間というもの、毎夜、計画を立てては吟味を重ねてきた。自宅に向かって歩を進めつつ、またしても計画を反芻してみる。何百回目になるのだけれど、この作業から排除しきれない不正確な部分、憶測の領域が腹立たしい。
マーティン氏が立てた計画は、偶然の要素が大きく、かつ大胆なものなので、その危険性も無視できない。いずれかの時点で不慮の事態が起こらないとも限らない。だが、そこがこの計画の抜け目のない点なのである。
いったいだれが、慎重で精密な仕事ぶりのアーウィン・マーティン、F&S社文書部長にして、かつてフィットワイラー氏から「人みな過つ、しかれどもマーティン過たず」と称されたマーティン氏が、このことに関与していると思うだろうか。だれひとり、彼の仕業と考える者はいないだろう。現場を押さえられないかぎりは。

 自宅であるアパートメントの一室にすわってコップのミルクを飲みながら、マーティン氏はこの七日の間、夜ごと続けてきた、ミセス・アージン・バロウズに対する審理を再検討してみた。
始まりに立ち戻る。アヒルのように騒々しい声とロバがいななくような笑い声が、F&S社の社屋をけがしたのは、1941年3月7日が初めだった(マーティン氏は日付を覚えるのが得意だ)。ロバーツじいさんこと人事部長が、フィットワイラー社長付きの特別顧問として新しく任命された女性を紹介したのだ。一目見るなり、マーティン氏は怖気をふるったが、もちろんそんな気配は微塵も見せない。熱のこもらない握手をし、仕事に没頭しているそぶりで、わずかばかりの笑顔を見せた。ところがその女性は「あらまあ」と机の書類を見ながら言ったのだ。「溝にはまった牛車を引っ張り上げてるのね」

ミルクを口にしつつ、このときのことを思いだしたマーティン氏は、どうも落ち着かなくなってきた。自分の意識は、特別顧問が犯した犯罪行為に向けるべきであって、彼女の性格上の過ちを問題にすべきではない。ただ、異議申し立てを受け、了承した後も、そのことは簡単ではなかった。マーティン氏の心の中では、あの女の欠点をあげつらう女性が、命令に従わない証人のようにおしゃべりを続けるのだった。
夫人には二年に渡って悩まされ通しだった。廊下で、エレベーターの中で、マーティン氏のオフィスまでも、サーカスの馬のように跳ね回り、度はずれた声でばかげた質問をまくしたてるのだ。「溝にはまった牛車を引っ張り上げてるの? 豆畑をほじくり返してるのね? 天水桶に向かってどなってるの? 漬け物樽の底をこすってるんでしょ? ネコマネドリの巣でタマゴを抱いてるところ?」

 

 ちんぷんかんぷんのおしゃべりを解説してくれたのは、マーティン氏の二名の部下のひとり、ジョーイ・ハートである。
「たぶんドジャースのファンなんですよ。レッド・バーバーがラジオでドジャースの実況中継をしているときに、ああした言い回しを使うんです。南部にいたころ覚えたんでしょう」
ジョーイは言い回しをひとつふたつ、教えてくれた。『豆畑をほじくり返す』、っていうのは大暴れしている、っていうことです。『ネコマネドリの巣でタマゴを抱く』っていうのは、有利な立場にいる、ちょうど、バッターがノーストライク、スリーボールのようなカウントにいるようなことを指すんです。
マーティン氏はこうした申し立てすべてを、強いて却下しようとした。不快だったし、そのおかげで気も狂わんばかりにさせられたことも事実だったが、このような子供じみた動機で殺人を犯そうと思うには、あまりに手堅すぎるマーティン氏である。
幸いにも、とバロウズ夫人に対する重要な告発に移りながら、マーティン氏は考える。自分はそうしたことに、たいそう良く耐えてきた。外から見れば、つねにがまん強く礼儀正しい態度をとり続けてきたのだ。
「ほんと、部長さんったらあの方がお好きなんじゃないかしら、ってもうちょっとで思ってしまうところでしたよ」と、もうひとりの部下のミス・ペアードが以前、言ったことがある。だがマーティン氏は、ただ微笑して見せただけだった。

