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あなたのなかの「子供」―描かれた子供たち

――そして、彼らが一夜のうちにおとなになり、もはや永久に子供でなくなってしまったのは
その十月の、ある週のことであった。
(レイ・ブラッドベリ 『何かが道をやってくる』)

犬

トルーマン・カポーティの「ミリアム」を訳しながら考えた。
ミリアムがミセス・ミラーの分身であるとしたら、なぜティーン・エイジャーになるまえの十歳か十一歳の姿であらわれたのだろう?
どうして四歳ではなく、あるいは十七歳でもなく、二十代でも、三十代でもなかったのだろう。

確かなのは、現れる分身の年代によって、物語はまったくちがうものになっていくだろう、ということだ。あのミリアムは十歳か十一歳、子供でもない、娘でもない、危うい年代の少女であることが必要だったのだ。

文学にはさまざまな子供が描かれる。
子供はどんな役割をその作品のなかで果たしているのだろう。
ここではそのことを考えてみたい。


1.一人称の子供


小説のなかで、大人になった主人公が、子供のころを振り返ることがある。
なかでも冒頭部分では、自分の子供時代がどのようだったかを説明する種類のものが少なくない。

たとえば『坊っちゃん』ではこうなっている。

 親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。

大人になった「坊っちゃん」は子供時代を振り返っていろんなエピソードをあげていく。
・二階から飛び降りたこと。
・ナイフで自分の親指を切ってみせたこと。
・勘太郎とケンカをして、相手を失神させてしまったこと。
・ニンジン畑で相撲をとったこと。
・田圃の井戸の水を止めてしまったこと。

こうしたエピソードはすべて「坊ちゃん」がいかに無鉄砲なやんちゃ坊主であったかの傍証である。
つまり、大人になった「坊っちゃん」は、いまの自分のルーツを、その無鉄砲なやんちゃ坊主に求め、そこから自分を語ろうとしているのだ。

太宰治の『人間失格』の語り手大庭葉蔵も、「坊っちゃん」とまったく同じことをする。

 自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜けのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。

 また、自分は子供の頃、絵本で地下鉄道というものを見て、これもやはり、実利的な必要から案出せられたものではなく、地上の車に乗るよりは、地下の車に乗ったほうが風がわりで面白い遊びだから、とばかり思っていました。
 自分は子供の頃から病弱で、よく寝込みましたが、寝ながら、敷布、枕のカヴァ、掛蒲団のカヴァを、つくづく、つまらない装飾だと思い、それが案外に実用品だった事を、二十歳ちかくになってわかって、人間のつましさに暗然とし、悲しい思いをしました。

「人間の生活というものが、見当つかない」大庭葉蔵は、過去を振り返る。
自分は子供の時、停車場を「外国の遊技場」に見立てていた。たとえ子供であっても、そこがもちろん「外国の遊技場」だと思っていたわけではない。見立てる自分をはっきりと意識していた。つまり、現実を味気ないものと感じ、味気ない現実を少しでも彩り豊かなものにするために、世の中にはいくつもの仕掛けがあるのだと考えていた。

ところがそうしたものはすべて実用的な目的に沿ってつくられているらしいと知った。自分が味気ないと感じる現実を、ほかのひとびとは味気ないとも思わず満ち足りているらしい。生活とは何なのか。どうしてそんなものに耐えられるのか。
いまにも続く疑問は、子供時代に端を発している。つまりはこの疑問を軸に、自分というものは形づくられているのだ、と語るのである。
つまり、葉蔵も「坊ちゃん」と同じく自分の本質を子供時代に求めているのである。

その人がだれ(who)であり、だれであったかということがわかるのは、ただその人自身が主人公である物語――いいかえればその人の伝記――を知る場合だけである。その人について知られるその他のことは、すべてその人がなに(what)であり、なにであったかということを語るにすぎない。

(ハンナ・アレント『人間の条件』志水速雄訳 ちくま学芸文庫)

