2008-03-12:青鬼の深謀遠慮
ところでわたしは昔から「泣いた赤鬼」がどうも好きになれないのだが、「泣いた赤鬼」の話はみなさん、ご存じですね?
この話は鬼が出てきたりして民話のような体裁をとっているが、浜田廣介の創作童話で、検索してみると1933年発表とある。昭和八年、思いの外、新しい作品なのである。さて、その検索でこんなコメントを見つけた。
原作者の浜田広介は一八九三年に山形県で生まれ、一九七三年に亡くなるまで、童話ひと筋に生きた作家で、一九五十年代から六十年代の日本童話界に君臨しました。が、作品があまりにも無邪気で一途だったせいか、今はあまり読まれていません。童話作家を志す若い人たちにたずねると、五人のうちの四人が「知らない」と答えてわたしをがっかりさせます。でも、「泣いた赤鬼」を知らない人はいません。一九三三年に発表されたこの作品を、小学校の学芸会で演じた思いでを持つ人がたくさんいます。最後まで友だち思いで優しい青鬼は、この世の不条理にまだ傷つけられていない子どもにしか、受けいれられないのかもしれません。大人にとっての青鬼は祈りです。これほどの善意はありえないと思いながら、あったらいいのになとため息をつく人が多いのではないでしょうか。 浜田広介原作(立原えりか)
ここにあるとおり、この話はいまでも小学校の低学年や幼稚園の劇で繰りかえし演じられているらしい。弟は幼稚園の年長組のときにこの劇に出たし(村の子供Cあたりの役どころだった)、そのときわたしの後ろにいた誰かのお母さんが「いい話ねえ」と涙声で隣の人に話しかけていたのをよく覚えている。浜田廣介は読まれなくなったとしても、そういうかたちで受け継がれている物語なのだろう。
ただ、いったい何を受け継いでいくことが期待されているのか、わたしにはいまひとつよくわからないのである。立原えりかは「これほどの善意はありえない」とまで書いているのだけれど、ほんとにそうか? と思うのである。
ためしにシチュエイションを変えてみよう。
やたらいかつい容貌の男Aがいた。女の子たちはAの外見におそれをなして、つきあってくれない。おれってほんとはいいやつなのに、と思っても、そもそも話さえしてくれないのだから、「いいやつ」をアピールすることすらできないでいた。それを案じたBが、一芝居を持ちかける。おれが女の子たちに因縁をつけるから、おまえは女の子たちを助けろ。そうして芝居はうまくいき、女の子たちはA君って頼りになるのね、ということになったとする。Bはそれを見届け、オレが近くにいたらあれが芝居だったことがばれてしまう。だから、オレはよそへ行くからな、と置き手紙を残して去っていく……。
ほんとにいい話か? こういうのが善意か?
わたしがどうにも違和感をぬぐいきれないのは、人間を前にひと芝居を打つというくだりである。いくら「人間と友だちになるため」という目的があるにせよ、友だちになりたい相手をだますことには変わりはない。目的は手段を浄化などしないのである。人をだますことを奨励するような童話を子供に聞かせるのはいかがなものか、と思うのだが、そう思うわたしは「この世の不条理に」すっかり「傷つけられて」しまっているのかもしれないが。それにしても「大人にとっての青鬼は祈りです」というのもなんだかよくわからない文章だ。まさかそんな人が現れてほしい、という願望という意味で「祈り」ではあるまい。だとしたら、「できるものなら青鬼になりたい」という願望なのか。ひと芝居打つよりは、時間をかけて信頼関係を築く方がいいのではないか、と思うのだが。
だが、見方を変えれば、これは実に深謀遠慮の物語、といっていえないこともないだろう。
まず、わたしがよくわからないのは、人間と友だちになりたいという赤鬼の心情なのだが、これはことわざにもあるように"There is no accounting for taste. "(好みは説明できない=蓼食う虫も好きずき)、おそらく赤鬼にもよくわからない理由から、彼は人間が好きで、親しく交流したいと願っていたのだろう。だが、赤鬼にはすでに青鬼という心優しい友だちがいるのである。それを聞いた青鬼は、寂しく感じたにちがいない。自分では彼の心を満たせないのか、と。
晴れて赤鬼が人間と仲良くなった暁には、自分はそこから去っていこう、という決意は、おそらくこの時点で青鬼の内に固まったのだろう。そこから逆算して青鬼は段取りを立てていったはずである。だが、どう見てもあまり物事を深く考えていそうにはない赤鬼はともかく、こんなお芝居を考えつくほどの青鬼は、人間通なのである。たとえ芝居がうまくいって人間たちが「この赤鬼さんはわたしたちの味方なんだ」と思ったとしても、それがどれほど長続きするか、というところまで見越していたところで、何の不思議もない。
日本の中世社会において、人間とはどのようなものと考えられていたかといえば、そこにはいろいろの定義が存在したことはいうまでもないが、その一つの有力な定義に、人間の形をしたものが人間であるという把握のしかたが存在したことは間違いない。
(勝俣鎮夫『一揆』岩波新書)
「人間の形をしたものが人間である」という把握の仕方を人々がしていたとしたら、逆に「人間の形をしていないものは人間ではない」という認識もまた根強かったにちがいない。赤鬼は外見からなにから、まるっきり鬼なのである。そのことを人間が忘れるはずがない。
雷が村の一本松に落ちた。川の氾濫で橋が流されてしまった。何かしら天変地異でもあれば、あるいは事故でも起これば、家畜が病気になったりいなくなったりでもすれば、かならずや赤鬼に結びつけられるはずだ。どれほど村人のために率先して働いたとしても、その評価は「鬼なのにいいやつ」にとどまっているはずだ。ひとたび何かが起これば、それが「やっぱり鬼だった」に転じることは、火を見るよりも明らかなのである。赤鬼がまた排除されて「人間と友だち」ではなくなる日は、かならず、近い将来めぐってくるにちがいない。
深謀遠慮の青鬼のことだから、ここまで見越していたとしても不思議はない。人間からふたたび排除された赤鬼は、かつてとはくらべものにならない寂しさの内にいるはずである。いっさいの希望が閉ざされてしまったのだから。そこに青鬼が戻ってくる。もはや赤鬼は、二度と人間の方には目を向けず、青鬼と末永く友情を築いていこうと考える……。
青鬼は、実はそこまで考えて、人間の前で一芝居打った……というのはどうだろう。なんというか、まったくちがう種類のアレゴリーになってしまっていて(ほら、上の方で書いた「別のシチュエイション」に当てはめてみてください)、いよいよ子供に聞かせたくなる話ではなくなってしまうのだが。
