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鶏的思考的日常 ver.13〜人は城、人は石垣、人は鶏 編〜




2007-04-26:“ピー”の話(ちょっと補筆)

今日の話は18歳未満の青少年のみなさんには不適切な内容が含まれています。

・あなたは18歳以上ですか?
・その手の話に寛容ですか?
・期待したほどの内容でなくても怒ったりしませんか?

以上三点に同意してくださる方のみ、本文にお進みください。


* * *

ところで、いわゆる "F" で始まるフォー・レター・ワーズが出てくると、どういうふうに訳そうか、ほんとうに困ってしまう。

元の意味はもちろん、日本語の「お」で始まる四文字言葉になるのだが、その日本語はわたしにとって、ひどく実感(?)をともなわない言葉なのである。

その日本語を初めて知ったのは、野崎孝訳による『ライ麦畑でつかまえて』のなかでだった。主人公のホールデンが壁に書かれた落書きの「お(以下略)」を見て、フィービー(妹)の目に入ったらどうするんだ、と憤るのだ。
そこを読んだ瞬間、わたしは高架のコンクリの柱に、油性マジックで書かれていたその言葉をハッと思いだした。
それまで何度となく目にしていたはずなのに、おそらくマリコあたりの名前を悪し様に言うときの呼称ぐらいにばくぜんと考えていたのだと思う。
それがそのときになってどうしてわかったのかわからないのだけれど、『ライ麦…』のその言葉が指す意味をはっきりと理解したのだった(名称と行為のどちらを指すのだろう、という疑問は残ったが)。

わたしはこの日本語が発音されるのを、未だに聞いたことがない。
そういう言葉だということは理解していても、いやらしいとも感じないし、わたしのなかでまったく意味を結ばない。ただ「不適切な言葉」として認識しているだけだ。

英語のフォー・レター・ワーズのほうは、もはや元々の意味はほとんど残っていないような気がする。ただ会話に衝撃というか汚い印象を与えるための、一種の装飾音符のようなものではないのだろうか。

以前、とあるアメリカ人に "F***" は日本語でどういう意味? と聞かれたことがある。
どういうこと? と聞き返したのだが(ああいうことだったらどうしよう、と思いながら)、向こうずねをぶつけたときなんかにさ、言うだろ、そんなときになんていうの、と言うので、ちょっと安心して、それなら「クソッ」て言えばいいよ、と答えておいた。
すると相手は「クソッ」ていうのは、汚い言葉か? と聞くのである。
うん、汚い言葉だよ、と言ったら、相手はそれはそれはうれしそうな顔をして、やっぱりキミに聞いて良かったよ、ほかの日本人は「イタイ」とかそんな言葉しか教えてくれないんだ、と言って、ボクは汚い言葉が知りたかったんだ、と言って「クソッ」、「クソッ」と練習していた。
「クソッ」は"F***" ではなく"Shit !" に対応する言葉かもしれないと思ったが、それ以外に適切な言葉を思いつかなかったのでしかたがない。

やがて彼は左手の親指とひとさし指を丸めて O.K.のポーズを取った。
“もちろん"F***" はもともとはこういうこと(その輪のなかに、右手の人差し指を出したり入れたりしながら)だったんだけどね、いまではイヤなやつに会ったり、ムカつくことがあったりするときに使うんだよ。”
もちろんわたしはそんなことは知っているので、その手はやめてほしいとお願いしておいた。

ところで発音を記憶するというのは、場面・状況と結びつくことが多い。
わたしはそのとき初めて"F***" という単語が発音されるのを聞いたので、"F***" という単語を目にするたび、いまだに雨がふる薄暗い夕方、ショッキングピンクとクリーム色のプラスティックの椅子に蛍光灯が白々と反射するダンキン・ドーナツで、向かい合ってすわった相手が、くちびるに軽く歯を当て、鋭く "F***" と発音した、その音声を思いだす。

そんな単語はほかにもある。
こんなジョークを教えてもらったのだ。
ある男性がガールフレンドの名前 "Wendy" をある場所に刺青してもらった。ふだんは"W" と "y" しか見えない。
あるときトイレで用足しをしていて、隣の男性が自分と同じ"W" と "y" いう刺青をしているのが目に入った。
そこで彼は言った。「キミのガールフレンドは"Wendy" っていう名前なんだろう?」
すると相手はこう聞き返した。「何でそんなことを言うんだ?」
そこで説明をすると、相手は笑いだした。「オレのには "Welcome to New York ! Have a nice day" と彫ってあるんだ」

実はわたしはこのジョーク、エド・マクベインの87分署シリーズのなかで、「SWAN」と「SASKATCHEWAN(サスカチワンはカナダの地名)」というバージョンで知っていた。だがわたしはその話を聞いて、目からウロコの感動を覚えたのである。そのとき初めて "p" で始まる件の箇所の発音を耳にしたのだ。
おおっ、そういう発音だったのか!
それまで日本語のカタカナ表記と同じ発音だとばかり思っていたのだ。この話を聞かなければ、一生(?)まちがった発音で理解していたところだった。まったく手を合わせたくなるほどありがたい話である。
ただ、その単語をわたし自身が発音する機会は、一生めぐってこない確率の方が高そうなのだが。

ちょうどいまと同じ季節、明るい日差しが差しこむ昼下がりのロイヤルホストで発音された"p"で始まる五文字の単語、ちょっと照れくさそうに小さな声で早口に発音されたその単語は、その人の声でいまでもしっかり耳に残っている。
ボタンダウンのシャツの白さと一緒に。

鶏頭




2007-04-24:秘密の話(加筆)

先日、こんなことを言う人がいた。
「わたしは口が堅いから、みんなわたしを信頼してくれて、ほかのだれにも言わないようなことでも、わたしにだけは打ちあけてくれるの」

これを聞いて、わたしは思わず笑いそうになったのだけれど、そうでなくても狭い世間をこれ以上狭くすることになりそうなので笑うのはやめて、「なるほど、そうなんですか」と当たり障りのないことを言っておいた(いま気がついたのだけれど、わたしはどうでもいい話だ、と思ったときに「なるほど」と相づちを打つ癖があるみたいだ。なるほど)。

わたしがおかしくなってしまったのは、この人を仮にAさんとすると、「Aさんは口が堅い」と「みんながそれを知っている」というふたつの命題は、根本的に相反するものであることに、Aさんがまるっきり気がついていなかったからだ。

AさんにBさんが秘密を打ちあけた。
Aさんは口が堅いのでそのことを一切外に漏らさなかった。

と、ここまでで終わってしまえば、Aさんの口の堅さは誰も知ることができない。「みんなが知る」ためには、それを知らせる人の存在が不可欠だ。となると、Bさんが言ったのか?
「あのね、Aさんってほんとうに信頼できる人よ。わたしが秘密を打ちあけたのだけれど、だれにも漏らさないでくれたの」と、Bさんがみんなに言って歩く?
おそらくそうではあるまい。おそらくはAさんみずから、わたしに言ったように、あちこちで「わたしは口が堅いから……」と言っているのだろう。

