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鶏的思考的日常 ver.20 〜鶏頭は記憶を駆逐する 編〜



2007-12-31:陰陽師的2008年占い

※注:以下の占いは陰陽道に基づかない占いである。占星術にも基づいていないが、分類が広く行き渡っていて便利なので、便宜上ここではそれを使わせてもらっている。最初にあげた言葉は2008年のあなたに、もしかしたら何らかのかたちで役に立つかもしれないキーワードである。366日のうち一度や二度はこのキーワードが当てはまる場面に遭遇するにちがいない。そういうときに思い出してもらえたら、インチキ占いでも意味があるというものなのである。少なくともこのキーワードが思い出せるくらいに冷静な人ならどんな局面でも大丈夫。

【牡羊座】ほんとうの勝者は深入りしなかった者である

一見そうは見えなくても、心の中では負けず嫌いなあなたは、人から的はずれの批判をぶつけられたり、バカにされたりすると、悔しくてたまりません。なんとかして相手をへこませたい、ぎゃふんと言わせたい(本当に「ぎゃふん」と言った日本人をわたしは知らないのですが、この「ぎゃふん」とは日本語ではないのでしょうか?)、できるものなら「ごめんなさい、そう言ったわたしが間違っていました」と言わせたいと思って、眠れない夜を過ごしたりしてしまいます。でも、そういうときはスティーヴン・キングの言葉を思いだしてください。
「ウンコ投げ競争の勝者は、手の一番きれいな者である」
相手の弱点を突いて厳しい言葉で反撃したところで、気が晴れるのはほんの一瞬、つぎにはもっときつい言葉が待っています。いま、この時点でたとえ相手に「負け」を認めさせることができなくても、勝負に勝つことはできます。あなたがそこから離れてしまえば良いのです。

【牡牛座】望むものを得るためには、自分が望むものを決めなければならない

我慢強いあなたは、自分の望むことを口に出すことは、わがままだし子供っぽいことだと考えて、ついそれを呑み込んでしまいます。
確かに、あれがほしい、これがほしい、と思ったことを端から口にすることが許されるのは、せいぜい二歳が限度、おとなになってもそれをやる人は、幼いのではなく、単に力の感覚を楽しんでいるだけです。
でも、ほんとうに望みは口に出してはならないなのでしょうか。恋愛ドラマで、暗にほのめかして裏工作をするのは嫌われ者の敵役と相場が決まっているし、ほしいものも手に入れず、我慢ばかりしている人は、マンガでは暗い顔の三白眼、縦線を背負って登場します。
あなただってほしがってもいいのです。ただ、二歳でも、ヴェルサイユ宮を追われる前のマリー=アントワネットでもないあなたは、「何かがほしい」と言う前に、自分がほんとうは何を望み、何を求めているかを知らなくてはなりません。そうして、それを知るということは、同時に自分自身を知るということでもあるのです。

【双子座】人の行動を予測することには意味はない

とてもカンのいいあなたは、親しい相手なら、つぎに何を言うか、何をするか、おおよそ見当がついている、と思っています。
あなたが部屋に入っていくと、急に席を立って出ていく人がいた。とっさにあなたは彼、もしくは彼女とのこれまでのいきさつを頭の中で巻き戻し、その原因を探ります。いったい何に腹を立てたのか、何が原因で気分を害したのか。思い当たる出来事が見つかると、今度は頭の中でその再現ドラマが始まります。相手の言い分、自分の言い分、周囲の状況を考え合わせ、あなたは心の中で自分を弁護し、相手に批判を始めます。すると、当の相手が、さわやかな顔で、ハンカチで手をふきながら戻ってきた……。あなたが入っていったこととは何の関係もなかったのです。
ユリ・ゲラーさんならそういうことはないかもしれませんが、あなたの超能力はそれほどたいしたものではありません。多くの場合、相手の表情や態度と、自分の恐れを結びつけているだけなのです。あるいは、ムシのいい期待と。
相手があなたの目の前で、持っていた雑誌をいらだたしげに床にたたきつけたとしても、動じる必要はありません。冷静に聞きましょう。「どうしたの?」
ぺちゃんこになったゴキブリを見たくなければ黙っていてもかまいませんが。

【蟹座】とびきり楽しい自分の話は、聞かされる人には退屈なものである

うれしくてうれしくて、どうしても誰かれの見境なく人に話さずにはおれないような出来事が、ときどきわたしたちには起こります。あなたにも、昇進・昇級した、自分の苦労してやった仕事が認められた、ずっと会いたいと思っていた人から電話をもらった、大金の入った財布を拾った……、などという「とびきりの出来事」が起こるかもしれません。
けれど、自分にとってうれしければうれしいほど、聞かされる相手には何の関係もない話でもあるのです。ああそれはよかったね、と聞いてくれるのは、単にその人が親切だからに過ぎません。その人だって、二度目は内心「またその話かよ」と思っているでしょう。
だから、とびきりうれしい出来事は、夜中に札を数える守銭奴のごとく、ひっそりと自分だけで思い返して、心ゆくまで反芻しましょう。いくら夜中ににたにた笑って不気味だろうが、見ている人がいなければそれでいいのです。
おっと、大金の入った財布はちゃんと届けましょう。少なくとも一割のお礼は返ってくるのですから。

【獅子座】うぬぼれることは楽しい

ステキなあなたは、鏡の前で角度をつけながら、おれ、結構おっとこまえやん、と思ったり、自分の答案を見て、自分はなんて頭がいいんだろう、ひょっとして天才ちゃうか、と思り、作った書類を見返して、これだけのことができるやつはほかにはおらんな、と思ったりします(ときどき、あるいは頻繁に、という個人差はあるでしょうが)。つぎの瞬間、これはうぬぼれだ、はっと気がついて、いかんいかん、とあわててうち消そうとするのですが、でも、うぬぼれたっていいんです。それは楽しいひとときだし、そういう楽しみを持てるということは幸福なことでもあります。そういう心の弾みをばねにして、わたしたちは苦労の多い仕事や勉強をこれから先も続けていくことができるのですから。
だから、人のそれにも寛容になろうではありませんか。人前でうぬぼれている人を見るのは、実際には不快なものだし、その高くなった天狗の鼻をへし折ってやりたい気分にもかられたりするのですが、そういう人は、また、あなたにこんなうぬぼれをもたらしてくれるのです。
「自分はあいつとちがって、たとえうぬぼれたにせよ、胸の内に納めておけるほどの人間だぞ」

【乙女座】自分の真価を作り上げるには時間がかかる

がんばっているあなたですが、疲れたとき、うまくゆかないときなどには、こういうことに何の意味があるのだろう、とか、どうしてだれも認めてくれないのだろう、などという疑念が、ふと心にきざすこともあります。
でも、大丈夫。それはあなただけではありません。17世紀のラ・ロシュフコーは、その『格言集』のなかで「われわれの真価が教養ある人々の尊敬を引き寄せ、われわれの幸運が有象無象の尊敬を引き寄せる」(165)と言っていますが、こういう「格言」が出てくるのも、昔から自分がなかなか認められず、どうでもいい連中ばかりがちやほやされているのに気分を害していた人が少なくなかったことのあらわれでしょう。
「真価」というなにものかをわたしたちは持って生まれてきたわけではありません。真価とは、時間をかけて、ときには一生かけて作り上げるあなた自身にほかなりません。その仕事が自分の内で完結しているだけのものでないかぎり、かならず何かしらの普遍性を持つものであり、認めてくれる人や喜んで受け入れてくれる人はあらわれるでしょう。
それが証拠には昔話でも真価を評価されるのは、かならずおじいさん(ごくまれにおばあさん)ではありませんか。花咲かじいさんが教養ある人々の尊敬を引き寄せているのかには、多少疑問の余地がありますが。

