2007-06-13:お泊まりの話
いまの子供は友だちの家に「お泊まり」に行くようなことはしないのだろうか。
わたしが幼稚園から小学校の低学年にかけては、比較的気軽にそういう行き来をやっていたような気がする。わたしも何度か友だちの家に泊まりにいった。
庭付きの大きな家に行ったときには、広い「応接間」というものがあって、革張りの黒いソファの向こう、奥まった壁際に、当時はそんな言葉など知らなかったがバーカウンターがあった。壁面は作りつけの棚になっていて、魚の形や、塔の形、網がかぶせてあるものや編んだ藁に半分くるまれたもの、不思議な形の洋酒のびんがずらりと並んでいた。そこの家の子に順番になめさせてもらったのだが、その子は「これは甘い」とか「これはあまりおいしくない」とかといちいち注釈をつけていたので、ときどきなめては友だちにもお相伴させていたのだろう。ほんの一滴やそこら、なめたところで手のひらの味しかしなかったのではなかったか。それでもあざやかなターコイズブルーの酒が作った小さな水溜まりの表面に、歪んだ部屋が白く映っていたことはいまでも覚えている。
大きなステレオでディズニーのレコードを聴かせてもらったこともあったし、夕ご飯に出たおこぜを、そこの家のお父さんが、「おこぜはみにくい魚なんだ」と言っているのを聞いて、その「みにくい」というのは、めずらしくて「見にくい」のだろうか、気持ちが悪い姿形で「醜い」のだろうか、と考えたこともある。夜の早い家に泊まりに行ったときは、七時を過ぎるともう部屋の電気を消して寝かされて、もちろんそんな時間に眠れるはずもなく、人の家ということもあって、ほとんど一晩中、暗い天井の節目を眺めていたような気がする。夏休み、翌日、そこの家の子とふたり、お母さんが先生をしている小学校のイヴェントに連れていってもらったこともあった。
たった一度しかなかったが、いまでも忘れられないのは、あかねちゃんという子の家に泊まりにいったときのことだ。
そんなに大きな家ではない、平屋の古い家だったのだが、犬が三匹もいて、子犬が家の中を駆け回っていた。あかねちゃんには中学と高校のお姉さんがふたりいて、一家全員がものすごく楽しそうなのだった。
ご飯の時間になると、子供たちがちゃぶ台を拭いたり、皿を並べたり、それぞれに仕事が割り振られている。わたしも一緒に手伝ったのだが、そのあいだも、たえまなく誰かが冗談を言い、誰かがしゃもじ片手に歌手のまねをしてふりつきで歌い、みんなが笑っているのだった。
晩ご飯のあいだもTVを見ながら、お父さん、お母さんを含めた一家全員が笑い転げている(たぶん萩本欽一の番組をやっていたのだと思う)。まるで現代版『若草物語』といったらよいのか、ホームドラマのようだといったらよいのか、ともかく絵に描いたような家族の仲睦まじいさまを見て、わたしは船酔いでもしたような気分だった。
そのころわたしがあかねちゃんと仲が良かったのは、そこの家の雰囲気が大きな理由だったのかもしれない。
こうした経験を通じて、わたしは家庭生活というものは、家によってひどくちがうのだ、ということを実感していった。小学生になると、××さんの家はお金持ち、だとか、○○さんのお父さんは社長、だとかのうわさ話もクラスメイトとの間では、ごく普通にやりとりされていたが、家の大きさや車の車種や所有台数が家によってちがうだけでなく、玄関を開けた瞬間、その家独特のにおいがあり、その家にはそこにしかない生活があり、その家だけの決まりごとがあるということを。
大皿に盛った沢庵を、箸をひっくり返して取る、というのも、この「お泊まり」に行った先の家で、そこの家の人がやっているのを見て知ったことだ。わたしの家では大皿にみんなが箸を延ばす、ということはなかったために、回ってきた沢庵をそうやって取るそこの家の人の見よう見まねで、わたしも箸をひっくり返した。
畳の部屋には、かならず新しい靴下に履き替えて入らなければならない家もあった。その理由もよくわからないまま、言われたとおり、翌日の分として持ってきていた靴下にはきかえて、その畳敷きの部屋へ入った。二階を走って「天井が抜ける」と怒られて、子供が走って「天井が抜ける」わけがない、と思ったこともある。だが、わたしにとって理解できない不思議な「決まり」も、そこの家の子にしてみれば、生まれたときからそう決まっている、当たり前のことなのだ。
そうしてまた、自分の家にいるときには気がつかなかった自分の家のにおいにも気がついた。天井の高い、広い家から帰ってきた日曜の午前中は、家がことのほか狭く薄暗く感じられ、父親がまだ寝ているためにいっそう窮屈で、しかも弟が作った粘土細工がそこらじゅうにあるのをうっかり踏んでしまって、わあわあ泣きだし、その声に飛んできた母にひどく叱られたりしたときには、ここへ帰ってこなければならない自分の運命を呪いたくもなったものだ。
それまでだって、自分の家族が完璧なものだなどとは思ったこともなかったが、改めてそれを見せつけられたように思い、人生というのは公平ではないのだと理解したように思う。
もちろんわたしの家に誰かがお泊まりに来ることもあった。
だが、そういうときは食事はふだんより二割ほど良くなったし、友だちから「優しそうなお母さんね」と言われ、内心どこが? と思いながらも、やはりうれしかった。友だちとふとんを並べて話をしていると、見慣れた天井板の木目さえ、ちがった模様に見えてきた。
家というのは不思議なものだ。
壁の向こうにはそこの家にしかない生活とにおいとライフスタイルがある。どうかした拍子に、ふだん見ることができないそれが見えてくることもあるけれど、それはどこまでいっても外部の人間であるわたしには、関係のないものだ。ただ、それを見ることで、初めて自分の家のそれが見えてくる。自分の家にもそこにしかない生活がある。
そこにいつもあるものに気がつくためには、いったん外に出て、外の目が必要だということを、わたしはたぶん、こうやって知ったような気がする。
2007-06-07:電車でものを食べる人
もうそろそろラッシュアワー、という時間帯の電車に乗っていた。するとスーツ姿の男性が、とある駅から乗り込んできて、九分通り埋まった車内に席を見つけて座った。座るやいなやトートバックから袋を取り出し、さらにそこからパック容器をとりだした。
片手でがっしりと容器の底をつかみ、蓋をあけると、牛丼の独特のにおいが車内いっぱいにひろがった。その男性は、割り箸を口にくわえて、容器を持っていない方の手でバリッと箸を割ると、勢いよく食べ始めた。まるで掃除機が吸いこんでいくように、さぶさぶという音をたててかきこんでいき、食べ終わるとつぎの駅でおりていった。まるで牛丼を食べるためだけに電車に乗ったかのようだった。
