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鶏的思考的日常 ver.12〜竊盗金魚 賭博ねこ 傷害雲雀 凶器準備集合鶏 編〜



2007-04-08:桜、桜(加筆)

こちらでも桜はやっと満開になり、今日はずいぶん大勢の人が桜並木をそぞろ歩いていた。

木の下に、例のこよなく人工的な色合いの青いレジャーシートを敷いて、肉を焼いている団体や、大きな箱に入ったピザを広げている人たち(そこに配達してくれるのだろうか?)もいれば、そういう人たちがカメラに入らないように、立ち位置を工夫しながら写真を撮っている人、あるいはまた片手をいっぱいに伸ばして、携帯電話で自分の写真を撮っている人もいた。

「花見」というけれど、花見というのは桜の「花」のひとつひとつをじっくりと見るのではなく、木全体、さらに、あたり全体に咲く何本もの花を、総体として眺めるものだ。
駅までの通り道に、宗教団体の看板のかかった大きな家があるのだけれど、そこに見事なしだれ桜がある。帰り道、薄暮のなかにひっそりと浮かびあがるいくつもの白い花は、この世のものとは思えないほど美しいけれど、その一本だけの木を見に来る人の姿は見たことがない。
近所の桜の並木通りは、この時期、ひきもきらぬ花見客のために自転車の乗り入れを禁じ、木の下はシートで埋め尽くされ、夜には灯りのともった提灯の下で笑いさざめく声がおそくまで聞こえるのとはずいぶんちがう。

おもしろいことに、「花見」をする側も、ひとりで眺めるときはあまり「花見」とは呼ばない。落語にも「長屋の花見」というのがあるように、大勢が木の下に集まり、花を楽しみながら飲んだり食べたりする、というのが「花見」という言葉から想像される情景だ。

そうして花見は、毎年、毎年、繰りかえされ、去年のこと、一昨年のことを思い起こし、重ねあわせる機会でもある。そこで食べたり笑ったりしたことと過去のことを重ねあわせる。今年の桜を見ながら、同時に過去の桜をも眺めている。ひとつひとつの花を愛でるものではないからこそ、そういうことができるのだろう。

いつとなくさくらがさいて逢うてはわかれる(山頭火)

桜を見るということは、去年一緒に見た人や、花見の記憶に登場するいまはここにはいない人のことの姿を胸の内に思い描くことでもある。

去年の春だった。
平日の午前中、満開を過ぎた桜は、そよぐ風に花びらがあとから散っていた。

一本の木の下に車いすに乗った高齢の女性がいた。
少し離れたところから、若い男性がそのおばあさんの写真を携帯で撮っている。トラッキングスーツを着たその男性は、おそらく介護の専門職の人で、身内という雰囲気ではなかった。それでも声をかける感じ、その男性に応えるおばあさんの感じから、ふたりは、たとえば病院などで見かけるような患者と医療従事者の関係というより、もっと信頼しあっているような印象を受けた。

わたしが目を引かれたのは、そのおばあさんがとても美しい顔をしていたことだった。
車いすの背もたれからかろうじて頭がでるほど、背中も曲がって、すっかり縮んでしまったおばあさんだった。それでも白髪はきちんと撫でつけられ、結われていて、着るものも外出着らしいもので、外に出て、陽を浴びることの歓びが、その晴れ晴れとした表情から見て取れた。

携帯電話に向かって笑いかけるおばあさんの写真が、だれに送られるのか、わたしには知る由もない。それでも、その年、その木の下で晴れ晴れとした顔のおばあさんの写真が残るのだ。わたしにはそれがひどくすばらしいことのように思えたのだった。

散る桜 残る桜も 散る桜 (良寛)

良寛の辞世の句とされるこの句は、やがてだれもが散ってしまうというだけでなく、散っては、翌年また咲く、大昔から続いていく大きな命の流れのなかに自分も入っていくのだ、という意味であるという。

どれほど美しく咲いていても、桜が間もなく散ってしまうことを知っているから、わたしたちはその短い期間、その花を愛でるだけではなく、そうやってめぐりくる季節の中で、過去から未来へと一本の道を歩いていく自分自身を確かめるために見に行くのかもしれない。

わたしは今年、どんな桜を見ていったい何を記憶するだろう。

さまざまの こと思い出す さくらかな(芭蕉)

鶏頭




2007-04-07:ボランティアの悩み

このところずっと知り合いの小説の翻訳をやっているのだけれど、まぁほんとうに何も起こらない小説で、何も起こらない、というのがどれほど大変なことか、改めてよくわかった。

実は翻訳で一番むずかしいのが描写である、とわたしは思う。
物語が動き始めれば、日本語と英語の構造のちがいも、見方・とらえかたのちがいも、さほど苦にはならない。ところが描写となると、たとえば日本語だと、

 木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。

のように、木曽路→街道の描写→集落の描写→……という具合に、広いところからだんだん焦点を絞っていく、というやりかたをする。
ところが英文では多くの場合、目の前の具体物からだんだんカメラが引いていって、最後に全体を映し出す、という手法がとられる。

視点の位置ひとつとってもこれだけちがいがあるし、あるいはバックグラウンドとする文化の差もある。
主人公の理想を体現したかのような女性が登場するのだけれど、彼女の目は直訳すると、「奧目に見える」となってしまう。日本語では、いわゆる「彫りの深い」と表現される顔立ちなのだが、「彫りが深い」とまでやってしまっていいのだろうか、また悩むわけだ。

それだけではない。
物語が動かない小説が、これほどつらいものとはわたしも実は知らなかった。
これまでどれほど描写に苦労させられても、そこを過ぎれば、きちんとストーリーは動くし、主人公は行動する。そうして何かが起こり、結末に至るのだ。
ところがこれは何も起こらない。

感想を求められたときに、わたしは作者に言ったのだ。
これには葛藤がない。だから、ドラマもない。
主人公は行動しない。見て、考えているだけじゃないか。

するとその作者はこう答えた。
わたしたち多くの人間の生活は、ドラマなどない。葛藤もない。
同じような日々を送り、多くは見て、考えるだけである。
そんなアメリカの映画のような、何やかや、矢継ぎ早に起こるような、五分ごとにだれかが死ぬような毎日は誰も送っていないではないか。
この主人公の生活こそが、ほんとうの生活なのである。

