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鶏的思考的日常 ver.10〜鶏頭でいいのか?牛尾より 編〜



2007-01-12:あれが好き、これがきらい(補筆)

作家など、ふたりの人を並べて、片方を好きだと言うために、もう一方を貶める、というやり方をすることがある。

たとえば夏目漱石と森鴎外。
太宰治と坂口安吾。
アーネスト・ヘミングウェイとスコット・フィッツジェラルド。
リリアン・ヘルマンとメアリー・マッカーシー(まあこのふたりは、実際に派手にケンカをしたのだけれど)。

これはなんにでも応用がきいて、ビートルズとローリング・ストーンズ、あるいはジョン・レノンとポール・マッカートニー、あるいはストーンズのかわりにヤードバーズを比較したっていいし、ビーチ・ボーイズだって、ザ・フーだって、はたまたセックス・ピストルズと比較したっていい。つまりその組み合わせは無限に可能ということだ。江戸落語と上方落語、天丼とカツ丼、占星術と四柱推命、おすぎとピーコ(これはちがうか)、ベンザエースと葛根湯、野球とサッカー……。

ただ、こういう比較にはほとんど意味がないのではないか、とわたしは思うのだ。
確かに補助線を引くことで、ふたつのものを対照させながらそれぞれの特徴を抽出してゆくというやり方には、一定の意味がある場合もある。けれども、あくまでもそれはその特徴を浮かびあがらせるための補助線であり、任意の線なのだ。

線をちがう位置に引けば、まったくちがう特徴を浮かびあがらせることができる。おもしろい補助線を引けば、おもしろい比較の仕方ができるかもしれない。意外な角度から見ることができるかもしれない。
それでも、あくまでそれは「自分が引いた」線なのだ。補助線を引いた側がそれを忘れてしまって、あたかもその「ちがい」が実体的なものであるかのように錯覚してしまってはどうしようもない。

このあいだ新聞の夕刊の文芸批評に、フィッツジェラルドの翻訳が新しく出たことにふれて、昔の日本人はヘミングウェイが好きだったけれど、最近の洗練された日本人の感性は、『誰がために鐘は鳴る』などの粗雑な男らしさをばかげたものと感じるようになった、とあって(しかもそれを書いたのは著名な評論家というか作家というか、で)、はあ〜〜〜、と深い深いため息が出てしまったのだった。

まあここではヘミングウェイのことを書くことが目的ではないので、詳しく書くつもりはないけれど(とりあえず「粗雑な男らしさ」という言葉でヘミングウェイを片づけるなんて、粗雑でもなければ男らしくもないわたしには、とてもじゃないけれどできない、とだけ、書いておきます)、どうしてヘミングウェイが好きだと粗雑で、フィッツジェラルドが好きだと洗練されているということになるのだろうか?
確かに『グレート・ギャツビー』の新訳は話題になったけれど、ヘミングウェイの短編集だって数年前に高見浩によって訳し直された。
ヘミングウェイだって、ちゃんと日本では読み継がれている。そうしてもうひとつ言わせてもらえば、ヘミングウェイを読む人は、『ギャツビー』だって読んでいるのだと思う。

別に漱石と鴎外、ヘミングウェイとフィッツジェラルドの両方が好きで全然問題ないじゃないか、と思うのだ。どうしてどちらかしか好きにならなくちゃいけないのか、わたしには全然それがわからない。
確かにヘミングウェイは三十年代の初めには、フィッツジェラルドのことを批判した。ひどいことも言った。けれど、それはフィッツジェラルドが『日はまた昇る』の最後の部分を手伝いもし、出版を勧めもした、そういう関係であったからこそ逆に、差異を作りだすことによって、逆に自分の文体を確立しようとしたものであることを忘れてはいけない。
わたしたちが読むのは、あくまでも作品だ。ヘミングウェイがフィッツジェラルドの悪口を言ったからといって、どちらかの作品がそれによって損なわれるようなものではない。

人でも、ものでもそうなのだけれど、好きになることはともかく、きらいになることは、怖いことであるような気がする。
つまり、この人は(これは)きらいだ、と自分のなかで決定してしまうことは、その人なりものなりを、自分の中から排除してしまうということだからだ。
自分が排除することは、同時に、相手からも排除されるということでもある。その世界に自分はもう入っていくことはできない。

もちろんわたしはそんなに立派な人間ではなくて、すぐムカついたり、「けっ」と思ったりしてしまうし、人と会ったりするよりひとりで本でも読んでいたい方だし、好きな人より、あー、やだなー、鬱陶しいなー、と思ってしまう人間の数の方がおそらく多い、つまりは狭量な偏屈な人間なのだと思う。

それでも、たとえ苦手だと思っている相手でも、話をしなければならないときは、できるだけその話はきちんと聞きたいと思う。
というのも、いやだな、と思って雑に聞いていると、ほんとうにその時間が苦痛になってしまうから。きちんと聞きさえすれば、どこかに「ひっかかり」ができるかもしれないし、そうなったらしめたものだ。

「いや」と思う気持ちをとりあえずカッコに入れて話を聞いてみれば、もちろんその気持ちが裏書きされてしまうような場合もあるのだけれど、逆に、なるほど、こういう考え方もあるのか、と、自分とはちがう観点からの話に、おっ、と思うこともある。
おっ、と思うことができたら、そのぶん、こちらの発想も豊かになる。

いやな人、きらいな人を自分の中からどんどん排除していけば、その先にはずいぶん寂しい光景が待っていることだろう。たとえ好きだと思っている人の中にも、いやな部分を見つけてしまうかもしれない。それほど悲しいことはちょっとないんじゃないだろうか。
だから、わたしは「あまり読んでいない作家」はいても、「きらいな作家」はいない。
それがたとえいまのわたしにはわからなくても。

こういうとき、いつも思いだすのはブラックオリーブのことなのだ。
以前イギリス人と話をしていて、「きらいな食べ物」の話になった。そこでわたしがピザにのっているブラックオリーブがきらい、と言ったら、そのイギリス人は「オリーブは morish だからね」と言ったのだった。
"morish" という単語を知らなかったわたしが、どういうこと? と聞いたら、食べれば食べるだけ好きになるってこと、と教えてくれた。
確かにそれはそのとおりで、その頃ちっともおいしいと思えなかったブラックオリーブが、あるとき急に好きになったのだ。
いまではマリネなんかを作るとき、どうしてもほしくなって瓶詰めを買ってくるまでになった。

