闇を探す



―― 闇に怯えろ、闇を怖れろ
いつもそばになにかいるような気がする
闇に怯えろ、闇を怖れろ
じっと潜んでいるやつが おれは怖くてたまらない
( Iron Maiden "Fear of The Dark")

ロウソク

0.闇を作り出すことはできるのだろうか?

あるとき、スウェーデン人からおもしろい話を聞いた。

スウェーデンは白夜なので、夏の間は日が沈んだと思うと、夜中の二時ぐらいには、もう太陽が昇ってしまうのだという。すると一斉に鳥が鳴き出す。日が昇るだけなら、厚いカーテンを引いて、なんとか眠りを妨げないようにする工夫もできるのだが、鳥の声だけはどうしようもない。

そこで、ひとつ提案があるのだが、とその人は言うのだ。だれか科学者を知らないか、と。

自分は冷蔵庫の原理を聞いたことがある。冷蔵庫というのは、熱を逆転させて冷やしているのだ。それと同じように、光を逆転させて闇を作り出すことはできないだろうか。
そうすれば、闇を作り出す装置を街灯のように設置して、太陽が昇っても鳥たちをそのまま起こさないようにできる……。

この話を聞いたわたしは頭がぐらぐらしてしまって、そんなことが可能かどうか、考えてみることすらできなかったのだけれど、光を遮断して闇を作るのではなく、闇を人工的に作り出すようなことがほんとうに可能なんだろうか。

考えてみれば、わたしの小さい頃は、アイスクリームというのは、暑い夏の楽しみだった。暑い夏に、冷凍庫からよく冷えたアイスクリームを取り出して食べる。暑さを忘れる瞬間である。
ところがいまでは冬に、暖房の良く効いた部屋でアイスクリームを食べる。暖房で多少暖まり過ぎた体に、アイスクリームが心地よい。

やがてわたしたちは夜を明るく照らすだけでなく、このように明るい中に闇を作り出すようになっていくのだろうか。

いまやわたしたちが思い通りに制御しているかのように思える「闇」。わたしたちはこの「闇」を、どうやって明るく照らしだしてきたのだろう? さまざまな文学作品に現れた照明器具の移り変わりを見ながら、人は闇を、あるいは灯りをどうとらえてきたのかを見てみたい。

電球

1.明治のころ

あかりが印象的な文学作品というと、最初に思い出すのが芥川龍之介の『雛』という短編である。この短編の主人公は、明治という時代とともに移り変わっていく灯り、といっても過言ではない。

物語の語り手は、おそらく明治も終わり、江戸―明治―大正と三つの時代を生きて、この物語の〈いま〉では老婆となった「お鶴」が、明治も自分自身も若かった、十五歳のころを振り返る、という体裁をとっている。

お鶴の生家は、もともとは大店だったのだが、幕末の混乱で一切を失ってしまい、代々伝わってきた道具類を売ることで、かろうじて生活を成り立たせている。
お鶴の雛人形もアメリカ人に売ることになってしまった。(引用は青空文庫

わたしの家と申しましても、三度目の火事に遇つた後は普請もほんたうには参りません。焼け残つた土蔵を一家の住居に、それへさしかけて仮普請を見世にしてゐたのでございます。尤も当時は俄仕込みの薬屋をやつて居りましたから、正徳丸とか安経湯とか或は又胎毒散とか、――さう云ふ薬の金看板だけは薬箪笥の上に並んで居りました。其処に又無尽燈がともつてゐる、……と申したばかりでは多分おわかりになりますまい。無尽燈と申しますのは石油の代りに種油を使ふ旧式のランプでございます。可笑しい話でございますが、わたしは未に薬種の匂、陳皮や大黄の匂がすると、必この無尽燈を思ひ出さずには居られません。現にその晩も無尽燈は薬種の匂の漂つた中に、薄暗い光を放つて居りました。

無尽燈というのは、江戸末期の発明品で、かなり高価な照明器具だったようだ。(※無尽燈の参考画像
大店の主だったお鶴の父親は、単に豊かであるばかりでなく、進取の気性にも富んでいたのかもしれない。多くの人々が日常的に使うのが行燈や燭台だったころに、文明品だった無尽燈を手に入れ、日々それを使っていたのだ。だが物語の舞台となった時代には、それもすでに「旧式」なものになってしまっていた。

雛人形にさほど執着がなかったお鶴だが、手放す日が近づくと、最後にもういちど並べてみたくなり、父親にせがむ。だが、売ると決めたものは家のものではない、と、父親は取り合わない。
いよいよ雛人形を手放すことになった当日、入れ替わるように一家に「石油ランプ」がやって来る。

 その晩のことでございます。わたしたち四人は土蔵の中に、夕飯の膳を囲みました。尤も母は枕の上に顔を挙げただけでございますから、囲んだものの数にははひりません。しかしその晩の夕飯は何時もより花やかな気がしました。それは申す迄もございません。あの薄暗い無尽燈の代りに、今夜は新しいランプの光が輝いてゐるからでございます。兄やわたしは食事のあひ間も、時々ランプを眺めました。石油を透かした硝子の壺、動かない焔を守つた火屋、――さう云ふものの美しさに満ちた珍しいランプを眺めました。
「明るいな。昼のやうだな。」
 父も母をかへり見ながら、満足さうに申しました。
「眩し過ぎる位ですね。」
 かう申した母の顔には、殆ど不安に近い色が浮んでゐたものでございます。
「そりやあ無尽燈に慣れてゐたから……だが一度ランプをつけちやあ、もう無尽燈はつけられない。」
「何でも始は眩し過ぎるんですよ。ランプでも、西洋の学問でも、……」
 兄は誰よりもはしやいで居りました。
「それでも慣れりやあ同じことですよ。今にきつとこのランプも暗いと云ふ時が来るんです。」

石油ランプは灯芯が太く、炎のまわりをとりかこむのが透明なガラスであったために、当時の人々にとっては画期的な明るさだったようだ。まさに「文明開化」を象徴する灯りだったといえよう。ただしガラス製の器具も石油も、しばらくの間は輸入品で、一般家庭には手の出しようのない高価なものだった。一家は雛人形を手放すことで、新しい「美しさに満ちた」石油ランプの光を手に入れたのである。
だが、みんなが喜ぶなかで、病に臥す母親は、石油の匂が鼻について、重湯さえ食べられない。