2008-02-24:テレビ今昔
人によっては外から帰ってきて一番にスイッチを入れる電化製品が、照明を除けばテレビである、という話もよく聞くのだが、あなたの場合は何ですか。
パソコンを立ち上げるのはもう少しあとだろうか。この時期だと何を置いても暖房器具かな。わたしの場合、ポケットに入っているi-podを取り出して、スピーカーにさし込み、そのまま続きを流すことも少なくない。
だが、ふだんテレビを見る習慣のないわたしには、テレビのリモコンに手が伸びる、ということはまずない。
ところがこのところ、いくつかの事情が重なって、妙にテレビを見る機会が多くなってしまった。
おもしろいと思ったのが、クイズ番組である。それもおそろしく簡単な、小学校の三、四年生でも十分知っていると思われるほどの簡単なクイズが出題される。簡単な足し算引き算とか、日本の初代総理は、とか、ほとんどの人にとって条件反射のように答えが出てくるような問題に対して、頭を抱え、とんちんかんな回答をひねり出す回答者が登場するのである。司会者は彼らの無知ぶりをことさらに指摘して、それに笑い声がかぶせられる。見ていてひどく変な気がした。かれらはほんとうにそんなことさえもわからないんだろうか。それともわからないふりをしているだけなんだろうか。
もちろん番組には、博識な人も出てくるのだが、そういう番組では博識な人を「いろんなことを知っているんだなあ」「頭がいいんだなあ」と感心するよりも、「何にも知らない人を笑うこと」の方にウェイトが置かれているような気がするのだ。
こんなふうに公然とバカにされ、笑われるというのは、何かの役を演じているのならともかく、つらいことではないのかと思う。だからこそ「お笑い芸人」として名を成した人は、絵を描いたり映画を撮ったりして、やがて「文化人」へと昇格しようとするのだろう。だが「お笑い芸人」というわけでもない、若くてきれいな顔立ちをしている彼らは、いたって屈託がない。そのうち、この人たちはほんとうにわからずにやっているわけではなくて、ドラマで常識のないとんちんかんな登場人物を演じるように、自分の名前(本名または芸名)を持ったある種のキャラクターを演じているのかもしれない、と思うようになった。
彼らの言動は、完全に演じている、ともいいきれない。もしこれが演技であれば、逆にすごいと思う。だが、ほんとうに何も知らず、それこそ「天然」でああなのか、というと、かならずしもそうではないような気がする。身近に何かがわからなくて、とんちんかんなことを言う人がいれば、わたしたちはその人を笑うより教えてあげたくなって、「とんちんかん」に笑いを誘われることの方がまれだろう。もちろんそんなコメントをおもしろく見せるような番組づくりとか司会者の技量とかがあるのだろうけれど。
彼らがほんとうにそうなのか、それともそういうキャラクターを演じているのか、わたしたちはその「尻尾」がつかみたくて、つい見てしまう。視聴者をそんな確定不能性のなかに置くというのが、そういう番組のねらいなのではあるまいか。
その昔、ドラマで悪役とされている人は、ほんとうに悪い人と思われていた。いまのわたしたちは、たとえ悪役専門の役者でさえも、そういう人が悪い人とは思わない。けれどもわたしたちがテレビに出る人びとの「ほんとう」を知りたくなくなったかというと、そんなことはない。
芸能ゴシップを中心としたワイドショーや週刊誌が廃れもせずに続いているのは、こうしたニュースが伝えることになっている、ふだん見えてこない芸能人の「裏の顔」を人は求めているということなのだろう。誰かが誰かと結婚した、離婚した、という情報に、いったいどんな価値があるのかわたしにはよくわからないのだけれど、そういう出来事は管理された情報には収まりきらない、その人の「素の顔」を伝えるのかもしれない。セレモニーとして計画されつつがなく遂行される結婚式より、離婚や破局を伝える報道の方がいっそう人気があるのは、そういう予期しない出来事は、「管理」からはみだす「別の顔」をよりはっきりと見せるからなのだろう。
だがゴシップというのは、あきれるくらいパターンが決まっていて、実のところ、複雑な人間を「金の亡者」とか「恋多き女」とか某宗教団体の一員とか、ほんの数通りしかないパターンに類型化することにほかならない。それで「別の顔」も何も……と思うのだが、一方で、どれほど血液型占いの批判はあとを絶たなくても、「ああ、あの人はA型だから」と納得する人が少なからずいるところを見ると、人を数パターンに分類したいという欲求は、わたしたちの根底にあるのかもしれない。そうして「頭がいい/悪い」というのも、その単純かつ粗暴でほとんど意味のない分類のひとつなのだろう。つまり、そんなふうに単純な分類で「素顔」を理解できたように思うのは、人間を「役割」として見なしているということなのかもしれない。
あるタレントが、誰でも思いつきそうなコメントを、いかにももったいぶった言い回しで「どうだ、すごいだろう」と言わんばかりの顔つきで言えば、ああ、この人は自分を賢そうにみせるたいのだな、とわたしたちは思う。だが、その行為が明らかにするのは、本人の意図に反して、彼もしくは彼女の「素顔」が「たいして賢くない」ということだ。
逆に、ものの言い方にしても、ことばの選び方にしても、いかにも頭の切れそうなタレントが、馬鹿なことを言ってみたり、くだらないだじゃれを連発したりするとき、わたしたちは「この人は馬鹿のふりをしているけれど、ほんとうは頭がいいんだろう。おそらく偉そうにしている人びとや、賢いふりをしている連中を笑いのめすためにこういうことをやっているのだな」と思う。
いずれにせよ、賢いふりをしようが、馬鹿のふりをしようが、表に現れない「素顔」は、なんとなく見えてくるようになっている。ところが簡単なクイズに、屈託もなくとんでもない回答をするタレントを見ても、わたしたちは彼らがいったいなんのためにそういう役を演じているのかよくわからない。「役割」がわからないせいで、彼や彼女の素顔が見えてこないのだ。
最近のテレビには、何をやっているのかよくわからない人たちがたくさん出ている。役者ともいえない、歌手ではない、モデルなのかなんなのか、とにかくよくわからない人たちだ。おそらくそういう人たちは、簡単なクイズにも答えられないとか、とんちんかんなことを言うとかの、「いったいなんのためにそういうことをやっているのかわからない」ことをやるために、テレビに登場しているのだろう。わたしたちは、おそらく彼らの「いったいなんのためにそういうことをやっているのかわからない」行為を見ながら、彼や彼女たちが「どういう人なのか」を突き止めるために彼や彼女たちを見ているのだろう。そうしてその「素顔」が確定された段階で、彼らの役割は終わってしまうのだ。
