Home鶏的思考的日常入り口>鶏的思考的日常 ver.16


鶏的思考的日常 ver.16〜夏が来ても思いださない 編〜



2007-09-02:ちがう記憶

人間の記憶というのは、すこぶるいい加減なものである、と、三歩歩けば何でも忘れる日々の、忘れ忘れていく記録をつづった「鶏的思考的日常」を書いているわたしが言うのも滑稽な話なのだが、ここで言おうとしているのは、そうした徐々に薄れていく記憶のことではなく、ときに、すっかり別のものに置き換わってしまうという記憶の話である。

学生時代の一時期、何かあるとよく集まるグループがあった。こうした集まりというのは、たとえ自然発生的に集まっているように見えても、実際のところは、集まりを企画し、全員に招集をかけ、日程を調整する世話役がいなければ、そうそう続くものではない。日頃からメンバーと連絡を取り合い、全員に何かと目配りをしているような核になる人間は、結局は固定していく。集団がどれほどの規模のものであったとしても、一過性のものとならないためには、システムの維持運営に献身する個人が絶対に必要、ということなのかもしれない。リーダーシップと言ってしまえば簡単だが、つねに全員のことを気にかけ続けるというのは楽なことではないし、一方の気にかけられている側は、彼、もしくは彼女の献身に気がつきさえしないこともある。言ってみれば、割に合わない役まわりなのである。

ともかくそういう献身的な人物がいてくれたおかげで、わたしたちは当時、何度となく楽しい集まりを持ったし、やがてその彼がグループのひとりとつきあうようになったのも、自然の成り行きとして、みんな好意的に受け止めていたように思う。

学生時代のボーイフレンドガールフレンドというのは、なかなか長続きはしないものだし、別れたり、また別の人間とつきあい出したり、という人間関係のごたごたは、グループ全体にも波及する。ところがそのふたりはずっと続き、やがて卒業後に結婚したのだった。卒業してもすぐにバラバラになることもなく、何度かグループで集まったのは、ふたりが結婚したということもあったのだろう。

とはいえそれぞれに進路が分かれて数年もしないうちに、わたしの方は、ほとんど誰とも会うことはなくなってしまっていた。何人かとはいまだに年賀状のやりとりだけは続いているが、そのうち会おう、と毎年のように書くだけで、連絡をとることもなければ、添え書きされたアドレスにメールを送ることもない。年末のその時期になれば思い出すような関係になったまま、おそらく積極的に関係を断つこともなく、そんなふうなやりとりが今後も続いていくのだろう。

ところがそのふたりとは、ちょっとしたことからまた関係ができて、一年ほど前から、ときどき会うようになった。仲の良さは相変わらずで、休みのたびにあちこち旅行するふたりから、ときどきおみやげにお茶だのお菓子だのをもらった。どこにも行かないわたしはお返しもなかなかできず、もらってばかりで心苦しい思いをしたほどだ。

そのふたりがうまくいかなくなってしまった。わたしも彼女の方から何度となくメールをもらって、ずいぶん彼の話を聞いた。わたしはずっと我慢していた。それに堪えていた。楽しそうなふりをしていた。対面を繕うのに疲れてしまった……。

いつだって楽しそうに見えた彼女がそんなにつらい思いをしていたと聞いて、人間というのはわからないものだな、と思った。もちろんわたしがうかつで、気がつこうともしなかったこともあるのだろう。だが、なにより驚いたのは、彼女のなかで、すべてが「悪い思い出」になってしまっていたことだった。わたしも当時一緒に経験したはずの出来事なのに、それがまったくいまの彼女には異なる出来事として記憶されてしまっているのだ。同じ登場人物による同じ出来事が、いつの間にか、まったく別のストーリーに変わってしまっていた。ちょうど、継母にいじめられたシンデレラのストーリーが、何もできなかった継子に家事をしつけた親身な後妻の物語になっていたかのように。
あのときの行為Aも、このときの出来事Bも、すべてが彼の冷たさ、身勝手さを示す物語に変容していたのだった。

何かが起こる。
いままでのすべてに、ちがった方向から光が当たる。ひとつの行為は、まったく別の動機を持ったものと解釈され、同じ出来事が、まったく別の物語となる。記憶はすべて、その別の物語へと上書きされてしまう。

けれども、たとえ彼女からさまざまな、これまで知らなかった彼の面の話を聞いたとしても、それでわたしが抱く彼のイメージが変わるようなことはなかった。もちろん驚くようなこともなくはなかったが、それも、信じられない、というよりは、むしろ、ジグソーパズルのピースが埋まっていくような感覚、空白の部分が埋まることで、より彼を深く知ったような感覚に近かった。どれだけ話を聞いても、いまの彼女が言うように、人の気持ちを思いやることができず、身勝手で冷たい本質を長く偽っていたようには思えなかったのだ。

自分はあのときどんなにつらかったか、という話を聞きながら、それでも、そのときの彼女のとても楽しそうな顔をわたしは思いだしていた。あのとき、幸せにきらきら輝いているように見えた彼女の笑顔は、どう考えても「ふり」でもなければ、何かに耐えていたわけでもなかったろう。

リリアン・ヘルマンは「ペンティメント」の冒頭で、こんなことを言っている。

 カンヴァスに重ねられた古い絵の具は、歳月を経るうちにすきとおってくることがある。そうした変化が生じると、絵によっては最初に描かれた線が見えてくる。一本の樹が、女のドレスごしに浮かび上がり、子供の姿は犬に場所を明け渡し、船の下に拡がるのはもはや大海原ではない。この現象がペンティメントと呼ばれるのは、画家が「後悔(リペント)」し、自分の考えを変えたからだ。あるいは、こうも言えるのかもしれない。かつて心に抱いた思いは、後に選びなおされ、置き換えられたとしても、やがて見えてくるし、さらには、ふたたび現れてくるのだ、と。

