クレメンティーナ
by ジョン・チーヴァー
娘はイタリアの小さな村、ナスコスタで生まれ、そこで育った。それは不思議な日々だった。宝石の奇跡が起こり、オオカミの冬があった……。
娘が十歳のとき、晩課の終わった聖ジョヴァンニ教会に泥棒が入った。聖処女マリア礼拝堂に保管されていた宝石が盗まれたのである。宝石は、昔ナスコスタで療養し、肝臓病が快癒した王女が、聖母マリアに奉納したものだった。
翌日、伯父のセラフィノが山に向かって歩いていると、古代エトルリア人の墳墓だった洞穴の入り口で、全身まばゆいばかりに輝く子供が手招きしている。セラフィノは驚き、あわてて逃げ出した。ところが帰るとひどい熱だ。そこで神父を呼んで自分が見たものを告げた。神父がその洞穴に行き、天使が立っていたあたりの落ち葉をかきわけてみると、聖母の宝石が隠されていた。
同じ年、農場の下の道で、いとこのマリアが悪魔に出くわした。角を生やし、尖った尻尾に、ぴったりとした赤い服、絵で見たことのある悪魔とそっくり同じいでたちをしていた。
大雪が降ったのは、娘が十四歳の年のこと。ある晩、暗くなってから水を汲みに行き、当時一家が住んでいた塔に戻ろうとしたところ、オオカミの姿を見つけた。六、七匹の群れが、雪の降り積もったカヴール通りの石段を駆け上ってくる。水差しを取り落とし、塔に飛び込んだ。恐ろしさに舌がふくれあがる思いだったが、それでもドアの隙間から外をのぞいてみた。イヌよりも貧相で、ぼろぼろの薄汚い毛のあいだからあばら骨が浮き出している。口からしたたり落ちる血は、羊の殺戮のあかしだろう。
心底おびえながらも、娘はオオカミに心奪われた。雪原をひた走る姿は、さながら死者の霊魂が飛びすさっていくところか。もしかしたら、何かしら人知を超えたものの一端なのかもしれない――生命の核心にふれるような何かが飛んでゆく……。オオカミの姿が消えてしまえば、自分が見たものは、とても実際に起こったこととは思えなかった。もし、雪の中に足跡さえ残っていなかったなら。
十七歳になると、娘は召使いとして丘の上の館に仕える身になった。あるじは地位の低い男爵である。夏のある夜、アントーニオ男爵は牧草地で娘を「露に濡れたバラ」と呼び、娘は気が遠くなりそうな思いをした。神父に一夜のことを告解すると、償いが与えられ、神父は罪を赦してくれた。だがその告白が六度目に及ぶと、神父が、あなたがたは結婚しなければなりません、と言ったので、アントーニオはいいなづけになった。
だが、アントーニオの母親は娘が気に入らず、三年経ってもクレメンティーナはまだ彼のバラのまま、アントーニオは彼女の婚約者のまま、結婚という言葉が出ようものなら、アントーニオの母親は頭をかきむしって悲鳴を上げる。秋が来て、男爵は彼女に、召使いとして一緒にローマに来てくれ、と頼んだ。夜ごと、ローマ法王にお目にかかる夢を見、夜もなお、街灯が昼間のようにあたりを照らしている通りにあこがれてきた彼女に、どうしてそれを断わることができただろう。
ローマでは、藁の上で眠り、手桶の水で体を洗う毎日だったが、確かに通りは目を奪うようなものだった。とはいえ、長い時間働きづめで、街をぶらつこうにも、その暇はほとんどなかったのだが。男爵は一ヶ月に1万2千リラ払うと約束してくれていたが、最初の一ヶ月が過ぎてもただの1リラも払ってくれず、二ヶ月目も同じだった。料理人が、旦那はしょっちゅう田舎から娘を連れてきちゃただ働きさせてるんだよ、と教えてくれた。
ある晩、男爵のために扉を開きながら、できるだけ失礼にならないように、給金がどうなっているか聞いてみた。ところが男爵は、おまえには部屋を与えているじゃないか、あの村からだって出してやった、それもローマに、と言い捨てた。ろくに教育も受けていない彼女には、言い返すことができない。通りへ着て歩けるような上着の一枚も持っていなかったし、靴には穴が空いていた、食べるものといえば、食卓の残り物だったのに。わかったのは、ほかの仕事口を探さなければならない、ということだった。ナスコスタに帰ろうにも、帰る金さえないのだから。
つぎの週、料理人のいとこがお針子兼女中の仕事を見つけてくれた。そこで彼女はこれまで以上に懸命に働いた。ところが月の終わりになっても、給金は出ない。そこで彼女は、奥様がレセプションに着ていけるよう頼まれたドレスは、お給料をいただけるまで仕上げません、と抵抗した。女主人は怒って頭の毛をかきむしったが、給金は払ってくれた。
その晩、例の料理人のいとこが、アメリカ人が女中を探しているらしい、という話を教えてくれた。汚れた皿は全部かまどに突っこんで、洗ったことにして、聖マルチェロに祈りを捧げた。思いはローマの街を横切って、アメリカ人の家へ飛んでいく。その晩は、通りの女の子たちがみな、その仕事口を手に入れようとしているような気がした。
アメリカ人の家というのは、男の子がふたりいる一家だった。教養ある人びとという話だったが、彼女の目には、地味で精彩に欠ける人たちにしか映らなかった。だが、給金は二万リラ払ってくれるという。おまけに居心地の良さそうな部屋へ案内すると、ここを使ってほしい、不都合がなければ良いのだが、と言うものだから、その日の朝の内に、彼女はアメリカ人の家に引っ越していった。
アメリカ人というのがどんなものか、それまでにもいろいろ聞いていた。どれほど気前が良く、無知であるか。うわさのいくばくかはほんとうだった。一家はたいそう鷹揚で、彼女を客か何かのように扱ってくれる。用事はかならず「暇なときでいいから」とお願いされるし、木曜日と日曜日には「出かけてきたら?」と勧められた。