テレビが初めて一般家庭に入りだした頃、プロレス中継で、フレッド・ブラッシーというアメリカ人レスラーがかみつき攻撃をして、かみつかれたレスラーが血を流した。それを見て、老人がショック死した、という話を聞いたことがあるが、これは都市伝説なのかもしれない。ともかくそれが事実であるにせよ、風説に過ぎないにせよ、当時はみんなそれほどまでに真剣にテレビを見ていたのだ。画面に映る世界は、まぎれもなく「真実」そのものだった。あらゆるものを「演出されたもの」「台本のあるもの」、そうして人をその「役割」で受け取ってしまうわたしたちは、その時代からどれほど遠くまで来たことか。
これがテレビとの洗練されたつきあい方かどうかはわからないが、ともかくその遠さを思うのである。
2008-02-20:迷惑をかけたって
先日定期検診のために病院に行った。
待合室に腰かけていると、おなかの大きなおかあさんが、畳んだベビーカーをひきずりながら片手に一歳ぐらいの子を抱いて、ともすれば立ち止まりそうになる二歳半くらいの女の子の背を膝で押しやりながら歩かせ、さらには後ろを歩いている四歳くらいの子がちゃんとついてきているかどうかときどき振り返ってみながらやってきた。もう見るだけで「大変そう……」と思ってしまう光景だった。
もう病院に来るのにも慣れているようで、お母さんが赤ん坊を抱いてどこかへ行ってしまっても、上のふたりはそれぞれに袋に入れて持ってきたおもちゃだのお人形だのを取り出して遊び始めた。だが、おとなしく遊んでいたのつかのま、すぐにふたりはケンカになった。おもちゃを取り合い、大声でわめきながら、叩いたり髪をひっぱったり。あまりのやかましさに、看護師さんが出てきて注意した。するとふたりは手をつないで建物の奥の方へ走って行ってしまった。やがて向こうの方からキャッキャッと言いながら走り回っている音がする。あたりには「最近の親は……」という空気が充満した。
そのうち、わたしの番号が呼ばれて、わたしは処置室に向かった。
診察だのなんだのを終えて戻ってきてみると、一番上のお姉さんは椅子に坐って本を読んでいた。さっきはいなかった一番下の子が、おぼつかない足取りでヨチヨチ歩きをしている。二番目の子はその近くで妹の歩くのを見ていた。すると、赤ちゃんが倒れかかり、それを支えようとした真ん中の子も支えきれずに一緒に真後ろに倒れてしまった。ゴン、という音がして、その子は後頭部を打ったらしい。ふたりで大声で泣き出した。
そこにお母さんが戻ってきた。下の子を抱き上げると、真ん中の子は「あんた、何したん」と押し殺した声で叱り始めた。泣きやまない子を「ええかげんにせんか」「泣くのやめんかったら、注射してもらうで」と脅す。その子は頭は痛いし怒られるし、泣きやみそうもない。あんまりかわいそうなので、事情を説明しようかと思っているうちに、真ん中の子は泣きじゃくりながらもなんとか自分で説明し始めた。親というのはえらいもので、端の人間にはいっこうに理解できないような話でも、だいたいのことはわかったらしい。それでも「おまえが悪いんやろ?」「できもせんことをやろうとして」と叱り続けた。
そのうち、そんなに叱るのも、あたりの空気、「いまどきの若い親は……」という突き刺さるような視線に気兼ねしているのかもしれない、と思えてきた。
確かに子供はやかましい。それでも、見てくれる人がいなければ、関係ない子供でも病院につれてこないわけにはいかない。静かにしろ、といっておとなしくさせることができれば苦労はない。スイッチを切ってしまうわけにはいかないのだ。退屈すればぐずぐずいう。元気が余れば走り回る。つねに手元に置いておくわけにもいかない。
ほんとうなら、もっとみんなが「迷惑をかけあって生きるのが世の中なのだ」と思えればいいのだろう。やかましい子供がいてもみんなで見守ってやる、というふうに。
だが、「人に迷惑をかけない」がよしとされるのが世の中なのである。周囲に迷惑をかけずにはいられない子供を抱える親は、肩身がせまい。周囲からは「もっとちゃんとしつけろ」という視線が突き刺ささる。だからことさらに叱らなければならない。自分だってちゃんとしつけをしているのだ、と見せなければならない。
ああ、なんとしんどい話だろう。子供を三人抱えて、おなかにもうひとりいるだけで、十分すぎるほどしんどいのに。
溜息をつきたくなる光景を見たあと、精算をすませ、薬局へまわって帰途についた。自転車で走っていると、目の前をのろのろとくだんの一個連隊が歩いていた。さっきあれほど泣いていた真ん中の子は、大きな声で楽しそうに唄を歌っていた。
2008-02-18:もう少し「猿の手」の話
もうこのところいやになるくらい「猿の手」に関していろんな文章を書いてきたのだが、それでもまだ気になるところがあるので、今日はその話。
この作品の恐怖のピークが、表のドアをノックする音と、夫人がドアのかけがねをはずそうとしてガチャガチャいわせている音に脅かされながら、暗闇で老人が猿の手を探す場面であるのにはまちがいない。だが、ここでの恐怖というのは、外から入って来ようとするものが「恐ろしいもの」である、という前提が必要不可欠となってくる。
これがまったく関係ない死者がよみがえってくるのなら文句なく恐ろしい。だが、表にいるのは、たとえ損傷が激しく、加えて埋葬後十日余りが経過して、腐敗も進行した死者であるといっても、たったひとりのわが子なのである。それをそこまで怖がる、というホワイト氏の心情には微妙に違和感を覚えてしまう。
ホワイト氏がハーバートを生き返らそうとする妻に対してそれを拒否する理由は「やつが死んでからもう十日が過ぎたんだ。それに……こんなことを言うつもりはなかったんだが仕方がない……わしだって服でやっとあの子だとわかったんだ。あのときおまえにはちょっと見せられないくらいひどい状態だったのだとしたら、いまはどうなっていると思う?」でしかない。これには、どんな状態になっていたって息子は息子、と考える母親の心情の方がよほど理解しやすいように思われる。かといってこれを単純に「母親と父親の愛情の差」のような言い方でくくってしまうには、わたしはちょっとためらう気持ちがあるのだ。
この「猿の手」のをふまえて書かれたものにスティーヴン・キングの『ペット・セマタリー』という作品がある。第三部「オズの大魔王」の冒頭には、エピグラフとして、聖書からラザロのよみがえりのシーンと、この『猿の手』のホワイト夫人が二番目の願い事を思いつく場面が引かれている。キング自身が『猿の手』との関連をあきらかにしているのだ。
