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ここでは John Steinbeck の"The Chrysanthemums"の翻訳をやっています。
この作品は1938年に発表された短編集"The Long Valley(長い渓谷)"に所収されたもの。タイトルの「長い渓谷」とは、スタインベックが生まれ、多くの作品の舞台ともなったカリフォルニア州サリナス渓谷のことを指しています。短編集の冒頭をかざるこの作品も、サリナス渓谷の農場が舞台です。
濃い霧がたれこめる冬の午後、とある農場にやってきた奇妙な訪問者。そのとき、ふたつの世界が交錯します。
原文はhttp://nbu.bg/webs/amb/american/4/steinbeck/chrysanthemums.htmで読むことができます。 。




by ジョン・スタインベック


植木鉢

 灰色のフランネルのような濃い冬の霧が、サリナス渓谷を空からもほかのあらゆる世界からも切り離していた。四方の山々の頂は霧にすっぽりと覆われて、広大な渓谷全体が、ちょうど蓋をした深鍋といった案配である。谷底の広々と平らな大地では、人々が地面を深く掘り起こし、鍬に削られた黒々とした土が金属さながらに光っていた。サリナス河を越えた先の山麓の農場では、黄色い切り株だけが残る畑は白く冷たい陽を浴びているかに見えたが、十二月の谷間に差し込む日の光などない。河沿いに茂る柳の木立ちは、刃先の鋭い鮮やかな黄色の葉が炎をふきあげているかのようだった。

 静寂と待機の季節である。空気は冷たく、柔らかい。かすかな風が南西の方角から吹いており、農民たちは、じきに恵みの雨が降ってくれればいいが、と思っていた。だが霧と雨が一緒に訪れるはずもない。

 河向こうの丘陵地帯にあるヘンリー・アレン農場では、仕事はもうどれほども残っていなかった。刈った牧草を蓄える作業も終わっていたし、果樹園にも鍬が入り、あとは雨が降って土の奥深くまで水が浸透すれば良いだけになっている。上の斜面で飼っている牛は、固い毛が伸び放題だ。

 エリーサ・アレンは花壇で庭仕事をしながら、向こうで夫のヘンリーが、ビジネス・スーツに身を包んだふたりの男と話をしているのに目を向けた。トラクターを置いた納屋の脇に立つ三人は、それぞれ、小型フォードの脇に片足をかけている。たばこをふかしながら話をしているが、その目は車から離れない。

 しばらく彼らを見つめていたエリーサも、やがて自分の仕事に戻った。三十五歳になる。ほっそりした顔立ちには力があり、水のように澄んだ目をしていた。庭仕事用の格好をしているせいで、角張って鈍重そうな姿だ。男物の黒い帽子を目深にかぶり、長靴を履き、地模様のドレスもコーデュロイの大きなエプロンにほとんど隠れてしまっていた。そのエプロンには四つの大きなポケットがあって、作業用のはさみやスコップや小型の鍬や種やナイフが入っている。作業の時は、手を保護するために厚手の革手袋まではめるのだった。

エリーサは花の終わった菊の茎を、刃先の短い、よく切れるはさみで切っていた。ときおりトラクター置き場の脇の男たちに目を向ける。真剣でしっかりした気性がうかがえる整った顔立ちである。はさみを使うときにも一生懸命になりすぎて、余分な力まで入れてしまう。彼女のエネルギーにくらべれば、菊の茎などあまりに華奢で手応えがなさすぎるらしかった。

 手袋の甲で目にかかる前髪をはらうと、頬に土のあとがついた。彼女が背にしているのは小ぎれいな白い農家で、家の周囲を取り囲む赤いゼラニウムは、窓まで届くほど伸びている。いかにも掃除の行き届いていそうな小さな家で、窓はしっかりと磨かれ、表階段の泥よけマットも洗い立てだった。

 エリーサはまたトラクター置き場に目を走らせた。知らない男たちはフォード・クーペに乗り込もうとしているところだ。片方の手袋を脱ぐと、古い株から伸びてきた緑色の新芽の葉むらのなかに、しっかりした指を入れた。葉をかき分けて、密集して生えている茎を上からのぞく。アブラムシもいなければ、ワラジムシも、カタツムリも、ヨトウムシもいない。猟犬のような彼女の手は、そんな害虫が動き出さないうちに、ひねりつぶしてしまうのだった。