時間のなかで生きるわたしたちがものごとを見る位置は、つねに移り変わっていく。見方はたえず変わり、「後悔」も繰りかえす。

上書きされてしまった新しい記憶の底から、古い記憶がまた浮かび上がってくることがあればいいと思う。時間がすぎ、楽しかった記憶が、楽しかったものとして、また、浮かびあがってくるといい。

鶏頭




2007-09-01:「そんなことをしている場合ではないだろう」


下で知りもしない朝青龍のことを書いてしまったので気になって、検索していくつかニュースを読んでみた。なるほど、そういうことなのか、と思うこともあったけれど、書くほどのことでもないから、以下に書くのは朝青龍の話ではない。

思わず笑ってしまったのはこの見出し

「のんき高砂親方「私もツルツル」」

こういうのがスポーツ新聞のレトリックなのかもしれないのだが、この一見ユーモラスな見出しにこめられた意図は、ユーモラスなものとばかりは言えない。つまり、その人の言葉、公式なコメントではなく、不用意に洩らした言葉尻をとらえて、読み手をある方向に引っぱっていこうとしているのである。この場合引っ張っていく先は「そんなことをしている場合ではないだろう」だ。

スポーツ新聞ばかりではない、新聞には「そんなことをしている場合ではないだろう」という結論に導こうとする記述に満ちている。

ある事件が起こった。そのとき関係者(責任者)Aは××をしていた。
「そんなことをしている場合ではないだろう」
そうしてAの責任を問う文章が続くわけだ。

新聞の投書欄には、実際にそうはっきり書いてあったりもするが、プロの書き手は「そんなことをしている場合ではないだろう」を読み手に見つけさせるために書かない。だがたとえそう書いてはなくても、行間からははっきりそのことが浮かび上がってくる。

だが、批判したい相手なら、「そんなことをしている場合ではないだろう」というのはそれが誰であってもかならず言うことができる。というのも、わたしたちはどのような事態に直面しても、睡眠は取るし、食事も取る。休憩時間も、気持ちを休める時間も必要だ。事態が一朝一夕に片づかないものであればあるほど、解決にたずさわらない時間が必要になってくる。そういう時間や行動をとりあげさえすればいい。
だからこういうことを書くのはものすごく簡単なのだ。しかもそう書くと、なんだか正しいことをしているような気さえしてくる。だが、誰にでも書けて、誰にでも当てはまる「批判」というのは、批判などと呼べるような結構なしろものではない。

だからこういう記事を見るたびに、わたしはなんだかな、と思うのである。じゃ、高砂親方が温泉に行ったことが、あなたにどういう被害をもたらしたんですか?

中学生のころ読んだ星新一のショートショート(いまこう書きながら筒井康隆かもしれない、という気持ちがひしひしとしている)に、こういうのがあった。
人びとが感じている「公憤」を晴らしてくれる機関ができた。日頃、社会的なさまざまな不正に我慢できないN氏(でなかったかもしれないのだが、一応星新一という想定の下、こう書いておく)は、そこへ出かけてさまざまな「公憤」を訴えた。細かいストーリーは忘れたのだが、その機関の職員は、その「公憤」が、実は私憤に過ぎないことをひとつずつ明らかにしていく。結局、N氏には「公憤」などなかった……。

その議論の細かいところを覚えていればもっと良かったのだが、その部分はすっかり忘れてしまった。だが当時中学生だったわたしは、それを読んで、日頃「正義感」と呼ばれているものの大部分は、個人的なねたみとか、不満とか、そうしたものなのだな、としみじみ思ったのだった。まだニーチェのいうルサンチマンという言葉も知らなかったころの話だ。

わたしたちが、自分が責任をとることのできる組織や範囲で不正が行われている場合、つまり、自分が何らかのかたちで当事者である場合は、不正は重大な問題である。それについて解決すべく努力しなければならない、なんてことはまったく書くまでもない、当たり前のことなのである。

だが、それを人に向けるときは、十分に注意が必要だ。
その人間が負わされている条件というのは、それぞれに応じてまったく異なる。ある行動が良いか悪いかという判断も、その条件に応じて決まってくるもののはずなのである(この部分は昨日書いたことのコピペだ)。もっと簡単に言えば、人には人の事情がある。

たとえ関係なくても、直接には被害はなくても、不正を許せない、と思う。
その気持ちのどこかに、「あいつら、いい思いをしやがって」という気持ちはないか?
「公憤」晴らし機関は、受け付けてくれるだろうか。

同時に思うのは、たとえ自分のことであっても「そんなことをしている場合ではないだろう」と言えるような事態というのは、そんなにはないのではないか、ということなのだ。
この「そんなこと」というのは、何も遊びに行ったり、観光をしたり、ということを言っているのではない。たとえ大きな出来事が起こって自分がそれに巻き込まれようと、自分のルーティンワーク、仕事をし、勉強をし、本を読み、生きるため・生活のために必要なことは、できるだけこなしていくべきなのではないか、と思うのである。もちろん、食事や休息や気晴らしも含めて。
端から見れば、もっとそんなことより、と思えるかもしれない。自分のなかにも、それどころではない、あるいは、そんな気にはなれない、という気持ちが起こってくるかもしれない。だが、そういう日常を犠牲にしなければならないような場面は、実はそれほど多くはないのではあるまいか。

高校時代のことだ。こんな話を教えてくれた先生がいた。
福沢諭吉の「ペンは剣よりも強し」というのは、もともと彼の言葉ではなく、イギリスの戯曲に由来するものである、ということに続いて、大砲の砲撃が聞こえるさなかに福沢がそう言ったのは、ペンで剣をうち負かそう、という意味ではない。たとえいまは「そんなことをしている場合ではないだろう」という気持ちになったとしても、学問を続けていくこと。そうやって日々積み重ね、知性を養っていくことが、結局は剣の決着をしのぐことになるのだと。

