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鶏的思考的日常〜三歩歩けば忘れてしまう日々のあれこれ〜



2005-11-06 :がんばれ、ヒヨコたち!

―Universally speaking, Win in the long run (Red Hot Chili Peppers)

昨日、今日と、二日続けて仕事の後、用事で神戸の方へ行って来ました。いまさっき、帰ってきたところです。

土曜日の昨日は、帰りがけ、塾帰りらしい小学生がたくさん乗ってきていました。九時は過ぎていましたが、三々五々集まって、頭を寄せて、たまごっちの画面をのぞきこんだり、マンガを読んだりしていました。

わたしも中学受験組だったので、毎週土曜日は学校が終わってから、いそいでお昼ゴハンを食べて、お弁当持って(これは夕ご飯)塾に行っていました。帰りは迎えに来てもらっていたような記憶があります。
わたしが人生で一番勉強したのはそのころだったので(笑)、それほど大変だと思ったことがなかったし、ほかの学校の子と友だちになったり、休憩時間になると、みんなでビルの谷間の店(まだコンビニではなく、ふつうのパン屋兼駄菓子屋みたいなところだった)におやつを買いに行ったりするのは楽しいものでした。

電車に乗っていた小学生は、わたしのころとほとんど変わらない、ちがうと言えば、携帯を首からぶら下げていることぐらい。けれど、その子たちを取り巻く環境というのは、ずいぶん変わってきていると思います。そのころは、なんというか、良くも悪くも「勉強する→良い学校に行く→良い企業に就職する」みたいな図式が社会全体に受け入れられていて、そういう一種のモデルがありました。だからこそ逆に、わたしみたいに、そういうものを「けっ」と思うこともできた。

だけど、いまはそんな図式なんてなくなっちゃってて、オトナたちは「勉強しなさい」の代わりに、「好きなことをやりなさい」なんて妙に耳に優しい、だけど、実はとんでもなく大変なことを平気で(深く考えもせず)言うようになってしまった。そういうなかで、子供たちはなにをしたらいいか、わからないまま放り出されて。親の世代が勉強で苦しめられた記憶が生々しいものだから、勉強しなさい、なんてなかなか強く言いにくいし、とりあえず勉強しなさい、って言っても、子供に「何のため?」と聞かれて、答えようがない。

そこで、何をしたらいいかわからない、という子供たちが大量に生み出されてくるわけです。そうした意味で、いまの子たちって大変だと思います。ロールモデルがない。親みたいになりたくない、って、親の世代が思いながら大人になったもんだから、今度は自分がそう思われるのはイヤだ、とばかりに、妙にオトモダチみたいになってる人もいる。

いいんです。「勉強なんかより大切なこと」を親が身をもって教えられる人ならね。
だけど、昔は深く考えもせずに「勉強して、良い学校へ行って、良いところへ就職して」、と言われていて、そうやって楽しみを必死で先送りしてがんばって、良いところへ就職した、だけどちっともいいことはない、となって、で、どうしたらいい、みたいなことが言えなくなってしまった。ほんとだったら、それは一種のチャンスでもあるんですね。うまくいってるとき、って、自分はこれでいいんだろうか、みたいに、真剣な問い返しはしない。しなくてもうまくいってるんだから。だけど、そうじゃなくなったときって、いろんなことを真剣に考えるチャンスなんです。なのに、自分だけは不問にしたまま、「癒し」だかなんだか、丸ごと肯定してくれるものを探して。

「好きなことを…」みたいなものも、そういう肯定を求める延長にあるような気がします。だけどね、「好きなこと」なんて、ぶらぶら歩いてて見つかるようなものじゃないんです。そんなことが平気で言えるのは、ほんとうに「好きなこと」なんて持ったことがない人だけだ。。

結局、学校も親も「勉強しなさい」以外の選択肢を提供できてない。だけど、勉強したって、その先どうなるか、っていうことも言えない。だから、ほとんどの子は、勉強しなくなっちゃってる。何か、状況としては、相当にヤバイんだと思います。

だらけきった顔をして電車に乗っている高校生にくらべて、その小学生たちは、みんな、とってもかわいかったです。がんばれ、って思いました。とりあえず、勉強、しておくんだよ。読み、書き、考えるっていうことは、基礎体力が必要なことなんだから。そうして、基礎体力を身につけながら、「好きなこと」「好きになれること」「自分がずっとやっていきたい、このためなら、辛抱できる」と思えることを、ねばり強く探していくんだよ。そうして、自分がお手本にできる人を、探すんだよ。親や先生がダメでも、まだ、本だってある。塾か、もしかしたら、まだ学校にも、おもしろい先生はいるかもしれない。
大変だろうけれど、がんばれ、って。

鶏頭




2005-11-03:祝サイト開設一周年

更新しました、って「物語をモノガタってみる」ではなく(すいません、まだ手を入れてる途中です)、ここにちょこちょこ書き足していた「今日の出来事」をログ化しました(※この文章です)。

なんというか、半ばひとりごとみたいな文章で、喜んでくださる方がいらっしゃるとはあまり思っていなくて、書き流すつもりだったんです。思いもかけないご要望に、「うれしいびっくり」でした。

タグつけるために読み返してみると、結構げっそりするところもあったのですが……。
それでもほとんど手を入れず(前後はカットしたところもありますが)載せています。

ところで昨年の今日、サイト開設したんです。
わたしが何で覚えていたかというと、道路を渡ったところにあるパン屋さんが、「11月3日開店一周年記念:ご来店の方にクッキーをさしあげます」とポスターが貼ってあったからなんですね(笑)。自分のサイトの開設日は忘れていたけれど、そこのパン屋さんと同じ日に店開きした、ということだけは覚えていたので(あ、クッキー、もらってきました)。

そこのパン屋さん、そういう縁?もあって、心情的に肩入れしているのですが、実際にいいパン屋さんなんです。最近、どうも生地に甘みが強いパンが多くて、どうにかならないか、と思っていたんですが、ここのはバゲットが中心で、甘くない、油脂分の少ない、塩味が中心でちょっと固めの、大変わたし好みのパンが置いてある。買う量なんてしれていて、とてもいい顧客とは言えないのですが、それでも一週間に二〜三回は行っているでしょうか。

ただ、看板に書いてある店の名前が読めない。凝った筆記体で書いてあり、おまけにたぶんフランス語。つづりを覚えて帰って、辞書を引いてみたんだけど、その単語、フランス語の辞書にも載ってない。結局、いまだになんと読むのか、どういう意味なのか、わかりません。

わたしが住んでいるところは、ながらくパン屋陥没地帯で、近所にパン屋さんができないかなー、と思ってたんですね。そこにできたその小さな店は、ガラス張りの明るい店内と、おそらくご夫婦でやっていらっしゃるであろう雰囲気もとても良くて、繁盛しているようです。だけど、わたしのリサーチによると(笑)、多くの人は店の名前は呼ばず、「あのパン屋」と呼んでいるようです。

そこから歩いて十分ぐらいのところに、つい先日、もう一件パン屋さんができました。
そこにもこの間行ってみたんです。
なんというか、雑貨が好きな女の人が、設計の約束事と無関係にレイアウトを考えました、みたいな店で。

「おしゃれなカフェ」のつもりなんだろうけれど、バランスが悪いことこの上ない。かごだの紙袋だの、ギンガムチェックのクロスだの、えらく凝っているのですが、うーん、好きなものを集めただけでは、全体として「好きなもの」にはならないのだろうなー、と思いました。細かなデザインと設計って、全然性質のちがうものなのだ、と改めて思った店でした。肝心のパンは、うーん、クロワッサンやデニッシュが中心の、バターをたっぷり使ったパンがほとんどで、わたしはちょっとそういうのが苦手なので……。たぶんもうそこには行かないだろうなぁ。