小説の登場人物たちは、まず自分が「だれ」か明らかにするために、子供の頃のエピソードを語る。漫然と思い出を語っているわけではない。いまの自分を説明するために、過去をさかのぼり、いまの自分の原型としての子供を提示する。

ここに自分がいる。
いまの自分はおとなになって、さまざまな場面で、さまざまなふるまいをせざるをえない。
それでも、そうしたおとなになって身につけた虚飾をはぎとってみれば、自分の本質はここにある。自分は子供の頃からこうだったし、いまもそうなのだ。子供の頃の自分の姿こそ、自分という人間を示すものだ、として、子供時代の自分を提示するのである。
ではつぎに、もう少し子供そのものを見てみよう。


2.子供、その無垢なる生き物


子供は愛らしい。まあ愛らしくない子供もいるが、自分の邪魔にならないかぎりは、とりあえずは愛らしい、と言ってよい。

映画では「子役と動物には勝てない」と言われもするが、彼らの仕草は、たとえ演技指導の手が入っているのだろうとわかってはいても、大人の名演技よりも引きつけられてしまう。演技を感じさせない子役や動物の仕草や表情は、彼らがほんとうにそう感じているのではないか、そうしたくてやっているのではないか、と思わせるものがある。
一方で、意識して演じている子役は、大人であれば隠す作為が剥きだしになってしまっているだけに、見ていて不快になってくる。
つまり、子供や動物の仕草に引きつけられるのは、その仕草がほかの目的のための手段になっていないからだ。そこには「こうするとどうなる」という計算も、「自分をどう見せたい」という作為も働いていないからなのだ。
作為が透けて見える子供は、見かけは子供であっても、もはや子供とは見なしにくい。だから巧みな子供は、グロテスクだとか気持ちが悪いとかと称されることさえある。

人間はある程度成長してくると、どうしても「自分がどう見えるか」「自分のこの行動はどのように評価されるか」という自意識と無縁ではいられない。
まわりの反応を測りながら、自分のふるまいを少しずつ変えていくのは、社会で生きていくうえで、あたりまえのことなのだが、それでもわたしたちは、どこかでそれが正直ではないような、不純であるような感じ方をしてしまう。

ほんとうの自分はそんなことがしたいわけではなかった。
ほんとうの自分はそんなことを考えてはいなかった。
自分が良い人間に見られたいばかりに、心ならずもこんなことをしてしまった。

それにくらべて、思うがままにふるまい、感じたことそのままを口にする子供は、なんとかわいらしいのだろう。そうした彼らの「純真無垢」と比較して、妥協し、偽り、見栄を張るいまの自分を恥ずかしく、疎ましく思う。
だから、無垢な子供を見ていると胸が痛くなる。

『人間失格』にはこんな場面がある。
主人公は最初の心中に失敗したあと、雑誌記者のシヅ子と知り合い、シヅ子が女手ひとつで育てているシゲ子と三人で生活するようになっている。ところが安定した生活も長くは続かない。

 ここへ来て、あの破れた奴凧に苦笑してから一年以上経って、葉桜の頃、自分は、またもシヅ子の帯やら襦袢やらをこっそり持ち出して質屋に行き、お金を作って銀座で飲み、二晩つづけて外泊して、三日目の晩、さすがに具合い悪い思いで、無意識に足音をしのばせて、アパートのシヅ子の部屋の前まで来ると、中から、シヅ子とシゲ子の会話が聞えます。
「なぜ、お酒を飲むの?」
「お父ちゃんはね、お酒を好きで飲んでいるのでは、ないんですよ。あんまりいいひとだから、だから、……」
「いいひとは、お酒を飲むの?」
「そうでもないけど、……」
「お父ちゃんは、きっと、びっくりするわね」
「おきらいかも知れない。ほら、ほら、箱から飛び出した」
「セッカチピンチャンみたいね」
「そうねえ」
 シヅ子の、しんから幸福そうな低い笑い声が聞えました。
 自分が、ドアを細くあけて中をのぞいて見ますと、白兎の子でした。ぴょんぴょん部屋中を、はね廻り、親子はそれを追っていました。
(幸福なんだ、この人たちは。自分という馬鹿者が、この二人のあいだにはいって、いまに二人を滅茶苦茶にするのだ。つつましい幸福。いい親子。幸福を、ああ、もし神様が、自分のような者の祈りでも聞いてくれるなら、いちどだけ、生涯にいちどだけでいい、祈る)
 自分は、そこにうずくまって合掌したい気持でした。そっと、ドアを閉め、自分は、また銀座に行き、それっきり、そのアパートには帰りませんでした。