あまりの早業に、わたしは目をそらすことができず、その人が食べている間中、目を釘付けにされていた。動き始めた電車にその男性が確かにいたことを示す、牛丼のにおいだけが残った。
最近では電車の中でものを食べている人を見ることもめずらしくなくなった。
パンやおにぎりなら若い女性でも平気で食べているし、静かにさせるためなのだろうが、小さな子供にお菓子を与えているお母さんもめずらしくない。中高年の女性も、おおっぴらではないにせよ、かばんの底から飴をとりだし口に入れる(ときどき見も知らない、たまたま向かいに座っただけのわたしにもくれようとする)。
先日は、夜、塾帰りらしい小学生が、透明のプラスティックの容器に入れた焼き鳥を頬張っていた。立ったまま、片手はつり革につかまって、ハンバーガーを食べている学生風の人を見たこともある。
新幹線ならわかる。
発車間際に駅のホームで、お弁当とお茶と雑誌を買い、乗り込んでからそれを広げる人というのは、新幹線につきものの光景だ。実際、一時間も二時間も、さらにもっと乗ることになれば、食事の時間にもひっかかる。新幹線の構造も、それを見越して作られている。
だが、在来線となると話は別だ。ボックス席ならまだしも、横並びの席では、ずいぶん多くの人目にさらされることになる。せいぜい乗って三十分ほど。にもかかわらず、今回の牛丼だけでなく、おにぎり、サンドイッチにハンバーガーにホットドッグ、タッパーウェアに入った自家製のお弁当、いなりずし、カロリー・メイト、肉まん、ピザ、フライドチキン、クッキー、ポテトチップス、チョコレート、するめ、アメ、ありとあらゆるものを食べているのをこれまでに見てきた。
どうやら電車の中で何かを食べることは、「お行儀が悪い」ことでもなければ、恥ずかしいことでも、人目を気にすることでもなくなったらしい。
そんな時間も利用しなければならないほど、みんな忙しい生活を送っているのだろうか。
これまで「ものを食べる話」や「いっしょにゴハン」でも書いてきたのだけれど、わたしは「食べる」ということは「空腹を満たす」以上のものだとずっと思ってきた。とくに、人と一緒に食事をする、というのは、ともに食べることを通じて、その場を共有し、いろんなものをやりとりするものだと思っていた。
多くの人がいるところで自分一人、食べるのは、どういう気持ちがするものだろう。「人目を気にする」という表現があるが、ひとりだけちがうことをしているとき、ほかの人の視線が「突き刺さる」ように感じるのは、だれもが経験することだ。それを気にしないでいられるのは、他の人のことを「その場を共有する人」ではなく、「風景」「背景」と割り切っているからなのかもしれない。
一方で、「恥ずかしくはないのだろうか」と考えるわたしは、「食べる」ということを、つまりは、「食べる」ということの原点にある「空腹を満たす」ことを、どこかで恥ずかしいと思っているのかもしれない。「食べる」ということを「ただそれだけではない」と考えるのも、逆に言えば「ただそれだけ」を低く見て、それ以外の意味を与えようとしているのかもしれない。
テレビでも、芸能人がいろんなところに出かけて「おいしい」を連発している番組を見かけるのだが、食べている場面から思わず目をそらしたくなるのも、そのせいなのだろうか。自分一人なら絶対に見ようとは思わないそういう番組が成立しているのは、「見たくない」と感じる方が少数派なのかもしれないが。
食べるということは、飢えを満たすという本能に根ざしたものであると同時に、共に食べる、分かち合う、という、社会的な行為でもあると思う。それが目の前で繰り広げられながら、同時に周囲(自分)とは何の関係もないために、よけいに「本能」の側面が強調されるように眼に映ってしまうのかもしれない。
だが、今日見た人の食べっぷりというのは、一種の技術で、見ていてなかなかおもしろいものだった。そういえば江戸時代から「大食い」は見せ物でもあったのだ。人々は常人離れした「食べる能力」を、見て、楽しんでもきた。
電車の中で食べるというのも、こんなものが食べられる、こんなに早く、こんなにうまく食べられる、というのであれば、エンタテインメントとして成立するのかもしれない。
これから先、もっと突拍子もないものを食べている人も出てくるだろう。そのとき、その人はどんなふうに食べているだろう。
そう考えると、ちょっと楽しみなような気もするのだ。
ただ、あまり近くにはいたくない、という気も、一緒にする。ちょっと離れて、その技を見届けるくらいがちょうどいい。
2007-06-06:象の話
以前、翻訳小説を読んでいて「まるで白い象のように神秘的な存在であった」と訳してあって、思わず笑ってしまったことがある。読んでいなくても原文の見当がつく。
"It was a white elephant." とあったにちがいないのだ。
"white elephant" というのは、もちろんそのまま訳せば「白い象」にはちがいないのだが、イディオムで、「無用の長物」ぐらいの意味なのである。神秘的とはなんら関係がない。翻訳者はこのイディオムを知らず、辞書も引かず、唐突に出てくる「白い象」をいったい何のメタファーだろうと考えて「神秘的な存在」なるものをひねりだしたのだろう。
ランダムハウス英和大辞典を見てみると、こんな愉快なエピソードが載っている。
【 white elephant】
1.白象:…インド、タイなどで神聖視され、その飼育には非常に金がかかったので、昔シャムの国王が嫌いな家臣にこれを贈って破産させたという。
2.不必要だがさりとて処分しにくい所有物、始末に困るもの、持て余しもの。
3.その効用(価値)に比して途方もない出費を必要とする所有物、厄介物。
「嫌いな家臣に贈って破産させた」というのもひどい話だが、鴎外の『阿部一族』の例もあるように、やはり王様、殿様という地位の人間でも、相性の合う、合わないはあったのだろうし、合わないからといって、勝手に排斥するわけにはいかなかったらしい。実際それをしてしまうと政治というのは成り立たなくなってしまうことは、シュテファン・ツヴァイク描くところの『メアリ・スチュワート』などを初めとして、古今を通じて歴史が証明している。
そこで、白い象を贈る、というのは、なかなか洗練された(?)嫌がらせである。ただ、神聖視された存在を嫌がらせの手段としてほんとうに利用したのだろうか。そこはちょっと疑問だ。