確かにそれはそうだ。
それはそうなのだが、おそらく「何も起こらない」ことを書くためには、ものすごい技術が必要なのだろうと思う。
あるいは、思考の流れのような、実験的なスタイルを導入するとか。

歩き(延々と風景の描写)、女性に会い(延々と女性の描写)、美のはかなさに思いいたり(延々と考察が続く)、女性に声をかけるかどうか逡巡し(延々と心境が語られる)……、こういうことが同じペースで牛のヨダレのように続くのである。もう美人を連ねる形容詞も種切れになってしまった。ほとんど『美味しんぼ』の世界なのである。

いま、わたしはほとんど泣きそうだ。
今度訳すとしたら、五分ごとに誰かが殺されるような話をぜひやりたいものだ。

【コメント欄から】

2007-04-08:体調はいかがですか(ゆふさん)

ということが言いたかったのですが、それだけではなんなので、以下余談(笑)

最近、村上春樹訳『グレート・ギャツビー』を読んだのですが、村上さんがあとがきでこんなことを言ってたんです。

(『グレート・ギャツビー』は村上さんにとっての「ナンバー1」なんだけれど、『グレート・ギャツビー』のどこがそんなにすごいんだと言う人がいることに対して)
「『グレート・ギャツビー』はすべての情景がきわめて繊細に鮮やかに描写され、すべての情念や感情がきわめて精緻に、そして多義的に言語化された文学作品であり、英語で一行一行丁寧に読んでいかないことにはその素晴らしさが十全に理解できない、というところも結局はあるからだ。」

だから、元の英文の魅力を伝えるべく精一杯の努力をして翻訳した、という話ではあるのですが、それにしても訳者自身からこう言われてしまうと、翻訳された小説を読むというのはどういうことなのかな、と。翻訳された小説を読んで、感動したり、おもしろかったりしたところで、それは元の作品の魅力のどれほどを理解したことになるんだろうか、と。 そんなことを漠然と(あくまでも漠然と)思っていたところに、「ボランティアの悩み」を読んだので、ちょっとコメントしてみました。
ということで、正式?な質問ではございません(笑)。

では、お大事に。

2007-04-10:翻訳は何を伝えるか(陰陽師)

ゆふさん、こんにちは。

溶連菌のほうはもうすっかりいいのですが、喘息の方があまり芳しくなく、いまは少し強めの薬を飲みながら、発作がでないようにしている状況です。
ただね、ほんと、この薬を飲んでいると、頭にもやがかかったみたいになって、詰めて考えられない。最近のログがやたらぬるいのはそのせいです(ということにしておこう)。
ただ、こればかりはどうすることもできない。なだめながら、うまくつきあっていくしかありません。

さて、『グレート・ギャツビー』なのですが。
あの『ライ麦畑…』は新訳が必要、というのはよくわかるのだけれど、『ギャツビー』に新訳が必要だったのかな、とわたしはちょっと不思議。
『ライ麦畑…』ともに、村上訳は読んでません。
実は村上春樹の小説、わたしは読んだことがないんです。
十代の頃、読もうとして、どうしても読む気になれなくて、以来、カーヴァーの翻訳は読んだけれど、それ以外は距離を置いてます(笑)。サイトのほうの「子供のいる風景」(でしたっけ、似たようなタイトルが多いから自分が書いててわかんなくなる)でも批判的な引用の仕方をしているのだけれど、まあ、あんなふうな距離感(笑)。

たとえば、サリンジャーの『ライ麦畑…』は話し言葉に聞こえるような語り口を選んで、読み手はティーンエイジャーのおしゃべりをそのまま聞いているように思えるけれど、それはサリンジャーの技巧を凝らした文体である、ということは、たいていの解説書に書いてありますが、英語を母語としないわたしたちには、どこまでいってもそういうものはわかりません。
野崎さんの日本語も、どう考えてもティーンエイジャーのおしゃべりには聞こえない。みょうに読んでいて居心地が悪くなる。村上さんがどういうふうに処理されているのかは知りませんが。

話し言葉を模した書き言葉がうまいのは、太宰治です。
太宰治の『女学生』なんか、あの年代の女の子特有の、荒っぽさ、みたいなものまでがいきいきと表現されていて、もちろん表現なんかは多少ちがっていても、いま読んでもまったく違和感がない。
なんでこの人、こんなに女言葉がうまいんだろう、って思います。

こういう部分はふつうに翻訳していちゃ絶対に伝わらない。
だから、いろんなふうに工夫する。翻訳家が一種の創作家、あるいは詐欺師と言われるゆえんはその点にあります。

それでもね、『女学生』を読んで、語り口のおもしろさを楽しめる、というのは、あるていど、本を読むことに慣れている人に限られるでしょ?
たとえば本をほとんど読んだことがなくて、あるいは本を楽しむ、という習慣がない人だったら、え? これ何が書いてあるの? とか、作者は何が言いたかったの?(笑)、とか、ということになる。

つまり、日本語であれ、翻訳物であれ、「一冊の本からどこまで楽しみを引き出せるか」に関しては、結局は読み手次第であることには変わりないんです。

あるいは描写にしても、それがどういう意味を持っているのか、文化的なバックグラウンドを共有しなければ理解できない。
たとえば『ギャツビー』でも、語り手のニック・キャラウェイが見聞きする風景、これはすべて、ギャツビーのイメージを浮かびあがらせるために働いています。
車も、通行人の服装も、通りの様子も、音楽も、すべてひとつのイメージを逆に焦点化するために配置されている。
ところが1920年代の風俗をただ知っているだけではなくて、その風俗が持つ記号的な意味を理解しない人に対しては、そういう描写はフィルターの役目は果たせません。

同じ日本人の書いたものでも、夏目漱石の『門』に出てくる崖下の家にどういう意味があるのか、いまのわたしたちにはよくわからないですよね(もしこの点に興味がおありでしたら前田愛『都市空間のなかの文学』をぜひ)。
つまり、ここでもまた「読み手次第」ということになってしまいます。