サイトと同じ日に開店した、名称不明のパン屋さんの脅威にはならないにちがいない、と思っています(笑)。

鶏頭




2005-10-23:メモの謎

先日図書館の検索端末機の列に並んで、前の人が終わるのを待っていた。
おそらくレポートを書くのだろう、女子学生ふうの女の子が、印刷された紙をにらみながら、むずかしそうな顔をしている。

『楡の木陰の欲望』

これは岩波文庫だ、文庫の海外文学の棚ではなく、戯曲の棚にある。
検索するまでもなくわたしは知っているのだが、こういうとき、聞かれもしないのに自分から教えてあげる、ということがわたしはできないのだ。

ところがこの女の子は検索子を入力しようとしない。
ため息をつくばかりで、後ろに並んでいるこちらを気にしているようだ。
わたしはピンときた。「楡」が読めないのだ。おそらく北杜夫の『楡家の人々』もよんだことがないのだろう。

彼女が読み方を思いつくまで待っているわけにはいかなかったので、「すいません」と、思い切って後ろから声をかけた。

「ごめんなさい、のぞき見するつもりじゃなかったんですけど、その持ってらっしゃる紙が見えたから。ユージーン・オニールの『にれの木陰の欲望』なら、×番の、戯曲の棚にありますよ。オニールだから、シェイクスピアのちょっと前あたり。岩波文庫の薄い本だから、見つけにくいかもしれないけど、貸し出しされてなかったら、そこにありますから」

女の子は「ありがとうございます」とこちらに頭を下げて、端末を譲ってくれた。

図書館の棚というのは、自分が良く行く分野であれば、読んだことがない本でも、背表紙とはすっかりなじみになっているものだ。わたしが行くところは比較的動きが少ないということもあって、どこに何があるか、たいがい頭に入っている。

こういうとき、自分の記憶力というのは、なかなか捨てたものではないな、という気になってくる。

ところが、わたしの記憶力、というのは、どうやら局所的にしか働かないらしいのである。

わたしのカバンの中やポケットから、しばしば正体不明のメモがでてくる。今日、夏物のスーツをそろそろクリーニング屋に持って行かなくてはいけないな、と思って、ポケットを確かめていると、そこから「クリーニング:夏物のスーツ」と書いたメモが出てきた。おそらく、それはそろそろシーズンも終わるから、クリーニング屋に持っていこう、と思って、そのメモを書いたにちがいないのだ(書いた記憶はおぼろげにあるような……)。だが、いったいどうしてそんなものがそんなところに入っているのだろう(入れた記憶はまったくない)。少なくとも、どこに入れるにしても、スーツのポケットに入れてはいけない。

メモを作るようになったのは、二週間近く単4の乾電池を買い忘れる日々を続けてしまったためだ。毎日、明日こそ買ってこよう、と決心して、そのたび忘れて帰り、休みの日はまったく思いつかず、いよいよどうしようもなくなって、近所のドラッグストアに閉店二分前に駆け込んで、買ってきたのだった(「もう、レジ閉めたんですけど」、と思いっきり迷惑そうな顔をされた)。

どうもこういうことは、頭にまったく残らない。これではいけない、必要なことを忘れないようにメモしておこう、と決心したはずなのだ。

だが、クリーニング屋に持って行かなくては、というメモを、持っていくべきスーツのポケットにしまってしまう。自分自身の行動に、まったく理解不能な部分を発見してしまう、というのは、相当におそろしいことである。
記憶力の問題、と片づけて良いのかさえ、不安な今日このごろである。

鶏頭




2005-10-21 :つぎはなんだ?


まぁいろいろうっとうしいことがありまして(もちろんそのなかで、良いこともあったのですが――まさにこれこそSe a vida e, that's the way life is)、ちょっと疲れています。

こんなこと書くぐらいだったら、とっとと寝たほうがいいような気もするのですが、せっかくのぞきに来てくださった方に申し訳ないので、へたった頭をふりしぼろうかと思っています。

その昔、ハタチを越えてちょっとぐらいだったころ、教えてもらっていた先生が、学生に聞きました。
「みなさん、この間、選挙に行きましたか」
おそらく十五、六人、学生がいて、三分の二くらいが女の子だったと思うんですが、ほとんどだれも行ってませんでした。
「なんで君たちは投票に行かないんですか」
「入れたい人がいないから」わたしはたぶんこう答えたように思います。

そのとき、先生はこう言われたんです。
「入れたい人がいなかったら、白票を投じるんです。そうすることによって、それがあなたの政治的意思表示になります。選挙に行かないことは、意思表示ではありません。政治的民主的諸権利の放棄にほかなりません」

それからわたしは選挙に行くことに決めたんですけどね。
まぁ、いろいろあるわけですが。

今回の選挙、なんていまになって言うのも、ずいぶん間が抜けた感じなんですが(笑)、頭が疲れてるので、だらだら書いてます。

よく新聞に書いてあったのが、若年層が「多数派」の一翼を形成したくて、自民党に投票した、ということでした。それが正しいのかどうなのか、わたしにはよくわかりません。
ただ、そうした流れ、多数派の側につきたい、みたいな心情的傾向が、いまや主流派を占めてるのは、なんとなく感じます。で、他人が右向いてたら、とりあえず左が向いてみたくなるわたしなんか、ちょっとキモチガワルイ感じがします。

何かね、景気が悪い、って言われ出して、ずいぶんになりますよね。モノが売れない、売れなきゃ景気はいつまでたってもよくならない、なんて物言いも、耳にタコができるほど聞かされてきました。

だけど、そういうなかで、ヒット商品っていうのは出てくるわけです。いま何が「ヒット商品」なんだか、世間に疎いわたしは、てんで知らないのだけれど、多くは「何でこんなもの」というような気がする。少なくとも、わたしがほしくなるようなものじゃないです。売れてる本、本屋で平積みになってる本なんかでも、間違っても手に取ろうというような本ではない。

「そんなもの、ほんとにほしいの?」
売れる、っていうのは、買う人がいるから売れるわけで、いちどそういう人に聞いてみたいと思います。

以前CDを売るために、制作会社が買い占めちゃう、そうすることで「売れている状況」を人工的に作り出して、そうすることでヒットを産みだす、っていうのを読んだことがありますが、人が買ってるものを「とりあえず」聞いてみよう、読んでみよう、っていうメンタリティが、わたしにはよくわからない。

とりあえず売れるもの、というのは、マーケティングとかそういうもので、わかるのかもしれません。そうすると、そこでもんだいになってくるのは“いいもの”ではなくて、“多くの人がほしがるであろうもの”、なわけです。

極端に言えば、なにが多数派か。
みんなが一種のマーケッターになって、これをみんなが考えている、っていうのが、いまの世の中なんじゃないか、っていう気がします。
自分がなにがほしいか、じゃないんです。みんながほしがるものは、なにか。

みんな、というのは、結局は、他人です。他人がなにをほしがっているか。そうして、この「他人」と「自分」を、曖昧に同一化して、自分も「多数派」の一翼に組み込んでいる。

ここでは、他人なんて、批判できません。批判なんかしちゃうと、自分と他人を曖昧にいっしょくたになんてできません。ゆるやかに認めて、自分と一体化させちゃうわけです。

だから、なんでそんなゴミみたいなものがほしいの? って言っちゃったら、ダメ。そんなこと言うと、景気はまた悪くなるし、景気を良くするためにも自分が多数派になっちゃったほうがいい。

そんな気分が象徴的に現れたのが、こんどの選挙だったような気がします、って、だれかきっとこんなこと、言ってるんだと思いますが。

他人っていうのは、批判してもいい、と思います。批判することで、逆に自分のほしいものや、考え方が、はっきりしてくる。もちろん、批判する人は批判されるわけですから、自分に対する批判は引き受けていかなきゃならない。
だけど、そういうことをしていかなきゃ、言葉はどんどん無力になっていきます。