アンソニー・マーカタンテの『空想動物園 神話・伝説・寓話の中の動物たち』(中村保男訳 法政大学出版局)には象がインド人の生活にとって、大きな比重を占めていたこと、とくに戦闘の際には、一種の動く砦として、象に乗った指揮官が戦闘の情況を俯瞰していた、とある。そこから象を所有できるのは王族に限られていたらしい。
となると、象を贈られた家臣は、王族の末端に加えられたことになる。確かにそれなら、何をおいても面倒を見てやらなければなるまい。だが、こんなエピソードもある。
インド人にとってこれ(※戦闘に象を利用すること)よりもなお大切なのは、雨を呼ぶものとしての象の役割だった。特に白象が大事にされたのは、白象の天界の親類である雲を呼びよせることができたからである。雲は雨を運んでくる天の象なのだ。統治者が白象を処分でもしようものなら、その人民は裏切られたような気持ちになったものだ。『仏陀の前生物語』の一話の中に、仏陀が父王の持っていた白象を旱魃と飢饉に苦しむ近くの国にやってしまったという話が出てくる。この国王の臣民たちは仏陀に裏切られたと感じて、仏陀を国外に追放してしまったのである。
一頭の象はお釈迦さんも追放してしまうのである。
そこまで大切な象を家臣に、しかもどう考えても信頼を寄せているのとはほど遠い家臣にやるものだろうか。
やはりヨーロッパに伝わっていくうちに、少しずつ変型していったのかもしれない。
『プルターク英雄伝』で名高いプルタークも、象のことにふれている。同じくマーカタンテから。
プルタークは、自著の短い動物論の中で、象は優しく親切で、愛情深く、忠実で、利口であると褒めている。そして、球か何かの上にのって身体のバランスをとるという難しい芸を仕込まれていたある象の話をしている。その象は、兄弟たちの芸がどんどん上達してゆくのに、どうしてもそれについてゆくのが難しかったのだけれど、ある夜、月の光を頼りに全く“一人で”稽古している姿が見られたという。
これはそっくり『ダンボ』ではないか! ダンボはひとりきりではなく、ネズミのティモシーが練習につきあってくれるのだが。というか、おそらくは『ダンボ』のほうが逆に、このエピソードを踏まえているのだろう。
象というとわたしが思いだすのは、井の頭公園のなかにある動物園の象のはな子さんである。わたしが子供のころ、すでに相当なおばあさんだと聞いたような記憶があるのだが、まだ元気でいるらしい。
どうもはな子さんというと、わたしのなかでは『かわいそうな象』と話がシンクロしてしまって、なんとなく昔から複雑な思いで見てしまうのが不思議だった。それが、このログを書くために検索していて、その理由がわかったのだ。
はな子さんは昭和24年、戦後初めてタイから譲られた象ということだ。つまり、戦争が終わって四年たって、やっと象を食べさせていけるくらい日本が復興したということだろう。『かわいそうな象』はフィクションであっても、動物園の多くの動物たちが食糧事情の悪化から命を落としたことを思えば、おそらく戦後復興の象徴と目され、死んだ動物たちと重ねあわせることもあったのだろう。
とはいえはな子さんとしてみれば、そんな話は大きなお世話だったのかもしれない。
わたしの記憶にあるはな子さんは、奥まったところにある象舎の前で、いつ見ても片脚をあげておろして、あげておろして、という動作を繰りかえしていたのだった。まわりのだれとも視線を合わせないように目を伏せて、リズミカルな動作だったが、愉快、というより、ひどく機械的で、心ここにあらず、ゼンマイ仕掛けかなにかで動いているような感じだった。
何を考えているのだろう、と思ったものだ。はな子さんも楽しかったりするのだろうか、と。「象は忘れない(Elephants do'nt forget.)」という諺があるけれど、はな子さんの記憶には、いまもタイの空があるのだろうか、と。
2007-05-30:夢の話
明け方、目覚める前にYesの "Time and a Word" を夢のなかで聴いた。
アンダーソンが "it's right for me," と繰りかえし、最後のトランペットがフェイドアウトしていくところまでしっかり聴いたので、朝、起きてしばらくはちょっと変な感じだった。
こういう夢は、いったいどうして見るのだろう。
夢というのは遡航的に作り上げられる、という話を、以前聞いたことがある。
その人は、消防車が来るのが「オチ」になる内容の夢を見ていて、目が覚めたら、実際に消防車のサイレンが外で聞こえていた。
長い、起伏のあるストーリーの夢の、まさに「オチ」に当たる部分でサイレンの音を実際に聞く、という体験はひどく不思議で、こんな偶然もあるのか、と思ったのだそうだ。
だが、のちにその人は、ある機会に夢のメカニズムを聞く。つまり、消防車のサイレンがきっかけとなって、一連のストーリーがほとんど一瞬のうちに作り上げられたことがわかったのだそうだ。主観的にはかなりの長さの夢であるように思われても、それは目が覚めて、いわば帳尻を合わせているのをそう錯覚しているに過ぎないのだとか。
「邯鄲の夢」というが、夢は本来そういうものであるらしい。
そう言われてみれば、夢と時間の関係はひどく曖昧だ。昨日見た夢か、一昨日見た夢か、判然としないこともあるし、繰りかえし見る夢、というのも、いったい何度同じ夢を見たのか、はっきりとはしない。考えれば考えるほど、記憶をたぐればたぐるほど、あやふやになっていくのも夢の特徴だ。
ただ、起きてから忘れられない夢というものはあるもので、それを人に話したりすると、話すうちに、次第にはっきりしてくる。それも無意識で編集作業を行っているせいなのだろうか。
夢の中で編集作業をすることもある。
夢を見ていて、ここはこうするともっとおもしろくなるな、と考えて、もういちど最初から作り直した夢を見直すのだ。一時期わたしはそういう夢をよく見ていたのだが、これをやると、朝起きたときにものすごく疲れるので、意識してやめてしまった。
気になっていることが、そのまま夢に出てくるときもあれば、会う約束をしていて、楽しみにしていたのに、どうやっても家から出られない夢を見るときもある。夢で数学の問題を解いて、ああそういうことだったのか、と急いでノートに書き写したこともある。今朝方のように、近頃ではほとんど思いだすこともない曲をフルコーラスで聴くこともあるし、フィンランド語でしゃべられてもわからないなあ、と途方に暮れたこともある(もちろんわたしはフィンランド語など知らないのだが、夢に出てきた外国人がまくしたてる言葉が「フィンランド語」であることはどういうわけか「わかって」いる)。
予知夢もいちど、見たことがある。
