home この話したっけ>自転車置き場と「正しい」距離



自転車置き場と「正しい」距離

貨幣は人間と人間とのあいだの関係、
相互依存関係の表現であり、その手段である。
すなわち、ある人間の欲望の満足を
つねに相互にほかの人間に依存させる相対性の表現であり、
その手段なのである。
―― ゲオルク・ジンメル 『貨幣の哲学』

イシス神



1.ことの発端

駅からの帰り道の途中にスーパーがある。
そこの駐輪場は、わたしが通りかかる時間帯はいつも自転車であふれていて、そのままだと舗道をふさぎかねない。だからスーパーの側も、自転車の整理にあたる人を雇っている。何人かいるようだが、どの人も初老の男性で、自転車が新しく入ってくると、並べ直して空いた場所を確保し、その人が停めたあとは置き直し、買い物を終えた自転車が出ていくと整理し直しては新しく入ってきた自転車を誘導する。自転車といっても前カゴや後ろカゴの有無、子のせがあったり、荷台に段ボール箱がくくりつけてあったり、折り畳み自転車だったり、大きさも幅も差があって、限られたスペースにできるだけ多くの自転車を並べようと思えば、移動させることも必要になる。

シジフォスの岩のごとく、並べ直しても並べ直してもきりのない作業で、雑な停めめ方をする人もいれば、何かの拍子に将棋倒しになることだってある。できるだけ詰めて並べれば、今度は出すときに大変だ。冬は寒いし、夏は暑い、雨の降る日は自転車も少ないが、それでも合羽を着て少ない自転車を整理している。

わたしもいつも世話になっているのだが、そんなふうに自転車をたえず並べ直しているものだから、停めた場所に自転車がないことも、たまにある。手前の列に置いていたはずなのに、そこには見あたらず、奧の列に置き直されていたりもする。それでもまあ自分の自転車ではあるし、駐輪場と言ったところで一目で見渡せる程度の広さなのだから、それで困るようなことはなかった。

ところが今日、買い物を終えて自転車置き場に行ってみると、三十代前半くらいの女性が自転車整理のおじさんにくってかかっている。ヒールのある靴を履いたその人は、小柄なおじさんよりはるかに大きく、腕を組んで文句を言うその姿は、まるで上からのしかかるようだった。

「人の自転車を勝手に動かして、それでいいと思うてるんですか」

一応、質問の体裁をとってはいるが、語尾はさがっていて、もちろん質問などではない。その人はどうやら荷物が多くなることを見越して入り口のすぐそばに置いたところが、「勝手に」どこかに移動されてしまったらしい。いったいどこに置いたんですか、わたしはこんなに荷物を持ってるのに、これで探せるわけがない、自転車をここまでもってきてください、ほら、わからないでしょう、勝手にそんなことするから。人のものを勝手にさわるのは泥棒と一緒じゃないですか……。

わたしが自分の自転車を見つけて、前かごに荷物を入れ、さらに自転車を出すあいだに耳に入ってきた言葉というのは、ざっとこうしたものだった。もちろんこんなに理路整然? とした調子ではない。頭に浮かぶ言葉をそのまま、相手にぶつけていたのだった。

通りかかる人も何ごとかと振り返る。そういうなかで強い調子で言いつづけることに、気恥ずかしい思いは生じなかったのだろうか。もしかしたらその人の、自分が正しい、相手は悪い、という気持ちは、誰から聞かれても恥じることはない、という確信にまで高まっていたのかもしれない。人のものを勝手にさわるのは泥棒と一緒、という理屈を遠くで聞きながら、同じように、私物をさわられることが決して好きではないわたしは、それでもなんだかな、と思ったのである。さわらないで自転車を整理することはできないじゃないか。整理するために、少々場所を動かしたって、それは仕方がないことだろうに。