なんとか雛人形がもういちど見たい、と思いながら眠ったお鶴は、夜中、物目に目を覚ます。

それからどの位たちましたか、ふと眠りがさめて見ますと、薄暗い行燈をともした土蔵に誰か人の起きてゐるらしい物音が聞えるのでございます。鼠かしら、泥坊かしら、又はもう夜明けになつたのかしら?――わたしはどちらかと迷ひながら、怯づ怯づ細眼を明いて見ました。するとわたしの枕もとには、寝間着の儘の父が一人、こちらへ横顔を向けながら、坐つてゐるのでございます。父が!……しかしわたしを驚かせたのは父ばかりではございません。父の前にはわたしの雛が、――お節句以来見なかつた雛が並べ立ててあるのでございます。

 夢かと思ふと申すのはああ云ふ時でございませう。わたしは殆ど息もつかずに、この不思議を見守りました。覚束ない行燈の光の中に、象牙の笏をかまへた男雛を、冠の瓔珞を垂れた女雛を、右近の橘を、左近の桜を、柄の長い日傘を担いだ仕丁を、眼八分に高坏を捧げた官女を、小さい蒔絵の鏡台や箪笥を、貝殻尽しの雛屏風を、膳椀を、画雪洞を、色糸の手鞠を、さうして又父の横顔を、……

 夢かと思ふと申すのは、……ああ、それはもう前に申し上げました。が、ほんたうにあの晩の雛は夢だつたのでございませうか? 一図に雛を見たがつた余り、知らず識らず造り出した幻ではなかつたのでございませうか? わたしは未にどうかすると、わたし自身にもほんたうかどうか、返答に困るのでございます。

行燈の灯に照らされた雛人形と父の姿。
天井から投げかけられる均質な灯ではない。床上90センチあたりでチラチラと揺れる灯、しかも和紙が周囲に張ってある行燈が投げかける灯は、蝋燭の炎よりも淡かったはずだ。

覚束ない行燈の光が見せる幻。商家の華やかだった暮らしも、江戸という時代も、雛人形とともに失われていく。それを照らすのは、新しい時代のランプであってはならない。
芥川龍之介は、滅びゆく世界を、この行燈の光で映しだして見せたのである。

ロウソク

2.明るいランプ

明治七年(1874)の『東京日日新聞』に「舶来ランプのみならず、和製のランプも出回り東京市内にランプ普及す」という記述があることから、東京では明治の比較的早くに、国産のランプが出回っていたのだ。『雛』の場合はおそらく舶来のランプだろうから、これより少し前だろうか。
だが、地方の、それも農村部にランプが普及するのは、もっとあとになる。

新美南吉の『おじいさんのランプ』では、日露戦争の頃(開戦は明治三十七年(1904))の話として、十三歳の巳之助のこんな話が語られる。(引用は青空文庫

 しかし巳之助をいちばんおどろかしたのは、その大きな商店が、一つ一つともしている、花のように明かるいガラスのランプであった。巳之助の村では夜はあかりなしの家が多かった。まっくらな家の中を、人々は盲のように手でさぐりながら、水甕や、石臼や大黒柱をさぐりあてるのであった。すこしぜいたくな家では、おかみさんが嫁入りのとき持って来た行燈を使うのであった。行燈は紙を四方に張りめぐらした中に、油のはいった皿があって、その皿のふちにのぞいている燈心に、桜の莟ぐらいの小さいほのおがともると、まわりの紙にみかん色のあたたかな光がさし、附近は少し明かるくなったのである。しかしどんな行燈にしろ、巳之助が大野の町で見たランプの明かるさにはとても及ばなかった。

 それにランプは、その頃としてはまだ珍らしいガラスでできていた。煤けたり、破れたりしやすい紙でできている行燈より、これだけでも巳之助にはいいもののように思われた。

 このランプのために、大野の町ぜんたいが竜宮城かなにかのように明かるく感じられた。もう巳之助は自分の村へ帰りたくないとさえ思った。人間は誰でも明かるいところから暗いところに帰るのを好まないのである。

 竜宮城のように明るい町の灯に感激した巳之助は、その足で雑貨屋に行き、ランプを買おうとする。自分の持っている全財産をはたいても、ランプは買えない。そこで雑貨屋に、卸値で売ってくれるよう、掛け合う。自分は今日からランプを商うのだ、と。

 巳之助はランプのあつかい方を一通り教えてもらい、ついでに提燈がわりにそのランプをともして、村へむかった。
 藪(やぶ)や松林のうちつづく暗い峠道でも、巳之助はもう恐くはなかった。花のように明かるいランプをさげていたからである。
 巳之助の胸の中にも、もう一つのランプがともっていた。文明開化に遅れた自分の暗い村に、このすばらしい文明の利器を売りこんで、村人たちの生活を明かるくしてやろうという希望のランプが――

巳之助が商うランプは、『雛』に出てくるような、西洋文化そのものといってもいい舶来品ではない。産業立国の道を歩み始める日本の象徴のような、乳白色ガラスのシェードをかぶった国産の吊りランプだ。

だがやがてこのランプも、『雛』の兄が「それでも慣れりやあ同じことですよ。今にきつとこのランプも暗いと云ふ時が来るんです。」と言ったように、十三歳だった巳之助が大人になり、ふたりの子供の父親になったころ、町に電灯が引かれる。

 ところでまもなく晩になって、誰もマッチ一本すらなかったのに、とつぜん甘酒屋の店が真昼のように明かるくなったので、巳之助はびっくりした。あまり明かるいので、巳之助は思わずうしろをふりむいて見たほどだった。
「巳之さん、これが電気だよ」
 巳之助は歯をくいしばって、ながいあいだ電燈を見つめていた。敵でも睨んでいるようなかおつきであった。あまり見つめていて眼のたまが痛くなったほどだった。
「巳之さん、そういっちゃ何だが、とてもランプで太刀うちはできないよ。ちょっと外へくびを出して町通りを見てごらんよ」
 巳之助はむっつりと入口の障子をあけて、通りをながめた。どこの家どこの店にも、甘酒屋のと同じように明かるい電燈がともっていた。光は家の中にあまつて、道の上にまでこぼれ出ていた。ランプを見なれていた巳之助にはまぶしすぎるほどのあかりだった。巳之助は、くやしさに肩でいきをしながら、これも長い間ながめていた。

