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小説のなかの「他者」と現実の「他者」


1.遠い人、近い人、わかりやすい人、わからない人

 愛。小説のなかで愛が途方もなくのさばっていることは、みなさんもよくご存じのとおりです。そしてそれが小説に害をなし、小説を単純なものにしているというわたしの意見にも、たぶん同意してくださるでしょう。なぜ愛という経験だけが、しかも、性というかたちをとった愛だけが、なぜこんなに大量に小説の世界に移植されたのでしょう。漠然と小説というものを考えると、すぐに男女の恋愛が頭に浮かびます――結ばれたいと望み、そしてたぶんめでたく結ばれる男女の恋愛です。しかし漠然と自分の人生や、まわりの人たちの人生を考えると、現実の人生はこんなものではないと誰もが思うはずです。もっとずっと複雑なものだと誰もが思うはずです。

(E.M.フォースター 『小説の諸相』)

高校一年のときの現国の授業で、小野先生(仮名)は
「君ら、恋の定義を知ってるか」
と聞いた。
「相手との間に距離を感じたら、それが恋だ」
そして古今集のなかからこの歌を教えてくれた。

夕暮れは 雲のはたてにものぞ思ふ 天つ空なる人を恋ふとて

この歌に詠まれた「天つ空なる人」というのは身分のはるかに高い人、という意味ではなく、たとえ隣にいたとしても、それこそ雲の彼方にいるように思える、という意味だ、そしてそれが恋をしている、ということなのだ、と。

その話は恋だのなんだのということばにやたら感受性が高くなっている年代の生徒たちには、すっと浸透していったようだ。
二年後、こんどは漢文を受け持った小野先生が、前にぼくが言ったことの何を覚えているか、と聞いたとき、わたしの前にいた豊田君(仮名)、読んだブンガクなんて、教科書に載っていた『こころ』と『舞姫』だけ、大学入学後はその体格を見込まれてアメフト部に勧誘された豊田君、その広い背中を遮蔽物として、授業中、先生の目を盗んで本を読むのにわたしが大いに利用させてもらった豊田君が
「先生は、相手に距離を感じたら、それが恋だ、って言いました」
と、およそその身体に似合わないことを、いささか照れ臭そうに答えていたことが、なによりの証ではあるまいか。

もちろんそのことばはわたしのなかにもひっかかり、以来「距離を感じる」とはどういうことなのだろう、と、考えることになる。

もうひとつ、「距離を感じる」とは別にひっかかったことがある。
同じ時期、仲の良かったミユキちゃん(仮名)、彼女はめったやたらと惚れっぽい子で、たいがい誰かに恋をしていた。昨日までなんともなかった宮崎君(仮名)が、ある日、いきなり特別な存在、この世にふたりといない、かけがえのない存在になる。そうして溜息交じりに
「宮崎君って何を考えてるんだろう。ほんと、謎だわ」と言うことになる。
ほんの先週までは、キャハハ、ミヤザキってバカ〜、何てわっかりやすいヤツなんだろう、と笑っていたのに。その宮崎君が渡辺君(仮名)になり、安達君(仮名)になることはあっても、いつもいつも好きになる相手は、不思議で謎で何を考えているか分からない未知の存在だった。