事実、私物を別の人にゆだねる機会というのは、日常的に決して少なくないはずだ。美容院に行けば、まず最初にかばんや上着をあずかってもらうし、飛行機に乗るときは、スーツケースは空港で預けたきり、目的地に着いて手元に戻ってくるまで、いったいどこにあったか、どういう状態で保管されていたのか知ることもない。クリーニング屋では自分の服が洗濯してもらっているあいだはクリーニング屋の管理下に置かれるし、車を修理に出すときや、定期検診のときには、やはり同じように別の人に車の管理をゆだねる。わたしたちは、そういうときに「人のものを勝手にさわるのは泥棒と一緒」とは言わないのだ。

では、こういう場合はどうだろう。
これも以前に遭遇した出来事なのだが、病院の待合室で、自分が脱いだ上着やらマフラーやらを積み重ねて、座席をひとつ余分に占領していたおばあさんがいた。やがてその人は診察室に入っていくときに、上着をそのまま残していったのである。やがてわたしの番が来てその場を離れた。何もかもが終わって待合室に戻ってくると、なにやら揉めている。おばあさんが服を置いた場所には別の人が坐っていて、服を勝手にどかした、いや、そこにいもしないのに座席を占領している方が悪い、と言い合いになっていたのだ。確かそのおばあさんも「人のものを勝手にさわるのは泥棒と一緒」という意味のことを口にしていたような気がする。

こう考えてみると、おもしろいことに気がつく。わたしたちは自分がお金を払って管理を頼むときなら、たとえそれを移動されても「自分の持ち物を勝手にさわられた」というふうには考えないらしい。つまり「お金を払う」ことは、「管理を委託」することを意味する。もちろん委託された側は管理責任を負うことになるのだが、その管理責任下なら、「勝手にさわ」っても「泥棒と一緒」ではなくなるのである。

もちろんスーパーの駐輪場の管理費だって、スーパーの価格に反映されているのだろうし、わたしたちが間接的に負担していることはまちがいない。だから、自転車を移動されても「管理」ととらえるわたしは違和感を覚えなかった。ところが件の女性は駐輪場の整理は、スーパーの照明や冷暖房、広告などと一緒で、自分が負担しているというより、スーパーの側が提供する「サービス」のように感じられたのではあるまいか。「サービス」であるとするなら、サービスの受け手の意に染まないことは許し難い。そんなふうに思ったのかもしれない。

「お金を払っている」という意識は、こんなふうにわたしたちの関係のありかたを変えるのだろうか。もう少しこの「お金を払う」ということについて考えてみたい。


2.無料コンサート


こんな話を聞いた。
市の主催するクラシックコンサートが開かれた。普段、コンサートになかなか足を運べない家族連れがおもな対象だったらしく、値段も格安、さらにあちこち無料でばらまいていて、タダで聴きに行った人も多かったらしい。

なかなか楽しいコンサートだったらしいが、二時間の演奏が終わるや、アンコールも待たず、観客は席を立ってどんどん帰り始めた。結局アンコールは軽いピアノ1曲でおしまいになったそうだ。その話を教えてくれた人は、「コンサートの醍醐味はアンコールにあると思うんですが、アンコールを聞かずに帰るというのはなんとももったいない話です。自腹で高いお金を出してチケットを買った人なら、アンコールも聴かずに帰るなんてこともしなかったでしょうね」と言っていた。わたしはその話を聞いて、それでも二時間、席を立たず、子供が走り回りもせずにじっと聴いたというだけで、その種のコンサートとしては「成功」ということになるのだろう、と思ったものだった。

一方で、「欧米に比べて日本のコンサートは高い」といった声もよく耳にする。欧米ではもっとコンサートは気軽で身近なものだ、日本でもそうすべきだ、という考え方である。実際のところ、ほんとうにそうなのかどうかはよくわからないし、そもそもコンサートに「適正価格」のようなものが設定可能なのかどうなのか、疑問でもある。

ただ、ひとつ確かなことは、自腹を切って高いチケットを買った人は、無料で聴きに行った人より一生懸命聴こうとするだろうし、一曲でも多く聴こうとアンコールの拍手にも熱がこもるだろう。結果として、その演奏会の聴衆の態度は、無料コンサートのそれにくらべると、はるかに熱のこもったものになるだろう。聴衆と演奏家が一体になる、演奏家にとっても聴衆にとっても夢のように幸福なコンサートがときどきあるものだが、おそらくそれはその延長にあるはずだ。