とりあえずは、「流行のチェック」をやめるところあたりから、始めてみませんか、って、「マツケンサンバ」の書き込みが、コメント欄であるまで、その「マツケン」が人の名前だってわからなかったわたしが書いたって、ちっとも説得力がないんですが(笑)。

鶏頭




2005-10-20:『カーネギー語録』

八月に、髪の毛を相当気合いを入れて切ってもらったのだが、二ヶ月もするとやっぱりうっとうしくなってきた。
なによりも、部分的に跳ね上がっているのを直すのに、毎朝苦労しなければならない。
ということで、仕事帰りに美容院に寄った。

いつもどおり、希望を伝えると、おもむろに本を読み始める。
こちらに話かけてくるんじゃない、と念を送っているのだが、一向に効き目なく、やはり美容師さんは話しかけてくる。

ところが今日担当になったお兄ちゃんは、それほど慣れていないらしく、しゃべり方もぎこちない。にも関わらず、明らかに努力をしつつ、話しかけてくるのである。

「何の本ですか?」
「『身体論集成』っていう本です」
「何が書いてあるんですか?」
(なんと答えたらいいんだろう、と頭を悩ませつつ)「昔の建物ってね、人間の身体をモデルにしてるんですって」(たまたまそういう箇所を読んでいた)
「むずかしいですね」
「おもしろいですよ」(だから読ませてね、という意図を言外に滲ませつつ)

(沈黙)

「ぼくもね、最近、本を読んだんです」
「…そうなんですか」
「『カーネギー語録』っていう本なんですけどね」
(また変わった本を……と思いつつ、それでも)「おもしろかったですか?」
「すごい、良かったです」
「それは良かった」(これで打ち切り、という意図を言外に滲ませつつ)
「感動しました」

(沈黙)

「あんまり本を読まなかったんだけど、読んでたら、勇気が湧いてきました」
「それは良かったですね……。どういうところが良かったんですか?」
「あ、……、と、ですね……。あの…」
(悪いことを聞いてしまった、と申し訳なさにかられ)「でも、そういうことってありますよね。ああいいなぁ、って思っても、なかなかどこがいい、なんて言えないこと」
「そうなんですよ! それですよ!! 良かったなぁ。わかってもらえて」

(沈黙)

「ぼく、これからどんな本、読んだらいいでしょう」
(え!? そ、そんなことを聞かれても……ギャツビーは『フランクリン自叙伝』を読んだけど、『フランクリン自叙伝』なんて一般に手に入るんだろうか、と思いつつ)「どうなんだろう、偉人伝みたいなの、お好きなんですか?」
「え、いじんでん、って何ですか?」
(泥沼に入っていくのを感じつつ)「偉い人の伝記です。カーネギーの伝記もあるんじゃないかなー。あの人が子供時代どうだったか、とか。だいたい子供向けの本のところにあるんですけどね、大人が読んでもおもしろいの、ありますよ」
「ああ、伝記ですか」
「語録がおもしろかったら、子供時代のこととか、読んでみたらどうですか」
「それおもしろそうですね」

(沈黙)

「紹介されたんです」
「は?」
「『カーネギー語録』読むといい、って」
「そうですか。それは良かったですね」
「何かいい本ないでしょうか」
「そうだなぁ、わたし普段、そんな本、読まないんですよ。だからよくわからないな、ごめんなさいね」

ところがこのあとも、『カーネギー語録』をめぐる話は、何の進展もないにもかかわらず、わたしのカットが終わるまで、延々と続くのであった。

『カーネギー語録』、つぎに行くときまでに、読んでおいた方がいいだろうか!?

向上心のある美容師さん、いいアドバイスできなくて、ごめんなさい。人には得意分野というものがあるのです。わたしが苦手なのは、そういう啓発書と、知らない人と話をする、とくに美容院で髪を切られながら話をすることなんです。

鶏頭




2005-10-19 : 携帯メールへの不信感

今日、自転車で狭い歩道の端を、通行人に気をつけながら走っていました。と、前を走っていた女の子が、急に止まった。あやうく追突しそうになって、「いきなり止まるなよ」という視線で追い越そうとしたのですが、彼女はうつむいたまま、こちらのことなど気がつきさえしませんでした。そうです、携帯メールを読んでたんです。

実に多くの人が、歩道に突っ立って、うつむいています。十年ほど前だったら、うつむいている人は、気分が悪くなった人か、落ちた百円玉をさがしている人だけでした(コンタクトレンズと五百円玉を落とした人は、さらにはいつくばることになります)。ところが今日では、あれ、あの人、調子悪いのかな、大丈夫かな、なんて思うことさえありません。

アメリカのコラムニスト、マイク・ロイコは'80年代の初めにこんなことを書いています。

 それでなくとも私はもともと電話というものを忌み嫌っている。たしかにオフィスには一台電話を置いているが、それは仕事上の必要があって仕方なく置いているにすぎない。家にも一台電話があるが、こちらのほうは、それがないとピザを注文できないから、これまた仕方なく取り付けてあるにすぎない。

 

 電話が一般に普及する前のほうが、世の中はどんなに住みやすかったことだろう。当時は、たとえ口うるさい人間が他人に向かってなにか愚かなことを口走りたくなっても、いったん机の前に座って手紙を書くか、相手の家まで何マイルか路面電車に乗って出かけて行かなければその目的を果たすことはできなかった。……

 しかし、電話だとそうは問屋が卸さない。電話の場合には、ボタンを七つ押せば、それだけでむこうはこちらの人生に土足で踏み込んでくることができる。ベルを何十回鳴らしっぱなしにしようが、五分おきに電話をかけてこようが、敵の思うがままである。

(マイク・ロイコ『男のコラム2』井上一馬訳 河出文庫)

それから二十年。わたしたちはいついかなるときでも「敵」の侵入を拒めなくなってしまいました。
確かに携帯メールは一応、いつ出てもいいことになっています。急ぎの用件なら電話すればいいのだし。ただ、多くの場合、たとえメールでも、着信すればあたりかまわず携帯を開いている人の方が多いような気がする。

こうなると、電話と変わらない、なのにどうしてメールにするんでしょう。

喫茶店に座っている四人のグループが、みんな一斉に携帯を開いている、という摩訶不思議な光景もめずらしくありません。それよりは、一緒にいる子たちと話した方がいいんじゃないの、って、携帯を打つのが苦手な、年寄りのわたしはそう思ってしまいます。

何か、どんどん間接的なコミュニケーションの方向に行っているかなぁ、って。

なんだかなぁ、って思った、まぁただそれだけの話なんですけど。

そういえば、この間、薄暗い中、街灯の明かりの下で、近所のおじさんが、仕事の帰りらしいスーツ姿で、それはそれは幸せそうな顔で携帯に見入っていました。もちろん、生け花の会が次回展示会の会場が取れた、という案内だったのかもしれませんが……。なんとなく、見てはいけないものを見てしまったみたいで、気づかれないように(なんでわたしが……)そそくさと通り過ぎていきましたっけ。

ということで、それではまた♪

鶏頭




2005-10-18 :親切と失礼のあいだ

エレべーターに乗ろうと待っていると、後ろでとんでもなく大きな声が聞こえたので、驚いてそちらを見た。中年の女性が
「おじいちゃん、わかる? ここを、まっすぐ、行くの。そしたらね、信号があるからね、そこを渡ったら、××病院、あるからね」と、一語一語区切りながら、大きな声で教えている。
その道を尋ねたらしい老人は、お礼を言って、その女性が指さしていった方角へと、杖をつきながら歩いていったのだけれど、その女性は、大丈夫かなぁ、とひとりごとを言いながら見送っていた。
わたしも気になってそちらを見ると、信号までそれほど離れてはいないし、手前にその病院を隠すようにビルが建っていて、多少わかりにくいけれど、そこの看板は見える。
その看板を目指して行けば良いので、心配するほどのこともないだろうと思ったのだが、どうやらその人はわたしなどよりよほど親切だったようで、駆けだしていくと、老人の肘を取って、一緒に信号を渡り始めた。