アリストテレスは『詩学』のなかで、悲劇の根本は「筋(ミュトス)」にある、としました。そのなかで、悲劇は、人間の性格なしでも成り立つが、行為なしには成り立たない、としています。
逆に、性格や思想をいかに言葉巧みに記しても、「筋」や「出来事の組み立て」を除いては、悲劇は成り立たない。
悲劇のもっとも感動的な部分は「逆転」と、「発見的認知」(つまり知らなかった状態から、知ることによって、愛したり、憎んだり、と変化すること」にある、としています。 何よりも物語の根本にあるのは、この「筋」、「筋」とはなにかというと、「変化」だと言っている。

どんな小説でも、根本にあるのは「物語」です。初め−中−終わりを持ち、行為があり、行為を通じて変化がある。そうして、この部分は翻訳によっても伝えることができる。
だから、翻訳というものが昔から続いてきたわけです。
やはり、物語の根本の、筋というのは、どのような語り口をとったとしても、伝えることはできる。

子供だってシャーロック・ホームズのおもしろさは翻訳で十分に理解できますし、たとえロンドンの文化的バックグラウンドを何も知らなくても、逆にそこから雰囲気を知っていくことができる。
読みながら、読み手として成長していくことができるわけです。

筋のおもしろさは、E.M.フォースターなんかは「低級な娯楽」と半ば冗談でいっていますが、そこは翻訳であろうがなんであろうが、伝えられる。
そこからが問題なんですね。

原文で読む語学力があったって、「読む力」はまた別だ。
たとえば描写からギャツビーを焦点化させていくような読み方ができるようになるまでは、ある程度スキルを積んで行かなきゃなりません。もちろん語学の力もあったほうがいい。けれど、それは要素のひとつなんだと思います。

だから、こういうのは将棋と一緒で。
ルールはルールブックを読んでいるよりも、実際にやりながらのほうがよくわかるでしょ。
最初、教えてくれる人がいてさえすれば、やりながら、少しずつルールを覚え、将棋というもの自体を学び、少しずつその世界を知っていく。やること=知識を深めること、なんですね。 ほんとうに楽しもうと思ったら、定石だって覚えなくちゃならないし。 将棋からどれだけ楽しさを引き出せるか、というのは、やはり指し手の力量次第。

それと同じで結局は、読み手に応じてしか、読めないってことだと思います。

『ギャツビー』はね、デイジーが魅力的とはいいがたいから、ラブストーリーとして読んじゃうと、ちょっとつらいかもしれない。
だけど、自分の痕跡を隠そうとする語り手、ニック・キャラウェイに焦点をあてながら読んでいくと、またちがったおもしろさがあります、とわたしは思っています。

書きこみ、どうもありがとうございました。
また何か読んだら、お話、聞かせてくださいね。

鶏頭




2007-04-06:街角で(ちょっとだけ補筆)

先日、ビルの地下にあるCD屋に行こうとエスカレーターを降りたところで、男が四人立っているのに出くわした。制服警官がふたり向かい合って立ち、それと対角線上に男性がふたり。
制服警官は両手を腰に当て、口を開かず見まもっている。エスカレーターから見おろすわたしは、最初、おそらくケンカか何かなのだろうと思っていた。

もっぱらまくしたてているのは、二十代後半か三十代初めの小柄なお兄ちゃんで、Tシャツにジーンズ、店のエプロンというラフな格好。相手はスーツ姿の二十代初め(もしかしたら就職活動中の学生かもしれない)の男の子。大柄な体を縮めて、すみません、ほんとにごめんなさい、もうしません、と繰りかえし頭をさげていた。見ると顔には血の気がまったく失せている。万引きをしたところを見つかって、警察を呼ばれたらしかった。
「おまえなぁ、さっきからおんなじことばっかりゆうとるやないか。それやったら××行け、ゆうとんのじゃぁ、このボケェ」

横を通りかかるとき偶然耳に入ったその店長(ではないのかもしれないが)の言葉に含まれるなんともいえないいやな感じに、まったく無関係のわたしまで、しばらくいやな気分は去らなかった。
単に警官に引き渡すだけではおさまらない、まるでネコがネズミをいたぶるように、相手にできるだけ屈辱を味あわせたい、その声にそんな響きを聞いてしまったのだ。表面、怒ったようなふりをしながら、おそらく彼はその場を楽しんでいた。

そのとき思ったのは、自分が正しいことをしている、とはっきりと実感されるとき、人間は力の感覚を味わうのかもしれない、ということだった。それこそ法律違反のようにわかりやすい悪を見つけたときは、自分はことのほか正しいように思え(法律を犯さなかっただけなのに)、何か個人を越えた大きなものと一体になったような感覚を味わうのかも、ある種、社会を代表する人間になったように、相手の罪を指弾したくなるものなのかもしれない。

そうして逆に法律違反を犯した人間は、それがどれほど些細な違反ことであれ、その時点で、少なからぬもの、わたしたちがふだん気がついてはいないけれど、実際にはさまざまな点で守られているものの多くをはぎとられてしまうのかもしれない。

たとえばスーツ姿で背の高い、体格のいい男性と、Tシャツにジーンズで小柄で貧相な体つきの男性を較べたら、多くの点で前者のほうがより「守られている」。
けれども万引きをした、というこのたったひとつの出来事で、前者の彼の多くのものがはぎとられてしまい、両者の立場は逆転する。彼は万引きをすることで、CD一枚分にはとうてい引き合わないほどの代価を払うことになるのだろうが、そのなかにはこれまで彼が持っていることさえ気がつかなかったさまざまな「守り」を失うことも含まれているのだろう。

わたしたちはさまざまな倫理観に基づいて行動しているけれど、その倫理観は社会をよりどころにしている。

いまでもはっきり覚えているのだけれど、小学生の時、教頭先生が朝礼のときにこんな話をしてくれた。

昔、とても貧しいお母さんがいた。子供においしいものを食べさせてやろうと思って、店の人がいないのを幸い、八百屋の店先にあったイモを盗もうとした。すると、手を引いていた小さな子供がそれを止めて、「おかあちゃん、お月様が見てるよ」と言った。お母さんはハッとして盗むのをやめた。

