home翻訳>悪魔の恋人


8.24空襲を受けた民家

ここでは Elizabeth Bowen の“The Demon Lover”の翻訳をやっています。「最後のアングロ・アイリッシュ小説家(英語で書くアイルランド人の作家)」と呼ばれるエリザベス・ボウエンは、日本でこそあまり有名ではありませんが、19世紀末に生まれ、20世紀半ばにイギリス、アイルランドの両国で、数多くの作品を発表した作家です。
ゴシック・ロマンスの後継者でもあるボウエンの作品には、怪奇色の強い短編がいくつもありますが、この「悪魔の恋人」はそうしたボウエンの短編のなかでも、もっとも有名なもののひとつでしょう。
舞台は1940年8月のイギリス。ロンドンは8月24日、ナチスによる初めての空爆を受けます。9月から本格化した空襲は、翌年5月まで続き、ロンドンに壊滅的な打撃をもたらします。田舎の実家に家族と疎開していた主人公のミセス・ドローヴァーが戻ってきた8月末のロンドンは、初めての空襲の余韻もまださめやらぬころだったのでしょう。そこでミセス・ドローヴァーを待っていたものは……。
原文はhttp://members.lycos.co.uk/shortstories/bowendemon.htmlで読むことができます。



悪魔の恋人


by エリザベス・ボウエン


ロンドンタクシー


 ロンドンでの一日も暮れようとするころ、ミセス・ドローヴァーは閉めておいた家へ立ち寄って、必要なものをいくつか取ってこようとした。自分のものもあれば、家族のものもある。家族もいまでは田舎での生活にすっかりなじんでいた。

八月も終わりが近い。にわか雨の降ったりやんだりする、むしむしとした一日だった。折りしも、舗道に沿った並木は、雲間からのぞく潤んだような黄色い夕陽を受けて、きらきらと輝いていた。一方、墨で染めたような雲はすっかりふくらみきって、それを背に、崩れた煙突や壁が浮かびあがる。歩き慣れたはずの通りだったが、まるで使わなくなった水路に堆積物が築かれていくように、見慣れない、奇妙なものが降り積もっているようだ。一ぴきの猫が柵を出たり入ったりしていたが、帰ってきたミセス・ドローヴァーを見ている人の目はなかった。小脇に抱えたいくつかの包みを持ち替えて、固い掛けがねに鍵を押し込んでゆっくり回し、反った扉を膝で押して開ける。足を踏み入れると、よどんだ空気が鼻を突いた。

 階段の踊り場の窓には板を打ち付けておいたので、陽の入らない玄関は暗かった。それでも、ドアがひとつ開いているのがなんとかわかったので、いそいでその部屋に入り、大きな窓の鎧戸を開けた。いつしか平凡で事務的な女になってしまった彼女ではあったが、自分の周りを見回しているうちに、目にするものひとつひとつに、長い生活習慣の名残を認めて、思いがけないほど心は乱れた。白い大理石の暖炉を染めている黄色い煙の跡、書き物机の丸い花瓶の跡。壁紙の傷は、勢いよくドアをあけるたびに、陶器製のドアノブがぶつかってついたものだ。ピアノは、いまはよそで保管しているのだが、床の寄せ木細工には爪痕のような傷が残っている。埃はそれほど積もってはいなかったが、埃とはちがう、何か膜のようなものが、あらゆるものにすっぽりとかぶさっていた。煙突がこの部屋の唯一の換気なので、客間全体が冷えた灰のようなにおいがした。ミセス・ドローヴァーは包みを書き物机の上に置き、部屋を出て階段を上っていった。必要なものは寝室の収納箱にある。

 家がどうなっているか、ずっと気になっていた。近所の人たちと共同で依頼したパートタイムの管理人は、今週は休暇で出かけてしまって、まだ戻ってないことはわかっていた。たとえ休暇の時期ではなくても、始終見回りに来てくれるはずもなかったから、彼女もさほどあてにしていたわけではなかった。内壁に亀裂がいくつも走っているが、これはこの前の空爆の名残りだろう。彼女は気遣わしげな目でそれを追った。何もできはしないことはわかっていたが。