主人(シニョーレ)は長身でひどく痩せており、大使館で働いていた。短く刈り込んだ髪は、まるでドイツ人か囚人か、そうでなければ脳の手術をして回復途上にある病人のようだ。黒くて硬い毛を伸ばしてカールでもさせれば、通りの女の子たちもみんなうっとりすることだろう。だが、毎週床屋に行って、せっかくの男ぶりを台無しにしてしまうのだった。ほかの面ではたいそう慎み深く、ビーチでさえも体をすっぽり隠す水着を着ているくせに、通りを歩くときには、自分の頭のかたちを衆人環視のうちにさらしてはばからないのだから。
女主人(シニョーラ)はきれいな人で、大理石のように白い肌をしており、たくさん服を持っていた。広い屋敷と楽しいことがたくさんある生活がいつまでも続くよう、クレメンティーナは聖マルチェロに祈りを捧げた。
一家は電気代などというものが存在しないかのように、明かりという明かりを一晩中つけっぱなしにしていた。夕方、肌寒いというだけで暖炉で薪を燃やし、冷えたジンとベルモットを夕食前に飲む。
彼らは体臭までもがちがっていた。どうしてこんなにかすかにしかにおわないのだろう。貧弱な体臭。もしかしたら北部人の血と何か関係があるのかもしれない。それともしょっちゅう熱い風呂に入るせいだろうか。あんなにやたらと熱い風呂に浸かって、よく神経衰弱にならないものだ、と不思議に思った。
アメリカ人もイタリア料理を食べ、ワインを飲んでいるのだから、もっとたくさんパスタとオイルを摂るうちに、強い、健康的なにおいを発するようになるにちがいない。そう思ってときどき食卓で給仕をしながらにおいをかぐのだが、一向に強くなるようなこともなく、においなど感じられないことさえあった。
子供たちは甘やかされていて、両親に向かって横柄な口を利いたり、かんしゃくを起こしたりすることもあった。そんなとき、何より必要なのは鞭なのに、彼らは決して子供に鞭を使わない。この外国人ときたら、怒声を上げることすらしないで、ただ、お父さんとお母さんは大切なのだと説明するだけだった。あまつさえ、末っ子が悪いことをしたときには、母親は鞭で打つ代わりにおもちゃ屋へつれていき、ヨットを買ってやることまでした。
さらには、正装して夕方から出かけるようなときには、シニョーレは呼び鈴を鳴らしてクレメンティーナを呼びつける代わりに、まるでヒモか何かのように、自分から妻のボタンをかけてやったり、真珠のネックレスをとめてやったりしている。
こんなこともあった。アパートメントに水がなかったので、階段を降りて泉へ水を取りに行こうとすると、シニョーレが手伝いについてきた。旦那様に水を運んでいただくなんてできません、と断っても、若い娘が大きな瓶を抱えて階段を上ったり降りたりしているというのに、暖炉のそばでくつろいでいられるわけがないじゃないか、などと言い張るのだ。シニョーレは大瓶を彼女の手から取り上げると、泉へ降りていき、門番やほかの使用人たちに見られるかもしれないのに、水を汲んできた。台所の窓から一部始終を見ていた彼女は、たいそう腹が立ち、恥ずかしさのあまりにワインを少しばかり胃の中に流しこまないではいられなかった。きっとみんながあたしのことを怠け者だってうわさするだろう。おまけにあたしが働いているお宅は、下品で無教養な人たちだ、って。
彼らは死者の存在を信じない。黄昏どきに広間を歩いていると、目の前に幽霊がいるのが見えたことがある。あまりにその姿がくっきりしているので、立っているのが男だとわかるまで、そこにシニョーラがいらっしゃるとばかり思っていたほどだった。そうではなかったことに気がついた彼女が悲鳴を上げて、メガネと瓶が載っているトレイを落とした。悲鳴を聞きつけたシニョーレが、いったいどうしたんだ、と尋ね、幽霊がいたんです、と答えたところ、相手にもされなかったのだ。別のときには、ホールの奥にそれとはちがう幽霊、ミトラをかぶった僧正の幽霊がたたずんでいるのを見たこともある。そのときも悲鳴をあげ、シニョーレに自分が見たものを伝えたのだが、一向に興味を引かれたようすもなかった。
だが、子供たちは夢中で話を聞いてくれた。夜になると、ベッドに入った子供たちにナスコスタの話を聞かせてやる。子供たちが何より喜んだのは、アスンタという美しい娘と結婚したナスコスタの若い農夫の話だった。
ふたりが結婚して一年が過ぎてから、黒い巻き毛に輝くような肌の、かわいい男の赤ちゃんが生まれたの。でもね、生まれつき病弱な子で、泣いてばかりいたのね。だから、ふたりは赤ちゃんはきっと呪われてるんだ、って考えた。だからコンキリアーノに住むお医者さんに診せに、ロバに乗って行ったの。そしたらお医者さんは、赤ん坊は飢え死にしかけているじゃないか、と言ったの。そんなはずはありません、とお母さんとお父さんは言った。アスンタのブラウスにはあふれだしたおっぱいの染みができるほどだったのに。
そこでお医者さんは、夜、何が起こっているか、よくよく注意して見ていなさい、と教えてくれたの。だから、ふたりはまたロバに乗って家に帰った。夕飯をすませて、アスンタは寝たんだけど、お父さんの方は寝ずに様子をうかがっていた。するとどうだろう、真夜中の月明かりの中に、とてつもなく大きなマムシの姿が浮かんだ。マムシは農家の戸口に現れて、ベッドに入り込んだかと思うと、アスンタのおっぱいを吸い始めたの。お父さんは動くことができなかった。だって、ちょっとでも動いたら、マムシはお母さんの胸に噛みついて、殺してしまうでしょう?