ちょうどそのときエレベーターが来たので、それからどうなったのかわたしは知らないのだけれど、ちょっと、なんだかなぁ、と思ったのである。なんとなく、態度やものの言い方などからあの女性は看護婦さんなのではないかと思ったのだけれど、もちろんその真相はわからない。ただ、なんにせよ、高齢者と日常的に接している人なのだろう、という感じがうかがえた。

わたしが違和感を覚えたのは、ときどき見かける高齢者を幼児扱いする、というか、何もできない、わからない人間扱いする態度だ。おじいちゃん、という呼びかけもそうだし、看板が見えることを教えるだけでいいような気がする。まして、横断歩道を一緒に渡らせてあげる必要があるのだろうか。

もちろん、ほんの一瞬見ただけで、何らかの感想を持つのは良くないのだろうけれど。

もしかしたら、わたしの知らない事情があるのかもしれないけれど。

そんな態度を取るのは、相手にとってひどく失礼なことではないのだろうか。

そんなことをしばらく考えていた。

鶏頭




2005-10-16 :お見合いを見た

仕事仲間と休み時間、生徒がうじゃうじゃいる近くのスタバを避けて、ちょっと離れたところにお茶を飲みに行く。
ふと隣のテーブルを見ると、小綺麗な格好をしたふたり連れが、向かい合ってお茶を飲みながら、微妙に間のあく奇妙な会話を続けている。聞くつもりはなかったのだけれど、耳に入ってくる、どんなお仕事をなさってるんですか、というふうな内容から察するに、それはいわゆる「お見合い」なのである。

隣の空気がこちらにまで伝染したか、連れもわたしもなんとなくだまりがちになり、ぽつり、ぽつり、という話は、妙によく聞こえてきてしまうのだった。
そのうち、女の子のほうが携帯メールを始めた。

え!? こういうときに、そういうことするわけ?

相手の男性は腕を組んだまま、じっと待っている。

「『××』の十一月号、読んだ?」凍りついた空気をほぐそうと、わたしは連れに声をかけた。
「え?」相手も隣が気になって気もそぞろなのである。

「十一月号には▲▲が書いてる」
「そうかー」

「あー……それはそうとなー……」
「え、ごめん、 いま、なんて言った?」
こちらの話もどうにも盛り上がらないので、早々に切り上げて、店を出た。

「それにしても、ああいうときに携帯すんねんな」
「一種の意思表示かもね」
「そこまで考えてへんのちゃうかな」

お見合いのさなか、携帯メールを始めちゃう女の子に、わたしも同僚もたまげたのであった。それは、いくらなんでもまずくないか?

鶏頭




2005-10-15 :忘れられない人、わからない人

わたしは持病があって、ときどきごく短期間、入院するのだが、六年前の六月にも、一週間ほど入院したことがある。無事、期間を勤め上げ(?)、退院を目前にして、体力を回復するために、外来の時間が終わった病院内を徘徊していたときのこと。救急車でわたしとほぼ同年代の女性が運び込まれていた。土気色の顔を歪めて横になっており、ストレッチャーの脇に不安そうな顔をして立っている二歳ぐらいの男の子の姿に胸が痛んだ。

退院して、一週間後の定期検診に病院に行ったとき、寝間着姿のその女性を見た。相変わらず顔色が悪く、良くないのかな、あの小さな子はどうしているのかな、と思ったものだ。

先日、不意に、あの人はどうなったかな、元気でいるといいんだけど、と思い出した。それが虫の知らせ、というやつか、今日、電車のなかでその人を見かけたのだ。一緒にいる小学生の男の子が、あのときの小さな子なんだろう、その子ともうひとり、下の女の子を連れて、電車で子供にお菓子を食べさせながら、自分も脇でつまんでいた。それなりに顔に歳月は刻まれていたけれど(うぅ、わたしも人のことどころではないのである)、顔色も悪くなく、元気になったんだ、良かったな、と思った。

わたしは人の顔には強くて、昔のちょっとした知り合いでも忘れたりするようなことはない(子供はさすがにわからないけれど)。おまけに、「スーパーで会う薬剤師さん」とか、「ファストフードでハンバーガーを食べている郵便局の職員」とか、思いがけない場所で会っても、たいがい「場所」と「人」を結びつけることができる。

ところが、このわたしにも、ひとりだけわからない人がいる。
毎週水曜の朝、向こうからやってきて、頭を下げる年輩の女性がいるのだ。こちらも職場に急いでいるし、向こうもおそらく仕事に行くところ、という風体なので、わざわざ「大変失礼ですが、どなたでいらっしゃいますか」と聞くに聞けない(わけでもないが、そこまでしようとは思わない)人なのである。おそらくは、向こうが間違えているのだと思う。

ただ、最近、とみにあやしくなってきた自分の記憶力を思うにつけ、知り合いだったらどうしよう、と、一抹の不安は拭いきれない。そういうわけで、毎週わたしも挨拶を返しているのである。 ……それにしても、だれなんだろう?

鶏頭




2005-10-14 :癒しはいらない

仕事が早く終わったので、明るいうちに帰ってきた。
インセンス・スティックを焚いて"Thelonious Himself"を聴く。なにしろ音源は学生時代に買ったLPなので、ひさしぶりに使うレコード・プレーヤーが鳴らなかったらどうしようと思ったが、なんとか大丈夫だった。聴く前から頭のなかでモンクのピアノが鳴っていたので、聴けなかったらすごいフラストレーションになるところだった。昼間から"round midnight"でもないのだけれど、「気持ちよく」落ち込みたかった。「癒し」などというものはいらない。落ち込んで、起きあがるだけ。

ということで起きあがって、晩ゴハンは気合いを入れてオッソ・ブッコを作る。名前は派手だが、要は牛のすね肉を炒めて野菜と煮るだけのもの。牛のかわりにラムを使えばアイリッシュ・シチュー、ウインナにしたらポトフ、魚介にしたらブイヤベース、つまり世界中あまねくある料理(日本だとおでんになるのかな?)。煮込む間はコンロの前に椅子を引っ張ってきて市川浩を読む(こうしないと、鍋を火にかけているのを忘れるから)。食べ過ぎた。

鶏頭




2005-10-13 :怒りの矛先

この間から図書館に行くたびに、延滞の本がありますよ、と言われていた。 めぼしい場所は探し尽くし、新聞の隙間に入り込んでないか、ストッカーのなかも探し、ありとあらゆる場所を探したのだが見つからない。外で忘れてきた可能性もほとんどないし、これは返却の際の処理の不手際にちがいない。そう結論を出して、仕事帰りに図書館に寄った。

事前に検索して書棚を確認し、一冊ずつ丁寧に背表紙を見ていく。ビンゴ! それをカウンターに持っていき、これ、書棚にありました、やっぱり返却していましたよ、と処理してもらう。

すいません、と職員の女性に頭を何度も下げられて、家捜ししていた時間はどうしてくれるんだ、という怒りの持って行き場がなくなってしまい、「あ、もういいです」と腰砕けになってしまった自分が悲しい……。
悔しいのでアイスクリームを食べて帰った。

鶏頭




2005-10-12 :脱走者の歌、移民の歌

駅から帰る道すがら、キンモクセイの香りが漂ってきた。
この匂いを嗅ぐと、どういうわけかかならず、高校のとき、授業をさぼって抜け出したときの記憶がよみがえってくる。

決して真面目な生徒ではなかったけれど、悪くもなかったわたしが授業をさぼったのはその一度だけ。それも、四時間目と五時間目が自習になって、六時間目の漢文をさぼっただけなのだけれど。