どうして好きな相手の心は「わからない」のだろう。
どうして好きになると、相手との間に距離を感じるのだろう。

後年、そのわたしの疑問に答えを出してくれたのは、E.M.フォースターの『小説の諸相』(『E.M.フォースター著作集8』中野康司訳 みすず書房)である。


2.本のなかにしか生きられない人、本の外で生きる人


先日、阪急電車に乗ったときのこと。
始発の河原町で、後ろの席にふたりの中年とおぼしい女性が乗りこんできた。
「あ〜、座れたわ、この時間に席取れたんはラッキーやったな」
「ほんまにそうやな、ここからずっと立ってなあかん、いうたら大変やもんな」
あたりをはばからぬその声を聞きつつ、『小説と警察』をカバンのなかから出しかけていたわたしは、いやな予感に襲われた。
案の定、ぺちゃくちゃとおしゃべりを始めたその声のでかいこと。『月長石』に関するミラーの考察を、おばさんたちが話す「梅園のみたらしだんご」が妨げる。同じところを二度、三度、読み返してもピンとこないうえ、どうかするとふっと意識が逸れて、パラグラフを二つ、三つ戻っていたりする。
ふたりの会話は、いつのまにか芸能人Aと芸能人Bの離婚の原因についての考察に移っていた。AとBの性格の分析から始まり、芸能活動、推測される収入、芸能界におけるステイタス、生い立ち、家族環境、ありとあらゆる観点からの検討は、まさに微に入り細を穿つもの。
議論が進むにつれて
「それはちがうて……」
「そら、アンタ、なんもわかってへんで……」
といくつかの対立点を孕み、前で聞いているわたしをハラハラさせる(含嘘)場面もあったが、終点に近づくにつれ、ふたりの見解も「離婚の原因はAとBの育ちのちがい」というところに落ち着いたようで、端で聞いていたわたしも、物語の結末を見届けたような気分で満足して電車を降りることができた。ただ件のAとBをまったく知らず、梅田駅構内を歩いているうちにその名前さえ失念してしまったのだが。

1927年、E.M.フォースターはケンブリッジ大学でおこなった連続講義のなかで、聴衆に向かってこう問いかけた。
「小説の登場人物は現実の人間とどこが違うのでしょうか」

この問いにはっきりと答えられるにせよ、答えられないにせよ、わたしたちは少なくとも小説の登場人物と現実の人間を混同することはない。ガープがどれだけリアルでも、たとえ"I believe in Garp!"と書いてあるTシャツを着たとしても、ガープの書いた本がいつ翻訳されるんだろう、と思ったりはしないし、宗助とお米がそのあとどうなっていくのだろう、と思うことはあっても、二人の間に子どもはできたのだろうか、孫の世代なら生きていて見つかるはずだ、と調べてみようと思うことはない。捕物帖のなかで同じように推理比べをやっていても、勝海舟と結城新十郎の間に区別をつけながら(というか、『明治開化安吾捕物帖』に出てくる勝海舟は、実際の勝海舟をキャラクターとして借りただけであることは十分理解しながら)読んでいる。ナボコフが言うように、フィクションはフィクション(虚構)、登場人物はあくまでも本のなかの存在として了解しているのだ。

けれども、芸能人というのはどうなのだろう。確かに生身の人間ではあるのだけれど、一般人が目にするのは、あくまでも「芸能人A」、つまり芸能界という舞台の登場人物のひとりとしてである。わたしたちが手にするAに関する情報も、戦略的に作り上げられたイメージだ。
わたしたちはそのことは了解している。だからこそ正規のルートによらない情報や、あるいは作り上げられたイメージに裂け目を入れるようなスキャンダルは、「芸能人A」と人物Aのギャップを埋めるものとして、一定の情報価値をもつ。
つまり、ときにその境界が曖昧にされることはあっても、わたしたちは、芸能人は生身の人間によって演じられている一種の役柄である、というふうに理解しているのではないだろうか。

ならば、芸能人でもなく、本の登場人物でもない、ふつうの人々、わたしたちの身の回りの人々を、わたしたちは一体どのように理解しているのだろう。
本の登場人物のように、虚構の存在ではない。
芸能人のように、作られたイメージを通して見ているわけではない。
けれども、お父さん、友だち、恋人、親友、そういう役割を通さずに、どこまでその人を知っている、と言えるのだろう。過ごした時間からいえば、本の登場人物や芸能人よりもはるかに長時間、ともに過ごしてきたはずの、ごく身近な親しい存在を、わたしたちはどこまで知っているといえるのだろう。その人を第三者にどこまで正確に説明できるだろうか。

あるいは、自分。
この自分をわたしはどこまで知っているのだろう。
肩書きを使わずに、あるいは、類型的な語句を使わずに、わたしたちは自分のことをどこまで説明できるだろうか。

フォースターは現実の人間と、小説の登場人物のちがいをどのように説明しているのだろうか。
まずフォースターはアランの『芸術論集』を引用する(引用はフォースター全集8からの孫引用)。