そこでわたしのようにひねくれていない人は、ああ、そうなのか、と安心して秘密を打ちあける……のかどうかは知らないけれど、ともかく、ほんとうに口が堅い人は「秘密を打ちあけられる」ということさえ言わないはずだ。ということはつまり、その人が口が堅いかどうかは、実際のところ誰にもわからないのである。少なくとも「みんなが秘密を打ちあけてくれる」ので有名な人は、「口が固い」などとは呼べないだろう。

実際、「秘密」というのはおもしろい。その内容ではなく、「秘密」という情報のありようがおもしろいのだ。

「秘密」を聞いたら、どうして人にしゃべりたくなるのだろう。
それは、自分はほかの人が知らないことを知っている、ということを、ほかの人に知ってほしいからだ。

「わたしはあなたが知らないことを知っている」ということは、「わたし」を「あなた」より優位に置く。この優越感は、自分一人が密かに楽しむだけでは物足りない。「あなた」に認めてほしい。だから、「わたしはあなたが知らないことを知っている」と相手に告げずにはいられない。
「わたしね、Bさんの秘密を知ってるの」
相手の驚いたような顔。この顔が見たかった。
「何? 何? 教えて!」
ところがこれを打ちあけた瞬間、秘密は共有されて「わたし」の優位性は消滅する。
だから、この優越感を味わうためには、つぎなる標的を探し、もういちど「わたしね、Bさんの秘密を知ってるの」と言うことになる。
かくして秘密は秘密でなくなるわけだ。
そういえば昔は「金棒引き」なんていう言葉もあった。

さて、これが「秘密」取り扱い初心者の行動であるとすると、中級者は、情報を開示しないまま自分が情報を持っていることをそれとなく周囲に知らしめようとする。
意味ありげな目つき、ほくそえみ、いかにも「わたしは知っている」という仕草。けれどもこれも度が過ぎるとその人の人間性が疑われる。
あくまでも「いい人」のままで「わたしは知っているけれど教えてあげない」ということを伝達しようとするには、どうしたらいいか。
それが冒頭のAさんの「わたしは知っているけれど、口が堅いので教えられない」という言明になるわけだ。
やがて、いったい何を知っているのかだれもよく知らないが、それでもいろんな人の秘密を握っているらしい陰の実力者(?)として、情報取り扱い上級者はまつりあげられる、かどうかも知らないが。

だが、考えてみると「秘密」というのはよくわからないものである。
「秘密」はあくまでも情報の一種だ。
それでも「ペルシャ語でスイカはヘンダワネという」ということは、たとえ多くの人が知らなくても、秘密とは呼ばない。
逆に、クラスの全員が「担任のB先生は禿げていて、カツラをかぶっている」ことを知っていても、公然と口にすることが憚られる場合、それは「秘密」ということになっているのかもしれない。

B先生が病欠した。
「知ってる? B先生は腰を痛めて、ベッドから起きあがれないんだってさ」
これは情報で、秘密ではない。
「知ってる? B先生は wii テニスのやりすぎでぎっくり腰になったんだってさ」
これは秘密になる。
さらに、「B先生は wii テニスばっかりやって奥さんの話をちっとも聞かないから、怒った奥さんに蹴っ飛ばされて、それで腰を痛めたんだってさ。なのにぎっくり腰、とか言ってるの」
これは立派な秘密となって、学校中を駆けめぐる。
こう考えていくと、「秘密」というのは、単なる情報ではなく、知っている人間の数によるのでもなく、ある特定の情報を、わたしたちが「秘密」に分類するのだ、ということがよくわかる。
「秘密」というグレードに昇格できる情報というのは、その伝達に関与する人間の判断で決まっていくのである。

そうして「知らない人もいる」ということが、この「秘密」の価値を高めていく。多くが知ることになれば、「秘密」は価値を下げる。だが、「秘密」の価値を決めているのは、この需要と供給のバランスだけではない。だれも興味を持たない人の「秘密」は価値を持たない。それを聞きたい人がいて、さらに、人に聞かせたいと思う人がいる情報のみが「秘密」の地位に昇格する。

なぜ、「知らない人がいる」「みんなが興味を持っている」ことが「秘密」の価値を高めるのか。そこにはエネルギー保存の法則が働いている。
「秘密」というのは、聞いた人からさらにつぎの人へと動いていかなければ、死んでしまうのだ。口が固い人がいて、そこから先へいかなければ、そこで「死んで」しまう。
全員が知ってしまい、もうそれ以上動きようがなくなってしまえば、やはりそれも「死んで」しまう。
みんながそれに興味を失い、飽きてしまって、途中から動かなくなってしまえば、やはり「死んで」しまう。
泳ぐのを止めると死んでしまう回遊魚のように、人の口から人の口へ、動き続いていなければ、「秘密」は「秘密」ではなくなってしまう。
だからこそ、これから先、よく動いていくことが予測される秘密は、大量のエネルギーを保持したものとして、高い位置にあるのだ(怪しげな説明だなあ…)。

「秘密」を聞いておもしろいと思った人は、今度は逆に、送り手となる。そうして今度はその秘密を生き続けさせるために、できるだけ工夫をこらして、自分なりにエネルギーを付加して送り出す。こうやってつぎからつぎへと人を巻きこんでいく「秘密」は、途中で止めようと思っても止められるものではない。いったんその流れに乗ってしまうと、個人の思惑を超えてしまい、もうそうなると、みんなが知るか、みんなが飽きるのを待つかしかない。

別に「秘密」のやりとりはやめよう、と言っているわけではない。人の秘密をこっそりと別の人にバラして、一緒に笑い合うのもたまには楽しいだろうし、高級な趣味ではないにしても、こうしたちょっとしたスパイスは日常生活には必要だ。
ただ、わたしたちは、「送り手」になるときは、この「秘密」にも賞味期限があるのだ、やがて全員が知るところとなって、あるいは誰もが興味を失って、その価値を失うのだ、ということをわきまえておくべきだろう。「秘密」のやりとりに加わる人は、その延命に加担する。やりとりされるのが、自分の秘密や自分の大切な人の秘密であっても、同じことができるかどうか、それは一応考えてみた方がいい。

わたしたちは輪になって踊り、想像する。
でも、『秘密』はまんなかにすわって、知っている。

ロバート・フロスト「秘密はすわる」
鶏頭





2007-04-14:朝の飲み物(ちょっと補筆)

朝起きて、まず初めに部屋の明かりをつける。
ずいぶん日も長くなったけれど、それでも五時前の外はまだ暗い。
それからパソコンの電源を入れて、お湯を沸かす間に簡単な身支度をすませる(本式なのは出かける前)。
たいていそのころにお湯が沸く。