『ペット・セマタリー』で幼い我が子を生き返らそうとするのは、父親である。すでに猫を生き返らせた結果、似て非なるものが戻ってきたことをよく知っているのだが、それでも、たとえまがまがしい存在が戻ってきたとしても、なんとか死んだ我が子を生き返らそうとするのである。こちらの父親は、戻ってきた「それ」に怯えたりはしない。
波平恵美子は『いのちの文化人類学』のなかで「アメリカ人が、人間が存在することの根拠をその人の意識の存在に求め、長期にわたり意識を失った思い植物状態の人はもはや人間として(※原文強調)生きているのではないと考える」としたうえで、『バタリアン』というゾンビ映画についてふれている。
あれがなぜホラー(恐怖)映画なのか、よくわからない人が日本人には多いと思う。しかしアメリカ人には、やはり恐い映画だろう。それはエンバーミング(死体の防腐処理、保存、修復の技術)が行われ、身近な人の遺体は「眠っているように」修復されたうえで棺に納められ土中に埋められる過程を見ているからである。エンバーミングが施された死体は、何年でもその形のままでいられるという。……
『バタリアン』では、さまざまな時代のファッション(…)を身にまとった死体が、死んでからの時間の長さに応じて崩れた身体の状態も示しながら、生きている人を次々と襲うのであった。つまり、古いファッションの人の傷み方はそれ程でもないというように。自分の家族の死に立ち会って間もない子供達にとって、あの映画がどれほど恐ろしいか、容易に想像できる。
(波平恵美子『いのちの文化人類学』新潮選書)
『バタリアン』はゾンビ映画のなかでもパロディ色の強いものだから、波平が言うように、日本人にはその恐さがよくわからなくても、「アメリカ人には、やはり恐い映画だろう」というのは一概にうなずけないものがある(ゾンビがどれもそんなに恐いものであれば、ゾンビが一糸乱れぬダンスを踊るマイケル・ジャクソンの「スリラー」だって恐いビデオになってしまう)。それでも、土中に埋葬するときに、頭ではもはや自分が葬る遺体は霊魂を離れた「もの」でしかない、人間ではない、と思っていても、その姿が「眠っているよう」な状態に修復されていたとしたら、どこかでその死を確信できていないかもしれないのだ。よみがえってきたゾンビたちにその肉親の姿が重ね合わされたとしたら、単なるホラー映画とはちがう質の怖さを感じるかもしれない。
つまり、問題は生き残った側が「肉親の死を受け入れているかどうか」という点にある。息子の死を受け入れていないルイス・クリード(『ペット・セマタリー』の主人公)もミセス・ホワイトも、よみがえってくるのは、たとえ変わり果てた姿であろうと「息子」なのである。だが、ハーバートの遺体を確認したホワイト氏にとって、息子は「死者」であり、墓地に葬ったのは、文字通りの「亡骸」、ハーバートではない「もの」だった。霊魂抜きの身体というのは、 "living dead(=生きている死体、ゾンビ)" なのだろうか。ホワイト氏の恐怖は、かつてはハーバートだったかもしれないが、もはやハーバートではない、かつて我が子であっただけに、知らない人よりもいっそう恐ろしいものに対する恐怖だったのかもしれない。
そう考えていくと、ホワイト氏の恐怖を実感するところまではいかないが、何となく想像がつかないでもないのである。
2008-02-17:便所の神様
「猿の手」のあとがきでもちょっと書いたのだが、日本の昔話に「さんまいのおふだ」というものがある。手元にある福音館の絵本では「新潟の昔話」とあるが、類似の話は山形や岩手など多くの土地に残っているようだ。ともかく、それはこんな話である。
むかしむかし、お寺の小僧さんが山へ花を探しに行く。だんだん深く分け入るうちに、すっかりあたりは暗くなってしまった。こまった、と思いながら歩いていくと、遠く明かりが見える。やれうれしや、と歩いていくと、一軒の小さな家が見えてきた。
家に入ると、白髪のおばあさんがいろりの端にいる。今晩、一晩とめてくれ、と頼んだら、こころよく泊めてくれた。ところが、夜中に頭をなめられる気配に小僧は目を覚ました。見ると、さっきのおばあさんが目の前にいるが、なんとその口は耳までさけている。
山姥だ!
なんとか逃げだそうとして、小僧は「厠へ行かせてくれ」と頼む。山姥は逃げられたら大変、とばかり、小僧の腰に縄をくくりつけて厠へ行かせた。
すると厠の神様があらわれて、三枚のお札(ふだ)をくれる。これを持って逃げろ、と言うのである。小僧はありがたくそのお札をもらって、腰の縄を厠の柱にくくりつけて逃げるのだ。
ここでおもしろいのが、それをくれたのが「厠の神様」だということだ。この便所は山姥の家の便所なので、山姥が神様を祀ったから神様がいてくれるわけではないだろう(しかもこの神様は、山姥のもくろみを挫こうとしている)。そうではなく、便所だから便所の神様がいてくださるわけだ。
便所の神様で検索すると、wikipediaには烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)のことが出てくる。
烏枢沙摩明王の功徳として特に有名なのは便所の清めであろう。便所は古くから「怨霊や悪魔の出入口」と考える思想があったことから、現実的に不潔な場所であり怨霊の侵入箇所でもあった便所を、烏枢沙摩明王の炎の功徳によって清浄な場所に変えるという信仰が広まり今に伝わっている。
(wikipedia)
「便所」というのは「怨霊や悪魔の出入口」、おそらくは霊や魔が住む世界とこちら側の交錯するところ、として独特の位置を持った場所と考えられていたようだ。
だが、考えてみれば、山姥の住まいそのものが「山中異界」とも考えられる。小僧さんはうっかり、この世の者ならぬ山姥の住む世界に迷い込んでしまったのだ。そうして、その小僧さんを助けてくれるのが「異界」のなかのもうひとつの「異界」、便所だったわけだ。プラスの世界を反転させるのが「異界」としたら、マイナスの「異界」をさらに反転させてプラスの場所となったのが、山姥の家の「便所」だった、というふうに考えるのは、あまりに理詰めになってしまうだろうか。