 夫の声にはっとした。そっとやってきた夫は、牛や犬や鶏から花壇を守るための金網にもたれていた。

「精が出るな」夫が言った。「また来年も丈夫な花を咲かせられそうだ」

 エリーサは背を伸ばして、庭仕事用の手袋をはめ直した。「そうよ。来年も丈夫な花が咲くのよ」そういう声にも表情にも、少しばかり得意げなようすがあった。

「たしかにおまえにはものを作る才能があるよ」ヘンリーが言った。「今年咲かせた黄色い菊は、直径が三十センチ近いのもあったものな。果樹園でそれぐらいでかいリンゴを作ってくれりゃありがたいんだが」

 エリーサの目に熱がこもった。「きっとリンゴだってできるはずよ。確かにわたしにはものを作る才能があるの。母がそうだったんだから。母はね、地面に挿しさえすればなんだって育てることができた。草花を育てられる人の手を持ってるから、どうすればいいかわかるんだ、ってよく言ってたもの」

「ま、花に関しちゃいい腕を持ってるってことだ」

「ヘンリー、あんたがさっき話してたのはだれなの」

「そうそう、それを教えてやろうと思ったのさ。あれは西部食肉会社の連中だったんだ。三歳の去勢牛が三十頭売れたよ。言い値同然でな」

「すごい。良かったじゃない」

「で、おれは考えた」彼は言葉を続けた。「土曜日の午後じゃないか。サリナスへ繰りだしてレストランで食事としゃれこもうじゃないか、って。そのあと映画でも見るのさ、お祝いにってことでな」

「すごい」彼女はもういちど同じことを言った。「ほんと、ステキ」

 ヘンリーは冗談めかして言った。「今夜はボクシングの試合があるんだ。ボクシングを見に行くのはどうかな」

「それはいや」胸がしめつけられるような声を出した。「いやだわ、ボクシングなんて好きじゃない」

「冗談に決まってるじゃないか、エリーサ。映画に行くんだ。待てよ、いま二時だ。おれはスコッティをつれて、去勢牛を丘からおろしてくる。二時間ほどでけりがつくだろう。五時に町へ行って、コミノス・ホテルで飯を食うことにしようや。どうだ?」

「いいに決まってるじゃない。外で食べるなんてうれしいわ」

「よし、それじゃおれは馬を二頭用意してこよう」

「わたしは時間も十分あることだし、この苗木を植え替えることにする」

 夫が馬小屋の横でスコッティを読んでいる声が聞こえてきた。ほどなく男がふたり、去勢牛をさがしに、淡い黄色に染まった丘の斜面を馬でのぼっていくのが見えた。

 菊を根付けるための小さな四角い砂の苗床があった。移植ごてで土を何度も掘りかえすと、表面をならして軽く叩いて固めた。つぎに、苗を挿すための溝を十本平行に掘る。それから菊が植えてある花壇に戻って、真新しい芽を引き抜くと、ひとつずつ葉をはさみでととのえながら、きちんと重ねていった。

 車輪がギイギイときしる音と鈍重なひづめの音が道の方から聞こえてきた。エリーサは顔を上げた。ヤナギやハコヤナギが茂る河の土手に沿って田舎道が続いている。その道をこちらに向かって、妙ちきりんな生き物に引かれた奇妙な荷馬車がやってきた。昔ながらのばねのついた荷馬車で、幌馬車のように帆布でてっぺんをまるく覆っている。引いているのは年老いた栗毛の馬と、灰色と白の小さなロバだ。大きな体つきの無精ひげをはやした男が垂れ下がっている覆いのあいだにすわって、這うように進む馬とロバの手綱を取っていた。荷馬車の下、後部車輪のあいだには、痩せて足のひょろ長い雑種犬が悠然と歩いている。帆布には下手くそなカナ釘流でなにやら書いてあった。「鍋、釜、包丁、鋏、芝刈り機 修繕」扱うものを二段に、その下に、さあどうだとばかりに麗々しく「修繕」と書き連ねてある。どの字も黒いペンキが垂れて、先が細くとがっていた。