おっぱいが出なくなるまで飲んだマムシは、床を這いながら戸口を超えて、月で明かるい外へ戻っていったの。お父さんは警鐘を鳴らして、あたり一帯のお百姓さんたちをみんな集めた。そしてとうとうお百姓さんたちは、農場の壁の裏側に巣を見つけたのよ。そこにいたのは八匹の大きなヘビ! 乳をたらふく飲んだせいで丸々と太って、シューッと息を吹きかけられただけでも死んでしまうくらいの毒をもってるの。だからお百姓さんたちは、ヘビを全部、棍棒で叩き殺したんだよ。これは全部ほんとうの話。だってあたしはその農家の横を、何百回も通ったんだからね。
このほかにも子供たちが喜んだのは、コンキリアーノに住んでいたレディが、アメリカから来たハンサムな外国人と恋仲になる、という話だった。
ある晩のこと、そのレディは恋人の背中に、葉っぱの形をした小さなあざがあるのに気づいたの。それを見て思い出した。そのレディは、はるか昔、赤ちゃんを盗まれたことがあったの。ああ、あの子にはこんなあざがあったわ、って。恋人は、実はわたしの子供だった……。レディは急いで教会に駆け込んで、告解でお赦しを得ようとした。でも、神父様は太った横柄な男でね、そんな罪には赦しは与えられない、って言ったのよ。するとどうでしょう、突然、告解の最中に、骨がカタカタって鳴る大きな音が響いたの。急いで告解場の扉を開けたら、その偉そうで横柄な神父様の姿はどこにもなくて、ただ骨だけが残ってたんだって。
子供たちには聖母マリアの宝石の奇跡の話も、食べるものが何もない冬に、カヴール通りを駆け上がってきたオオカミにでくわした話も、従姉妹のマリアが赤い衣装に身を包んだ悪魔に会った話も聞かせてやった。
七月になると、アメリカ人一家について山へ行き、八月にはヴェニスへ、そうしてローマに戻ったときには秋になっていた。一家はどうやらイタリアを離れるらしく、その話をしていることが彼女にも察しがついた。地下からトランクを引っ張り出して、彼女もシニョーラの荷造りを手伝った。
いまや彼女は靴を五足、ドレスを八着持っているし、銀行には預金まである。もうローマ人の屋敷で仕事を探すのはいやだった。ローマ人にまたこき使われるかと思うと、気持ちがふさぐ。ある日、シニョーラのドレスをつくろいながら、意気消沈していた彼女は不意に泣き出してしまった。そうして、これまでローマ人の家で、どれほど辛い仕打ちを受けてきたか、シニョーラに切々と訴えたのだった。それを聞いてシニョーラは、もしあなたが行きたければ、新大陸へ連れていってあげてもいいのよ、と言ってくれた。
六ヶ月間の短期滞在ビザをシニョーレたちが用意してくれた。そのあいだは楽しく過ごせるし、この一家のために働ける。出発準備がすべて終わると、ひとりでナスコスタへ向かった。母親は「行かないでおくれ」と泣きながらかきくどいたし、村の誰からも「行くんじゃない」と反対されたが、村の者たちが自分をねたんで言っているのはわかっていた。この人たちはどこにも行くチャンスがないんだ――コンキリアーノにさえ。
自分が育ち、幸せだった場所も、いまの彼女の目には、過去の世界にしか映らなかった。習慣も、立ち並ぶ壁も、生きている人間よりはるかに長い歴史を持っていた。わたしはきっと新しい世界で、壁も何もかも新しい世界で、幸せになれる、と思った。たとえそこに野蛮人しかいなかったとしても。
出立が近づいて、一家はナポリへ車で向かった。途中、シニョーレがコーヒーとコニャックを補給するたびに車を停め、百万長者のような悠々とした旅である。ナポリの豪華ホテルには、彼女のために一部屋用意してあった。
だが、船出の朝になると、自分でも驚くほどの悲しみが襲ってきた。どうして自分の国を離れてちゃんと生きていけるだろう? 気を取り直そうと、自分に言いきかせる。ちょっと船に乗るってだけじゃないの。あたしは六ヶ月したら戻ってくるんだ。第一、たとえ見たことがないにしても、そこも良き主がお作りになった世界よ。どうしてそこが、こっちとはまるでちがう、おかしな場所ってことがあるだろう。彼女はパスポートにスタンプを押してもらい、大泣きしながら船に乗り込んだ。
船はアメリカ船で、真冬並みに寒いというのに、昼食の食卓には氷水があり、冷たくない料理は味も素っ気もなく、調理の仕方もひどいもの、アメリカ人に対する憐れみの情がここでもわき起こった。この人たちは親切で気前がいいけど、ものを知らないし、男は奥さんの真珠のネックレスを留めてやるようなことまでする。あの人たちはあんなにお金を持っているくせに、皿いっぱいに広がる生焼けのステーキを、薬みたいな味がするコーヒーで飲み下すことしか知らないんだから。
乗船客は、美しくもなければ、エレガントでもない、薄い色の目をした人びとだった。何より、船内の老婦人たちにはうんざりさせられる。故郷のおばあちゃんたちはみんな、誰かしら亡くなった人を悼んで黒い服を来てるし、そのくらいの年齢になると、そういう格好が一番よく似合うわ。動作もゆっくりとして、落ち着きがあるし。だけど、ここにいるおばあちゃんたちはみんな、キーキー声でしゃべるし、派手な服を着て、ナスコスタの聖母みたいに宝石で飾り立てる。おまけにその宝石はみんなニセモノじゃない? 顔を塗りたくって、髪を染めて。だけど、誰がだまされるだろう。あのお化粧の下に老けた顔があるのはすぐわかる。ほっぺたも首も、カメの首みたいにしわくちゃで。おまけに故郷のおばあさんたちは春の野原みたいな匂いがするのに、ここの人たちはお墓の花みたいにしおれて、かさかさになってるし。あの人たちって藁みたい。おそらくこれが未開の国ってことなんだろう。年寄りが、分別もたしなみもないし、これじゃあの人たちの子供も孫も、尊敬することなんてできやしない。亡くなった人たちのことも、すっかり忘れてるんだから。
だが、あれはきっと美しいにちがいない、と楽しみにしているものがあった。これまでに雑誌や新聞で、ニューヨークにそびえる塔の写真を何度も見てきたのだ。どの写真も、尖塔が青空を背景に金色や銀色に輝きながら、戦禍を被ったことのない街にそびえていた。