朝、一番に何を飲むか。

それはその日の気分次第だ。
少し前、体調を崩していたころは、たいてい無印良品で買った「はちみつ柚」を飲んでいた。そのころはとにかく食欲がなかったので、これに含まれる糖分で少しでもカロリーを補給しようと思ったのだ。甘酸っぱい味が口に合って、以前ディズニーランドで買った、おおぶりのマグカップにたっぷり作って、時間をかけて飲んでいた。そうするうちに、次第に身体も温まって、エネルギーもゆきわたり、なんとか一日を始めることができそうなところまで持っていけた。

たいていのときに飲むのは焙じ茶だろうか。
焙じ茶というのは、煎茶などにくらべてずいぶん安いので、お茶屋さんで大きな袋入りのを買ってくる。急須として使っているのはアラビアのティーポットなのだけれど、急須よりも使い勝手がいいような気がして、いつもこれを使っている。500mlほど入るティーポットに、少し多めに焙じ茶を入れて、これまた例のマグカップで飲む。

まぁ生きていればいろんな日があるもので、体調が悪くなくても、起きるのが辛い朝もある。
そういうときは、濃い目に入れた紅茶に牛乳を入れてミルクティ。

以前、A.E.ホッチナーの『涙が流れるままに―ローリング・ストーンズと60年代の死』という本を読んだ。
ホッチナーというと、アーネスト・ヘミングウェイを描いた『パパ・ヘミングウェイ』が有名だけれど、これはトルーマン・カポーティもさんざんにくさしているように、妙に腰が引けていて、あまりおもしろいものではない。同じヘミングウェイを描いたものなら、毀誉褒貶はあるにせよ、リリアン・ロスの『パパがニューヨークにやってきた』の足下にも及ばない。だがこのストーンズのノンフィクションはおもしろかった。

サブタイトルの「60年代の死」とは、ブライアン・ジョーンズのことを指している。
筆者のホッチナーは徹頭徹尾、ブライアン・ジョーンズの側に立って、破滅型の天才ジョーンズ対冷静なプロモーター、ミック・ジャガーという図式でストーンズの歴史を描く。メジャー・デビューする前のミック・ジャガーが会計士の勉強をし、バンド活動後の生活をつねに見越していたところなどを手始めに、彼の計算高さをクソミソにこきおろしている部分が随所に見られ、ここだけはカポーティの評価とホッチナーの認識は、完全に一致しているのだった。

ともかくそのなかに、デビュー前のストーンズが共同生活をしているころのエピソードが挿入されている。紅茶と砂糖はミック・ジャガーの実家から送られてきていた。だが、牛乳がない。そこで彼らは朝、配達される時間がくると、近所に牛乳を盗みに行ったらしいのだ。
ストーンズと牛乳、という取り合わせがおかしくて、読みながら笑ってしまった。

イギリス人というのは、たとえロックをやっていようがどうだろうが、紅茶に牛乳と砂糖はいれなければならないものらしい。
一緒にこんなことも思いだした。

以前、英会話教室でバイトをしていたころのことだ。
ふだんの授業ではそんなものは出さないのだけれど、特別の集まりのようなときには、生徒に対しても、紅茶かコーヒーを出す。どういうわけか、日本人の生徒、多くは中年の女性だったのだが、紅茶にしてもコーヒーにしてもストレートで飲むことが多かった。小さなコーヒー・フレッシュのポーションやスティックタイプのグラニュー糖を添えて出しても、ほとんど手をつける人はおらず、いつもそのまま回収した。
アメリカ人の講師は「紅茶、キライ」という人が多くて、たいていは薄目のインスタントコーヒーをブラックのまま飲んでいたけれど、イギリス人の講師は、かならず紅茶にコーヒー・フレッシュと砂糖を入れ、ストレートで飲む日本人を奇妙な目で見ていた。
そうしてある日、わたしに聞いたのだ。
「日本人は紅茶に何も入れないが、それは緑茶に何も入れない習慣からくるのか?」
わたしは、おそらくそうではなく、ダイエットに関連する理由ではあるまいか、と答えたのだが、そう聞いたイギリス人は、自分の説の方が正しいと思っているようだった。

だが、ジョージ・オーウェルは『一杯のおいしい紅茶』という本の中で、紅茶の入れ方について念入りに書いていて、そのなかでは、砂糖は入れずに一度試してみると良い、きっとそれが気に入るはずだから、と言っていた。
実際、オーウェルのとおりにいれてみた紅茶はおいしくて、以来、牛乳だけを入れることにしているのだ。
だが、起きるのがきつい朝には、やはり甘みがほしいような気がする。
スプーン一杯の砂糖、というより、もう少し効きそうなメイプル・シロップを。
ひと瓶、700円くらいするメイプル・シロップなのだが、このときのために冷蔵庫に入っているようなものだ。

ティーサーバーで入れた濃いめの紅茶に牛乳。そうしてひとさじのメイプル・シロップ。
それでわたしの朝も何とか動き出す

鶏頭





2007-04-13:引き延ばされた子供の時間

いま「芸術家たち」の書き直しをせっせとやっているのだが、『人間失格』を読み直しながら、ふと変なところが気になった。

主人公の大庭葉蔵は、上京する父親におみやげに何がほしいかを聞かれて、答えることができない。もじもじするばかりで父親に興ざめ顔をさせてしまい、大変な失敗をしたと夜になって後悔する、という場面があるのだ。

わたしはこの本を最初に読んだのが中学二年だったのだが、この「何が欲しいと聞かれると、とたんに、何も欲しくなくなるのでした」という心情が、ものすごくよくわかるように思えたのだった。

だいたい十代の子供が『人間失格』に引かれるのは、おそらくこの「世間を偽っている」という感覚、ほんとうの自分はみんなに見せているのとは別のところにいる、という主人公の感覚に、共感を覚えるからではないのかと思う。
わたしは当時、もう少しすれていたので、こういうところがみんな好きになるのだな、と思いはしたけれど、共感を覚えるというのとは少しちがった。そのころから、占い師になるとしたら、「ほんとうのあなたは、人前でふるまっているあなたとはちょっとちがいますね」と言えば、絶対にみんな「当たる」と思うにちがいない、といったことを考えていたのだから(ああ、わたしは十四歳の頃からちっとも進歩していない……)。

だが、おみやげを聞かれて答えに窮し、何もほしいものなどない、本ぐらいでいい、という場面だけは、自分が小さなころ、繰りかえし経験したことだったので、自分以外にもこういう人がいたんだ、と思ったのだった。

進歩はともかく、そのころからいくぶん成長したいまの時点から考えるに、おみやげを聞かれて「××がほしい!」と即答できる子供というのは果たしてどれほどいるのだろう。逆に、たとえば上京のたびにお父さんが舟和の芋ようかんを買ってきてくれて、それが楽しみだったというのはよくわかるのだけれど、子供のほうからそういうことをねだるものなのだろうか。せがむためには、まずどんなものがあるか知っていなくてはならないし、さらに自分がほしいものを知っていなければならない。そんな子供など、現実にはあまりいないのではあるまいか。