 玄関の隙間から日の光が差し込んでいた。玄関のテーブルに目を留めた彼女は、ぎょっとして立ちすくんだ――そこに彼女あての手紙が載っていた。

 最初に思ったのは、管理人さんがもう戻ってきたんだわ、ということだった。だが、いったい誰が鎧戸の下りた家の郵便受けに手紙を入れておくようなことをする? チラシや請求書の類ではないのだ。正規の郵便物はすべて田舎の方へ転送してくれるよう、郵便局で手続きはとっていた。管理人は(たとえ戻ってきていたとしても)今日自分がロンドンに来ていることは知らないはずだ――いきなり戻ってくることにしたのだから。手紙を埃まみれのなかに放り出して平気でいる管理人のおざなりなやりかたに不快感を覚えた。おもしろくない気持ちでその手紙を手に取ると、切手が貼ってない。たいした手紙ではないのだろう、でなければ、こんなことをするわけがない……。

立ったまま読むことをせず、早足で二階へ上がっていくと、自分の寝室だった場所に明かりをつけた。寝室からはわが家の庭も近所の庭もよく見渡せた。日は沈み、雲の輪郭はいっそうはっきりとなって低く垂れこめている。木々も延び放題になった芝生も、薄暮につつまれ、煙を通して見ているようだ。気が進まないまま、もういちど手紙に目をやったが、なんとなく、誰かにのぞかれているような、しかものぞいているのは、自分のいまの生活をさげすんでいる者のような気がした。にわか雨の気配が強まる重苦しいなかで、手紙を読んでみた。ほんの数行で終わりだった。

 親愛なるキャサリン

 君は今日がぼくたちにとっての記念日、約束の日であることを忘れてはいないだろうね。歳月の流れはゆるやかであり、同時に速いともいえる。何ひとつ変わっていないことをみても、君は約束を守ってくれるのだろう。君がロンドンを離れたのは残念だったが、約束に間に合うよう戻ってきてくれて良かった。約束の時間にぼくを待っていてくれるね。では、そのときに……。

K .

 ミセス・ドローヴァーは日付けを確かめた。今日だ。剥き出しのベッドに落とした手紙を、また拾い上げてもういちど眺めた――剥げかけた口紅の下のくちびるが、血の気を失っていく。自分の顔が変わってしまったような気がして、鏡のところへ行き、埃をちょっとぬぐって、せき立てられるような思いにかられながら、ちらりと盗み見た。正面に四十四歳の女がいる。無造作に深くかぶった帽子のつばの下から、食い入るようなまなざしでこちらを見ている。ひとりきりで店で食事をすませたあと、お白粉をはたくことさえ忘れていた。結婚したとき夫がくれた真珠のネックレスが、細い喉元からピンクのウールのセーターのV字の胸元ににゆるくかかっている。このピンクのセーターは、去年の秋、暖炉をみんなで囲んでいるとき、姉が編んでくれていたものだ。ミセス・ドローヴァーがたいていのとき浮かべているのは、心配事を抱えてはいても、抑制し、なおかつそれに逆らおうとしない表情だった。三番目の男の子を生んだあとで、重い病にかかって以来、ときおり左の口角のあたりがけいれんすることがあったが、そういう障りがあるにせよ、いつも活動的でありながら穏やかな雰囲気のもちぬしだった。

 鏡をのぞきこんだときと同様、そそくさと目を背けると、さまざまな物を詰めこんだ収納箱のところへ向かった。鍵を開けてふたを取り払い、ひざまづいてなかをさぐった。だが、たたきつけるような雨音がし始めると、手紙が放り出してある剥き出しのベッドを肩越しに振り返らずにはいられなかった。滝のようにふりしきる雨をついて、破壊されなかった教会の時計が六時を打つ――ゆっくりと鳴る鐘の音をひとつずつ数えていると、急に不安が高まってきた。