それはその先生の独自の解釈だったのかもしれない。だが、わたしはそちらの解釈の方がずっと好きだ。

鶏頭




2007-08-31:突き刺さる視線


知り合いのなかに、人生の半分ほどを日本で過ごし、日本人と結婚したにもかかわらず、日本語をほんの片言しかしゃべれない外国人がいる。聞くほうは、早口でなければ、だいたい聞き取れるのだそうだ。だが、読むのはカタカナ、ひらがなともほとんど読めないし、漢字となると、十年以上住んでいる自宅の住所でさえ読めない。表札に出している日本人の奥さんの名字だけは何とか読めるらしいが、ほんとうにそれだけなのだ。

その彼がしゃべれる日本語は、単語をいくつかと、あとは「ソウデスネー」「アリガトゴザイマシター」ぐらい。二十年ほどそういう状態で来たそうなので、日本という国は閉鎖的だの、日本人は語学力がないだのと言われていても、実際のところは日本語が使えなくても十分生活ができるほど国際的な(英語が通じれば国際的といえるかどうかは多少疑問の余地はあるが)国ということなのだろう。

彼は日本が大好きだ。浮世絵、京都(もちろん京都駅前や四条河原町や新京極界隈ではない)、神社、寺、着物が大好きだし、お茶と生け花をたしなみ、和室ばかりの家には床の間があり、わたしには読めない字の書いてある掛け軸がかかっている。仕事のないときはいつも作務衣で過ごしているのだそうだ。

とりわけ相撲が大好きで、先日、用事があってこの人の家へ行ったときに、ちょうどいいところなのだ、としばらく待たされた。しかたがないので、一緒に見ることになったのである。

相撲というのは、実際の取り組みが始まるまでにずいぶん時間がかかるもので、見ていたわたしは、力士が土俵に上がっても一向に始まらないので、すっかり飽きてしまった。相撲をまともに見た経験もないし、力士も知らない。谷崎潤一郎が相撲がきらいだった、というエピソードをたぶん丸谷才一のエッセイだったと思うが読んだことはあるけれど、わたしの場合は嫌うほどの知識もないのだった。

それでも辛抱して見ていると、取り組みが始まった。確かに、しゃがんだ態勢から立ちあがって相手に向かっていくまでの速さとか、一瞬で技が入るところとか、見ているとおもしろい。それでも、時間にすれば一分ほどの取り組みを見るために、変化のない画面をずっと辛抱して見ていなければならないのだから、大変なのである。これなら、用事を片づけながら取り組みの瞬間だけ見れば良いのに、と思ったが、そういうわけにもいかないらしかった。

やっとのことで最後の一番になった。
驚いたことに取り組みが終わると、観客が大勢、土俵に向かって座布団を投げ入れている。彼らはいったい何をしているのか、と日本人であるわたしが、アメリカ人に対して英語で相撲のことを聞くという、不思議なことになってしまったがしかたがない。そこでモンゴルから来た大変強い、「アサショーリュー」という名前のお相撲さんのことを知ったのである。

それからしばらくのちに、「アサショーリュー」とは「朝青龍」であることを知った。その文字を新聞の見出しやネットのニュースのヘッドラインで見るたびに、座布団が乱舞していた情景を思いだしたのだった。

異国で生活するというのは、それだけできついものである。しかも、大勢の人間から注目を浴び、さらにそれが好意的な視線ばかりでないとなると、そのきつさはどれほどのものだろう。

たまに外国人と一緒に歩いていると、こんな経験をする。
人通りを歩く。店に入る。さまざまな視線が、まず自分の隣にいる外国人に留まる。ジロジロ見るわけではない。まるで見てはいけないものを見たように、そこからすっとそらされ、わたしに向かう。そうして、わたしのほうは、まるで珍しい動物を、場違いな場所に連れて入った飼い主であるかのように、上から下までジロジロと遠慮のない視線にさらされる。視線というのは、暴力的なものなのだ、と感じる瞬間である。

日本語を覚えない、というのは、おそらくそうした視線に対するひとつの対応策だ。自分は彼らとは関係ない。彼らとはコミットしない。だから、視線を向けられても関係ない。
言葉を覚えないというのは、意識して距離を縮めないということなのだろう。そうやって、距離を保つことで、その人は自分を守ろうとしているのだ。

相撲という世界にいれば、日本語を覚えないわけにはいかないだろう。自分に向けられる視線の意味も、言葉を理解することで、余計にはっきりと向き合わざるを得なくなる。防護膜もなしに、直接さらされることになる。

朝青龍をめぐる一連の報道を、別に関心を持って見ていたわけではない。ただ、ときどきニュースサイトや新聞の記事を見るだけだ。

ただ思うのは、その人間が負わされている条件というのは、それぞれに応じてまったく異なるということだ。ある行動が良いか悪いかという判断も、その条件に応じて決まってくるもののはずなのである。当然、ある行動に対する評価というものは下される。けれど、その行動の評価は、それを下す立場の人間が、あくまでもその行動に対する評価であるべきで、たとえば人間性であるとか(そもそも人間性ってなんだ?)、あるいは周囲の諸関係とか、そういうことまでが取りざたされるのは、おかしいように思うのだ。

少なくとも、なんらかの責任を持たない人間、所詮、観客(あるいは野次馬)でしかない人間であれば、批判的なことをいう前に、「まなざし」というかたちで日々彼が受けていたであろうプレッシャーのきつさに、一度、思いを馳せて見てはどうかと思うのである。