確かにいまの子供は、クリスマスプレゼントに wii のゲームがほしい、とか、超合金合体ナントカカントカがほしい、とか言ういけれど、それはコマーシャルなどでそういう情報をインプットされているからだ。クリスマスが近づいてくると、テレビでは関連したコマーシャルがこれでもか、と流れ、ショッピングモールには特設コーナーができて、そういうおもちゃが山積みにされる。だがそれは、子供たちがほしがっているから積まれているのではなく、そうやって、みんな持ってるよ、みんなこれで遊んでいるよ、という情報をせっせと送りこんで、半ばむりやり玩具メーカーの側がそんな気持ちを起こさせているのだろう。

多くの子供は、確かにおもちゃが目の前にあると、ほしいような気がしてくるだろうが、ほんとうにそれで遊ぶか、三ヶ月、半年、一年と遊び続けるかどうか、それはわからない。
おもちゃなんて、しょせんそのくらいのもののような気がする。
子供にとって必要なのは、自由に走り回れる広場と砂場、それと水、せいぜいが穴を掘るためのスコップやボールや縄跳びの縄、あとは紙とクレヨン、粘土、本ぐらいなものではないだろうか。

ただ、いまは大人向けとしか思えないようなおもちゃが、市場の少なからぬ割合を占めているように思える。たとえばガンダムのプラモデルやリカちゃん人形の高額のアイテムなど。子供が買って楽しむというより、大人をターゲットにした「おもちゃ」であるように思うのである(こんな書き方をすると、変なトラックバックがいっぱい来そうだが)。

確かに子供の絶対数が減って、かつてのお得意さまだった子供が成長しても、お得意さまであり続けるような商品を開発している、という側面もあるだろう。
それでも、いまではゲームをやっている大人は、子供より多いかもしれないし、四十代の男性が「少年ジャンプ」を電車の中で広げているのも珍しい光景ではない。こういうのを見ると、子供時代というのは、ずいぶん引き延ばされているな、と思う。

もしかしたらいまは子供のままでいようと思えば、いさせてくれる世の中なのかもしれない。とりあえず仕事をし、働いてさえいれば、そうして、お金さえ払えば、あとは子供のままでかまわない、というような。なんとなくそんな社会であるようにも思えてくるのである。

そうして、派遣とか、時間給労働者の増加は、こういった情況をいっそう加速するものなのではあるまいか。
給料を払っている「親方」は、派遣労働者の面倒を賃金面以外では見てくれないが、労働者の側も、その会社の一員として会社の業務のあり方に責任を負う必要もない。

社会というのも、自分が構成員というより、税金という対価を払って住まわせてもらっている感覚に近くなっているのかもしれない。
選挙というのも一種のイヴェント。参加しておもしろければいいのだから、負けそうな人には投票したくない。
不都合があれば、「責任者、出てこい」と言っていればいい。自分が責任者になる局面などあり得ないのだから。悪いのはいつも自分ではない誰かだから、安心して批判もできる。

昔はある年代に達したら、否応なく、大人にならなくてはならなかった。
そうした「生活者」になりたくなければ、『人間失格』の主人公のように、社会とは相対的に別個に、一種のアウトローとして生きなくてはならなかった。
ところがいまや、かならずしも大人になる必要はない。社会人として働いていても、その時間が終われば、スーツを脱ぐように、子供に戻ることができる。

この子供にはおみやげを買ってきてくれる人はいないけれど、そのかわりに自分で自分におみやげを買って帰る。
だが、この子供はほんとうに自分のほしいものを知っているのだろうか。
これを買うあなたは、自分がほしいものを知っている人ですよ、という広告に釣られているだけではないのだろうか。

鶏頭





2007-04-12:針仕事の話

これまでにも何回か書いたのだけれど、わたしは大変に不器用な人間である。
紙に直線が引いてあっても、その上をハサミでまっすぐに切ることさえできず、どうやってもでこぼこになってしまうし、ほとんど毎日料理をしているにもかかわらず、未だにリズミカルに包丁を使うこともできない。タマネギを切る音も、「タンタン…」ではなく「ぎったんぎったん」と聞こえるぐらいだから、自分でもかなり情けなくなる。

それでも昔に較べればずいぶん進歩したのだ。
小学生で初めて家庭科の授業があった五年生の時、針に糸を通すことさえできず、一時間悪戦苦闘していた記憶がある。実際、家庭科というと悪夢のような時間だった。

中学に入ると、たいてい一学期は裁縫、二学期が調理実習、そうして三学期は家事全般や栄養学、家政といったことに当てられていたような記憶がある。
ほかのときはまだしも、この裁縫が大変だった。
まず中一でかっぽうぎを縫うことから始まって、つづいてスカートを縫い、中二でパジャマ、中三でワンピースを縫った。高一で裏地付きのジャンパースカートを縫って、高二は記憶がないから、おそらく悪夢のような裁縫の実習からは解放されていたのだろう。

そうした実習というのは、たいてい、一学期間全部を使って、ひとつの作品を制作するのだ。
まずハトロン紙で型紙を作る。自分のサイズをもとに、紙に直線や曲線を引いて、パーツごとの型紙を作っていく。それからその型紙をもとに、布に印をつけ、慎重に裁ちばさみで布を切り、そこから仮縫いをし、サイズを調節し、それからミシンで本縫いをする。細かいところから、大きいところに。そうして、部分部分を縫い合わせ、袖やえりをつけ、ファスナーやボタンをつけ、裾をまつって、できあがり。
もちろん週二時間の授業だけでは間に合わない作業の遅い生徒は、放課後残って作業をする。

授業時間はそうはいかないが、放課後の作業はみんなで集まって、おしゃべりしながらやるのだった。たいていそんなときは好きな男の子の話やクラスメイトのうわさ話で盛り上がる。「枕草子」や「源氏物語」などにも、女房が集まって針仕事をする場面がいくつもあるけれど、まさにそんな感じだったのだろう。おしゃべりが楽しくて、すでに終わっているにもかかわらず、ほかの子の手伝いをしながら、毎日のように残っている子も少なくなかった。

ただ、わたしにはそれが苦痛だった。
家庭科の授業も苦痛だったのだが(ひとり、たいそうおっかない先生がいて、その先生に当たった年は、わたしは授業のたびに怒られっぱなしだった)、それ以上に「みんなで集まっておしゃべりしながら針仕事」というのが苦痛だったのだ。その場にただよううちとけた雰囲気。手は片時も休めないまま、やっていることとは無関係に続いていくおしゃべり。ほとんど考えることもなく、聞く側も考える必要もなく、だれがどうした、かれがどういったという話が延々と続いていく。

もしかしたら、変なところで頑なになっていたのかもしれない。自分自身を持ちあぐねているようなそのころのわたしには、自分には意味をなさないそうした音の流れとうち解けた雰囲気のなかに身を置くことが、どうにも耐えられないように思ったのだった。 だから、授業中にできなければ、こっそりと家に持ち帰った。
家に持ち帰るのが禁じられていたのは、母親にやってもらうことになるから、というのが主な理由だったのだと思う。だが持って帰ってもわたしはひとりで、自分の部屋でツェップやフロイドやイエスを聴きながら、自分のなかに閉じこもるようにして、ボタンホールをかがったり、裾をまつったりしていたのだった。