わたしもこのくみ取り式のトイレで用を足した記憶がある。暗い穴は恐ろしく、昼だって落ちたらどうしようと怖かった。夜になるとその怖さは、そこから何かが出てきたら……という恐怖にかっわる。夜、トイレに行けなかったのはなによりもその暗い穴だった。中から煙が立ち上っているように見えて、用を足すことができず、母を呼びにいったこともある。あまりにはっきりした記憶なので、わたしの家がある時期まではそうだったのだ、とずっと思っていたのだが、母に聞いてみたところそうではなくて、弟が生まれるときに里帰りした母の実家の記憶だったらしい。そう言われてみれば、濡れ縁を踏んでその奥にある便所の木の扉が浮かんでくる。
この穴の向こうに神様がいてくれる、という発想、神様のおかげで、魔や霊がこちらがわに侵入の機会をうかがっている恐ろしくまがまがしい場所が、清浄な場所になる、という考え方は非常に納得がいくように思う。もしわたしもそんなことを教えてもらっていれば、小さい頃の恐ろしさもずいぶん薄らいだようにも思う。
ともかく、山姥の家の厠にいたのが烏枢沙摩明王だったかどうなのかよくわからないのだが、この神様は、小僧を助けようとお札をくれるだけではない。小僧の腰にくくりつけた縄を、山姥が「キツン」と引っ張ると「まだ まあだ、ピーピーのさかり」(水沢謙一再話『さんまいのおふだ』)と代わりに返事をしてくれて、小僧さんのために時間稼ぎをしてくれる。
ところが山姥は走るのが速いので、小僧さんはすぐに追いつかれてしまうのだ。そこで小僧さん、お札を山に変え、川に変え、燃え上がる炎に変えて時間を稼ぐのである。実にお札は大活躍で、こういうところを見ると「「烈火で不浄を清浄と化す」神力」(wikipedia)を持っていた烏枢沙摩明王のくれたお札なのかもしれない。ともかく小僧さんはそうやってなんとかお寺まで逃げてもどるのである。
ところがお寺の和尚さん、この人がものに動じない、というのか、はたまた「いけず」なのか、小僧さんがどんなに早く戸をあけてくれ、と頼んでも、ちょっとやそっとでは開けてくれないのだ。
こぞうは、トントン とを たたいて、
「おしょうさま はや とを あけてくんなせ」というた。
ほうしるども おしょうさまは ゆっくりしていて、
「おうい いま おきて」「はや はや」
「おうい いま ふんどし しめて」「はや はや」
「おうい いま おび しめて」「はや はや」
「おうい いま ぞうりはいて」「はや はや」
(水沢謙一再話『さんまいのおふだ』 福音館)
やっと出てきた和尚さんは、小僧さんを「きょうばこ」に隠して、山姥に相対する。そこは知恵のある和尚さん、山姥に「じゅつくらべ」を申し出る。大きくなれるか。山姥は、たやすいこと、と、見上げるような大入道になってみせる。つぎに和尚さんは、小さくなれるか、という。今度もまた山姥は、たやすいこと、とひとつぶの豆になった。和尚さんはそれを食べて、おしまい。なんともユーモラスな話なのだが、やはり、この話の要点は、異界に迷い込んだ子供を、みんなで助けようとするというところだろう。
当時の子供は「七歳までは神の子」と言われたように、いまと比べてみればずいぶん死にやすかった。つまりは「あの世」に近い存在だったわけだ。その子供を「この世」に留めておくために、便所の神様や和尚さんは手を尽くす。不浄なものを清浄にする神は、やはり子供の味方だったのだろう。
2008-02-14:人生の汚点
「恥の多い生涯を送って来ました。」という書き出しで始まるのは太宰治の『人間失格』の主人公の手記だが、振り返ってみて「恥ずかしい」と思わず顔が赤らんだり、それからずいぶん時が過ぎているのに思い出すたび、おたおたしてしまうような経験のない人が、果たしているものなのだろうか。わたしだってずいぶん「恥の多い生涯を送って来」た。消しゴムで消せるものなら消してしまいたいようなことをいくつもしてきたのだ。
ケン・グリムウッドの『リプレイ』というSF小説がある。主人公が何度も何度も生き返って人生を生き直すという小説で、似たようなアイデアは映画の《恋はデジャ・ブ》(恥ずかしくなるようなタイトルだが、原題は「グランドホッグ・ディ」、ビル・マーレイがシニカルな気象予報士を演じている)にもあるし、探してみればもっといろいろあるだろう。
ともかくこの『リプレイ』でおもしろいと思ったのは、初めて生き返った主人公が、暗殺されようとするケネディ大統領を救おうと、オズワルドの狙撃をなんとか止めようとする。みごと阻止に成功したものの、オズワルドに代わるほかの人間が、やはりJFKを暗殺してしまった。つまり、当時の情勢は、たとえオズワルドがいなかったとしても、別の暗殺者を要請したという点だった。
もちろん時間というものは、現実には一度きりだから、ケネディの暗殺のような「歴史的大事件」はともかく、わたしたちに起こる些細な現実が、同じようなものかどうか証明するすべはない。それでもわたしは同じことが個人にも言えるのではないかと思うのだ。
わたしたちは大きな失敗をしたあとで、もしあのとき××しなかったら、と考える。だがそれは、オズワルドを阻止したところで別の狙撃犯が現れるように、たとえそのときそうしなかったとしても、別のとき、別の場面、別の状況で、同じような失敗をかならずしてしまうのではないだろうか。そういうふうに考えると、失敗というのは、やはり自分がそれをする必然があったのだろう。
だが、たとえそうであったとしても、現実に失敗してしまうと、なかなかそう思えるものではない。自分一人が失敗するだけならまだいいのだ。ほかの人を巻き込んでしまったり、迷惑をかけたり、あるいはひどいことを言ってしまったり。そうなると、失敗は自分の内だけにとどめておくことができない。恥ずかしさもひとしおとなり、相手に顔向けができないという思いが、失敗したことよりもいっそう、身をさいなむ。自分一人、どこかに閉じこもって、どうしようもない思いを抱えたまま、二度とそこから出たくなくなってしまう。
そういうとき、わたしがいつも頭に浮かぶのがイェイツの『サーカスの動物たちの逃亡』の最終節なのだった。
ぼくのはしごはなくなり、
すべてのはしごの一番下に横たわるしかない、
心の中の汚れたくず置き場で
この詩を知ったのは高校生の時。イェイツからではなく、ボブ・グリーンの『マイケル・ジョーダン物語』を読んだときだった。すぐに図書館へ行って、イェイツの詩全文訳を読んだ。
『サーカスの動物達の逃亡』
私はテーマを捜した、捜したが無駄であった。
六週間ほど毎日のように捜した。
恐らく最後は敗残者にすぎないのだから
私は自分の心で満足しなければならないのだろう、
老齢が始まるまで 夏も冬も
わがサーカスの動物達は全員ショーに出ていたのに、
あの竹馬に乗った少年達も、ピカピカの馬車も、
ライオンと女も、何やら分からぬものまでも。
…(略)…
そして傲慢なイメージは完璧なために
高邁な精神に育ったが、何から始まったのか?