「約束の時間だなんて……ああ、どうしたらいいんだろう」口に出して言った。「何時だったかしら? どうしたらいいんだろう……? あれから二十五年も経ったというのに」


 若い娘は庭で兵士と話をしていたが、相手の顔をまだ一度もしっかりと見ていなかった。あたりは暗かった。木の下で別れのことばを交わしていたのだ。この重大な瞬間に相手の顔がはっきりしないせいで、これまで一度もちゃんと見たことがないようにすら思えてくる。彼がそこにいることを少しでも長く感じていたくて、何度となく手をさしのべたが、彼の方はそのたびに、思いやりがこもったとは言いがたい手つきで彼女の手を取ると、軍服の胸ボタンに強く押しつけた。このときのてのひらに残った傷跡だけを、彼女はのちに思い出のよすがとしていくことになる。フランスからの賜暇は終わろうとしていた。いっそさっさと戻ってくれればいい、と彼女は思っていた。1916年の8月のことだった。キスされることもなく、押しやられ、ただじろじろと眺められて、いたたまれなくなったキャサリンは、ふと、相手の目のなかに化け物じみた光がきらめいたような気がした。振りかえって芝生の向こうに目をやると、木の間から応接間の明かりが見えた。一瞬、息をのんだ。あそこに走って戻り、母や姉の安全な腕のなかに飛び込んで、こんなふうに言えたなら。「どうしたらいいの? わたし、どうしたらいいの? 彼は行っちゃったのよ」

 彼女の息の音に耳を留めて、フィアンセが気持ちのこもらない声でたずねた。「寒いの?」
「あなたはもうすぐ遠くへ行ってしまうのね」
「君が考えてるほど遠くじゃないさ」
「わたしは何にも知らない、ってこと?」
「別に知らなくたってかまわないさ。そのうちわかる。ぼくら約束しただろう」
「だけどそれは……もしあなたが……もし……」
「ぼくは戻ってくる。遅かれ早かれ。そのことを忘れちゃいけない。ただ待っててくれるだけでいいんだ」

 それから一分も経たないうちに、自由の身になった彼女は、静かな芝生を駆けていた。窓越しに母と姉をのぞきこんだが、ふたりともなかなか気づいてくれない。もうわたしはほかの人からは隔てられてしまったのだわ、あの異常な約束をしてしまったせいで。もうこんなに自分自身が誰からも遠く隔てられ、取り残され、偽りの約束をしてしまったような気分になることはないだろう。こんなにも不吉な婚約を、このわたしがしたなんて。

 数ヶ月後、フィアンセが行方不明、おそらく戦死した模様、という知らせを受けたときも、キャサリンは立派にふるまった。家族は慰めてくれただけでなく、気丈な彼女に対して賞賛の言葉を惜しまなかったが、家族からすれば、娘の夫となる人物という以上は何も知らなかったので、悲しみようがなかったのである。一年か二年もすれば、あの子の悲しみも和らぐだろう、とみんな考えていた。事実、悲しみだけが問題なのであれば、ものごとははるかに簡単に片づいただろう。だが、彼女の抱えた問題、わずかばかりの悲嘆の陰に隠れていた問題のために、何もかもがおかしくなってしまったのだった。ほかの恋人をはねつける必要はなかった。そんな相手が現れなかったのだ。何年間も、誰からも愛されることなく、三十代に近づくにつれて彼女も家族同様、不安を覚えるようになっていた。自分から相手を探し、迷いながらも、三十二歳のときにウィリアム・ドローヴァーから求婚されたときは心の底からほっとした。彼と結婚し、ふたりはケンジントンの静かで緑豊かな一画に落ち着いたのである。この家で歳月を重ね、子供たちが生まれ、そうしているうちに、つぎの戦争が始まって爆撃に追い立てられることになったのだった。ミセス・ドローヴァーとしての彼女の行動範囲はごく限られたもので、誰かに監視されているかもしれない、などと、頭をかすめることさえなかった。

