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鶏的思考的日常 ver.18〜月見ても昔のことしか思い出せず 編〜



2007-10-31:図書館にて


先日図書館に行ったら、貸し出しカウンターで「おじさん」といったらいいのか、「おじいさん」といったらいいのか、ともかくその判断に迷うぐらいの年代の人が、窓口の人に文句を言っていた。どうやら予約をした本が人気のあるものだったらしく、二ヶ月半(となんども繰りかえしていた)待ってもまだ読めない、それで市民の図書館といえるのか、ということらしかった。

その腹立ちはわからなくはないけれど、図書館の職員に訴えても仕方がないことだろう。図書館というのは元来そういうものだからだ。人気のある本なら、二十冊くらい入ることもあるが、多くは一冊、せいぜい三、四冊というところだ。貸出期限が二週間、それぞれがその期間いっぱいに借りていたとすると、予約順位が八位だったら四ヶ月は待たなければならないことになる。それが待てないのなら買うしかない。ベストセラーなら中古屋に並ぶのも早いだろうし、ものによっては半額以下で手に入れられる。それさえ買いたくないのなら、辛抱して待つ。それが図書館とのつきあい方だろう。

ところがそのおじさんは、カウンターを手のひらでばんばん叩いて、大きな声を出したり、あんたじゃ話にならん、館長を呼べ、と威嚇したり、どうして改善しようとせんのだ、と、くどくどねちねち大きな声で(「くどくどねちねち」と「大きい声」というのは形容矛盾と思われるかもしれないが、そのおじさんは確かにその双方の形容があてはまる言い方をしていたのだ)文句を言っているのである。書庫請求をしたわたしはかなり長いことその場で待っていたのだが、わたしよりだいぶ前から苦情をぶちまけていたらしいその人は、言うべきことも言い尽くしたであろうに、同じことをただ繰りかえしていたのだった。

以前、中島義道の『人を嫌うということ』という本を読んだときに、人を嫌いになるのは好きになることと同じくらい当たり前のことなのに、不当にも無視されてきた、という一節があって、ほんとうにそうだなあと思ったのだけれど、同じことは「怒る」ことについても言えるのではないか。

人を愛するということはいいことだ、とか、こんなふうに人を愛したらいい、とかいうハウツー本は山のようにある(読んだことはないが)のに、「こんなふうに怒ったらいい」「正しい怒り方」を指南してくれる本というのを見たことがない。

怒らないでいられる人はいない。怒るべきとき、というのもあるだろう。だが、反面、どこまで怒るか、どこで止めるか、という判断を適切にすることはきわめてむずかしいのではないか。日常の些細なトラブルの解決に、怒りは何の役にも立たないことなら、たいていの人はわきまえているはずだ。それでも怒ってしまうのは、怒る必然が誰にもあるからなのだろう。

うまく怒る、というのは、ほんとうはとてもむずかしいのではないか、と思う。

わたしもこのあいだ、上・中・下の三巻本を借りようとして、三冊にカウントされたときは、思わずムッとしてしまって、上・下セット本は一冊の扱いではないんですか、と聞く、というか、問いただすような言い方をしてしまったことがあった(貸し出し限度が八冊までなので、三冊扱いか一冊扱いかというちがいは大きいのである)。
すると職員は平然と、上・下本は一冊扱いですが、そういう処置は上・下だけに限られます、三分冊以上は一冊ずつとカウントしています、そうしないと、コミックス類など、きりがないですから、と言われてしまって、確かにそう言われてみればそのとおりだなあと思い、ああ、そうですか、と引きさがらないわけにはいかなかった。

さすがにわたしは人間が練れているので(含嘘)そこでごねるようなことはしなかったけれど、借りたかった二冊をあきらめて棚に戻しながら、やっぱりなんとなくおもしろくなかったのである。つい、『アンナ・カレーニナ』が上下二分冊なら「一冊扱い」で、岩波文庫みたいに八分冊だったら「八冊扱い」というのはおかしくないか、とか、『荒涼館』も全集で借りたら「一冊扱い」、ちくま文庫だと「四冊扱い」というのもおかしな話だ、と、その気もないのに頭のなかでこっそり相手を論破する材料を集めていたのである。

(※これはのちに
「怒る話」になりました)
鶏頭




2007-10-20:カニとダイコンとウニの話


山田風太郎の『風眼抄』のなかに「蟹と大根」という短いエッセイが所収されている。

風太郎は兵庫県の但馬地方の出身である。一口に但馬地方といっても、わたしなど土地勘のまったくない者にはよくわからないのだが、海に近い地域と山深い地域があるらしく、風太郎が生まれたのは養父(やふ)郡関宮村(現在は町)というところで、そこは中国山地の山懐に抱かれた場所だったらしい。だが、小学校の四年五年の二年間だけ、風太郎、というか、山田誠也少年は同じ但馬でも海岸の村で過ごすことになる。その二冬のあいだに食べた蟹の味噌汁がたいそうおいしかった。しかも風太郎は「おいしかった」という記憶だけでなく、味までもずっと覚えていて、後年、奥さんに「蟹の味噌汁」を作らせていたのだそうだ。

ところがその「蟹の味噌汁」というのはこんなものなのだ。

 それが甚だおかしいのだが、なんと大根の味噌汁がこの蟹の味噌汁とそっくりの味なのである。蟹と大根、いくら考えても似ても似つかないものだが、事実、よくある大根を千六本に切った味噌汁が、ふしぎなるかな蟹の味噌汁の味と一脈も二脈も通じるのだからしかたがない。
「これだこれだ」
というわけで、わが家で、
「オーイ、カニの味噌汁作ってくれ」
というと、実は大根の味噌汁のことなのである。

(山田風太郎『風眼抄』中公文庫)

この部分に続いて、但馬の蟹の味噌汁には大根が入っているから、という謎解き? がしてあるのだが、それにしても、大根の味噌汁を「蟹の味噌汁」と呼ぶのは、かなり、というか、ものすごく強引のような気がする。だってわたしもときどき大根を千切りにして味噌汁を作る(たいてい油揚げか、あるいはワカメと一緒に)けれど、どう考えても「蟹」の味とは思えないもの。