【天秤座】「幸運」は力持ちではない

別に占いは信じていないというあなたも、おみくじを引いて大吉だと、やっぱりうれしくなるでしょう。周囲を見回しても、どう考えても「運」でその地位に就いたと思われるような人はいます。でも、それをいつまでも持ちこたえる力は運にはありません。寒そうな格好で片足をあげて意味不明のことを口にしている人を、来年わたしたちがTVで見る可能性は、おそらくはそれほど高くないでしょうし、もし見るとしたら、たぶん彼は「運」以外の何ものかを開花させていったのです。運は瞬間に吹き過ぎていく風のようなもの。熟練したハイ・ジャンパーはうまく風に乗れるでしょうし、そのとき乗り損ねたとしても、またつぎがあります。けれど、仮に運だけで遠くまでいけた人に「つぎ」はありませんし、結果として一度だけのその成果が災いとなることもあります。だから「幸運」は女神なんですね。ただ、ギリシャ彫刻の女神像は、米袋をふたつどころか五つぐらいは軽く担げそうですが。

【蠍座】楽しいのは「もの」のせいではなく、あなたがそれを感じる感受性を持っているからである

趣味の多いあなたは、自分を楽しませるすべを知っている人です。詩吟であろうが、お茶であろうが、長刀であろうが、手品であろうが、編み物であろうが、趣味に興じているときのあなたはとても幸福です。でも、それはあなたがそこから楽しみを得ることができる資質や能力を持っていた、あるいは開発させてきたからであって、それ自体が楽しいわけではありません。たとえ誰かがスノーボードをすごく楽しそうにやっていたとしても、最新式の高画素・高倍率のデジカメを持っていたとしても、あなたがそれで楽しめるかどうかは限らないし、逆に、あなたが楽しいからといって、あなたの親しい人がそう感じてくれるかどうかはわかりません。親しい人は、あなたがひとりで楽しんでくれる方を喜んでいるかもしれませんし、その趣味が床磨きだったりすると、なおさらです。あなたの親しい人は、喜んであなたの趣味に没頭させてくれるだろうし、それだって分かり合っていることにはちがいないのです。

【射手座】言葉を呑み込んで消化不良になった人はいない

ふだんは慎重なあなたも、親しい人には、あとになって取り消してしまいたいような一言を、つい言ってしまうことがあります。そういうときは、腹が立ったから、というよりも、自分の方が正しいから、ということのほうが多いもの。
言ってその瞬間はスッキリするかもしれません。でも、その「スッキリ」は一瞬だけ。そのあとには後悔が待っています。
ダンゴムシが昆虫だと言い張る相手が子供なら、「ダンゴムシっていうのはね、節足動物の甲殻類ワラジムシ目のうち、陸生で体を球状にまるめることができるものの総称だよ」と教えてあげればいいでしょうが、相手が大人であれば、教えるだけにとどまらず、つい「昆虫のわけがないじゃん、なんでそんなバカみたいなことを言い張るの? 検索もできないの?(もしくは“ググれカス”)」と、相手の人格を貶めてしまうかもしれません。スッキリしたくなったら、要注意。あなたは危ないことを言おうとしているのかも。

【山羊座】思いだして困ることはない

もしかしたらあなたは記憶力の減退を感じているかもしれませんが(もともと自分は覚えることが苦手だった、と思いこんでいるかもしれませんが、心配いりません、あなただって昔は昆虫の種類だの、怪獣の名前だの、どうでもいいことを山のように記憶していた時期があったのです。減退したことさえ忘れてしまっただけです)、それはあなたに限ったことではありません。モンテーニュは三時間前に人に伝えた、あるいは伝えられた合い言葉を忘れたことが何度もある、と書いていますし、「わたしは割れ目でいっぱいだ。あちこちから洩れ出す」とテレンティウスの言葉を引用してもいます。
でも、たとえ「洩れ出し」てしまっても大丈夫。記憶は、あなたの都合のいいときではなく、記憶の都合のいいときに戻ってくるものだとモンテーニュは言っています。勝手に働いた記憶力が思い出させてくれたことは、一種の贈り物のようなもの。思いだしたのをいいチャンスととらえて、ずっと忘れていた人に、連絡をとってみるのもいいかもしれません。
わたしはさっき、古紙を出すのを忘れていたことを思いだして、少し憂鬱になっていますが、別に年を越したっていいのです。古紙だけに、年越し……(いてっ。石が飛んできた)。

【水瓶座】どんなに親しい相手でもすべてを理解できるわけではない

冷静なあなたは、そのことをよく知っています。どれだけ親しくても友人のすべてを知っているわけではないし、むしろ長続きする友人関係を続けていこうと思えば、適度に距離を保ちながら、もたれ合わない方がうまくいくということも。
けれど、そういう冷静さが保てない関係、たとえば彼氏・彼女に自分の知らない知り合いがいたというだけで、なんとなく裏切られたように思ったり、自分の気持ちをすべてうち明けないままで相手と親密な関係など築けないと思ったりすることがあるかもしれません。
けれど、相手に知らない部分があることが、いったいどういう障害になるのでしょう。自分と異なる人間のすべてを理解しようとすることは、相手を支配しよう、自分のコントロール下に置こうとしているからにほかなりません。
もしかして、「平気よ。わたしには知られて困るようなことは何一つないから」って思っていません? ほんとうに? 高校生のとき、あなたは自分の部屋を持っていませんでしたか? そこに親が入ってきたら、イヤではありませんでしたか? 自律して生きる人には、かならずほかの人に立ち入らせない領域を持つものです。たとえその領域で楽しんでいるのが「ミッフィーちゃんの本を読むこと」であっても、それがその人の、他人に立ち入られたくない領域であれば、見てはならないのです。まちがっても「らしくないねー」なんて鈍感なことは言わないこと。

【魚座】自分のことを一番分かっているのは自分である

かしこいあなたは、たいていのとき、自分のことをよく分かっています。
にもかかわらず、あなたの目がくもることがあるのは、「こう見られたい」「こう思われたい」という変なめがねを通して自分を見てしまうから。
「頭が良く思われたい」と思って、しったかぶりをすると、結局は恥ずかしい思いをするものです。「いい人と思われたい」と思って、自分の意に反することをやってしまうと、あとで苦労して、だんだん不機嫌になり、結局は陰気でいやな人になってしまいます。「こう見られたい」「こう思われたい」というめがねをはずし、自分のことを一番よく分かっている自分の声に耳を傾けましょう。そのときのあなたが望むことなら、きっとその望みはかなうはず。
確かに自分の姿を外から見ることはできないけれど、何だって一度に全部を見届けることはできません。目の前の物だって、裏側もあるし底もある。見えないところはあるにもかかわらず、わたしたちは「見えている」と思っているし、それで不都合もありません。これまで生きてきた自分のことを一番分かっているのは、やはりあなた自身です。ですから、あなたのことを知りもしない太ったおじさんやおばさん、有象無象に基づいた占いや基づかない占い(これのことです)を頼りにする必要はありません。
あなた自身を信頼して、大丈夫。