そのときわたしは心の中で叫んだ。「それはちがう! お月様じゃなくて、イエズス様でしょ!」
わたしがそれまでいたカトリックの学校では、そういうとき見ているのはいつでも「イエズス様」だったのだ。

小学校を代わっただけでもそのくらいの差ができる。時代が変われば倫理も変わるし、同じ時代であっても社会の変動が起これば倫理観が180度変わることもある。
ロバート・キャパの有名な写真に「ドイツ人に協力した女性、シャルトル、フランス」(1944年)というものがある。

(※http://www.magnumphotos.com/Archive/C.aspx?VP=XSpecific_MAG.PhotographerDetail_VPage&l1=0&pid=2K7O3R14YQNW&nm=Robert%20Capaで20枚目に出てきます。)

ナチス・ドイツ軍に占領されていたフランスの町が、戦後解放されて、ドイツ軍に協力したとされた女性が髪を丸刈りにされて町を追放される写真である。キャパが映し出すのは、その女性を指さし笑う人々の表情である。
「正しい」ことをしている人々の、もっともグロテスクな姿がここにある。

確かに絶対に怒らなければならないときというのはあると思う。
たとえば、相手が自分の尊厳を犯すような行為をしかけてきたとき。

わたしはいまでも覚えているのだけれど、中学へ入ったばかりの夏休みの時、初めて痴漢に遭ったことがある。そのときは怖くて怖くて、声も出せなくて、涙を流すだけだった。家に帰って母親に言うことすらできなかった。

しばらく電車に乗るのが怖かったのだけれど、あるとき決心した。もう二度とこういう被害には遭わないようにしよう。つぎに痴漢に遭ったら、声を上げるのだ。やめてください、と言うのだ。それでもやめなかったら、蹴るとか、殴るとか、してやるのだ。もう二度と、抵抗もできないようなことはしないのだ。
そうやって、ある晩、鏡を見ながら決心したのだった。実際に、声を出す練習だってした。
幸いなことに、そういう場面にはそれ以降遭遇することはなかったのだけれど。

だが、これはわたしにとって、一対一の、自分の尊厳をかけた戦いだった。わたしは自分の尊厳を守るために、いやなものはいや、と声をあげなければならなかった。それは、社会の倫理観に依拠しながら、倫理を逸脱する人を指弾することとはちがう。

何が正しくて、何がまちがっているか、ということは、なかなかいちがいに言えることではないし、むずかしいことでもあるように思う。それはちがう、それは正しくない、と思ったとしても、わたしの立場から考えるなら、とか、この状況では、とか、いくつもの条件をつけておくべきだろう。そうして、たとえ誤っている、まちがっていると思った相手がいたとしても、相手の尊厳を犯すような言動は、やはり避けるべきだろう。
その意味で、やはりキャパの写真は、心に留めておく価値のある写真であるように思う。

鶏頭




2007-03-24:窓の向こう(ちょっとだけ補筆)

学生の頃、夜、電車に乗ってバイト先から帰っているとき、沿線の家々から洩れてくる明かりを見ては、あの窓の向こうにほんとうの生活があるのだ、と思っていた。 これから自分が帰っていく部屋は、ただの一時の仮住まい、寝に帰るようなもので、そこでの毎日など、「生活」と呼べるようなものではない。一瞬で流れていくさまざまな窓の向こうで繰り広げられているものこそ、「生活」と呼ぶにふさわしいものだ、と考えていたのだ。

高層住宅も、電車から見えるのが玄関の側だったりすると、そこに見える光景はよそ行きの顔だ。ついている明かりも、廊下に規則的に並ぶ青白い蛍光灯である。
それが、玄関とは反対側の窓だと、明かりの色もさまざま、カーテンの色を通していたり、人影が映ったり、TVの青い明かりがチラチラと瞬いていたりもする。

冬、水蒸気で曇った車窓を手袋をはめた手でこすって窓の向こうをのぞいていると、暗い中に浮かびあがる家の窓もやはりぼおっと霞んでいて、それでも窓全体が電灯のオレンジ色を映し出し、向こうの空気はひどく暖かそうで、自分がこれから帰っていく、まっ暗い窓を思ったりもした。

その向こうでの生活は、さまざまにあるだろう。
あっという間に過ぎていく窓を見ながら『アンナ・カレーニナ』のあの有名な冒頭の一文

幸福な家庭は皆同じように似ているが、不幸な家庭はそれぞれにその不幸の様を異にしているものだ。

を思いだしたり、あるいは庄野潤三の『プールサイド小景』を思いだしたりもした。

青木氏の家族が南京ハゼの木の陰に消えるのを見送ったコーチの先生は、何ということなく心を打たれた。
(あれが本当の生活だな。生活らしい生活だな。夕食の前に家族がプールで一泳ぎして帰ってゆくなんて)

ところが絵に描いたような家族団欒の様子を見せる青木夫妻には秘密がある。青木氏は会社の金を使い込んで、解雇させられているのだ。子供たちをプールに連れて行って一緒に泳ぎ、やがて夫人が犬を連れて迎えに来る。その場面しか知らないコーチにはまったくそんなことはうかがい知ることもできない。

実際、まるで短編小説の一場面のように、ベランダでもみ合っているカップルを見たこともあった。たぶん、夏だったのだろう、ランニングシャツ姿の男が、同じように薄着の、髪をふりみだした女の両手首をつかんでいた。電車で過ぎていくほんの一瞬のことだったが、胸を衝かれ、どうなったか後々までひどく気になった。

閉め出されたのか、窓ガラスを叩いて泣いているらしい子供の姿を見たときは、他人事ながら、危ないと思ったものだ。

いつ見ても、ベランダに出した椅子に腰かけて、タバコを吸っているおじいさんもいた。暗い中、少し低い位置でかすかに揺れる火は、赤い蛍のようにも見えた。


いまわたしは、夜に帰ってくると、明かりをつけ、それからカーテンを閉める。外の夜を閉めだし、しっかりと戸締まりをするのだ。そうすると、部屋の中がほんとうの夜らしくなってくる。
カーテンの向こうで電車が走り抜ける音がする。その中に、わたしの窓を見上げて、あそこに生活がある、と思っている人はいるだろうか。