このエッセイは、「舌の記憶は恐ろしいものだ。ふつうの記憶は忘れていることを、条件反射として舌がおぼえていたのだから」と続いていくのだが、これを果たして「おぼえている」といっていいものかどうか、悩ましいところである。

さて、小さい頃食べておいしかったもの、というと思い出すのは父親が持って帰った寿司折りのウニの寿司だ。たぶん折り詰めはひとつだけ、それを、おそらくは寝る前にみんなで分け合ったのだから、わたしが食べたのもふたつか三つだったのだろうが、そのなかにウニがあったのだ。

小学校の一年か二年で、それまで「ウニの軍艦巻き」というのは食べたことがなかった。それを食べて、夢のようにおいしい、と思ったのだ。目の前が明るくなるほどおいしい、世界があざやかに見えるほどおいしい、そんなおいしさが世の中にはあるのだ、と。どうやらそれからのちも、しきりにおいしかった、おいしかった、と繰りかえしていたらしい。それを見かねたか、父にその店に連れていってもらったのだ。たぶんそれが寿司というものをカウンターで食べた最初の経験である。とにかくウニばかり食べたような気がする。

精算のとき、一万円札を出して返ってきた千円札の枚数を見て、お寿司というのは高いものだ、と思ったのだった。それ以降、そこに連れていってもらったことはなかったが、わたしもまた連れていってくれとはねだらなかったように思う。

お札の顔から聖徳太子と伊藤博文が消えたいまでは、回転寿司の普及のおかげで、寿司もずいぶん庶民的な食べ物になった。たまにわたしも行く機会があると、すこし値段の高い絵皿に乗って回ってくるウニをやはりひと皿は取る。けれどもそれはあくまでも何皿か食べるうちのひと皿で、そのときの「夢のようにおいしい」味とは、まったくちがっているように思うのである。

これは「舌がおぼえている」ということなのだろうか。それとも「大根の味噌汁」を「蟹の味噌汁」と記憶してしまうような、捏造がつきものの「記憶」のなせるわざなのだろうか。ときどき考えてしまうのである。

山田風太郎の「蟹と大根」のつぎは、「昔のものはほんとうにうまかったか」というエッセイで、「あとになってから多分に粉飾された想い出で、それこそ人工着色するということもある」とちゃんと書いてある。確かに風太郎先生もわかっておられたのである。

鶏頭




2007-10-11:防空壕の記憶

小さい頃、母親の実家に行ったとき、近くの山腹に「防空壕のあと」といわれる穴があったのを覚えている。

実際にはその地域は空襲はなかったらしいのだが、10キロほど離れた場所では何度か空襲があったために、各家庭では防空壕を堀ったらしい。だが、戦争中はあちこちにあった防空壕も、戦争が終わると、端から埋められていったという。それがその場所だけはどうしてか、穴のあいたまま残っていた。記念に残しておく、という計画でもあったのかもしれない。

わたしがそこに行ったときには、子供が入ったりしないように、手前に柵が張ってあった。それでも絶対に中に入ってはいけない、と口うるさく言われていて、その前を通りがかるだけで、なんだかドキドキしたものだった。怒られないように少し離れた場所から中をのぞいてみる。真っ暗なだけで何も見えなかったが、本を通じて戦時中の生活を少しは知っていたわたしは、自分と同じぐらいの子供がそこへ入るとしたら、夜などさぞ恐かっただろう、と思ったものだった。

伯母さんは小さい頃、何度か空襲の経験がある人だった。
空襲があるときは、たいてい通知があったらしい。ビラが空から撒かれ、その日はみんな空襲に備えて、枕元に防空頭巾や持って逃げる手回りの品をつめたリュックサックを置いておき、服を着たまま眠ったという。

大切なものは防空壕にいれたり、缶に入れて地中に埋めたそうだ。そのおばさんが庭に埋めた缶は、戦後になって掘り出そうと思ってもどうしても見つからず、残念だった、と繰りかえし言っていた。本とアルバムとレコードとお母さんの形見の真珠のネックレスを埋めたのだそうだ。
「みんなは、盗られた、言うとったけどね、わたしはまだそこに埋まっとるような気がするんよ。ときどき、夢にも見るわ」

わたしはそれを聞いたとき、自分なら何を埋めるか考えたものだった。
空襲で、家が焼けるかもしれない。何もかも燃えてしまうかもしれない。自分も死んでしまうかもしれない。それでもあとに残しておきたいものはいったい何だろう。わたしが生きた証となるようなもの。のちに掘り返しただれかが、わたしを思いだすよすがとなるようなもの。
そのとき、そこまで考えたとは思えない。だがそのときのわたしは、やはり本を選ぶと思ったことは覚えている。
当時は小学生で、本といっても、まだまだたいした本は読んでなかったような気がする。それでも、自分が考える一番大切なものは、やはり本だった。
もうそのころからすでに、本は活字が印刷してある紙をたばねたものとは思えなかった。その奧には何か別の世界、自分を超えた世界があると思っていたから。

防空壕といっても、外から見るそれは、ただの穴にしか見えなかった。その奧で人が寄り集まって難を避けるには、子供の目から見てもあまりにもたよりないもののように思えた。それでも当時、そこに入った人たちもいたのだろう。それがどのような気持ちだったか、どれだけ想像しても、わたしにはよくわからないように思えるのだった。穴の奧は、ただただ暗かった。

鶏頭




2007-10-10:ベトナムからミャンマーへ

デービッド・ハルバースタムの『ベトナムの泥沼から』という本の表紙には、衝撃的な写真が使われている。結跏した人物が、燃え上がる炎に包まれているのだ。
これは、1963年6月、南ベトナムで、政府の弾圧に抗議したベトナム人僧侶クアン・ドク師の焼身自殺の光景である。

「クアン・ドク師の焼身自殺の写真」(※本の表紙とは異なる)