 エリーサは地面にしゃがんだまま、おかしな、がたがた鳴る荷馬車が通っていくのを見守った。ところが通り過ぎてしまわなかったのだ。荷馬車は向きを変えると、家の前の農道にゆがんだ車輪をキイキイギイギイいわせながら入ってきたのである。ひょろひょろの犬が車輪の間から飛び出して、先に立って走った。すぐに農場の二匹のシェパードが、犬のところへ飛んでくる。三匹は静止したまま、こわばったしっぽをぶるぶるとふるわせ、脚をまっすぐ踏ん張って、大使のような威厳を見せている。やがてゆっくりと円を描きながら、上品に臭いを嗅いだ。幌馬車はエリーサの金網のところまでくるとそこで止まった。新参者は多勢に無勢を感じたのであろう、首の毛を逆立て、歯をむき出したまま、尻尾を垂れて荷車の下に退却した。

荷馬車の座席から男が大きな声で言った。「いったんその気になりさえすりゃ、そいつは性悪の喧嘩好きになる」

 エリーサは笑った。「そうらしいわね。その気になるまでふつうはどのくらいかかるの」

 男もエリーサの笑い声を聞いて、腹の底からおかしそうに笑い返した。「ときによっちゃ何週間経ってもそうならないこともあるんだがね」男は車輪をまたいで、ぎこちない動作でおりてきた。馬もロバも、しおれた花のようにうなだれている。

 エリーサは男がことのほか大きいのに気がついた。髪も髭も白くなりかけていたが、年寄りくさくはなかった。着古した黒いスーツは皺くちゃで、油の染みが点々とついている。笑い声がやむと同時に、顔からも目からも笑いの気配が消えた。濃い色の目は、御者や水夫によく見られるような、物思いにふけっている人のそれだった。金網にのせたタコがいくつもある手はひび割れて、ひび割れ一本一本が黒い線になっていた。彼は型のくずれた帽子を取った。

「大通りを外れちまったんでさ、奥さん」男は言った。「この泥道を行ったら、河を越えてロス・アンジェルス街道に出られるかね」

 エリーサは立ち上がると、大きなハサミをエプロンのポケットに押し込んだ。「まあ、確かに出られるけど、大まわりになるし、川を渡らなきゃならない。その馬とロバじゃ河の砂地のところは引けそうもないわね」

 男はいささかぶっきらぼうな口調で答えた。「こいつらが引っ張るところを見たら、あんた、きっと驚くよ」

「その気になったら?」

 男は一瞬笑ってみせた。「ああ、その気になったらな」

「ま、サリナス街道まで引き返して、そこからロス・アンジェルス街道へ向かった方が時間の節約になると思うわ」

 男は太い指を金網に引っかけて音を鳴らした。「奥さん、わしは別に急いじゃおらん。シアトルからサン・ディエゴまで毎年行ったりきたりしとるんだ。時間をかけてな。片道、半年ぐらいだ。いい気候を追っかけてな」

 エリーサは手袋を脱いでハサミと同じポケットに入れた。男物の帽子の内縁に指を沿わせてほつれ毛を探る。「なかなかよさそうな暮らしじゃないの」

 男はなれなれしく金網から身を乗り出した。「荷馬車に書いてあるのは気がついてくれたかね。鍋の修繕だろうが、包丁やハサミの研ぎだろうがなんでもやる。何かないかね」

「ないわ」彼女はあっさりそう言った。「そんなものは何もない」その目ははねつけるようにきつくなった。

「ハサミってやつは何より厄介だ」男は言った。「たいていの人間は、研ごうとしてかえってダメにしちまうんだが、わしならどうやったらいいかわかっとる。特別な道具があるんだ。砥石みたいなもんなんだが、特許ものだ。だがそれにもこつがいる」

「結構よ。うちのハサミはどれもよく切れるわ」

「そりゃよかった。じゃ、鍋はどうだ」男は懸命に食い下がった。「へこんだ鍋だろうが穴の開いた鍋だろうが、新品みたいにしてやるよ。そしたら奥さんは新しいのを買う必要もない。あんたも節約になるだろう」