 マーティン氏の胸の内で、裁判官の木槌がうち下ろされ、正式な申し立てが再開された。
ミセス・アージン・バロウズは、故意にして過度の、加えて間断のない妨害工作を、F&S社の生産能力と体制に対して働いた咎で起訴されている。彼女の出現と、権力の掌握に至る経緯をかえりみることは、適切であり、重要であり、本件と十分な関係を持つ。
マーティン氏はミス・ペアード、いつもなんでも見つけてくる能力を備えているらしい彼女から、こんな話を聞いた。それによると、バロウズ夫人はとあるパーティで、フィットワイラー氏に会ったのだという。そこでたくましい体つきの男が酔っぱらって、F&S社の社長を、中西部のフットボールの引退した有名監督と間違えて抱擁してくる手から救い出してくれたのだ。バロウズ夫人はフィットワイラー氏をソファへと導き、なにやらそこで恐るべき魔法をかけた。年を重ねた紳士が、一足飛びに結論を出した。この女性こそ、自分と会社から最良のものを引き出してくれる、たぐいまれな能力のもちぬしである、と。

一週間後には、社長は夫人をF&Sの特別顧問として紹介していた。
かくてその日、混乱の火ぶたが切って落とされたのである。ミス・タイソンならびにブランデージ氏、バートレット氏がクビになり、マンソン氏が帽子を手に席を蹴ってでていくに及ぶと(辞表は後日郵送された)、ロバーツじいさんも勇をふるってフィットワイラー氏のところへ談判に行った。
マンソン氏の部は「若干、混乱を来して」いるので、おそらくは、従来の組織体に戻したほうがよろしいのではありますまいか、と。フィットワイラー氏は、それはダメだ、と答えた。わたしはバロウズ夫人の考えには絶大なる信頼を寄せている。そしてこう付け加えた。「必要なのは、ちょっとしたスパイスなのだよ。スパイスを少々、それがすべてだ」ロバーツ氏はあきらめてしまった。
マーティン氏はバロウズ夫人によって加えられたあらゆる変革を、つぶさに検討した。会社という建造物の、壁面上部の装飾を打ち壊すことから始めた夫人は、いまや礎石めがけてつるはしをふるい始めたのである。

 いよいよマーティン氏は最終論告に入る。
1942年11月2日月曜日の午後、ちょうど一週間前のこと。その日、午後三時にバロウズ夫人は、マーティン氏のオフィスに、弾むように入ってきたのだ。「なーんなんでしょっ!」と大声をあげた。「漬け物樽の底をこすってるところね」マーティン氏は緑のアイシェード(※この時代、新聞記者や会計士などは緑色のセルロイドがはまったまびさしを頭にかぶって仕事をしていた。参考画像)ごしにそちらを見たが、なにも言わなかった。夫人は歩き回りながら、大きな目を見開いて、部屋を品定めしている。
「こうした書類戸棚がほんとうに全部必要?」と、いきなり詰問してきた。
マーティン氏の心臓は飛び上がった。「こうしたファイルはどれも」と、なんとか平静な声を保ちつつ答える。「F&S社にとって、組織運営上、必要不可欠の役割を担っております」
夫人は耳障りな声で言う。「あら、そう。だけど豆畑をほじくり返すのは止してちょうだいね」とドアに向かった。そこで声を張り上げた。「あんたたち、まったくたいそうな紙クズの山をここに溜め込んだもんね」

マーティン氏の愛する文書部に危害が及ぶことは、もはや疑いようもないところまできていた。夫人のつるはしは振り上げられ、最初の一撃を下す態勢に入っている。ただ、まだ振り下ろされるところまではきていない。マーティン氏は青いメモ、魔法にかかったフィットワイラー氏が、非常識な女の指図のままに出す、分別を欠いた辞令の用紙を受け取ってはいない。しかし、マーティン氏が見たところ、早晩辞令が下りることは、疑いようもない事実だったのである。
すみやかに行動しなければならなかった。すでに貴重な一週間が過ぎ去っている。
マーティン氏はすっくと居間に立ち上がった。ミルクのコップを手にしたまま。「陪審員のみなさん」マーティン氏は胸の内で言った。「かかる残虐非道な人物に、わたくしは死刑を求刑するものであります」