自分の嗜好は経験によって変わりうる。
たとえ最初は馴染めなくても、それでも「きらい」と決めつけるのではなく、つぎの機会にまた試してみれば、ちがったふうに味わえるかもしれない。
好きだのきらいだのという判断には、経験という要素が大きいのだ。

時間をかけて好きになっていったということは、その人なり、そのものなりと一緒に経験を積んできた、ということでもある。

わたしたちのいま、ここという場所を明るくしているのは、いつだって、そこにそういう人がいたという、それぞれの親しい記憶なのだということを考えるのだ。

長田弘『私の好きな孤独』(潮出版)
▼補筆

この「粗雑な男らしさ」は、正確には談話である。だから、記者の側が作家の発言を「粗雑に」まとめてしまった可能性は十分にある。もうついでだから書いてしまうと、これは丸谷才一の発言で、「日本文学、洗練された」 新刊刊行の丸谷才一さん語るという記事のもの。念のためにその部分を引用しておくと

『グレート・ギャツビー』についても「昔の日本人はフィッツジェラルドよりも、ヘミングウェイが好きだった。『誰がために鐘は鳴る』なんて、ああいう粗雑な男らしさや勇ましさをばかげていると、認識するようになった」。

鶏頭




2007-1-11:銭湯は環境破壊か

今日の話は、以前「自転車に乗りたい」でもふれたことのある、アメリカ人の英語教師のことだ。

彼が住んでいるところのすぐ近所に、銭湯があった。
銭湯の煙突から出る煙や煤で洗濯物はすぐ黒くなり、窓や網戸を黒く汚す。
そのことをめぐっては何度も風呂屋と交渉したらしい。何ヶ月ごとの煙突掃除を確約させたらしいのだが、あまり効果はないらしかった。

その先生を、ここではミスター・ジョーンズとでも呼んでおこう。
ミスター・ジョーンズは、モータリゼーションとの闘いをライフワークとしていて、よく路上駐車している車に「車は殺人の道具です」「車は環境を破壊します」「車をやめて自転車に乗りましょう」といった手製のチラシをはさんで歩き、新聞や雑誌にも繰りかえし投稿していた。

そうして、同様に「反銭湯キャンペーン」も繰り広げていたのである。
銭湯の煙突から出る煙は公害であり、付近一帯の空気を汚染する。
ほとんどの家庭に風呂がある今日、銭湯の必要性はきわめて低い。
将来的には銭湯を閉鎖すべきである。そうして現時点では燃料を薪とするのをやめ、ガス化すべきである。
ビラを配り、署名活動もしていたようだった。

そのミスター・ジョーンズが、あるとき「ニュースステーション」に企画書を送った、と言う。
「クメは環境問題にも関心があるはずだ」

「とりあげられる可能性は極めて低いのではないでしょうか」
とわたしは答えた。
「銭湯というのは、庶民のものというイメージが強いから、ああした番組はむしろ銭湯のイメージを好むはずです」

「彼らは庶民ではない。銭湯の経営者は駐車場とアパートの経営で豊かな生活を送っている。銭湯の経営は趣味のようなものだ」

「その銭湯の経営者がお金持ちであるかないかではなく、銭湯のイメージが問題なんです。日本では選挙に出馬する人は、銭湯に行って、そこにいるお年寄りの背中を洗ってみせる。江戸時代から続く一種の文化なのです(自分でそう言いながら、実はホンマかいな、と思っていた)」

「そんなイメージは愚かなことだ。実際、どの程度環境を汚染しているか、調べるべきなのだ」

ミスター・ジョーンズはそう力説していたのだが、訴えが功を奏した、という話はとうとう聞かずじまいだった。

実際、町の銭湯がどれだけ環境を破壊しているのかこれはわたしにはよくわからないし、ミスター・ジョーンズの主張が、よくある住民エゴとどれだけちがうのか、わたしにはかなり疑問ではある。

ただ、ふつう「環境破壊」というと、わたしたちがイメージするのは工場の煙突や火力発電所や原子力発電所であって、町の銭湯の煙突はイメージしない。
銭湯は、あくまで「庶民のいこいの場」という見方でとらえてしまう。
こうした文化コードを共有しないミスター・ジョーンズには決して理解できないことなのだろう。

こんなことを思い出したのは、「倫理的な食べ物はかえって有害かもしれない」(※原文は雑誌"The Economist" 記事。リンク先は山形浩生による訳)というコラムを読んだからなのだ。

この記事によると、有機農法は通常の集約型農業よりも集約度が低いために、はるかに多くの農地を必要とすることになる、とある。
あるいはフェアトレードは過剰生産を抑制できないために、結局は貧困削減には結びついていかない。

山形さんは解説のところで「ただ一つだけこの記事に疑問。有機食品の支持者たちは、「地球に優しい」なんていう理由で有機食品を支持しているんだっけ?」と書いているのだけれど、別に積極的に有機食品を選んで買うようなことはしなくても、多くの人は漠然と、化学肥料を使わない農業のほうが環境破壊の度合いは少ない、と感じているのではあるまいか。少なくとも、わたしはそう思っていた。

以前、昔の子供向けの本を見て、「いまでは化学肥料のおかげで、清潔な野菜が収穫されるようになりました」という記述にびっくりしたことがある。
いまではちょっと考えられないことだろう。

このようにわたしたちが感じる「良い」ことも、時代によって変わっていく。あるいはさまざまなことが発見され、あらたな因果関係が見つけだされる。
しかも、わたしたちはどうしてもイメージにとらわれてしまう。
銭湯は良い、有機農業は良い、フェアトレード食品を購入しよう……。
どれもみな、一般的に流布されたイメージがもとになってはいないか。
自分がちゃんと考えているのか。

たいていのことは「これが良いんだ」「こうするのが正しいんだ」なんてことはまちがってもいえないのだ。
せいぜい、いくつかの選択肢を比較対照して、いまのところこれがより望ましいのではないか、といった具合に、いくつかの保留をつけながら、暫定的に少しずつ考えていくしかないのだろう。

ミスター・ジョーンズにはもうずいぶん会っていないので、銭湯との闘いがどうなったかは知らないのだけれど、わたしはそのとき言ったのだ。
いちど、銭湯へ行って、そこに毎日通っているおじいさんとお話しするといいですよ、と。
ミスター・ジョーンズは、はっきりとは言わなかったけれど、おそらく絶対に行くつもりはないだろう。
行って、実際に話をしてみると、おそらく銭湯に対するミスター・ジョーンズのイメージも変わってしまうだろうから。
いったん「自分が正しい」と思ってしまうことの怖さは、そんなところにもあるように思う。