その昔、東西線の中で、とある芸能人を見かけたことがある(とある、と書いたのは、わたしがその人の名前を知らないからだ。一緒にいた友だちが、あれは××よ、と教えてくれたのだが、わたしはその人を知らなかったので、全然記憶に残らなかったのである)。 背の高い人で、昼間、がらがらの電車だったが、ドアの近く、手すりにもたれるように立っていた。だが、その人は、地上190センチあたりに目をやったまま、決して誰とも目を合わそうとしなかった。そうして、その人の周りには、確かに、「おれを見るな。おれに話しかけるな」というアウラが漂っていたのである。

鶏頭




2007-08-29:「見える」人びと

ときどき「見える」人がいる。
「あー、後ろ、いまいるんだけど、あなた、気がつかないから大丈夫ね」といった言い方をする人である。中学〜高校時代にもそういう子はいたし、大学に入ってもいた。
「さっき、いたでしょ」
「ああ、いたいた」
一緒にいたわたしの頭越しに、そういうまったく意味不明の会話をされたこともある。

わたしはそういう感受性はまったくないので、何かを感じたこともないし、もちろん見えたこともない。それでも、そういう人が嘘を言っているとは思わない。おそらくほんとうに「見えて」いるのだろう。

たとえばどこかの風景をスケッチするとする。
スケッチしようと思えば、その場所をよく見ることになる。すると、いかに多くのものを自分が見落としているかに気がつく。

あるいは石膏デッサンをする。
どうもバランスが悪い。いったい何が悪いんだろうと思って、定規を取りだして、目と目の間隔、あるいは鼻と口の間隔を測ってみる。そうやって、正確な縮尺をあてはめて、デッサンをしてみる。やはりおかしい。バランスのずれは直らない。そこで初めて気がつくのだ。実際には、どこにも線などないということを。あるのはただ面と、さまざまな角度の面で区切られた空間である。そのことに気がつく前まで、わたしの目は、線で囲まれたようにとらえていた。いったんそれに気がついてしまうと、石膏像は線で囲まれてはいなくなる。前と同じには見えなくなる。

百聞は一見に如かずというけれど、実は「見える」ということは確かなものでもなんでもない。知らない色は見分けることができないし、気がつかない柱の上の飾りは目に入らない。わたしたちは「見える」ものが一番確実なものとしてよりどころとしているけれど、それは単なる思考の癖でしかないように思う。

わたしたちはどれほど親しい相手でも、たとえ家族であっても、自分ではない他人がいったい何を見ているのか、どんなふうに見えているのか知ることはできない。赤い秋海堂の花を一緒に見ていて、ともに花びらを「赤」、おしべの部分を「黄」と話し合ったとしても、もしかすると、相手の目にはその色が逆に映っていて、わたしが「赤」と呼んでいるその色を、相手は「黄」と呼んでいるのかもしれないのだ。わたしの「赤」と相手の「赤」が一致しているという保障はどこにもない。

それとまったく同じで、「見える」と言っている人に、いったい何が見えているのかわからない以上、その人が「見える」と言っているのだから、見えているのだと思うしかない。

アーサー・ミラーの戯曲に『るつぼ』というものがある。17世紀末、セイラムの魔女裁判を描いた戯曲である。実際には1950年代の赤狩りを、魔女裁判になぞらえて批判したものなのだが、ここではそのことはおいておく。

主人公のジョン・プロクターは、一時、魔が差して、手伝いに来ていた少女アビゲイルを関係を持ってしまったが、そのことを後悔し、彼女を遠ざけるために解雇した。ところがアビゲイルの方はそれが納得できない。なんとかプロクターの心を取りもどそうとする。

アビゲイルは同時に、同年代の少女たちに影響力を持つリーダーである。彼女が悪魔や魔女が見える、と言い出すと、実際に見える少女たちが続出する。なかには憑き物に襲われたように、あらぬことを口走ったり、気絶したりする子まで出てくる。

そうして、彼女たちを中心に魔女裁判が始まる。それまでセイラムという町で、地位も低く、誰にも重きをおかれず、いてもいなくても同じだった少女たちが、一転、権力を手中にしたのである。彼女たちが告発すれば、たちまちその人間は「魔女」となる。そうして百人以上の人間が「告白」し、19人が絞首刑になる。

戯曲では、アビゲイルには、はっきりとした意図がある。けれどもそれ以外の少女たちは、ほんとうに何かが「見えて」いたのだ。

「見える」か「見えない」かというのはどういうことなのだろう、とあらためて思ってしまう。「見える」ことは、それだけで何かを意味するわけではない。けれど、わたしたちはそこにそれ以上の意味を与えてしまうことがあるのだ。

問題は、結局は自分が「見える」ものが、自分にどういう意味を持っているか、ということではないのか。

ここは以前墓地だった。だからそこらへんをうろうろしている気味の悪い姿が見える、という人がいる。
見えるならそれでいい。けれど、それはわたしとは関係がない。わたしのなかで、どういう意味も持たない。だから、ああ、そう、としか言いようがない。

鶏頭




2007-08-28:金縛り愛好家

金縛りのことを知ったのは、小学生のころ、横溝正史の『八つ墓村』を読んだときだ。『八つ墓村』は特に最初のあたりが恐くて、読んでいると後ろから何かが来そうで、壁にぺたりと背中をつけて、床に座り込んで読んでいたような気がする。そのなかに、主人公の語り手が夜、寝ていて、金縛りに襲われるという場面があったのだ。

部屋の中に人の気配がする。主人公は目覚めているのに、目を開けようにも開けることができない。物音を聞くことはできるのに、体を動かそうにも、指先一つ動かすことはできない。のしかかられたように体が重く感じる。別に不気味な場面ではないのだが、やはり恐くて、恐いものが何より好きだった当時のわたしは、恐いながらも胸がワクワクした。以来、「金縛り」というと、「八つ墓村」と、すっかり刷り込まれてしまったのである。