 つぎの日、マーティン氏はいつもどおり、日常業務をこなした。実はいつもよりよけいに眼鏡を拭いたり、一度などはすでに削った鉛筆を改めて削ってしまったりもしたのだが、あのミス・ペアードさえ気がつかなかった。ほんのちらっと獲物の姿を見かけた。廊下で追い越しざまに、さも見下したような口調で「ご機嫌いかがァ」と声をかけていったのである。五時半になると、普段と同じく歩いて自宅に戻り、これまたいつもどおりミルクを飲んだ。それより強い飲み物は飲んだことがなかったからである。ジンジャー・エールを入れると、話は別だが。
いまは亡きサム・シュロッサー氏、F&SのSに当たる人物だが、このシュロッサー氏が亡くなる数年前、幹部会議の席上でマーティン氏の節制ぶりを讃えてこう語った。「我が社のもっとも有能な社員は、喫煙とも飲酒とも無縁だ。その結果は、まさに自明の理とも言えるな」傍らに腰を下ろしたフィットワイラー氏も、賛意を表してうなずいていたではないか。

 マーティン氏はその記念すべき日のことをなおも考えつつ、五番街の四十六丁目に近いシュラフトの店に歩いていった。着いたのは、いつもどおり八時である。夕食とともに、サン紙の経済面を読み終えたのが、これまたいつもどおりの九時十五分前。
食後に散歩をするのは、マーティン氏の習慣である。この日は五番街を南に向かってぶらぶら歩いていった。手袋をはめた手はじっとりと熱をもっているが、頭はひんやりとしていた。キャメルをコートのポケットからジャケットへと移しかえる。そうしながら、タバコが極度に緊張した痕跡を不用意に残したもの、と受け取られなかったらどうしようと思った。
ミセス・バロウズが吸うのは、ラッキーストライクに限られている。キャメルをちょっと吹かして(消去した後に)、夫人の口紅がついたラッキーストライクが残っている灰皿でそれを揉み消し、かくてこのちょっとした偽装工作で、操作の方向を攪乱する、というのがマーティン氏の狙いなのである。ひょっとしたら、これは名案とは言い難いのだろうか。時間も食うだろう。ひょっとしたらむせて、大きな咳をするかもしれない。

 ミセス・バロウズが住む西十二丁目の家を、マーティン氏はこれまで一度も見たことはなかったが、そのイメージははっきりと持っていた。さいわいにも、とびきりステキな赤レンガの三階建てのアパートメントの一階に、とびきりかわいい自分の部屋があることを、夫人はだれかれとなく吹聴して回っていた。そこにはドアマンや管理人がいないこと、ただ二階と三階の住人だけだということも。
マーティン氏は歩を進めながら、九時半より前にそこに着いてしまいそうなことに気がついた。最初はシュラフトの店から五番街を北に向かい、十時までには夫人の家に着けるような場所で折り返すことも考えた。その時間なら、人の出入りも少ないように思われた。だが、この方法では、偶然を装った一直線の道筋に、不格好な輪ができてしまう。そのためにこの案は棄却されたのだ。
どちらにせよ、いつ人がそこを出入りするかなど、予測できるものではない。何時であっても大きな危険性は伴うのだ。もしだれかにでくわしたら、アージン・バロウズ抹消計画は、永遠に休止中ファイルのなかに放り込んでおきさえすればいい。夫人のアパートメントにだれかがいても、同じことが当てはまる。その場合は、通りがかりにステキなお宅をお見かけしたもので、ちょっとお寄りしてみました、とでも言えばよい。

マーティン氏が十二丁目に入ってきたのは、九時十八分だった。ひとりの男が追い越していき、一組の男女が話していた。ブロックを半分ほど行ったところにあるその家にさしかかる間、五十歩以内に人影はなかった。一瞬のうちに階段を駆け上がって玄関口に立ち、『ミセス・アージン・バロウズ』と書かれた名札の下のベルを押す。掛け金の鳴るかちりという音が終わらないうちに、ドアに飛びついていた。サッと内側に入り、ドアを閉めた。玄関ホールの天井から鎖でつり下げられているランタンの電球が、あたりをすさまじく明るく照らし出しているような気がする。手前から左の壁面に沿って上っていく階段には、人の姿はない。ホールの右側のドアが開いた。つま先立ちで、すばやくそちらに向かった。