無垢なシヅ子、優しい母のシゲ子は主人公のことを責めることさえせず、あまつさえ「いいひと」とすら呼ぶ。そのふたりを象徴するかのような白兎。
本来なら、自分もそちら側にいたはずなのに。汚れた自分は、そこにはもはやいられない。だから、ここを去らなければならない。
楽園をみずからあとにするように、葉蔵はそこを去る。

ジョン・アップダイクの『走れウサギ』にも、無垢な子供は登場する。
主人公のウサギことハロルド(ハリー)・アングストロームは、高校を卒業して皮むき器の宣伝販売をしながら、二人目を妊娠中の妻と子と暮らしていた。
高校時代はバスケットボールの花形選手だったのに、いまはやりがいのない仕事に就き、自堕落な妻とゴミ溜めのような部屋で暮らしている。ある日、ウサギは不意に飛び出してしまい、ひょんなことから知り合ったルースと一緒に暮らし始める。そのあいだにふたりめの子供が生まれ、赤ん坊を見にウサギが病院へ行った場面である。

一列に並んでいる赤ん坊部屋で、看護婦が彼の娘をのぞき窓までつれてきたとき、不意をつかれて、ちょうど胸を湿った布でなでられたみたいだった。突然凍りつくような隙間風が、彼の呼気を凍らせてしまう。誰でも生まれたばかりの赤ん坊は醜いと必ず言うものだが、おそらく、この気持がそういった驚きの理由になっているのだろう。看護婦は、赤ん坊の横顔が、ボタンのついた白衣の胸のところでひどく赤く見えるように、抱いていた。鼻孔のまわりには皺が小さくついていて、信じがたいほどそれが精密に見える。閉じられた瞼が小さな縫い目のない合わせ目になって斜めに長くのびている。この目が開くと、大きい、すべてを見とおす目になるんだろう。薄膜のふくらみの背後には、この世でまれなほど貴重で透明な液体がかくされているようだ。静かな瞼の裏には圧力がみなぎっていて、突き出た上唇は傾いているが、彼はそのなかに愛嬌のある軽蔑の色を読みとる。この子は自分の正しいことを知っている。…
ウサギは見るという行為そのものにびくびくしながら、ガラス越しに見おろしている。まるで、粗雑に見ることはこの美しい生命の微妙な機械を破壊してしまうように思える。

ジョン・アップダイク『走れウサギ』(宮本陽吉訳 白水Uブックス)

葉蔵が母娘の家を出たのとは逆に、新しく生まれた娘の姿を見て、ウサギは家に戻る。責任を感じて生活を立て直そうとしたのではなく、赤ん坊の無垢にふれ、子供とともにいれば、過去の自分がもっていたはずの輝きや、自分自身の無垢を取りもどすことができるような気がしたのだ。

主人公たちは子供のうちに「無垢」を見る。かつてはこの自分のうちにもあったのに。それにくらべていまの自分はどうだ、と考える。
このとき彼らが実際に見ているのは自分ではないが、子供の姿を通して「過去の自分」を見ているのだ。「過去の自分」と「いまの自分」を比較して、そのちがいを何ものかが失われてしまったと感じる。そうして、失われたものを「無垢」と呼んでいるのである。