「ないの」そっけなく言った。「あんたにしてもらわなきゃならないようなものは何にもないのよ」

 男はわざとがっかりしたような表情を浮かべて見せた。声までが泣き言めいた細々としたものに変わる。「今日はまるっきり仕事にあぶれてなあ。夕飯にもありつけそうにない。いっつもの道から外れたもんだから。街道ならシアトルからサン・ディエゴまで、知った顔ばっかりなんだがな。みんなわしのために研ぎの仕事を取っておいてくれるんだ。なにしろわしがいい仕事をして、みんなの節約に役立つことは、だれもがわかってくれるでな」

「悪いんだけど」エリーサはいらだたしげに言った。「あんたにやってもらうような仕事は何もないの」

 男の視線は彼女から離れて、地面に落ちるとあたりをさぐった。あちこちさまよううち、さきほどまで彼女が作業をしていた菊の花壇に目がとまった。「奥さん、あの畑は何です?」

 エリーサの表情からいらだちと反抗的な色が消えた。「あら、あれはね、菊なの。白と黄色の大きな花。毎年育ててるんだけど、ここらへんじゃ一番立派なのよ」

「茎の長い花かね? 色のついた煙をぱっと吐きだしたみたいな」

「そうよ。ほんと、うまいいい方だわ」

「あの匂いは慣れるまではあまりいいもんじゃないね」

「強いけどいい匂いよ」と言い返した。「ちっともいやな臭いなんかじゃない」

 男の語調はすぐに変わった。「わしはあの匂いは好きだよ」

「今年は三十センチ近くの花を咲かせたのよ」

 男はフェンスから身を乗り出した。「あのな、わしが知っとるご夫人でな、このすぐ先に、とびきり上等の庭を持っていなさる人がおるんだ。もう花という花なら全部そろっとるんだが、たったひとつ、菊だけがない。前にわしが銅底の洗濯だらいを修理させてもらったとき、ま、そいつを直すのは簡単じゃないんだが、わしならいい仕事ができるんだ、ともかくその奥さんはこう言いなすった。『どこかできれいな菊の花を見かけたら、種を少し分けてもらってきておくれよ』ってな。そのご夫人はそう言いなさったんだよ」

 エリーサの目がいきいきと熱を帯びた。「その人、あんまり菊のこと知らないんだわ。そりゃ種からだって育てられるけどね、そこにあるような小さな新芽を挿し木にするほうがずっと簡単なのよ」

「そうだったんか」男は言った。「だったら、その人に持っていってやるわけにはいかんな」

「あらどうしてよ」エリーサは大きな声になった。「湿った砂に挿したげるから、あんた、それを持っていきゃいいのよ。水さえ切らさなきゃ、植木鉢のなかで根付くはず。そのあとでその人が植え替えたらいいんだわ」

「その人もそうしてもらえたら喜んでくれるよ、奥さん。あんた、きれいな花だって言いなすったよな」

「美しいのよ」彼女は言った。「ほんと、美しいの」その目は輝いている。型崩れした帽子をむしり取ると、濃い色の美しい髪をゆすった。「植木鉢に挿しておくからね、あんた、それを持っていってあげて。庭に入ってきて」

 男が杭柵から入ってくるあいだに、エリーサはゼラニウム沿いの小道を家まで夢中になって走った。戻ってきたときには大きな赤い植木鉢を抱えていた。手袋のことなどもはや頭にはない。苗床のそばに跪くと、素手で砂混じりの土を掘り返し、真新しい色鮮やかな植木鉢にすくって入れた。それからさきほど積み上げた新芽の山から、ひとつまみ取り上げる。強い指がそれを砂のなかへしっかりと挿しこみ、まわりをこぶしで叩いて固めた。男はそれを上から見ていた。「どうしたらいいか教えてあげる。だから忘れないで、そのご夫人に教えてあげて」

「わかったよ。なんとか忘れんようにしてみよう」

「いい? あのね、一ヶ月ほどしたら、根付くから。そしたらそれを三十センチずつ離して、こんなふうなよく肥えた土に植え替えなくちゃならないの。わかった?」黒土をひとつかみすると、男によく見えるようにかざした。「茎はぐんぐん伸びていくわ。そうなったらこんど忘れちゃいけないのはこのこと。七月になったら、地面から20センチくらいのところで剪定するんだって教えてあげて」