巳之助はランプがもはや時代遅れだと知る。

電燈という新しいいっそう便利な道具の世の中になったのである。それだけ世の中がひらけたのである。文明開化が進んだのである。巳之助もまた日本のお国の人間なら、日本がこれだけ進んだことを喜んでいいはずなのだ。

こうして巳之助はランプ屋を廃業する。
ここには、明るいことは良いことだ、明るいことは文明が進んだ証だ、という素朴な信念がある。日本という国が開け、文明化・産業化されていくことは、喜ばしいことなのだ、そうして自分もその一翼を担っていくのだ、という感覚は、現代のわたしたちからすれば、あまりにもナイーヴなものの見方であるように思える。けれども、この時期の文明開化を末端で支えたのは、こうした無数の巳之助だったのだし、地方在住の教師であった新美南吉が子供向けに著したものであったことも、考えに入れておく必要がある。都市に住む知識人ではない南吉が描く理想のイメージ、そうして、彼に教えられる子供たちにも、手が届きうる理想のイメージとしてあったのが、農村の夜を明るくするランプ屋を営む、そうして電気が引かれてからは本屋に転身する巳之助だったのだ。

ところが、同じ時期、同じような農村部で、闇を彩る古くからの日本の灯りに感動したのが、ギリシャに生まれ、アメリカで新聞記者生活をした後、日本にやってきたラフカディオ・ハーンである。

家のちょうど真向かいにお堂のあるお地蔵様の祭礼を然るべく執り行いたいので、少しばかりお力添えをお願いしますという。私は心から喜んで寄付をした。この穏やかな神様が大好きだし、そのお祭りが実に楽しいものだということも知っていたからである。

あくる朝早く見てみると、お堂はすでに花や奉灯がいっぱい飾られていた。地蔵の首には真新しいよだれ掛けがかけられ、仏教のお供え膳が前に置いてある。しばらくして、お寺の境内に、子供たちが踊る舞台を大工が組み立てた。そして日が落ちる前には、敷地内の道の両側におもちゃ屋の屋台店が次々と並んで建てられた。

あたりが暗くなってから、私は子供たちの踊りを見に、提灯の明かりがまばゆく輝く中へと出て行った。すると家の門の前に、長さ三尺をこえる巨大な蜻蛉が一匹とまっているのに気付いた。それは、私のささやかな寄付に対する子供たちのお礼のしるしの飾り物だった。一瞬、あまりに写実的な出来だったので度肝を抜かれたが、よくよく見れば、胴体は色紙でくるんだ松の枝で、四枚の羽は四本の火掻き棒、きらきら光る頭部は小さな茶瓶で作られていることがわかった。さらに全体が、あやしい影が差すように置かれた蝋燭の光で照らし出され、その影が絶妙な効果をあげているのである。これは、美術用品を全く使わずに、美的感覚を存分に発揮させた見事な例といえる。しかもそれは貧しい家の、わずか八歳の小さな子が全部一人で苦労して作った作品なのだった!

(小泉八雲『光は東方より』平川祐弘編 講談社学術文庫)

当時の日本人にとって、暗さは、貧しさと文明の遅れの象徴だった。そこに美を見出すためには、外の世界からやってきたハーンの目が必要だったのだ。

ハーンは日本の闇の深さをよく知っていたにちがいない。それは『狢』という短編にもよく現れている。(以下引用は青空文庫

紀国坂の壕のほとりでしゃがんで泣いている女がいる。商人が声をかける。振り返って袂から顔を上げた女には顔がない。

 一目散に紀国坂をかけ登った。自分の前はすべて真暗で何もない空虚であった。振り返ってみる勇気もなくて、ただひた走りに走りつづけた挙句、ようよう遥か遠くに、蛍火の光っているように見える提灯を見つけて、その方に向って行った。

真っ暗な中で見つけた提灯の明かりを見て、商人はどれほど安堵したことだろう。ところがその蕎麦屋は……

『盗賊にか?』『盗賊ではない――盗賊ではない』とおじけた男は喘ぎながら云った『私は見たのだ……女を見たのだ――濠の縁で――その女が私に見せたのだ……ああ! 何を見せたって、そりゃ云えない』……
『へえ! その見せたものはこんなものだったか?』と蕎麦屋は自分の顔を撫でながら云った――それと共に、蕎麦売りの顔は卵のようになった……そして同時に灯火は消えてしまった。

「真暗で何もない空虚」のなかを走っていく、というのは、どのような感覚なのだろう。どんなに動かしても、手も足も定かではない、夢の中で走っていくのに近い感覚だったのかもしれない。
そうして、向こうに光る提灯。その灯りはどれほどまばゆく、心強いものだったか。
だが、そこにいたのは……。
このショート・ストーリーの眼目は、闇だ。このように、日本には豊かな闇がある、ということを日本人に教えてくれたのは、ハーンが最初だったのかもしれない。

電球

3.明治末期の電燈

『おじいさんのランプ』に出てくるように、明治時代の末期には電燈が各家庭に入ってくる。

明治四十三年(1910)から翌年まで雑誌に連載された森鴎外の『青年』には、電燈をめぐるいくつかの描写がある。
Y県から東京の一高に進学した小泉純一の下宿には、電燈が引いてある。(引用は青空文庫

 純一はこんな事を考えながら歩いていて、あぶなく柏屋の門口を通り過ぎようとした。幸に内から声を掛けられたので、気が附いて戸口を這入って、腰を掛けたり立ったりした二三人の男が、帳場の番頭と話をしている、物騒がしい店を通り抜けて、自分の部屋の障子を明けた。女中がひとり背後から駈け抜けて、電燈の鍵を捩った。)

「電燈の鍵」というのは、各部屋ごとにスイッチなどない時代に「キーソケット」というものがあって、そこに鍵を差し込んで、点滅を行っていたのである。
あるいはこんな描写もある。