鶏頭




2007-03-23:始発電車の話(ちょっとだけ補筆)

いまではたいてい始発電車が走り出す前に起き出しているので、寝床の中で始発電車の音を聞くこともなくなった。だが、始発の音を目覚まし代わりにしているころもあった。

初夏ならばすでに薄明るくはなっているけれど、それ以外の季節ならまだ暗い、冬であれば空はまだ深夜と変わらない五時台に、始発電車は走り始める。

ほかに音といえば新聞配達のバイクが聞こえるぐらい、それも配達がひとわたり終わってしまうと、あたりはふたたび静まりかえる。
そこへシャーシャーという高い金属をこすりあわせるような音が遠くから聞こえてきたかと思うと、あっという間に轟音となり、それが一瞬で通り過ぎ、また金属音だけがしばらく残っていく。最初から音が消えるまで、ほんの数秒の出来事なのだが、あたりが静かなぶんよけいに、始発電車はいつも、ひどく長いあいだ聞こえているように思うのだ。

暗いなか、煌々と灯りをつけて走る始発電車を、ベランダから見ることもある。満員の通勤電車は、人影で外に灯りも洩れ出さないほどなのだが、ひとけのない始発の車両はひときわあかるく、内部が浮きあがったようにはっきり見える。
黄色い電灯に照らされた車内は、朝の空気というより、まだ昨夜の人の疲れた息や酒の残り香が残っているのではないか、というような気さえする。

始発が通っていったあと、しばらくしてから、今度は逆方向に電車が走り始める。それにはもう少し人が乗っているから、どこか早く始まる職場があるのかもしれない。人の乗る車両は、新しい日の始まりにふさわしく、もはや夜更けの名残はどこにも感じられない。
それが過ぎると次第に電車と電車の間隔はつまってきて、七時台になると、音はひっきりなしになる。

以前住んでいたところも同じように線路が近かった。
夏になれば窓をあけると電車の音がやかましく、電話のときなどは「聞こえない、ちょっと待って」と中断しなければならないほどだった。

そんなころ、阪神淡路大震災があった。
それまで震度3から4程度の地震なら慣れっこで、怖いとさえ思ったことがなかったのに、そこまで大きな地震を味わってみると、ちょっと強めの余震があっただけで、全身が硬直してしまうような怖さを感じた。
TVでは直線距離にしてどれほども離れていないところで拡がる大惨事を映し出し、頭上でやかましく響くヘリコプターのプロペラの音が、この世のものとも思われないような神戸の光景が、いまいる場所の地続きであることを思いださせた。

ふとベランダから外を見ると、保線工事の人たちなのだろう、そろいの作業服に身を包み、ヘルメットをかぶった人たちが五、六人、線路を歩いていた。線路や枕木を一本ずつ丁寧に確かめながら、安全点検をしているのだ。この人たちは始発駅からそうやって歩いて確かめているのだろうか。こうやって終点まで歩いていくのだろうか。たとえ地震が起こっても、どんな非日常的な出来事が出来したとしても、復旧作業はいち早く始まっているのだった。
それからどのくらいたってからだろう、耳慣れた電車の音が聞こえてきた。

そのときに、初めて気がついた。
自分がその日の朝からずっと覚えていた違和感のひとつは、それまで、自分の生活のなかに織りこまれていた電車の音が聞こえてこないことだったのだ。

電車が走る。
電車の音が聞こえる。
当たり前の生活の尊さのようなものを、わたしはそのときに感じた。
おそらく午後だったのだろうが、それがその日の始発電車ではなかったか。


いつか、始発に乗ってみたい。
始発に乗って、自分の部屋の窓を見上げてみたい。
わたしが見ている場所は、電車のなかからどんなふうに見えるのだろう。
そのときは、目印に部屋の電灯は忘れないでつけておかなくては。

鶏頭




2007-03-16:趣味の話(大幅に加筆・修正)

以前、知り合いのお医者さんが弾くピアノを聴いたことがある。

自分が習いに行っていて、定期的に発表会があるような人だったら、あるいはほかの楽器でも、バンドを組んでいるような人だったらまた別なのだろうけれど、そうでなければなかなかアマチュアの演奏を聴く機会というのはめぐってこない。

わたしも駅前でお兄ちゃんがバリランバリランと単純なコードをかき鳴らしているのが耳に入ってくるぐらいで、聴くのはいつもプロの演奏ばかりだった。だから、正直なことをいうと、聴いてしばらくはどうしても違和感があったのだ。

音楽を聴くときというのは、たいていひとつのフレーズを聴きながら、つぎのフレーズを予測し、期待する。聞こえてくる音が予想した音とぴたりぴたりと重なれば、心地よく聴くことができるし、予想を上回る音が聞こえてくると、びっくりしたり、おおっ、と興奮したりもする。
ところがわたしの内側にある「予想」というのは、たいていそれまでにCDなどで聴いて蓄積された音の記憶がもとになっているわけだから、どうしても期待するのはプロの演奏家の音なのだ。だからしばらくは、その人の演奏を聴いていても、予測する音と耳に入ってくる音がずれている感じ、思ったところに来ない感じは続いた。

ところが曲も半分を過ぎると、その演奏にも慣れてくる。
その人は高校までレッスンに通っていて、コンクールで優勝したら、音楽の道に進もうとまで考えていた人だから、もちろん基礎的な訓練をかなり積んでいた、ということもあるだろう。音の隅々までゆるがせにしない端正な演奏であることがわかった。たとえそれがわたしがふだん聴いているような音ではないにしても、わたしはそれを聴いて十分楽しめたし、なによりもいいものを聴かせてもらった、という気持ちになったのだった。

つまり、その人の演奏というのは、たとえ多くの時間と労力を割くことができないにしても、音楽をいつくしみ、長い年月をかけてピアノを弾くことを大切に考えてきた、そんなものだったのだ。