* * *

【再度、念のために】

以上は陰陽道に基づかない占いである。

だが、だれにも未来のことはわからない。まだ起こっていないことは、たとえ一瞬先であってもわからないのだ。にもかかわらず、わたしたちは過去から類推して明日もまた日が昇るだろう、落としたらコップは割れるだろう、世界は同じように続いていくだろう、と信じている。だが、たいていのことはそれで十分で、未来もいまと同じように続いていくことに何の疑問も生じなくても、自分にとってのっぴきならないことは不安になる。受験生は自分が四月、どこにいるか不安だし、就活中の学生は、果たして自分が無事社会人になれるか不安だし、キャロル・キングの "Will you still love me tomorrow?" は、「逢ひみて」しまった恋人が明日も自分を愛してくれるか不安、そうしてわたしは床に積み上げられ獣道を形成している本が、いったい来年はどうなっていくのか不安である。

そうした不安にかすかな光を投げかけられれば、と思うのが、拙ブログの占いの趣旨である。このキーワードがあなたの2008年を照らすおぼろげな光となるかもしれない可能性はまったく否定しがたいわけではないかもしれないのである。記憶の一部にとどめていただければ、これほど喜ばしいこともないのである。

ちなみにこれが過去の占いである。振り返って確かめてみるのも一興かもしれない。そんな過去のことを覚えていれば、の話であるが。
2006年占い
2007年占い

鶏頭




2007-12-26:年の瀬の物忘れ


ときに「趣味」の欄にショッピング、と書いている人がいるが、わたしにはなかなか理解しがたい楽しみである。わたしの場合、それが夕食の食材であろうが、トイレットペーパーであろうが、本であろうが、あるいは頻度はずいぶん落ちるが服であろうが、たいてい買うべきものはすでに決まっており、売り場に直行してあっというまにお金を払って出てくるので、それでもあえてその行為を「趣味」と呼ぼうと思えば、いったいどの段階を「趣味」と呼べば良いのかよくわからない。その品物を持ってレジに向かって歩くことを「趣味」と呼ぶには、いささか無理があるように思われる。いわんや、レジ前で財布を開いて、残りの札の数を目の当たりにする段階においてをや。

タワーレコードもジュンク堂も好きだけれど、そういう場所が好きなのと、ショッピングを楽しむというのとは、少しちがうような気がする。タワレコにせよジュンク堂にせよ、CDや本に取り囲まれているとなんともいえず幸せになってくるし、もちろんそのなかの一枚、もしくは一冊を自分のものにできるというのは、この上ない喜びである。けれど、そういうところにいる楽しさは、どちらかといえば図書館や美術館や博物館、あるいはすばらしい建築物を目の当たりにしているときの楽しさに近い。たとえそれが自分のものにならなくても、好きなものに囲まれていればうれしいのだ。

そう考えるとわたしにとっての「買い物」とは、やはりどこまでいっても必要に迫られて、事務的にすませるもののようだ。そういうわたしだから、当然、衝動買いなどとは縁がない、とずっと思っていた。ところがそれは大きな誤りだったようだ。

わたしは毎年、年末がかなり忙しいこともあって、あまり暮れに大掃除はやらない。どちらかというと年度替わりの三月、紙の整理(というか、実質的には大量廃棄)を中心にやっている掃除が「大掃除」と呼ぶにふさわしいように思う。それでも12月も半ばを過ぎると、体内に刻み込まれた幼児期からの記憶のせいか、掃除をしなくては、というプレッシャーが、じわじわと背中にのしかかってくるのである。その季節になると、電車の中から、ベランダで窓ガラスを磨いている人の姿が急に目に付くようになり、近所の人が玄関や換気扇の外側を掃除しているところに行き会ったりする機会も増える。そうしてそのたびに、ああ、わたしもしなくては、という気分にかられるのである。

かられるからといって、たいしたことをするわけではない。暮れもいよいよ押し迫り、その年も残す時間が50時間を切った頃になって、大慌てで、床を拭きだしたり、天井に掃除機をかけたりするぐらいだ。

ところがその土壇場になる前にも、プレッシャーは徐々にわたしをしめつける。そうしてその埋め合わせとして、近所のスーパーに行くたびに、百均のコーナーに寄って、ゴミ袋やスティックのりやガムテープといっしょに、詰替用のマイペットとか、「こするだけで落ちる激落ち君」(受験生には不吉な名前だ)とか、「油汚れがみるみるおちる不織布」とか、「洗剤のいらない魔法のクロス」とか、「静電気の力でほこりを根こそぎ!」という小ぶりのハタキとかを買ってしまうのである。そうして買って帰ると、ガスレンジの下の掃除用具やら、ホースやら、小さい水槽やら、ポンプやら、キンギョの薬やら、鉢植えの肥料やら、雑多なものがあれこれと入っている棚にしまう。しまって、掃除用具を買ったことに安心して、心安らかに忘れてしまうらしいのである。

らしい、というのは、しまったことさえ忘れていたからだ。
先日、浴槽を洗うスポンジの予備が、確かあったはず、と思いながらそこを開けてみて、奥をさぐって驚いた。出てくるわ、出てくるわ、買った記憶すらないあれやこれやの品々である。「こするだけで網戸がきれいになる網戸ワイパー」など、ふたつも出てきた。どちらも封を切ってさえない。ふだんは浴槽もトイレも液体ハンドソープでゴシゴシ洗ってしまうのだが、そこにはちゃんと風呂の専用洗剤まであった(いったいいつ買ったんだろう)。

どうも毎年、12月になると「やらなくては」という気分が、わたしにそうしたものを買わせてしまうらしいのである。ところがふだんの掃除では、ほとんど重曹やハンドソープだけ、特別な洗剤も特別な掃除道具も使わないわたしは、「大掃除」になっても、結局同じ洗剤と道具ですませてしまう。結局、そういうものを買っていたことを思い出しさえしないのである。

うーむ。

だが、ものごとは明るい方を見ようではないか。
こすれば落ちる網戸ワイパーがふたつもあるのだ。これで網戸も、掃除機をかけるより、きっときれいになるにちがいない。

覚えていれば。

鶏頭




2007-12-25:サンタさんがくれたもの


何事にしてもそれを強く欲望する前に、まずそれを所有している人の幸福がいったいどんなものであるかをつまびらかにしなければならない。

(ラ・ロシュフコー『格言集』関根秀雄訳 白水社)