 こんな事を思って、暫く前から勝手の方でがたがた物音のしているのを、気にも留めずにいると、天井の真中に手繰り上げてある電燈が突然消えた。それと同時に、もう外は明るくなっていると見えて、欄間から青白い光が幾筋かの細かい線になってさし込んでいる。

「天井の真中に手繰り上げてある電燈」とは、当時の電燈が暗かったために、本などを読むときは手元を明るくするためにコードをのばしていた。そうして、それが「突然消えた」のは、事故や落雷による停電ではなく、明け方になると、発電所で発電機を停止していたのである。日本では大正時代まで、電燈線は夜だけ送電していたという(以上参考文献:照明文化研究会編『あかりのフォークロア』)。

鴎外自身の家に電燈を引くようになったのは、正確には不明だが、この作品が発表された前年の明治四十二年頃、さらに、夏目鏡子の『漱石の思ひ出』によると、「電燈は贅沢」といって許してくれなかった漱石が、大阪の湯川病院に入院中に、鏡子夫人の一存で、明治四十四年に引いた、とある(高給取りだった文豪は、意外にケチなのである)。

この時期、名目上であっても日露戦争に勝利した結果、とりあえず維新後ひた走ってきた「文明開化」はいったん達成された、これで日本も西洋列強となんとか対等に渡り合えるようになった、という意識を、日本中が持つようになっていたのである。そういうなかで、その内実はどうだったのか、現実のありようはどうなのか、と、鋭く疑問を投げかけていたのが、鴎外や漱石である。漱石はいくつかの講演で、西洋文明に必死で追いつこうとしている日本人の精神のありように、深い危惧と憂慮を表明し、あるいはまた鴎外は『百物語』のような短編を発表したのである。

まず鴎外自身が「百物語」とはなんであるかを説明している。わざわざ海外に翻訳されたときのために、と断っているのがおかしい。(引用は青空文庫

百物語とは多勢の人が集まって、蝋燭を百本立てて置いて、一人が一つずつ化物の話をして、一本ずつ蝋燭を消して行くのだそうだ。そうすると百本目の蝋燭が消された時、真の化物が出ると云うことである。

百物語のために舞台がわざわざ用意される。

 僕がぼんやりして縁側に立っている間に、背後の座敷には燭台が運ばれた。まだ電燈のない時代で、瓦斯も寺島村には引いてなかったが、わざわざランプを廃めて蝋燭にしたのは、今宵の特別な趣向であったのだろう。
 燭台が並んだと思うと、跡から大きな盥が運ばれた。中には鮓が盛ってある。道行触のおじさんが、「いや、これは御趣向」と云うと、傍にいた若い男が「湯灌の盥と云う心持ですね」と注釈を加えた。すぐに跡から小形の手桶に柄杓を投げ入れたのを持って出た。手桶からは湯気が立っている。先っきの若い男が「や、閼伽桶」と叫んだ。所謂閼伽桶の中には、番茶が麻の嚢に入れて漬けてあったのである。

これは主催者である江戸時代から続く豪商、飾磨屋の主が、江戸情緒をいまによみがえらそうと企画したのである。
ところが不思議なことに、このような催しを企画した飾磨屋自身が、どうにも心ここにあらず、といった具合なのである。いっぽうで、「今紀文」とも称された飾磨屋が実は破産に瀕している、という噂も聞く。にもかかわらずこの飾磨屋には、語り手があらかじめ予期していた「躁狂に近い間違方」がいっさい見受けられず、沈鬱なおももちをしている。

「僕」は自分の分身をそこに見る。

僕は生まれながらの傍観者である。子供に交って遊んだ初から大人になって社交上尊卑種々の集会に出て行くようになった後まで、どんなに感興の湧き立った時も、僕はその渦巻に身を投じて、心から楽んだことがない。僕は人生の活劇の舞台にいたことはあっても、役らしい役をしたことがない。高がスタチストなのである。さて舞台に上らない時は、魚が水に住むように、傍観者が傍観者の境に安んじているのだから、僕はその時尤もその所を得ているのである。そう云う心持になっていて、今飾磨屋と云う男を見ているうちに、僕はなんだか他郷で故人に逢うような心持がして来た。傍観者が傍観者を認めたような心持がしてきた。……

こんな催しをするのは、彼が忽ち富豪の主人になって、人を凌ぎ世に傲った前生活の惰力ではあるまいか。その惰力に任せて、彼は依然こんな事をして、丁度創作家が同時に批評家の眼で自分の作品を見る様に、過ぎ去った栄華のなごりを、現在の傍観者の態度で見ているのではあるまいか。

こうした人物が自分よりほかにいたことに満足した「僕」は、そのまま帰ってしまう。『百物語』という不思議な短編は、実際に百物語が語られたのかどうかさえ定かでないまま終わっていくのだ。

過ぎてゆく時代を懐かしむのではなく、あるいはまた、新しい時代に諸手をあげて迎合するのでもない、「傍観者」として、現状に幻滅し、批判的なまなざしを向けていく鴎外の態度は、やがて荷風を経て、谷崎潤一郎に受け継がれていく。

電球

4.『陰翳礼讃』

 近代日本の生み出した、おそらく唯一無二の暗さ論に、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』がある。昭和八年初出という古い随筆だが、文字通り陰影の美しさを語ってあますところがない。

(乾正雄『夜は暗くてはいけないか ――暗さの文化論』朝日選書)

「陰影の美しさを語ってあますところがない」谷崎が、この書を著したころの日本は、すでに「欧州の都市に比べると東京や大阪の夜は格段に明る」(『陰翳礼讃』)くなっていた。つまり、ヨーロッパからアメリカを経たハーンが発見した闇を日本人が見つけたときは、すでにそれが失われつつあった、ということである。

ここでわたしは浮世絵のことをどうしても思い出してしまう。
浮世絵にはずっと影がなかった。浮世絵ばかりでなく、それ以前の日本の絵画には、影というものが描かれることがなかった。

ところが十九世紀も中ばになると、急に影が描かれ始める。
(※参考画像:歌川広重「名所江戸百景 猿わか町よるの景」http://hansichi.hp.infoseek.co.jp/pics/saruwaka.jpg