「おやおや、いったいだれかと思いきや!」バロウズ夫人は大きな声でわめくと、ショットガンを乱射させたような騒々しい笑い声をとどろかせた。マーティン氏はフットボールのタックルのように夫人にぶつかりながら、なかへ突進した。「もうっ、押さないでったら」そう言いながら、夫人はドアを閉める。
ふたりは居間に入ったが、そこはマーティン氏の目には、百個もの電灯で煌々と照らされているように映った。 「何に追いかけられてるの? ヤギみたいにびくびくしてるわよ」
しゃべろうとしても、なにも言うことができない。せりあがってきた心臓が、喉元でぜいぜい言うだけだ。「あー、ええ」と、やっとのことで声が出た。夫人は早口でなにやらぺちゃくちゃしゃべりながら笑い声をあげ、マーティン氏がコートを脱ぐ手助けをしようとする。
「いや、結構。コートはここに置きます」そう言ってマーティン氏は脱いだコートをドアのそばの椅子にかけた。

「帽子と手袋もね」と夫人が言う。「ここはレディの家ですから」
マーティン氏は帽子をコートの上に載せた。バロウズ夫人は思ったより大柄だった。手袋は、そのままにしておく。
「ちょうどここを通りがかって、気がついたんです――どなたか、いらっしゃるんですか」
夫人の笑い声は、いっそう大きくなった。「だーれも。あんたとわたしのふたりきりよ。だけど、あんたの顔色、紙みたいよ、おかしな人ね。一体全体、どうしちゃったの。レモン入りのお湯割りウィスキーでも作ってあげたほうがいいわね」部屋を横切って、ドアの方へ行きかけた。「それともスコッチ・ソーダのほうがいい? あら、あんたは飲まないんだっけ」夫人は振り返ると、おもしろいものでも見るような目つきで彼を眺めた。
マーティン氏は落ち着きを取り戻してきた。「スコッチ・ソーダの方がいいな」と自分が言っている声がする。台所で夫人が笑う声が聞こえた。

 マーティン氏は凶器になりそうなものはないか、と素早く居間を見回した。現場でなにか見つかるだろうと思っていたのだ。暖炉の薪を載せる台、火かき棒、隅になにか体操用のこん棒のようなものがある。どれも使えそうにない。そんなはずがないのだ。マーティン氏は歩き回った。机を見てみる。飾り柄のペーパーナイフは金属製だ。刃は役に立つほど鋭いだろうか。手を伸ばしたはずみに、小さな真鍮のつぼを倒してしまった。中から切手がこぼれ出し、ガチャンと音を立てて床に落ちた。
「ちょっとォ」とバロウズ夫人が台所で怒鳴った。「豆畑をほじくり返さないでちょうだい」
マーティン氏は奇妙な笑い声を洩らした。ナイフをとりあげ、左の手首に先を当ててみる。先が尖ってない。これでは役に立たない。

 バロウズ夫人がハイボールを二つ持って戻ってくるころには、手袋をはめたままそこに立つマーティン氏も、自分がこれまで抱いてきたのは、夢物語だったのだ、ということを痛切に感じ始めていた。タバコはポケットに。そして飲み物が用意され――なにもかも、あまりに、どうしようもなく現実離れしている。いや、それ以上に、そんなことは不可能だ。
マーティン氏の胸の、どこかしら底の方で、ばくぜんとしたアイデアが浮かび、芽吹いた。
「後生だから、手袋は取ってちょうだい」
「いつも家の中では手袋をはめることにしてるんですよ」
アイデアが花開き始めた。奇妙な、だが、すばらしい花だ。
夫人はソファの前のコーヒーテーブルにグラスを置くと、ソファに腰を下ろした。「こっちへいらっしゃいよ。ほんと、おかしな人ね」
マーティン氏はそちらへ行って、隣に座った。キャメルのパックからタバコを一本引き抜くのはやっかいだったが、なんとかできた。夫人は笑いながら、マッチで火をつけてくれた。
「なんてことでしょうね」と言いながら、飲み物を渡す。「まったく驚きよ。あんたが酒を飲むわ、タバコを吸うわだなんて」