 こうしたわけで、手紙の差出人が生きているにせよいないにせよ、この手紙はただひたすらな恐怖をかきたてた。やがて、背中を空っぽの部屋にさらしたままひざまづいていることが不安になって、ミセス・ドローヴァーは収納箱のある場所を離れ、まっすぐな背もたれが壁にぴったりくっついている椅子に腰かけた。使う人もない、かつては自分の寝室だったこの部屋、ロンドンでの結婚生活を送ったこの家は、まるでひび割れたカップのようになってしまった――ここで過ごした思い出、心を支えてくれる記憶が、蒸発してしまったのか、こぼれだしてしまったか、もはや危機感しか感じられないのだ――その危機感こそ、手紙の主が十分見越した上送り届けたものだった。夕刻の空虚な家のなかには、何年も聞こえていた声も、日々繰りかえす生活音も、足音も、跡形もなくかき消えている。閉ざされた窓の向こうから聞こえてくるのは、屋根を打つ雨音だけだった。気を取り直そうとして、わたし、いらいらしてるのよ、と言ってみた。それから二、三秒後ほど目を閉じて、手紙なんてものはどこにもないのだわ、と自分に言い聞かせてみた。だが、目を開けると、ベッドの上にちゃんとあった。

 それまで手紙が玄関にあった謎については、気に留めないことにしていた。いったいロンドンにいる誰が、今日、自分がこの家に来ることを知っているだろうか? にもかかわらず、あきらかに知っているものがいたのだ。管理人は――休暇から戻ってきていたら、の話だが――彼女が来ると考えるはずがない。たとえ手紙を受け取ったにせよ、折を見て転送しようとポケットへしまっておくはずだ。だが、ほかには管理人がやってきたことを示す兆候はなかった――もし管理人でないとしたら? 無人の家の玄関に放り込まれた手紙が、飛んだり歩いたりして玄関ホールのテーブルに載ったとでもいうのか。手紙というものは、誰かかならず見つけてくれる、とばかりに、ほこりまみれのからっぽのテーブルの上に鎮座するようなことはしない。かならず人の手を経ているはずなのだ――だが管理人以外に鍵を持っている者はいない。この状況で、この家は鍵がなくても入ることができるとは考えたくはなかった。もしかしたら誰かがわたしを待ちかまえているのかもしれない……一階で。待っているのかも。でも、いつまで? そう、「約束の時間」までだ。だが、それは少なくとも六時ではなかった。六時の鐘はすでに鳴っていた。

 椅子から立ち上がってドアのところへ行き、鍵をかけた。

 ここから逃げ出さなくては。だが、いったいどこへ逃げたらいいのだろう。いや、そんなことはできない。予定通り、汽車に乗らなくては。家庭生活のいちばん大切な役割を担う、皆の信頼を集めている女として、彼女は夫や小さな息子たちや姉の待つ田舎の家へ、取りに来た物も持たずに戻っていくなどということはしたくはなかった。ふたたび収納箱に戻って、手探りしながら、てきぱきと、思い切りの良い手つきでいくつも包みを作っていく。だが荷物はこれだけではない。買い物包みだっていくつもあるし、とてもではないけれど持って帰れそうにない――となると、タクシーだ。タクシーのことを思いついたとたんに、彼女の気持ちは明るくなって、呼吸も落ち着いてきた。電話をかけてタクシーを呼ぶのだ。どれだけ早くても、早過ぎるなんてことはないのだから。タクシーのエンジンが聞こえてきたら、堂々と玄関から出ていけばいい。電話をかけよう。いや、だめだ。電話は止めている……。間違ってくくりつけてしまった結び目を、彼女はぐっと引っ張った。

 逃げるのだ……あの人がわたしに対して優しくしてくれたことは、ただの一度もなかったのだから。優しかった記憶なんて、なにひとつないじゃないか。お母さんは言ってたっけ。あの男はおまえのことなんて考えてやしないよ、と。あの男はおまえを狙ってるだけ、それだけさ――愛してなんかいやしない。愛じゃない、相手を幸せにしようとするような気持ちじゃないよ。なのに、あの人がいったい何をしたから、わたしはあんな約束をしてしまったんだろう。思い出せないわ――だが、彼女は思いだしていた。