言い切らない。保留する。判断を先に延ばす。
どれもカッコいいことではないけれど、少なくとも一面的な見方に陥ってしまうことはないのではあるまいか。

鶏頭




2007-1-10:悪口の話

以前、人と雑談をしていて、別れ際に相手がしみじみと「だけど悪口ってほんと、楽しい」と心の底からうれしそうな顔で言ったことがあった。
思わず、寅さんになって「それを言っちゃあおしめえよ」と言いそうになったのだけれど、そう言えるほど相手が親しくもなかったし、おまけにわたしより年上だったので、どうしても年長者にタメ口がきけないわたしは、寅さんになる代わりに、同意はしてませんよ、という曖昧な(?)笑みを浮かべて、そのまま立ち上がったのだった。

確かに、気の置けない仲間内で悪口を言い合うことは楽しい。
それでも、それはそんなに正々堂々と「楽しいわねえ」と言われてしまうと、ちょっとなあ、と思ってしまう。

集団の結束を高める一番簡単な方法は、外部に敵を作ってしまうことだ。
「わたしたち」と「わたしたち以外」のあいだに線を引く。それだけで「わたしたち」のあいだには絆が生まれる。

こんな経験がある。 あるときわたしは処置室で点滴を受けていた。かなり時間がかかる点滴で、まわりで看護師さんたちは、忙しそうに出たり入ったりしていた。
そこに、新しくその病院にやってきたらしい看護師さん(見たところ三十代前半のこの人を仮にAさんとする)に、かなり年配の看護師さん(この人をBさん)が、引き出しやファイルの説明をしていた。
「××が必要なときは、ここを見て。でもねぇ、こんなやり方、せんかてね、もっと簡単な方法をしたらええと思うねんけどね、まあこれも婦長さん(と独特なアクセント)の考えやからねぇ」
それに対してAさんは、いかにもわかってますよ、という含み笑いをして
婦長さん(と独特なアクセント)ってねぇ。Bさん、いろいろ苦労したはるんですね。頭が下がります」とほんとうに頭を下げて見せるのだった。
やがてAさんとBさんは処置室を出ていった。

まもなく、今度は「婦長」と胸元にプレートをつけた、てきぱきした中年の女性と先ほどのAさんが一緒に入ってきた。婦長さんは先ほどのBさんと同じ説明を、微妙にちがうやり方でしていく。
そうしながら「ここはいろんな人がいますから。ちょっとね、やり方が古い人もいるんだけど。そういう人が何か言うかもしれないけど、あまり気にしないで」
すると今度はAさん、
「ああ、わかります。そういうヴェテランさんってどこでもいたはるんですよね」と意味ありげな目配せをするのだった。

端で聞いていたわたしはおかしくなったのだけれど、おそらくAさんのその態度というのは、人間関係の煮詰まりやすい職場でこれまでに培ってきた処世術なのだろう。
一対一の場面でないところで、いったいどういう態度を取るのか、ついでにそれも見ておきたかったのだけれど、残念ながら(笑)それは見ることができなかった。
ともかく、こんなふうに相手との関係を手っ取り早く結ぶためには、相手が言う悪口に同意するというのは、悪い方法ではないのだろう。ただ、長期的な信頼関係となると、話はまったく別物なのだけれど。

ただ、わたしは悪口が良くないもの、と思っているわけではないのだ。
心根の卑しいわたしは、これまでにもずいぶん悪口を言ってきたし、これからもきっと言うだろうと思う。

集団のなかには、自分とものの見方・考え方がちがう人間がいるのはあたりまえだ。
そのちがいかたにもいろいろあって、自分の意見とすり合わせることのできるちがいもあれば、ああ、こっちのほうがいい、と、自分から引っ込めることができるようなちがいもあるし、逆に、どうにも受け容れがたいようなちがいもある。

どうにも受け容れがたいちがいは、頭に来るし、それを主張する相手の態度が自分から見て好ましいものでなければ、なおさら腹が立つ。対立して、自分のほうが通ればまだしも、相手のごり押しが通りでもしたら、わたしたちの気分はしばらくおさまらない。

腹に据えかねる思いは、つい、悪口になって出てくる。
もちろん誰にでも言えるわけではない。
自分が気を許せる人間を聞き手に選んで悪口を言う。
悪口というのは「ここだけの話」で、「あなただから言う」ということでもあるのだ。
だから悪口は人を結びつける。

悪口はその対象となる人間、あるいは場所やものごとのの一部だけをとりあげて、カリカチュアライズし、レッテルを張る行為でもある。そのカリカチュアライズがうまくいっていれば、聞いている方も楽しくなる(たとえば漱石が『坊ちゃん』で松山の悪口を書いているように)。「あの人がこんなことをした」という悪口は、できるだけ極端なもののほうがおもしろいから、当然そんなエピソードが選ばれる。

そういう話は、確かに楽しい。立派な人間が立派な行為をした話など、楽しくも何ともないけれど、ムカつく人間が極端なことをしでかして、その結果、どえらい騒ぎを引き起こしてしまった、などと聞くと、聞いているだけでわくわくしてしまう。

一方で、何かで読んだのだけれど、メジャーリーガーの松井選手は、何歳かになって以来、他人の悪口は言ったことがないのだそうだ。
それを読んだときにまず思ったのは、松井選手にはそこまで心を許せる人がいないのか、ということだった。
松井選手は親しい人が誰かの悪口をいっているとき、どんなふうに聞いているのだろう。
この人はこんなことを言うべきではないが、それでも自分はこんな相手でも悪く思ってはいけないのだ、と思いながら聞いているのだろうか。
それはずいぶんしんどい話だし、そんな相手とは、わたしなら心を許すことはむずかしいかもしれない(まぁその可能性は限りなく低いのだけれど)。

悪口というのは、「楽しい!」と、正々堂々言えることではないけれど、悪いこと・すべきではないことだから、と、禁じてしまうことでもないような気がするのだ。
悪口が相手の決めつけであり、カリカチュアライズであることを理解し、相手に不当なことであることさえ気持ちのどこかに留めておけば、その効用は確かにあるように思える。 少なくとも、自分には悪口が言い合えるほど気を許せる相手がいる、ということは、まちがいのないことだから。