高校のころ、基本的に勉強というものはほとんどしなかったわたしであるが、それでも試験前になると、なんとかしなくちゃなあ、という気分になって、ちょこちょことやっていたのである。そうして、草木も眠る丑三つ時を過ぎたころ、そろそろ寝なくちゃなあ、と思って、蒲団に入ってから一時間もしたころだろうか。体がしびれたような感覚にはっとした。これが金縛りだ! 寺田辰弥の経験したあれだ! 恐怖感というより、本に出ていたことが体験できたうれしさに、ワクワクしたのだった。

わたしはふだんからかなり血圧が低いのだが、深夜を過ぎると、いっそう血圧が低くなる感じがすることがある。脳貧血とまではいかないが、頭がぼうっとして、体の感覚が鈍くなるのだ。こういう状態で眠りにつくと、一時間ほどすると金縛りが来ることがわかった。
以来、その金縛りを体験したさに、夜遅くまで本を読んだり勉強したりして、実際、何度となく金縛りを経験した。じきに体調を本当に崩したのでやめてしまったが、「こうすればかなりの高確率で金縛りを体験できる」とわかったので、それで十分だった。

やがて大学に行って、寮生活をするようになる。わたしの部屋は北向きの部屋だったのだが、そこに入ってしばらくして、上級生たちが「何ともない?」と聞くのである。いったい何ごとか、と思ったら、とにかくそこの部屋に入った寮生は、金縛りにあいやすい、という評判なのだそうだ。感じやすい人は気持ち悪がっているのだが、あなたはどう? ということだった。
全然平気ですよ、とわたしは元気に答えたのだが、そのなかには「たとえ金縛りにあったとしても平気」という気持ちももちろんこもっていた。

ところがそうは受けとられなかったことに後になって気がついた。
わたしは霊的な感受性の極めて低い、言葉を換えれば大変に鈍い新入生である、とレッテルが貼られていたのだった。

鶏頭




2007-08-26:回覧板と近所づきあい


回覧板というものがある。わたしが現在住んでいるところでは、平均すると週に一回程度、回ってくるだろうか。地域の清掃やゴミ出しについての諸注意など、具体的に関係あることもあるし、まったくわたしには無関係のこともある。いずれにせよ回ってきたら中身を読んで、読んだしるしをつけて、すみやかに隣の家の玄関にぶらさげておく。

ところが帰省してみると、回覧板は、玄関のチャイムを鳴らして隣の人が持ってきてくれ、そうして「暑いですねえ」「いつになったら涼しくなるんでしょうねえ」などと、言葉を交わして渡していき、そしてまた家からもそういう言葉と共に、さらに隣の家へ手渡されていくのである。いまもわたしが子供の頃とまったく変わっていない受け渡し方法が続いていたことに驚いてしまったのだった。

わたしの実家がある地域のように、住民の移り変わりがそれほど頻繁ではなく、互いが顔見知りで「地域コミュニティ」というものが成立しているようなところでは、いまでもそんなふうな回覧板の受け渡しが成立しているのだろうか。それとも、日中、人がいないようなところでは、いきおい受け渡しもむずかしくなるので、住民の年齢層も大きな要素かもしれない。

ファックスがたいていの電話の機能についたころは、ファックスというのはずいぶん便利なものだと考えられた。ファックスを送るよ、という連絡を入れたのちにファックスを送ることもあったが、やがてこちらの要件を一方的に伝えるだけでいいようなときは、電話もせず、いきなりファックスだけを送るようになった。コールが入ってすぐに受話器を取ってしまうと、送信されなかったり、紙がつまるなどの機械トラブルがどちらかの側に起こっても気がつかずにいたり、いろいろ失敗も多かったが、相手と話をしないで、要件が片づけられるというのが、ひどく心理的にラクなように思えたのである。

そこからさらにメールが一般的になった。ファックスなら、送ろうと思えば、その分量に差があるにせよ、自分の手で要件を書かなければならない。自分の文章が相手に届き、自分の書いた字が相手に届く。
それに対してメールは、その人の痕跡が、ファックスよりもさらに残りにくい。こうして人と人の関係は、どんどん「見えなく」なっていく。

考えてみれば、電話が登場する前は、何かを伝えようと思えば、手紙を書くか、直接会うしかなかったのである。コミュニケーション技術の発展とは、人と人の関係を近づけているのか、遠ざけているのか、どうもよくわからなくなってくる。

ただ、ひとつだけ言えるのは、「安全」ということを考えたとき、地域住民が互いに顔見知りであることは重要だということだ。
以前、バスジャック事件が起こったことがあるが、たとえ武器を携帯していたとはいえ、犯人はたったひとりの高校生だったのだ。直接言葉を交わして事前に協議できなかったとしても、もし乗客が互いに顔見知りで、自分がこうしたら、○○さんは協力してくれる。××さんも力を貸してくれる、という読みが可能であれば、乗客同士が協力して拘束したり、武器を取り上げたりすることは可能だったのではないか。
同じように災害が起こったときでも、地域住民が顔見知りであれば、協力態勢もずいぶんスムーズにいくだろう。

家族の規模が小さくなればなるほど、わたしたちが血縁を介して知り合うことのできる他人の数は減っていく。職場で会う人というのも、その職業にはよるけれども、ずいぶん限られているのではないか。毎年、半ば強制的に何十人かと知り合いになる学生時代を終わってしまえば、わたしたちのつきあう人の数というのは、極めてかぎられてくるのかもしれない。

一方で、昔はそうした「近所づきあい」というのは鬱陶しいものでもあった。近所の目、詮索、噂、いまのわたしたちのありかたは、そうしたわずらわしいものを排除した結果なのかもしれない。他者が他者を気遣う、というのは、両面があるのだ。