以前、「卒業の風景」でもちょっと書いた中学時代の校長先生からこんな話を聞いたことがある。

校長先生の友だちが、ピアノを始めたという。だから先生は、ベートーヴェンのソナタをなにか弾いてくれ、と頼んだ。するとその友だちは、とんでもない、自分のピアノは趣味だから、気に入った曲の一部をちょっと弾くとか、映画音楽なんかの簡単なアレンジが弾けるとかそんなものだ、と答えた。
それに対して、校長先生は、そんなピアノだったらやめてしまえ、と言ったのだそうだ。

それがいったいどういう話の脈絡だったのか、それに続きがあったのか、まったく記憶はないのだけれど、わたしはそのときほんとうにそうだなあ、と思ったのだ。以来、わたしが「趣味」ということを考えるとき、根底にあるのは、この「そんなピアノだったらやめてしまえ」になってしまった。

おそらくこれは正しいか、正しくないか、という問題ではないのだ。
その人が「趣味」というものをどういうふうにとらえ、自分の生活に織りこんでいくか、ということだから、この校長先生とはちがう考えの人もたくさんいると思う。

趣味なんだからそんなに堅苦しく考えないで、もっと楽しめればいい、というふうに。
あるいは、そんな余分なものに、そこまでの労力と時間など、割く必要はない、という考え方だってあるだろう。

それでも、わたしたちはどうしたって好きなものときらいなものはあるし、好きなものに対しては、もっと近づきたい、深く知りたい、自分のものにしたい、と思うものではないのだろうか。「好き」という心のありようは、対象に向かって手を伸ばしていく行動をも含んでいるはずだ。
趣味というのがそういう気持ちから生まれてくるものであるとすると、何かを始めて、もっとうまくなりたいと願うのは、むしろ当然のことであるように思う。

わたしたちが自分の意志で、何かをやりたい、と初めて思うようになるのは、おそらく十代に入った頃からではないだろうか。それまでの習い事が親の意向であるのに対し、その頃、○○が好きだ、○○をやってみたい、と思うのは、自分が見つけたことである。
ギターを始めた子はひたすらアルペジオを練習して、やがて指先に血豆を作りながら〈天国への階段〉のイントロ12小節を弾くようになる。ドラムを始めた少年少女は、鉛筆だろうが割り箸だろうが、棒が二本あれば両手に一本ずつ持って、いたるところを叩きまくって顰蹙を買う。わたしだってテープにダビングした "Georgy Porgy" を、一小節ずつ繰りかえし聞いて、ピアノのパートを譜に起こし、TOTO と共演(笑)して喜んでいたのだ。将来役に立つわけでも、自分に有利に働くわけでもない、むしろ、親からは「そんなことをする暇があったらもっと……」と言われ、まわりからは滑稽なものを見るような目で見られ、それでも逆風のなかで時間と労力とお金を費やしながら、絆を強めていく。

それだけの献身をしたにもかかわらず、多くの人は成長するにしたがって、そうしたものと離れてしまう。時間の制約であったり、仕事がおもしろくなったり、興味の対象が変わっていったり、あるいはとくに理由もないままに。興味を持ち始めたときのままの熱意で続けていける人はまれだろう。

ところが大人になってしばらくたつと、また何かがやりたくなってくるのだ。長い中断があったことの続きかもしれないし、新しく始めることかもしれない。それでもかつての熱中が、ふたたび自分の内に戻ってくる。
ただ、そのときに、関わり方がふたつに分かれるように思うのだ。
少年期と同じような情熱と献身をもって関わっていくやりかたと、「あくまで趣味として」という態度を崩さないやり方と。
かつての校長先生が「やめてしまえ」と批判したのは、「趣味として」、自分が関わるのはここまでと、あらかじめ自分から制限を加えていこうとする気持ちの働きであったように思う。

昔からNHKの講座には「趣味の園芸」というのがある。番組は見たことがないけれど、いつもおもしろいタイトルだな、と思ってきた。というのも「趣味の〜」とわざわざ断ってあるのは、その番組ぐらいだからなのだ。
それでも、たとえ趣味であろうがなんだろうが、花であれば丹精して育ててやれば、きれいな花を咲かせることができる。趣味だから、といって、水やりをさぼれば、枯れてしまう。
花を育てることにおいて、「趣味」であるか「プロ」であるかというのは、何ら変わるものではないだろう(コストパフォーマンスなどの面では大きな違いがあるだろうけれど)。

趣味というのは最終的に、どこまでいけるか、が問題なのではないように思う。
その人が、自分がすきなことに何を見出すことができて、どんなふうに関わっていけるか、年月をともにしていくことができるか、なのだ。

時間をかけて、それとの関係をゆっくりと深めていくこと。
そのためには献身だって、地味で退屈な作業だって必要だし、さぼりたくなる心に鞭打つことも必要だ。
「趣味」を「趣味」として成り立たせるためには、「趣味だから」という言い訳は通用しないのではないだろうか。趣味の楽しみというのは、おそらくは献身の度合いに応じるものだろうと思うのだ。

鶏頭




2007-03-02:謎めいた部屋の話

いま知り合いの外国人が書いた小説の翻訳をしているのだけれど、まぁ本筋とは関係ないからここで紹介してもいいだろう。こんな部分があるのだ。

彼が荷物を取りに行っているあいだに、彼女はトイレに入った。謎めいた部屋から彼女が出てくるのを待ちながら、多くの男が不思議に思っていることを彼も考えた。なぜ女性というものは、いつも行く先々でトイレに消えてしまうのか。この部屋で彼女たちが過ごす長い時間は、彼にとっては永遠に不可解なことだった。男は入り、そして出てくる。女は入り、永久に消えてしまったのではないかと思われる。女性がトイレから出てくるのを外で待つために、いかに多くの時間を生涯で費やすかと考えると、不思議な気がした。

なるほど。
いずこも同じ、秋の夕暮れ、である(季節外れはわかっているのだが、どうしても「いずこも同じ…」とくると、「秋の夕暮れ」がついてきてしまうのだ)。
ショッピングモールに行っても、駅へ行っても、トイレの前にはお兄ちゃんたちが所在なさそうな顔をして、もしくは携帯を開くか、タバコを吸うかして連れが出てくるのを待っている。彼らはみな「不可解」な思いで待っているのだろう。