 あいだの二十五年間が煙のように消え、ぞっとするほど生々しい感覚がよみがえってきて、半ば無意識のうちにてのひらをボタンに押しつけたときに残ったみみず腫れの痕を探した。思いだしたのは彼が言ったことや、振る舞いばかりではない。あの八月の一週間の、まるっきり宙に浮いてしまっていた自分に、はっと思い当たったのだ。わたし、どうかしてたんだわ――あのころ、みんなそう言っていたっけ。何もかもがよみがえったが、それでも空白がひとつだけ埋まらなかった。まるで写真に酸を垂らしたところが白く焼けてしまったように。どんな場面を思い返しても、彼の顔は思い出せないのだった。

 どこであの人が待っているにせよ、わたしにはわからないのだわ。顔がわからなくては逃げ出す暇さえない。

 ともかく、しなければならないのはタクシーをつかまえることだ。それも約束の時間とやらが来ないうちに。こっそりと家を出て通りを行き、広場の角を曲がって、その向こうの表通りに出よう。そこからタクシーで玄関のところまで来てもらえば安心だし、運転手に中までついてきてもらって、あちこちの部屋をまわって荷物を運び出そう。タクシーの運転手に来てもらう、と思いついたおかげで、勇気がでてきたし、大胆にもなった。ドアの鍵を開け、階段のてっぺんに立つと、階下の物音に耳をすませた。

 何も聞こえない――静けさに耳をそばだてていると、かびくさい空気が階段を上ってきて鼻を突いた。地下室から吹き上げられたらしい。たったいま、下で誰かがドアか窓を開けて、家を出ていったのだ。

 雨はやんでいた。ミセス・ドローヴァーがひとけのない通りへ足を踏み出すと、舗道は濡れて光っていた。廃墟と化した家並みは、傷ついたまなざしで彼女の顔をじっと見つめている。大通りに出てタクシー乗り場にたどりつくまで、絶対に後ろを振り返らないことにしよう。静まりかえっているなかで――ロンドンの路地はこの夏の空襲のあと、物音ひとつしなくなっていた――どんな足音であれ、耳に入らないはずがない。人々がいまでも生活している界隈まで来ると、自分の不自然な歩調に気がついて足取りをゆるめた。広場の出口で、二台のバスが無愛想にすれちがう。女たち、乳母車、自転車に乗った人びと、交差点のところで二輪車を押す男、ふたたびありきたりの生活のなかに戻ってきたのだ。広場で一番人の多い一画に、おそらくタクシーを待つ人びとの短い列があるにちがいないと予想していたのだが、実際にそのとおりだった。

今夜止まっているのは一台だけ――だが、こちらに背を向けた車は、ぽかんと穴の開いたような後部ランプをつけて、ずっと彼女のことを待っていたような感じがした。それだけではない、彼女が後ろから近寄ってドアに手をかけるや、運転手は振り向きもせずにエンジンをかけたのだった。彼女が手をかけたとき、時計が七時を打った。タクシーは幹線道路の方に向いていた。家に戻ろうと思えば、車の向きを変えてもらわなければならない――後部シートに乗り込むと、タクシーは何も言わないうちから方向転換した。その動きに気がついて、ぎょっとした。わたしはまだ「どこへ行って」とも言っていないのに。身を乗り出して、運転席と彼女がいる場所を隔てているガラス戸を叩いた。

 運転手はブレーキをかけて急停止した。くるりと振り返り、背後のガラス戸を横に開いた――不意の衝撃に、ミセス・ドローヴァーは前につんのめり、危うくガラス戸にぶつかりそうになった。運転手と客は15センチほどの距離をはさんで、永遠にも思えるほどのあいだ、目と目を見つめ合わせた。ミセス・ドローヴァーの力を失って開いた口から、最初の悲鳴がほとばしるまで、何秒かかかった。それから悲鳴はあとからあとから続き、手袋をはめた両手で、容赦なく加速していくタクシーの窓という窓を叩いた。タクシーは彼女を乗せて、ひっそりした通りを、奥へ、奥へと走っていった。





The End



怪談の楽しみ


物語が好きか、それほど好きではないかを試す格好の試験紙が「怪談」であるように思う。怪談が好きな人は、根本的に物語そのものが好きなのだろうし、怪談をバカバカしいと思い、いまひとつ真剣に聞くことができない人は、たとえその人がどんなにドストエフスキーやトーマス・マンやガルシア・マルケスを読んでいたとしても、それはドストエフスキーの思想やトーマス・マンの描く世紀末のドイツやガルシア・マルケスの円環的時間に、知的に興味があるだけのような気がする。