鶏頭




2007-1-3:2007年の初めに

あけましておめでとうございます。

今朝、ブログの編集画面にアクセスして、昨日のIPの数字を見て驚きました。
169人の方が見に来てくださったんですね。
閲覧数のほうは、たぶんロボットがきて全部のページをさらっていくのだろうと思うのですが、たまに1000を超えているようなこともあったんです。
ただ、新規閲覧者のほうは、いままでだいたい毎日50〜70人ぐらいのアクセスで推移していたので、ちょっとびっくりしています。
「占い」、やっぱりすごい威力ですね。毎月やろうかしらん(笑)。

それにしても本物の占いだと思って、検索から見に来てくださった方、ごめんなさい。
一応、冒頭で断ってありますから、まさか本気になさった方はいなかったと思うんですが、どうか詐欺だ、なんて怒らないでください。自分の星座のところでなく、全体を読んで、読み物としてなんとなく笑えるところもある、ぐらいなものですので。

「占い」で来てくださった方にはもしかしたら申し訳ないのかもしれませんが、ここは「読む」ことを軸足に置いたブログです。
詩人の長田弘は『すべてきみに宛てた手紙』のなかでこのように言っています。

 風景を見るということは、風景を読むということ。そして、世界を見るということは、世界を読むということです。

「読む」というのは、アルファベットを見つけるということ。世のすべてのものは、みずからを表すために、それぞれに独自のアルファベットをもっていて、自分のアルファベットによって存在の物語を綴ります。

 存在するものは、かならず自分の物語といえるものをもっています。そして、わたし自身の言葉で書きとってゆく。

「書く」ことは、つまり、「読む」ということにほかならないのです。「書く」とは存在するものの言葉を「読む」ということです。

長田弘『すべてきみに宛てた手紙』(晶文社)

窓から見る風景も、身近な人も、昨日読み終えた本も、あるいは有名な絵や曲も、わたしたちは多くのことを「わかっている」と思っています。

小さな子供は「それ、何?」「どうしてそうなるの?」とひたすらに聞いてくるけれど、ある程度年齢を重ねていくと、いつのまにか「そういうものだ」と納得してしまって、疑問に持つことすら忘れてしまいます。
そういうものとして「わかって」しまうと、風景も、人も、本も、本来持っていた意味を失い、たったひとつのことを指し示すだけの記号でしかなくなってしまう。

「一旦停止」の道路標識なら、それだけの意味で十分なのでしょうが、記号しかない世界で生きていくのは、ずいぶん寂しいことなのではないんだろうか。
そうするうちに、わたしたち自身がしだいに枯渇してしまうのではないか。

だから、読もう、と。
冬枯れの木立を読み、川を渡る風を読み、記憶の中の相手と過ごした時間を読み、カッティング・ギターの音を読み、本を読もう。
「そういうものだ」ではなくて、長田の言葉を借りれば、「それ独自のアルファベットを見つけ」ながら、その「存在の物語」を読んでいこう。
そんなふうに思います。

なんだかずいぶん大きな口を叩いてしまったかもしれません。

アメリカの作家であり詩人であるメイ・サートンは、発表を前提とした初めての日記『独り居の日記』(Journal of a Solititude)をこの言葉から書き始めました。

 九月一五日

さあ始めよう。雨が降っている。

(メイ・サートン『独り居の日記』みすず書房)

決意表明もせず、年頭の抱負も述べず、こんなふうに、さりげなく一年を初めることができれば、と思います。
大きな声ではなく、小さな声で。
アジテーションではなく、みずからの内に返っていくような、静かな深い声で。

今年も、よろしく。

鶏頭




2006-12-31:陰陽師的2007年占い

生まれた日の星回りがいったいその人にどのような影響を及ぼすのか、わたしには理解しがたいことがらである。わたしが産院で生まれたときはちょっとしたお産ラッシュで、同時に7人ぐらいの赤ちゃんが生まれたそうである。これでいくと、わたしと同じ運勢の人が、少なくともこの世には七人いるらしい。

わたしはあらゆる占いなどというものを信用していない。 それでも「占い」の効用というのは、ある程度、認めるのである。 かくて昨年「占い」なるものをでっちあげたところ(「陰陽師的2006年占い」)、大変評判が良かったのである。それに気をよくして、今年もやってしまうのである。

一応12星座を規準にしてはいるが、まったく占星術には基づいていない。 「陰陽師的占い」と称しているが、陰陽道にも基づいていない。たんにわたしのHNが「陰陽師」というだけなのである。

それでもこのキーワードがあなたの2007年になんらかの役に立つかもしれない可能性はまったく否定しがたいわけではないかもしれないのである。何らかの参考にしていただければ大変に喜ばしいことなのである。

【牡羊座】2007年のキーワード:何についても自分の意見を持っていいというわけではない

小学校で「自分の意見を持ちましょう」と教わって以来、あなたまじめにそうしてきました。明日の天気にしても、晩ご飯のおかずにしても、芸能人Aと芸能人Bの離婚の原因にしても、イラク情勢の見通しについても、あなたにはそれぞれに意見があります。 ところが実はその教えは重大な欠陥があったのです。それには前提条件があったのです。意見を持つためにはそのことに関する知識と情報が不可欠です。それを欠いたところでの意見など、無責任なうわさ話の域を出ません。
そう考えていけば、意見を作っていくことは簡単ではないし、かならずしも何もかもに意見を持っている必要もないのです。そうしたなかで作り上げたあなたの意見は、おそらく何らかの意味を持っていくはずです。
となりのネコのミィちゃんが生んだ子猫の父親が誰かなど、あなたの意見を必要とはしていません。ミィちゃんさえ気にかけてはいないのですから。

【牡牛座】2007年のキーワード:空気を読んでいればいい、というものではない

もの柔らかな雰囲気のあなたがいると座はなごみ、集まりには欠かせない人という評判です。あなたには空気を察知する能力があり、相手が自分に何を求めているか、なんとなくわかるのです。それでも期待がわかれば、ついそれに応えてしまい、応えてしまえばそのことの評価がほしくなってしまいます。いつのまにか、それが目的になってしまうのです。そんなことをしていると、あなたがほんとうは何がしたかったのか、いつのまにかわからなくなってしまいます。
コミュニケーションは共同作業ですから、そこで「空気を読む」ことは必要です。それでも、あえて相手とちがうふうにふるまって、空気を乱すことがあなた自身のために必要な場合もあるでしょう。たまにそれで苦労を引き受けることになったとしても、コミュニケーションは一度かぎりのものではありません。たとえそれっきり終わりになったとしても、そういう人とはそれだけの関係しか作れなかったのだ、とあきらめることも必要です。
わたしは熱烈なタイガースファン(穏やかなタイガースファンのあなたのことではありません)と相対するたびに、向こうが空気を読まないのだから、なんでこちらが読む必要があろう、と思うことにしています。