ところでわたしも女友だちとどこかへ行くと、どうしても先に出て、外で待ってしまう。
この短編では、彼女は唇を濃く赤く光らせて出てくるために、彼の方は、ああ、彼女は自分のためにわざわざ化粧直しをしてくれたのだなあ、と、うれしくなるのだけれど、お化粧なんてしない年代の頃から、やっぱり多くの女の子はどういうわけか時間がかかるのだった。

これまでの経験によると五人に一人ぐらいの割合だろうか、わたしと同じように、「入り、そして出てくる」子はいたのだ。そういう子が相手だと、待つ必要もなく、ふたりしてとっととそこを出て、つぎの場所に向かった。
この五人に一人は、五人に一人同士が出会うのでない限り、男の子に混じって外で待つ羽目になる。
わたしはいまだに五人に四人が何でそんなに時間がかかるのかよくわからない。

ところでこのあいだこんなことがあった。
わたしがトイレから出てくると、わたしのすぐうしろを歩いていた高校の制服を着た女の子が、外で待っていた同じ制服の女の子に声をかけた。
「お待たせぇ。でも、アンタ、いっつもトイレ早いなあ」
「そやねん。けどな、みんな何しててそんなに長いん? あたし、いっつも待ってばっかりやん」

やはり、いずこの五人に一人にとっても、男性と同じように、五人に四人が謎めいた部屋で何をしているかは謎なのである。
「永久に消えてしまうのではないかと思われる」ほど長くいらっしゃるマジョリティのみなさん、どうか何をしているか、コッソリ教えてください。

鶏頭




2007-02-25:言葉で話す(補筆)

今日電車に乗っていたら、ドアのところに高校生ぐらいの女の子がふたり向かい合って、楽しそうに笑い合っていた。よく見ると、手がひらひらと動いている。指が伸びたり、掌が波うったり、手は片時も休むことなく動き続ける。ふつうに話をしているとばかり思っていたふたりは、手話を使って会話していたのだ。

おそらくふたりとも相当に熟練した手話の遣い手なのだろう。笑顔になったり、目を見開いたり、相手の肩に手をかけたり、ときに身を折って笑い崩れたり、ふたりの指先は、それはそれは多くのやりとりをしているらしかった。

以前、女子プロレスラーへのインタビューをもとにした『プロレス少女伝説』(井田真木子 文藝春秋社)という本を読んだことがある。
かなり昔に読んだ記憶のまま書くのだけれど、そのなかに、小学生の頃に中国から日本にやってきた(親が中国残留孤児ではなかったか)、確か、天田麗文という名前の女子レスラーの話があった。
彼女は日本語もわからなくて、毎日TVばかりを見ていて、そのTVに出てきた女子プロレスにひかれ、そこからレスラーになったようなことが書いてあった。
そのなかで忘れられなかったのは、インタビュアーである筆者が、日本語より中国語の方が話しやすかったら、通訳を呼ぶけど、と申し出るのに対し、そう言われた女の子は泣き出してしまう場面だ。
自分は、日本語も十分に話せない。中国語も忘れてしまった……。

話をしようと思えば、話をする相手が必要だ。
TVを先生に言葉を覚えた彼女にとって、とりあえず、聞いて理解できる語彙としての日本語は身につけることができた。だが、話し相手がいないところでは、自分の気持ちを探り当てるための言葉も、共感する言葉も、あるいはケンカする言葉も、はぐくんでいくことはできない。
泣いている人がいる。
どうして泣いているの? と聞く人がいる。
悲しいから。何で悲しいの? そこから聞かれたほうは、自分自身に起こったことをふりかえり、自分の気持ちを伝えようと言葉を探す。

そこで使われるのは、辞書にも載っているありきたりの言葉だ。
けれども、そのありきたりの言葉を自分の内側から探し出し、自分に起こったことと、気持ちに結びつけながら送り出す。そうして受け手は自分の経験と結び合わせながら、具体的な像を脳裏に描く。そうして、本来ならありきたりで抽象的な言葉が、具体的な出来事を共有させるのだ。そうやって、言葉は話し手と聞き手を結びつける。

そういう経験を持たなかった彼女にとって、言葉はどこまでいっても「ありきたり」のものでしかなかった。
どこまでいっても自分に結びついていかなかったのだ。
自分に結びつく言葉、自分に起こったことを説明し、自分の気持ちを説明する言葉。それは、その言葉を受け止めてくれる人がいないところでは、育ちようがない。彼女の孤独というのは、そういうことだ。それを読んだわたしは胸がつまるように思い、その箇所だけ、異様にはっきりと記憶している。

わたしたちはふだん、当たり前のように言葉を使っている。無色透明の道具のように、自分が何かを言えば、通じることの不思議さを思うこともなく、あるいは、自分の気持ちと言葉のどうしようもないずれをもどかしく思うようなことも、例外的な場面を除いては、ほとんどないのかもしれない。

けれど、話ができるということは、受け手がいるということなのだ。
わたしの話を聞いてくれる人がいる。
わたしの話を理解してくれる人がいる。
だから、わたしも話ができるのだ。
それは、わたしとあなたが同じ言葉を使っているということだ。
これは、考えてみると、すごいことだ。

わたしひとりの内にとどめておいたままの経験は、わたしが忘れてしまうと、それっきりになってしまう。それでも言葉を使って書きつけたり、残しておいたりすると、たとえもう二度とそのことを経験することができなかったとしても、わたしはまたそこに戻ってこれる。人に伝えると、そのわたしだけの経験を、共有できることになる。
言葉がわかって使えるというのは、それだけで孤独ではないということなのだろう。

ときどき、それがどれだけすごいことか、忘れてしまいそうになる。
日本語を使うのに慣れすぎて、粗雑に使っているんじゃないだろうか。
書くとか、読むとかのことを考える、なんていいながら、あの、手話で話していた女の子たちのように、喜びを持って使っているんだろうか。