ところが船がニューヨーク湾に臨むナローズ海峡に入っても、雨の中、塔はどこにも見当たらない。塔はどこにあるんですか、と聞いてみると、雨がふってるから見えないなあ、という返事である。彼女はがっかりした。目に入る新世界は醜く、夢を描いた人びとは誰もみな、裏切られたように感じたことだろう。まるで戦時中のナポリみたい。来るんじゃなかった。
彼女の手荷物を調べた税関は、粗野な男だった。一家はタクシーと汽車を乗り継いで、新世界の首都ワシントンへ向かい、そこからさらにタクシーに乗ったが、窓の外から見えるのは、ローマ帝国時代の建物の模造品のようなビルばかりだった。彼女の目には、もやの向こうにフォロ・ロマーノのまがいものが、夜の明かりを浴びて不気味に浮かび上がっているように映った。タクシーは郊外を走る。そこには真新しい木造住宅が軒を連ね、家に入ると洗面台も浴槽も広々として気持ちよく、朝になるとシニョーラは彼女にさまざまな機械を見せて、その使い方を教えたのだった。
最初のうち、彼女は洗濯機を疑いの目でながめていた。この代物は、石鹸とお湯をふんだんに使った上に、服を洗うために大騒ぎをやらかす。これとくらべたら、ナスコスタでの洗濯は、どれほど楽しかったことだろう。あの頃は泉で友だちと話をしながら、何もかも新品になったかと思うくらい、きれいに洗ったものだったけど。
だが、そのうちにだんだん洗濯機も悪くないと考えるようになった。結局のところたかが機械なのだし、内部をいっぱいにし、空っぽにし、ぐるぐる回っているだけではないか。そう考えると、機械のくせにずいぶんいろんなことを覚えて、いつもそこで、いますぐ働けますよ、とばかりに待ちかまえているところは、たいしたものだ。なんと皿を洗う機械まである。これがあればイヴニング・ドレスを着たまま、手袋に一滴の水も垂らすことなく、食器をきれいにすることができるじゃないか。
シニョーラが出かけてしまい、男の子たちも学校へ行くと、まず最初に彼女は汚れた服を洗濯機に入れてスタートさせた。それから汚れた食器を別の機械に入れて、それもスタートさせる。そのつぎに、すてきなローマ風サルティンボッカを電気フライパンに入れて、それもスタートボタンを押す。そうして自分は居間のテレビの前に腰をおろし、まわりで機械が仕事をする音に耳を傾けるのだ。その音を聞いていると気分は爽快になってくるし、自分がえらくなったような気もした。台所には冷蔵庫があって、中では氷を作ったり、バターを石と同じくらい硬くしたりしている。深い冷凍庫は、ラムや牛肉を、屠殺直後の新鮮さのまま保つのだ。そのほかにも、電動泡立て器や、オレンジを搾る機械、電気掃除機もあった。それを全部、一度に働かせることもできるし、トーストを焼く機械――全面、銀色に輝いている――にパンを入れて、それに背を向ければ、さて、そこには二枚のトーストが、お好みの色で焼けている。それもすべて機械がやってくれるのだから。
日中、シニョーレは仕事に行ったが、ローマにいた頃は王女のように暮らしていたシニョーラが、新世界では秘書になってしまったようだった。もしかしたらおふたりは貧乏になったのだろうか。だから、奥様も働きに行かなくてはならなくなったのだろうか。いつも電話で話したり、なにやら計算をしたり、手紙を書いたりと、秘書さながらの仕事をしている。日中はいつも何かに追い立てられて、夜になるとぐったり疲れているところも、秘書そっくりだ。シニョーレたちがともに、夜は疲労困憊しているせいで、家の中はローマにいたころのように、心安らぐ場所ではなくなってしまっていた。
とうとうたまりかねて、シニョーレに、どうして奥様に秘書なんかをさせていらっしゃるのですか、と聞いてみた。ところがシニョーレは、家内は秘書をしているわけではないんだ、貧しい人びとや体や心の病気の人びとのために、お金を集めるので忙しいだけなんだよ、と教えてくれた。話を聞いて、クレメンティーナはひどく不思議な気がした。
気候も彼女には何だかおかしいように思われた。蒸し暑いし、肺や肝臓に悪いような気がする。ただ、いまの季節、木々の色鮮やかなこと――これまでには紅葉など見たことがなかった。木々の葉が金色や赤や黄色に変わって、ローマやヴェニスにある天井の壁画から、絵の具が落剥するように、葉が宙にひらひらと舞うのだった。
同郷人がひとりいた。牛乳を配達しているジョーという老人が、南イタリアから来ていた。六十代かもう少し上で、腰をかがめて牛乳瓶を運んでいる。それでも一緒に映画を観に行き、映画の筋をイタリア語で教えてもらった。つねられたかと思うと、結婚を申し込まれたのも映画館だった。クレメンティーナにしてみれば、まったくの冗談としか受け取れなかったのだが。
新世界では奇妙な祭りを祝った。七面鳥を供えるのだが、祀るはずの聖者がいない。イタリアではナターレの時期だったが、ここまで聖母マリアや聖なる御子に対して無礼な祝祭は見たことがなかった。
まず、彼らは緑の木を買ってきて、それから応接間に据える。そうしてその木が悪しきものを鎮め、祈りを聞き届ける聖者であるかのように、きらきら輝くネックレスをぶらさげるのだ。マンマ・ミーア! 木だなんて!
彼女が告解に行くと、神父は日曜ごとに教会へ来ないと言って、おまえには悪魔の尻尾を与える、と告げるような厳しい人物だった。ミサに行けば、三度も献金箱が回ってくる。ローマに戻ったときには、新世界の教会では、キスをするための聖者の手根骨すらない(※カトリック教会では崇敬の対象に聖人の遺骨の一部が保管されている)ことを新聞に投書してやろう、と考えた。緑の木を祀り、聖母マリアの受難を忘れてしまっていることや、献金箱が三度も回ってきたことも書かなくては。
やがて雪が降ったが、ここでの雪はナスコスタより、ずっとすてきなものだった――オオカミはおらず、シニョーレたちは山でスキーをし、子供たちは雪遊び、家はいつも暖かに保たれていた。