ピーター・スピアーの絵本に『クリスマスだいすき』という本がある。スピアーの絵本は絵ばかりで文章がないものがいくつもあるのだが、この本もその一冊だ。
クリスマスが近づいてきて、もみの木を選んだり、プレゼントを買ったり、飾り付けをしたりするアメリカの人びとの様子が描かれる。もちろんクライマックスはクリスマスイヴの夜。だが、この本がおもしろいのは、エピローグとして、一夜明けての様子が続いていくことだ。ゴミ捨て場につみあげられたツリーの残骸。そうして大量の包装紙や空き箱。プレゼントは同時にゴミの素でもある。

さて、イヴがあけたクリスマス当日の今日、日本の各家庭からもずいぶん多くの包装紙や空き箱が、可燃ゴミ、もしくは不燃ゴミとして出されたことだろう。
電車の中でもうつむいて、携帯ゲーム機の小さな画面に見入っている子供を何人も見かけたが、そろそろ帰省も始まっているのだろうか。ともかくそのほとんどは、今朝目を覚ましたときに枕元にあった「サンタさんからのプレゼント」なのだろう。

ところでいまの子供はそんなにほしいものがあるのだろうか。「サンタさんに何をお願いする?」と聞かれて、子供時代のわたしは結構困った記憶があるのだ。特にほしいものが思い浮かばない。仕方がないから「TV」と答えていたのだが、もちろんそんな願いはあっさりと却下されていた。おもちゃだってひととおり持っていたし、それ以上に何がほしい、というわけでもなかったのだ。

いま振り返って思うに、当時のわたしが別にほしいものがなかったのは、TVを見ていなかったことも大きいのではないか。友だちの家に行けば、リカちゃんのドレッサーだの、ダイニングセットだの、クリスマスやお誕生日のたびごとにそうしたものが増えていて、確かにそういうものを見れば、いいなあと思わないではなかった。特に、小指の爪よりも小さいサイズの、銀色のスプーンやフォークはすごくかわいくて、テーブルの上に人数分並べていくのはことのほか楽しかった。とはいえ、それはその子の家で遊べれば十分だった。その場で遊んで楽しいだけでは、どうしても自分のものにしたい、という欲望を喚起させるには不十分だったのではないか、という気がするのだ。

TVの子供向け番組の多くは、玩具メーカーとのタイアップで、あの怪獣がほしい、あの超合金合体ナントカがほしい、魔法変身ナントカがほしい、と思わせるために番組が作られているかのようだ。もちろん合間には視聴者と同じ子供が持ったり身につけたりしているCMが差し挟まれる。

TV画面の向こうで見るそれを、子供は実際に手に取って見ることはできないからこそ、強烈な欲望をかき立てられる、というところがあるのではないだろうか。
友だちの家にあった「リカちゃんドレッサー」は、すでに何度も遊んで手垢のついたものである。銀色のスプーンはかわいくても、プラスティックの白い小さな皿は、いかにも安っぽい。それにくらべてTV画面の向こうにある、照明が当たって工夫された角度から映し出されたドレッサーは、子供の目にはおそらく全然ちがうものに映るだろう。あれがほしい、自分のものにしたい、という欲望は、TV画面が作りだしたものではなかったか。

実際、子供にとっておもちゃというのは、それほど数が必要なものではないと思うのだ。泥と水と、あとはそれを掘る小さなスコップ(それがなければ貝殻でもプリンカップでも)さえあれば一日中遊べる。だが、紙やクレヨンや粘土は古くはならないが、ナントカ変身ベルトには「賞味期限」がある。TVでシリーズが終わった半年後には、そのナントカに変身したい気持ちも失せてしまう。ほんとうには需要のないところに需要を喚起させるために、番組が作られ、雑誌が作られている、というのは、どこかおかしいような気がする。

思うに、コンピュータゲームの特徴は、「終わりがある」ということだろう。一ヶ月か二ヶ月か、その期間は遊んでも、終わってしまえばそれまで。そうして今度はつぎのゲームがほしくなる。子供は同じ本を何度でも読み返すが、ゲームは繰り返し遊ぶのだろうか。繰り返し遊ぶ前に、つぎのゲームを買ってもらえるのだろうか。

こうした作りだされた欲望は、大人社会のそれとまったく同じである。わたしたちの身の回りのあらゆるものが、必要もないのにデザインは半年ごとに新しくなり、些細な「付加価値」が協調される。「消費の刺激」「需要の掘り起こし」と言われれば何のことかわからないが、つまりは欲望を無理にでもかき立てて、ほんとうはほしくもないものを、むりやり「ほしい」と思いこまされる。これがいいとか悪いとかという問題ではなく、そうやって消費者であるわたしたちが、必要もないものをどんどん買っていかなければ、経済というものが立ちゆかなくなっているらしい。

なんだかな、と思うのだ。

いまは小学生のうちから消費者教育? 賢いお金の使い方教育? をすべきだ、というふうな声もあるらしく、もしかしたらすでに何らかのかたちでなされているのかもしれない。一方で、絶え間なく欲望を喚起されながらも、他方でそれをうまくなだめ、より長く消費し続けるために、賢く消費していきましょう、と、教えていくのだろうか。

なんだかな。

だが、なんだかな、と思う一方で、ほしいものがある、というのは、すてきなことだ、とも思う。
一時期、音楽をほとんど聴いていなかった頃は、新しいCDをほしいと思うこともなかった。また聴くようになって初めて、自分のものにしたいアルバムもでてきたし、つぎのアルバムの発売を心待ちにするようにもなった(そのくせ買うのは一年ぐらい平気でたっていたりするのだが)。タワーレコードの黄色い看板を見ると、胸がワクワクするし、視聴のためのヘッドフォンをかけるのも、店内で流れているDVDを見るのも、あれにしようかこれにしようかと迷うのも、幸せな時間の過ごし方だ。そうやって買った一枚のアルバムは、その価格以上の喜びをわたしにもたらしてくれる。そうやって好きなアーティストができれば、そこからまたさらに聴きたいバンドは広がっていく。

本を読まなかった時期がないので、ちょっとそれはよくわからないのだけれど、おそらく本を読まない人は、本屋に行きたいとも思わないのだろう。書棚の前に立って、ああ、あれもほしい、これもほしい、だけど今日はそのなかからいったいどれにしよう、つぎに何を読もう……という胸の高鳴りを覚えることもないのだろう。

ポール・ラドニックは愉快なお買い物小説『これいただくわ』のなかで、「ショッピングとはつまり、好奇心が旺盛で、生きていて、先の楽しみがある、ということだ」と言ったけれど、これは、消費社会に生きるわたしたちにとっての真実なのだろう。おそらく、ほしいものがある、というのは、世界に積極的に関わっていく、ということでもあるのだ。必要が満たされていて、もはや何の欲望も抱かない、という状態は、深山幽谷に暮らし、鳥の声を友とする人にとっては理想的な境地かもしれないが、現実のわたしたちは、そういう状態を決して「幸せ」とは呼ばないだろう。

だから、一年に一度ぐらい、サンタクロースにお願いするのもいいことなのかもしれない。ただ、お願いするときには、よくよく考えてみる。自分はほんとうにそれがほしいのか。大きな声や、あおるような音楽や、きらびやかな広告に惑わされていないか。時間をかけて考えて、自分の気持ちを確かめて、それに自分自身が価値を与えて「特別なもの」にしていくのだ。