小説における虚構の要素とは、作り話の要素ではなく、むしろ、登場人物の考えが行為に発展する場合のその発展の仕方である。現実の人生では、小説に見られるような発展の仕方はぜったいにしないのである。……歴史は外的原因を重視し、宿命論に支配されている。しかし小説では、すべてにおいて、人間の内的原因が重視され、宿命論は存在しない。小説の支配的感情は宿命論ではなく、すべてのことが人間の内的原因によって生ずるという考え方である。小説においては、情熱も犯罪も不幸もすべて人間の内的原因によって生ずるのである。

つまり、ことばを換えれば、小説の登場人物の行動は、すべてその心情的動機によって説明がつく、ということなのだ。それが小説の虚構の要素なのだ、ということである。
そのうえで、フォースターは現実の人間と、登場人物のちがいをこう説明する。

現実の人生では、人間はお互いに完全に理解しあうことはありえません。相手の心がすべてわかることもありえません。自分の胸の内をすべて告白することもありえません。われわれは表面に現れた言葉や表情や身振りによって、お互いにだいたいのところを理解しあうだけです。そして(親密な交わりも含めて)、現実の人間同士のつきあいに必要な土台としてはこれで十分です。しかし小説の登場人物は、もし作者がそうしたいと思えば、読者によって完全に理解されることが可能です。外的生活だけでなく内的生活もすべて読者の目にさらすことができます。歴史上の人物や自分の友達よりも小説の登場人物のほうがはっきり見えるような気がするのはこのためです。

小説を読んでいて、非常にリアリティに満ちた登場人物に出会うことがある。 「まるで実際に生きているようだ」「こんな人物をわたしは知っている」「××にそっくりだ」「ああ、こんな人と現実に出会えたらな」
実はそういうことを感じることができるのは、熟達した作者が、細部までゆるがせにせず、その登場人物を創り上げているからなのである。登場人物がリアルなのは、現実の人間に似ているからではなく、作者がリアルに創り上げているからなのである。

芸能人の場合は、小説よりは不十分な「物語」だ。けれども、生身の人間がそれを演じることで、さらに物語の不十分な部分は、さまざまな情報をもとに、視聴者の側が物語を補っていく。ひとりの作者によるものではなく、多くの人間によって紡がれた物語、自分も加わることによって完成していく物語なのである。

もちろん小説の登場人物がいつもいつもわかりやすいとは限らない。それはなぜか。
実は作者が容易には見つけられないように、それを隠しているからなのである。

ナタリー・サロートは『不信の時代』(白井浩司訳 紀伊国屋書店)でこのように述べている。

 読者は――小説家の場合も同じであって、緊張感を失うとすぐにそうなるのだが――長い間の修練の結果、日常生活の便利さから、かれ自身それに気づかずに類型を行なうのである。鈴が鳴ると唾液を分泌するパブロフの犬のように、読者はほんのちょっとした手がかりをつかまえては、作中人物をこね上げてしまうのである。……
 小説家の探求の努力のすべてが集中されるのは、まさに心理的要素に対してであって、読者の注意力のすべてもまたそれに向けられるべきである。……
 作中人物が安易な生気とほんとうらしさを獲得するときに、それらが支柱の役割をはたす心理状態は、その深い真実性を失うのである。読者が注意を散らして作中人物に気を奪われることは避けなければならない。そのためには、読者の手からあらゆる手がかりを奪い取ってしまうべきである。そうでないと、読者は生来の傾向から、自らの意思に反してうっかりそれを掴んでしまい、まやかしものをこね上げることになるだろうから。
 ここに、作中人物が今日では、もはや己れ自身の影にすぎない理由がある。作中人物があまりにも容易に見わけられる特徴を、小説家は、いやいやながら作中人物に与えるのである。肉体上の外観、挙措、動作、感動、日常的感情などがそうであるが、それらはすでに長い間研究され、知られているので、作中人物にたやすく生命感を与えるのに役立つと同時に、読者に取っつきやすい手掛りを与えることにもなる。今日では、どうしても作中人物に持ってもらわなければならない名前でさえも、小説家にとっては困惑の種なのである。