相変わらず日曜日になるとジョーと映画を観に行った。映画館ではジョーに筋を説明してもらい、結婚を申し込まれてつねられた。ある日のこと、映画館に行く前に、ジョーは立派な家の前で立ち止まった。木造でペンキの仕上げも美しい。感じの良いアパートメントで、ドアの鍵を開けて二階へ上がっていくと、壁紙が張ってあり、ワックスで磨かれた床は輝いていた。部屋は全部で五つ、モダンなバスルームもついている。わしと結婚してくれるなら、ここは全部あんたのものだ、とジョーが言った。皿洗い機も買うし、電気泡立て器も、奥様が持ってなさるようなサルティンボッカ・アラ・ロマーナをひっくり返せるような電気フライパンも買ってやろう。
このお金はどうやって工面したの、と聞くと、ジョーは、一万七千ドルを貯めたんだ、と言ってから、ポケットからなにやら取り出して見せた。貯金通帳だった。17,230ドル17セントのところにスタンプが押してあった。
もし嫁に来てくれるなら、全部おまえのものだ、という申し出に、それはできないわ、と答えたのだが、映画を観終えて、ベッドの中で機械のことを考えると悲しくなってきた。新世界になんて、来なきゃ良かった、と考えた。こんなことはもう二度とないだろう。ナスコスタに戻って向こうの人に、一人の男が――ハンサムではないけれど、正直で優しい人が――自分に17,000ドルかけて五つ部屋がある家を買ってくれた、と言ったとしても、絶対に信じてはくれないだろう。みんな、あたしはどうかしてると思うだろう。また寒い部屋でわらをかぶってぐっすり眠るなんてことができるだろうか。
彼女の一時滞在ビザは四月で切れることになっていた。帰国が迫っていたが、シニョーレは、もし望むなら延長申請をしてあげよう、と言ってくれ、彼女も、どうかそうしてください、と頼み込んだ。ある晩、台所にいるとき、シニョーレたちが低い声で話をしていたので、おそらく自分のことを話しているのだろうと思った。けれども、直接話してくれたのは、それからずいぶん時間が過ぎてから、ほかの人びとがみんな寝室に上がって、彼女もお休みなさいを言いに行ったときだった。
「すまない、クレメンティーナ」とシニョーレは言った。「君の延長申請が却下されたんだ」
「仕方ないです」と彼女は言った。「この国があたしにいてほしくないんだったら、あたしは帰るまでです」
「そういうことじゃないんだよ、クレメンティーナ。法律なんだ。残念だけど。君のヴィザは12日で期限切れだ。それまでに君の船を手配するよ」
「ありがとうございます、旦那様」彼女は言った。「おやすみなさい」
あたしは帰るんだ。船に乗って、ナポリに着いて。それからメルジャリーナから汽車に乗って、寝台車でローマに着く。ティブルティーナ駅をバスに揺られ、紫の排気ガスをカーテンのようにたなびかせながら、ティヴォリの丘を登っていくのだ。
ママにキスして、ママのためにウールワースで買った、銀のフレームに入った映画スターのダナ・アンドリュースの写真をプレゼントしているところを思い浮かべると、目に涙があふれた。広場に坐ったあたしのまわりを、まるで事故現場か何かのように人が取り囲む。そうしてあたしは自分の国の言葉でしゃべり、イタリア人の作ったワインを飲む。新世界では、自分で判断するフライパンがあることや、トイレ掃除用のパウダーすらバラの香りがすることを話すのだ。
その場面がまざまざと目に浮かんでくる。泉のしぶきが風に乗って顔に吹きつけてくることさえ感じた。集まった町の連中のいぶかしげな顔も見える。あたしの話を信じてくれる人がいるんだろうか。耳を傾けてくれる人が。もし、あたしがいとこのマリアみたいに悪魔に会ったとしたら、みんなは感心してくれるだろう。だけど、あたしがこの世の天国を見たとしても、誰も気になんてしてくれやしない。ひとつの世界を離れて、別の世界に来て、あたしはその両方を失ってしまったんだ。
それから彼女は手紙の入った箱を開けて、ナスコスタに住む寝たきりのセバスティアーノおじさんから来た手紙を読み返した。開ける手紙、開ける手紙、いずれも悲痛なものばかり。秋が来るのが早く――と彼は書いていた――まだ九月というのに寒い。そのためにオリーブやブドウもだめになってしまい、原子爆弾(ラ・ボンバ・アトミカ)のせいでイタリアの季節までおかしくなってしまった。いまでは渓谷に町の影が落ちるのも、すっかり早まってしまった……。
冬の始まりは、いまでも覚えていた。ある日、急に霜がブドウや野の花の上におりるのだ。記憶にあるのはそのことばかりではない。夕暮れ時、ロバに乗って農夫たちが帰ってくるときのようすも、根や木片を担保に金を借りたことも。木はあの地方では見つけるのが難しく、伐採したグリーンオリーブを束ねるための木ぎれさえ、10キロ四方をロバで探し回らなければ見つからないのだ。骨にしみいる寒さも、夕暮れ時の黄色い光を背にしたロバを見たことも覚えていたし、ろばのひづめが蹴った石が、急な勾配の道を転がり落ちる寂しい音を聞いたことも忘れたことはなかった。
十二月にセバスティアーノおじさんは、オオカミの季節のことを書いてきた。恐ろしい季節がまたナスコスタにもやってきた、オオカミがシニョーレの羊を六匹も殺したから、もう子羊の肉もないし、パスタを練ろうにも卵もない。広場は泉の端まで雪に埋もれてしまった……。飢えと寒さがどういうものものか知らない者はなかった。もちろん彼女も両方ともはっきりと覚えていた。
手紙を読んだ部屋は暖かかった。あたりを電灯がピンク色に照らしている。彼女はシニョーラさながらに、銀の灰皿を持っていたし、いつでも自分専用のバスルームへ行って、暖かい浴槽に肩まで浸かることもできた。聖母マリアはわたしに荒野に住み、飢え死にせよとおっしゃるのだろうか? 自分に差し出されたものを受け取って、快適に過ごすことはまちがっているのだろうか?