そうすることで景気が良くなることはないだろうが、少なくとも自分が「何を欲しがっているか」を自分でみきわめることができるようにはなっていくような気がする。
自分がほしいものを知るのは簡単なことではないはずだ。クリスマスがそのきっかけになるとしたら、それこそが何よりもサンタクロースの贈り物なのかもしれない。

鶏頭




2007-12-24:"Happy Solstice!"


solstice
【名】:《天文》至(し)、〔夏至(げし)・冬至(とうじ)の〕至点

「英辞郎 on the web」より

ところで今日はクリスマス・イブなのだが、なんとなくキリスト教徒でもないのにこの日を祝うのはまずい、というか、どことなく後ろめたいような気がしている人もいるのではないだろうか。
ええ、実はわたしもずっとそういう気分でいましたよ。

小学校時代の2/3をカトリックの学校で過ごした当時のわたしにとって、クリスマスは大きなイヴェントだった。ミサもあったし、キャロリング(クリスマスキャロルを歌いながら歩くのだ)で練り歩いた年もあった。"O Come All Ye Faithful" とか "Hark! The Herald Angels Sing" などのキャロルはいまでも歌えるし、Take6の"He is Christmas" を聴きたくもなってくる。
だが、イエス・キリストの生誕を祝う言葉を実際に自分が口にしながら、クリスチャンでない、というか、宗教といまひとつ折り合いの悪いわたしは、信仰を持っているわけでもない自分が、その日ばかりはにわかにクリスチャンのまねごとをすることに実に割り切れない、忸怩たる気分をずっとずっと抱いてきたのである。

ところが! である。
クリスマスというのはイエス・キリストの誕生日ではない、という話を教えてもらったのである。そこでO・クルマンの『クリスマスの起源』(土岐健治、湯川郁子訳 教文館)を読んでみたのだが、確かにイエス・キリストが生まれたのは12月25日ではないらしいのだ。少なくともこの日がキリストの生誕の日と定められたのは紀元後三世紀あたりのことらしい。

というのも、そのころのローマで多くの人々の信仰の対象はミトラ教だった。とりわけ三世紀後半に在位したマルクス・アウレリウスは、ミトラ教をローマ帝国公認の宗教とし、太陽神殿を建立していたという。だが、四世紀に入ると、キリスト教も次第に勢力を伸ばし、時の皇帝コンスタンティヌスがキリスト教に改宗するまでになる。

ミトラ教は太陽神ミトラを神と崇める宗教である。そうして一年のうちに日照時間のもっとも短い冬至は、その日を境にふたたび太陽が復活する日でもある。つまり、ミトラ教での復活祭に相当するのである。ミトラ教とキリスト教、ふたつの宗教が対立することなく人々にうけいれられるよう、この日がイエス・キリストの生誕の日、クリスマスに選ばれたのだという。

冬至というのは別にミトラ教に限ったことではなく、世界中で祝われてきた。古代中国では暦の起点が冬至だったし、北欧でも太陽の蘇生を祈る祭りが行われてきた。

確かに冬至を境に日はまた長くなってくることの喜びというのは、夜の明るい現代に生きるわたしたちでさえ、実感として抱くものである。春が近づいてくると、なんとなくうれしくなってくるというだけでなく、たとえ寒さはいよいよ本格的になるといっても、少しずつ日が伸びていくのは、それだけでなんとなくホッとするものである。夜になると月や星が唯一の明かりで、それさえもない夜は漆黒の闇になった時代に生きていた人々であれば、太陽が出ている時間が少しずつ長くなっていくのはどれだけ喜ばしいことだったろう。
古代の人々がさまざまなかたちで冬至を祝っていたというのは、非常によくわかるし、いまに生きるわたしたちもその喜びは共有できるように思うのだ。

だからこそ、ひとつ提案をしたいのだけれど、メリー・クリスマス、という代わりに、

"Happy Solstice!"

と挨拶をしてはどうだろう。
この日は実際には冬至は過ぎてしまっているのだけれど、二日くらいはおおめに見てもらおう。「ハッピー・サルスティス!」もしくは、「冬至、おめでとう」と言い合うのである。

で、クリスマスの代わりに12月24日に少し遅めの冬至を祝うわたしたち(勝手に複数形である)は何を食べれば良いのだろうか。冬至といえばカボチャであるが、なんというか、地味である。これはまあ22日に食べればいい。そうではなくクリスマス代わりの、Solstice にふさわしい食べ物はないかなあ、と、このところずっと考えていたのである。

ところで今日、帰りがけ、えらく行列が伸びていて、なんだろうと思ったら、ケンタッキー・フライド・チキンだった。店ははるか彼方にあるのに、である。いや、別にカーネル・サンダースに恨みがあるわけではないけれど、わたしはあまりあれが好きではなくて、つい、唐揚げなら家で作ればいいじゃん、と思うのだけれど、ハレの食べ物というと、唐揚げよりもう少し見栄えの良い骨付きチキンになってしまうのかもしれない。

そこで思いだしたのが、太宰治の「メリイクリスマス」である。これは戦争が終わった翌年の、徐々に復興していく東京のクリスマスを背景にした短編である。

空襲を逃れて一年あまり離れていた東京に戻ってきた主人公は「もう少し、変ってくれてもよい、いや、変るべきだとさえ思われました。」と思いながらも、ひと月あまり、あちこちを歩き回っているうちに十二月になった。そこで偶然、かつて親しかった女友だち(といってしまうと、語り手とこの女性の繊細な関係をあらっぽくまとめすぎのようにも思うが)の娘と出会う。しばらく会わないうちにすっかり大人になった娘に、ちょっと浮ついた気分にもなるのだが、やがて母親が亡くなっていることを聞かされる。そんななか、その娘と主人公は、しっとりと鰻の串を食べるのである。亡くなったひとの陰膳も用意して。

ここでふたりが食べる鰻がいい。天ぷらでも、蕎麦でも、寿司でもぴったりこない。共通の人の思い出を胸に、何か食べるとしたら、鰻しかないという気さえしてくる場面である。鰻というと「土用の丑の日」が圧倒的に有名なのだが、鰻の旬は冬で、夏の食べ物というわけでもないのだ。

太陽が生まれ変わって、新しい年がくる。見たところ代わり映えのしない世界ではあるが、それでも去っていく人はあり、成長する者もある。一年経って、同じ場所に戻ってきた太陽と、同じではいられない人間と。去る者を思い、また新たな縁に思いを馳せる夜に食べるにふさわしいのは、鰻なのかもしれない。古代ギリシャやローマの時代から、人びとは鰻を食べてきたのだから。

これこそは、クリスマス代わりの Solstice を祝う日にもっともふさわしい食べ物ではあるまいか。
"Happy Solstice!" は鰻で。

鶏頭




2007-12-06:豆を挽く時間


昔、わたしの家には手挽きのコーヒーミルがあった。
木製のミルで、上に黒い分厚い鉄のお椀がのっている。お椀は底が抜けていて、中心から鉄の棒が突き出し、その先のハンドルを回して豆を挽くようになっている。お椀の底をのぞくと、歯車の一部が見えた。そこに豆を落として、歯車で豆を挽くのだ。縦横高さとも三十センチぐらい。重くてかさばるもので、コーヒー豆を挽く以外の使い道はなく、食器棚の一角を陣取っていた。