ところで、子供というのはほんとうに無垢なのだろうか。
このことはあとでもういちど考えてみよう。とりあえず、ここでは作品に登場する「無垢な子供」というのは、「失われた自分の姿」である、とまとめることにしよう。


3.恐ろしい子供


もちろん小説のなかには、純真無垢な子供たちばかりではなく、恐ろしい子供も登場する。
おもしろいのは、無垢な子供は一種のノスタルジーをこめて語られるのに対して、恐ろしい子供たちは、たいてい未来の文脈で、不安と共に登場する。

P.D.ジェイムズの『人類の子供たち』の舞台は、2021年。この近未来小説では、理由は定かではないが、人類は生殖能力を失ってしまっている。1995年を最後に、それ以降はただのひとりも子供は生まれていない。そうして、地球で誕生した最後の赤ん坊が、誕生してから二十五年後、パブのケンカ騒ぎに巻きこまれて死ぬ。

この1995年生まれの子供たちはオメガと呼ばれている。彼らほど研究調査し尽くされ、激しい感情の対象になり、大切に甘やかされた年代もいないだろう。彼らはわれわれ人類救済の希望、望みだった。…
今二十五歳の青年になった男子は、強く逞しく、個性的で知的、まるで若い神々のように端正で美しい。同時に残酷で傲慢、粗暴な者が多い・これは世界中のオメガに共通して見られる性質だ。夜間、田舎道を来るまで走り回り、不注意な旅行者を待ち伏せて襲撃する〈隈取り族〉のグループもオメガたちだという噂だ。

P.D.ジェイムズ『人類の子供たち』(青木久恵訳 早川書房)

この「オメガ」のイメージは、アントニイ・バージェスの『時計じかけのオレンジ』の登場人物たちの延長にあるといえよう。バージェスは1962年のこの小説で、強烈な「未来少年たち」を出現させた(そのイメージはキューブリックの同名映画のスタイリッシュな映像によって、いっそう増幅された)。

 おれ、というのはアレックスだ。それにおれのドルーグ(なかま)たち三人――ピートにジョージーにディムだ。このディム、その名前みたいに、ほんとに少しウスラデイム(ぼけ)てやがんだ。そのおれたち〈コロバ・ミルクバー〉に腰すえて、今晩これから何やらかそうかって、相談やってたとこ。やけっぱちに寒くて暗い晩だったが、からっとしてた。〈コロバ・ミルクバー〉ってのは、ミルクにプラス何かって場所だけど、君たち、わが兄弟よ、きっともうこんな場所のことなんか忘れちゃってんだろうな。このごろじゃ、なんでもスコリー(はやく)変わっちゃうし、みんなも何だって忘れるのがスコリー(はやい)し、新聞やなんかだってあまり読まなくなっちゃってるからな。まあね、ここで売ってるのは、ミルクに何かプラスしたもんさ。ここには酒類販売許可証ってのがないんだけど、モロコ(ミルク)に何か新しいベスチ(もの)を入れちゃいけないって法律はまだないからモロコにベロセットとかシンセメスクとかドレンクロムなんてベスチを入れて飲んじゃう。そうすると、すごくハラショーな十五分間が楽しめるんだ。(…略…)

 おれたちのポケット、デング(おかね)でいっぱいだったんで、もうお金を盗むためにどこかのおやじを露地ん中で血の池ん中に泳がせといて、そいつを見ながら分取ったものを四人でかぞえて分け合うなんてこともしなくてよかったし、どこかの店をめちゃくちゃに荒らしまわって、ブルブルふるえてやがる白髪のばあさんの銭箱ん中身をスメック(わらい)ながらかっさらって来なくてもよかったってわけ。だけど、よくいうじゃない、世の中お金がすべてじゃないってね。

アントニイ・バージェス『時計じかけのオレンジ』(乾信一郎訳 ハヤカワ文庫)