【双子座】2007年のキーワード:かわいそうだからといって、その生き物や人に全員同情できるわけではない

とても優しいあなたは、傷ついた動物の話や不幸な子供の話を聞くと、涙を流さずにはおれません。ガゼルの親子に焦点を当てたドキュメンタリーなら、ライオンの狩りがうまくいかなければいい、と祈るし、逆にライオンの子供に焦点を当てたドキュメンタリーなら、狩りがうまくいって、ガゼルの肉にありつけたことに胸をなでおろします。
戦争報道にしても、動物のニュースでも、かならずそれはどちらかの立場に立った報道であり、見方です。わたしたちは同情に値する人や生き物みんなに同情することはできません。誰か、あるいはなにものかを「かわいそう」と思ったときは、そのことを思い出してください。

【蟹座】2007年のキーワード:早起きと「得」のあいだには何の因果関係もない

ことわざに「早起きは三文の得」というものがありますが、これがもし本当ならば、いまごろわたしは億万長者、は無理でも、相当な小金持ちになっているはずですが、実際はそんなことは全然ありません。
このように、わたしたちはふたつのできごとをつなげて因果関係の文脈に置きますが、風が吹いても桶屋が儲かることはありませんし(もしそうなら、いまごろショッピング・モールの約半分は桶屋が占めていることでしょう)、ネコが天気予報をやっているわけでも、ナマズが地震予知をやっているわけでもありません。わたしたちが「こうなったからこうなる」と思っていることの多くは、本来ならなんの関係もないふたつの出来事であるということを知りましょう。

【獅子座】2007年のキーワード:大切なことは無料ではない

儲け話はわたしたちの心をくすぐりますし、ただで何かがもらえるとなると、行列にも並ぼうか、という気持ちにもなります。ところがよく考えてください。そうまでして手に入れた無料のものを、あなたは本当に大切にしていますか? どうせタダだったのだから、とどこかで思っているはずです。
実は「お金を払う」ということを通して、わたしたちはその「もの」に、一種の投資をしているのです。だから、お金を払ったものは、その額に応じて、自分にとっての「大切なもの」となっていくのです。
タダで手に入るものは、けっしてあなたにとって大切なものにはなりません。
かといって、わたしがこのブログやサイトの有料化をもくろんでいる、というわけでは全然ないのですが、投資をするつもりで、あなたの時間を少し使って書き込みをしてください。そうすればこのサイトやブログがあなたにとってもっと有意義なものになるはずです、と思います、というか、そうなったらいいなあ、なんていうことをちょっと思ったりしているわけです。

【乙女座】2007年のキーワード:「幸福な出来事」があるわけではない

たいていの運勢には大吉とか幸運の星座などという文言がのっていますが、それは大きく誤っています。この陰陽師的占いではそんないい加減なことは決して書きません。
個々の出来事に幸・不幸があるわけではないのです。200ポンド手に入った、と喜んでいたらそれが息子が死んだことの補償金だったり(『猿の手』)、サッカーくじに当たったから好きな女性を監禁してしまったり(『コレクター』)、出来事のひとつひとつは「幸福」でも「不幸」でもないのです。
問題はその出来事を通して、あなたが何を感じるかであり、そこからどうしていくか、です。そうして、それが幸福か、不幸か、その最終的な判断ができるのは、あなたの人生が終わってからでしょう。要はさまざまな出来事をどれだけ感じることができるかであり、そうしてより多くを感じることができる人は結局、より幸福であるといえるのでしょう。
何に比較して「より幸福」と言っているかはあまりつっこまないように。いい加減なことを書くまいとすると、苦労も多いのです。

【天秤座】2007年のキーワード:「不幸な出来事」があるわけではない

あなたには「かわいそうなわたしの物語」はひとつもありませんか? もしないとしたら、あなたは大変賢い人です。自分に起こったことを、「不幸」と感じることなく来ることができるような知性をわたしも備えていたいと思います。
たいていの人は、たいがいひとつやふたつ、そういうものを持っています。なかには、なんで自分はこんなに不幸な星の下に生まれついたのだろう、と思っている人もいるかもしれません。
もちろん人は同じ条件の下に生まれるわけでもないし、それぞれの資質は異なっている。それでも、「幸福な出来事」があるわけではないように、「不幸な出来事」があるわけでもありません。自分がある出来事を不幸と感じるだけです。そうして、「かわいそうなわたしの物語」の困ったところは、その物語が「自己憐憫」を連れてくることなのです。少量の自己憐憫は、甘い蜜のようなもので、わたしたちの人生を生きやすいものにしてくれますが、多すぎる自己憐憫は、人をそこにからめとります。
「なんて自分はかわいそうなんだ」と涙を流すのは、一度だけです。二度繰りかえすと、そこから出られなくなってしまいます。そういうとき、「不幸な出来事」があるわけではないのだと思い出してください。

【蠍座】2007年のキーワード:自分がいつも正しいわけではない

あなたは、そんなことわかってるさ、と思っているでしょう。思っていますね。わたしにはわかるのです(自分がいつも正しいわけではない)。
にもかかわらず、わたしたちはそれを忘れてしまうときがあります。
それは、不正を目にしたときです。
電車の座席で靴のまま飛び跳ねている幼児を目にしたとき。
道一杯にひろがって、大声でくっちゃべりながら歩いているおばさんに前方をふさがれたとき。
公職にありながら、その職を利用して私腹を肥やしている官吏の報道を読んだとき。
わたしたちの正義感は刺激され、こんなことは許せない! という気持ちが全身を満たします。けれどもそういうときにこそ、このキーワードを思い出してください。わたしたちは、すべてを知っているわけではないのです。むしろ、わたしたちが知っているのは氷山の一角にも満たない、ものごとの断片でしかない。批判がしたくなったら、その前に、情報を集めること。そうなるに至った背景を知ること。十分に知って、自分の立場を離れて、それからでも批判は遅くありません。
ただ、自転車で二、三人轢いてやろうか、と思っていた道一杯にひろがったおばちゃんたちは、そのころにはいなくなってしまっているでしょうが。