江戸文化の爛熟期、灯りが生活の中に入ってくることで、江戸時代の人々も光と影のおもしろさに気がつくようになり、影絵遊びや、写し絵(ガラスに色絵の具で描いた絵を光の像として映す)が流行するようになった。こうした人々の意識の変化を背景に、それまで影を持たなかった浮世絵に、影が描き込まれる。

影を見つけるには、光に気がつかなければならなかった。
つまり、闇をわたしたちが闇として意識するためには、光の存在が必要だったのである。

芥川龍之介の『雛』にしても、新美南吉の『おじいさんのランプ』にしても、物語のなかで照明器具の変化は時代の移り変わりを示す象徴として描かれていた。

ところが、欧米の小説には、このように照明器具の変化そのものを題材に取った作品が見あたらない。この文章を書くためにずいぶん探したのだけれど、照明に関する記述そのものが少ない。
その理由を考えるためには、もっと文献を調べる必要があるだろうから、ここでは扱わない。けれども乾正雄のこの指摘は、非常に重要な点だろう。

照明器具の外見は様々でも、光源は、日本でも西洋でも十八世紀までは同じ、油かロウソクだった。それが十八世紀後半から、差がつき始める。

ヨーロッパでは、石油ランプ→ガス灯→白熱電球→蛍光灯という発達過程を経ていくが、その変化はゆるやかだった。
それに対して、日本ではヨーロッパが二百年かけて発達したプロセスを、明治維新後、八十年で経験してしまう。

 明治中期に東京で生まれて長生きした人は、たとえば谷崎(※潤一郎:1886-1965)もそうだが、一生のあいだに、右の四種類の光源を自分の身のまわりで体験できたろう。しかし、もし同じ人がロンドンで生を受けたとしたら、同じ期間に、自分の家ではガス灯と白熱電球しか見なかったろう。…

 ヨーロッパの照明は、光源も器具も変化がおそく、変化の地方への伝播もおそい。…光源が新しくなれば、もちろんより明るくなるのだけれど、照明器具の方は、淘汰されたはずの旧光源の器具が生きのびたかと見まがうほど似たものがあとを受ける。そしてそれが、何世代もかけて、ゆっくり石の家と新光源のあいだの橋渡しをするのだ。照明の連続性とはこういうことをいう。それで照明が文化たりうるのである。

 それに対して、日本の照明は変化が激しく、しかもその変化は、その都度、すぐ国中に伝わる。光源が変わることもあれば、器具が変わることもあるが、二、三十年に一度くらい、大きく照明が変わると、日本中がわれもわれもと同じことをするから、いきおい画一化がすすむのだ。つまるところ、照明は不連続になる。

(『夜は暗くてはいけないか』)

このような急な変化を目の当たりにすれば、そうして、旧世代の照明器具が、まったく廃れてしまうとなれば、それはひとつの時代が終わったことの象徴となっても何ら不思議ではない。

変化が連続的で、しかも旧世代の照明器具も並行的に使われているような場合は、そのような象徴とはなりにくい。ただし、ある階級や生活水準を象徴するものにはなりうる。

あかりの出番が少ない欧米の小説のなかで、特筆すべきは『グレートギャツビー』だろう。

 夏の夜な夜な、隣の邸宅からは、楽の音が流れてきた。そしてその青みわたった庭の中を、ささやきとシャンペンと星屑につつまれながら、男女の群れが蛾のように行きこうていた。……

 すくなくとも二週間に一度は余興係の一団が、数百フィートのズックと、ギャツビーの大庭園を一つのクリスマス・ツリーに仕立てうるだけの色電球を持ってやってくる。……

 地球が太陽から傾き離れて行くにつれて灯は輝きを増し、オーケストラは扇情的な酒席の音楽を奏しはじめ、人声のオペラもいちだんと調子を高める。緊張は刻々にくずれ、笑い声は惜しげもなくばらまかれて、愉快な言葉を聞くたびにどっとばかりに爆笑が湧き起こる。……

 ぼくがはじめてギャツビーの家へ出かけた夜、ぼくも含めてほんとうに招待を受けてきた客はごくわずかしかいなかったはずだ。人びとは招待されるのではない――彼らのほうから出かけて行くのだ。ロング・アイランドまで運んでくれる車に乗りこみ、ともかくギャツビー邸の入り口で降りる。ここまでくれば、ギャツビーを知っている人間が招じ入れてくれる。後は遊園地の行動原則にしたがって振舞うだけだ。ときには来てからかえるまでに一度もギャツビーその人に会わぬこともある。パーティが好きでやってくるその単純素朴な心、それが唯一の入場券なのだ。

(スコット・フィッツジェラルド『グレートギャツビー』野崎孝訳 新潮文庫)

『グレートギャツビー』が発表されたのは1925年。アメリカの1920年代を代表する作品である。本格的な大量生産・大量消費の時代を迎えたアメリカでは、中西部や南部からニューヨークへ人が続々と集まってきて、この時代特有の爛熟した文化、いわゆる〈ジャズ・エイジ〉を形成したのである。

「ぼく」のニック・キャラウェイも中西部の名家から、ニューヨーク郊外のロングアイランドに住むようになる。その隣には「ノルマンディのどこかの市庁そっくり」の大豪邸が建っている。それがギャツビーの家なのである。

とびぬけて豪華で広大な邸宅で、夜な夜なパーティを開くギャツビーの家は、電飾に彩られ、誘蛾灯のように、パーティ好きの客を引きつける。

だが、ギャツビー自身はパーティを楽しんでいる様子はない。

明るい夜空には、梢にはばたく羽音やら、いっぱいに開いた大地のふいごが蛙どもにあふれるばかりの生命を吹きこんだような、絶え間ない歌声が聞こえて賑やかだった。月光の中を、一匹の猫が影のように通りすぎた。その姿をとらえようと頭をめぐらしたとき、ぼくは、自分が一人でないことを知った――五十ヤードほど離れた所に隣の邸宅の影の中からいつの間に出てきたのか、ひとりの男がたっていて、ポケットに両手をつっこみ、銀砂をまいたような星空を眺めている。悠然たる身のこなし、それから芝生をふまえて立ったそのおちつきはらった感じから、これがギャツビーその人であることは明らかだった。このあたりの天地に占める、わが家のたたずまいかいかにかと、それを見定めに出てきたのだろう。