おとなたちは、ある日、理解不能な新しい世代が出現していることに気がつく。わけのわからない言葉をしゃべり、突飛な格好をしている彼ら。彼らと自分たちの世代の間には、どんな共通点もないように思える。

理解不能の子供を産んでしまったのが、レッシングの『破壊者ベンの誕生』(原題は「五番目の子供」)のハリエットである。
1960年代のイギリス、自由奔放な空気の中で、古風で保守的なディヴィッドとハリエットはアウトサイダーである。ディヴィッドは自分が得られなかった安定した家を求め、ハリエットは、自分の子供時代の再現を、新しい家族に求める。ふたりは時代の波に逆らって、堅実な家庭を築き、つぎつぎと四人の子供を授かる。元気でかわいい子供たち。
ところが五番目に生まれたベンだけは、様子が異なっていた。

彼女はベンに高い高いをしてやった。彼は身をよじり、もがき、あばれ、独特の泣き声をあげたが、それは唸り声とも吠え声ともつかぬもので、そのうち怒りのあまり、彼は――普通のむずかる赤ん坊のように、赤くならないで――黄色がかった白い色に変わっていった。

ドリス・レッシング『破壊者ベンの誕生』(上田和夫訳 新潮文庫)

赤ん坊のころから異常行動が目立っていたベンは、一歳ですでに暴力行動が始まる。両親や兄や姉と心を通わすこともできない。わずかな言葉しかしゃべらず、読むことも書くこともできない。
家族の中で唯一、ベンをかばったのが母親だった。ほかの家族たちがベンの異常行動に耐えかねて施設に送ることに決め、見殺しにしようとしていたときも、そこから救い出したのは母だった。だがそのために、家族はバラバラになってしまう。

「ベンは、自分がどうしてこんなにみんなとちがうのか、自分で考えたことあるかしら?」
「どうかしらね? 彼が何を考えているのか、とてもわかりやしないわ」
「たぶん、彼はね、どこかに、自分の同類がもっといるはずだと思っているのよ」
「たぶん、そうでしょう」
「それが、女性といったものでなければいいけど!」
「ベンを見ていると、つい考えてしまうの……かつてこの地上に住んでいた、こういう変わった連中が――みんな、どこか、わたしたちの間にいるにちがいない、とね」
「みんなすぐに、ひょっこり出てきますよ! でも、おそらく、彼らが出てきたところで、わたしたちは、まったくそれに気づかないでしょう」ドロシーはいった。
「だって、わたしたち、気づきたくないものね」と、ハリエットがいった。
「わたしも、絶対にいや」

この子は人間ではないのかもしれない、と恐れながら、母親はたったひとり、ベンを見守るうちに、ベンは不思議な成長をとげる。中学生のころから、いつのまにか同じようなおちこぼれたちのリーダーとなっていくのである。

そのすぐあと、ベンと仲間たちは、数日の間、またもや出たきりだった。彼女は、彼らをテレビの中で見た。ロンドンの北部地区で暴動があった。「騒乱」はすでに予想されていた。彼らは、れんがや、鉄のかたまり、石などを投げている連中のなかには加わっていなかったが、片側に一団となって立ち、含み笑いをしたり、冷やかしたり、声援をおくったりしていた。
 つぎの日に、彼らはもどって来たが、腰を落ちつけてテレビを見ようともしなかった。休む間もなく、また出て行ってしまった。あくる朝、ニュースによると、ある小さな商店に押し込み強盗が入り、店には郵便局のカウンターがあった、約四〇〇ポンドが奪われた。店主はしばられて、さるぐつわをかまされていた。女郵便局員はなぐられ、意識不明だった。

仲間とともにふらりと戻ってきたベンを、ハリエットは見つめる。彼はいったい何者なのか。氷河期に棲息していた、人類とは別の種族の生き残りなのだろうか、それともエイリアン、新たな人類なのだろうか。群集の中に立って自分と同じ仲間を探し続けるのだろうか。