当時の南ベトナムで政治権力を握っていたのは、アメリカの援助を受けたゴ・ディン・ジエムとその一族だった。アメリカの後ろ盾はあったものの、ゴ・ディン・ジエム政権は南部に確固とした支持基盤があったわけではない。そこへ、南北に分断されて以降、共産主義者の迫害を怖れて南ベトナムに逃げ込んだカトリック教徒たちが、夫人がカトリック教徒だったこともあって、ゴ・ディン・ジエム政権を熱狂的に支持するようになった。そのことを通してカトリック教徒はベトナム政府に大きな影響力を持つようになっていったのである。

その結果、数的には多数派であった仏教徒たちは、ゴ・ディン・ジエム政権に迫害されるようになっていく。信教の自由を求めた仏教徒は抗議行動を始めたのである。

 しかしジエム政権の最後の数年間に、仏教は、ゴ一族に反対の多くのベトナム人を引きつけ始めた。反対政党はなく、ゴ一族は、事実上、国内のあらゆる組織を支配していた。こういう状況下では、仏教は、カトリックではなく、ゴ一族の保護下になく、そしてそれが伝統的にベトナムのものであるという理由から、人々を引きつけるものをもっていた。

(デービッド・ハルバースタム『ベトナムの泥沼から』泉鴻之・林雄一郎訳 みすず書房)

こうした情勢を背景に、抗議の焼身自殺が起こったのである。その場にかけつけたハルバースタムは、その情況をこう書いている。

 あとで、その男は仏教徒の行進に混って広場にキタクアン・ドク師という僧侶で、二人の僧にガソリンをかけてもらい、結跏を組んで座り、自分でマッチの火をつけたことを知った。身を焼いている間、彼は筋肉一つ動かさず、一声ももらさず、見たところは、泣きさけぶ周囲の人ときわめて対照的であった。私はそのときほど、相反する感情を同時に抱いたことはなかった。私の中の一部は火を消したがった。別のところは私に干渉する権利はないと警告し、一方は遅すぎたといい、別の方はお前は記者か、人間かと問いただしていた。

この劇的な写真は世界中に衝撃を与え、アメリカは援助していたゴ・ディン・ジエム政府に仏教徒と和解するように勧告する。ところがジエム政権はそれを無視したために、やがて僧侶の焼身自殺は頻発するようになる。11月、ついにアメリカはジエム政権から手を引き、軍事クーデターによって、ジエム政権は倒れるのである。

だが、ヴェトナム戦争がこれで終わったわけではない。逆に、1964年8月の「トンキン湾事件」(北ベトナムの魚雷艇がアメリカ海軍第七艦隊の駆逐艦マドックスを攻撃したという報告がなされたが、これはのちに虚偽の報告であったことがあきらかになっている)ことをきっかけに、アメリカは北ベトナムに大規模な空爆を定期的におこなうようになる。実にこの空爆は1972年の12月30日まで続くのである。アメリカがベトナムから撤退したのが1973年3月。だがそれ以降も北と南の戦争は続き、南のズオン・バン・ミン新大統領が臨時革命政府に無条件降伏したのは1975年4月30日のことである。いわゆるベトナム戦争と言われるアメリカに対するベトナムの民族解放の戦いは、1954〜75年の約20年間にもわたり、推定200万人以上のベトナム人と約6万人のアメリカ軍が死亡、ベトナム人約300万人とアメリカ軍15万人が負傷したのである。

わたしたちは大きなニュースや、焼身自殺など、衝撃的な事件が起こるとそれに目を奪われる。いま、ミャンマーで起こっている暴動で、日本人が巻きこまれたことが連日報道されている。ミャンマー政府に対して抗議の意を表明することは、必要なことなのかもしれない。それでも、とわたしは思うのだ。日本にいるわたしたちは、いつか、遠くない日に、そのことをすっかり忘れてしまう。どこまでいってもそれは、わたしたち自身の問題ではないからだ。

結跏趺坐して生きたまま焼かれる人の姿の衝撃も、報道カメラマンが殺害されたことも、日々のなかで薄れ、過去のものになっていく。

だが、そこに暮らす人にとっては、それが日常なのである。十年、二十年と続く日常なのである。

「信教の自由」を求めて、命を賭して立ち上がる人がいる。わたしたちが享受しながら、それを意識さえしたことのない「信教の自由」。
信仰というのが、自分の命よりも大切なものである、と考える人がいる。
だが、その自由が保障されている日本では、逆に「信仰」を自分の命よりも大切なものとする考え方は理解しにくい。ときに気持ち悪いとさえ言われ、宗教によっては排除の対象にもなっていく。

自由がない状態での自由は、闘い取られるべきものである。「自由」は、すばらしいものであり、夢見る状態だ。けれど、それが現実になると、制約がないために、逆に何をすればよいのか、すべて自分で決めて行かなくてはならなくなる。自分は何をしたいのかさえ、はっきりしなくなる。「自分の命よりも大切なものがあるか」と聞かれて、ないと答えるだけではなく、ある人がいることすらも、理解できなくなってしまう。

わたしたちがしなければならないのは、ベトナムや、イラクや、中国や、ミャンマーといった遠い国々で人々を弾圧するような出来事に、一時的な抗議の声をあげ、そののちに忘れてしまうことなのだろうか。それよりも、「自分の命よりも大切なものがある」と思っている人たちがいることをまず知ることなのではないだろうか。自分の命よりも大切なものがある。わたしたちがいま手にしているさまざまな政治的民主的「自由」は、手に入れる前の状態があったのだ。少なくとも、そのことに思いを馳せるだけの想像力は持っていたい。そこからしか、どんな出来事も自分のものにはなっていかないのではないだろうか。

鶏頭




2007-10-08:等価交換ではないもの

ファストフードの店でお昼を食べてから書き物をしていたら、隣の席で二十代とおぼしい女性がふたり、話しているのが耳に入ってきた。すぐ隣で大きな声で話しているので、聞くつもりなどなくても耳に入ってくる。そうやって聞くともなしに聞いていると、もっぱら一方の女性が、彼氏がひどい、とこぼしているのだった。