中学の時、わたしが小学校の学年誌に投稿して採用された記事のことが、不意に夢に出てきたのだ。すると、翌日その記事の載った雑誌をクラスの子が学校に持ってきて、「あいつ、こんなことを書いてたんだぜ」とほかの子にも見せたのだ。
どうせならこんなくだらない予知夢ではなくて、もっといい予知夢が見たいものだ。
2007-05-25:火傷と評価
先日火傷をした。
茹でたパスタを流しに置いたざるにあけようと、コンロから鍋を持ち上げた瞬間、鍋の柄が片方、ボクッと折れたのだ。
鍋の柄というのはたいていビスで留まっていて、使っているうちに、どういうわけか緩んできて、グラグラしてくる。だからグラグラが気になったころ、つまり、グラグラではなく、ガクガクしてきたころ、ドライバーでねじをしめていた。それで、このところまたグラグラの幅が広くなってきて、ガクガクまであと三回……ほどの感じではあった。
それが、いきなりボクッときたのは、ビスの方ではなく、プラスティックの柄が、コンロの火で炙られて、劣化していたのだった。2リットルほど入ったお湯プラスパスタの重みで、その劣化した柄が、一気に折れたのである。そこでバシャッと左手はシャワーにしては熱すぎる、先ほどまでグラグラと煮え立った、白濁したパスタのゆで汁を浴びることになったのであった。
火傷は何を置いてもまず冷やすことである。
幸い流しの水道まで、約15センチ。わたしは即座に流水で左手を冷やすことにした。
冷やすこと約十分。そこから出すとひりひりしてひどく痛む。まっ赤になっている。わたしは椅子と『神話と人間』という本を持ってきて、左手を流れ落ちる水道の水で冷やしながら、そこに腰かけて、アフリカ大陸におけるかまきりの信仰について考察された本を読んだ。
さらにそこから二十分ほど。
わたしはお腹がすいてきた。フライパンのなかでは、赤いトマトソースのマグマのなかに、薄いベージュ色のツナと緑のほうれん草が顔を出している。パスタ鍋のなかのスパゲッティは……おそらくうどんのようになっているにちがいない。これは適当に切って冷凍して、そのうちスープか何かで使うことにして、もういちどスパゲティは、こんどは別の鍋で、柄の具合を確かめて茹でることにしよう。
そう考えて、わたしはかまきりが表紙でこっちを見ている本を閉じ、立ち上がったのだった。
外気にふれるとぴりぴりとかなり痛んだので、ワセリンを塗り、フィルムをはる。指を動かすと痛むので、固定するために包帯でぐるぐる巻きにした。とりあえずそうやって応急処置をすませると、食事作りを再開したのである。
翌朝、どうなったか見てみると、全体に赤くてかてかしているなかに、「く」の字のみずぶくれがひとつと、読点のようなみずぶくれがふたつできていた。「く。。」というと、なんだか笑われているような気がしないでもなかったが、とりあえずこれですんだのはめっけもの、というべきであろう。おそらく「く」は、鍋の縁かなにかがあたったものと思われる。
ともかく、二日ほどは、ほかのものが当たったりしないよう、もっぱら防御の意味で包帯を巻いておいた。小指を除けば指先はなんとか動くので、キーボードを打つことはむずかしかったが、それ以外のことは何とかできた。
そうして、その手の状態で近所のスーパーに買い物に行ったのである。
出かける前に必要なものがあったので、開店間もない店だった。まだ野菜コーナーでは、ほうれん草やら小松菜やらを並べているところだった。客より店の従業員の方が多いような店内で買い物をすませ、レジに向かう。
ところがそこで困ったことになった。
その店では買い物のたびにポイントをつけてくれるカードがあって、レジで打ってもらう前にそのカードを出すようになっているのだが、そのカードがサイフからでてこないのだ。
左手でサイフを広げて持てないので、右手でサイフをささえ、左手でカード入れの中から取り出すのだが、それがどうしても出てこない。
「もういいです。そのまま打ってください」と言ったら、レジの人は、
「いいですよ、店、空いてますから、ごゆっくりどうぞ」といってくれたのだった。
そのレジの人はわたしもよく知っていた。
レジのパートは比較的入れ替わりが激しいのだけれど、そういうなかで昔からいる人なのだ。バーコードを読みとらせるにしても、お金の精算にしても、ひとつひとつの動作がひどくもたもたとしていて、全然慣れていく様子がない。その人のレジだけは、ほかの人の倍近くの時間がかかるのだった。実際の時間としてみればわずかであっても、そのもたもたとする仕草を見ているのは苛立たしいものである。少々ほかの列が長くても、たいていのとき、わたしはその人の列を避けるようにしていた。
ところが開店直後だったために、レジにはその人しかいなかったのだ。だから、やむなくそこに並んだのだった。
ふだん、「もたもたしている」とわたしが思っていた人の目の前で、わたしはおっそろしくもたもたとカードを出したのだった。
わたしたちは、さまざまな場面で、さまざまなものに評価を下す。これは良い、これは悪い、おもしろい、おもしろくない、わくわくした、つまらなかった……。
読んだ本について、聴いた音楽について、そんなことばかりではない、言葉を交わした人や、その人の話の内容、あるいはすれちがっただけの人の服装のセンスとか、モノレールの座席のクッションの具合とか、ありとあらゆるものを、半ば無意識のうちに評価を下してしまっている。そうして、それが良きにつけ、悪しきにつけ、極端なものが意識にのぼってくる。
そうして、あるものや人に対して否定的な評価を下すとき、というのは、「下す」という言葉通り、わたしたちは高い位置に立っている。
もたもたとするレジ係を見て「トロいなぁ……」と評価を下すときも、あるいは、エスカレーターの前で立ち止まる人を見て「邪魔だなぁ」と評価を下すときも、最近流行っているらしい、ハイウェストのへろへろしたチュニックを着ている女の子を見て「まるでマタニティドレスみたいだなあ」と評価を下すときも、わたしたちはそうした人より高いところから、見下しているのだ。
だが、自分の立っている位置というのは、決して不動のものではない。
まわりがすべて自分より器用な人のなかでは、自分が誰よりも「トロいやつ」になってしまう。怪我をして、さっさと歩けないときは、エスカレーターにすぐ乗れないかもしれない。ハイウェストのチュニックがとってもオシャレだと信じている若い女の子たちのなかで「へろへろ」だの「マタニティドレス」だのと言うと、「やっぱりおばさん」と目配せされるかもしれない。
もちろん、自分のあらゆる行動には規準があるはずだ。自分がああしたい、こうしたい、ではなくて、「こうすべき」「こうすべきでない」という、善悪の規準を持つことは必要だろう。