ごみの山あるいは通りで掃き集めたごみくず、
古薬缶、古ビン、壊れたブリキカン
古金具、老骨、古いぼろ服、金箱の番をする
あの狂女。自分の梯子が無くなったのだから、
私はあらゆる梯子が始まるところに、
心の中の汚い屑屋に横にならなければならない。
(ウィリアム・バトラー・イェイツ『イェイツ詩集 』中林孝雄訳 松柏社 )
この詩についてボブ・グリーンはこのようにいう。
ウィリアム・バトラー・イェイツの短い詩に、ぼくがいつも心を打たれてきた一節がある。その詩は、人間が自分からすべてが奪われてしまったと感じ、自分自身を向上させるために、自己の本質に頼らねばならないと気づいたときのことを詠ったものである。
(ボブ・グリーン『マイケル・ジョーダン物語』菊谷匡祐訳 集英社)
この解釈は多少グリーン独自のものかなあ、という気はする。一連目を見てあきらかなように、イェイツが言っているのは詩を書く詩人のことである。外に材料を見つけるのではなく、深く深くみずからの内に降りていって、そこから詩を書いていこうとするものだ。「自分自身を向上させるために」ではなく、「詩」というものを、はるかな高みにおいているのだろう。そうしてそれに対比するように、深く暗い場所に " the foul rag and bone shop " がある。わざわざ "shop" とあるのだから、「くず置き場」ではなく、そこを「汚い屑屋」に喩えているのだ。
だが「心の中の汚れたくず置き場」、いま自分は心の中のくず置き場に横たわっているんだ、というしかない心境は、ひどくなじみぶかいもので、むしろその解釈の方がわたしにはぴったり来たのだった。
自分はいま、そこにいる。ここからもう一度、はしごを自分で工面して、またのぼっていかなければならないんだ、と。
もちろん、記憶のなかにあるのは、そういう情景ばかりではない、もっと輝くような、思い返すたびに胸を温めてくれるような記憶もある。けれど、ほんとうにきついときにわたしを勇気づけてくれるのは、「心の中の汚れたくず置き場」に横たわっていたときの記憶だ。わたしはそこからのぼってきたのだ。
わたしもいまだに思い返すとおたおたしてしまうほどの失敗があるし、顔向けできない人もいる。それでも、だからこそ、いまの自分があるのだ、とも思う。同じことを二度と繰りかえそうとは思わないから。
たぶん、わたしの宝物は、その「人生の汚点」なのだ。
2008-02-03:名を、名を名乗れっ!
電車に乗って、空いていた四人がけの座席のひとつに腰を下ろしたら、残りの座席三つを埋めていたのは小学校の高学年、十歳から十二歳ぐらいの女の子たちだった。彼女たちはこちらにちらちら目をやりながら、それでも話をするのが楽しくてたまらないとばかりに、小声で何か言いかけては、クックッと笑いをかみ殺すのに必死だ。わたしは聞いていませんよ、聞くつもりもありませんよ、という意思表示に、かばんから本を取りだして読みはじめた。それに安心したか、彼女たちの声は徐々に大きくなり、聞こうという積極的な意志がなくても、何を言っているか否応なく耳に入ってしまう状態になった。
どうやら彼女たちはまだ日もあるにもかかわらず、二月の声を聞くや待ちきれず(?)ヴァレンタインデーのチョコレートを買いに遠征してきた帰りらしい。周囲につきそいらしい人の姿もなく、彼女たちにしてみれば、ヴァレンタインに向けての一連の作戦行動の一大メルクマールを独力で達成した、というところだろうか。それぞれに戦利品の入ったデパートの紙袋を膝に乗せて、高揚した顔を寄せては、A君がどうだの、B君は誰が好きだの、C君は誰それと「ラブラブ」だのと延々と名前ばかりが出てくる会話を始めた。おかしいことに、その子が話に出てくる誰にチョコレートを渡すつもりなのか、名前を口にするときの口調からすぐにわかってしまう。その名を口にするだけで、うれしくてたまらない、といった感じで、目元の表情が軟らかくなるのである。
その他愛のない話を聞くともなしに聞いているうちに、わたしも昔のことを思いだしていた。
小学生の頃は名札をつけていたが、中学に入るともう名札などない。同じ学年ならそのうち名前もわかるが、上級生となると、なにしろ接点などないので名前も知りようがないのだった。校内で見かける上級生を、ステキだな、カッコいいな、と思っても、相手の名前がわからない。みんないろいろ算段していたような気がするが、わたしときたら入学して最初に仲良くなった子に頼まれて「すいません、名前、教えてください」と聞きに行ったのである。五月だったか、六月だったか、とにかく入学してまだ間がないころの話である。
わたしはその上級生のことなどまったく何とも思ってなかったので、廊下を歩いている彼を呼び止めることなど恥ずかしくも何ともなかったのだが、いま振り返ってみるとバカなことをしたものだ、と別の意味で恥ずかしい。ともかく、このあいだ入学したばかりの中学一年に、藪から棒に「名前、教えてください」と言われて、聞かれた方も面食らったことだろう。相手は確か高校三年だった。わたしから見ると、まるで大人で、こんなおじさんのどこがいいんだろう、と顔をしげしげと見上げたことを覚えている。
いまとちがって個人情報だの何だのという発想そのものがなかったし、当時は全校名簿だってあった。たとえ相手が一面識もない中学生であっても、聞かれて拒む理由も思いつかなかったのだろう、その上級生もすぐに教えてくれて(どうでもいいが、その名前をわたしはいまだに覚えている)、後ろに控えていたその友だちはそれだけで天にも昇りそうな顔をしていた。たぶんわたしは自分の名も学年も名乗らなかったように思うのだが。
ところがそのあと、その判明した名前をもとに、彼女が手紙を書くとか、プレゼントを贈ったとかという行動に出たような記憶がないのだ。ヴァレンタインまでは、まだまだ時間があったし、彼女自身、そんな先のことなど考えたこともなかっただろう。たぶん、彼女は自分が好きな相手の名前がわかるだけで良かったのだ。