あのときはああいうことを言った。また別のときには、どういうことをした。それがあとからあとから続く。そのうちロアルド・ダールの『マチルダは小さな大天才』の主人公マチルダのように、「またやられた。ひどい。ゆるせない。すごい仕返しを考えなくては」と言い出すのではあるまいか、と密かに期待していた……というのは冗談だが、実際、そのくらいうっぷんが溜まっているのなら、あとはもう「すごい仕返し」をして別れるしかないんじゃないか、というぐらいだったのだ。ところが、実際にはそうは続いてはいかず、聞き手が共感してくれさえすれば、その場での気は済むらしかった。

ただ、ふと奇妙な言葉を思い出した。
いまではあまり聞かなくなってしまったけれど、昔は「えんま帳」という言葉があった。地獄の閻魔大王が、生前の行為を書きつけておく帳面、あるいはそこから転じて学校の先生が受け持ちの生徒の操行について書きつけるノートである。それと同じように、彼氏が「許せないこと」をするたびに、その女性は頭の中のノートに記入しているのだ。そうして「えんま帳」をときどき引っ張り出しては、彼氏の罪状を確かめているのだろう。

だが、閻魔大王は死者を裁くために「閻魔帳」をつけておく。先生の「えんま帳」は、成績票をつけるためだ。けれど、この人の「えんま帳」は、一体何のためにあるのだろう。

この女性ばかりではない。わたしたちはよく、自分がしたことと、相手にされたことを秤にかけて、自分の方がひどいことをされたと感じたときには、相手の罪状を「えんま帳」に書きつける。傷つけられたり、いやな思いをさせられたりするたびに、その罪状は増えていく。

けれど、恋人や友人の「えんま帳」はいったい何のためにあるのだろう?
たぶん市川浩の本だったと思うのだが、わたしたちは寝ているとき、追いかけられる夢は見ても、自分が追いかける側にまわる夢は見ない、なんとも業の深いものだ、と書いてあって、思わず苦笑してしまったことがある。それと同じで、その「えんま帳」に書いてあることは、自分がされたことばかりのはずだ。自分ばっかり犠牲になって、自分ばっかり損をして、自分ばっかり譲歩して……ほら、この「えんま帳」を見てみなさいよ、という具合に。

だが、相手の罪状をすべて記録して、有罪を認めさせたら、相手は反省して、自分のことを大切に思ってくれる? そんなことが果たしてあるだろうか。

商取引なら、等価交換が原則だから、相手がこちらに与えた損害は訴え出ればいい。不良品を買ってしまったら、交換してもらえばいいし、店にクレームをつければいい。けれど、身近な人間関係は、果たしてこの等価交換をベースにしているのだろうか。
こちらが「損害」と感じていることを測る客観的な目安がいったいどこにあるのか、という問題ももちろんあるけれど、それ以前に、相手のやったことなしたことにクレームをつければ、相手はそれを弁償しようと言うよりは、むしろ、気分を害し、離れていくのではあるまいか。

相手の理不尽な振る舞いに気分を害したのなら、それは当の相手に伝えるしかない。それでも、それは「わたしはこういうことをした」「それにたいしてあなたはこういうことをした」「それを差し引きすれば、あなたはわたしにこれこれの損害を与えた」というのは、商行為であって、人間関係を作っていくときのやりかたではないように思う。プラスマイナスをゼロにしたい、できることなら自分の取り分を少しだけでも多くしたい、そんなふうに思っている相手と、あなたは友だちになれるだろうか。
むしろここで必要なのは、わかり合うこと、「あなた」と「わたし」の見方を近づけ、合意を形成させていくことなのではないか。

ロアルド・ダールのマチルダは、彼女のことを何一つ理解してくれない両親の下に生まれた。四歳にして非常に聡明なマチルダが、彼女の初めての理解者である司書が選んでくれた図書館の本を読んでいると、本など読んだこともない父親は、彼女に侮辱されたように感じてその本をずたずたに引き裂いてしまうのだ。幼いマチルダは、そのときに考える。「またやられた。ひどい。ゆるせない。すごい仕返しを考えなくては」

その仕返し、というのは、帽子にべったりと接着剤を塗っておく、といったことなのだけれど(だってどんなに賢くても、彼女はたった四歳なのである)、そういう仕返しを考えることによって、何とか小さなマチルダは自分を守ろうとしているのだ。彼女にとっては、両親は敵なのである。

相手は、自分の取引相手なのか、敵なのか、それとも今後とも長期に渡る友好関係を築いていく対象なのか。
「えんま帳」を作るのだったら、その相手を自分は何に分類しているのか、考えた方がいい。少なくとも、等価交換は友人関係のベースにはならないはずだ。

一緒にいて楽しい、これからも一緒に時を過ごしたい、そういう相手であるのなら、帳面に書きつけておくのは、楽しかったことの記憶で十分なんじゃないだろうか。

鶏頭




2007-10-07:ムズカしい言葉を使おう

まだ十月の初旬ではあるし、今日など日中はずいぶん暑かったこの時期に、クリスマスのことから書きはじめるのは多少季節外れなのだが、ちょっとガマンしてほしい。

以前にもちょっと書いたことがあるのだが、(※「'TWAS DA NITE ――クリスマスの思い出」)1897年、アメリカの8歳の少女、ヴァージニア・オハンロンは、友だちと、サンタクロースがいるか、いないかで口論になり、父親にすすめられてサン紙に手紙を書いた。その返事が「そうです、ヴァージニア。サンタクロースはいます」というタイトルで、1897年9月21日付けの社説になった。

この話は非常に有名なので、知っている人も多いだろう。ただ、わたしがおもしろいと思うのは、原文には"skepticism"(懐疑主義)であるとか、"He exists as certainly as love and generosity and devotion exist, and you know that they abound and give to your life its highest beauty and joy."(サンタクロースは、愛や物惜しみをしない気持ちや信仰心がこの世にあるのと同じくらい確かなものだし、あなたもそうしたものがあなたの生活を、このうえなく美しく、喜ばしいものにしているということは知っているでしょう)というふうに、この文章には「子供向け」ではない言葉がどんどん出てくるのである。これを書いたフランシス・チャーチの意識にあったのは、「八歳の子供にわかるように」ということではなく、できるだけ正確に答えたいという熱意だったとしか思えない。