三ヶ月かけて作ったスカートやワンピースは、かなり情けないできばえだった。何とか完成まで漕ぎつけたのはよかったが、三ヶ月分の汗と脂とカバンの底につっこんで往復していたせいで、全体がよれよれで、もちろんミシンで縫った部分が曲がっていたりしたこともあるのだろうが、仕上げにアイロンをかけても、どうしてもピシッとならなかった。 上手な子の作品は、既製品と見まごうばかりだったのだが、わたしのはどこから見ても「手作り」以外には見えなかった。それでも、完成品はどれも何度か袖は通したし、ギンガムチェックのパジャマは、何年か着ていた記憶がある。

高三で家庭科の授業がなくなって、ほんとうにホッとした。
これでもうあのおぞましい裁縫からは解放される、と思うと、小学校の頃から使い続けた裁縫箱も、川に流してしまいたい気分だった。

ところが大学に入ると、あれほどいやだった裁縫が、こんどは授業などではなく、必要に迫られてやらないわけにはいかなくなった。シャツというのはボタンがとれるものだし、スカートの裾のまつったところも、よくほつれるのである。ちょっとした修繕というのは、服を着るためには洗濯が必要なように、どこまでいってもついてまわるのだった。 仕方なく最初に帰省した折りに、小学生のわたしが書いた名前のついた裁縫箱を、引き出しの奥底からもういちど引っぱりだしたのだった。

そればかりではすまなかった。
合唱団に入っていたわたしは、夏休み前、定期演奏会で着るドレスをこれで作って、と、三枚の布を渡された。白のロングドレス。白のブラウス。黒いロングスカート。それが必要なのである。

同じサークルのほかの一年生たちは、ほとんどが実家から通っていた。ほかの子に聞いてみても、お母さんが、あるいは親戚が、お母さんの知り合いが作ってくれる、というばかりである。下宿生もいたが、その子も夏休みに帰省して母親に頼んだという。
わたしはなにしろ親の反対を押し切ってこちらに来た手前、合唱団の定期演奏会でドレスを作るので手伝ってほしい、などと言うわけにいかなかった。頼んで頼めないことはなかっただろうが、そのかわり、どんな繰り言が待っているかと思うと、考えるだけでゾッとした。
となると、自分で作るしかない。幸い、寮には誰も使っていない、ふだんは古新聞や古雑誌がうずたかく積み上げられていた年代物の足踏みミシンがあった。

ロングドレスなどの作り方を載せた本などなかったが、要は同じデザインのワンピースやスカートの裾をのばせばいいのだ。フレアなので、そのまま伸ばせばなんとかなるだろう、と考えた。
本屋に行くと、ちゃんとそうした本はある。型紙つきのものを選んで、それを元型にして、新聞紙で型紙を作った。裁縫箱に入れっぱなしにしていた、昔懐かしいチャコペーパーやチャコペンシルをひっぱりだして、布に印をつけ、まち針で留め、昔やった手順を思いだしながらハサミで切った。

十二月の定期演奏会が間近に迫った11月だった。
わたしはストーブをつけて、TVで深夜の古い映画を見ながら、夜中にひとり、ミシンを踏んだ。昨日ログに書いた「タイム・アフター・タイム」も、このときに見た映画のひとつだ。ドリス・デイが主演する「カラミティ・ジェーン」も見たし、ショーン・ペンが出る方ではない、オリジナルの「俺たちは天使じゃない」も見た。ジョン・カーペンターの「フォッグ」も見たような気がするけれど、これはあまりに何度もTVでやっていたので、ちがうときのことと一緒になっているかもしれない。
ともかく、毎晩映画を見ながら、ときに二本続けて、たいていは古いB級作品を見ながら、ドレスを少しずつ完成させていった。あれほど怒られた家庭科の先生の言葉が、本だけではわからないようなところでよみがえってきて、ひどく助けられるようなこともあった。

そうしてやっと完成したのは本番直前だった。
これもずいぶんみすぼらしいものだったが、舞台に立つ大勢の人間のうちの、それも後ろのほうのひとりなのである。とりあえず格好だけつけておけば十分だ。わたしは自分にそう言い聞かせて舞台に立った。

ブラウスの背中のファスナーがうまくついていなくて、一度着ただけで食いこんでしまい、つぎに着るためにはファスナーをつけなおすしかなかったのだけれど、結局、その年で合唱団をやめたわたしは、そのステージ用の衣裳も二度と袖を通すことはなかった。果たしてそこに残っていたとしても、それをつぎの年、また着ることができたかどうかははなはだ怪しかったが。

いまでもわたしは裁縫とは縁を切ることができない。
なかには「わたし、そういうことが大嫌い」と言って、絶対にやらないと公言している人もいる。女だからってそういうことをやらなきゃいけないというのは、絶対におかしいのだそうだ。だがそういう人だって、ポケットがほつれたり、ボタンがとれたりはするだろう。そういうときはどうしているのだろう。それとも、いまのようにシーズンごとに流行が変わるような状態では、そんなこともないのだろうか。
まあわたしは流行とは無縁に生きているので、一枚のシャツでもたいがい五年以上は着ることにしているのだが。となると、裁縫はどうしたって必要なのだ。

あのときはあれほどいやで、やるたびに劣等感を募らせていたことだが、いまだにわたしはそれを続けている。ボタン付けぐらいはなんとかできるが、カーテンのフックを留める箇所がほつれたりするのを直すぐらいの単純な縫い物でも、相変わらず下手くそで時間ばかりかかる。おまけにちっとも好きではなくて、どうしてもやらなければならなくなるまで、ギリギリまで伸ばしてしまうのも相変わらずだ。それでもいまだに同じ裁縫箱をわたしは使っている。

鶏頭





2007-04-11:H.G.ウェルズとタイムマシン(加筆)

「タイム・アフター・タイム」というと、まず思いだすのはシンディ・ローパーの歌なのだけれど、これは映画の話。

映画の「タイム・アフター・タイム」は、いま調べてみたら1979年の映画なのだが、ともかくわたしは大学に入って、さらに自分で14型のテレビを買ってから、深夜放送で見たような気がする。タイトルも何も忘れてしまっていて、いまこれを書くために、「H.G.ウェルズ、タイムマシン、切り裂きジャック」という検索子でググってみたら、一発でタイトルがわかった。やはり Google というのは便利だなあ。