「花が咲く前に?」と男がたずねた。

「そうよ、花が咲く前に」熱を帯びた表情はきつくなっていた。「そこからすぐまた伸びてくるの。そして九月の終わりにはつぼみがつき始めるわ」

 話をやめたエリーサは、困ったような表情を浮かべた。「一番気をつけなきゃならないのはつぼみが出かけたときなの」ためらいながら言葉を続けた。「どういったらいいかわからない」男の目をさぐるようにじっとのぞき込む。口を少し開いたエリーサの耳にはなにごとかが聞こえているかのようだった。「うまく言えるかどうかわからないんだけど。草花を育てられる人の手がある、って聞いたことがある?」

「いや、ないな、奥さん」

「なんていったらいいのか、わたしにわかるのはその感じだけなんだけど。いらないつぼみをつみとるときにね。なにもかもすっと指先に集まってくるの。自分では指が動いていくのをただ見てるだけ。指が勝手にやってくれる。そういう感じがするのよ。指がどんどんつぼみを摘んでいく。絶対にまちがえたりしないの。指と花とが一体なの。わかる? 指と花がね。それが感じられる、腕まで伝わってくるの。指はわかってる。指はまちがえたりしない。それがわかるの。そうなれば、もう、何したってまちがえない。わかる? 何を言ってるかわかってくれる?」

 ひざまずいたまま、男を見上げた。胸いっぱいに熱い思いがこみあげていた。

 男は目を細めた。その目が気まり悪げにそれていく。「わしにもわかるような気がするよ。ときどき、夜にあの荷馬車におったらな……」

 エリーサの声はかすれていた。男の言葉に割って入る。「わたし、あんたみたいな暮らしはしたことがないけど、あんたが言ってること、わかるような気がする。暗い夜なんか――ほら、星の先がとがって、あたりは静まりかえってる。そしたらどう、体が浮き上がるみたいになる! 星のとがった先が体に突き刺さってくるみたいな。そんな感じよね。熱くて、鋭くて……いとおしい」

 ひざまずいたまま、手が男の脚、油じみた黒いズボンに伸びていった。おずおずとした指が生地にふれんばかりになる。だがそこで手はぱったりと地面に落ちた。そのままじゃれつく犬のようにうずくまった。

 男が言った。「いいもんだ、あんたが言うように。まあ、晩飯にもありつけないときは、そうもいかないがね」

 彼女は立ち上がると、背筋をぴんと伸ばしたが、その表情には恥ずかしそうな色が浮かんでいた。植木鉢を差し出すと、男の腕にそっとあずけた。「これ。荷馬車に乗せていって。座席のところにね、そこだったらあんたの目も届くでしょ。あんたにやってもらう仕事が確かあったはず」

 家の裏手で空き缶の山をひっくり返し、古いつぶれたアルミ製の片手鍋をふたつ見つけた。それを手に戻ってきて、男に渡した。「はい。これ、直せるでしょ」

 男の態度が変わった。仕事の顔になったのだ。「新品同然にしてみせまさあ」荷馬車のうしろに小さな金床をすえて、油が染みついた道具箱の底から工作用の金槌を取り出した。エリーサは門から出て、男が鍋のへこみを直しているのをじっと見ていた。男の口元は、確かな、よく心得た者のそれになっていた。むずかしい箇所にさしかかると、下唇を舌で湿した。

「あんた、その馬車のなかで寝るの」エリーサはたずねた。

「そうだよ、この中だ、奥さん。雨だろうがいい天気だろうが、この中にいりゃ、雌牛みたいにぬくぬくしていられる」

「楽しそうね。すごく楽しそう。女にもそんな暮らしができたらいいのに」

「女に向いた暮らしじゃないな」

 彼女の上唇がまくれあがって歯がのぞいた。「どうしてそんなことがわかるのよ。どうしてそう言えるの?」

「わしにはわからんよ、奥さん」男は答えた。「もちろんそんなことは知らねえさ。さて、あんたの鍋が仕上がったぞ。これでもう新品を買う必要はなくなった」

「いくら?」

「五十セント。料金は安いが仕事は確実、そいつがわしのモットーだ。だもんだから街道のあちこちで、お客さんがたひとり残らず満足していただいてるわけさ」

 エリーサは家から五十セント硬貨を一枚持ってきて、男の手に落とした。「いつかあんたに商売敵が現れてもびっくりしちゃいけないよ。あたしにだってハサミは研げる。小さな鍋のへこみだって叩いて直せるよ。女に何ができるか、あんたに見せてあげることだってできるんだ」