彼は、サンタクロースはノルウェーの森の家に、トナカイと一緒に住んでいる……と答える代わりに、目に見えないものが実際に存在しないわけではないこと、目に見えないものの存在を信じる心が、世界をかがやかしいものにしているのだ、と、できるだけ誠実に、プラス、理想をこめて語る。サンタクロースをめぐるおとぎばなしをまたひとつ作る代わりに。だからこそ、この手紙の返事が今日にまで残っているのだろう。

子供はさまざまなことを聞いてくる。
多くの場合、答えそのものがほしいというよりも、聞いて、応えてくれる人がいることを確かめているように思う。単純に答えがほしいのであれば、辞書や辞典を調べることを教えればいい。だが、そうした知識を超えるものをほしがっているのなら、何よりも応える側は、自分の応える姿勢を改めて自問する必要があるように思うのだ。それについて、自分はどう考えているのだろう。「どう言ったら子供にわかるか」ではなく、自分自身がそれをどう考えているのか。右から聞いて、左へ出すような知識ではなく、自分の中にあるもの。
自分の中にそれに応えられるようなものが何もなかったら、正直にそのことを言って、いっしょに考えればいい。問われているのは、知識や情報ではない。自分が人に相対する姿勢だ。

子供にわかるように、と、単純な言葉しか使わなかったら、複雑で抽象的な考えを伝えることはできない。わたしたち自身が、たとえば「威厳」という言葉を先に知り、そこからそれに当てはまる状況や印象、イメージを自分の中に作り上げていったのではなかったか。

言葉は、誰も使わなくなれば死んでしまう。一時のはやり言葉など、死んでしまっても痛くも痒くもないけれど、その言葉によって、自分のあいまいであやふやでひそやかな思いに形が与えられるような言葉が死んでしまうのは、わたしたちのその「思い」が死んでしまうことと同じだ。

わたしたちはいま、たくさんの思想的な死語にかこまれて生きている。…
言葉が死語になるのは、語に責任があるのではなく、話し、書きとめているものと、それをうけとめるものに死が存在している象徴である。すると、わたしたちは、言葉を死の領域でしかあつかえなくなった多くの思想の、言葉を死の徴としてしかうけとれなくなった内在的な死に直面しているのだ。…

言葉の質をきめる力は、本質的には言語体験がつみ重ねられてきた長い歴史と、現にその言葉がつかわれている社会の現情況とである。思想的な死語を賦活させる力も、したがってこのふたつのなかにしか存在しない。ある言葉を言語体験の歴史のどこに位置するかをはっきりと測定すること、ある言葉が現実の情況から訣別したがっている根拠をつきとめること、処方箋はこのふたつしかない。

(吉本隆明「自立の思想的拠点」『吉本隆明前著作集13』)

むずかしい、むずかしくない、というモノサシがどこかにあるわけではない。自分の尺度が他の人に当てはまるわけでもない。それがむずかしいかむずかしくないかは、同じ相手であっても、状況によって、話の流れによって、変わってくるはずだ。

言葉は、どこまでいっても借り物だ。その借り物の言葉に息を吹きこむことができるのは、ただ、わたしたちが使うことによってでしかない。伝わらないかもしれない。伝わらなかったら、そのときに考えよう。でも、その前に、自分から言葉のレベルを下げるのはやめようよ。

鶏頭




2007-10-04:方言の話

横光利一の「夜の靴」を読んでいて気になったのは、村の人の言葉である。

横光は昭和二十年四月、東京から夫人の実家のある山形県鶴岡市に疎開させる。そうして、ひとり東京で生活を続けるのだが、空襲があまりにひどくなり、六月に自分も鶴岡に移る。そこからさらに、八月十二日、西田川郡上郷村に移るのだが、そこで終戦を迎えるのだ。「夜の靴」はその三日後、終戦の日から四ヶ月の日記、という体裁になっているので、その舞台も上郷村と考えてよさそうだ。ところがこんな部分を読むと、ちょっと考えてしまうのである。

「おれは小さいときから算術が好きでのう。」
 と久左衛門は云った。「今の若いもののやることを見ていても、おれよりは下手だのう。おれは算術より他に、頼りになるものは、ないように思うて来たが、やっぱりあれより無いものだ。」
 またこの老人はこうも云った。
「みんな人が働くのは、子供のためだの。おれもそうだった。」

山形といっても、鶴岡は庄内地方になるので、上郷村の言葉も庄内弁であると考えて良いだろう。ご存じの方がいらっしゃったら教えてほしいのだけれど、これは庄内弁なんだろうか。

わたしは東北地方に行ったことがないので、どこの言葉も聞いたことがない。だが、いわゆる「東北弁」などというものがあるのではないというふうに理解している。青森と秋田の言葉が一緒のはずがないし、県単位というより、それ以前の地方がその方言の単位になっているはずだ。

以前、こんな経験をしたことがある。たまたま、千葉県の山間部に行ったとき、そこでおじいさんに話しかけられた。ところが、何を言っているか、ただの一言も聞き取れない。ほんとうに、これが同じ日本語なんだろうか、自分が住んでいるところからほんの数時間しか離れていないような場所なのに、と青ざめた。驚くほどわからなかった。いま思うに、早口だったことと、イントネーションにまったく馴染みのないものだったために、単語と単語のあいだに切れ目をいれることができなかったのだと思う。

ともかくそういう経験があったために、横光が上郷村の人々と、つつがなくコミュニケーションが取れていたとは信じがたいのである。ただ、『夜の靴』にはこんな部分もある。

 ある朝、私が縁側で蚤を取っていると、裏からいきなり這入って来た農婦が、何やら意味の通じぬことを私に喋ったことがある。妻に翻訳させると、子供を白土工場へ入社させたいので、その履歴書を私に書いてくれという意味だった。

「何やら意味の通じぬことを私に喋った」のではなく、「私」はこの農婦の言葉が聞き取れなかったのだろう。

あるいはこんな部分もある。

 寝ながらあちこちで話す村人の会話を聞いていると、このあたりの発音は、ますますフランス語に似て聞える。この谷間だけかもしれないが、意味が分らぬからフランスの田舎にいるようで、私はうっとりと寝床の中で聴き惚れている。私の妻に云わせると、この村の言葉はこの国でも特殊な発音だとのことだが、まことにリズミカルで柔かい。起き出して夢破れるのはいやだから、なるべく、このような朝は朝寝をして、ここだけめぐる山懐にフランスが落ち溜っている愉しみで、じっと耳を澄ませている。人人の中でも宗左衛門のあばと参右衛門の発音が、一番フランス語に近い。

