このところずっと知り合いの小説の翻訳をやっているのだけれど、まぁほんとうに何も起こらない小説で、何も起こらない、というのがどれほど大変なことか、改めてよくわかった。
歩き(延々と風景の描写)、女性に会い(延々と女性の描写)、美のはかなさに思いいたり(延々と考察が続く)、女性に声をかけるかどうか逡巡し(延々と心境が語られる)……、こういうことが同じペースで牛のヨダレのように続くのである。もう美人を連ねる形容詞も種切れになってしまった。ほとんど『美味しんぼ』の世界なのである。
【コメント欄から】
2007-04-08:体調はいかがですか(ゆふさん)
ということが言いたかったのですが、それだけではなんなので、以下余談(笑)
最近、村上春樹訳『グレート・ギャツビー』を読んだのですが、村上さんがあとがきでこんなことを言ってたんです。
(『グレート・ギャツビー』は村上さんにとっての「ナンバー1」なんだけれど、『グレート・ギャツビー』のどこがそんなにすごいんだと言う人がいることに対して)
「『グレート・ギャツビー』はすべての情景がきわめて繊細に鮮やかに描写され、すべての情念や感情がきわめて精緻に、そして多義的に言語化された文学作品であり、英語で一行一行丁寧に読んでいかないことにはその素晴らしさが十全に理解できない、というところも結局はあるからだ。」
だから、元の英文の魅力を伝えるべく精一杯の努力をして翻訳した、という話ではあるのですが、それにしても訳者自身からこう言われてしまうと、翻訳された小説を読むというのはどういうことなのかな、と。翻訳された小説を読んで、感動したり、おもしろかったりしたところで、それは元の作品の魅力のどれほどを理解したことになるんだろうか、と。
そんなことを漠然と(あくまでも漠然と)思っていたところに、「ボランティアの悩み」を読んだので、ちょっとコメントしてみました。
ということで、正式?な質問ではございません(笑)。
では、お大事に。
2007-04-10:翻訳は何を伝えるか(陰陽師)
ゆふさん、こんにちは。
溶連菌のほうはもうすっかりいいのですが、喘息の方があまり芳しくなく、いまは少し強めの薬を飲みながら、発作がでないようにしている状況です。
ただね、ほんと、この薬を飲んでいると、頭にもやがかかったみたいになって、詰めて考えられない。最近のログがやたらぬるいのはそのせいです(ということにしておこう)。
ただ、こればかりはどうすることもできない。なだめながら、うまくつきあっていくしかありません。
さて、『グレート・ギャツビー』なのですが。
あの『ライ麦畑…』は新訳が必要、というのはよくわかるのだけれど、『ギャツビー』に新訳が必要だったのかな、とわたしはちょっと不思議。
『ライ麦畑…』ともに、村上訳は読んでません。
実は村上春樹の小説、わたしは読んだことがないんです。
十代の頃、読もうとして、どうしても読む気になれなくて、以来、カーヴァーの翻訳は読んだけれど、それ以外は距離を置いてます(笑)。サイトのほうの「子供のいる風景」(でしたっけ、似たようなタイトルが多いから自分が書いててわかんなくなる)でも批判的な引用の仕方をしているのだけれど、まあ、あんなふうな距離感(笑)。
たとえば、サリンジャーの『ライ麦畑…』は話し言葉に聞こえるような語り口を選んで、読み手はティーンエイジャーのおしゃべりをそのまま聞いているように思えるけれど、それはサリンジャーの技巧を凝らした文体である、ということは、たいていの解説書に書いてありますが、英語を母語としないわたしたちには、どこまでいってもそういうものはわかりません。
野崎さんの日本語も、どう考えてもティーンエイジャーのおしゃべりには聞こえない。みょうに読んでいて居心地が悪くなる。村上さんがどういうふうに処理されているのかは知りませんが。
話し言葉を模した書き言葉がうまいのは、太宰治です。
太宰治の『女学生』なんか、あの年代の女の子特有の、荒っぽさ、みたいなものまでがいきいきと表現されていて、もちろん表現なんかは多少ちがっていても、いま読んでもまったく違和感がない。
なんでこの人、こんなに女言葉がうまいんだろう、って思います。
こういう部分はふつうに翻訳していちゃ絶対に伝わらない。
だから、いろんなふうに工夫する。翻訳家が一種の創作家、あるいは詐欺師と言われるゆえんはその点にあります。
それでもね、『女学生』を読んで、語り口のおもしろさを楽しめる、というのは、あるていど、本を読むことに慣れている人に限られるでしょ?