お椀のなかに計量スプーンで量った豆を入れる。置いたテーブルの面と平行にハンドルをごろごろ回していると、コーヒーのいい匂いがただよい始める。やがて部屋中にひろがったころ、ゴトゴトと固かったハンドルもしだいに軽くなり、手応えがなくなると豆は全部挽けたということだ。下の引き出しをあけた瞬間、格段に強いコーヒーの匂いに鼻腔は満たされる。まだコーヒーが飲めない頃から、この匂いをかぎたくて、頼んでは挽かせてもらっていたのだった。

豆を挽き終わると、今度はペーパフィルターの底と端を折って、ドリッパーにのせる。粉を入れる前に少しだけお湯を注いで、フィルターを濡らす。紙臭さを消すためだ、とわたしは教わったが、ほんとうにそうなのだろうか。ともかく、判然としない理由から、お湯をまわしかけ、フィルター全体を濡らし、サーバーに落ちたお湯を捨て、それからやっと粉をそこに入れるのだ。

まず、少しだけお湯を入れて、しばらく粉を蒸らす。ふくれあがったところで、少しずつお湯を注いでいく。サーバーに褐色の液体が溜まっていく。小学生のあいだは、マグカップの底に二センチぐらい分けてもらって、あとは温めた牛乳に砂糖を入れたものを飲んでいた。そういうコーヒー牛乳ではない、ストレートコーヒーを飲むようになったのは、中学か、もしかしたら高校に入っていたかもしれない。

家にいるころコーヒーを飲むというのは、豆を挽くところから始まって、最後にサーバーやドリッパーを洗って片づけるところまでを意味した。コーヒーというのはそういう手続きがいるものだとずっと思っていたので、とくに面倒だと思った記憶はない。

いまはコーヒーメーカーを使う。水を入れて、豆をスプーンで量って入れると、あとは放っておけばいい。ジャーッとやかましい音がして、やがてピーピーと鳴るのを待つだけだ。できあがれば、もちろんコーヒーの香りはするが、豆を挽くときのなんともいえない匂いは望むべくもない。

手間をかける時間というのは、失って初めてその豊かさに思い至るのかもしれない。

鶏頭




2007-12-03:夢のような朝ご飯


わたしのまわりでも、朝ご飯は食べないとか、朝はコーヒーだけとか、朝から固形物なんて食べる気がしないとかいう人かなりいるのだが、五時前に起きているわたしは、たいてい七時過ぎに比較的しっかりした朝ご飯を食べる。そうしなければ十時過ぎには血糖値が下がって、調子が悪くなってしまうのだ。

しっかり、といっても、朝から手などかけたくないし、洗い物も最小限にとどめたい。そうなると、昨夜の残りご飯を温めたもの(わたしは炊飯器のジャー機能があまり好きではなくて、ご飯が残ったら、すぐに小分けして冷蔵庫、もしくは冷凍庫に保存してしまう)に、お味噌汁に(これだけは簡単に作る)、冷蔵庫の中をごそごそと探してきて、卵とかちりめん山椒とか鮭フレークとか昆布のつくだにとか明太子とか漬け物とかをとりあえず並べて、たいていは新聞を読みながら食べる。ご飯がなければトーストと目玉焼き、クロワッサンとリンゴとチーズ、ということもあるが、シリアルはわたしの頭の中ではどうしてもお菓子に分類されてしまう。

その昔、オートミールに凝った時期があった。
子供のころ、近所のスーパーの棚の高いところに(わたしの小さかったときの記憶なのだ)白い髪の西洋人のおじさんの絵が描いてある青い箱があって、あれには何が入っているのだろうといつも不思議だった。母に聞いても、いっこうに要領を得ない。そのおじさんの、ではなく、箱の中身の正体を知ったのは、ずっとあとになってからのことである。

ブランド名の「クエーカー」というのは、おそらく「クエーカー教徒」のことだろう、と、植民地時代のアメリカを舞台にした『からすが池の魔女』を読んで知った。この本に出てくる「クエーカー教徒」というのは、魔女と目される人に対しても偏見にとらわれずに接する非常に立派な人で、あの白い髪で昔風の服を着たおじさんも、そうした人なのだろうと思った。そうして「オートミール」の方は、文中にカッコで括って訳注が挿入されていた。「牛乳で煮たおかゆ」。外国人はそんな気持ちの悪いものを食べるのか……。当時のわたしはそう思ったのだった。

階子段(はしごだん)を二つ下りて食堂へ這入る。例のごとく「オートミール」を第一に食う。これは蘇格土蘭(スコットランド)人の常食だ。もっともあっちでは塩を入れて食う、我々は砂糖を入れて食う。麦の御粥(おかゆ)みたようなもので我輩は大好だ。「ジョンソン」の字引には「オートミール」……蘇国にては人が食い英国にては馬が食うものなりとある。しかし今の英国人としては朝食にこれを用いるのが別段例外でもないようだ。英人が馬に近くなったんだろう。それから「ベーコン」が一片に玉子一つまたはベーコン二片と相場がきまっている。そのほかに焼パン二片茶一杯、それでおしまいだ。

大学に入って自炊するようになって、オートミールを買ったのは比較的早い時期だったように思う。例のクエーカーの青い箱である。漱石が「大好き」と言い、本のなかで何度も読んだことのあるオートミールがどんなものなのか、実際に試してみたかったのだ。

料理の本にはオートミールの料理などほとんど載ってなかったから、箱に書いてある作り方をいくつか試した。結局牛乳で煮て、全体がやわらかくなったところを食べるのがいちばんおいしいように思えた。漱石は、「砂糖を入れて食う」と書いているが、甘くするとなんだか胸が焼けるようで(そうでなくても多少胸焼けがする)、かといって塩をいれると、どうにもおいしくなくて、ただ牛乳で煮て、全体がふっくらとしたところで少し蒸らして食べるのである。

漱石は「大好き」と言いながら、一方で「馬が食うもの」とも言っているオートミール、これをカフェオレ・ボールに入れて、スプーンですくって食べていると、何となく本の登場人物になったようで、うれしかった。「何、作ってるの?」と聞かれて「オートミール」と答えるのもいい気分だった。

ところがクエーカーの一箱は乾燥させたオートミールがぎっしりとつまっているのだ。牛乳で煮るといってもほんのひとにぎり、毎朝食べても、一ヶ月近くは軽くもつ。食パンを買うより経済的だし、たいそう腹持ちもいいのだが、味が単調、というか、じきに飽きてくる。当時、粉ものは冷蔵庫に保存すればよい、という知識のなかったわたしは、悪くなってはいけないと、毎日せっせと食べて、しまいには見るのもいやになったのだった。

漱石はそのほかにベーコン一切れと卵一個か、ベーコン二切れ、さらにトーストを二切れ食べている。パンの大きさがどれくらいかわからないのだが、かなりのボリュームである。もしかしたら一日でいちばんボリュームがある食事だったのかもしれないし、あるいは朝昼兼用だったのかもしれない。つまりブランチである。