フランス語に聞こえる、というのは、横光には日本語として聞き取れない、ということでもある。こういうところから判断するに、おそらく横光は上郷村の人々の会話は、ほとんど理解不能だったのではあるまいか。となると、ここに会話としてカギカッコで括った会話として出てくる久左衛門や参右衛門の言葉は、横光利一の創作なのかもしれない。

ここでひとつ考えておいた方がいいのは、久左衛門は日露戦争時に従軍経験があるということである。軍隊で強制的に共通語を身につけさせられた結果、村人同士で話しているときはともかく、村民以外の人と話すときは、対外的な、共通語にちかい言葉を話していたのかもしれない。あるいは、人前で話すことの多いお寺の和尚さんなら、村人とはちがう、一種の共通語を公的な場面で使っていたとしても不思議はない。

ただ、それにしても「そうだのう」「同じことじゃ」というのは、何というか、ちがうなあ、と思ってしまうのだ。これはどこかの言葉というより、一種の方言のステロタイプではあるまいか。できればもう少し、その地域の言葉で書いて欲しかったように思うのだ。

だが、話し言葉を記述するのは、その人がその言葉を使わないとしても、あるていど知っていなければできないことなのかもしれない。横光はそれができるほどはそこに滞在しなかった、ということなのかもしれない。

かく言うわたしも、人生のほぼ半分を関西で過ごしてきた。だが、わたしはほとんど共通語に近い言葉を使う。ときに関西が長いのに……と(いささか非難めいた口振りで)言われることもあるのだが、関西圏をあちこち移動していたために、いったいどこの言葉を自分の第二言語として採択していいのか、迷うところがあるのである。

しかも、一口に京都弁といっても、市内出身者の言葉と、北部の人の言葉はちがう。大阪寄りの言葉もちがう。言葉というか、発声がすでにちがうのだ。

その昔、ラジオの語学講座を聞いていて、講師の日本人とアシスタントの外国人の声の出し方があきらかにちがうことに気がついた。そのうち、同じ英語を話す外国人と言っても、アメリカ人と、イギリス人と、アイルランド人と、カナダ人と、オーストラリア人と、南アフリカ人は、アクセントやイントネーションという以前に、発声がそれぞれにちがっていることがわかるようになった。日本人は日本語で笑うし、日本語でくしゃみをする。それは、発声が日本語だからなのであるだ。

単語は真似られる。イントネーションも真似られる。ただ、発声を近づけるのは、自分の発声ポイントをずらした状態を、一定期間保たなければならないので、声楽のトレーニングと同じ、意識的な訓練が必要であるように思う。自分の生まれついての発声をそのままで、単語の発音と全体のイントネーションだけ「英語」っぽくしても、それは「首の皮一枚の英語」のように思ったのだった。

そういう経験があったせいか、方言というと、いつも考えるのは、単語ではなく、発音でもなく、発声なのだ。そうして、一番その言葉らしいと感じさせるのも、つまり、啄木が上野駅に聞きにいったのも、北上の、あるいは岩手の、あるいは東北の「声」だったのではないか。横光が「フランス語のようだ」と思ったのも、その発声だったのかもしれない。

鶏頭




2007-09-29:「いや」なことは「いや」と言ってもいい

「いじめ」で自殺した、といった報道があるたびに、なんともいえない、やりきれない気持ちになる。まったく死ぬ必要がないことで、人が死ぬのはたまらない。

どうして誰かに相談しなかったんだ、というのは簡単だ。
けれど、心の柔らかな部分を踏みつけにされるような経験をした人は、穴に閉じこもるしかない。穴に閉じこもって、身を隠そうとする。ところがいくら閉じこもっても、なお押し入り、さらに殴りつけ、踏みつける人間たちがいる。そうなると、世界はそうした人間と、自分だけになる。逃げ場がなくなった人間は、自分を守るために自分の心を凍りつかせる。そうやって、殴りつけられ、蹴りつけられる恐怖を凍らせる。何も感じなくなることで、自分を守ろうとする。
そんなふうにして、彼、または彼女は穴の奧にたったひとり、閉じこめられる。閉じこめるのも自分だし、閉じこめられるのも自分だ。そこから出してやれるのは、自分しかいない。だから、まわりでどれほど呼びかけても、そこには届かない。

そこまで行く前に、覚えていてほしい。
されたくないことは「いや」と言っても良いのだ。
自分にとって「いや」な現実は、変えることができるのだ。

いまの子は我慢を知らない、と、昔から言い古されたせりふがある。
わたしたちのころも、そう言われていた。
そう言っている人間も、そう言われてきた。

一方で、「我慢せよ」という。
「あなたのためを思って言っている」という人がいる。
「たとえいまいやでも、将来、きっとよかったと思える日がくる」という人がいる。
そういうことを言われ続けていたら、やがて自分で自分を検閲するようになる。
いやだけど……でも。

親を失望させたくない。
先生に「良い子」だと思われたい。
周囲に「いやなやつ」と思われたくない。

そう考えて、いやなことをごまかしているうちに、ほんとうは何が「いや」で、何が「いやでない」のかわからなくなってくる。「いやなこと」と「いやでないこと」の分節が、自分でできなくなってくる。

そういう状態にある子供たちが、何かの拍子にいじめる側といじめられる側に分かれ、いったん固定されたその役割が、自動的につぎの行為を誘発し、とめどもなくなってくることは、何の不思議もない。

もしかしたら、それは我慢できることかもしれない。それは我慢しちゃいけないことかもしれない。
その判断は、いまの自分にはできないかもしれないのだ。
だから、もしなんだか変だ、と思ったら、まず、「いや」と言ってみる。
一度、「いや」と言ったら、つぎはもう少し、言いやすくなるから。
そのつぎは、さらに、もう少し。