ここで、おもしろいことに気がつく。お金を払ってチケットを買った人は、演奏を聴く「自由と時間」を買ったと同時に、演奏会を盛り上げるという意味で、主催者の一翼に連なることになる。そこに集まってくる人は、みずからすすんで「コンサートの一員」としてふるまうだろう。つまり、お金を払うことで、わたしたちはそのものと結びつくことが可能になるのである。

一方で、高額のチケットは、それを買うことのできない人々を、そこから遠ざけることにもなる。TVで日常的に流れることのないような音楽は、聴く人がますます減っていく。
その結果、そうした音楽はますます高額化し、聴くチャンスは減って、大量に配信され使い捨てられるような音楽と両極化していくだろう。

いまのわたしたちの「聴くことの喜び」は、単に与えられる音楽を消費することだけではない。さまざまな音楽にふれながら、その多様な世界のなかから自分にとって意味のある音を探し、自分独自の価値を作り上げていくことをも含んでいるはずだ。ところが音楽とお金という本来ならまったく関係のないものが介入してくることで、その音楽を自分のものにすることは、お金を払うことにつながっていき、音楽のちがいは値段の差としてしか認識されなくなってしまうのではあるまいか。

このことは、お金のふたつの働きをあらわしているとは言えないだろうか。お金を払うことで、わたしたちはものや人との新しい結びつきを手に入れることができる。一方で、それを払うことによって、「金額」という一元化されたモノサシのもとにわたしたちは置かれてしまうのである。

もし自転車置き場がなかったらどうだろう。スーパーの前は違法駐輪の自転車であふれ、歩道を通ることもできなくなるだろう。管理する人がいなければ、盗難も起こるかもしれない。帰る途中で買い物をすることもあきらめなければならなくなるだろう。

だが、わたしたちは直接的か間接的かにお金を払って、駐輪場を管理する人に自分の自転車を預けることができれば、その間、安心して買い物をすることができる。

ところがこのようにお金を媒介にした関係が「当たり前」になっていくと、今度は逆にお金を直接的に媒介としない人との関係を、うまく築いていけなくなってしまうかもしれないのだ。わたしが見た駐輪場の女性も、直接お金を払っていれば、少なくとも「人のものを勝手にさわるのは泥棒と一緒」ということは言わなかったのではあるまいか。


3.お金がものを言わない世界


太宰治の『親友交歓』という短編は、非常に興味深い作品である。ここでは「お金」という観点からこの作品を見てみたい。

主人公の「私」は、戦争中に東京を焼け出されて、津軽の生家に妻子と共に居候している人物である。そこに「親友」を自称する「平田」という人物が現れる。主人公にとって相手は「その顔には、幽かに見覚えがあった」という程度でしかないのだが、相手は小学校時代「しょっちゅう喧嘩をしたものだ」という。

彼は東京で作家をやっているという主人公のところに、クラス会の話を持ってくる。主人公は、そういうことなら、と、お金を渡そうとするのだが、平田はそのお金は受けとらない。代わりに「酒は無いのか」と言い出した。

主人公は秘蔵の「ウイスキイ」を飲ませる。さらには「かかがいないか。お酌をさせろよ」と主人公の妻に酌をさせることまで要求するのである。

 彼は平然と首肯して、また飲む。
 さすがに私も、少しいまいましくなって来た。私には幼少の頃から浪費の悪癖があり、ものを惜しむという感覚は、(決して自慢にならぬ事だが)普通の人に較べてやや鈍いように思っている。けれども、そのウイスキイは、謂わば私の秘蔵のものであったのである。昔なら三流品でも、しかし、いまではたしかに一流品に違いなかったのである。値段も大いに高いけれども、しかし、それよりも、之を求める手蔓が、たいへんだったのである。お金さえ出せば買えるというものでは無かったのである。私はこのウイスキイを、かなり前にやっと一ダアスゆずってもらい、そのために破産したけれども後悔はせず、ちびちび嘗めて楽しみ、お酒の好きな作家の井伏さんなんかやって来たら飲んでもらおうとかなり大事にしていたのである。しかし、だんだん無くなって、その時には、押入れに、二本半しか残っていなかったのである。