ここではふたつのことに注目してほしい。
まず、わたしたちは日常的に、人に対して「類型を行っている」という指摘。
そうして、その類型によって、「勝手にまやかしものをこね上げる」という指摘。
作者はこうして読者が登場人物を類型に当てはめ、その類型にしたがってテクストから離れて勝手に物語を作っていこうとするのを防ぐために、登場人物の手がかりを消すことさえあるのだ。

その最たるものが名前である。小説に置いては、名前はつねに何かを意味している。作家にとっては人物を創り出すうえでのきわめて重要な要素であり、読者にとっては登場人物を読み解くてがかりでもある。
サロートは『響きと怒り』でフォークナーが用いた手法を指摘する。クェンティンという名もキャディという名前も、ふたりの人物に与えられるのである。これでは読者は筋を追いながら読み飛ばすことはできない。どちらのことを言っているのか、その都度、登場人物の内部に入り込んでいって、内面から理解していくことが求められる。

あるいは、もっと新しい例ではオースターの『幽霊たち』(新潮社)。

 まずはじめにブルーがいる。次にホワイトがいて、それからブラックがいて、そもそものはじまりの前にはブラウンがいる。ブラウンがブルーに仕事を教え、こつを伝授し、ブラウンが年老いたとき、ブルーがあとを継いだのだ。物語はそのようにしてはじまる。

オースターは「かならずなにごとかを意味している名前」という約束事をひっくりかえしてみせる。意味するものである名前と、意味されるもの=登場人物のあいだには、何の因果関係もないのだ、それどころか、意味されるものはみずからを意味するものである名前をつなぎとめておくことさえできないのだ、と。こうして物語は果てしなくずれていき、迷路の様相を呈し、探偵はそのなかで途方に暮れる。

3.扁平人物と円球人物

さて、作者はこの類型化を意識的におこなうこともある。
ここでまたフォースターに戻ろう。

フォースターは、小説の登場人物は、扁平人物と円球人物に分かれる、という(中野訳では「平面人物」「立体人物」と訳されているが、ここでは"flat character""round character"の原意に近い「円球」を、さらに円球対応するものとして「扁平」を当てた)。

たとえば『坊っちゃん』に登場する「赤シャツ」「野だいこ」「うらなり」「山嵐」といったニックネームを持つ人物たちは、ニックネームどおりに一語で要約できる人物である。「赤シャツ」だったら、赤いシャツを着た気取り屋で、策を弄して同僚の婚約者を奪うイヤな人物、「野だいこ」はおべっか使い、というように。こうした人物が「扁平人物」である。

それに対して主人公の「坊っちゃん」はひと言で要約できない。最初に登場してくるときに背負っている「一本気」という言葉だけでは要約しきれない、さまざまな側面がストーリーの進展につれてあきらかになってくる。
このような人物が「円球人物」なのだ。

「円球人物であるかどうかの規準は、それがわれわれを納得させながら、驚かせることができるかどうかです。もしそれが少しも驚かさないなら、扁平です。納得させないなら、扁平のくせに丸いふりをしているのです。円球人物は人生――小説中の人生ですが――の測りがたさを身辺に漂わせています」

(『小説の諸相』 フォースター著作集8 みすず書房)

実生活においても、わたしたちは自分以外の人間に対して、ある種の類型化をおこなっている。自分はつねに円球人物、そうして自分の周囲に存在する人々は、そのふくらみに多少の差はあるにせよ、みな一種の扁平なのである。それが「他者を理解する」ということであり、「他者の行動を予測する」とは、類型に従って物語を作っていく、ということなのである。