ブランチという言葉を初めて聞いたときは、てっきり和製英語だろうと思った。ブレックファーストが朝ご飯、ランチが昼ご飯、朝兼昼がブランチなんて、いかにもできすぎていると思ったのである。れっきとした英語だと知ったときはかえって驚いたものだ。

ブランチというと、どことなくひどく優雅な響きがある。その言葉自体に、休みの日に朝寝坊して、ゆっくりと朝食と昼食を兼ねた豊かな朝食をとる、という含意があるように感じられる。
フライパンでオムレツでも焼くような、オニオンスープでも作りそうな。
まちがっても冷蔵庫のなかをあさって、とか、レンジで五分、チンしてできるオートミール、というようなものではない。コーヒーを入れて、オレンジジュースも用意して。卵料理、ハムかベーコン、パンとスープも添えて。最後には果物。チック・コリアか何かを低く流しながら食べるブランチ。
なんだか夢みたいだ。

休みの日も五時前に起きてしまうわたしは、きっと二度目の朝食、ということになるだろうが。

鶏頭




2007-12-02:規則に反した飼い主は別れたイヌの夢を見るか


もはやSF映画の古典でもある『ブレードランナー』だが、その原作はフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』である。映画では電気羊など出てこないが、原作のタイトルにもなった電気羊は、本にはちゃんと出てくる、というか、作品の中で重要な役割(でもないか)を果たす。

舞台となるのは〈最終世界大戦〉で核兵器が使用された結果、深刻な汚染を受けた世界である。生物がほとんど死に絶えてしまったために、人々は争って、高額の料金を払って生き物を飼う。主人公のリック・デッカードが逃亡アンドロイドを捕獲する賞金稼ぎ(バウンティ・ハンター:ブレードランナーというのは、映画だけの用語)をやっているのも、ペットを購入する資金を確保するためなのだ。

冒頭、リックは屋上の「ドームつき牧場」へ行く。そこにいるのは、本物の羊毛が植え付けてある電気羊。オート麦への向性回路が内蔵されているため、えさを持っていくと近寄ってくる。以前は生きた羊を飼っていたのだが、死んでしまい、そこで本物そっくりの、この精巧な電気羊を飼うようになったのだ。とはいえ、この電気羊の面倒を見てやるのも楽ではない。

「特製品なんだよ。おれのほうも、本物だったときと同じように、時間や面倒を厭わず世話をしてきた。しかし――」彼は肩をすくめた。
「どこかがちがう」バーバーがしめくくった。
「あと一厘ってとこがな。世話をしてるときの感じはおなじだ。生きてたときとそっくりおなじように、いつも目を光らしていてやらなくちゃいけない。もし壊れでもしたら、このビルじゅうに知れ渡っちまう。もう六回も修繕に持っていったよ。たいていは小さな機能障害だが、ひょっとしてだれかに気づかれたらさいご――たとえば、一度なんかは発声テープがひっかかるかどうかして、メエメエが止まらなくなったんだがね――それが機械の故障だってことを見破られちまうからなあ」つけ加えるように、「むろん、修理店のトラックには、『なになに動物病院』って字が入ってる。それに運転手も獣医そっくりの白衣を着てるんだよ」

(フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』朝倉久志訳 ハヤカワ文庫)

これだけ時間をかけて世話をしてやれば、生きていようが機械だろうが、情が移るような気もするのだが、「あと一厘ってとこ」を求めてリックは金を稼ぐ。リックを駆り立てる原動力というのは、生き物を求める気持ちなのだ。だからこそバウンティ・ハンターができるのか、あるいは逆に、バウンティ・ハンターをやっているからこそ、生あるものを求める気持ちが湧いてくるのか。どちらが原因でどちらが結果か、なかなかに見定めがたいのである。

ところで、この時代の人々は何で動物を飼いたがるのだろうか。デッカードの羊が電気羊だということを「だれにもしゃべらないよ」と約束する、隣人バーバーはこのように言っている。

「しかし、連中は君を見くだすぜ。みんながみんなとはいわんがね。動物を飼わない人間がどう思われるかは、知っているだろう? 不道徳で不人情だと思われるんだよ。つまりだね、法律的には最終戦争直後のように犯罪と認められないが、そういう感情はまだ残っているのさ」

どうやらこの世界では最終戦争後、法律で動物を飼うことが定められたようだ。核爆弾の後遺症でつぎつぎに死んでいく動物たちを、治療し、保護するためにそのような法律が定められたのだろうか。あるいは、核戦争ののち、人々は、自分が生き物の命を大切にする人間であるということを証明する必要に迫られたのか。ともかくこの世界では、動物を飼わない人間は、「不道徳で不人情」とみなされるらしい。

幸か不幸か、動物そのものが未だ稀少となっていない現代にあっては、ときに動物を飼うことは「住人エゴ」ということにもなってしまうのである。

わたしが住んでいる集合住宅は、観賞魚や小鳥までなら飼育できるのだが、それ以外のイヌやネコ、ウサギ、ハムスター、リス、もちろん羊や馬やラクダや象は飼ってはならないことになっている。ところが飼育不可と決まっていても、少なからぬ住人が、部屋の中で小型犬やネコを飼っているらしい。

それが、今回、正式に禁止となった。この三月まで、と期限を切って、手放すか、住人の方が引っ越すかしてほしい、という告知がなされたのである。

そもそもの発端は、犬のほえ声がやかましい、とか、ネコが階段の隅でおしっこをしていた、とかの苦情だったらしい。飼っていない人からすれば、規則で禁じられており、本来ならいるはずのないイヌやネコがいるのはいったいどうしてだ、けしからん、という話になったのである。

良い−悪い、という話になると、そもそもそういう規則を知って入居しながら飼っている側が悪いのは当然、ということにしかならない。
だが、手放せ、と簡単に言うが、飼い主にしたらどれほどつらいことだろう。イヌか、住処か、と選択を迫られて、住処を変えるという結論を出せる人ばかりではないはずだ。

動物を飼わなければ「不道徳で不人情」の世界だってありうるのに。イヌやネコが稀少生物でないばかりに、「そういう規則だから」の一点で、手放すか転居かを強制されるのである。せめて当代かぎり、ということにならないものだろうか、と思うのだが、そういう意見も考慮に入れた上での決定であるらしい。掲示板やエレヴェーターに張ってある告示を見ながら、なんともいえない気がするのである。

「ものごとの総合的な判断」というのは現実には不可能だ。わたしたちはどこかの相をとらえて「良い−悪い」と線を引くしかない。だからこそ、「良い−悪い」という判断は決して万能ではないことをわきまえて、そのうえで個別に柔軟な対応をしていかなくてはならないのだろう。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の冒頭のエピグラムは、このタイトルがイエイツの詩から来たことを教えてくれる。

そしてわたしはなおも夢見るのだ。
牧羊神のおぼろ影が芝生をふみ、
わたしの歓びの歌につらぬかれた霧のなかを歩んでゆくのを。

 ――『しあわせな羊飼いの歌』

家族の一員として飼っていたイヌやネコと、規則だから、という理由で、夢の中でしか出会えなくなるというのは、なんだかな、と思うのである。

鶏頭




2007-12-01:蓋を開ける話


わたしが太宰の全集を一巻から順番に読んでいったのは、中学二年から三年にかけてだったが、それよりずっと前に、一度だけ手にとったことがあった。それは親の本棚にあった『斜陽』だった。