 男は金槌を油染みた箱に戻し、小さな金床を見えないところへ押しやった。「女にゃ寂しい暮らしだよ、奥さん。おまけに恐ろしいこともあるんだ。けものが夜の間ずっと、荷馬車の下にもぐりこんでくることだってあるんだからな」彼は横木を乗り越えようと、ロバの白い尻に左手をかけた。荷車の座席に腰を下ろすと、手綱をとりあげた。「奥さん、ご親切にどうもありがとう。あんたの教えてくれた通りにするよ。引き返してサリナス街道に出ることにする」

「忘れないで」彼女は大きな声になった。「そこにいくまで長くかかるんだったら、砂を乾かさないようにして」

「砂だって、奥さん……砂? ああ、そうか、わかったよ。菊だな。そうするよ」男は舌を鳴らした。動物たちは悠然と首をそらした。雑種犬は光臨のあいだの所定の位置につく。荷車は向きを変えて、ゆっくりと門を出て、もときた川沿いの道を戻っていった。

 エリーサは金網の柵の前に立って荷車がのろのろと進んでいくのを見ていた。胸を反らし頭を高くあげて、目を半ば閉じているせいであたりの光景がぼやけて見える。その唇が声にならないまま「さよなら……さよなら」と動いた。それからそっとささやいた。「あっちは明るい。あっちには光があるんだ」自分の声にどきりとした。思いを振り払うと、誰かに聞かれはしなかったかとあたりを見回す。犬が聞いていただけだった。二匹の犬は、地面に寝そべったままの姿勢で、頭だけを彼女の方にもたげていたが、やがてまたくびをのばして眠りについた。エリーサはくるりと向きを変えると、家の中に駆け込んだ。

 台所に入ると、炉の向こう側へまわって、水の入ったタンクに手を入れてみた。昼の料理の熱で温まったお湯がいっぱい入っている。浴室に行って、汚れた服をひきちぎるように脱ぐと隅へ放った。小さな軽石で体をこする。脚も太股も、腰も胸も腕も、こすりすぎて肌が赤くなるまでこすった。体を拭くと、寝室の鏡の前に立って、自分の体を眺めた。おなかをへっこまし、胸を突き出す。首をねじって、肩越しに後ろ姿も確かめた。

 やがてゆっくりと服を着始めた。おろしたての下着にいちばんいいストッキングをはき、彼女の美しさを誇示するようなドレスを着る。髪を丁寧に梳かし、眉を描き唇を塗った。

 化粧が終わらないうちに、遠くから蹄の音や、ヘンリーと助手が大声で赤い去勢牛を囲いの中へ追い込んでいる声が聞こえてきた。柵の扉が閉まる音がして、エリーサはヘンリーが来るのを待ち受けた。

 ポーチを歩く足音が響く。ヘンリーは家に入って来ると、大声で呼んだ。「エリーサ、どこだ?」

「わたしの部屋よ。着替えてるの。まだ準備ができてないのよ。あなたが使えるようにお湯があるわ。急いで。ちょっと遅くなってるわよ」

 浴槽でお湯を使う音が聞こえてくると、エリーサは夫の黒っぽいスーツをベッドに広げ、その横にシャツと靴下、ネクタイを置いた。それからポーチへ出ると、行儀良く、身を固くして腰を下ろした。河沿いの道には霜で黄ばんだヤナギ並木の葉むらが見える。濃い灰色の霧がたれこめるなか、長く伸びた日の光の帯のようだ。灰色の午後のただひとつの色彩だった。身じろぎもせず、彼女は座っていた。まばたきさえほとんどしなかった。

 ヘンリーがドアをばたんと開けると、ネクタイをベストにつっこみながら入ってきた。エリーサの体はこわばり、表情も硬くなった。ヘンリーは一瞬動きを止めて、妻をまじまじと見た。「おいおい、エリーサ、えらくべっぴんさんになって」