 マーティン氏はタバコを吹かし――それほど無様なことにはならなかった――、ハイボールを一口飲んだ。
「オレは酒もタバコも、年がら年中やってるんだ」自分のグラスを夫人のグラスにカチリと合わせた。「くそったれのおしゃべりジジイ、フィットワイラーに乾杯」そう言うと、もういちど、グイッとあおった。途方もなくまずかったが、顔はしかめずにすんだ。
「マーティンさんったら、本気で」そう言う夫人の声音と態度は、一変していた。「我が社の社長を侮辱なさってるのね」いまやすっかり社長付き特別顧問である。
「爆弾を用意してるんだ。そいつであのじいさんを地獄の向こうまで吹っ飛ばしてやろうと思ってさ」
まだほんの少ししか飲んでいないし、それほど強い酒でもない。そのせいであるはずがない。「あなた、マリファナか何かやってるのね」バロウズ夫人は冷ややかに言った。
「ヘロインさ。あのくそジジイをくたばらせた日にゃ、最高にイッちまうだろうなぁ」
「マーティンさん!」夫人は立ち上がって叫んだ。「もうこれ以上は結構。すぐにお帰りください」
マーティン氏はもうひとくち飲んだ。タバコの火を灰皿で揉み消し、キャメルのパックをコーヒーテーブルに置き、それから立ち上がる。夫人は立ったまま、恐ろしい目で睨んでいた。マーティン氏はそこを出て、帽子とコートを取った。
「このことはひとことも喋るんじゃないぞ」そう言って、人差し指を自分の唇に当てる。バロウズ夫人が口にすることができたのは、「まったく!」というひと言だけだった。マーティン氏はドアノブに手をかけた。
「オレはネコマネドリの巣で、タマゴを抱いてるところさ」そう言うと、夫人に向かってべろりと舌を出し、出て行った。その姿を見た者は、どこにもいなかった。

 マーティン氏が歩いて自宅のアパートメントに戻ったのは、11時よりもずいぶん前である。帰ったところを見た者もいなかった。歯を磨いてから、コップ二杯のミルクを飲むと、鼻歌を歌いたいような気分になってきた。酔ったせいではない。足下がふらつくこともなかったから。とにかく、ウィスキーの効きも、歩いているうちにすっかり飛んでしまっていた。ベッドに入って、しばらく雑誌を読んだ。そうして真夜中になるまえには、すっかり眠ってしまっていた。


翌朝八時半、マーティン氏はいつもどおりの時間にオフィスに着いた。九時十五分前、普段は十時前に出てきたことのないアージン・バロウズが、勇ましい足取りで文書部に入ってきた。
「これからフィットワイラー社長に報告に行きますからねっ」と夫人は怒鳴った。「社長さんがあんたを警察に突き出したとしても、当然の報いだわ!」
マーティン氏はさも驚いた、という表情を浮かべ「何をおっしゃっておられるのかわかりかねますが」と言った。バロウズ夫人がフン、と鼻を鳴らして勢いよく出ていくのを、部屋にいたミス・ペアードとジョーイ・ハートは呆然と見送る。
「オバアチャン、こんどはどうしたんですか?」と聞いてきたミス・ペアードに、マーティン氏は「見当もつかんよ」と答えて、仕事に戻った。残ったふたりは、マーティン氏を見、それからたがいに顔を見合わせた。ミス・ペアードは立ち上がって部屋を出ていった。フィットワイラー氏のオフィスの閉ざされたドアの前をゆっくりと通り過ぎる。なかからバロウズ夫人がわめいているのは聞こえたが、ロバのいななきのような笑い声は立てていなかった。何を言っているのかまではわからない。ミス・ペアードは、自分の席に戻った。