前の席の山沖君(仮名)と、右前の小坂君(仮名)と三人で、自習するのもかったるいなー、みたいなことを言い合って、なんとなく、帰ろうか、という話になったのだ。そうしてカバンを手に、教室をあとにした。

ところが正門近くで化学の先生に見つかった。戻るふりはしたものの、もう気持ちは校舎の外に出てしまっていて、いまさら教室には戻れない。三人して校舎の裏手にまわって、塀を乗り越えて脱走したのだ。
先にカバンを放り投げ、塀によじのぼっててっぺんから飛び降りると、キンモクセイの匂いがふわっと身体を包んだ。

そこから駅まで歩いていく途中の、足に羽が生えたようだったあの感覚は忘れられない。
「移民の歌」の冒頭を歌い出したいような気分だった。

駅でふたりと別れたあとは、どうしたんだろう。そのあとの記憶はまったく残っていない。それでも、キンモクセイの匂いを嗅ぐたびに、あの小春日和の午後を思い出す。

(※どうでもいいけど「移民の歌」、Led Zeppelinの公式サイトでフルコーラス聴けます)

鶏頭




2005-10-11 :キャバクラのもてかた

ジュンク堂にはスーパーにあるような買い物かごが置いてある。わたしの夢は、その買い物かごが使えるほど、本をたくさん買うことだ。って、週に最低一回は寄って、そのたびに何か買ってるんだけど、たいていは一冊だし、昨日のようにたくさん買っても文庫本だと持って歩いてもしれてるので、ついぞ使ったことがない。

ところで、昨日、レジでわたしの前に並んでいたおじさんは、そのあこがれの買い物かごを下げていた。カウンターにかごをのせて、レジのお姉さんが一冊ずつ取り出す。 「カバーご入り用でしょうか」
「ああ、カバーかけて」
わたしは散歩に連れて行ってもらうイヌのように、じっと待つ。
出てきた本。
『キャバクラの教科書』
『キャバクラのモテ方』
『大人の悦楽講座』
『文藝春秋』
『世界の中心で、愛をさけぶ』
すると後ろからお姉ちゃんが「これも〜」と言いながら、本を追加した。
『骨盤教室』
つくづく世の中にはいろいろな本があるものだなぁ、と感心した。
それにしても。タイトルを並べるだけで、おぼろげに見えてくるものがありますね。

(ちなみにわたしが買ったのは市川浩『〈身〉の構造』、桑子敏雄『環境の哲学』、赤坂憲雄『境界の発生』『異人論序説』、竹内敏晴『動くことば動かすことば』……これもビミョ−に見えてくるものが、あるかなー)。

【コメント欄から】

キャバクラのモテ方 (arare)

2005-10-11 22:42:54

キャバクラという所へ行ったことがないのでよくわかりませんが、キャバクラってお酒を飲んで女の子たちとワイワイ楽しくやるところだと思っていましたが、そうではないのでしょうか?彼女たちは仕事ですから、お金を使ってくれる人が上客でしょうから、キャバクラでもてるコツは、高いお酒を飲むことじゃないのかなあなどと想像するのですが、違っているのでしょうか?

しかし「キャバクラのモテ方」などという本があるということは、もっとほかにモテるコツがあるということでしょうね。いくら高いお酒を飲んでも、ブスッとしていたんでは、モテないでしょうから、話術に長けて、彼女たちを笑わせることもモテるための条件なのでしょうか?

彼女たちは一応接客のプロでしょうから、その接客に自分が満足したということを態度で示せば、モテるのでしょうか。それとも「キャバクラでもてる」というのは、私の知らない何か深い意味があるのでしょうか。

最近は客引きのお兄ちゃんも見かけなくなりましたが、「キャバクラ=ぼったくり」というイメージが私の中にあるので、キャバクラの世界に一歩踏み出せないでいます。

本題と関係ない話で失礼いたしました。

いったことのないところ (陰陽師)

2005-10-12 05:53:17

arareさん、おはようございます。
今日も早起きの陰陽師でございます。

確かに世の中には、名前は知っていて、そのなかはどうなっているのだろう、と思っていても、決して自分が足を踏み入れることのない場所というものが存在しますよね。 わたしもいくつかありますが、おそらく自分が内部を知ることは、一生ないだろうなぁ、と思いつつ、これも「何かを選択することは、別の何かを諦めることである」と納得することにしています。

> キャバクラってお酒を飲んで女の子たちとワイワイ楽しくやるところだと思っていましたが、そうではないのでしょうか?

そういう場所だったんですか!?
なんだか思ったより楽しそうな場所ですね。もうちょっとイカガワシイ場所を想像しておりました……。

> 話術に長けて、彼女たちを笑わせることもモテるための条件なのでしょうか?

なるほど、やはりコミュニケーション・スキルが重要、ということですね。 スキルの獲得には、まず本を読む。これは一種の鉄則でもあります。

> その接客に自分が満足したということを態度で示せば、モテるのでしょうか。

以前、西原理恵子がホステスになったマンガというか、エッセイというか、本というかを読んだことがあるのですが、あれがキャバクラだったのかな? とにかく場所は忘れましたが、その本で読んだのですが、ナンバーワンの女性は、年も若くない、大変物静かで地味な女性だったそうです。ただじっと座って、お客の話をじっくり聞いてあげる。そういう人がナンバーワンになる、というのを見て、G.H.ミードの『精神・自我・社会』という本にあった「社会的動作が意識の先行条件である」(p.23)という部分を思い出しました。
つまり「じっと聞いてあげる」という動作が「このホステスさんはいい人だ」というお客の意識を引き出す、というわけですね。

これを敷衍していけば、「自分が満足した」という動作は、ホステスさんの何らかの意識を引き出すものなのでしょうが、それが「この人っていい金ヅルだわ」(何か言葉が古いな……)って思うか、「この人、いい人ね」か、「スキになってしまいそう」であるかはいくつもの複合的な要素があって、なかなか一概に言えないのではないかと思います。

> それとも「キャバクラでもてる」というのは、私の知らない何か深い意味があるのでしょうか。

その世界にはその世界独自の〈コード〉(暗号)というものがありますからね。言葉は同じでも、内包されている意味がちがう、というのはよくあることです。

> キャバクラの世界に一歩踏み出せないでいます。

その場に留まっていらっしゃることを希望しております。
arareさんといえば、当ブログでは、学生時代、バイトで高級クラブでガーシュウィンを弾いていらっしゃった方、ということになっておりますので。

> 本題と関係ない話で失礼いたしました。

とんでもありません。よくお越しくださいました。
ただ、「キャバクラ」という検索子でこのブログにいらっしゃった方には、お気の毒かと思いますが、そういう方のご希望に叶うブログではないことを示すために、普段よりいささか固い言葉遣いでお答えさせていただきました。

あ〜、舌かんじゃいそう。

鶏頭




2005-10-10 :物欲な日々

このところ何やかやと忙しい日が続いていたので、溜まっていた雑用は明日に回して、ひさしぶりに休みらしい休みの日を過ごす。
といってもジュンク堂へ行って、タワレコに行って、スタバでお茶飲んで、って、いつもと同じじゃないかぁぁ。
いや、本をたくさん買いました。全部文庫だったけど、講談社学術文庫三冊とちくま学芸文庫二冊買ったから、財布が一気に軽くなってしまった。うーん、"Live at Budokan"のDVDを買える日がまた遠のいた。ポートノイさん、待っててね。
またがんばって働こう。

今日のひとこと:物欲は人生というレースにおけるニンジンである。
そうか、物欲番長はわたしの守護天使だったのか……。

鶏頭




2005-10-06 :「どうということはありません」

――I've said too much,
I haven't said enough
(R.E.M. "Losing My Religion")

『ワインズバーグ・オハイオ』ついにアップしました。
うぅ、大変でしたぁ。

「終わってしまえばどうということはありません」
この言葉を以前うかがったことがあって、おおっ、カッコイイ! って思ったんです。

自分が釣った魚は大きい、というかなんというか、自分がやったことって、すごーく大層なもののように思えませんか? わたしは少なくともそうです。大変だったら、あー、すんごい大変だった、もー、すんごいがんばっちゃった、なんて、すぐに言ってしまう。

これも一種の体験主義と言えるのかもしれないのだけれど、どうしてもわたしたちは、自分が見たもの、自分がやったこと、なにもかもそれを中心に、ものごとを組み立てていってしまう。もちろんそうしていかざるをえないのだけれど、その一方で、外から自分のやったことなしたことを見る目を持ちたいと思うんです。

気負わず、衒わず、「どうってことないです」って言えたらなー、って、その言葉を自分の中に大切にストックしておきました。

そしたら、願ってもない場面に遭遇したのです。
しんどい仕事を頼まれて、優に30時間を超えるほど、睡眠時間も削って、せっせと仕上げました。
できました、って持っていったら「どうもありがとう、大変だったでしょう」って。
一瞬、言おうか、って思いました。いまがチャンスだ!