故郷の人びとの顔がまた浮かんできた。肌も髪も目も、なんと暗い色をしているのだろう。淡い色合いの人びととともに生活しているうちに、いつしかそれを偏愛するようになったのだろうか。
その顔は、咎めるように彼女を見つめていた。土に養われた忍耐、優しさ、威厳、そうして絶望のまなざしで。だが、なぜわたしが帰らされなくてはならないのだろう。暗い丘陵地帯で酸っぱいワインを飲まなくちゃならないんだろう。ここの人たちは、新世界で若さを保つ秘訣を見つけた。天国の聖者さまは、もし神様がお命じになったら、若さも放棄してしまうのだろうか。
ナスコスタでは、絶世の美女も、世話をしてやらなかった花のように、あっというまに萎れてしまう。どんなにきれいでも、腰は曲がり歯が抜け、暗い色の服はママの服がそうだったように、タバコと堆肥の臭いをさせるようになるのだ。
だが、この国にいれば、これから先もずっと、白い歯といまと同じ髪のままでいられるだろう。死ぬまでヒールのある靴を履き、指には指輪をはめ、男の注目を集めることができる。ひとりの人間が十通りの人生を生きることができるのが新世界だし、年齢を感じて苦痛を味わうことなどない。ジョーと結婚しよう。ここに留まり、十通りの人生を生きてやろう。大理石のような白い肌と、肉を噛みくだく歯を持って。
翌晩、シニョーレが船が出帆する日程を教えてくれた。話がすんだところで彼女は言った。「あたしは帰りません」
「どういうことだね」
「ジョーと結婚します」
「だが、ジョーは君よりずいぶん年上じゃないか、クレメンティーナ」
「ジョーは六十三歳です」
「君は?」
「あたしは二十四です」
「ジョーを愛しているのか?」
「滅相もない、旦那様。あんな人を愛するなんてことができるわけないじゃありませんか。リンゴをつめた袋みたいな太鼓腹だし、首の後ろ側も皺だらけ、あの皺で運勢だって占えそうなおじいさんなんだから。そんなことはむりです」
「クレメンティーナ、ジョーは立派な人だよ」とシニョーレはいった。「正直な男だ。もし結婚するなら、君はジョーを大切にしてあげなきゃならないよ」
「あら、あたし、大切にしてあげます。ベッドを整えて、お料理して。だけど絶対、あの人に指一本触れさせたりしません」
彼は目を伏せてしばらく考えていた。やがて口を開いた。「君をジョーと一緒にさせるわけにはいかないよ、クレメンティーナ」
「どうしてですか」
「君が彼のほんとうの妻にならないうちは、結婚させるわけにはいかない。彼のことを愛すようにならない限りは」
「でも、旦那様、ナスコスタでは結婚する男の土地は自分のものになるのが道理だし、だからその人に気持ちが引きつけられるっていうのは、恥知らずなことなんですか?」
「ここはナスコスタじゃないよ」
「でも、結婚なんて、だいたいそんなものではないんでしょうか、旦那様。もし人が愛のために結婚するというなら、この世は生活の場ではなくて、頭のおかしな人を収容する病院ってことになるんじゃないのでしょうか。奥様は、お金と旦那様が準備してくれた便利な道具があったから、結婚なさったんじゃないですか」
シニョーレは無言だったが、その顔は血が上って赤黒くなっていた。
「シニョーレ、シニョーレは目に星がキラキラしてる男の子みたいな話をしていらっしゃいます。噴水のところにいる痩せた男の子みたい、頭の中に詩をいっぱい詰め込んだ男の子がしゃべってるみたいです。あたしはただ、この国に留まるためにジョーと結婚するってことを包み隠さずお話しただけです。それを旦那様は若い男の子みたいなことをおっしゃって」
「ぼくが言っていることは、子供じみたことなんかじゃない。君は誰にものを言っているかわかっているのか。ローマでうちに来たときは、靴も、上着すらも持ってはいなかったじゃないか」
「シニョーレはあたしのこと、わかっておいでじゃありません。たぶん、あたし、ジョーを愛するようになるはずです。いまはただ、自分が愛のために結婚するんじゃないって、正直にお話ししたかっただけです」
「だから、それがまちがってるって言いたかったんだ。そういう考え方は、ぼくにはがまんができない」
「シニョーレ、お暇をいただきます」。
「ぼくは君に対して責任がある」
「いいえ、シニョーレ。ジョーがわたしに責任を負ってくれるはずです」
「じゃ、この家から出ていってくれ」
彼女は階段を上がって自分の部屋に戻り、あのいい歳をした馬鹿者に対する怒りと哀れみで激しく泣きながら荷造りをした。朝になって朝食の用意をしたが、シニョーレが仕事に行くまで、台所から出なかった。やがてシニョーラが降りてきて涙を流し、子供たちも泣き出した。昼になるとジョーが車で迎えに来てくれて、一緒にペルッチ家に向かった。ペルッチは同郷人で、ジョーと結婚するまで、彼女はそこに滞在することになっていたのだ。
マリア・ペルッチは、こっちの世界じゃ結婚式のときはお姫様になるのよ、と説明してくれたが、実際そのとおりだった。三週間というもの、マリアと一緒に店を出たり入ったりの日が続いた――まず初めに買ったのは、ウェディングドレスである。最新流行の純白のドレスで、サテンの裾が後ろに長く伸びている。だがそれだけでなく、同時に経済的でもあって、この引き裾はイブニングドレスに仕立て直すことができるのだ。それから付き人を務めるマリアやマリアの妹の衣装、これは黄色とラヴェンダーで、これもまたイヴニングドレスに使い回すことができる。さらに靴と花と新婚旅行のための服とスーツケースを用意し、借り物はひとつもなかった。
結婚式当日は、疲労困憊してしまい、膝にはまるでミルクが溜まったかのよう、行けども行けども夢の中で、振り返っても何一つ覚えていなかった。披露宴には大勢の同郷人が集まり、ワインも料理も音楽もあふれるほどにあった。それからジョーと一緒に汽車に乗り、ニューヨークへ向かった。そこで高いビルを見ていると、ホームシックが襲ってきたが、それも束の間のことだった。
ニューヨークに着いた晩はホテルで過ごし、翌日には紳士や淑女の乗るような豪華な汽車で、アトランティックシティに向かった。特別席には、乗客ひとりひとりに給仕がついて、食べ物や飲物を運んでくれる。椅子の背にジョーがプレゼントしてくれたミンクのストールをかけていたおかげで、みんながそれに目を留め、これほど見事なものを持っているからにはさぞかしお金持ちの奥様にちがいない、と思ったようだった。ところが、ジョーが給仕を呼んで、ウィスキーとセルツァー水を持ってくるよう命じると、給仕は何を言われているのかわからないふりをする。いかにも、ほかのお客様のご用で手一杯、という態度で、一番後回しにされてしまった。彼女は、自分たちが新世界の言葉を流ちょうにしゃべれないせいで、無礼な扱い、まるで豚か何かのような扱いを受けなければならないことに、改めて屈辱を覚え、腹が立ってたまらなかった。