「べっぴんさん? わたしがきれいだってこと?」

 ヘンリーは深く考えることもなく答えた。「何言ってるんだ。おれはただおまえがいつもとちがってる、って思っただけさ。えらく強くて幸せそうに見えるじゃないか、って」

「わたしが強い? そうね、強いかも。だけど『強い』ってどういう意味?」

 彼はとまどった。「おれをからかおうってのか」やれやれという調子だった。「ちょっとふざけてみただけさ。おまえはえらく強そうで、子牛なんざ膝の上でぽきりと折っちまうぐらい強そうに見えるし、そいつをスイカみたいにまるかぶりしそうなぐらい、ご機嫌に見える」

 一瞬、彼女の体から力が抜けた。「ヘンリー、そんなこと言わないで。自分が何を言ってるかわかってるの?」だがふたたび隙がなくなった。「わたしは強いのよ」自信に満ちた声が言う。「わたし、強いの。自分がどれだけ強いか、いままで知らなかった」

 ヘンリーはトラクター置き場の方に目を遣ってから、ふたたび彼女に目を戻したが、そのときのまなざしは普段に戻っていた。「車を出してくる。エンジンをかけてるから、おまえはコートを着てきたらいい」

 エリーサは家に入った。ヘンリーが門のところまで車を出してアイドリングさせる音を聞きながら、帽子を被るのにたっぷり時間をかけた。こっちを引っ張り、あっちを押さえてみたりする。ヘンリーがエンジンを切ったので、コートに身をすべりこませると、外に出た。

 小型のロードスターは、川沿いのでこぼこ道を弾みながら進んでいく。小鳥が飛び立ち、ウサギは草むらへ飛び込んだ。二羽の鶴が重い羽音をたてながら、ヤナギ並木を飛び越え、河床へ降りた。

 道のだいぶ先に、エリーサは黒っぽいしみを見つけた。エリーサにはそれがわかった。

 通りすぎるときはどうにかそちらを見まいとしたのだが、目は言うことを聞かなかった。痛ましい思いでそっとつぶやく。「道のほとりにでも捨てることだってできたのに。それぐらいたいした手間じゃないのに。ほんと、造作もないことなのに。だけど、あの男は植木鉢だけは持っていったんだ」彼女は考えた。「植木鉢は取っておかなきゃならなかった。だからまるごと、道の向こうに放り出すわけにはいかなかったんだ」

 ロードスターが角を曲がると、荷車が前方に見えた。上体をぐっとひねって夫の方を向いたので、小さな幌馬車と、ちぐはぐな引き手が目に入ることもなく、車は追い越していった。

 一瞬のうちに終わった。ことはすんでしまったのだ。エリーサは振り返らなかった。エンジン音にかき消されないよう、大きな声で言った。「うれしいわ、今夜、おいしい晩ご飯が食べられて」

「おやおや、また気が変わったか」ヘンリーがぼやく。片手をハンドルから離して、彼女の膝を軽く叩いた。「もっとおまえを食事につれて行かなきゃならんらしいな。ま、それがおれたちのどっちにもいいってことだ。農場にこもりっきりになってると、うっとうしくなってくるもんな」

「ヘンリー」エリーサは聞いてみた。「食事のとき、ワインを飲んでかまわない?」

「もちろんさ。そりゃいいや」

 しばらく彼女は黙っていた。やがて口を開いた。「ヘンリー、ボクシングの試合ってね、男の人たちがひどく相手を傷つけるの?」

「ときにはちょっとくらいあるだろうが、そんなことはめったにないんじゃないか。どうして?」

「ううん、鼻の骨がおれたり、血が胸にしたたりおちたり、っていうのを読んだから。グローブが血を吸って重くなった、なんてことも書いてあったわ」

 ヘンリーは顔を彼女に向けた。「どうしたんだ、エリーサ。おまえがそんなものを読んでるなんて知らなかったぞ」いったん車を停めると、それから右折してサリナス川にかかる橋を渡った。

「女の人もボクシングの試合を見たりすることある?」

「そりゃもちろん、見に行く女だっているさ。どうしたんだ、エリーサ。おまえも行きたいのか? そんなもの、おまえが喜ぶようなもんじゃないと思うがな、だけど、ほんとに行きたいんだったら、連れてってやるよ」