ぼくは言葉をかけようと思った。……しかしぼくは言葉をかけなかった。というのは、ふと彼が、自分はひとりで満足しているのだという気配をただよわせたからである――彼は、暗い海にむかって奇妙にも両手をさしのべた。そして、ぼくは彼の所から遠く離れてはいたが、彼が慄えていたことは断言してもいい。反射的にぼくは、海のほうを見た――と、そこには遠く小さく、桟橋の尖端とおぼしいあたりに緑色の光がひとつ見えただけで、ほかには何も見えなかった。もう一度ギャツビーの姿を探したときには、もう彼は姿を消していた。そしてぼくは、ざわめく夜の中に、ふたたび一人になったのだ。

ギャツビーが見ていた緑の灯はデイズィの家の灯である。若く貧しかったギャツビーは、デイズィに思いをうち明けられて、身分違いを理由に拒絶された過去があったのだ。ギャツビー邸でのまばゆい電飾は、現在の彼の富を象徴するものだった。照明の明るさに文明開化を象徴させたかつての日本人の発想に近いのかもしれない。

ただここで考えておかなければならないのは、昼の光の中でギャツビーは、ロングアイランドのウエストエッグから、対岸のイーストエッグのデイズィが住む家を見なかったのだろうか? ということである。
それは、おそらく見ただろう。では、明るい日のなかで、そちらに向かって手をさしのべたことがあっただろうか。身を慄わせたことがあっただろうか。

闇に浮かぶ緑の灯はギャツビーを招く。ギャツビーがデイズィを呼び寄せようと飾り立てたあかりの、ネガのような灯。灯によって誘いをかけたギャツビーが、ここでは逆に灯にとらわれる。

電球

5.闇の中で

暗い中で、わたしたちは考え深くなるという。

 暗くて、身体の動きも少ないが、しかし眠くないときがある。人間がものを考えるのはそういうときだ。外界の刺激は、光にかぎらず五感のすべてで最小になっていて、眼には、黒く、ぼんやりした、ときには青みがかった映像が映っている。思考は内へ向かわざるをえない。哲学はおそらくそういう状況からはじまったのではないか。

 暗さの中で、太古の人間は悩み、不安、恐怖などを知ったであろうし、はたまた、死とか、終末とか、来世に思いいたったろう。そこから宗教が生まれるまであと一歩だった。大昔の宗教行事が、洞窟の闇や深い森の奥で行われるものだったこと、そして……中世の教会や寺院にもかなりの程度の暗さが残っていたことなどは、暗さと宗教とに縁があることを示している。

 暗さは人にものを考えさせるのだ。

(乾正雄『夜は暗くてはいけないか 暗さの文化論』朝日新聞社)

照明器具の発達で、夜でも闇を感じることが少なくなったわたしたちの生活の中に、「闇」が入ってきたらどうなるだろう。

そのことを描いたのが、ジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』である。 インド系アメリカ人のカップル、シュクマールとショーバの日常は、半年前のショーバの死産を機に、すれちがいを続けている。仕事に忙しいショーバ、夫のシュクマールは、博士論文を書くために、一日中家に籠もっている。ふたりはできるだけ顔を合わさないように生活をしているのだ。

ところが五日間、午後八時から午前一時まで停電になる、という通知を受け取る。それまですれちがいで食事を取っていたふたりが、暗い中で向かい合って食事をするようになる。

ほんの数分ごとにシュクマールは新しいロウソクを何本か灯し、鉢の土に突き立てた。
「インドみたいだわ」ショーバは間に合わせの燭台に火を絶やすまいとする彼を見ていた。「あっちは何時間も電気が来なかったりするじゃない。いつだったか、お食い初めでね、終わるまで暗かったこともある。赤ちゃんが泣きっぱなしよ。暑かったんでしょうねえ」

 うちの赤ん坊は泣くこともできなかった、とシュクマールは思った。…
「あつい?」と、彼は火に映えるアイビーの鉢をテーブルの端へ、本や手紙が重なっているほうへ押しやった。ますます相手の顔が見えなくなった。二階の部屋でコンピュータに向かっていられないのが、急に腹立たしくなる。
「平気よ。これ、おいしい」フォークで皿をたたく。「ほんと」
またワインを注いでやった。どうも、と彼女が言った。

 こんな夫婦ではなかった。いまでは無理にでも興味をひくようなことを言わないと、皿からも、あるいは校正刷りからも、彼女は目を上げない。そんなことが度重なれば、そうまでして喜ばそうとは思わなくなったし、だんまりでも気にならなくなった。

(ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』小川高義訳 新潮社)

食事のあと、コンピュータに向かうこともできない、TVをつけるわけにも、灯りの下で仕事をするわけにもいかないふたりは、ショーバの発案で、暗い中でまるでゲームのようにうち明け話をすることになる。

「そうしましょうよ?」いきなりショーバが言った。
「どうするって?」
「何か言いっこするのよ、暗い中で」
「たとえば? おれはジョークの持ち合わせなんかないぜ」
「そういうのじゃなくて」と、しばらく考えてから、「いままで黙ってたことを言うなんてのは?……ま、いいわ、わたしからやるわね」彼女はワインで口をしめらせた。「あなたのアパートへ行って、初めて二人きりになったときに、住所録を盗み見させてもらったの。わたしのも書いてあるかなと思って。あれは知り合って二週間ぐらいだったかしら」

翌日からもふたりは決まったことのようにそうした話をひとつずつ続ける。
ウェイターにチップを渡すのを忘れて、次の日に、タクシーで渡しに行った話、テストでカンニングをした話、妻が買ってくれたヴェストをなくしてしまった、と嘘をついて、店で返金してそれを全部飲んでしまった、という話……。相手や自分自身を傷つけたり裏切ったりしたような話を、告白する。