かつて「新人類」という言葉があった。あるいはその前には「団塊の世代」という言葉が。さらにその前には「アプレゲール」。さらにさかのぼれば「かぶきもの」というのも、同じような意味で使われていた。
いつの時代にも人間は、自分たちとは異なる言葉を使い、異なる感覚を持つ新しい世代に、名前をつけてレッテルを貼ることで、カテゴライズして、なんとか理解のうちに収めようとする。そうすることで、不安を封じこめようとする。

ただ、この自分の前に現れる、理解できない存在に向けられた不安のまなざしは、わたしたちの未来に対する不安そのものではないのだろうか。
どれだけ科学技術が進んでも、よくわかっていること、予測ができることの範囲はそれほど広くはない。その周囲に拡がっているのは、いまも昔も変わらず、どうなるかわからない、見当もつかない未来である。こうした未来は、人間をひるませる。

新しい世代は、わたしたちの未来に対する不安のメタファーなのだ。これからどうなっていくかわからない。どうしたらよいのかわからない。不安にひるみ、立ち止まるわたしたちに対して、新しい世代は果敢に立ち向かっていくのではないか。わたしたちの知らない手段で。見当もつかない手段で――あるいは、もっとも原始的な手段で。
つまり、暴力によって世界を従えていくのではないか。近未来小説に出てくる子供たちが恐ろしいのは、わたしたちが未来に漠然と感じている不安のあらわれなのである。


4.出会った子供たち


では、小説ではどんなときに主人公たちは子供に出会うのだろうか。こんどはそのことを見てみよう。

サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の主人公は、冒頭でまず、自分の子供時代を語ることを拒んでみせる。

 もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたかとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたかとか、そういった《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。第一、そういったことは僕には退屈だし、第二に、僕の両親てのは、自分たちの身辺のことを話そうものなら、めいめいが二回ぐらいずつ脳溢血を起こしかねない人間なんだ。(…略…)

ただ、去年のクリスマスの頃にへばっちゃってさ、そのためにこんな西部の町なんかに来て静養しなきゃならなくなったんだけど、そのときに、いろんなイカレタことを経験したからね、そのときの話をしようと思うだけなんだ。

J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝訳 白水社)

十七歳のホールデン・コールフィールドが、子供時代のことを語るのを拒むのは、「いまの自分」と「自分の本質」のあいだに、なんらちがいがないと思っているからである。いまここに本質そのままの自分がいるのに、わざわざそのルーツがどこにあるか、などと話すことは「退屈だし」、現にホールデンは両親の庇護の下にいる「子供」でもある。

そのかわりに、ホールデンが語るのは、自分が学校を飛び出した土曜の夜から月曜にかけて、自分が見聞きした数々の出来事とそれが引き金になって思いだした記憶である。とりとめのない話の体裁がとられているが、周到に選択されたエピソードなのだ。偽善的な、インチキのおとなたち。それをまねする同年代の友人たち。そのなかで、なんとか自分の無垢を守ろうとするホールデン。

日曜日の夜、ホールデンは自分の大好きな十歳の妹、フィービーにただ会っておしゃべりするためだけに自宅に戻る。寝ている妹を起こして、自分が飛び出した学校が、いかにインチキなやつばかりだったか話すのだ。妹から何になるつもりなのか聞かれてこう答える。

「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない――誰もって大人はだよ――僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」

ホールデンが守りたいのは、子供たちの無垢だ。それは同時に自分の無垢でもある。インチキな大人の世界で自分の無垢を損なうことを拒んでいるのだ。

十七歳という大人への鳥羽口に立つホールデンは、これまでの自分、「ほんとうの自分」が脅かされているのを感じている。大人の世界に入りたくはない。自分の無垢は守りたい。その無垢の感覚をあらためて強固なものにするために、同じ世界の住人である妹に会わなければならないのだ。

ところでここでもういちど、「無垢」ということを考えてみよう。「無垢」あるいは「イノセント」と言っても良いのだけれど、これは一般にこのようなものとして理解されているのではないだろうか。