扁平人物の最大の長所は、彼らがいつ登場してもすぐにわかるという点です。同じ固有名詞が出てきたからわかるという、視覚的な目によってではなく、「あ、またあいつが出てきたな」という、いわば読者の情緒的な目によってすぐわかるという点です。……つまり扁平人物は、一度その特徴をしっかり書いてしまえばあとはあらためて紹介する必要もなく、逃げだす心配もなく、性格の発展に気を使う必要もなく、そしていつも同じ雰囲気で登場してくれるのでたいへん便利なのです。……  扁平人物の第二の長所は、あとで思い出しやすいという点です。扁平人物は環境によって変化しないので、あとで思い出すときに安心感があり、彼らを生みだした小説が忘れられても、彼らだけは記憶に残るのです。

わたしたちが他者に対するときも、実は同じような理解の仕方をしているのではないだろうか。「わかった」と思うのも、安心して言いたいことが言えるのも、その人間の精神の複雑さなどあまり考慮に入れることなく、ふたつかみっつの側面だけを選び、残りは無視してしまう。意識的に選ばれたその特徴に合致しない部分は、意識的・無意識的に無視してしまう。必要に応じて、わたしたちは他者をさまざまな厚みの「扁平人物」として見なしている。

ならば、自分という物語の主人公、自分自身にとっては究極の円球人物である「自分」のことを、わたしたちはどこまで知っているのだろう。

4.自分という物語


わたしはなくしてしまった
なくしたって なにを?
どこかで見かけましたか?
見かけたって なにを?
わたしの顔を
いいえ

(R.D.レイン『好き? 好き? 大好き?』村上光彦訳 みすず書房)

精神分析医のR.D.レインは『自己と他者』(志貴春彦・笠原嘉訳 みすず書房)のなかで、アイデンティティとは「自分が何者であるかを、自分に語って聞かせる説話(ストーリー)である」とした。
自分はこのような人間だ、という直接的な形をとるばかりでなく、〜が好きだ、〜と思う、と、普段「わたしは」という主語をつけずに考えるようなことがらであっても、〜が好きだ、〜と思う、と考えながら、実は自分自身のアイデンティティを確認しているのだ。ものごとについても、自分がやったことが、かくかくしかじかのことを引き起こした、という、自分を中心とした因果関係の物語として、理解し、把握している。

このことは自分のうちだけに留まるものではありえない。さらにレインから引く。

女性は、子供がなくては母親になれない。彼女は、自分に母親としてのアイデンティティを与えるためには、子供を必要とする。愛人のいない恋人は、自称恋人にすぎない。見方によって、悲劇でもあり喜劇でもある。〈アイデンティティ〉にはすべて、他者が必要である。誰か他者との関係において、また、関係を通して、自己というアイデンティティは現実化されるのである。

アイデンティティというストーリーは、自分が自分に語るだけでなく、他者との関係において承認されることが必要なのである。
ひところさかんに言われた「自分探し」ということばも、自分が自分に語って納得のいくストーリー、それが他者にも承認されうる「望ましい」ストーリー探しにほかならない。
あるいは心理テストや血液型占いが決してすたれることがないのも、自分を広く受け容れやすいことば(たとえば「A型だから几帳面」)で類型化し、自分で納得し、他者に承認してもらおうとしているから、と考えることができよう。 けれどもことばによって「自分」を完全に言い表すことなどできない。ことばは決して「もの」そのものを表すことはできないのだ。 わたしたちはそのことに気がついている。どんなことばで自分を表そうとしても完全に自分だけを言い表すことばは見つからない。どこかで妥協点を見出すか、こうでありたい、というモデルを見つけて、それに合わせて自分という物語を紡いでいくか。二者択一ではなく、多くの場合、わたしたちはこの両方を行いながら、自分が何者であるかを見つけていく。

この「自分が何者であるかを主人公が見つけていく」というストーリーは昔から、文学の大きなテーマだった。主人公が成長して行くにつれて、みずからの人格を深めていく「教養小説」というジャンルもあるし、『ボヴァリー夫人』で主人公のエマはロマンス小説を読むなかから「自分を見つけ」ようとする。『偉大なギャツビー』には、愛のために壮大な自画像を描きながら、その愛を手にしようと行動したときから崩壊していく主人公が描かれる。