それでも、わたしたちはこの規準をもとに、人であろうがものであろうが、意識的・無意識的に判断を下しているし、判断を下す自分は、高い位置に立ってしまっている、ということは、頭の隅に留めておいた方がいい。そうして、自分もまた評価され、判断を下される側でもあるということを忘れないことだ。
自分はいつもいつも最高のコンディションというわけではない。
ああ、自分は傲慢な目で人を見ていたのだな、ということに気がつくことができたのだから、火傷をしたのもいい経験だったのだ。
鍋の柄は、東急ハンズに行ったら売ってるかしら。
2007-05-14:固有名詞の話
その昔、常盤新平の『遠いアメリカ』を読んでいたら、翻訳を始めて間もない主人公の青年が、「ハンバーガーってなんだろう」と悩む場面があった。
英英辞典で調べると、どうやら牛肉を細かく挽いて、それをこねて焼いた物であるらしい。牛肉だから、大変なごちそうのはずなんだが、どうもそういう雰囲気じゃない……。
舞台は戦後間もない頃なのである。
「ティッシュペーパー」にしても、どういうものかわからない。わからない、ということは、つまり、日本にそれに相当するものがないのだ。そういうものをどうやって日本語にしたらいいのだろう……。
その本を読んだのは、辞書の使い方もわからず、ページを繰ってはふうふういいながら英文解釈をやっていた頃だったから、「ハンバーガーがわからないなんていう時代もあったんだな」ぐらいしか思わなかったのだが、やがて翻訳の勉強を始めるようになって、何よりもむずかしいのが固有名詞だということを知るようになる。どれだけ分厚い辞書を探しても、特殊な固有名詞は見つからないのだ。
そのころはまだパソコンを使うのも一般的ではなく、辞書といえば紙の辞書、建物の描写では建築用語英和辞典、病気の話が出てくれば医学用語英和辞典、と、図書館のレファレンスルームで辞書や専門書を林立させて、だいたいこの範囲、とあたりをつけてはひとつの単語に何日も費やしたものだった。
そうやってちょっと勉強を始めたら、生意気なもので本の誤訳が気にかかってくる。
昔の本でパリ在住のアメリカ人が、自分宛の手紙を「アメリカンエクスプレス」気付にしてくれるように頼む、という場面で、アメリカンエクスプレスのあとに(※)と注が入って「大使館」などと訳注がついているようなのは、あきらかに戦後間もない翻訳と想像がついて、あの中野好夫大先生でもこういうまちがいをしていたのだ、とちょっとホッとしたこともあったし、そのころ出たばかりのミステリで「フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド」というバンド名を知らない翻訳者が「フランキーはハリウッドへ行く」などとそのまま地の文で訳しているのを見て、ふん、こんなことも知らないのか……と、自分がたまたま知っているだけなのにちょっとした優越感を味わったりしたこともあった。あきらかに詩人のウェルギリウスを指しているのに、「ヴァージル」と英語読みのままに訳してある部分に気がついたこともあったが、そういうわたしが「ゲオルグ」と書いて「ゲオルク」と訂正されたりもしていた。
それが、検索が普及して、調べ物がほんとうに楽になった。
先日のサキでも、"On the Road to Mandalay"と出てきて、これはなんだろう、と思って入力したら、キプリングの詩の一節であることが0.42秒でわかる。それをもとにした歌があったらしいのだ。たとえ歌になるほど有名な詩であっても、検索を使わなければ、一体何を探したらよいのかさえわからなかったろう。
一方で、たとえば「ピザ」という言葉が対象とするものをわたしたちはすぐに理解できる。昔の本を見ると「西洋風お好み焼き」と訳注がついていたりして、それはそれで楽しいのだが、ずいぶんイメージに差があるように思える。
ところが、わたしは子供時代、瀬田貞二訳の『魔女とライオン』を読みながら「こうしのあぶりにく」という日本語に、よだれがでそうになったものだった。「ローストビーフ」より断然「こうしのあぶりにく」の方がおいしそうだ。「ローストビーフ」というと、あの真ん中の赤っぽい肉の薄切りが浮かんでくるが、「こうしのあぶりにく」というと、金串に刺して、火で炙っている情景が浮かんでくる。脂がしたたりおち、じゅっという音とともに、炎がぼっと燃え上がる。そうして肉の焼けるいい匂い……、この言葉はこうしたイメージを連れてくる。
しかし翻訳は、創作とは違っていわば言語そのものの奥深い森のなかにあるのではない。翻訳はこの森の外部にあって、この森に対峙し、そしてこの森に足を踏みいれることなしに、そのつど翻訳の言語自身のなかの谺が他言語で書かれた作品の反響を響かせうる唯一無二の場所に立って、原作を呼びこむのだ。
(ヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の使命」『ベンヤミン・コレクション2』所収)
固有名詞のなかには、その国の歴史や文化習俗と密接に関連したものが少なくない。したがって、それに対応する日本語がない場合もかならず出てくる。今日のように「ボーダーレス」が言われて久しくても、やはり "beet" をそのまま「ビート」と訳して通じるかどうか考えてしまう。「ビート」は「赤カブ」ではない。それでも外見が似ている「赤カブ」をあてはめるか、辞書を引いて出てくる「カエンサイ」とするか、あるいはそのまま「ビート」として、なんとなく野菜であることをどこかにほのめかすか。「森の外」で「谺」が聞こえないかとうろうろする。
「ピザ」が「洋風お好み焼き」だった時代もあったのだろうし、「オートミール」を「牛乳がゆ」と訳すのが一番ぴったりくる時代もあったのだろう。「ローストビーフ」を聞いて、「薄っぺらい肉」を想像してしまうのは、なによりもわたしの食生活を物語っているのかもしれないのだが。
2007-05-13:耳で聴く言葉
図書館でCDのコーナーを見ていたら、なぜかジム・ホールのアランフェス協奏曲の隣に森鴎外の「高瀬舟・寒山拾得」の朗読が並んでいた。LPを持っていても再生手段のないジム・ホールと一緒に、ついでのつもりで朗読のCDも一緒に借りることにした。前にジム・ホールを借りた人が一緒に借りて、返却後、うっかりそのまま並べられたか、それとも朗読を借りようと持っていた人が、ジャズのCDをもっと借りたくなって、朗読をあきらめてそのままそこに入れたのか理由は定かではないが、横着者だかうっかり者だかのおかげで朗読を聴く機会を得たのである。