時代小説を読んでいると、「何者だ、名を名乗れ」というせりふが出てくることがある。
「天朝のために、命を貰いに来た!」吉川が低いが力強い声で叫んだ。
「推参! 何奴じゃ、名を名乗れ!」頼母は、立ち上がると、刀を抜いて鞘を後へ投げて、足で行灯を蹴った。
勤王か佐幕かで揺れる藩内にあって、佐幕派の首領、家老の成田頼母の家に刺客がやってくる場面である。
「命を貰いに来た!」という人物に対して、「何者だ、名を名乗れ」と誰何するのは、ずいぶん悠長な気がしないでもないのだが、こういうのは戦場で名乗りを上げていた名残りでもあるのだろうか。仇討ちでも、相手に対して、まずこれは仇討ちであると宣言し、名乗りを上げるところから始まる。たとえ刺客であろうと、殺し合いであろうと、武士たるもの、そうした手続きに乗っ取れと相手にも要求しているのだろう。
だが、この暗殺者は名乗らない。相手を確実に仕留めるつもりなら名乗ってもよさそうなのだが、菊池寛の短編では名乗らないことからドラマが生まれていく。それはここでは関係がないから、興味がある人は読んでもらうことにして話を進めるのだが、つまりは「名前を明らかにすること」は、自分の行為を私的なものではなく社会的なものに位置づけ、さらには誰がこの行為をなしているのか、その責任所在を明らかにしようとするものである、とまとめることができるだろう。
だが、名前の持つ意味は、それだけではないように思うのだ。
日本の昔話に『大工とおにろく』というものがある。
流された橋をかけなおすように頼まれた大工がいたのだが、川の流れは急だし、かけ直せそうもない。困っていたところで鬼が出てくる。かけ直してやる、その代わり、目玉をよこせ、という。目玉はこまる、というと、おれの名前を当てることができたら目玉はあきらめてやる、という。大工はまあなんとかなるだろう、と交渉をしてしまったのである。
鬼は即座に橋をかけた。大工はこまったのなんの。ところが山に入っていくと、子どもが唄う声がする。おにろく、目玉を早くもってかえってこい、という唄なのである。大工はしめたとよろこぶ。そうやって、見事、鬼の名前を当ててやる。
グリム童話にもよく似たのがあって、こちらは名前はおにろくよりむずかしい。ルンペルシュチルツヒェンというのである。おにろくなら、当てずっぽうであたりそうな気もするが、ルンペルシュチルツヒェンとなると、当てずっぽうでは無理だろう。(※参照「ルンペルシュチルツヒェン」)
不思議なのは、なぜおにろくにしてもルンペルシュチルツヒェンにしても、いったいどうして相手のために、わざわざそんな免責条項を用意してやるのだろうか、ということなのだ。
名前には不思議な力がこもっている、というのは、昔から人々が考えてきたことだ。言霊思想の一種なのだろう、そんな気分はいまでも残っているはずだ。もし紙に書いた自分の名前に大きなバッテンがつけてあれば、かならずわたしたちは驚き、腹を立て、その理由を知りたく思うだろう。自分自身を否定されたような怒りと屈辱と胸の痛みを感じるはずだ。あるいは、好きな人の名前を見ただけで、心臓がドキドキしてしまう経験も、だれにもなじみのものだろう。名前というのはただのことばでしかないけれど、それでもそのもちぬしと独特の結びつき方をしているのだ。
だからこそ、おにろくやルンペルシュチルツヒェンが「名前を当てたら、目玉を取るのを/子供を取り上げるのを、許してやる」と言った理由がわからないのである。
ネイティヴ・アメリカンのヤヒ族最後の一人は「人間」を意味する「イシ」と呼ばれた。
彼は本当のヤヒ族としての通り名は最後まで明かさなかった。まるでその名が彼の愛した者たちの最後の一人を火葬に付したとき、薪と一緒に燃えつきたかのようであった。
(シオドーラ・クローバー『イシ 北米最後の野生インディアン』行方昭夫訳 岩波書店)
大切な自分の名前を、部族外の人間には明かさない。その意志を尊重して、彼と関わりを持った人びとは、その彼のことを「人間」と呼んだ。この交流は心を打つのだが、この話もここでは関係ないので涙をのんで割愛する。
こう考えていけば、むしろ鬼は鬼で、小人は小人でいい。みだりに人間に明かそうとする方が不思議なのだ。当ててみろ、というのは、おにろくもルンペルシュチルツヒェンも、ほんとうは自分の名前を知ってほしいのか? と疑わせる。実際、彼らは鬼一般ではなく「おにろく」、小人一般ではなく「ルンペルシュチルツヒェン」と、名前を呼ばれることによって、相手のなかに、だれでもないこの「自分」を刻みつけたかったのではなかったか。こういう見方は考えすぎかもしれないけれど。
いちばん大事な人のことを思いだすために、それ自体としてはつまらない事物を必要とすることもあります。そんなとき、そうした事物はある現実的な力を持つわけです。そうした事物を持たぬ囚人は牢獄の壁に、恋する人は樹皮に、愛するものの名を書き付けます。自分についての思い出を永遠のものとするため、だれでも自分の名と結びつくような事物をつくりあげようと努めるものです。《思い出の忠実な番人は、精神ではなく物質なのです。》
(シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』渡辺一民・川村孝則訳 ちくま学芸文庫)
わたしたちは、多くの場合、最初は名前も知らない状態で人と知り合う。この人のことをもっと知りたい、もっと親しくなりたい、そう思ったとき、まず聞くのが相手の名前である。そうやって相手の名前を知り、以降の一切の出来事は、その名前のもとにつなぎとめられる。
相手を自分のものにすることはできないけれど、相手の名前を自分のものにすることはできる。その名前を口にすることによって。
思いをこめて、そっと口にすることによって。
「おにろく!」
2008-02-01:指導者出よ?