昨今の犯罪報道など見ていると、日本もずいぶん物騒になったような気がする。一方で、そうした「印象」がきわめてあやふやなもので、どれほどの根拠があるのか、という意見もある。そうした意見を聞けば、それももっともだと思う。それでも、新しい形での近所づきあいのありかたを考えていく必要はあるように思うのだ。
何かあったときに、助け、助けられることができるような、関係のあり方。それぞれが安全に日々を過ごすことができ、なおかつ、放っておかれる権利も有するようなあり方。
具体的にはどんなことから始められるのかは定かではないが、とりあえず、同じ集合住宅の人とは、エレベーターで会ったとき、ゴミ捨て場で会ったとき、挨拶は交わしたいと思うのである。

鶏頭




2007-08-06:ジャパニーズ・ゴースト・ストーリー


わたしが最初に「怖い話」を聞いたのは、母からだったように思う。
たぶん小学校にあがった年の夏、友だちが泊まりに来たときのこと。日の長いころで、晩ご飯を食べ終わっても、外はうっすらと明るい、そんな時間帯だったように思う。当時は夏、暑いといってもいまほど暑くはなく(小学校の時の先生が、インドでは夏、気温は体温より高くなるんですよ、と話してくれて、36℃を超えるほど暑いのか、とんでもないところだな、と思ったのを覚えている。いまはちょっと暑い日の昼下がりともなれば、平気で体温を超える暑さを経験できる)、当時、わたしの家にはエアコンもなかったかもしれない。ともかく、そんな薄暮の時間帯、猫の額ほどの庭に面した縁側に腰かけて、足をぶらぶらさせながら、友だちと一緒に、母の話を聞いたのだった。

そのとき聞いたのは、いわゆる食屍鬼もの。一高生がだんだん顔色が悪くなってやせ衰えていき、夜中に寮を抜けだすので友人があとをつけていくと墓地へ向かっていき……、というやつで、具体的な地名は出てくるし、そこには行ったことがあるし、で、怖くて怖くて、友だちとふたり、抱き合ってきゃあきゃあ言っていたような気がする。怖いがおもしろい、もっと聞きたい、とせがんで、線路工夫が地下鉄の線路を直していたら、突然線路がカタカタと鳴りだし、あわてて待避場所まで走っていくと、電車がすごい早さでかけぬけたのだが、運転席にはだれも乗っていなかった、などといった話をいくつか聞かせてくれたのだろう。

そのときの印象がよほど強烈だったのか、それ以来、わたしは怖い話がすっかり好きになってしまった。シャーロック・ホームズも『バスカヴィル家の犬』とか『まだらのひも』とか、謎のおもしろさより怖さの要素の強いもののほうが断然好きだった。実際、子供向けにリライトされた「ワトソン少年」が出てくる『バスカヴィル…』をわたしはいったい何度読み返したことだろう。バリモアだのステープルトンだのという名前を聞くと、未だに陰気な執事や、捕虫網を持って沼地を駈けている昆虫学者を咄嗟に思い浮かべてしまう。

怪談も、『耳無し芳一』から始まって、『雨月物語』や『番長皿屋敷』『四谷怪談』や『牡丹灯籠』や『累ヶ縁』などを読みあさった。これらの本はすべて子供向けにリライトされたものが出ていたのである。ありがたいものだと思う反面、『累ヶ縁』など小学生に読ませるというのはいかがなものか、と思わないでもない。それでも、横溝正史の『悪魔の手鞠歌』の犯行の動機はどうしても理解できなかったのだが(同じ近親相姦でも、『悪魔が来たり手笛を吹く』のほうは兄妹だったので理解できたのだが、こちらのほうは表面的には血縁関係はなかったので理解ができなかったのだ)、『累』のほうの「めぐる因果」はちゃんとわかっていたような気がする。

とにかく、こういう本ばかりでなく、ちゃんと親の喜びそうな本も読んでいたので、買おうとするとき文句はいわれても、それほど怒られたりはしなかった。それでもわたしが夢中になって繰りかえし読んだのは、『銀河鉄道の夜』ではなく、足のないはずのお露が下駄をからころさせてやってくる『牡丹灯籠』の方だった。子供というのはロクな本を読まなくてもちゃんと育つものなのである。ちゃんとした大人になったかどうかは多少問題があるにせよ。

なんでこうした話がそこまでわたしをひきつけたのだろう。
学校でも、どこそこは病院の跡地で……、とか、あそこの墓地の……、といった話はときたま耳にしたけれど、そういうのはストーリーではなく、「目撃情報」(?)だったので、わたしにはあまりおもしろく感じられなかった。教室ではコックリさんの禁止令がやがて出るほど、一種のブームになっていたのだけれど、そういうのを夢中でやっている子たちを見ていると、バカバカしいのを通り越して、次第にイライラしてくるのだった。にもかかわらず、そういう自分はお化け物語に夢中だったのだから勝手な話である。

おそらくは、そうした本を読みながら、怖がっていた、というより、それからどうなるんだろう、というサスペンスに夢中になっていたように思う。怪談にしても、推理小説にしても、発端があり、途中があり、解決がある、非常に起伏に富んだ物語なのである。その途中には大きな空白があり、それからどうなるのか、その先を知りたい、という好奇心は、馬の目の前にぶら下げられたニンジンのごとく、わたしたちを先へ先へと引っ張っていく。

「物語が、すべての小説に共通するいちばん重大な要素です。そしてわたしは、そうでなければいいのにと思います。もっと別なものが――たとえば美しい旋律や、真理の認識などが――小説のいちばん重大な要素ならいいのにと思います。物語などというこんな下等な、原始時代に戻ったようなものでなければいいのにと思います」

(E.M.フォースター『小説の諸相』中野康司訳 みすず書房)

怪談や推理小説というのは、フォースターの言う「下等な、原始時代に戻ったようなもの」ばかりからできているもの、と言えるのかもしれない。それを読んで深く考えるようにはあまりならないだろうし、散文の美しさに目覚めることもあるまい。それでも、読む楽しさ、ページをめくるのももどかしいような、早く先を知りたいという思いを味わうことができたのは、そういう物語のおかげだった。十歳前後のわたしは、幽霊だの人殺しだの、えらくグロテスクな世界にどっぷりと浸っていたのである。