だけどね、考えてみたら、ボランティアなんです。もちろん、なんにせよ仕事がいただけるのはありがたい、と思わなきゃならない。それでもね、期限とか、ほかの仕事とか考えると、必ずしもありがたいとばかりは言えない。
「終わってしまえば…」と言いかけた言葉を呑み込んで、「ええ、かなり大変でした」って言っちゃいました(笑)。

「それはご苦労様」って、おいしいお昼ゴハンをごちそうしてもらいました。
ええ、それが30時間を超える労働の対価です。てんぷら定食、三人分くらい食べてやろうかと思いましたが、悲しいことにわたしの胃袋は大きくはないんです。あきらめて、一人前、おいしくいただきました。

「終わってしまえば…」は、またつぎの機会にとっておきます。

ということで、それじゃ、また♪
昨夜、頭が痛かったんで、九時ごろ寝たら、今朝、四時前に目が覚めました。おかげでもう眠くて、目がふさがりそうです。だけど今日はがんばってもう少し起きていよう。四時前って、真っ暗で、深夜なんだか、夜明け前なんだかよくわかんなかったです。

鶏頭




2005-10-01 :山の上の火のように

ブログを始めた頃は、日々雑感みたいなことだけは書くまい、と思っていたのに……orz
堕落の一途をたどっています……。
いや、まじで忙しいっす。眼が血走ってます。じんわり、なんてのんきなこと言ってられない事態になってきました。
ブログ、下書きせずにぶっつけで書いてるので、文章、おかしいかもしれません。

そういえばもうすぐこの「陰陽師的日常」のブログを初めて一周年になります。
昔から記念日とか、全然気に留めるほうじゃなかったんですが、過去ログの一覧をふと見てみたら去年の10月から始まってる。
あー、そうだったなぁ、って。

* * *

ここにわたしがいる、って見つけてもらえたらなぁ、と思って、始めたんです。

『山の上の火』(クーランダー、レスロー文 渡辺茂男訳 岩波書店 ちなみに子供向けの本です)というエチオピアの民話があるんです(この話はサイトのどこかに書いてるんですが、サイトに書いたのは半分だけなので、ここで全部紹介します)。 ひとりの奴隷が、主人と賭をする。冷たい風のふきつける山の上に、一晩中、身体を暖めるための火も、毛布も、服も、食べ物も飲み物もなしに、裸で立っていられたら、おまえを自由の身にしてやって、おまけに畑と牛もくれてやろう。

奴隷は村の物知りじいさんのところへ相談に行きます。
おじいさんは、向かいの山の岩の上で、おまえのために一晩中火を燃やしてやろうと言うのです。

ふきつける風に凍え死にそうになりながら、奴隷は一晩中、目を凝らしてその火を見、なんとか耐え抜くのです。

翌日そのことを主人に告げると、主人は不思議に思って「どうしてそんなことができたのか」と聞きます。奴隷が正直におじいさんが向かいの山で火を燃やしてくれていたことを話すと、主人は前言を翻す。「おまえは火を使ったではないか。おまえの負けだ」

奴隷は裁判所に訴える。ところが裁判官も主人の言うことを容れ、奴隷の訴えを退けるのです。

奴隷はふたたびおじいさんのところへ行きます。そこでおじいさんは一計を案じる。
みんなにごちそうをする、とおふれを出し、裁判官も、主人も、みんなを招くのです。
みんなはごちそうを楽しみにして集まってくる。

ところがいい匂いが漂ってくるばかりで、いっこうにごちそうは現れません。
みんなが文句を言い出したところ、おじいさんは言うのです。
「山の向こうの火が暖かいのなら、ごちそうの匂いだけでお腹も十分膨れるでしょう」

こうして裁判官も主人も、自分たちの非を悟り、奴隷は晴れて自由になる。

とまぁこういう話なんですが。

わたしも、ここで、小さな火を燃やしてみよう。
この火は、お腹をいっぱいにしたり、実際に身体を暖めたりすることはできません。

それでも、暗闇でちらちらと瞬いてるのが、見つけてもらえるんじゃないか。
そうして、だれかがそれを「暖かい」と思ってくれたら。

わたし自身、そんな火にずっと暖められてきました。
ずいぶん遠くなったけれど、それでも火はやっぱり燃やされているのだと思います。
少なくともわたしがそこに火の存在を感じている限り、わたしは凍えたりしない。
わたしは、大丈夫です。

わたしの火がどこまで届いているか、わからないけれど。
でも、ずっと燃やしています。

* * *

ところでこのブログのサブタイトルは、「読みながら歩き、歩きながら読む」です。
これはわたしが小学生のころ、毎日本を読みながら、学校から歩いて帰っていたことに基づいていますが、もちろんそれだけではなく、一種のメタファーでもあります。

読むということは、考えるということと不可分だし、逆もまた真なり、です。そうして、考えるということは、書き、それを読んでもらう、批判にさらされる、ということとも不可分です。
つまり、本を読む、ということは、当然、考え、それを自分ひとりの考えにするだけでなく、他者にうったえ、意見を聞き、批判を受ける、ということ一切を含んでいるのではないか、と思います。
そうした本の読みかたをしながら、自分自身の考えを作り、自分自身が変わっていけたらな、と。
まぁ「歩く」というのは、口幅ったく言っちゃえば、そうした意味あいもかねていたりします。

ということで、これからもよろしく。
また、遊びに来てください。
こう言っておいて、ナンですが、明日はおやすみです(笑)。

これから修羅場が待ってます。ねじりはちまき、はレトリックですが、コーヒー入れて、バンデリン用意して(ええ、肩凝るんです。もー寄る年波のおかげでパソコン叩いてると肩は凝るし、眼はかすむし、腰は痛くなってくるし…)、眠気覚ましの覚醒musicも用意したし、あとは仕事をするだけです。

生きて乗り越えられたら、月曜日、お会いしましょう。
それじゃ、また♪

鶏頭




2005-09-30 21:30:病院にて

今日は仕事に行く前に病院に行って来ました。
別に重病で余命半年……なんてことではなくて、単なる定期検診だったんですが。
一応予約は取ってあるんですが、それでも結構待たされる。

待合室でアラン・ブースの『ニッポン縦断日記』(柴田京子訳 東京書籍)――どうでもいいんですが、これスポーツ・ノンフィクションと銘打たれたシリーズの一冊で、図書館の分類でもスポーツの項に分類されてるんです。どこがどうスポーツなんだか。そんなこととは無関係に、すごくおもしろい。いかにもイギリス人の旅行記、という感じがするし、それだけじゃなくて1980年代の日本に、まだこんな土地の匂いが色濃く残ってたなんて思いもしなかった――を読んでました。