どこかでくだらないと思っていても、同じプロットの話をどれだけ知っていても、それでもやっぱりおもしろがってしまうわたしは、やはり、「物語」、初めと中と終わりがあり、ものごとが解決したりしなかったり、秘密があきらかになったり、いっそう深まったりする物語を「それからどうなる?」という興味だけで耳を傾けるのが、結局はどうしようもなく好きなのだろう。E.M.フォースターはそういう人のことを「あまり知的ではない」人びと、とも呼んでいるが、なに、かまうものか。大昔から焚き火を囲んで誰かがしてくれる物語に目を輝かしたのはそういう人だし、どこでシカの群れを見かけた、という情報そっちのけで、シカの織りなすロマンスや、木々のそよぎの向こうに潜む「何ものか」に思いを馳せる人びとが少なくなかったからこそ、いまだに物語はこうやって受け継がれているのだから。

怪談というのは、幽霊が出るものばかりではない。この「悪魔の恋人」にしても、もしかしたらすべてがミセス・ドローヴァーの妄想という可能性だって捨てきれない。怪談の楽しみは「出るか出ないか」にあるのではないのだ。

この作品でも、空襲を受けたばかりのロンドン、疎開してひとけのない住宅街、壊れかけた家、八月末の蒸し暑いたそがれどき、という「場」が大きな意味を持っている。『シャイニング』の山のなかのホテルにしても、『東海道四谷怪談』の砂村隠亡堀にしても、「ミリアム」の雪に閉じこめられたミセス・ミラーのアパートの一室にしても、怪談の世界では、登場人物と彼らがいる場は、密接な関係を持っているのだ。まるでその「場」が一種の人格を持っているかのように、あるいは、登場人物がそのように考え、行動するのは「場」がそうさせているかのように、登場人物と「場」は切り離せない。怪談に出てくる登場人物が、多分に類型的なのも、「場」に活躍させるためだし、怪談の多くは最終的に「場」が人間を襲い、人間を支配する。怪談のおもしろさは、わたしたちが日常ではほとんど気にもとめない「場」が活躍するおもしろさなのである。

「悪魔の恋人」では、このキャサリンのかつての恋人「K」がいったい何者なのか、最後までよくわからない。タイトルにもあるように、漠然と、悪魔的なもの、人間の内に潜む、人を支配したい、自分のもとに拘束したいという曖昧な、暗い欲望といったものの象徴なのかもしれない。それともこの「K」は、ありふれた"Kent" とか "Keneth" とかの青年で、報われることのなかった恋愛の記憶が、戦争を引き金によみがえっただけなのかもしれない。

閉ざされた廃屋に近い家のなかに閉じこめられた主人公、堅実で、しっかりした女性だった彼女の精神状態がだんだんにゆがんでいく。記憶という名の妄想が広がり、現実を飲み込み、あとに残るのは廃墟だけ。

そう考えていくと、これはわたしたちと無縁の物語ではないのだ。いまのわたしたちだって、どうしたはずみかにこんな羽目に陥らないともかぎらない。

それでも、エリザベス・ボウエンのこの作品は、きちんと「怪談」の衣をまとっている。せっかく超自然の要素、気がつけば玄関ホールのテーブルに置いてある手紙や、行き先を告げる前から動き出すタクシー、というお膳立てがしてあるのだ。理詰めで解釈していくよりも、ミセス・ドローヴァーがどうしても思い出せなかった顔を、すぐ間近で見たときの恐怖を想像して楽しめばいい。タクシーはいったいこのあとどこへ行くのだろう。

くだらない人はくだらないと思っていいのだけれど。
でも、やっぱりよくできた怪談は、おもしろい人にはおもしろいし、おもしろいと思うあなたは、想像力のありったけをはたらかせて、1940年8月のロンドンを、どうか味わってみてください。

初出July 21-26 2008 改訂July.28, 2008

▲Top翻訳home



※ご意見・ご感想・誤訳の指摘はこちらまで


home