 四十五分後、バロウズ夫人は社長室を出て、自分の部屋に戻るとドアを閉めた。三十分もたたないうちに、フィットワイラー氏がマーティン氏を呼びだした。文書部長は端然かつ沈着冷静、加えて思慮深い面持ちで社長のデスクの前に立つ。フィットワイラー氏は顔色が悪く、落ち着かなげな物腰だった。眼鏡をはずしてもてあそんでいる。喉の奥で軽い咳払いをして、切り出した。
「マーティン、君が我が社に来てから、二十年以上になるね」
「二十二年になります」
「その間ずっと」と社長は続けた。「君は仕事内容といい、あー、その、何だ、勤務態度といい、模範的だった」
「そうでありたいと願っておりました」
「君は確か、酒もタバコもやらんのだったように思うが」
「そのとおりです」
「やっぱり、そうだったな」フィットワイラー氏は眼鏡を拭いた。

「マーティン、昨日、退社後どうしたか、教えてくれるかね」
マーティン氏はほんの一瞬たりともとまどう様子を見せなかった。「もちろんです、社長」そうしてことばをついいでいく。「徒歩で帰宅しました。のち、シュラフトの店に夕食を取りに出かけ、食後、ふたたび歩いて戻りました。早めに床につき、しばらく雑誌を読みました。十一時前には就寝したと思います」
「やっぱり、そうだったな」とフィットワイラー氏は先ほどと同じことを言った。文書部長にどう話したらよいのか言葉を選んでいるような間が空いた。
「ミセス・バロウズのことなんだ」やっとのことでそう言った。「ミセス・バロウズは大変熱心に働いてくれた。マーティン、それはそれは一生懸命に、だ。そのために、ひどい神経衰弱になってしまった。被害妄想の症状が現れて、痛ましいことに、幻想を見てしまうらしい」
「お気の毒なことです」
「これもみな妄想なんだが、ミセス・バロウズは、昨夜君が彼女の下を訪れて、まぁ、その、何だ、けしからん真似をしたと言っているんだ」

マーティン氏が洩らした不愉快そうな抗議の声を、フィットワイラー氏は手を上げて制した。
「心の病では、ありがちなことなのだ。一番害のなさそうな人物に目をつけて、まぁ、その、何だ、被害妄想の原因にするんだよ。こうしたことは、一般人にはなかなか理解しがたいんだが。かかりつけの精神分析医のフィッチ先生に、さっき電話で聞いてみた。もちろん医師という立場での正式見解ではないがな。一般論だったが、私の懸念は十分、裏付けられたよ。ミセス・バロウズには、けさ彼女が、まぁ、その夢物語をしたときに、フィッチ先生のところへ行くように勧めたんだ。すぐにそうした病気じゃないか、と思ったんでな。ところが残念なことに、怒り出して手がつけられなくなってしまった。そうして、君をここに呼んで譴責するように、命令、というか、その、要求してきたのだ。君は知らなかっただろうが、マーティン、ミセス・バロウズは君の部署の再編成を計画していた、というか、それも私の決裁が下りたらだが、もちろんそうだ、私の決裁がまずなければな。ということで、だれよりも君のことが頭にあったんだろう。まぁこれもフィッチ先生の扱うことがらで、私らの管轄ではないがな。ということで、マーティン、残念だが、ここで役に立ってくれたミセス・バロウズも、お引き取り願うことにしたのだ」
「非常に残念です」

 そのとき突然、ガスの本管が爆発したかのように、すごい勢いでドアが開いて、バロウズ夫人が飛び込んできた。
「この薄汚いネズミは、認めようとしないんですね?」と金切り声をあげる。「逃げようったって、そんなことはさせませんからねっ」
マーティン氏は立ち上がって、気づかれないようにフィットワイラー氏の近くに移動した。
「あんたはわたしのところで酒を飲んだしタバコを吸ってたでしょ」夫人はなおも食ってかかる。「しらばっくれないでよ! フィットワイラーさんのことをくそったれのおしゃべりジジイって、それから、あのくそジジイをくたばらせた日にゃ、ヘロインで最高にイッちまう、って言ったくせに」わめくのを止めて息をつくと、飛び出さんばかりに見開いた目に、新たな光が宿った。
「もうちょっとであんたが仕組んだとおりに思いこまされるところだったわよ。舌を出して、ネコマネドリの巣でタマゴを抱いてるところだなんて言っちゃって。どうせわたしがこんなことを言っても、だぁれも信じちゃくれない、とでも思ったんでしょ! お生憎様。あんまりうますぎたようね!」ロバそっくりのヒステリックな高笑いをしているうちに、ふたたび怒りがこみ上げてきたらしい。今度はフィットワイラー氏をねめつけた。「どうしてこいつにだまされてるのがわからないの、耄碌爺さん。三文芝居だってわかんない?」