ここで疑問になってくるのは、わたしたちが自分を主人公にした物語を紡ぐ、ということを、大昔から続けているから、そうしたことが文学の大きなテーマとなっていったのか、逆に、文学の大きなテーマだから、わたしたちが自分が何か、というストーリーを重要と考えるようになったのか、ということだ。

前者であることはあたりまえ、と思うかもしれない。だが、文学作品を読むことで、明治時代の学生たちは「自我とは何か」考えるようになったし、維新前には存在しなかった「恋愛」について思い煩うようになったのである。ラ・ロシュフコーは「恋愛について語られるのを聞いたことがなければ、誰も恋をしているなどと思いもしなかったろう」と言っているけれど、確かに恋愛が詩で歌われることもなく、物語の題材にさえならなかったら、わたしたちは特定の人間に引かれる心的状況を「恋愛」というものだとは理解できないだろうし、ましてそれが「ロマンティックなもの」というふうに考えることなどあり得なかっただろう。
実はこのことは、文学をどうとらえるかという非常に大きな問題につながっていくので、ここでは扱わない。
とりあえず、わたしたちがアイデンティティという物語を紡いでいくようになったことには、文学が大きく関わっている、という程度にとどめておく。

さて、ここで、決して類型化できない人間がわたしたちの物語に登場する。


5.扁平にはならない人物


最初の方で出てきたミユキちゃん(仮名)は、恋に落ちると、いつも「運命的な出逢い」を感じる、と言っていたものだった。運命的な出逢いというのは、人によってはずいぶんゴロゴロ転がっているものだなー、とおもしろがっていたのだけれど、いま考えてみると、それも非常に納得のいく話で、おもしろがったりして悪かったと思う。ごめんね、ミユキちゃん(仮名)。

つまり、好きだ、と思うことは、相手を発見することだ。
これまで相手の顔など、何十回、何百回見てきたかわからないけれど、それはほんとうに「見」たのではなかった、「類型」というフィルターを通して見ていたのにすぎない。
「ほんとうの宮崎君(仮名)」を見たのは、いまが初めてだ。
そういう意味で、発見したのだし、たとえ昨日まで毎日会っていたとしても、そんな会い方とはまるっきりちがう出逢いなのだ。これを運命と言わずしてなんと言おう。

わたしたちは他者を見るとき、いつも何らかの類型をおこない、自分なりに意味づけつつ、その意味を通して相手を見ている。自分にとって、「ひとことで十分」の相手は「ひとこと」で片付けるし、もう少し意味づけが必要なら、そのリストは長いものになる。

けれども恋に落ちたら、相手のことを書き連ねたリストがどれだけ長くなっても、まだまだ足りない、どうやっても言い尽くせない部分があるような気がする。だから、相手のことがわからない、と思う。

わたしたちは実は、他者のことなどわからないのだ。「他人の痛みを感じる」というフレーズがあるけれど、これはひどく矛盾した話だ。感じることができた時点で、すでにそれは自分の痛みになってしまう。感じることができないから、他人の痛みなのだ。
けれど、相手の発言や、動作、行動を見て、自分がこれまで会ったり、本で読んだりしながらストックしてきた人間の類型にあてはめて、わかった気になっている。
ほとんどの他者はそれで十分なのだ。
そこへ十分ではない他者が現れた。

宮崎君のことばは何を意味しているのだろう。
宮崎君のあの行動にはどういう意味があるんだろう。
あのときわたしがああ言って、宮崎君がこう答える前に、少し間があったけれど、その間はどういう意味があるんだろう。

べつに意味ないんじゃない?
第三者から見れば、どうだっていい、バカバカしい問いだ。
けれども当人にとっては切実この上ない問いなのだ。
そして、この問いは、結局はひとつの問いに繋がっていく。
――宮崎君は、わたしのことを好きなんだろうか。

ここで、もうひとりの類型化しきれない人間が出てくる。
自分自身だ。
どれほどのことばをついやしても、自分に語って聞かせる物語は終わりにはならない。適当なところで見切りをつけて、受け容れやすいところで妥協して、他者にも承認してもらったあたりで普段は納得しているけれど、ほんとうはそんなものではない、とどこかで感じている。
類型ではない、この世にたったひとりしかいないあなたに、この世でたったひとりしかいないわたしを認めてほしい、理解してほしい、と願う、それが恋愛ということなのではあるまいか。
もっと知りたい。もっと知ってほしい。そばにいても決してわかりあえないがゆえに「距離を感じる」。
それゆえに、これまでにないほどに、孤独になっていく。