 停電の夜は特別な夜になった。ものが言えるようになったのだ。三日目の晩には、夕食のあとソファに坐っていていざ暗くなると、彼は妻の額に、顔全体に、へたなキスを始めた。暗いけれども目をつぶった。彼女もそうしているとわかった。四日目にはそうっと二階の部屋へあがり、ベッドへ行った。階段の一番上では、上りきったかどうか足をそろえるようにしてさぐった。とうに忘れていたことを思い出したように、この夜はがむしゃらに体を重ねた。彼女は声をたてずに泣いて、彼の名を小さく口にしては、暗闇のなか、指で彼の眉をなぞった。交わりのさなかに、あすの晩は何を言おうか、何を言われるだろうか、と彼は考えていて、それでまた欲望をそそられた。
「抱きしめてくれ」と彼は言った。「腕に力をいれて――」

停電は、予定より一日早く終わってしまう。それでもふたりはロウソクの火をつけて、電気を消して食事をする。食事が終わるとショーバは電気の明かりをつける……。

行き違ってしまったふたりを、つかの間ひきつけたのは、停電による思いがけない闇だった。だが、停電が終わって灯りをつけたふたりは、闇が近づける前の世界にも、戻ることはできない。

乾が言うように、確かに「暗さは人にものを考えさせる」。
暗い中で考えたふたりは、考えた結果歩みより、また離れていったのだろうか?


夜になっても照明のまぶしい世界に生きているわたしたちは、ほんとうの闇を経験する機会も少ない。たとえ夜、灯りの消えた部屋に帰ってきたとしても、窓のどこからか、外の灯りが漏れてはいってくる。

けれども、たまに地方に行くことがあって、暗い山に向かったりしたとき、まったく何も見えない状態を経験することがある。あるいは、明るいところから急に映画館の暗闇に入ったとき、とっさに目が順応できず、何も見えなくなってしまう。そうしたとき、これはわたしのごく個人的な感覚なのかもしれないのだけれど、「暗い」と感じるだけでなく、息が詰まったような苦しさ、鼻も口も塞がれたような息苦しさを覚えてしまう。「闇の密度」といったものを感じ、そこに拒まれている感じ、入ってはいけない感覚を覚えてしまうのだ。

「逢魔が時」という言葉がある。
日が落ち、まだ完全に夜にはなっておらず、目も暗闇に慣れていない。あらゆる映像がぼけ、うすぐらく、おぼつかない。見慣れたはずのあたりのようすなのに、昼間と同じには見えない。
日が落ちるとそこは一種の異界、昼間の世界とは異なる世界が開けているのではあるまいか。

「一寸先は闇」「子故の闇」といい、あるいはまた「他人おそろし闇夜はこわい、親と月夜はいつもよい」(柳田國男「火の昔」『柳田國男全集23』ちくま文庫)ともいう。
中世では、夜中に野良に出ることや、稲を刈ったり、作物を持って通行することは、厳しく戒められていたという(参考文献:網野善彦他『中世の罪と罰』東京大学出版会)。
あるいはまた同じく柳田國男の『山の人生』には、「東京のような繁華の町中でも、夜分だけは隠れんぼはせぬことにしている。夜かくれんぼをすると鬼に連れて行かれる。または隠しばあさんに連れて行かれるといって、小児を戒める親がまだ多い」という記述もある(『遠野物語・山の人生』岩波文庫)。
夜がまだ闇だったころ、そのなかを行き来する、ましてや遊ぶことなどはタブーだったのだ。

完全な闇の、音もない世界で、わたしたちは何も触れることができず、なにも聞こえなかったとする。そんなとき、わたしたちは何を感じるのだろうか?

 あるものを固く、冷たく、ざらざらしている、と感ずることは、身を柔らかく、温かく、なめらかなものとして、とらえることにほかならない。見ること、触ること、聞くこと、味わうことは、見える世界、触り、聞き、あるいは味わう世界を、主題的に把握することであるとともに、見る主体、触り、聞き、味わう主体としてのを前反省的・前意識的に把握することでもある。……

〈身知り〉は、何かを 身で知り、体認し、体得することであるとともに、何かを身で知ることにおいて、身自身を把握することを意味する。

(市川浩「身体の現象学」『身体論集成』所収 岩波書店)

まったくの闇のなかで、わたしたちの身体が何も触れずにいるとき、わたしたちは、自分のものであるはずの身体を把握できずにいる。なんとか把握しようとわたしたちは五感を研ぎ澄ます。それでも、どこまでいっても闇はとらえることができない。自分の身体も把握できない。

闇のなかで感じる「息苦しさ」、あるいは「拒まれている感じ」というのは、このとらえどころのなさに不安になったわたしの作り上げた「偽の感覚」なのではあるまいか。
そしてまた、自分の身をそれと感じることができなくなるために、闇のなかを「異界」ととらえ、禁忌としたとは考えられないだろうか。

停電になり、蝋燭の薄暗がりのなかでショーバとシュクマールは向き合う。暗いなかで相手の話を聞き、相手の知らない一面を知り、相手の存在を感じる。これは同時に話を聞いている自分を知り、相手の存在を感じている自分を感じることでもある。そうしてふたりはこれまで触れずにいた、それぞれの内側にある「闇」を探り当ててしまったのだ。

おそらく、暗さのなかでものを考える、というのは、そういうことだ。


昔、夜は暗かった。月も星もない夜は、ほんとうの闇がすぐ身近に拡がっていたのだろう。
外界から、何の情報も入ってこない不安。自分の身体を、自分のものとすら感じることのできない不安。

火を灯す。小さな炎が、あたりを少しだけ照らす。
ものが見える。火をつけた蝋燭を持っている自分の手も見える。それで人を照らせば、相手の顔も見える。

こうして灯は明るくなる。
夜が夜でなくなり、闇の領域は、どんどん縮小していく。

こうした変化は、わたしたちのものの見方、感覚に変化を及ぼさずにいるはずがない。

ここで、わたしは以前メールをくださったNさんという視覚障害をお持ちの方のことを考える。

確かにいまの社会は、視覚障害がある人を基準にはできていない。そのために、不便を感じられることは数多くあるだろう。けれども、そのぶんさまざまなものの触感や、あるいは音やにおいや味、そうしてまた、自分の身を「身」として意識する感覚を、わたしなどよりはるかに研ぎ澄ましていらっしゃるのではないのだろうか。少なくともそうした方を「お気の毒」と考えることは、大変に失礼なことであるにちがいない。

闇のなかで、わたしは自分の身体が見えない。
見えることのできない身体を感じようとする。
手を伸ばし、自分と自分の外部を隔てる縁を見つけようとする。
耳を澄まし、物音を聞き取ろうとする。空気の匂いをかごうとする。
このとき、わたしの身体は、「偽の感覚」に騙されさえしなければ、いかなるときよりも研ぎ澄まされているはずだ。

灯りを消してみる。
遮光カーテンを引く。
静かな部屋で、じっと坐って、わたしはわたしの身体の声に耳を澄ます。

ロウソク

ところで冒頭の「人工的に闇を作り出すことは、論理的に言って可能なのか」という問題について、工学研究者であるimaiさんに教えていただいた。

以下はそのメールの転載である。

闇を作り出すことが論理的に可能かというご質問は私の考える範囲で以下の前提を提示します.