さて、この映画は『タイムマシン』や『透明人間』『水晶の卵』の作者、現代SFの生みの親 H.G.ウェルズが主人公なのである。
そのウェルズの役を、「時計仕掛けのオレンジ」のマルコム・マクダウェルがやっていたものだから、一見いい人のふりをしているが、そのうち危険な本性をむきだしにするのではあるまいか、と密かに期待しながらわたしは最後まで見ていた(というのは、ほんとうはウソで、この脳天気な映画ももしそうだったらもう少しおもしろくなるのになあ、と思っていた)のだった。
確かコリン・ウィルソンはどこかでH.G.ウェルズはかなり危ない人間だった、と書いていて、それが記憶にあったのも一因ではある。ただそれを書いているコリン・ウィルソン自身がかなり危ない人物なので、そこらへんの判断はむずかしい。

映画でのウェルズは、小説『タイムマシン』を発表する二年前。あろうことか彼が実際にタイムマシンを発明していた、という設定なのである。
彼の友人に、外科医のジョン・スチーブンソン(これはいま検索で確かめた。この名前は「ジキル博士とハイド氏」を書いたロバート・ルイス・スチーブンソンにちなんでいるのではあるまいか)という人物がいた。実は、彼こそが19世紀末のロンドンを騒がせていた「切り裂きジャック」だったのである。

警官に追われたジャック=スチーブンソンは、ウェルズの完成させたタイムマシンに乗って、1979年のサンフランシスコにタイムトラベルしてしまう(なぜロンドンではなくサンフランシスコなのか。それはイギリス映画ではなく、アメリカ映画だからだ。なんてご都合主義なんだ!)。
ウェルズは、自分もタイムマシンに乗ってすぐさま切り裂きジャック=スチーブンソンを追いかける。

現代にたどりついたウェルズ、お約束のカルチャー・ギャップからくるドタバタがいくつもあって、やがて現代サンフランシスコの女性(メアリー・スティンバーゲン)と出会う。そこでお定まりのボーイ・ミーツ・ガールのストーリー展開。
そうしてだれもが予想するとおり、切り裂きジャック=スチーブンソンは、スティンバーゲンを標的とし、あわやというところでウェルズが助け、めでたしめでたし、と終わる。サンフランシスコの女性は19世紀に行ったまま、じゃなかったかな。
ウェルズが『タイムマシン』を書いたころは、「過去を変えてはいけない」みたいな七面倒な規則はなかったので(事実『タイムマシン』でも、主人公は未来からすれば過去である現代に帰って、そんな未来が来ないよう人々を説得したあげく姿をくらますのだから、これほどの過去の改竄もない)20世紀のサンフランシスコの人口がひとり減り、19世紀のロンドンにひとり増えたぐらいどうってことはないのだろう。

とまあ、ここまで映画の筋を紹介したのは、中野好夫がH.G.ウェルズのことを書いていたからなのである。

『水晶の卵』でも最後に少し書いたのだけれど、ウェルズが実際にSFの作品を著したのは1901年の『月世界旅行』ぐらいまでで、あとは普通小説や評論活動に移っていく。なにしろ文筆活動は五十年に及び、著作は百を超えるというのだから、やはりSF作家と呼ぶにはムリがある。

ともかく、そのウェルズ、『タイムマシン』で描いた80万年後の世界はともかく、SFではない作品の中で、近い未来の社会の変容を鋭く洞察していたらしい。第一次大戦直後に書かれた『文明の救済』など、なかなか読むこともできないので、中野の実にすばらしい要約を引用しておく。

(※ウェルズは)近代世界の動向に関する予見や、未来社会の展望などに関しては、しばしば早くから見事な予言者的直感を示していた。たとえば、近代の交通、通信革命が、世界構造を大きく変革させる可能性を孕み、旧式な国境観念を一変させたことなど、今ではすでに常識になってしまっているが、彼は早くも第一次世界大戦直後の『文明の救済』(1921年)などで、はっきり洞察、指摘していた。激しく発達する交通、通信革命の下では、アメリカとソ連だけが合理的な国境をもった国家だと、この時期にすでに予言しているのである。当時のまだソ連は革命直後の混乱時代であったし、アメリカもむしろ孤立主義が世論を支配していた時期であったことを思うと、好悪はとにかく、その後わずかに四半世紀足らずして米ソ二大国の対立世界を生んだ現実を考えて、一種の予言的発言だといってもよかろう。

また当時は、国際聯盟による世界平和の幻想時代でもあったが、彼は終始これに断乎として批判的であった。理想はとにかく、聯盟という組織のもつ本質的弱体を容赦なく指摘して、無力であるばかりか、むしろ危険でさえあると主張した。理由が面白いのである。戦争とは平和な庭園に狂った象が暴れこむようなものだから、一発で射とめられる強力な銃でならとにかく、小さな空気銃を構えた園丁にもたせて立ち向かわせるのは、逆に園丁の死をもたらすだけだというのである。空気銃を構えた園丁とは、もちろん国際聯盟への諷刺である。今日の国連を考えても、この諷刺はまだ死んでいないように思える。

(中野好夫『英文学夜ばなし』新潮選書)

中野の本自体が1971年発刊で、「米ソ二大国」などと書いてあるのを見ると、隔世の観もある。その一方で、ウェルズの国連に対する「空気銃を構えた園丁」というメタファーは、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のときの国連軍を連想させるし、あるいはまた自衛隊の海外派兵にもそのままあてはまるようにも思う。
ともかく中野は「第二次世界大戦の予見までは、現実に起こった経過と部分的には大いに相違したとはいえ(※ウェルズが想定したのは古典的兵器による戦争で、航空機による空爆や、さらには大量殺人兵器などは想像の埒外にあるものだったことを指す)、大筋においては見事に当たったことになる」としている。

過去のSFを読むと、なんともいえない時代のギャップのようなものを味わってしまうことがある。舞台となった「未来社会」が、現代のわたしたちにとって、すでに通りすぎてしまった時代だったり(たとえばブラッドベリの『火星年代記』は第三探検隊の火星到着が2000年)、描かれた世界が目前となって、そんなことは起こりえないことがはっきりしていたり(アンドロイドと人間の見分けがつかない『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の舞台は2019年だし、さらに、ハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』のように月世界植民地が地球に対して独立を宣言したりすることは、2076年には絶対にないだろう)すると、逆にその作品の「古さ」や当時の時代性を否応なく意識させられたりするのだ。

だからこそ、逆に「この読みは当たっているなあ」「ほんとうに現実にそうなったなあ」と、先月の占いを読むように、「当たっている部分」を探してみたくなったりもする。だが、ウェルズの予見のおもしろさは、そういうものだけではないように思うのだ。

歴史の本を読んで、ともかく驚くのが、ウェルズの生きた時代、19世紀末から、20世紀半ばというのは、世界がものすごく変わっていったことだ。「切り裂きジャック」が跳梁跋扈している世紀末ロンドンと、第一次世界大戦というのが、ほんの二十年足らずでしかない、というのも信じられないし、ヨーロッパを主戦場として、ヨーロッパ人に大きな影響を与えた第一次世界大戦と、そのつぎの第二次世界大戦のあいだもやはり二十年であるということ。たったそれだけのあいだに、戦争のやりかたひとつとっても、決定的に変わってしまった。