【射手座】2007年のキーワード:たいていのことには「正解」などない

ことが終わって、ああすればよかった、こうすればよかった、と思うのはだれでも経験することですが、そうしなかったからこそ、そういうことが言えるのです。何かをする前は、自分が何をしようとしているのかさえ、はっきりとわかっているわけではありません。まして、それがどのような結果になるか、そんなことはだれにもわからないのです。
日々生きていく、ということは、問いさえはっきりしない問題をつきつけられて答えを出していくようなものです。問いさえはっきりしていないのですから、どこかに正解があるわけではない、ましてだれかが正解を知っているわけがないのです。
いかにも知っているかのように断言する太ったおばさんやおじさんが、知りもしないあなたのことをなんと言おうが気にすることはありません。もちろん、わたしが言うことも、気にする必要がないことにかけては一緒なのですが。

【山羊座】2007年のキーワード:違和感というものはいつまでも続くものではない

自分の名前を一度も不満に思わなかった人が果たしているのでしょうか。ちゃんと読んでもらえなかったり、平凡すぎたり、古くさかったり、逆に奇妙だったり、DQN臭かったり、たいていの人は自分の名前を一度や二度はおもしろくなく思ったことがあるはずです。ちょっと知恵のついた中学生は、親に反抗するときに「生んでくれと頼んだ覚えはない」と毒づきますが、「こんな名前をつけてくれと頼んだ覚えはない」と毒づかないのは不思議なことです。
自分の人生に一生影響を与え続けるのに、自分の意見が反映されない「命名」ということほど理不尽なものはないのかもしれません。それでもその名前で呼ばれ、その名前と馴染んでいくうちに、「名前」はあなたの抜きがたい要素になっていきます。
同じようにニックネームもあなたの意志とは無関係に与えられます。こんなニックネームなんて……と思ったとしても、多くの場合、命名者は親愛の情をこめて命名していることに変わりはありません。どうか大切にしてください。最初は違和感を覚えたとしても、大丈夫。そのうち慣れます。名前があなたの一部となるように、ニックネームはあなたのささやかな一部となっていくことでしょう。
それが不満なら、こころゆくまでカッコいいハンドルネーム/ペンネームを自分でつけてください。

【水瓶座】2007年のキーワード:いい人悪い人があらかじめいるわけではない

あなたは周りから「いい人」と評判です。
それでも「 * * さんっていい人だね」と言われて気をよくして、「どういうところが?」と聞いてみたら「高菜の漬け物をくれたから」と言われて、ガックリとしたことはありませんか?
「いい人/悪い人」の評価も、しょせんはその人にとって都合がいい人かどうかで、根拠というのも、自分に好意を示してくれるかどうかが規準になっているだけのことも少なくありません。蜘蛛からしてみれば、自分を踏みつぶさないでくれた大泥棒は命の恩人だし、絵師の家族にしてみれば、火事のときも自分たちを助けてくれるどころか、スケッチに余念のないお父さんは、極悪非道のクソ親爺です。
わたしたちは自分の立場からしか見ることができませんし、その意味で、自分の利害を離れて見ることもできないのです。なんていやなやつなんだろう、と思ったとき、そのことを思い出してください。いやなやつ、は、いまのあなたにとって、都合の悪い人であるにすぎません。そうしてその関係はいつでも変えることができるのです。

【魚座】2007年のキーワード:誰のアドバイスでも受ければよいというものではない

教えたがり、アドバイスしたがりの人はたくさんいますが、だれのアドバイスを聞いてもいいわけではありません。人は、自分がたまたまうまくいったそのやり方が、唯一のやり方と思ってしまいがちだし、アドバイスしたがる人が、かならずしも自分と相手のちがいをわきまえて言っているとも限りません。
不安なとき、迷っているとき、藁をもすがる気持ちでアドバイスを求めたくなるのも理解できますが、自分がすがろうとしているのが藁なのか、救命ロープなのか、ちゃんと見極めておくことが必要です。その人から、自分が学べるのか。そう思うことができる人のアドバイスならば全力で聞くべきだろうし、そう思えない相手なら、話半分に聞いておけばよいのかもしれません。
わたしの占いが当たれば、占い師になっているでしょうし、ここでこんなことを書いていることもないでしょう。

鶏頭




2006-12-29:目の話(補筆)

今日、駅で若い女性とすれちがった。
その瞬間、この人を知っている、と思ったのだが、だれだったか思い出せない。
耳の内に声が聞こえてくる。呼気の混じる、少しくぐもった声。この声はだれだろう、だれだろう、と考えて、しばらくしてから気がついた。
歯科衛生士さんだ!
それにしても、これまで顔を合わせたときはいつも、顔がすっぽり隠れるマスクをつけていたのだから、実際よくわかったものだ。
あたりまえだけれど、いつものピンクの白衣(論理矛盾のような気がするが)ではなく、うしろでバレッタでまとめていた髪も肩に垂らし、ダウンジャケットにピンヒールのブーツで歩いていたのだった。

人の顔、というのを、わたしたちはいったいどんなふうに認識しているのだろう。

和辻哲郎は『面とペルソナ』という文章のなかで、こんなふうに書いている。

我々は顔を知らずに他の人とつき合うことが出来る。手紙、伝言等の言語的表現がその媒介をしてくれる。しかしその場合にはただ相手の顔を知らないだけであって、相手に顔がないと思っているのではない。多くの場合には言語の表現せられた相手の態度から、あるいは文字における表情から、無意識的に相手の顔が想像せられている。それは通例きわめて漠然としたものであるが、それでも直接逢った時に予期との合不合をはっきりと感じさせるほどの力強いものである。いわんや顔を知り合っている相手の場合には、顔なしにその人を思い浮かべることは決してできるものではない。絵をながめながらふとその作者のことを思うと、その瞬間に浮かび出るのは顔である。友人のことが意識に上る場合にも、その名とともに顔が出てくる。

(和辻哲郎「面とペルソナ」『和辻哲郎随筆集』所収 岩波文庫)

『シラノ・ド・ベルジュラック』がおそらく元祖なのだろうけれど、映画などでもたまに容姿端麗ならざる主人公が自分の代役に、眉目秀麗の友人を代役に立て……という話がある。昔からそういうのを見るたびに、それでだまされる人間がほんとうにいるのだろうか、ずいぶんご都合主義の展開だなあ、と思っていた。