小学生だったわたしは、本棚の文学全集を適当に引っ張り出しては、自分の読めそうなものを選んで拾い読みしていた。そういうなかに『斜陽』があったのだ。

『斜陽』というタイトルの意味が理解できたとは思わない。それでも最初のスープを飲む場面は非常によくわかった。ちょうどそのころ、外に食べに行った際に、スープの飲み方について、やかましく言われていたからだ。音を立ててはいけない、スプーンを内から外へ、おみそ汁を飲むようにお皿を両手で捧げもつなどもってのほか、などということである。そのために「お母さま」の「スウプ」の飲み方の描写など、おもしろく読んだようなかすかな記憶があるのだ。

ところが読み進むうち、あずまやの傍の萩のしげみでその「お母さま」が「おしっこ」をするのである。わぁ、なんてエッチなんだろう、と、わたしはすっかりドキドキしてしまって、こんな本を読んだことがばれたら大変、と、あわてて本棚に戻したのだった。だが、著者名すら読めなかったその巻だけは気になって気になって、本棚に近寄るたびに、背表紙のそこだけが浮き上がっているように思えたものだ。もしかしたら、そこから先を読んで、なんだ、と思ってそのまま忘れてしまったのかもしれないのだが、本当にそれから中学で再会するまでは、手に取ることもなかったのかもしれない。
だからわたしが初めて読んだエッチな本、というと、『斜陽』ということになるのである。

その『斜陽』では、くだんの場面のすぐあと、このような記述が続く。

こないだ或る本で読んで、ルイ王朝の頃の貴婦人たちは、宮殿のお庭や、それから廊下の隅などで、平気でおしっこをしていたという事を知り、その無心さが、本当に可愛らしく、私のお母さまなども、そのようなほんものの貴婦人の最後のひとりなのではなかろうかと考えた。

ところが中学生のわたしは、この部分にひどく違和感を覚えたのだった。違和感、というか、太宰は何か誤解しているのではないかと思ったのである。

というのも、中学一年で国語を教わった先生から、近世のヨーロッパでは、トイレそのものがあまり一般的ではなく、便器に排泄されたものは、そのまま道路や川に捨てられ、あるいはまたその便器すらも使わずに、そのまま排泄されていた、と聞いていたからなのだ。

曰く、日本は早くから別の建物として便所が建てられ、排泄物を肥料として利用していたから、ヨーロッパにくらべてはるかに衛生的だった、『ヴェルサイユの薔薇』などと、君らが喜んで読んでいるマンガがあるが、ヴェルサイユ宮殿に薔薇の花が植えられていたのは、そこに捨てた糞便の臭いを隠すためだったし、香水というのも、その臭い消しのために発達したのだ……。
こういった話を、わたしたちは興味津々、おもしろく聞いたものだった。

太宰はここで「無心さが、本当に可愛らしく」と書いていて、その「無心さ」こそが「お母さま」の貴族性のあらわれのように描いているのだが、中世から近世にかけて、庭で排泄していたのは貴族たちばかりではない。

 通りはゴミだらけ、中庭には小便の臭いがした。階段部屋は木が腐りかけ、鼠の糞がうずたかくつもっていた。台所では腐った野菜と羊の油の臭いがした。風通しの悪い部屋は埃っぽく、カビくさかった。寝室のシーツは汗にまみれ、ベッドは湿っていた。室内便器から鼻を刺す甘ずっぱい臭いが立ちのぼっていた。暖炉は硫黄の臭いがした。皮なめし場から強烈な灰汁の臭いが漂ってきた。屠畜場一帯には血の臭いがたちこめていた。人々は汗と不潔な衣服に包まれ、口をあけると口臭がにおい立ち、ゲップとともに玉ねぎの臭いがこみあげてきた。若さを失った身体は、古チーズとすえたミルクと腐乱した腫れ物の臭いがした。川はくさかった。広場はくさかった。教会はくさかった。宮殿もまた橋の下と同様に悪臭を放っていた。百姓とひとしく神父もくさい。親方の妻も徒弟におとらずにおっていた。貴族はだれといわずくさかった。王もまたくさかった。悪臭の点では王と獣と、さして区別はつかなかった。王妃もまた垢まみれの老女に劣らずくさかった。

(パトリック・ジュースキント 『香水―ある人殺しの物語』池内紀訳 文春文庫)

『斜陽』のこの部分が、「お母さま」は無邪気な人だった、たとえ庭で用足しをするようなときでさえ、愛らしく上品だった、という脈絡なら、まあいいのだが、フランスの貴族を出したのはやはりまずかったろうと思う。

だがここでふと思うのは、ジュースキントは「くさかった」「くさかった」と連呼しているのだが、それは現代に生きるわたしたちだからそう感じるのであって、当時の人々はそういうことを感じていたのだろうか。もちろん、薔薇の花が植えられ、香水が調合されたのは、くさい、と感じていたからではあるだろう。けれど、おそらくわたしたちと感じ方の度合いはまるっきりちがっていたにちがいない。

排泄物は悪臭ゆえに胸をむかつかせると、私たちは思っている。しかし、最初に私たちの嫌悪の対象になっていなかったら、はたしてそれは悪臭を放っていただろうか。……嫌悪感と吐き気の領域は、全体的に見て、この教育の一結果なのである。

(ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』酒井健訳 ちくま学芸文庫)

ごくごく小さな子供、赤ん坊といってもいいのだが、彼らは自分の排泄物をちっとも汚いとおもうどころか、自分の身体から出たものとして、楽しそうにもてあそぶ。それを見た親の方は卒倒しそうになるのだが、その排泄物に対する「汚い」という意識は、まさに教育のたまものなのである。

そんなふうに考えると、衛生思想の発達が、伝染病を抑え、多くの病気を予防した側面はあるにせよ、「汚いもの」「くさいもの」と遠ざけ、蓋をすることによって、わたしたちの意識の一部は抑圧され、ずいぶん窮屈になったことにちがいない。たとえばいじめの代表的なものに、実際にはそんなことはないのに「臭い」と人を指さし、貶める行為がある。少なくとも、誰も彼も、何もかもが臭かった時代には、そんないじめなど、成立しようもなかっただろう。

もちろん戦後(第二次世界大戦後)の日本で、庭で用を足す「お母さま」の行為は、当時でさえ特殊なものだったろうし、学習院で貴族を身近に知っていた志賀直哉などからすれば、鼻先で嗤いたくなるようなものだったのかもしれない。
けれども、無邪気さ、というか、無垢であること、あるいは既成の「きれい−汚い」という判断から自由だった「お母さま」というのは、やはり不思議な魅力を持った人であるだろうし、「萩の花」の咲くなかで用を足すのは、なんともいえないエロティシズムがあると思うのだ。小学生のわたしが「わ、エッチだ」と思ったのは、そのエロティシズムを理解してのことではなかったのだろうが。

鶏頭




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