地縁血縁から離れて都会で生活していた主人公は、お金を媒介にした人間関係の世界で生きてきた。この「ウイスキイ」は「お金さえ出せば買えるというものでは無かったのである」とある。つまり主人公は単に店に行って買ってくるという方法で手に入れたのではない。「之を求める手蔓」、つまりその世界のなかで、もっと親密な関係をあらたに作りだしていたのである。

主人公は平田に対しても、お金を媒介にした人間関係を築こうとする。ところが平田はそれを拒否する。そうして、主人公の世界のなかにどんどん踏み込んでくる。主人公は距離を保ちたい。だが、その一方で、この平田とも、うまくやっていきたい、と思っている。たとえ不愉快な相手ではあっても、その場だけでもうまく関係を築いていきたいのだ。

平田は最後まで傍若無人な振る舞いをし続ける。

 けれども、まだまだこれでおしまいでは無かったのである。さらに有終の美一点が附加せられた。まことに痛快とも、小気味よしとも言わんかた無い男であった。玄関まで彼を送って行き、いよいよわかれる時に、彼は私の耳元で烈しく、こう囁いた。
「威張るな!」

平田は主人公のなかに一体何を見て「威張るな!」と言ったのだろう?

主人公が地縁血縁から離れて東京で自由に生きることができたのは、生家のお金の力だった。そこから彼は東京で生活し、そこで作家活動を開始し、一家を構え、新たな人間関係を築いて行った。その関係は、地縁血縁の関係のように、目に見えるかたちで人が人を支配するような関係ではない。お金を媒介にして結びつく、適度な距離を持った関係である。他者との距離のバランスに配慮しながら、関係そのものを楽しむような関係。「井伏さん」に代表されるような関係は、そういうものだったのだろう。

ところが平田はそうではない。主人公にとってそんな相手ではないことはあきらかなのに、そのくせその場だけ、うまく関係を築こうとする。もちろん、相手のためではないのだ。自分が洗練させてきた人間関係の感覚を、自分のために、それにはそぐわない相手であっても適用させようとしたのである。平田が一方的に主人公の世界に踏み込んでこようとしたように、主人公もまた一方的に相手との洗練された関係、つまりは友情があるかのように振る舞ったのだ。ありもしないものをあるかのように振る舞ったことに対して「威張るな!」と鋭い言葉を投げつけたのではなかったか。

『親友交歓』の主人公のとまどいと、ずんずんと踏み込んでくる相手に対する嫌悪感は、現代のわたしたちにも非常によくわかる。もしかしたら、作品が発表された当時、人々が感じたよりもいっそう、いまのわたしたちにとって「平田」のような人物は、リアルな悪夢として思い描けるのかもしれない。

お金を媒介にすることで、わたしたちはさまざまな交渉を、簡単に、安全にやってのけることができるようになった。いちいち深く交渉しなくても、相手のことを知らなくても、自分で何かを証明しなくても、お金を払いさえすれば、自分の物を預けたり、何かを依頼したり、ある出来事に参加することができるようになった。だがその結果、わたしたちの間には距離が生まれてしまったのである。

その距離をふまえながら、わたしたちはさまざまな関係を築いていこうとしている。ときに駐輪場の女性のように、関係を築くことに失敗したり、あるいは「平田」のように、前近代的な人物に脅かされたりしながら、なんとか危ういところでバランスをとりつつ、少しでも心地良い関係、うまくいく関係を作りだそうと綱渡りをしているのかもしれない。



初出Oct.18, 2007 改訂March.11 2008

▲Topこの話したっけHome




※ご意見・ご感想はこちらまで


home