ところがその前にフィットワイラー氏はこっそり机の天板の裏側のボタンをすべて押していた。そのため、F&S社の社員が社長室になだれ込んできたのだ。
「ストックトン」とフィットワイラー氏が言った。「君とフィッシュバインで一緒にミセス・バロウズを家に送っていってあげなさい。ミセス・パウエル、あなたもついていってあげなさい」
ストックトンは高校時代、フットボールをしばらくやったことがあったので、マーティン氏に襲いかかろうとしているバロウズ夫人をうまくブロックした。バロウズ夫人を社長室から速記者や雑用係の少年が群がる廊下へと力ずくで連れ出すためには、ストックトンとフィッシュバインが協力しなければならなかった。それでもなお、バロウズ夫人はマーティン氏を呪って支離滅裂なことばを吐き散らしている。だがわんわん言う声も、通路を遠ざかるに連れて消えていった。

「こうした事態になって残念だよ」とフィットワイラー氏が言った。「マーティン君、どうか忘れてくれたまえ」
「かしこまりました」マーティン氏は「行ってよろしい」ということばを察して、ドアへ向かった。「忘れることにいたします」
社長室を出て、ドアを閉めたマーティン氏の足取りは、軽やかに、宙を舞うがごとくになった。だが文書部に入っていくときには、いつもの足取りに戻し、静かに部屋を横切って、W20のファイルに向かうと、仕事に熱中しているときの顔つきをまとった。






あとがきに代えて ――いやな上司――

まずは、個人的な経験から。

数年前のことだ。ある企画を立ち上げたことがあった。
賛同者を募り、計画書を出し、無事認められたまでは良かったが、「監修者」のような人間が上に付いた。この人のことは前から知っていたのだが、何をやっているでもなく、なんとなくブラブラしている奇妙な人、という印象でしかなかった。漏れ聞こえてくる評判も、それほど芳しいものではない。
ところが、この人の名前を聞いて、以前関わりを持ったことのあるメンバーは青ざめた。あのおばさん、ババ抜きのババみたいなもんだよ、回されてきたら、なんとか別のところに追いやろうとして、どこも必死になってる。

実際に始まって見ると、聞きしにまさるすさまじさだった。
信じられないくらい無知だし、目を疑うほど何もできないのだ。そのくせ、何にでも口を突っ込んでくる。無視された、とすぐに怒り出す。人のものは欲しがる。要するに、異様に子どもっぽい人だったのだ。
口を開けば、自慢ばかり。係累を自慢し、家を自慢し、飼っている犬を自慢し、犬のトイレの砂まで自慢する。 だが、この人のやることで一番害がないのが、自慢だった。いっそ、自慢だけしておいてくれれば良いとさえ思ったものだった。
なんだかんだいちゃもんをつけてくるのだが、それがことごとく、完全に見当はずれもいいところ。あまりのピントのずれように、聞いていれば気分が悪くなってくる。しかもあちこちに地雷がばらまかれているらしく、突然爆発する。その地雷のポイントがまったく予測不能なのである。
このおばさんに耐えきれず、辞めていった者もいた。実際、わたしも何度となく、投げ出してしまいたくなった。

サーバーの短編で、マーティン氏が毎晩、胸の内で、バロウズ夫人の殺害計画を夜毎練って、飽きなかったというところがある。殺害計画こそ練らなかったけれど、この心理は非常に良く理解できた。
いやな人間が身近にいると、自分はその人間のどういうところが嫌いか、何で嫌いなのか、どうしても考えてしまう。マーティン氏と同じように、罪状をあげつらい、論告しないではいられない。しかも当人は、日々、審理のタネを提供してくれる。