中野好夫に「歴史に学ぶ」というごく短いエッセイがある。それはこんな書き出しで始まる。
真珠湾からだけでも四年余り、支那事変にまでさかのぼれば、実に八年以上国の運命を賭けた危局に際し、政戦両面を通じて全国民の輿望を担うような大人材、大人物をという待望の声だけは高かったが、それにもかかわらず、事実はついに一人のこれといった人物も見出しえなかった。このことは今次太平洋戦争最大の悲劇であり、これだけは東西古今の歴史を通じてちょっと比類のない現象であった。いやしくも一国民が、しかもとにかく世界有数の軍備を有し、列強の一につらなるはずの一国民が、それこそ死力をつくした数年間の死闘を続けながら、ついに一人として指導的人物が現れなかったというのはほとんど考えられぬ事実である。
(中野好夫「歴史に学ぶ」『ちくま日本文学全集 中野好夫』所収 筑摩書房)
中野はフランス革命におけるミラボー、十八世紀中葉イギリスの宰相ピット、あるいは第一次大戦中の首相ロイド・ジョージやチャーチル、フランスのクレマンソー内閣など、「非常時型」の指導者の例をあげていく。ひるがえって日本はどうか。「ここ一世代のわが政治的人材の素寒貧振りは驚くの外はない」という。
一、二度前に書いたり話したこともあるが、戦争中ついに私に諒解できなかったことは、指導者出でよ、大号令を待つ、というあの国民の声である。さらにもっと滑稽なのは、国民の準備はできている、今はただ大号令を待つのみ、というあの悲鳴である。それも一般大衆だけならまだしもだが、堂々たる知識層も言った。一流の新聞紙までが臆面もなく三日に一度は書いた。一番情けなかったのは帝大新聞の投書欄にさえ何度か同趣意の見解を散見した。これもアングロサクソンには全くもって不可解(ミステリアス)の一つであろう。彼らは指導などご免だ、号令を廃してくれとは言うだろうが、号令を掛けてくれとは死んでも言わない国民だからである。一体号令してくれとは、正直言って一人前の成人のそう口にすべき言葉ではないはずである。民主主義に再出発するという日本人が真剣に考え直さなければならない問題ではないかと思う。
昭和二十一年三月初出のエッセイである。「民主主義に再出発する」という部分など、確かにその時代の空気を感じる。だが驚くのは、「指導者出でよ、大号令を待つ」という当時の声である。「挙国一致」というスローガンのもと、国民精神総動員運動なるものが展開されていたようななかにあって、当時の新聞などに「三日に一度」の頻度で、そんな指導者待望論が出ていたというのは知らなかったし驚きもした。
歴史人物の評価というのは、あたりまえの話だが、結果が出てしまってからの評価にならざるをえない。しかも評価するわたしたちがどこに立つか、どこからその出来事や人物を眺めるかによって、評価そのものが変わってくる。たとえばヒトラーだって「非常時型の指導者」と言えるだろうし、見ようによっては「たぐいまれな指導力を発揮した」と言うことだってできるだろう。
たとえばわたしなど、漱石と鴎外が同じ時代に作家活動を行っていた明治時代というのは、ちょっと信じがたいほどものすごい時代だったように思ってしまうのだが、当時のいわゆる「文壇」というところでは、自然主義が主流だったために、どちらかといえば傍流だったという。あるいはドナルド・キーンは「鴎外と漱石は日本ではすでに定評があっても、欧米で多くの読者の興味を惹くとは思えない。我々には漱石の『坊っちゃん』の魅力も、鴎外の『雁』の哀愁も、いずれも身近に感じることが出来なくて、こういう小説は日本よりもヴィクトリア時代中期の群小作家の作品を思わせる」(『日本の文学』吉田健一訳 中公文庫)と言っていて、結局、「その人」を抜きにした客観的評価などというのは、どこまでいってもありえないのだとつくづく思うのである。
だからここで中野があげている「非常時型の指導者」にしても、一概に、傑出した人物であったとばかりは言えないだろうし、指導的役割を担ったことはまちがいなかったとしても、それは単に個人の資質とばかりは言えない側面もあるように思う。だからその当時、日本にほんとうに政治的人材が「素寒貧」であったかどうか、わたしたちはどうしたってすべてが終わってからしか見ることはできないのだし、これを書いた昭和二十一年当時の中野ともまた見る位置は異なっている。
にもかかわらず、時代は移り、社会情勢は大きく異なっているのだが、「指導者出でよ、大号令を待つ」というメンタリティは、ものすごくよくわかってしまうのである。もちろんいまのわたしたちは、表だってそんなことは言わない。指導者(首相/知事/国会議員 etc.)なんて、だれがなっても同じだ、ぐらいに思っている。にもかかわらず、一方で、すばらしい指導者が何もかも解決してくれることを待ち望んでいるのではないか? だってみんな誰が出てきても、批判しかしないのだもの。批判しかしない、ということは、逆に、どこかにあるべきすばらしい指導者を思い描いているからこそ、その理想像と比較して、現実の指導者にダメ出ししているのだろう。結局は、その理想的な指導者が出てくるまで(そんなことをしている限り、決して出てくるはずがないのだが)、批判だけし続けるのだ。それは「指導者出でよ、大号令を待つ」とまったく同じではないか。
中野はスウィフトの『ガリヴァ旅行記』の「政治的才能などというものは、なにも一代に三人しかでないというような天才だけが備えている才能ではない。普通の人間なら誰にでも結構できることだ」という部分を引きながら、こう考えている人々のなかでこそ、民主主義というものは発達したのだ、と語る。おそらくその通りなのだ。そうして、中野がそう指摘してから60年余りが過ぎ、わたしたちは「○○はダメ」「××は無能」などと言いながら、どこかにいるはずのスーパーマンのような指導者を待望している。
結局は、自分に何ができるか、自分はこれから何をするのかを考えるということにしかなっていかないのではないかと思うのだ。
やっぱり「指導者出でよ、大号令を待つ」っていうのは、ひとりのオトナとして、かなり情けないよ。
2008-01-02:Happy Birthday to everyone!
Happy Birthday to everyone!
指折り待った記憶はないけれど、子供のころ、元日はやはり特別な日でした。
夜が明けただけで新しい年になるというのも不思議だったけれど、それでもあたりの空気の隅々までに、「元日」の空気は満ちていたように思います。
まず何よりも、普段よりずっと静かで、車の交通量も少なく、高い青空に、ぽつりぽつりと凧が上っていました。少しずつちがう近所の門松や注連縄を見比べながら歩いていくと、商店街は軒並みシャッターを下ろしていつもより薄暗く、スピーカーからは「春の海」が低く流れ、その琴とフルートの音を聞くと、改めてお正月だなあ、と思ったものです。
祖父母の家へ行くと、毎年「今年は数えで〜歳になった」と言われていました。戦前までは満年齢ではなく数え年を使っていたことを知ったのは、おそらくそういう機会だったのでしょう。
誕生日には関係なく、お正月が来るとみんながひとつ年を取る。
ほかのときに数え年など関係ありませんでしたから、そのころは、数えで七つ、数えで十歳(とお)と言われても、あまりぴんと来なかったものです。
けれども、数え年で歳をかぞえることになじんだ世代の人にとっては、お正月は日本中全員の誕生日でもあるわけで、お正月の意味も、格段に増すように思います。
もういくつ寝ると お正月
家族全員がその日を境にひとつ歳を取る。みんなの誕生日を互いに祝い合う。そんな日なら、確かに指折り数えて待ちたくなるのもわかります。
一年を無事、過ごすことができた。そうして、新年を迎えて、またひとつ歳を重ねる。この一年も、つつがなく過ごすことができますように。
初詣というのは、そうやって感謝をし、祈念をするものだったのでしょう。
そんな「歳の取り方」の経験もないわたしは、「数え年」の風習なんて、単なる知識でしかないのだけれど、それでもここでは昔風にお祝いしてみたいと思います。
このブログをのぞきに来てくださったみなさま。
お誕生日、おめでとうございます。
Happy Birthday to Everyone!
われわれは人生のもろもろの時期にまったく新参ものとしてたどりつく。いや、われわれはいくつ年をとっても、しばしばそこでは未経験者である。
(ラ・ロシュフコー『格言集』関根秀雄訳 白水社)
新しい日は誰にとっても知らない日。やっていることは昨日と同じでも、これからやることは何だって新しいことです。そう考えるとなんだかわくわくしてくるじゃありませんか。
今年も本を読みながら、ぼちぼちと考えていきたいと思っています。
また一緒にお話しましょう。
この一年が、みなさまにとって、実り多い一年でありますように。
2008年 1月 2日