たとえば本をほとんど読んだことがなくて、あるいは本を楽しむ、という習慣がない人だったら、え? これ何が書いてあるの? とか、作者は何が言いたかったの?(笑)、とか、ということになる。
つまり、日本語であれ、翻訳物であれ、「一冊の本からどこまで楽しみを引き出せるか」に関しては、結局は読み手次第であることには変わりないんです。
あるいは描写にしても、それがどういう意味を持っているのか、文化的なバックグラウンドを共有しなければ理解できない。
たとえば『ギャツビー』でも、語り手のニック・キャラウェイが見聞きする風景、これはすべて、ギャツビーのイメージを浮かびあがらせるために働いています。
車も、通行人の服装も、通りの様子も、音楽も、すべてひとつのイメージを逆に焦点化するために配置されている。
ところが1920年代の風俗をただ知っているだけではなくて、その風俗が持つ記号的な意味を理解しない人に対しては、そういう描写はフィルターの役目は果たせません。
同じ日本人の書いたものでも、夏目漱石の『門』に出てくる崖下の家にどういう意味があるのか、いまのわたしたちにはよくわからないですよね(もしこの点に興味がおありでしたら前田愛『都市空間のなかの文学』をぜひ)。
つまり、ここでもまた「読み手次第」ということになってしまいます。
アリストテレスは『詩学』のなかで、悲劇の根本は「筋(ミュトス)」にある、としました。そのなかで、悲劇は、人間の性格なしでも成り立つが、行為なしには成り立たない、としています。
逆に、性格や思想をいかに言葉巧みに記しても、「筋」や「出来事の組み立て」を除いては、悲劇は成り立たない。
悲劇のもっとも感動的な部分は「逆転」と、「発見的認知」(つまり知らなかった状態から、知ることによって、愛したり、憎んだり、と変化すること」にある、としています。
何よりも物語の根本にあるのは、この「筋」、「筋」とはなにかというと、「変化」だと言っている。
どんな小説でも、根本にあるのは「物語」です。初め−中−終わりを持ち、行為があり、行為を通じて変化がある。そうして、この部分は翻訳によっても伝えることができる。
だから、翻訳というものが昔から続いてきたわけです。
やはり、物語の根本の、筋というのは、どのような語り口をとったとしても、伝えることはできる。
子供だってシャーロック・ホームズのおもしろさは翻訳で十分に理解できますし、たとえロンドンの文化的バックグラウンドを何も知らなくても、逆にそこから雰囲気を知っていくことができる。
読みながら、読み手として成長していくことができるわけです。
筋のおもしろさは、E.M.フォースターなんかは「低級な娯楽」と半ば冗談でいっていますが、そこは翻訳であろうがなんであろうが、伝えられる。
そこからが問題なんですね。
原文で読む語学力があったって、「読む力」はまた別だ。
たとえば描写からギャツビーを焦点化させていくような読み方ができるようになるまでは、ある程度スキルを積んで行かなきゃなりません。もちろん語学の力もあったほうがいい。けれど、それは要素のひとつなんだと思います。
だから、こういうのは将棋と一緒で。
ルールはルールブックを読んでいるよりも、実際にやりながらのほうがよくわかるでしょ。
最初、教えてくれる人がいてさえすれば、やりながら、少しずつルールを覚え、将棋というもの自体を学び、少しずつその世界を知っていく。やること=知識を深めること、なんですね。
ほんとうに楽しもうと思ったら、定石だって覚えなくちゃならないし。
将棋からどれだけ楽しさを引き出せるか、というのは、やはり指し手の力量次第。
それと同じで結局は、読み手に応じてしか、読めないってことだと思います。
『ギャツビー』はね、デイジーが魅力的とはいいがたいから、ラブストーリーとして読んじゃうと、ちょっとつらいかもしれない。
だけど、自分の痕跡を隠そうとする語り手、ニック・キャラウェイに焦点をあてながら読んでいくと、またちがったおもしろさがあります、とわたしは思っています。
書きこみ、どうもありがとうございました。
また何か読んだら、お話、聞かせてくださいね。