ウェルズは1866年から1946年まで生きている。つまり、その劇的に動いていく世界を目の当たりにしているわけだ。まさに、多少時間のかかるタイムマシンに乗って、窓の外を見ているようなものだったのかもしれない、と思うのである。

多くのSFは、たとえ舞台が未来であっても、社会風俗の面ではいろいろと工夫がこらされていても、人の思想はあきれるくらい、その当時の人々のそれである。だからこそ、逆にいまのわたしたちが「こういう時代だったんだな」と知ることができるのだ。
だが、激動の時代を生きてきたウェルズの眼に映る未来は、まさに動いていく列車の窓から見た、刻々と姿を変えていくものだったのではあるまいか。

映画では1979年に行くのだけれど、映画の設定の若き日のウェルズならともかく、晩年のウェルズであれば、もう何が出てきても驚くことはないのかもしれない。

鶏頭





2007-04-10:病気の話

しばらく前からインフルエンザに罹ったり、溶連菌に感染したり、体調の悪い状態が続いた。熱が高かった時期もあるし、頭痛がひどかった時期、喉が痛くて水を飲むたびに顔がゆがんでしまうような時期もあったけれど、やはり喘息持ちのわたしとしては、喘息の発作が起きるのが一番怖く、咳をするたびに、自分の呼吸音に耳をすますような日々だった。

体調が悪いときというのは、やはり何をしているときでも気持ちはそこから離れない。
これがもっと痛みを伴うような疾患だったら、どれほど辛いことだろう、と思う。

遠い親戚にリューマチを患っている人がいる。
年に一度、会うか会わないかの人なのだけれど、それでも顔を合わせるたびに、切々とその辛さを話してくれる。
どうすれば少しは楽になるかいろいろと試して、そのたびに落胆することや、あちこち病院も変え、薬も変えても、いっこうに良くならないこと、歳とともにだんだん体が動かなくなっていく怯え、あるいは、朝起きて、ああ、自分はもうどこも痛くない、と思ったら、それが夢だった、という話。そういいながら、その人はそこで涙をこぼしたのだが、聞いていたわたしも思わずもらい泣きしまった。

実際、頭が痛い、というだけで、あるいは怪我をした、やけどした、というだけで、意識は痛みからどうしても離れていかないものだ。本を読んでいても、音楽を聴いていても、気持ちの一部はどうやってもそこから逃れられない。気持ちの一部がふたがれたようになってしまい、どんなにおもしろい映画をやっていたとしても、そのなかに十分には入っていけない。日の光さえ、少し翳って見えるほどだ。
痛み、というのは、徹底してリアルなもので、その存在を忘れさせてはくれないのだ。

それが、一時的な頭痛や歯痛ではなく、自分の生活が制限を余儀なくされるほどのひどい痛みとなると、いったいどれほど辛いことだろう。
そうして、それがたとえたちまち命に関わることはなくても、生きている限り、続いていくとしたら。
生きることと、痛みが同義であるとしたら。

会うたびに、その人はいつもその痛みの話をする。
発症の日のこと。ひどくなり、結局離婚するに至ったこと。
それほど会わないわたしでさえ、同じ話をずいぶん聞いた。
それでも、話さずにはいられないのだとしたら、滅多に会わないわたしにできることは、聞くことだけだ。
どこまでいっても他人の痛みは他人の痛みなのだけれど。

その人は、お天気のいい日には、松葉杖で外に出かけたりするのだろうか。
いまの季節、桜の花を見たり、散る桜が頬に当たるのを感じたりすることはあるのだろうか。
聞いたことはないけれど。
そうであればいい、と思う。

痛みや病気を抱えて生きることの一番の怖さは、その痛みや病気に呑みこまれてしまうことではないか、と思う。
自分がまるごと呑みこまれ、痛みや苦しみ以外、考えることができなくなったとしたら、ほんとうに逃げ道はなくなる。
その出口のない状態に落ちこんでしまったら、どれほど辛いことだろうか。

痛みとともに生きる、というのは、口でいうほど楽なことではないだろうけれど。
どこまでいっても他人の痛みでしかないわたしに、言えることではないのだけれど。

喘息という病気を得て、わたしはいくつかのことを学んだ。
毎日の自分の体調管理。
そうして、病気とともに生きて行く、ということだ。
これは、いろんなことに応用が効く。

不安なことが起こる。
不安に呑みこまれそうになる。
そういうとき、この不安は、いろんなふうに形を変えながら、ずっと自分とともにあったのだ、というふうに思う。たまたま、いままで気がつかなくて、いま、意識に浮上しているけれど。そうして、これにケリがついたところで、ずっと自分とともにあることには変わりはない、と思うことができる。
だから、不安とともに生きるのだ、ちょうど、喘息をかかえて生きて行くのと同じように、と。
これで不安をいつも完全になだめられるわけではないけれど、不安とともにあることは、とりあえず耐えられるようにはなる。

痛みは喘息などより、はるかに辛いだろうと思う。
病院で、高齢者が袋一杯の薬をもらっているのを目にするたびに、複雑な気持ちにはなるけれど、それで痛みが和らぐのなら、仕方がないことなのかもしれない。

それでも、痛みにも波があるのではないか。
少しでも楽なときに、その人が気持ちのいい春の日を過ごしていればいいな、と思う。
自分の痛みのほかに、思いをはせることができるものがあるように。

鶏頭





2007-04-09:名前の話(加筆)

最近の名前は読めない、というのは、もはやあまりに一般的になってしまって、ことさら言うまでもないのだけれど、やっぱりほんとうに読めないので書いてしまう。

ここに「2006年名前ランキング」というのがあるのだが、男の子の1位の「陸」は読めるけれど、2位の「大翔」、これを「ダイショウ」ではなく「ヒロト」と読ませようと考えた親が12人もいたらしい。
昔、学校の先生が、友だちの宿題を写したってすぐわかるぞ、正しい答えはひとつしかないが、まちがいというのは、それぞれにバラバラのものなんだから、と言っていたのを思いだす。だが、どうやらそういうわけでもなさそうだ。どう考えてもそうは読めない「当て字」をそれぞれが恣意的に考えた結果、12人が共通見解に到達したわけだから。

女の子の「陽菜」となると、「白菜」「青梗菜」「搨菜」「陽菜」と並べてチラシに書いてあってもまったく違和感がない。ちなみに二番目はチンゲンサイ、三番目がターサイ、四番目がヨウサイ、ではなくて、ヒナ(19人)ハルナ(15人)、ここまではいいが、ユナ(1人)って、「湯」と「陽」をもしかしてまちがえた?