 言うまでもないことだが、一般の人間(僕や、たぶんあなた)は人生のある時点に差し掛かると、多かれ少なかれイノセントな世界と訣別することを余儀なくされる。そうしないことには次の段階に進むことができないからだ。人は幼児から少年や少女になり、十代のアドレッセンスの時期をくぐり抜け、やがて大人の世界=世間に入っていく。年を重ねるにつれて社会人としての責任をより多く引き受け、その役割や分担を果たすようになる。そのたびに我々の価値観はシフトし、視野は更新されていく。もちろんそこには一連の通過儀礼があり、哀しみがあり、痛みがある。しかしひとびとは導きと学習によってそのプロセスを受け入れていく。そして「無垢なる世界」は過去の、もう戻ることのない楽園としてぼんやりと記憶されるだけのものになっていく。そのプロセスが――好むと好まざるとにかかわらず――一般的には「成長」と呼ばれる。

(村上春樹 「訳者あとがき」
トルーマン・カポーティ『誕生日の子どもたち』文藝春秋社)

はたしてそうなのだろうか。
子供は、「無垢なる世界」、楽園の住人なのだろうか。

確かに子供たちは見たままに感じ、感じたままに反応する。それでも、三歳の子供でも嘘はつくし、見栄だって張る。こう思われたい、こう見られたい、そういう欲望もあれば、自分を見てほしい、自分を認めてほしい、という承認欲求もある。ほかの子に「貸して」と言われれば、自分のおもちゃであっても貸さなければならない。妥協だって、我慢だってする。「これ貸してあげるから、それ貸して」と、取引だってする。赤ん坊でさえ、注意を引くためだけに泣く。
やっていることの規模はずいぶんちがうけれど、大人のそれとどれほどちがいがあるのだろうか。
あるいは逆に、大人になっても状況判断することなく、自分の欲求を強引に押し通そうとする人もいる。そういうふるまいをすると「子供っぽい」とみなされても、おそらくはあまり「無垢」という言葉で呼ばれることはない。

子供が無垢なわけではない。彼らの状態が無垢なのでもない。大人と子供が別の世界に住んでいるわけでもない。
そうではなく、子供や赤ん坊は、彼らを見る側に、かつての自分、子供の頃の自分を思いださせるのだ。
あのころは、純粋だった、無垢だった、それに比べていまは……、と、いまの自分が考える。あのころには戻れない。遡航することができない時間が、わたしたちに喪失感を抱かせる。
いまのわたしたちは、義務ばかり、あるいは、自分が何を欲望しているのかもよくわからない。そんなとき、無心に遊ぶ小さい子供の姿に、「かつて自分のうちにもあったはずの無垢」を投影してしまう。

子供のうちに「無垢」を見るのは、子供が無垢だからではなく、自分がもう子供に戻れないからだ。いまの自分を取り巻く環境と対比させて、記憶のなかの子供の形をした自分が住んでいた場所を「楽園」と考えるだけなのだ。
子供が無垢であったり、無垢な世界に住んでいたりするわけではない。〈いま〉の自分がそう考えるのだ。

わたしたちは漠然と、身体のどこか深いところにひっそりと「ほんとうの自分」がいるように思ってはいないか。
この「ほんとうの自分」は生まれたときからそこにいて、そのときは純粋無垢だった。ところがさまざまな経験をするうちに、この「純粋無垢」はすり減ってしまい、「ほんとうの自分」から少しずつ隔たり、思いもかけないところに来てしまった、と。