鶏頭




2007-02-23:あがる話(補筆)

中学・高校時代、毎年、教育実習生がやって来る時期があった。
こちらは毎年のことなので、「教生」にもすっかり慣れているが、向こうは初めてである。もうオトナとコドモ(つまり中学生が教生慣れした「オトナ」、初心者である大学生たちが「コドモ」)ぐらいの差があって、後ろでクリップボード片手に授業を見ている教科担任と同じく、わたしたちも「教わる」のではなく、評価してやるぐらいの気分だった(なんて生意気な中学生たちだ!)。

緊張している教生は多かった、というか、例外的にまったく緊張していなさそうに見える人を別にして、たいていが隠す余裕もなく、緊張のさまを剥きだしにしていた。
声がうわずっている人、汗をやたらかいている人、咳払いばかりしている人もいたし、生徒がまったく見られない人もいた。なかにはせっかくジョークを仕込んできたのに、オチを先に言われてしどろもどろになってしまった人もいた。

なかには見ているこちらが正視しにくくなるほど、あがっていた人もいた。
顔面蒼白で、指がわなわなと震えるのが止められない。声も震えてビブラートがかかってしまっている。自分でもなんとかしなければ、という焦りがあったのだろう、それが事態をいっそう悪化させているらしかった。最初はうぶな教生をおもしろがっていた生徒たちも、だんだん気の毒になっていったのだった。

確か化学の授業だったのだと思う。だからおそらく高校のときだろう。実験に使う金属ナトリウムを小型ナイフで切ろうとして、あまり手が震えるので切るに切れない。自分でも「アルコールが切れたみたい」と冗談を言おうとするのだが、痛々しいというかなんというか、誰も笑うどころではなく、結局教科担任が前へ出てきて、小さく切っていったのではなかっただろうか。

彼にしてみればその五十分はどれほど長かったことだろう。おそらくわたしたちが受けたのが、彼にとっての初めての授業だったのだろうが、それ以降はどうだったのだろう。二回目を受けた記憶がないのだが、つぎは記憶に残るような失態もなく、単にわたしが忘れてしまっただけなのかもしれない。

そうして、こんどはわたしの方が人前で話す側に回った。
塾のバイトを始めて、いつも十五人程度の小・中学生を相手にすることになったのである。そうなると、やはり緊張する。震えたりすることはなかったけれど、やはり通常の精神状態ではいられない。突然、何を言って良いかわからなくなってつまったりしたこともあるし、準備してきたはずのことが半分もいかない内に終わってしまって、立ち往生したことも、逆にどうしてもその時間内で消化できないこともあった。そういう経験から、いつも時間をかけてしっかりと仕込みのノートを作るようになった。逆に緊張するからこそ、準備もできるし、そのための勉強もできるのだ。

単に人前で話をするだけではない。舞台の上にあがるとなると、いったいどれほど緊張することだろう。

以前、アメリカ人ダンサーの知り合いがいたのだけれど、この人は舞台が始まる前になると、神経過敏になってちょっとの物音でも飛び上がる。さらには指先が一種のチックのように、ひきつったような震え方をするのだった。舞台では先ほどまで震えていたのが嘘のように、ダイナミックに踊るのだけれど、よく見ると、やはりときおり、しゃっくりのように指は変な動きを続けていた。
その状態は、舞台を下りても続く。その人が言うには、舞台があるときは、夜もなかなか眠れない、ということだった。あがりきったテンションは、クールダウンするにも時間がかかるということなのだろう。

大勢の目にさらされることで、緊張感を高めていき、その結果、パフォーマンスの質は、練習場にくらべてはるかに高いものになっていく。いわゆる「平常心」では決して不可能なパフォーマンスが可能になっていくのだろう。

おそらく人前に立つと、さらに舞台に上がるとなると、誰もが「あがる」のだろう。
声も、話し方も、さらには話をする内容までも、ふだん、仲間うちで何の緊張感もなく話すこととはちがってくる。
自分を見るいくつもの目にさらされながら、ひとこと、口にするたびに評価にさらされながら話す。好意的な視線ばかりではない。あらをさがしてやろう、揚げ足をとってやろう、と待ちかまえている生意気な子供、込みいってくるととたんに集中力を欠き、おしゃべりを始める子供たち、あるいは大人だって間断なくおしゃべりを続けている人もいれば、居眠りを始める人もいる、携帯の着メロが突然鳴り始め、あろうことかメールを始める人。
そのなかでする話は、親しいあいだでのおしゃべりとはちがって、不可避的に一種の公共性を帯びる。

ひとりよがりの見方をしていれば、たちまち突っこまれるだろうし、安易な結論は論駁される。自分しかたどれない迷路に陥った話は、整理整頓が必要だし、話の構成や緩急も気を配ることが必要だ。
そうして、おそらくその〈場〉で、ふだんとはちがう〈もうひとりのわたし〉が生まれる。
この〈もうひとりのわたし〉の登場によって、わたしがふだん頭の中で自分と対話しながら作り上げていった内容は、一種の公共性を帯びたものになっていく。他者の眼という評価を受けながら、より外に向けて通用するものと鍛えられていくのだ。
その〈もうひとりのわたし〉は、おそらく緊張しているだろうし、手に汗もかいているかもしれない。それが「あがる」ということなら、どれだけ場数を踏んだ人でもあがっているのだろう。
けれども〈もうひとりのわたし〉の登場によって外に持ち出された話は、自分の内側にあったものとは格段の強度と精度を持っているはずだろうし、そうでなければならないと思う。漠然と内側にあるような気がしているものを、公共性を持ったものにまで高めて行くには、「あがる」というプロセスは、必須なのだろうと思う。

あがった、シマッタ、なんとかしなければ、ではなく、だれでもみんなあがるんだ、あがるから、ちゃんとした話ができるんだ、という気持ちさえ忘れなければ、どうにかなる。
これもわたしが何度もあがって、何度も失敗したなかから見つけていったことだ。
あの手をわなわなとふるわせていた教育実習生も、きっといまごろはいい先生になって、クリップボードを持って教室の後ろに立っているのかもしれない。

鶏頭




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