朗読のCDが図書館にあることは知っていたが、落語や浪曲と一緒に置いてあるその棚に足を向けたこともなく、いったいどんなものがあるのかも知らずにいた。詩のテープなら、ディラン・トマスのものを持っていて、トマス本人が「ファーン・ヒル」をよく響く声で朗読しているのを、まるで歌を聞くように何度も繰りかえして聞いていたころもあった。だが、作者本人が原語で朗読しているものならともかく、「名作」のお墨付きがたっぷりついた、すでに何度となく読んできた短編を俳優が朗読しているものなど、興味を引かれることもなかったのだ。
だが、少し前に『寒山拾得』を読み返し、磯貝英夫の読解も読み返し、それでもなぜ文殊が寒山で、普賢が拾得なのかやっぱりわからず、ずっと気にかかっていたところでもあった。朗読に期待したわけではないが、語り手の名前を見て、これは聞いてみたいと思ったのだった。
鴎外の短編ふたつとそれぞれの縁起、あわせて四つの作品を朗読しているのは、井川比佐志だった。
いわゆる新劇出身の俳優、ある程度の年齢の、一般に「うまい」ということになっている役者には、特有の発声とせりふ回しがあるように思う。確かに滑舌は良い、よく響きもする。けれど、語っている内容はどこまでいっても語るその人とは無関係、言葉はするするとどこにもひっかからずに通り抜け、聞いていてもちっともこちらの身には届かない、いかにもわたしは立派に演技をしています、といった語りはあまり好きではなかった。
そういうなか、井川比佐志という人の、すこし前の日本語を思い起こさせるような発声と、発語するまえの溜めというのか、口にすることに対するかすかなためらい、自分のうちをもう一度ふりかえって、確かめたのちに口に出すような、そんな間がわたしはずっと好きだった。この人は新しくなってからの黒澤映画の常連でもあって、わたしはもっぱらこの人のそんな話し方が見たくて、「夢」も「八月の狂詩曲」も「まあだだよ」も見ていたようなものだ。以前ラードナーの「散髪」を訳したときも、この人の声を思い浮かべながらわたしは日本語を探していったのだ。
最初に『寒山拾得』を聴いた。すぐに、驚いた。
読み返したばかりだし、短い作品でもあるし、ほとんど全編、よく知っていると思っていたのだ。ところが
一体日本で県より小さいものに郡の名をつけているのは不都合だと、吉田東伍さんなんぞは不服を唱えている。
などと、折々にさしはさまれる、ちょうど文楽の黒子のような語り手の姿が、本で読んでいるときとはまったく異なる存在感で、わたしの前にあらわれてきたのだった。
朗読時間が22分36秒、最初と最後にへんな尺八の音や鐘のゴーンという音が入っているから、正味で20分強というところだろうか。実際に黙読してみいると、これだけの短編を、20分かけて読むことはできない。出来事が起こる部分、たとえば豊干が閭の頭痛を治してやる部分などはウェイトを置いて読むのだけれど、出来事と出来事をつなぐ橋の部分、上にも引いたような中国の行政区分の単位など、本筋と関わりのない部分は、どうしても読み流してしまっているのだ。
ところが朗読で聴くと、同じペース、同じウェイトをもって語られるのを聴くわけだから、読むだけでは気がつかないところに気づくことになる。「吉田東伍さん」という、まったく知らない、何の関係もない固有名が、不意に確かな「人」の形をとって立ち現れてくる。
そうしてなによりも、意味だとか文章だとかと言う前に、朗読は語り手の声を聴くことになる。言葉がわたしの内側で意味を結ぶ、受肉される前に、まず語り手の声としてわたしの身体に響いていく。
微かな息つぎ。
歯擦音の独特な癖。
唇が離れるときの音。
ある語にストレスをかけるときの発声。
そうして、文章と文章の「間」。この「間」の、ひときわ意識される短い静寂さえもが、何かを伝える「言葉」なのだった。
そうして、わたしは「語る人」の存在を、聞いているあいだずっと、異様なリアリティをもって感じていたのだった。
どれだけゆっくりと丁寧に読もうとしても、朗読と同じスピードで読むことはできない。むしろ、時間をかけて読めばいいというものでもないような気がする。基本的にわたしの読むペースが早いということもあるのだろうけれど、読むにはあるていどのスピードが必要な気がする。そうして、おそらくその速さは一定のスピードではなく、同じ作品のなかでも、アレグロのところ、モデラートのところ、アンダンテのところ、さまざまに速さを調節しながら読んでいるのだろう。
朗読を聴く時間というのは、自分が拘束されることになる。その間は自分の勝手にするわけにはいかない。本なら意味を取り損ねれば戻ることもできるが、朗読は流れていってしまう。一瞬で消える音をつかまえ、その音を耳のうちから消し、つぎの音をつかまえ、さらに前の音と結びつけ……ということを繰りかえしているわけだ。いつまでもそこに残っている文字を読むのと較べものにならないほどの集中力を要求される。
書かれたものが語られる。それを聴く。
自分の速さではない速さで聴くことによって、読むだけでは気がつかないものに気がつく。
ほかの人の声で、つまり、語り手のごくひかえめな解釈や理解という薄い衣という言葉ではない言葉を通して伝えられる言葉を聴く。
その声が、自分の内に刻まれ、それまで自分の内になかった言葉が、「ほかの存在」の声で蓄えられる。
何か、すごい経験だった。
2007-05-05:どう考えたらいいのかよくわからない話
英会話教室でバイトをしていたころの話だから、ずいぶん前のことだ。
あるときアメリカ人講師から“これはどういうことなんだろう?”と聞かれたことがある。
彼はデパートの入り口の外にある喫煙コーナーでタバコを吸っていた。すると、十代後半ぐらいの女の子(日本人は若く見えるからほんとうは二十代かもしれないけれど、と彼は言い添えた)がやってきて、彼のジャケットの肘を引っ張って、話しかけてきた。しきりに何か訴えているようすだが、なにぶん早口で何を言っているのかわからない。「もっと、ゆっくり、おねがいします」と日本語で頼んだが、話の調子は一向に変わらない。そのわけのわからない言葉を聞きながら、相手の目つきを見いているうちに、しゃべっているのは日本語でも、全体として意味をなしていないのかもしれない、という気がしてきたという。
そこへ中年の女性が来て、彼の手を引っぱって彼女から引き離すと、女の子を追い払った。まるで、犬でも追い払うような手つきをし、厳しい、叱りつけるような声を出して。
“それからぼくに、「気をつけて」と言った。どういうことだったんだと思う? 彼女はなんのつもりでそんなことをしたんだろう?”