汽車に乗っている間中、そういう扱いは続いた。あたかも彼らの金が、ほかの客の金とはちがう、まがい物かなにかのように、給仕は二度と近くへ来ようとしなかったのである。
汽車が長く暗いトンネルを抜けると、そこは醜くも活気に満ちた街だった。たくさんの煙突が炎を吹き上げながら立ち並ぶ。それから木々や、いくつもの川や、ボート乗り場が続いた。まるで川の流れのように、あっという間に過ぎ去っていく風景や、ゆったりと流れていく風景を、汽車の窓から眺めながら、ここはイタリアのように美しいのだろうか、と考えた。だが、わかったのはただ、そこは自分の国ではない、自分の知っている土地ではない、ということだけだった。
街が近くなると、汽車は貧しい人びとが暮らしている軒先を走り抜けた。洗濯物が一列に吊されていて、これは同じだ、世界中どこだって、洗濯物をこんなふうに一列に並べて干すのだろう、と考えた。つつましい家並みもまた、同じだった。肩を寄せ合うように軒を連ね、狭苦しい庭には、せいいっぱいの愛情と手間がかけられていた。
真昼かそれを少し過ぎたころ、汽車は街中を抜け、午後中かかって田舎を走り抜けた。学校が退けて、通りには本を抱えたり、自転車に乗ったり、ゲームに興じたりしている大勢の子供たちが見えた。子供たちは走ってくる汽車に手を振り、彼女も手を振り返す。丈の高い草が生い茂る原っぱを歩いている子供たちにも、橋の上にいたふたりの子供にも手を振り、老人にも手を振ると、みんな手を振り返してくれた。三人の女の子に手を振り、乳母車を押している女にも手を振り、黄色いコートを着て旅行カバンを抱えているいる小さな男の子にも手を振ると、その子も振り返してくれた。みんな、手を振ってくれた。
やがて汽車は海の近くに来ていることがわかった。というのも、あたりはがらんとして、木はまばらに生えているだけだったからだ。その代わりにたくさんあったのは、ホテルの絵を描いた木製の看板で、どれも何百もの部屋があり、さまざまな場所でさまざまなカクテルが飲める、と謳っていた。自分とジョーが泊まるホテルの名前が書いてある看板もあって、確かに高級(ディ・ルッソ)ホテルだ、と思うとうれしくなった。
やがて汽車は止まり、往路の旅が終わった。気後れを感じている彼女をよそに、ジョーは「アンディアーモ(※こりゃいいな)」と言い、ふたりに対して終始無礼だった給仕がカバンを持ち、彼女のミンクのストールに手を伸ばした。だが彼女は「ノー・サンキュー(いえ、結構よ)」と断わって、給仕の手、豚野郎の手がふれる前に取り上げた。
生まれてからまだ一度も見たことがないほど、大きな黒い車が待っていた。彼らの泊まるホテルの名前が表示されている。ほかの人びとと一緒にその車に乗ったが、ホテルに着くまでほかの乗客と話をすることはなかった。自分がこの国の言葉をしゃべれないことを知られたくなかったのだ。
ホテルは“ディ・ルッソ”そのもので、エレヴェーターで上がっていったふたりは、厚い絨毯が敷きつめられたホールを歩き、豪華な部屋へ通された。ふかふかの絨毯はどこまでも続き、トイレまでもがすばらしい――ビデだけは備え付けられていなかったが――。ボーイが帰っていくと、ジョーはウィスキーのボトルを旅行鞄から取り出して一杯引っかけてから、ここにおすわり、と自分の膝に呼んだ。彼女は、もうちょっとあとでね、と答えた。あとよ、こんなに明るいと具合が悪いでしょ、月が上るまで待って。下に降りて、ダイニング・ルームとラウンジが見に行きたいわ。
彼女は潮風でミンクが痛んだりしないだろうか、と考えており、ジョーはもう一杯飲んでいる。窓から外を見ると、海と、うち寄せる波の描く白い線が続いていた。窓は閉まっていたので、打ち寄せた波が砕ける音も、夢の中で聞いているかのようだった。
ふたりはまた下へ降りていったが、何もしゃべらなかった。というのも、贅沢な場所では「ベラ・リンガ(※美しい言葉)」が使えないのなら話などしない方がいいと、はっきりと思い知らされていたからだ。ふたりはバーをのぞき、豪華なダイニングルームを眺め、外に出て、海沿いの歩道を散歩した。海はヴェニスのようで、風もまたヴェニスのように潮のにおいがした。運ばれてくるにおいの中には、フライのにおいも混じっていて、それをかいでいるうちに、ローマでのサン・ジュゼッペのお祭りを思い出した。
彼らの横には、緑色の冷たい海が広がっている。その海を越えて、この新世界にやってきたのだ。海ではない方の側には、心引かれるものがいろいろあった。歩道を歩いていくと、ジプシーたちがいた。窓には人間の手の絵が描いてある。手相を見てもらえるらしかった。彼女がイタリア語が話せるかと聞くと、ジプシーは「シ、シ、ノン チェ ドゥッビオ(※ええ、ええ、いかがわしいものではありませんよ!)」と言うので、ジョーは1ドルを手に握らせた。彼女はジプシーについてカーテンの向こうに入っていき、ジプシーは彼女の手を見て、運勢についてしゃべり始めた。
ところがジプシーが使うのはイタリア語ではない。スペイン語と、クレメンティーナがこれまで聞いたことのない言葉が少しずつ入り混じった、ひどく変則的な言葉で、話のそこここで彼女に理解できたのは、「海」と「航海」という言葉だけだった。だが、その航海も、彼女がこれからすることになるのか、それともしてきたと言っているのかはわからない。イタリア語がしゃべれもしないのに、そんな嘘を言うジプシーの話に、もうそれ以上耳を傾けているのがいやになって、お金を返してちょうだい、と言った。ところがジプシーは、もし金を返せなどと言おうものなら、呪いをかけてやる、と言う。
ジプシーの呪いがどんなものか知っていたので、それ以上抵抗するのはやめて小屋を出ると、ジョーが待っている木の歩道に戻った。そうしてまた、うきうきするようなフライのにおいのただよう海沿いの道を歩き出した。何とか彼らの財布の紐をゆるめさせようと、売り子はまるで地獄の天使のように、笑いかけ、手招きしていた。
黄昏時だった。沈んでいく太陽が真珠のように輝いている。振り向くと、ホテルの窓がピンク色に染まっていた。そこでは彼らが客であり、彼らの部屋があり、いつでも好きなときに戻ることができるのだ。波の音が遠くの山で発破をかけるかすかな音のように響いていた。
彼女は良き妻となった。朝になるとジョーは感謝の気持ちをこめて、彼女のために銀のバター皿とアイロン台カバー、そうして金糸の縫い取りのある赤いズボンを買ってくれた。ズボンをはくなんて、彼女の母親なら悪魔の尻尾を与えたにちがいない。彼女自身がローマにいたころは、ズボンをはくような育ちの悪い女を見たときには、軽蔑したものだ。だが、ここは新世界なのだ。ズボンをはくことも罪ではない。午後になると彼女はミンクのストールをまとい、赤いズボンをはいて、ジョーといっしょに海の上を伸びる木造の歩道を散歩した。