ところが、目の前のおばあさんがふたり、大きな声で話してるんです。
「それでな、わたしは市役所へ行きましてん。住民票いうもんがありますやろ、教えてもらお、思いましてな。それが、最近は、なんでしたかな、あの、ぷ、ぷ、ぷらなんとかいうもんで、教えてくれはらしまへんねん・・・」
「そうそう、最近はなんでもそういう話になりますねん。こないだも地震、ありましたやろ。ひぇっ、立っとれへんくらいのめまいや、どないしよ、思いましたらな、それがあんた、地震ですねん・・・」(「このあいだ」地震なんてありましたっけ?)
「もう、あんた、七ヶ月分、家賃を踏み倒されたまま、泣き寝入りでっせ。一ヶ月六万八千円、いうのも、ほんまにぎりぎりの額で抑えてますねん。それが、四十七万六千円、パァになりましてん・・・」(思わずかけ算してしまったわたし……)
「ほんになぁ、そういうことはどないにもならしまへん。わたしなんか、血圧の薬、飲んでるさかいにこうやって普通に座って話もできますねん。ありがたいことやとは思います。でもな、めまいはどうもならんのですわ・・」

こういうの、ハイブリッド会話って言うんでしょうか。

つぎに検査を待っていたら、検査室の前では髪の毛がキンキラキンで眉のない、でもきれいな顔立ちの女の子が、悪名高い「ウンコ座り」をして、電話をかけていました。スリッパにジャージの上下で、どうやらここに入院している人みたいでした。

「なに言うとんじゃ、アホ、ボケェ、おまえのせいでなー、むっちゃ気分悪いわ」
わたしはこうした言葉遣いで人に接する人間を、身近に知らなかったので、ちょっとびっくりしてしまいました。別に聞くつもりはなかったんだけど、この子も声が大きかった。

「やっかましいわ、ボケ、ワシがなー、退院したら、湯水のように…」
金を使いまくってやる、というせりふを期待していて待ってたんです。
「働かせてやるからなぁ、覚えとけよ」
ぷっ、と思わず吹き出してしまいそうになりました。

いったいだれに電話してたんでしょうね。それにしても、「湯水のように働かせてやる」ですか。うーん、汗のイメージかな?

わたしのほうは異常なく、相も変わらずの一病息災といった感じでした。 ということで、それじゃ、また♪

鶏頭




2005-09-24:携帯屋、花盛り

疲れました。
自分が何を書いているか、よくわからない状態になっています。

今日、久しぶりに寄ってみようと思ったら、駅前のCD屋が携帯屋になっていました。 わたしが聴いてみたくなるようなCDは、あまり置いてない店ではあったのだけれど、それでもときどき寄ってはいたんです。そこでCDを買ったこともないわたしが言うのもヘンな話なのだけれど、小綺麗な携帯電話を並べた店になっているのを見ると、複雑な気分です。

携帯屋って、やたら多くないですか?
そんなに儲かる商売なのかな。

わたしなんて、いま使ってる携帯、五年目です(物持ちがいいんです)。カメラつきじゃありません(笑)。電話が何度もかかってくると、ちょっとヤバいんですが(電池がなくなっちゃうから)、ひっそりと社会の片隅で生きているわたしには、それほど不都合はありません。

だけど、こんなにあっちもこっちも携帯屋になってしまうと、いったい誰がそんなに買ってるんだろう、って思わずにはいられません。

もうね、仕事中、携帯が鳴って話が中断するのは、あきらめの境地です。また鳴ってるよ、早く出なよ、ってなもんです。

みんな繋がっていたいのかな、って。
ただ、人間はどうしたって孤独なもんだし、それを認めることだって、カッコ悪いもんじゃないと思うんですけどね。

あ、ほんと、だらしのない文章だわ。
そういうことで、それじゃ、また♪

鶏頭




2005-09-12 :『夜は暗くてはいけないか』を読む

『乾いた九月』も、漱石の『第三夜』も、闇のなかで進行するのが気になって、ずいぶん以前に、ある方に紹介していただいた『夜は暗くてはいけないか ――暗さの文化論』(乾正雄 朝日選書)を読みました。いや、実は今日、ずっと読んでて、さっそくここに書いてるんですけど。大変おもしろく読むことができました。

「寒暑の文化」対「光の文化」という比較の仕方には、目を開かれるようなおもいでした。

ただ、思ったのは、アメリカのことです。
乏しいわたしの経験では、アメリカの一般家庭は、日本の家庭に比べてはるかに暗い、間接照明が中心で、たとえばTVがついている部屋では、一切の照明を落としていたような記憶があります。

いっぽう、建材は日本と同じ、板としっくい? ではなかったでしょうか。少なくともヨーロッパのような石造りではありませんでした。

この本のなかでは「高層建築」というカテゴリーでしかアメリカにふれられていなかったのですが、このところアメリカの「郊外」(サバーヴィア)についていろいろ考えているので、ヨーロッパとも、もちろん日本ともちがう、アメリカのサバーヴィアの独特な感じについて、もう少しそこらへんのことを読んだり考えたりしてみたいと思いました。

たとえば、日本人は夜になって明かりをつけると、外から見えないようにカーテンを引くけれど、郊外の住宅ではカーテンなんて引きません。だから、中の様子が浮かび上がって見えてくる。たとえばヒッチコックの『裏窓』にしても、どこの部屋もカーテンなんて引かないから成立する映画なわけです(これはサバーヴィアじゃありませんが)。
そこらへんのこととか、もう少し考えてみたい。

以前スウェーデンから来た人が、冷蔵庫が熱を使って冷やすことができるように、光を使って闇を作り出すような発明は不可能だろうか、と話していたのを思い出します。スウェーデンの夏は、真夜中の二時ぐらいには夜が明けてしまうらしい。そうなると、鳥が一斉に鳴き始めて、うるさくてかなわないのだそうです。そうなると、どうしても寝不足になる。だから、スイッチをパチッと入れて、光を反転させて、人工的に闇を作り出すことはできないだろうか。そんな話を聞きました。読みながらそんなことも思い出したりしていました。

フォークナーの闇、漱石の闇、あるいはマクベスの闇(闇といえば、わたしはどうしても森の中で三人の魔女に会ったマクベスを思い出すんですが)、そこらへんについて思ったことを、そのうちに何かの形で書けたらな、と思っています。
なんだかまとまらない雑感ですが。

こんなところに書いて、本を紹介してくださった方の目に留まるかどうかわからないのだけれど、ご紹介ありがとうございました、とここでお礼を言っておきます。ずいぶん読むのが遅くなってしまったけれど、見てくださってるとうれしいな。

お元気でいらっしゃるといいのだけれど。

それじゃ、また。

鶏頭




2005-09-11 :選挙の風景

帰りがけ、ビルの一階、蛍光灯の白々とした光が車道のほうまで明るく照らしているところがあった。選挙事務所だ。自転車で前を通ったときにひょいとのぞいたら、パイプ椅子におじさんたちが疲れ切ったように腰をおろしていたのが見えた。四、五人しかいなかったのだけれど、どの人も緊張して毛穴の詰まったような表情をしていたのが印象的だった。開票が始まったら人も続々と集まってくるのだろうけれど、その直前の凪のような時間だったのだと思う。なんとなく、選挙のもうひとつの側面を見たような気がした。

鶏頭




2005-09-10 :鳥になりたい

実はdustの訳語がまだ決まっていません。
砂ぼこり、土煙、砂塵、いろんなふうに書いていますが、原文はすべてdustです。 dust,dust,dust、乾いた九月のジェファーソンは、口の中がざらざらしてくるぐらい、dustが降り積もり、大気を覆っています。こちらまで息がつまりそう。そんな空気をどうやって日本語に移したらいいんだろう。

***

今朝、見上げた空に鱗雲が浮かんでいました。こんな九月の空、生まれてから何度見たことか。でも、そのたびに秋が来たんだ、ってはっとします。

そのあと、仕事を終えて帰ってきてから、非常階段のてっぺんで風に吹かれながら、遠い山の稜線の上、かすかに明るさの残る北西の空を眺めていました。

I wish I were a bird.