ところがこれは癖になる。
だれか、好きな人ができると、水が低いところに流れ込むように、気がつけば好きな人のことを考えている、このような経験は、日常めずらしいことではない。
だが、嫌いな人間に対しても、同じことが起こるのだ。腹立たしい人間、考えるだけではらわたが煮えくりかえるような人間のはずなのに、いつの間にかそうした人間のことを考えている。いやな人間が、本来の領域を越えて、無関係な領域にまで滲出してきているのだ。
そのことに気がついたとき、ぎょっとしたし、自分が汚染されていくように感じた。汚染をくい止めるために、「ふと気がつけば」という状態をなるべくなくそう、自分がいま何を考えているか、自分で把握しておこうと思った。仲間内で集まれば、いつしかそのおばさんの悪口大会で盛り上がっていたのだが、それはそれで一種のストレス解消の効用があったにせよ、やめるように努めた。

ただ、それで自分の腹立たしい思いを霧散できるほど、わたしは人格者ではない。
実は、ひそかに復讐方法を考えついたのだ。マーティン氏の「殺害計画」である。
わたしは最初から実行するつもりはなかった。それでも、その復讐方法を思いだすと、どんなに鬱陶しいことを言われても、乗り切れるような気がした。

そのうちに、ひとつのことに気がついた。
わたしは、この企画さえ終われば、この人から離れることができる。けれども、その人は一生、その人であり続けなければならない。その人として、生き続けなければならない。
腹を立て、疎んじたのは、わたしたちが最初でもなければ、最後でもない。これから後もその人は、ババ抜きのババであり続けるのだ。これほどの罰があるだろうか。

マーティン氏の計画は、見事成功した。
現実問題として、こんなうまい話はないだろう。それでも、現実の「バロウズ夫人」も、やはり罰を受けているのだ。これほど目に見える形ではないにしても。それは、「バロウズ夫人であり続けなければならない」、という罰である。
考えてみたら、人間というのは、誰しも「その人」から抜け出ることはできないのだ。「心」、「人格」、「性格」、「自我」、何と呼んでもいいけれど、誰しもそうした「器」に閉じ込められている。人は自分の器をとおしてしか、外界を見ることができないし、他者を理解することも他者と接することもできない。そう考えていくと、この器は人を一生閉じ込める一種の牢獄であるともいえるだろう。
さらに厄介なことに、自分を閉じ込めている器がどんなものか、自分ではごく一部しか見えないのだ。

どうせ一生、そこから出られないのなら、すこしでも居心地の良いものにしたい。
自分で見える部分はごく一部でしかなくても、その一部をできるだけ気持ちの良いものにしたい。
ほんとうにそう思う。

そうそう、わたしの考えた復讐方法を、ここで披露しよう。
まず、おばさんの真向かいに席を占める。話し合いを始める前に、ふっと「何か、臭いね〜」みたいなことを言いながら窓を開ける。「何の臭いだろう」とかなんとか。あらかじめ打ち合わせたほかの人間が、目配せしたり、肘で付いたり。
そして、そのおばさんの方に目をやる。口元を、少しの間だけ、凝視する。それから、はっとして、「すいません」といかにも申し訳なさそうに謝る。
そうして、恐縮しつつ、そっと出すのが『キスミント』。
「良かったら、どうぞ」

いかにわたしが見下げ果てた人間であることか……。

さて、サーバーについて少々。
ジェームズ・サーバーは1894年生まれで1961年没。
雑誌『ニューヨーカー』の25年の創刊から30年代半ばまで編集者を勤めつつ、イラストを書き、短編を発表した。サーバーの同誌への参与は、単なるスタッフライターという以上に、『ニューヨーカー』という雑誌の基調をも決定した。後に作家として独立。
ユーモア作家兼イラストレイターという評価が一般的だが、そのユーモアというのは、人間を良く知っている人ならでは、という感じがする。
『ニューヨーカー短編集』(Iには『虹をつかむ男』が所収されていて、IIにはこの『ツグミの巣ごもり』が所収されている)の著者紹介には「そのユーモアは、真似手のいない、底ににがみ、かなしみを含んだユニークなものである」とある。たしかにそのとおりだと思う。
たとえばロアルド・ダールの短編も、オチが効いて、同じように苦いユーモアが流れているが、サーバーにはダールのような突き放したところ、一種の冷徹さはない。「あんたもあたしも、人間なんてものは所詮、しょうがないもんだな」と溜息をつきながら、それでもなおかつ人間を愛してやまない、年を経たオジサンの暖かいまなざしがあるような気がする。



Dec.25-30,2004