そう聞かれて、わたしは咄嗟に彼が聞いたのは、その女の子のことだと思った。
そこで“その子が何をしてほしかったのかわからない”("I have no idea what the girl wanted.") と答えたのだが、彼は即座に、ちがうちがう、と手を振って、自分が知りたいのは中年女性の方だ、と言った。
おそらくその中年女性はあなたを護ろう(protect)としたのだと思う、とわたしは思ったことを言った。
すると、彼は、ぼくを? とひどく驚いた。いったい誰から?
彼女から。
どうして? ぼくは体だってこんなに大きい。彼女は、そう、君よりもっと身長も低くて小さかった。ぼくを護る必要はないよ。もしかしたら彼女から「ガイジン」を隔離しようとしたんだろうか。
そうではなくて。たぶん親切のつもりだったんじゃないかな。
日本のことを知らない外国の人が、知的障害の子にからまれて困ってる、なんとかしてあげなきゃ、って、そういう行動に出たんだろうね。
それはちがうと思う、と彼は納得しなかった。ぼくは護ってもらう必要などない。
わたしも自分の推測でしかないものをそれ以上説明するつもりもなかった。
こんなことを思いだしたのは、今日、わたしが似たような場面に遭遇したからなのだった。
スーパーで腰の曲がったおばあさんに話しかけられたのだ。何を言っているのかよくわからない。困っていると、おばさんがあいだに入ってきて「はいはい、おばあちゃん、わかったからね」と言うと、わたしを向こうに引っぱって「あんた、知らんの? 相手にしたらあかんよ」と言ったのだった。
そのおばさんも、その昔、アメリカ人講師に対しておなじようなことをした中年女性も、おそらく親切のつもりだったのだろう。
ただ、その親切は、どう考えてもポイントがずれているように思うのだ。
確かにわたしはとまどっていたし、そういうときにどうするのが「適切な行動」といえるのかもわからなかった。それでも、そのときに救助は必要ではなかったし、何らかの助けが必要だとしたら、わたしではなく、その小さなおばあさんのはずである。
たいていの人は、たいていのとき、他人に対して親切なのだと思う。
一方で、「親切」を必要としている人と、そこまで必要としていない人がいる。
おそらく、必要としていない人の方が、わたしたちに「近しい」。
遠い人というのは、よくわからないから、少し、怖い。
だから、「近しい」、本当なら、必要としていない側の人に対して、親切を振り向けてしまうのではないか。
相手をまちがえた「親切」は、もうひとりの相手を傷つけることになるのかもしれないのに。
人に何かをする(しないことも含めて)というのは、むずかしいものだと思う。
2007-05-04:「階級」の話(補筆)
いままででたった一度だけ、「家政婦さん」がいる家に遊びに行ったことがある。
お父さんもお母さんもお医者さんだったその子の家は、病院の宿舎だったのだろう、小さな芝生の庭つきの、マッチ箱のような白い二階建ての建物がいくつも並んでいる一角にあった。
小学校の三年のときだった。そのルミちゃんという子とは、同じクラスではなかったのだが、何かの拍子にピアノを習っている、ということがわかって、ツェルニー三十番のどこをやっているとか、ハノンを習っているといったことから話をするようになったのではなかったか。
ともかく、あるとき「遊びに来て」と言われたのだ。
電車をいちど乗り換えなければならなかったが、それほど遠くはなかった。だから、絵本袋に宿題とピアノの教則本を入れて、出かけたのだった。
玄関脇の小さな洋間が彼女の部屋で、部屋の中にはアップライトピアノと机とベッドとタンスがまるで寄せ木細工のように並んでいて、あとは子供ひとりがやっと通れるぐらいの隙間しか残っていなかった。東向きの窓にかかったレースのカーテンが、鈍い光を反射するように白々と光っていたが、窓ぎわを離れると、足下もはっきりしないような薄暗い部屋だった。
ベッドと机のせまい隙間にピアノの回転椅子を入れて、ひとつの机に並んですわって宿題をやった。すると、中年の女の人がお盆にジュースとおやつを載せて入ってきた。
最初はお母さんだと思ったので、「こんにちは」といった。
ところが部屋に入ってきても、「いらっしゃい」のひとこともない。黙ったまま、ジュースのコップを渡してくれて、確かその人は小さな声で、こんにちは、と返してくれたように思う。するとルミちゃんは「早く行ってよ」とその人に向かって言い、出るやいなや「いやなやつ」といったふうなことを言って、ドアをバタンと閉めた。そうして「挨拶なんてしなくていいの」とわたしに向かって言ったのだった。
それまでに『女中っ子』だのなんだのを読んでいたわたしは、すぐにその人が家政婦さんだということには気がついたのだが、ルミちゃんの態度にも、無言のままだった家政婦さんの態度にも、なんともいえない違和感を覚えた。なによりも、子供が大人に向かって、そんな口の利き方をすることに驚いてしまったのだった。
わたしが家でそんなしゃべり方でもしようものなら、ものすごく怒られたことだろう。
そのあとも、たとえ姿は見えなくても、ときどき遠くで物音が聞こえてきた。それほど大きな家ではない中に、家族ではない人と一緒にいるというのは奇妙なものだな、と感じた。彼女の家政婦さんを目の前にしたときの、いかにも不機嫌そうな表情の裏には、その落ちつかなさも一因だったのかもしれない、とあとになって考えたものだ。