最終的にこうした小説を卒業したのは、おそらくスティーヴン・キングのせいだったのだと思う。初期のキングはほんとうにおもしろかった。ところが、突然、おもしろくなくなるのである。『呪われた街』から始まって、『シャイニング』も『クージョ』も『デッド・ゾーン』も『ファイアースターター』も『ペットセマタリー』も、うっとりするぐらいおもしろかった。ところがその時期を過ぎたキングは、何かが落ちたようにおもしろくなくなる(『IT』はストーリー・テリングの巧みさは認めるけれど、もうその「何か」は落ちているように思う)。基本的にわたしはつきあいが良いので、おもしろくなくなってもずいぶん読み続け、そういうなかではひさしぶりに『ドロレス・クレイボーン』はおもしろく読みもしたのだが、そんなふうに半ば惰性で読んでいたから、すっかり興味が失せてしまったのかもしれない。

あるいは、筋のない小説、どこから始まって、何も解決のつかない小説のおもしろさが理解できるようになったからなのだろうか。それとも小説自体、読む機会がめっきり減ってしまったからなのか。ともかくいまは、まったく手に取ろうとも思わないのである。

いつのまにか、「怖い話」はわたしにとってちっとも怖いものではなくなり、同時に興味を引かれることもなくなってしまった。そうしてわたしにとっての怖い話とは、人間の愚かしさであったり、気がつかずに暴走してしまう人々の集団意識だったり、さらにはどこまでいっても賢くならない自分の愚かしさであったり、銀行の通帳残高だったりするようになったのだった。

鶏頭




2007-08-04:努力するのは何のため?

先日、「わたし、努力がきらいなんです」と言う人と話す機会があった。

確かに「努力」というと、なんともアナクロな感じがするし、いまではその言葉を聞く機会も減っているように思う。使われたとしても、「努力すればいいってもんじゃない」とか、「どれだけ努力しても才能がなければダメだ」とかいうように、否定的な文脈で使われることの方が多いのかもしれない。それでも、自分が実際にその言葉に相当するような行為をするかどうかはさておいて、「何か“こと”をなしとげようとするなら、そのための努力は不可欠である」「努力することを回避して、いい結果だけを期待するのはひどくムシのいい話だ」という考え方は、わたしたちの共通認識として、いまだ否定されるにはいたっていないのではあるまいか。

それを、ことさらに悪ぶってみせるわけでもなく、その人はさらりと、まるで「わたし、魚がきらいなんです」とか「帽子をかぶるのがきらいなんです」というような調子で言ってのけたのに、こちらの側が驚いてしまったのである。

もちろん努力というものは、陰でこっそりやるものであって、「これみよがしの努力」などというものは存在しない。だから、努力が好き、と公言するような人は、おそらく実際にはいないだろうし、仮にいたとしても、その人がほんとうのところ努力家かどうか、どこまで実際に努力を続けているかどうかはかなり疑わしい。ほんとうの努力家というのは、どこまでいっても「自分はまだまだ」と考えているような人ではないか。

それでも「がんばってるね」と声をかけてもらえれば、ああ、見ていてくれた人がいたんだ、と、うれしくなるし、自分ががんばっているところを見てほしい、努力していることを知ってほしい、という気持ちは、だれにだってあるだろう。しかも、そうすることで何らかの結果が得られれば、やはり努力してよかった、努力したからこそ、こんなにもうれしいのだ、と思う。そういうことがわかっているから、わたしたちは日々のおもしろくもない繰り返しに耐えることができるのだろうし、疲れていても、うんざりしていても、もうひとふんばり、とふたたび取りかかることもできるのだろう。

だから、努力、と毛筆で書いて、部屋に貼るような人は、いまの時代、いるとは思えないけれど、それでも努力は大切なことだ、という考え方は、なかなか否定するのがむずかしいのではあるまいか。少なくとも、やりたいことがあったり、獲得したい目標があるとき、そこに到達するための「努力」は不可欠だろう。

わたしはその人に聞いててみた。
――何かを得たい、と思ったときにはどうするの?
――別に何も。
――それで、うまくいく?
――ときどき。

その確率を上げようとは思わないのか。あるいは、棚からぼた餅が落ちてくるのを待っているだけでなく、ぼた餅を手に入れるまでのプロセスを意義のあるものにしようとは思わないのか。
そういうことを聞こうかと思ったのだが、なんとなく聞いても共通の前提が成り立たないような気がして、聞くのをやめてしまった。

ただ、あとになって、こういう場合、その人はどうするのだろうか、と思うことがあった。たとえばだれかが好きになる。距離を縮めようとし、会う機会を増やし、さまざまなことを一緒に経験しようとしてみる。メールを書き、電話し、ひとりのときも相手を思う。こうすることと比例して、その相手は、どんどん自分にとってのかけがえのない人となっていく。

つまり、努力というプロセスを経ることによって、わたしたちが求めようとしているものは、わたしたちにとってかけがえのないものとなっていくのである。

最初にそれがほしい、そのことができるようになりたい、そうなりたい、と思った段階では、ただのあこがれだったり、何となく、という漠然としたものであるのかもしれない。だが、そこからそれを手に入れるための努力をすることに比例して、その意味が自分の中で大きくなっていく。

もちろん、どれだけ一心に思ったとしても、言葉を換えれば、努力をしたとしても、相手が自分の思いに応えてくれるかどうかはわからない。自分の思いは、自分の外に出ては何の意味も持たないかもしれないと、痛切に思い起こさせるのが恋愛だ。
恋愛ばかりではない。サッカーが好きでサッカー選手になりたい子供がみなプロサッカー選手になれるわけではない。