 エリーサはぐったりと座席に身を沈めた。「ううん、行きたくない。ほんと、行きたくなんか全然ない」夫から顔を背けた。「ワインを飲むだけで十分。それでいいの」
コートの襟を立てたので、夫からは泣いている姿は見えなかった。力つきたように――まるで、老婆のように泣いているのは。





The End

ロードスター




つぎはもっと遠くまで


小説を読むことが作者が埋めておいた宝物を掘り出す宝探しであるとしたら、この作品が埋めてある「宝」は非常にはっきりしたものである。それは挿し木にされた菊の新芽だ。これが道の先に捨てられていることに気がつかなければ、宝は見つからない。

農場で暮らすエリーサは、家を掃除したり花を作ったりに精を出しているが、農場の仕事からは閉め出されてしまっている。牛を売る商談も、彼女は話さえ聞かせてもらえず、「草花を育てる手」を持っていても、果樹園にも入れてもらえない。牛や犬や鶏を閉め出すための金網は、彼女を閉じこめる金網でもあるのだ。

そこに荷馬車に乗った鋳掛け屋がやってくる。彼は馬車をねぐらとしている、つまりは家を持たない放浪者でもある。花壇と家の中に閉じこめられたエリーサとは反対の存在だ。

最初は侵入者を警戒していたエリーサだったが、彼が菊に目を向けると、すぐに態度が変わってしまう。うさんくさい鋳掛け屋の話を疑うこともなく、彼女は手もなくその話に乗っていってしまうのだ。自分の菊も、夫の牛やリンゴと同じように、求められるものとなる。鋳掛け屋に託した菊の挿し木は、根を持たないまま、外の世界に出ていく彼女の分身なのである。

だが、車のなかから道の前方に捨てられた砂を見つけたエリーサは、鋳掛け屋の嘘を知る。自分の菊の新芽は、植木鉢ほどの価値もなかったのだと見せつけられる。

車でサリナスに行くことはできる。そこで、鋳掛け屋にはとうてい手が出ない夕食を取ることも、ワインを飲むこともできる。ボクシングで殴られる選手の向こうに鋳掛け屋を見ることだって、そうしようと思えばできるのだ。けれども蓋をされたような霧に覆われたサリナス渓谷から、エリーサは出られない。

だが、エリーサが考えるように、「ことはすんでしまった」のだろうか。

エリーサは「草花を育てられる手」を持っている。指と花が一体となる感覚を知っている。今年の菊は終わっても、つぎの季節にはまた大きな花を咲かせられる彼女は、つぎはもう少し、道の向こうまで行けるかもしれない。そのまたつぎには、さらにもう少し先へ。いつか渓谷の外へ、明るい方へ。あきらめさえしなければ。

作者のジョン・スタインベックについては、あらためて説明するまでもないほど有名な、アメリカを代表する作家のひとりである。1902年、この「菊」の舞台ともなったサリナス渓谷に生まれ、『二十日鼠と人間』『赤い子馬』『怒りの葡萄』『エデンの東』などのさまざまな作品を残している。

スタインベックのいずれの作品においても通底する特徴として、人間と自然との結びつきということがある。この作品でも、自然と結びついているのは、経済活動からは閉め出されたエリーサの方、「草花を育てられる手」を持ち、指が勝手に不要なつぼみをえらびだし、ひとつもまちがうことのない彼女の方だ。それは夫が出荷するのが、肉になって消費されるだけの去勢牛であり、エリーサが送り出そうとするのは、たとえ途中で捨てられることになっても、根付くことができ、新しい花を咲かせる可能性を秘めた菊であることをみてもあきらかだろう。

この作品では世間知らずのエリーサを、結果として手玉に取ることになった放浪者でもある鋳掛け屋だが、こうした定住しない人々は、スタインベックの作品ではおなじみの登場人物でもある。彼らは遅れてきた西部開拓民、定住すべき土地を手に入れ損なった人々なのである。彼は持っていった植木鉢をいったい何に使ったのだろうか。

初出Dec.07-13 2007 改訂Dec.17, 2007

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