それが耐えられる「いや」か、我慢した方がいい「いや」か、口に出してみればわかってくる。いや、わからなくてもいい、間違っていてもいい、わからなくても、間違っても、いつかそれは取り返すことができる。

人をきらいになってもいい。人にきらわれてもいい。
きらいな人間とは一緒にいなくていい自由だってある。
きらわれた人間に、好きになってもらう必要はない。
人が好きになるのが自然な感情のように、きらいになるのもまた自然な感情なのだから。
人を好きになるのに理由がないように、きらうのも、きらわれるのも、理由なんてないのだから。

「いや」なことは「いや」という自由が、きみにはあるのだから。

「そう考えない自由が私にあるのだ」

 その言葉が、わたしはとても好きだ。マルクス・アウレーリウスの言葉だ。西暦121年生まれのマルクス・アウレーリウスは、誰であるよりもまず、みずからはげます人だった。その『自省録』は、ごつごつとぶっきらぼうで、簡潔な言葉のいっぱい詰まったふしぎな本で、どんな本もおもしろく思えないような日には、その本を一冊もって、街に出る。…

「ここで生きているとすれば、もうよく慣れていることだ。またよそへゆくとすれば、それはきみののぞむままだ。また死ぬとすれば、きみの使命を終えたわけだ。そのほかには何もない。だから、勇気をだせ」

(長田弘『記憶のつくり方』晶文社)

――だから、勇気をだせ。

鶏頭




2007-09-25:昨日から今日にかけて

昨日の夜から熱が出て、仕事がなかったのを幸い、今日は一日中、寝たり起きたりして過ごした。

以前かかったお医者さんで、夏が好きですか、冬が好きですか、と聞く先生がいた。
夏が好きな人、というのは、基本的に夏に強く、逆に冬の寒さに弱い。冬の終わり頃、体調を崩すことになる。冬が好きな人はその反対に、夏のあいだの疲れが出て、秋口に体調を崩しやすいのだという。
お医者さんの口からそんなことを聞いたのは、少し驚いてしまったけれど、確かにどちらかといえば夏の方がいいと思うわたしは、例年、三月になると、たいていインフルエンザに罹ったり、風邪をひいたりして、何日かは寝こむことになるのだった。

それはおそらくそのお医者さんの経験則だったのだろうが、実際、どこまで妥当なのかはよくわからない。それでも例年、夏から秋の変わり目にかけては、あまり体調を崩すこともないわたしだったのだけれど、今年の夏がとりわけ暑かったせいだろうか、昨日の朝から喉がヘンだなと思っているうちに、夕方過ぎから熱が出て、結局早くに休むことにしたのである。

ところで、以前、こんなことを言う人がいた。
下痢をして病院に行くと、水分をしっかり取るように言われるけれど、水分をとれば、また下痢をする。下痢を治そうと思ったら、水分など取らない方がいい。自分はそうやって治すことにしている、と。

この話がおかしいのはすぐわかる。
悪くなった食べ物を食べて吐く、というのは、きわめて正常な反応だ。吐くことが悪いのではなく、悪いものを早く外に出そうとする体の働きなのである。下痢にしても同じことで、下痢そのものに問題があるわけではない。下痢が起こっているあいだは、それが必要な状態だということなのだろうし、そのあいだは脱水症状を起こさないように水分を取りがら、辛抱して待つしかないのだ。

そう考えると風邪を引く、熱を出す、というのも、それと同じで、きわめて正常な反応、ということになる。この場合は、悪いものが体に入った、というより、ふだんならはねのけるようなウィルスにやられてしまうのも、疲れが溜まっているからなのだろう。喉が痛むのも、熱が出るのも、しかたがない。ともかくそれが体から出ていくのを、体を休めながら待つしかない。結局これも、体を休ませなさい、というサインでもあるのだろう。よくしたもので、こういうときはいくらでも寝られる。今日も、ときどき起きてお茶や水を飲んだほかは、ほとんど寝ていたのだった。

寝ていると、さまざまな音が聞こえていた。電車の音、車の音。意外な近さで聞こえてくる、外の道を通る人の話し声。近所の幼稚園で運動会の練習をしているらしい音。遠くの小学校のチャイムの音。カーテンを閉めて、薄暗くした部屋の中で横になっていると、外の物音など意識に留めることもないふだんより、外界を近く感じるのだった。

もともとたいしてひどくなかったので、日が落ちたぐらいから、体がふらふらする感じも抜けた。まだちょっと喉は痛いけれど、明日はもう大丈夫だろう。
いまさっき夕刊を取りに行きがてら、外に出てみると、東の空高く月が白々とのぼっていた。そういえば今日は中秋の名月だったのだ。

木の間よりもりくる月の影見れば心づくしの秋は来にけり

(詠み人しらず「古今集」)
鶏頭




2007-09-21:“人のいやがることをしない”はモットーになりうるか


先日、サイトの"about"(このサイトについて)のページを書き直したときのこと。何を書こうかと考えて、自分のモットーを書いておこうと思った。「サルのように読み、鶏のように書く」というのは、冗談と思った人も多いかもしれないけれど、実はけっこう本気だったりするのである。笑わせようという気持ちがまったくなかったとはいえないけれど、いっぱい読んで、書く端から忘れちゃったって、忘れても忘れても残っていくものを大切に育てていこうという、まあそんなところなのであるが、こんなふうに言うとすごくえらそうなので、この話はおしまいだっちゃ。

さて、モットーといって、思いだしたことがある。その昔、英会話教室でバイトしていたときのことだ。生徒と講師のあいだで意志疎通が不可能になってしまったというので、助っ人を頼まれたのである。そのときの話題が「モットー」だった。

その生徒、といっても四十代の女性だったのだが、彼女のモットーは「人のいやがることをしない」ということで、それを英語で言おうと悪戦苦闘していた。
話の脈絡から察するに、おそらく彼女は
"Not to do what others don’t like to do."
(直訳すると「ほかの人がそうするのが好きでないことををやらない」)
あたりを言ったのだと思う。ところが、英語ではこれとよく似た言い回しがある。
"Do what others don’t like to do."
(ほかの人がやりたがらないことをやりなさい)
つまり、こちらが言っているのは、夏の草むしりとか、トイレ掃除とか、人がやりたがらないようなことを進んでやりなさい、という意味である。講師はてっきりそういうことが言いたいのだと思って、not は必要ない、と主張し、生徒の側はそうではない、と主張して、話の収集が着かなくなってしまったのである。