土曜日にふたりは家に戻った。月曜日に買った家具は、火曜日には届いた。金曜日になると彼女は赤いズボンをはいて、マリア・ペルッチと連れだってスーパーに買い物に行った。彼女はどう見てもアメリカ人にしか見えなかったので、言葉が話せないことにみんなが驚いた。
だが、言葉こそ話せなかったが、それ以外のことなら何だってできた。ウィスキーだって、咳き込んだりむせたりしないで飲むことができるようになっていた。
朝になるとすべての機械にスイッチを入れ、テレビを見る。歌の歌詞を覚え、午後になるとマリア・ペルッチが家にやってきて、一緒にテレビを見た。夜になると今度はジョーと見る。母親に自分が買ったもののことを手紙で知らせようとしたが――ローマ教皇がお持ちのものよりもずっとすばらしいものなのよ――、この手紙も母を当惑させるだけだと気がつき、結局絵はがきを何枚か送っただけだった。いまの自分の生活が、どれほど楽しく快適なものであるか、誰にも説明などできはしないにちがいない。
夏になると、夜、ジョーはボルチモアに競馬を見に連れて行ってくれたが、彼女はそれまでこんなにかわいらしいところを見たことがなかった――小さな馬も、ライトも、花も、赤い上着を着て軍隊ラッパを持った楽隊員も。その夏、ふたりは毎週金曜日になると競馬に行くようになった。そんな晩、赤いズボンをはいてウイスキーを飲んでいるときに、シニョーレに会ったのである。言い争って以来、初めてのことだった。
彼女は、お元気でしたか、ご家族のみなさんはお変わりございませんか、とたずねた。すると、シニョーレは「ぼくたちはもう一緒にはいないんだ。離婚したんだよ」と答えた。その顔を見ると、終わったのはふたりの結婚生活ではなく、彼の幸せだったことがわかった。
いまや優位な立場にあるのは彼女の方だった。彼に向かって、シニョーレは目に星がキラキラしてる男の子みたいな話をしていらっしゃいます、と言ってやったからではなく、彼が失ったものの一部は、彼女のものでもあったからだ。彼が向こうへ行ってしまうと、レースが始まったにもかかわらず、目の前にはナスコスタの白い雪とオオカミたちが浮かび上がってきた。オオカミの群れがカブール通りを越え、広場を横切って、こちらに向かって駆けてくる。まるで、オオカミたちは、彼女が知った生命の核心部に横たわる闇が目的であるかのように。肌を刺す冷たさも、雪の白さも、ひっそりと立ち去ったオオカミまでもがありありとよみがえってきて、どうして良き主は、人間にこんなにも数多くの道をお与えになり、人の生涯をこんなにも奇妙に、また多様にさせ給うのだろう、と考えた。
The End
ふたつのおとぎ話
ジョン・チーヴァーというと、二十世紀半ばの強くて豊かなアメリカ社会の中枢を担う、白人中上流階級の人びとを描いた作家という印象が強い。強くて豊かなアメリカが、反面で冷戦や赤狩り、ヴェトナム戦争などの危機を抱えていたように、豊かで安定した生活を営んでいるはずの彼らも、表面とは裏腹に、内部では緊張を強いられ、精神的にも極限に追い込まれている。
チーヴァーはそこに「不思議」を持ってくる。その「不思議」が鏡の働きをして、外からは見えない内部の矛盾やゆがみを映し出す。自分にさえも隠していた矛盾やゆがみが白日の下にさらされて、かろうじて保たれていた主人公の精神のバランスは崩れ、彼らは何らかのかたちで破局を体験する。そうして主人公と一緒に「不思議」に巻き込まれた読者も、矛盾やゆがみを自分が共有していることに気がつく。読者にとっても「不思議」は鏡として働くのである。
ところが「クレメンティーナ」では、緊張に満ちた都市生活者とは無縁の、南イタリアの寒村から物語の幕は開く。宝石の奇跡、雪原を駆けるオオカミの群れ。奉公に行った屋敷では、男爵のお手がつき、藁にくるまって眠る。まるでおとぎ話のようで、いったいどの時代の話か見当もつかない。それが、ローマのアメリカ大使館員に勤務する、アメリカ人家庭に働き口を見つけてから、話はわたしたちもよく知っている現代文明の世界へと移行し始める。
このアメリカ人一家、とくに主人は、チーヴァーの作品ではおなじみの登場人物だ。舞台こそアメリカ郊外ではないが、大使館勤めの、教育のある堅実な人物である。ここへきてわたしたちは、クレメンティーナの存在が「不思議」の役割を果たしているのだと気がつく。第二次世界大戦後の、裕福で知的なアメリカ人一家に入ってきた「不思議」。ところがクレメンティーナの目は、彼らの生活の豊かさや、逆に洗練されていないところ、道徳的に正しい反面、文化的には未熟なところはとらえるけれど、彼らの内面へは踏み込まない。最後の最後でちらりとうかがえるだけだ。
チーヴァーをよく知っている読者は、奇妙な思いにとらわれる。彼らにだって矛盾があったはずなのに。ゆがみはなかったのか。それでいいのか。
最後の場面は競馬場だ。だが、そこには雪のナスコスタがオーバーラップしていく。現代文明の世界とおとぎ話の世界が重なり合う。そこでわたしたちは気がつく。おとぎ話の世界と、現代文明の世界のふたつの世界があったわけではないのだ、と。
クレメンティーナからしてみれば、現代文明の世界こそが「おとぎ話」、悪魔に出会った話ほどにも信じてもらえない世界だ。アメリカに渡ることで、自分にとっての「現実の世界」を出て「おとぎ話」の世界に入ってはみたものの、ちょうど家政婦が一家と共に生活はするけれど、決して家族の一員にはなれないように、クレメンティーナはそちらの世界でも一員にはなれない。
宙ぶらりんになってしまった、と嘆きながらも、クレメンティーナはジョーと結婚することで、新世界で「自分の物語」を紡いでいこうとする。ここではもはや、給金を要求することもできなかった田舎娘の面影はない。言葉がしゃべれないゆえに、さげすまれもするが、それでもたくましく生きていく。
だからこそ、の最後の場面なのである。
おとぎ話の世界、現代文明の世界、二種類の世界があるわけではない。生まれ育った貧しい村と、「おとぎ話」のような機械文明の新世界があるわけでもない。どれもみな同じ世界なのである。ひとはみな、何の準備もないまま、選択の余地もないまま、いきなり世界へ投げ出され、その世界の片隅でたったひとつ、自分だけの物語を紡ぎながら、ほかの人の物語と重なり合ったり、離れたりしていくだけなのだ。
愛ゆえに結婚し、その愛が失せたために離婚する、という物語。豊かな生活のために結婚し、そこに根を下ろし、たくましく生きていく、という物語。物語は、互いに影響を受けながら、主旋律は変奏を加えながら、紡がれつづける。そうして、その中心部には、生命の核心部に横たわる闇がひっそりとあるのかもしれない。
初出 April 23- May 06 2010 改訂July 01, 2010 一部修正 July 31
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