1. 光はエネルギーである.
2. 光の直進性.

ペルチェ素子は,熱エネルギーを片面に移動させる材料ですが,光のエネルギーを移動させるのはその直進性から言って困難です.ご指摘のように,極端に質量の大きい天体(ブラックホール)の周辺では,重力場によって光も曲げられますので,光を吸収すると言えますが,その場合,観測点もその重力場に捉えられますので,現実的ではありません.

馬鹿馬鹿しい話で恐縮ですが,黒い布で覆うというのがもっとも単純な"闇をつくり出す"方法ではないでしょうか."白夜に鳥が鳴く"解決策にはならないですね.ただ,黒い布で覆うというのは,光エネルギーを布で熱エネルギーに変換している結果ですので,あながち回答として馬鹿にもできないのです.
冷蔵庫と本質的に違うのは,"闇"は光が"無い"状態で,"冷えている"のは,熱エネルギー が"少ない"状態にすぎないと言うことですね.系全体の平衡は保たれていなければなりま せんので,もともと存在するエネルギーを"なくす"のは無理です.したがって,他のエネ ルギーに変換する等が必要になります.

どうやら昼並みの明るさを作り出すことができても、人間には闇を作り出すことまではできないらしい。

わたしの住むあたりも、防犯のこともあって、夜はどんどん明るくなっていく。すぐちかくの駐車場では、路上荒らしがあったのを機に、巨大な街灯が終夜あたりを照らすようになった。
真夜中でも空は明るく、見える星も、ひとつかふたつぐらいのものだ。

そうした明るい夜のなか、ほんとうに闇を作り出す装置を望んでいるのは、人間ではなく街路樹に巣をかける鳥や、駐車場の片隅で眠る野良猫たちではないのだろうか。彼らは眠るとき、美しい闇の夢を見るのかもしれない。


屋根裏部屋に灯りが見える
家は暗く閉ざされてるけど
ちらちら揺れる灯がぼくには見える
それが何かも知ってるんだ
屋根裏部屋には灯りがある
外のぼくにもよくわかる
君が中から外を見てるんだ

Shel Silverstein "A Light In The Attic"(私訳)

電球

4/15 補筆

文中でも紹介したNさんから、こんなメールをいただいた。
視覚障害者の方は、闇を、あるいはまた光を、このようにとらえていらっしゃる、ということがわかって、非常に参考になったので、ここで紹介させていただく。

不思議なことに暗闇の中にいる盲人というのは少ないのではないかしら?と、私は考えます。

また、盲人となってはじめの間、暗闇ではないビジョンが私たちのストレスにもなるのですよ。
例えば私の場合は常に雨の日の高速道路のように沢山の光の粒子がフラッシュしています。
目を閉じても、開いてもずっと見えています。
知人はグレーのスクリーンに黒い点が常に点滅しているのだそうです。
脳が何かの信号に反応して見せているものなのでしょうか?飛蚊症の人が、その虫が目の前を飛ぶような症状をうっとうしいと感じることはご存じだと思いますが、私たち視覚障害者はそれぞれに違ううっとうしい画像を受容しなくてはならないのです。

けれど、「慣れ」というのは素晴らしいもので、いつしかまるで平気になるのです。不思議ですね。

友人がニュージーランドでホームステイをした初日、夜に家の外へ出てみたそうです。
郊外にあるその家の周りは該当もなく近くに言えもない。自動車の往来もない。そんな場所の漆黒の暗闇の中で友人は急に呼吸が出来なくなってしまうような錯覚にとらわれた…と言っていました。
光や音の反響から自分の位置を確認することに慣れきっていた友人は無音の漆黒の中で軽いパニックに陥ったのでしょう。深い海の底で方角を失ったダイバーのように。
面白いなと思いました。

「わが道はチベットに通ず」 
テンバーケン・サブリエ著 風雲舎

という本があります。
チベットで初めて点字を紹介し盲学校を自力で作ったドイツの盲人女性の書いた本です。
彼女は自分はとてもヴィジュアルな人間であると言っています。
陰陽師さんのおっしゃる通り、盲人は視覚以外のすべての感覚を総動員して周囲の状況を判断します。それは頭の中でヴィジュアル化されるのです。そのヴィジョンは現実のものとは異なるかもしれません。けれど、視覚以外の感覚からの情報で私たちの独自の世界が目の前に創造されるのです。

この「ヴィジョン」という部分が大変におもしろい。
おそらく、人間は外界から受け取った情報を、つねに身体的な形で変換して入力しているのだ。

わたしたちは、ふだんあまり意識することもないけれど、ほんとうは人によって見えている世界は、少しずつちがっている。
自分自身が見ている世界でさえ、明るいとき、暗いとき、あるいは高いヒールの靴をはいただけて、少しずつ違って見える。
まして、Nさんがおっしゃる「ヴィジョン」がどんなものか、想像することさえできない。

それでも、それを言葉を通じて、理解し、思い描くことはできる。
思い描くことで、これまで「当たり前」と思っていた世界が、また少しちがったふうに見えてくる。
桜が満開になった外を歩いているとき、わたしの気持ちが晴れやかになるように、暗いなかでわたしが考え深くなるように、闇のなかで、わたしの意識が研ぎ澄まされていくように、新しい世界を知ることで、わたし自身が、すこしだけ、変わっていく。

初出 March 28- April 01改訂 April 15, 2006

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