だが、その結果にかかわらず、何ものかを求めて努力するプロセスは、確かにわたしたちとそのものの結びつきを深めていく。わたしたちはそのプロセスにおいて、自分にとってのかけがえのないものを作り上げていく、とも言える。かけがえのないものがどこかにあるのではない。自分自身の手でそれを作り上げていくのだ。

それは、結局は自分には手の届かないものなのかもしれない。けれども、そうすることによって、どこに届かなかったのかはわかる。どこまでなら、届くのかも。

なにもせず、ただそうなったらいいなあ、と夢見ているだけなら、なんでも宝くじと同じだ。当たるかもしれないし、当たらないかもしれない。当たらなくても、別に何をしたわけではないから、肩をすくめて、それでおしまい。
つまり、努力をしない、と公言する人は、自分は自分にとって大切なものを作ろうとはしない、と言っているのと同じなのかもしれない。

強く望むことがなければ、手に入らなくても失望はない。途中、苦しむことも、つらい思いをすることもない。
確かにそれはそのとおりだ。だが、何かを望む人が、それを手に入れようと、さまざまに試行錯誤を重ね、あるいは練習し、勉強し、誰かのことを深く思っているあいだ、強く望まない人はいったい何をしているのだろう? 昼寝でもしてるんだろうか。

鶏頭




2007-07-10:過ぎたるは及ばざるが如し

飲み過ぎ、食べ過ぎ、というものがあるように、人間の行動にはすべて限界というものがあるように思う。食べたり飲んだり、あるいは働きすぎたりを除いては、ふだん、あまりそういうことは意識されないが、それもただ、そういう機会がないだけではないのだろうか。

あまり一般的ではない「〜し過ぎ」に何があるだろうと考えて、思いだしたのが高校時代の先生の話だ。
その先生は、授業中脱線すると、大学生というのはいかにグータラな生活をしているかということばかり話していた。脱線といっても行き先を知らない脱線ではなく、いわば授業半ばになると、「大学生というのは」というポイントから支線に入っていき、「昼過ぎに起き出して」「一晩中麻雀をして」「夜が明けてから床につく」という駅を通過して「君らもはよ大学に行け」というポイントでふたたび本線に戻る。車窓の風景は多少ちがったが、ポイントも通過駅もいつも同じだった。

これはそんな話のひとつである。
例によってこの先生(当時はまだ先生ではなかったが)、昼過ぎに起きて、友人と喫茶店に行ったという。みんなでぐだらぐだらと話をしていたところへ、ひとりがパチンコで勝った、と景品のタバコをたくさん持って来た。店を出ると金がかかるから、昼過ぎに入ったきり、コーヒー一杯で夜までねばり、なんとひとり八箱のタバコを吸ったのだという。外に出ると、吐き気がするわ、地面が波うつわ、「ああ、自分はタバコに酔ったんだ」と思ったんだそうだ。
いま考えると、食事もとらずに空気の悪いところにいたわけだから、脳貧血を起こしたのではないかと思うのだが、その当時は、なるほど、タバコでも酔うんだ、と思った記憶がある。それにしても、自堕落な生活だなあ。

わたしの場合、そもそも酒は飲めないし、あぁ、食べ過ぎた、ということがあっても、元々の量が知れているので、ほんの一時間ほどで胃が重いのも忘れてしまっている。

それでも、ああ、もう限界を超えた、という状態になってしまった経験はときどきある。
いまは英語で話す機会がきわめて限られているので、そんなことはもう起こらないが、英語というのは一定時間を超えたら、頭が、というより身体が英語を受けつけなくなってしまう。話すのも聞くのも限界ラインがあって、そこを超えたらもうひたすらゴメンナサイをして、家に帰って寝るしかない。これは昔、何度か経験したことがあった。

人と会うのも、限界がある。もちろんずっと一緒にいて、ああ、もう十分、ひとりになりたい、と思わない人もいる。それどころか、どれほど話を聞いても、まだまだ聞いていたい、しゃべり足らない、と思う人もいるのだが、そういう特殊なケースをのぞくと、一日にあまり多くの人に会ってしまうと、あるいは、あまり長い時間いっしょにいたりすると、その人の話に飽きたわけでも、退屈になったわけでもないのに、ちょっと疲れて口を利きたくなくなり(イエローゾーン)、ごめん、ちょっと、とひとりになってしまいたくなる(レッドゾーン)。
これは「人といすぎ」なのである。

本を読んでいてそうなったのは、これまで一度だけある。走り読みとか、部分的に読むのではなく、最初から最後まで一日に十一冊読んだことがある。そのときは、夜、気持ちが悪くなって吐き気がした。これは目が疲れた、というよりも、本当に「酔う」感じだった。

わたしは三半規管がどうも強いらしく(鈍いという説アリ)、これまで乗り物に乗って酔った経験がない。以前波の高い日に高速フェリーに数時間ほど乗って、気持ちが悪くなる人が続出したことがあったが、わたしは全然平気だった(実はこれは自慢しているのだ。遠洋漁業の乗組員になるべきだったのかもしれない)。だから「車酔い」というのがどういうものか知らないのだが、その本を読みすぎたときの「吐き気」が「車酔い」に一番近かったのではなかったかと思っている。

これは酔ったわけではないが、十六時間、各駅停車の電車に乗ったときはもう全身がぐだぐだ、関節に力がまったく入らなくなるほど疲れた。おべんとうを食べようとして、箸をにぎったら、落としてしまったほどだ。

文章を書くのも限界がある。
昨日から、延々と詰めて書いた(※
「「真似」る話」)。いまは脳みそがおがくずになり、イエローゾーンから、レッドゾーンへとゆっくりと針が振れていっている。
ということで、レッドゾーンに突入しないうちに終わるのである。

鶏頭




※ご意見・ご感想はこちらまで


home