わたしの名前は比較的ありふれたもので、読んでもらえなかったりまちがえられたり、という経験はあまりないのだけれど、昔は新学期になるとかならず読み損なわれる子がクラスに何人かいた。クラスメイトたちはまちがえる先生を見て「また始まった」と笑っていたけれど、まちがわれる子からしてみれば、あまり楽しいものではなかったろう。

ただ、先生のなかには相当に読みにくい名前でも、名簿の順番から考えて類推しながら正確に読む先生もいた。その先生のモットーが「生徒の名前は正しく読む」だったのだ。

わたしもバイトで教える側にまわって、その先生のモットーを受け継ぎたいものだと考えた。名簿をもらったら辞書をひき、考える。ちょっとびっくりするような名字もあったけれど、それはそれでその来歴を考えるのも楽しかった。

シェイクスピアはジュリエットに「名前に何の意味がありましょう」と言わせたけれど、文学作品においては、名前は登場人物を理解するための重要な手がかりだ。名前それぞれに、意味や来歴を備えているものなのだ。

以前、英会話の講師のイギリス人に、貴族階級の出身者がいたのだけれど、もちろん本人が何か言ったわけではない。そのアポストロフィつきの姓を見るだけで、イギリス人なら誰でも、もちぬしが貴族であることがわかるのだという。
面と向かってそのことにふれる人は(わたしの知る限りでは)いなかったが、本人がいないところで、わざとその話し方を真似ている人間は、何人かいた。反感というほどはっきりしたものではないにせよ、やはり微妙に意識してしまうものなのかもしれなかった。

きょうび、シェパードが羊飼いで、スミスが鍛冶屋、ベイカーがパン屋、であると思う人はいないけれど(そもそもそういう意味がある)、そんなふうにやはり出身階級がわかるような名字もあるのだ。日本だとさしあたり「万里小路」なんていう名字が相当するだろうか。
あるいはアメリカ人だと、イギリス系、イタリア系、アイルランド系、アフリカ系、ユダヤ系、ヒスパニック系、あるていど名前に慣れてくると、だいたい見当がついてくる。民族のステロタイプにその人を当てはめるのは危険だが、本を読むときには、そのことが登場人物の重要なバックグラウンドを形成していたりするから、注意は必要だ。

名字ではなく、名前となると、これはもう親が何らかの願いをこめてつけるものである。
わたしの名前など、親が何を願っていたか明白すぎて、こっちが恥ずかしくなるくらいなのだが、その名の通り育つかどうかは別として、生まれたことを喜び、自分に期待し、幸多かれと願ってくれたことはよくわかる。

だが、フランスなどでは、おそらくはいまでも伝統的な名前のリストから選ばなければならないはずだし、ほかの欧米諸国でも、名前というのは聖書に由来する名前でなければならない、といまでも固く信じている人も少なくない。
となると、いきおいジョンとかポールとかジョージだらけということになってしまう。実際、クラスにジョンが六人、ジェニファーが四人、などということが起こってしまうのである。

そういうときはどうするか。たいていは自分で決める。ジョンならジョニー、あるいはジャック、などというように、愛称には決まったパターンの変換がいくつかあって、そのいずれかを選ぶことができる。あるいは、ミドルネームを呼び名として使うことも多いし、ファーストネームとミドルネームを結合させて、ミッシェル=リンのように呼ばせることもできる。D.J.とか J.R. というように、イニシャルで呼ばせる人もいる。さらには自分で作ってしまうこともあるのだ。今日からわたしはジンジャーよ、ジンジャーって呼んでよ。そうしてその名前を、学校や職場などでは通用させることも可能なのである。
よく知っているはずの人のパスポートや正式の書類を見て、「ええっ、ジェイムズって本名はケヴィンだったの?」と驚くようなことも少なくない。

ジョン・スミスというのは、日本でいうところの「山田太郎」、そこまで典型的な名前はそれほど多くはないだろうが、ジョン・ウィリアムズ "John Williams" を Wikipedia で検索すると、百人近い名前のリストがあがってくる。Wikipedia にリストアップされるような人でもそんなにいる。世界中にはジョン・ウィリアムズがいったい何人いることだろう。
そのくらい同姓同名というのは、欧米では珍しくないのである。

ところが日本だと、自分の名前は自分だけのもの、という感覚が強いように思う。顔は変わる。肩書きも変わっていく。けれど変わらない名前だけは、自分のアイデンティティを保証する、というように。
だからこそ、結婚後の姓をどうするか、どちらの姓を選ぶのか、が大きな問題になってくるのだろう。いままで営々として築き上げてきた「山田太郎」という歴史が、結婚を機に「河辺太郎」になる。確かにこれはアイデンティティに関わることなのかもしれない。

おそらく凝りに凝った名前を考える昨今の親にしても、アイデンティティということは十分に考えているのだろう。ナンバー・ワンでなくても、オンリー・ワンだからこそ、「ありふれていない名前」「古い時代にはなかった新しい名前」を求めているのだと思う。
だが、人間の独創性なんていうのは所詮、知れたもので、「結愛」などというだれにも読めない名前を考えてみても、実際には13人、その年の「同じ名前のおともだち」がいることになる。ちなみにこれは「ゆい」「ゆあ」「ゆめ」と読み方はいろいろ。おそらくは読み方においてもアイデンティティを追求しているのだろう。残念ながら追求に夢中になりすぎたか、「ケツアイ」と読まれる可能性は、親の頭をかすめることはなかったらしいが。

だが、その名前がオンリー・ワンでなくても、たとえ世界中に何千人、もしかしたら万の単位でいるかもしれないジョン・ウィリアムズであっても、その人の親や、兄弟や、妻や、子供や、恋人からすれば、その人にとっての「ジョン・ウィリアムズ」はただひとりだ。人間はそういうありかたでしか、オンリー・ワンにはなれない。名前が何かをしてくれるわけではない。

生まれたときは赤ん坊でも、三十になり、五十になり、七十になる。
そういうことを考えれば、「美留来(みるく)」なんて名前をつけるのは、いかがなものか、と思ってしまう。
ペットの名前と一緒にしているのではないのだろうか、と。
自分は、ひとりの人間が一生背負っていくことになる、重い決定を下そうとしているのだ、という自覚があるのだろうか。ちょっとそれが気になりもする。

以前、かなり強烈な名前の子に、その名前、どう? 気に入ってる? と聞いてみたことがある。
彼女は「あたし、好きですよ、みんな読めないけど、すぐに覚えてもらえるし」と屈託がなかった。
端から見れば、ヘンな読み方だと思ったり、意味がないじゃないか、と思ったりしたとしても、生まれたときからその名前で呼ばれ、その名前でいろんなことをし、何百回、何千回とその名前を書いてきて、ともすればどこかに飛んでいってしまいそうな日々の断片をつなぎとめているのはその名前なのだ。もちぬしにとっては生まれてからずっと持ち続けている、唯一の持ち物なのかもしれない。

だから、親はもうちょっと考えろよ、と思ってしまうのも、きっとわたしが歳を取った証拠なのだろう。
それでも天使と書いてアンジェリーナと読ませるのはやめてほしい、とこっそり思ってしまう。読みあげるとき、恥ずかしい(いや、これは似たようなパターンの仮名ですが)。

鶏頭




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