イーフー・トゥアンは『空間の経験』のなかでこのように言っている。

現代の社会では、十代の若者は、肉体と精神が急速に変化していくために自分が誰であるかをしっかりと把握できないことがある。世界は、しばしば自分で統御できないように見える。安全は、決まりきった手順のなかに、十代の若者が庇護されていた自分の子供時代そのものと見なしているもののなかに、また、人生のなかのより以前の、より安定していた時期に同一視されている物のなかに存在しているのである。一般的に、(老若を問わず)人が世界はあまりにも急速に変化していると感じるときに示す典型的な反応は、理想化された安定した過去を喚起することであるといえるだろう。他方、変化を起こしているのは自分であって、自分にとって重要な事がらは抜かりなく掌握していると人が感じているときには、その人の生活のなかには郷愁が入り込む余地はまったくない。その人のアイデンティティの感覚を支えるのは、過去の思い出よりも行動なのである。

(イーフー・トゥアン『空間の経験 身体から都市へ』山本浩訳 ちくま学芸文庫)

楽園があったわけではない。あるいは、無垢を失ってしまったわけでもない。いずれもアイデンティティの感覚を支えるために、いまのわたしたちが「子供」という形で、過去を喚起しているだけなのである。
「ほんとうの自分」がどこかにひっそりといるわけではなく、他者からの承認を求めながらさまざまにふるまいを変え、同時に「これが自分なのだ」と自分自身に言って聞かせている〈いま〉〈ここ〉にいる自分しかいないのだ。


5.「子供」を読む


これまで見てきたようにアイデンティティの危機を感じる主人公は、子供と会うことで、自分自身の感覚を確かなものにする。子供を見て感じるのが喪失感であるにせよ、あるいは将来の不安であるにせよ、いずれにしても、いまの自分の感覚をはっきりとさせ、行動に向かわせるものであることには変わりはない。
では、読者であるわたしたちにとって、「子供」が登場する本を読む、ということは、どういうことなのだろう。

長田弘は『記憶のつくり方』のあとがきで、記憶についてこのように書いている。

 記憶は、過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ったもののことではなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、自分の現在の土壌となってきたものは、記憶だ。
 記憶という土の中に種子を播いて、季節のなかで手をかけてそだてることができなければ、ことばはなかなか実らない。自分の記憶をよく耕すこと。その記憶の庭にそだってゆくものが、人生とよばれるものなのだと思う。

(長田弘『記憶のつくり方』 晶文社)

わたしたちもまた、主人公がかつての自分に会うように、主人公の行動を通して、自分自身の記憶とも向き合っているのだ。

本を読むことで、よみがえってくる過去の記憶。現在の自分自身のうちにとどまっている記憶。
もちろん自分のうちには、言葉ではなく、身体に刻まれている記憶もある。
悪さをして父親に手首をつかまれたときの、いまにも残るその手の感触。
夕立のあと、立ち上る土のにおい。
何ものにも代え難いからこそ、言葉による類型化を拒むような記憶。
そうした記憶こそが、現在の自分をつくりあげているのではないか。

だが、個人の体験は、それがどれほど素晴らしいものであっても、個人の外には生きられない。その人とともに消滅していく記憶である。

言葉で表現された記憶は、類型化であると同時に、普遍化でもある。そうして、人は他者の記憶であっても、自分を開いていくこともできるのだ。
表現された「子供」を読むことは、同時に自分自身の物語を読み直すことでもある。過去の出来事に、別の光をあてることもできるし、あるいは、逆に身体に刻まれた記憶を「読み直す」ことで、ふたたび確かめることもできる。
あるいは本を読んだことを通じて、自分の記憶を他者の記憶とつなげ、共有することもできる。

本のなかに登場する子供は、わたしたち自身の記憶の姿でもある。
子供はいずれかの段階で、かならず大人になる。それでも、わたしたちがそのことで、何かを失った、と感じる必要はない。
わたしたちは子供に会いながら、自分のなかの子供、つまり、自分の記憶を、思い返し、取り出し、確かめるのだ。この記憶は、過去の出来事などでは決してない。いまの自分が生きていく、その伴走者として必要なのだ。
わたしたちは楽園を去ったわけではない。楽園は、わたしたちとともにある。子供の姿をして。



初出 Jan. 26-30 2007 改訂 Feb. 11, 2007

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