『シラノ…』では、ロクサーヌはすでにクリスチャンに恋をしているのだけれど、恋をしていればなおさら、シラノが代筆したラブレターを、クリスチャンが書いたもの、と誤解することはないような気がする。文面から受けとる書き手の印象は、クリスチャンのそれとは一致しない。クリスチャンからは、そんな洒脱さも繊細さもうかがえないし、むしろ顔はきれいなデクノボーだからロクサーヌはクリスチャンを恋したのではないのか。
あるいは逆に、文面にひかれたなら、その奧に結ぶのは、漠然としていても、それはクリスチャンではないはずだ。

「言語の表現せられた相手の態度から、あるいは文字における表情から、無意識的に相手の顔が想像せられている」と和辻も言うように、読むということは、文章の向こうに人を思い浮かべることでもあるのだ。逆に、わたしたちが読んでもどうもピンとこない文章というのは、書き手の姿がうまく像を結ばない、ということでもあるように思う。

以前、こんなことがあった。
ショッピングモールでサイフを落としたのだ。運良くすぐに、警察から連絡が入った。
拾得者の方にお礼を言って、引き替えをもらってください、と言われ、連絡先を教えてもらった。

実はそのサイフには、千円札が一枚しか入ってなくて(銀行へ行かなくちゃ、と思っていたのだ)、もちろんカードだのIDだの診察券だのは入っているし、サイフそのものは六年ぐらい使っていたとはいえ、結構高いものだったので、見つかったことはありがたかったけれど、サイフというのはびっくりするほど個人情報がまるわかりなものである。わたしに関する実に多くの事柄が、千円札が一枚しか入っていない、ということとともに、拾得者にあきらかになってしまったのだった。

相手が女性であること、その名前から、ある程度、年配の人であることは察しがついた。サイフが出てきて助かった、と思う反面、そうした年代の女性にありがちなことだけれど、プライバシーに配慮するとかそういったことは考えたこともないだろうし、全部見たんだろう、と考えると、ちょっと気が重かったのだ。
ともかく、電話をかけないことには話が始まらない。意を決して電話をかけ、予想通りの年代らしい女性とそのショッピングモールで待ち合わせをしたのだ。

自宅にうかがいます、というわたしに、その女性は
「わたしなぁ、毎日、そこの向かいのプールに泳ぎにいくねん。2時から3時まで。それやから、そこの××が都合がええねん。降っても晴れても、バスに乗って毎日、行くんやよ。毎日続けるいうのんが大切やねん。おかげで血糖値も、中性脂肪も……」
と、さまざまなプライヴェートな事柄を打ちあけてくれたのだけれど、おそらくそれは「これでおあいこ」と思ったせいではなく、プライヴァシーという概念そのものを持ち合わせていないためらしかった。おそらくそういった調子で、わたしのあれやこれやも千円しか持っていなかったことと合わせて、プール仲間の格好の話題にされてしまうのだろう。
ええ、落としたわたしがアホなんです。

そういうわけで、入っていたのは千円だったが、一割のお礼というわけにもいかず、近所のケーキ屋さんで焼き菓子の詰め合わせ千五百円分(!)を買って、その待ち合わせ場所に行った。

その店に入ったとたん、一瞬でわかった。まるでその人の名前を書いたプラカードを持っているかのように。
その女性には、プールメイトとおぼしき連れがいたのだが、同じような年格好、同じように人待ち顔であたりを見まわしていても、どちらが目指す相手かまでわかった。
まさに、声から想像された「顔」がそこにいたのである。

それとは別に、こんなこともあった。
和辻は「顔」と言っているのだけれど、わたしはむしろ文章からは「声」を聞く。というか、はっきりと声が聞こえてくる文章と、聞こえにくい文章があるのだ。
その声の聞こえる文章の書き手と会ったときのこと。

会う直前に、電話で声を聞いた。あたりまえのことだけれど、わたしが文章から漠然と思い浮かべていた「声」とは質のちがうものだった。
ああ、この人は、こういう「声」をしている人なんだ、と思っていると、やがてその声のもちぬしがあらわれた。これまた、入ってきた瞬間にわかった。

そうして、それまで文章から受けとっていた漠然とした「声」のイメージは、実際に会ったことで、ぴたりと焦点を結んだ。以降わたしがその人の文章を読むときの向こうには、かならずその人の「顔」があるようになった。

わたしたちはおそらくは人を、「顔」として認識している。
そうして、その人の文章やその人が選ぶ言葉から、あるいは声から、あるいは顔の一部分から、相手の「顔」を作り上げていっているのだ。

ところで、メキシコはプロレスが盛んだ。メキシコのプロレスは、ルチャ・リブレといって、マスクをかけたレスラーたちがリングに登場する。 広い会場で、遠くからでもよくわかるように、そうして、善玉、悪玉がよくわかるようにマスクをつけているのだそうだ。

プロレスのマスクというのは、鼻と口が出ている。実際、激しい動きをするものだから、鼻と口を塞いではたまらないのだろう。
この鼻と口を出しているマスクマンがマスクをはずしたら、これは絶対わからない。歯科衛生士さんとまったく逆のケースだ。
そういえば報道写真でも、人を隠すとき、眼だけ黒く塗って隠すということをよくやっていた。

これでいくと、顔とは「目」ということになるのだろうか?

同じく和辻哲郎は「人物埴輪の目」というエッセイで、目のことを書いている。
「埴輪人形の一番の特色は眼である。あの眼が、あの稚拙な人物像を、異様に活かせているのである」とし、その理由をこのように推測する。

 と言ってもあの眼は、無雑作に埴土をくりぬいて穴をあけただけのものである。…しかしそういう無雑作な穴が二つ並んであいていることによって、埴輪の上部に作られた顔面に生き生きとした表情が現われてくることを、古墳時代の人々はよく心得ていたようにみえる。二つの穴は、魂の窓としての眼の役目を十分に果たしているのである。

 古墳時代の人々がどうしてそれに気づいたかを考えてみるためには、埴輪人形を近くからではなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、時には二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼は異様な生気を現わしてくるのである。もしこの眼が写実的に形作られていたならば、少し遠のけばはっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくり抜いた空洞の穴に過ぎないのであるが遠のけば遠のくほどその粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。

「人物埴輪の眼」(『和辻哲郎随筆集』所収)

和辻の論でいけば、人間は〈顔〉でその人を認識し、さらには「顔の生気」は眼に現われる、ということになる。人間とは、目なのか?