とにかく一緒に宿題をやって、ピアノを交替で弾くと、やることもなくなったので(その部屋には本もマンガもおもちゃもほとんどなかった)、外に出て近所を一緒に散歩した。すぐ近くの集合住宅の前を通りかかると、わたしの名前を呼ぶ声が聞こえる。「どうしたの〜?」という声を探すと、集合住宅のコンクリートの階段のところで小学生の女の子たちが集まって遊んでいて、そのなかに同じクラスのケイコちゃんが混ざっていたのだった。
「ルミちゃんのところに遊びに来たの」というと、ケイコちゃんは「へえ」と少し変な顔をした。ルミちゃんは「行きましょ」とわたしを促す。なんとなくそこで遊んでいる子たちの方が楽しそうだったのだが、ルミちゃんがどんどん行ってしまうので、ケイコちゃんには、じゃ、明日ね、と言って、ルミちゃんを追いかけた。
雨のあとがまだらに染みになった壁面の集合住宅は、同じ病院の看護婦さんたちが住む宿舎だということをわたしはどうして知ったのだろう。
外国文学を読んでいると、どうかした拍子に「階級」という高い壁に気がついて、はっとさせられることがある。
たとえばイギリスやアメリカだと、労働者階級、中産階級、上流階級という区別が厳然とあり、「差別的な格差が教育システムを通じて固定化され」「階級を一つ上がるには三世代かかる」(林信悟『しのびよるネオ階級社会』平凡社新書)。
『鳩の翼』でケイト・クロイがどうしてもマートン・デンシャーと結婚できないのも、『歓楽の家』でリリー・バートが転落していくのも、『グレート・ギャツビー』でデイジー・ブキャナンの愛をどうしてもギャツビーが得られないのも、すべてこの壁のためだ。
もちろん現代の小説でも、この壁は消滅してはいない。
アン・タイラーの『アクシデンタル・ツーリスト』でも、まったく異なる階級出身のミュリエルを選んだメイコンは、元妻サラに、そんな不釣り合いなカップルはだれからもパーティに呼んでもらえないわよ、と言われる。サラは「パーティ」という言葉で、メイコンが社会的な関係から外れてしまうことを忠告しているのだ。異なる階級のカップルは、どちらに合わせたところでもうひとりは場違いな存在である。そうなると、どのような社会的なつきあいを結ぶ上でも差し障りになってしまうのだ。
階級によって、住む場所や職業はもちろん、発音や言葉遣い、名前、あるいは読む新聞や雑誌、乗る車、着る洋服のブランド、食べる物や学校、生活の隅々にいたるまで決まる。階級のあいだには、歴然とした壁がある。
それにくらべると、戦後の日本の文学で「階級」がどうしようもない壁として主人公の前に立ちふさがる、という作品はあまり思いつかない。階級をはっきりと打ち出したのは、プロレタリア文学を除けば『斜陽』あたりだろうか。それにしても、太宰自身が華族ではなかったために、風俗や場面の背景描写はともかく、葛藤の根源としては描かれていないように思う。
現代の日本というのは、親の職業が何であっても、もちろんそれに応じて収入に差があったとしても、家の大きさに多少の差があったとしても、たとえ高級住宅地に住んでいたとしても、飲むビールの銘柄は同じだろう(そうではないのだろうか?)。
階級がなくなったわけではない。実は、歴然としたものはいまでも残っているはずだ。ただ、それが非常に見えにくくなっている。
欧米なら、いくつも分かれている階級のうち、自分がどこらあたりに位置しているか、は小さい頃から教育される。「しかるべきふるまい」というものを、否応なく身につけさせられるのだ。
日本でも、おそらくは「しかるべきときにしかるべきふるまいをすること」や、その階級の一員が負わなければならない社会的責任とかを期待されている人々の存在は確かにあるのだろう。ところがその外側にいるわたしたちの多くは、「民主主義」とか「平等」とかという言葉によって、そういうものは「ないこと」にされているのではあるまいか。その実、その個人の出自や社会的ステイタスや教育によって、実は「階級」のなかに位置づけられているのに、「ないこと」になっている。だからたとえば社会的地位を得ることにしても、教養を得ることにしても、しかるべきふるまいを身につけることにしても、すべて個人の努力に委ねられることになる。良い地位につけないのは、その人が努力しなかったから。教養がないのも、その人が努力を怠ったから。マナーを身につけていないのもその人が努力を怠ったから。
これはもしかしたらひどくしんどいことなのかもしれない。
自分の家というプライベートな空間に、まったく赤の他人の大人とふたりきりで一緒にいる。
しかも相手は自分の親に雇われている。
そのときのルミちゃんの不機嫌と苛立たしげな態度は、その家政婦さんとのあいだに何かがあった、というより、自分がどうしたらいいのかわからないことから来る不安であり、苛立ちだったのではないかと思うのだ。
以前、何かでこんな話を読んだことがある。シンガポールだかマレーシアだか、ともかく東南アジアのある国に駐在になった日本人商社マンの話だ。現地で初めて家政婦を雇う身分になったその奥さん、冷蔵庫に入れておいたペットボトルの水を現地人の家政婦さんが飲むので、そうさせまいと、家族が飲むたびにマジックで線を引いていたのだという。そのあまりに貧乏たらしい発想に、なんともいえない思いがしたものだった。だが、おそらくいまの日本に家政婦さんとのつきあいかたをわきまえている人がどれだけいるだろう、とはやはり思ってしまうのである。
「階級」という言葉を聞くと、わたしはいつもそのときのことを思いだす。
そのとき以外に「階級」というものをリアルに実感するような経験をしたことがないからでもあるのだろう。
あの神経質そうな顔をしていたルミちゃんは、やはり医者になったのだろうか。
いまも家政婦さんを置くような生活をしているのだろうか。