そこで考えたのだけれど、「ほかの人がわたしにしてほしくないことをやらない」と言ったらどうだろう、と考えて、
"Not to do what others don't want me to."
と言ってみたのだと思う(全部、鶏頭の記憶で書いているので、はなはだ心許ないのだが、おそらくこうであろうという推測を交えつつ書いているのである)。
すると、それを聞いたアメリカ人は、そんなのはばかげている、当たり前のことじゃないか、そんな当たり前のことはモットーにも何にもならない、と言い出して、いよいよ話はややこしくなったのだった。

ridiculous だとか silly とか、赤い顔をして繰りかえしていた講師の顔は覚えているけれど、それから先はどうなったか記憶にない。
だが、あらためて考えるに、「人のいやがることをやらない」という言葉をよくよく見てみれば、「人のいやがること」をやるのはいやがらせにちがいない。それをしないのは当たり前であって、その一体どこに価値があるのか理解できなかったのもよくわかる。いまさらながら、どういったらいいだろう、と考えて、こんな表現を思いついた。

"Not to do to others what you would not wish done to yourself."
(あなたがしてほしくないことはほかの人にもしてはいけません)

これは孔子の「おのれの欲せざるところを人に施すことなかれ」の英訳である。あのときこう言っていたら、講師も、モットーにはならない、とは言わなかったのではあるまいか。

ところで、このことに関しては、伊藤整がおもしろいことを書いていた。伊藤整はキリスト教では「人にかくせられんと思うことを人に為せ」といい、儒教では「おのれの欲せざるところを人に施すことなかれ」という。ここに西洋と東洋のちがいを見て取る。

私は漠然と、西洋の考え方では、他者との組み合わせの関係が安定した時に心の平安を見出す傾向が強いこと、東洋の考え方では、他者との全き平等の結びつきについて何かの躇(ためら)いが残されていることを、その差異として感じている。我々日本人は特に、他者に害を及ぼさない状態をもって、心の平安を得る形と考えているようである。「仁」とか「慈悲」という考え方には、他者を自己のように愛するというよりは、他者を自己と同じには愛し得ないが故に、憐れみの気持をもって他者をいたわり、他者に対して本来自己が抱く冷酷さを緩和する、という傾向が漂っている。だから私は、孔子の「おのれの欲せざるところを人に施すことなかれ」という言葉を、他者に対する東洋人の最も賢い触れ方であるように感ずる。他者を自己のように愛することはできない。我らの為し得る最善のことは、他者に対する冷酷さを抑制することである、と。

(伊藤整「近代日本における「愛」の虚偽」
『近代日本人の発想の諸形式』岩波文庫)

「西洋と東洋」の比較が一概にできるのか、たとえばイギリスとフランスとドイツとさらにロシア、あるいは東欧諸国、さらにはアメリカを西洋とひとくくりにできるのか、さらに東洋はどうだろう、インドはどちらになるのだろう、日本と中国と韓国や朝鮮をひとくくりにできるのか、などと考えだすといろいろ悩ましくなってくるのだが、ここではとりあえず置いておく。

ただ、「西洋の考え方では、他者との組み合わせの関係が安定した時に心の平安を見出す傾向が強いこと、東洋の考え方では、他者との全き平等の結びつきについて何かの躇(ためら)いが残されていること」というとらえ方はおもしろい。たとえば英語では "fair" という言葉はきわめて重要な言葉である。"It's not fair." (それは“フェア”じゃない)という批判は、これ以上はないほどの厳しい批判であり、相手の行動を完全に縛るものである。つまり、フェアという一種の理想的な状態、公平で公正な関係、伊藤の言う「他者との組み合わせの関係が安定した時に心の平安を見出す」というのは、まさにこの "fair" の状態のように思える。

それに対して、日本語ではフェアであることよりも、相手を思いやることの方が重要視されるように思える。それは「他者との全き平等の結びつきについて何かの躇(ためら)いが残されている」からなのかもしれない。自分と相手は同じではない。だから「思いやる」のだ、というふうに。

聖書は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」とも教えている。おそらく東洋にしても西洋にしても、自分と同じように他人を愛することはむずかしい、という認識は普遍のものだろう。そのうえで、そうするように努めなさい、と命じるのが聖書なら、東洋では「我らの為し得る最善のことは、他者に対する冷酷さを抑制することである」と考える、と伊藤は言っているのだ。

「人のいやがることをしない」という言葉にこめられているのが、伊藤の言う「他者に対する冷酷さを抑制することである」であるとすれば、これは確かに「我らの為し得る最善のこと」と言って良い。

だが一方で、こんな疑問をわたしはときどき感じてしまうのだ。
実は、わたしたちは「人のいやがることをしない」というとき、自分のモットーというより、人に押しつけることの方が多いのではないだろうか。
「人のいやがることをしちゃいけません」と親が子供に言う。だが、そういうときの「人のいやがること」というのは、親の考える「人のいやがること」だ。
「「人のいやがることをしない」というのが、友だちの基本でしょう?」というときの「人のいやがること」というのは、ほかならぬ自分がいやなことをされて、相手をなじるときだ。
あるいは、自分が良い人間と思われたいがために、自分のやりたいことを抑えて、相手に合わせる。そういう人が、「人のいやがることをしな」かった自分の努力を認められなければ、周囲に対して恨みを抱いたりするのではないか。「冷酷さを抑制する」のが目的なら、誰も気がついてくれなくても何の不都合もないのに。

モットーというなら、自分が良い人間と思われるためではなく、もちろん人に押しつけるのでもなく、「他者に対する冷酷さを抑制」するために「人のいやがることをしない」ということをモットーとしたいのである。
そういうふうに説明したら、アメリカ人も、馬鹿げているとはいわないのではないかと思うのだ。そこまで英語で説明できるかどうかはわからないので、念のために考えておこう。

鶏頭




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