なぜ「目」なのだろう。
肖像画でもなんでも、わたしたちがまず見るのは目だろうし、描くときにも目は特別に意識される。絵を描くとき、慣れないうちは、どうしても目を大きく描いてしまうし、「画竜点睛を欠く」という言葉もある。
どうやら「目」というのは特別なものらしい。

微妙な表情が現れる器官。
笑いをかみ殺すことはできても、笑っている目はわかってしまう。
たとえ涙をこらえようとしても、流れる前で留まっていても、目はうるんでいる。
そのことを、わたしたちは経験から知っているからなのだろうか。

それともやはり、わたしたちがその器官を使って見ているからなのだろうか。 自分では見ることができない器官。 それはわたしの目。

鶏頭




2006-12-28:カタログの話(補筆)

いわゆる「活字中毒」と呼ばれるのが字さえ書いてあれば何でもいい、というタイプの人を指すなら、わたしはそれには当たらない。

これまでの人生で二度、手元に読むものが何もない、という悪夢のような経験を味わったことがあるが、それ以外にはいかなるときも読むものを準備し、本の残りを見て、途中で読み終えてしまったときのために予備まで準備する、「備えあれば憂いなし」を実践しているわたしであるから、「字なら何でもいい」という状態に陥ることがまずない、というだけなのかもしれないが。

ちなみに「備えあれば憂いなし」というのは、わたしのミドルネームというわけでは全然なく、どういうわけかほかのこと、にたとえば現金とか、米の残量とかにおいてはちっともこういうふうに頭が回らず、しょっちゅうサイフの中に持ち合わせがない、という羽目に陥ってしまう。もっともこれは単に貧乏なだけ、ということなのかもしれないが。

ともかく、たいていのとき、というか、ほとんどつねに「読むもの」がかならず手近にあるわたしなのだが、というか、豊富にあるにもかかわらず図書館にも通って、読みたい本、読むべき本はつねに山のようにあるのだが、それとは別に、送られてくるカタログにはかならず目を通すことにしている。

もちろん、商品購入の目安にしているわけではない。本とCDと、あとは日常の生活必需品をのぞけば、ほとんど買い物ということをしないわたしであるから、それ以外の何かを買う、という機会自体が極端に少ない。
それでも、カタログは見ていて楽しい。なかでもL.L.Beanのカタログが好きだ。

L.L.Beanのカタログに写真家の名前が記載されていることはないのだけれど、丁寧に見ていれば、何人かの写真家がいることがわかってくる。できるだけ個性を消したような写真ではあるのだが、それでも撮り方というか、微妙な癖が、なんとなく出ているのだ。いったんそれに気がつけば、好きな写真家も見つかる。

それからモデルにも好みが出てくる。こういう通販のカタログのモデルというのは、だいたいにおいて、あまりモデルらしくない、というか、気合いが入った表情を浮かべていない。
多くのモデルは正面からこちらを見返し、どう? ワタシ、きれいでしょ? ワタシの外見にはお金がかかっているのよ、体型を維持するのに、血の滲むような努力だってしてる。頭だっていいのよ、カワイイだけのおバカさんじゃない、というキャプションが浮かんでくるような顔つきをしているのだが、カタログの女性たちは、少しうつむいたり、横顔を向けていたり、だれひとりとしてこちらを見返してこない。

わたしが勝手に“ジェニファー”と名前をつけているモデルがいるのだけれど(どうでもいいけれど、ジェニファーというのはアメリカ人にやたら多い名前の一つで、わたしがアメリカにいたとき、女の子が12人のクラスに、ミッシェルとジェニファーが四人ずついた。あとはロンダとトレイシーとラエラと……もうひとりはだれだっけ)、なんとなくラテン系の血も混ざっていそうな“ジェニファー”は、こちらを見返すこともなく、いつも感じのいい表情を浮かべて、少し遠くを見ている。その笑顔も「ここへ来るまでに信号に一度も引っかからなくて、今日はラッキーだった。何かいいことがあるのかもしれない。ほんと、そうだったらいいな」という顔で、まちがっても「このグラビアの仕事を踏み台にして、つぎはもう少し上の雑誌あたり、もちろん“ヴォーグ”なんかは無理でも、“アメリカン・ホーム・スタイル・アンド・ガーデニング”あたりに売りこみにいこう」なんていう決意はうかがえない。

L.L.Beanのカタログは、屋外で撮った写真が多いのだけれど(考えてみるとアウトドアファッションが専門のL.L.Beanなんだから、それが当たり前なのだろうが)、それもいかにも観光地然とした場所ではない。そこらへんの農場、そこらへんの公園、ちょっと山に入ったあたりにどこらでもあるような川べり、といった感じで、北アメリカのいたるところにごろごろ転がっていそうなありふれた場所だ。
もちろん実際にはそんなわけがなく、入念にそういうふうに見える場所が選ばれ、演出されている、「加工されたさりげなさ」であることにはまちがいないのだろうが、それを見ていると、「こういった雰囲気」がこの国では「よし」とされているのだろうな、というのがよくわかる。

たったひとつ不思議なことは、男のモデルがかならずポケットに手をつっこんでいることだ。
子供の頃、寒いときなどにポケットに手をいれでもしたことなら、すぐ、転ぶと顔を打つ、手を出しなさい、などとこっぴどく叱られたものだ。そのせいか、どうもポケットに手を入れている人が気になってしょうがない。ともかく、ほんとうにびっくりするぐらい、男性モデルはポケットに手をつっこんでいる(お持ちの方は確かめてみてください。ほかのカタログではどうなんだろう)。それもポケットの底にしのばせた拳銃を握りしめている、という感じでは全然なくて、親指だけ出して、残りの四本を軽く入れているのだ。ちなみに女性はつっこんでいない。
これはどういう意味があるんだろう。昔から気になっているのだが、未だにぴったりくる説明を思いつかない。

ともかく、わたしはこのカタログを送られてくるたびにすみずみまで丁寧に「眺めて」はいるのだが、残念ながら背景とのコントラストとか、印刷された写真にあらわれた質感とか、そういったものを見ることはあっても、商品として、服だの靴だのカバンだのを見たことがない。それでも確か三年ぐらい前にシャツを二枚ほど買った記憶はあるので、まったく購入していないというわけでもないのだ。購買者という意味ではほとんど用をなしていないわたしのもとに、毎月きちんと送ってくれるL.L.ビーンは、ありがたいところだと思う。ただ、ここまですみずみまで見ていれば、送ってくれる側も送り甲斐がある、と思ってはくれないものだろうか。

鶏頭




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