さて、もう一度、フォースターに戻ろう。

作者は知っていることを全部言うとはかぎりません。わかりきったこともたくさん隠されているかもしれません。しかしとにかく作者は、登場人物のすべてが説明されるわけではないが、そうしようと思えばすべてを説明できる、という印象を読者に与えます。そして読者はこの印象ゆえに、現実の人生ではけっしてお目にかかれない種類のリアリティーを感じることになるのです。
 現実の人生ではお目にかかれないというのは、つまり、現実の人間同士のつきあいにはつねに不明瞭なものがつきまとうということです。……お互いを完全に理解しあうことなど幻想にすぎません。しかし小説では、われわれは登場人物という人間を完全に理解することができます。そしていわゆる読書の喜びとは別に、われわれはここで、現実の人間の不明瞭さにたいする不満を解消できます。……彼女たち(※小説の登場人物)は、秘められた心の生活が見える人間なのです。あるいは、見えるかもしれない人間なのです。そしてわれわれは、秘められた心の生活が見えない人間なのです。
 われわれは悪人が登場する小説も楽しく読めますが、これも理由は同じです。小説は、現実の人間よりも理解しやすくて扱いやすい人間をわれわれに示してくれるのです。そして、人間に対する洞察力がついたという幻想をわれわれに与えてくれるのです。

なぜ小説を読むのか、という問いに対する昔からよくある答えのひとつに、人間の心理が学べるから、というものがある。
確かに、小説には登場人物の心理が描かれている。心理状態の推移をこと細かに教えてくれるものもあるし、行動を描くだけで、その心理については読者が読みとっていくことを求めるものもある。あるいは、情景や天候、衣服などに暗示させているものもある。そうしてわたしたちは、「登場人物の心理」というものをストックしていく。こういうときに、こういう心理状態になるのだな、あるいは逆に、こういう心理状態から、こういう行動をとってしまうのだな。
わたしたちはそのストックされた知識を、他者に対しても応用していく。現実の人間の心理を知ることができるのではなく、文学作品によって得た類型に、当てはめていくのである。

登場人物は、現実に生きる人間を分類していくときにも使われる。
よく言われる「ドン・キホーテ型」と「ハムレット型」ばかりではない。わたしたちは現実の人間を、反抗的で繊細なホールデン・コールフィールドや、出世のために女性を振り捨てた太田豊太郎を見ようとする。

小説は、現実をなぞったものではない。
「重々しく、肉づきのいいバック・マリガンがシャボンの泡立つボウルを捧げて階段口から現れた」という一文は、どこかにいるバック・マリガンについて教えてくれる情報ではなく、バック・マリガンと彼が生きる世界を、この世界のなかに生みだしたのだ。
わたしたちはここからバックの頭のなかにつぎつぎに浮かんでいくあれこれを、こと細かに見せられる。そうしてそれを「意識の流れ」と呼ぶようになる。そのことで、逆に自分の意識がつぎつぎと移り変わり、流れていくことを意識するようになる。

小説は、恋愛について語り、恋愛に対するあこがれをかきたて、恋愛のシナリオを仕立て上げる。「恋をしている」という状態があると、わたしたちを信じこませ、その一方で、そんなものは幻想だ、とうち消してもみる。
フォースターが言うように、確かに小説を読んでも、他者も、自分も理解できるようにはならないだろう。
けれども当てはめることができるようになる。自分や他者を掬い取る網の目はより細かなものになり、他者や自分を見る眼はより深さを増していく。そうやって、またふたたび、この未知なる他者と向かい合い、未知なる自分を抱えて生きていくモノサシと虫眼鏡とエネルギーとなぐさめを与えてくれるのではあるまいか。






初出March.19-23, 2005、改訂March.28, 2005



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