鶏頭




2005-09-09 :英語がしゃべれない!

学生時代の英語の先生にばったりと会って駅で立ち話(わたしの文章にときどき出てくるアイルランド人とは別人)。

二年ぶりぐらいに会ったのに、いきなり"I've been thinking of you."と言われたので、何事かと思えば、翻訳をしてほしいのだという。

なんでもその先生、小説を書いて日本での出版を希望しているのだそうだ。出版社に持ち込みたいのだが、日本語でないと、と断られたらしい。翻訳者を依頼しようにも金がない。うまく出版の運びになった暁には何割かの金を払うという条件で、翻訳をしてもらえないか、という。eroticな描写があるため、学生にも頼みにくいんだとか。とにかく原稿を見てほしいので、そのうち郵送する、と言われたのだが、おそらくボランティアに終わる可能性の高いA4用紙70枚の小説のことを考えると、気が重い。唯一の楽しみはeroticだとかいう話(笑)。ただし、PlayboyとかPenthouseに載せるようなものでは全然ないんだそうです。

それにしてもひさしぶりに英語で話そうと思ったら、舌噛むわ、簡単な単語が出てこないわ、で、大汗かいた。最低だったのは、「三時」というのを、何を考えていたのか"third o'clock"と言ってしまったらしく(自分では気がつかなかった)、"You have three watches?" と聞き返されたこと(おまけにその先生、腕を出して、架空の腕時計を指さしながら、"first, second, third?"なんて言われてしまった)。自分がそんな間違いをしうるということに驚いた。読んでても聞いてても、話せない。ほんと、こりゃ別物だわ。

ところで近頃妙に「ちょうど**さんのことを考えていたところ」という人によく会う。今週になって三人目、しかも出る話は金にはならない仕事(泣)の依頼ばかり。どうやらわたしのことを思い出すのはそういうひとだけらしい……。

ま、求められてるうちが花、ということで。

鶏頭




2005-09-08 :おばちゃんのひとりがたり

帰り道、自転車で信号待ちをしていた。 「♪おーーーーうぇいざさまーざすりっぴんなうぇぃ〜〜」(なぜかここはひらがなでこう歌ってしまうワタシ)と鼻にかかった声のスティーヴン・ウィルソンと一緒に歌いながら、青に変わったところで、さて、と、ペダルを踏む足に力をこめた瞬間、目の前にいたおばちゃんが「あ、そうや!」と叫んでいきなりひょいっと下りて(なんでおばちゃんは自転車からすぐおりるんだろう?)自転車をUターンさせやがった もといっ、させたので、危うくそこにつっこみそうになってしまった。とっさにハンドルを切ったのは、もちろんこちら。

すると向こうは、「そやそや、忘れてたわ。ほんま、えらいことやわなぁ」とわたしに話しかけると、きこきこと助走をつけ、そのまま自転車に乗って去っていってしまった。

もちろん見たことのないおばちゃんである。おばちゃんというのは、なかなかに理解しがたい生き物であるように思われる。

自分もやがてそうなるのであろうか。ちょっと怖い(この「ちょっと」は"a little"ではなくて、"quite a bit"の意)。

鶏頭




2005-08-29 :新幹線から見たお寺の屋根

旅行というとできるだけ身軽でありたいと思うものですが、わたしにはひとつオブセッションがある。
移動中、読むものがなくなったらどうしよう、ということです。

今回、いろいろあって、アイン・ランドの『水源』をこの間に読んでしまおうと思いました。ソフトカバーではあるんですが、1000ページ以上もあるんです。で、予備のために(笑)文庫本を一冊。重かったです。わたしってバカだなー、なんて思いながら、手回り品を詰めたデイパックに、ずっしり重い『水源』を背負っていきました。

まぁその『水源』の感想を書いてもいいんだけど、それはまたの機会に譲ることにして。

向こうでは、ほとんど本を読む時間もなかったのだけれど、なんのかんのと移動する間、1000ページあってもサクサク読める本は、帰り、三島を過ぎたあたりで読み終わってしまいました。
やっぱりスペアを持ってきたのは正解だった、と思いながら、もう一冊の本を出そうとして、なんとなく車窓を眺めていました。

次第に進行方向の空がバラ色になっていました。
沈んでいく夕日を追いかけるようにして、西へ西へと新幹線はひた走ります。
そうしていると日がなかなか暮れず、赤い夕焼けを普段より長く見ることができました。

だんだんに暮れていく空の下、さまざまな風景が流れていきました。
高層住宅が見え、立て込んだビルが見え、駅を過ぎると、次第にビル群もまたまばらになります。
立て込んだ家並みも次第にまばらになり、それから今度は田圃が広がって。そのうち、立ち並ぶ屋根の間に、ふつうの家屋より少しだけ背が高く傾斜も急な、黒い瓦屋根に目がいくようになりました。お寺です。
木立に囲まれているものもあれば、町中の民家に混じるものもある。けれども人が集まって住んでいるところの一角に、かならずその少しだけ背が高い、独特な形の黒い屋根があるのでした。

お寺というのは、人が集まって住むところに必ずあるものなんですね。
これまでそんなこと、考えたこともなかったけれど。

十年以上、新幹線を使って、東西を往復しています。ここ何年かは年間、数えるほどになってしまったけれど、それでも百回以上は目にしているはずの景色です。細かいところはいろいろ変わっただろうけれど、大きくは変わることもない町並みや、田圃だと思います。

それが、一度気がつけば、まるでお寺の屋根ばかりが目に飛び込んでくるようにさえ見えるのを、なんとなく不思議なような、どこか懐かしいような思いで見ていました。

新幹線から在来線に乗り換えて帰ってみると、すっかり日も暮れて。日没時間もずいぶん早くなりました。ああ、今年の夏も終わったなー、っていう感じです。 よく働いた夏でした(笑)。

明日はパソコンの話をちょっと書いて、それから新しい翻訳を始める予定です。 それじゃ、また♪

鶏頭




2005-08-16 :『るつぼ』の書きこみ

最近、物欲番長が背中にへばりついているみたいで、物欲バクハツ気味なんですが(ええ、仕事が忙しくて、ストレスが溜まってるんです)、これではいけない、と、十何回目かに決心していたところだったのです。

ところが、今日、空き時間に仕事先の近くのブックオフをのぞいてみたんです。と、なぜか『アーサー・ミラー全集II』があるではないか! 二巻といえば、『るつぼ』が所収されている巻ではないか! 例によって、箱入り3200円の本が、機械的に半額にされています。これは買わなくては、と、買ってしまいました。もちろん原書のほうは持ってるんですけどね……。

本は真新しくて、ほとんど開いたあともない、と思ってみたら、部分的に書き込みがしてありました。
「果断」という言葉に丸がついていて、矢印で「かだん、思いきってすること」「迎合的」「自分の考えをまげて他におもねること」「倒錯的」「とうさく、正常・健全な状態に対して逆になること」と、約3ページに渡って、鉛筆で書き込みがしてありました(笑)。確かに、倒錯ってったら正常の逆にはちがいないんだけどさ。

これはテキストだったんだなー。どう考えても英文科だなー。
3ページだけ読むために、3200円も払って、元の持ち主は大変だったでしょうね。ブックオフにはいくらで売れたんでしょうか。

いや、もう物欲番長の誘惑には、屈したりしません。だってi-pod、買うんだもん。
明日から、『夢十夜』の補筆が始まります。では、お楽しみに!

それじゃ、また♪

Red Hot Chili Peppersの"Blood Sugar Sex Magik"を聴きながら(ときどき一緒に歌いながら――だって暑いんだもん)

鶏頭




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