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鶏的思考的日常 ver.22〜散る記憶 残る記憶も散る記憶 編〜



2008-05-19:ぎっくりきた話

ぎっくり腰という言葉を初めて聞いたときのことをわたしははっきり覚えている。小学校三年の時、隣のクラスの先生が「ぎっくり腰」になったから休むという話を聞いたときだ。「ぎっくり」という言葉の語感がおかしくて、笑ってしまったことまで覚えている。

「宿題をやるから」と親には言っておいて、部屋で江戸川乱歩とかシャーロック・ホームズとかの本を読んでいる、そこへふすまが開く。そんなとき、ほんとうに体が「ギクリ」と反応する。「ギクリ」というのは、うしろめたいことをやっていて見つかったときの自分の反応が、まさにその言葉の通りなのだった。そこへ「ぎっくり腰」という言葉を聞いたのだ。

ぎっくり腰、という言葉から、こっそり何か良からぬことをやっていて、それを誰かに見つかって、ギクリ、そこから腰を痛めてしまった隣のクラスの先生……というイメージが浮かんできたのである。おそらく「ぎっくり腰」がどういうものか、もっと詳しくは家に帰って聞いたのだろうが。

だがその先生は、実際には別によからぬことをやっていたのではなく、植木鉢を持ち上げようとして「ぎっくり腰」になったということだった。いまだにわたしは大きい植木鉢を持ち上げるとき、急に立たないように気をつけてしまうのは、「植木鉢」→「ぎっくり腰」という奇妙な因果関係の図式がわたしのなかではこのとき以来成立してしまったのかもしれない。

だが、わたしはそれだけ植木鉢に気をつけていたにもかかわらず、数年前、ぎっくり腰になったのである。ぎっくり腰を表現する言い回しに「魔女の鉄槌」というのがあるらしいが、わたしの場合、一撃というものではなかった。ちょうど夏休みで、近所の人に頼まれてラジオ体操に出て、帰ってしばらくしてからだった。

だいたい早起きの割に低血圧のわたしは、目は覚めていても体の方はなかなか朝早くには動きにくいのだが、そんなことも忘れて、ふつうにラジオ体操をしてしまったのである。戻ってきて、何か腰のあたりがおかしい、なんだか腰に鉄板が入っているみたいだ……と思っていたら、その鉄板がじわじわと拡がって、腰全体が一枚の板のようになった。あ、これはだめだ、と思ってベッドに横になったら、その体勢のままピクリとも動けなくなってしまったのである。「なんかおかしい」から、動けなくなるまで、二時間ぐらいはあったと思う。ともかくそのあいだは足を引きずりながら、よろよろと歩くことぐらいはできたのだった。

ともかくあの痛みは強烈だったために、以来、植木鉢と並んで、早朝のラジオ体操は避けることにしている。もちろんうっかり中腰にならないようにも気を配っている。避けて避けられるものなら、何としても避けたいのが、このぎっくり腰なのである。

だが、人のぎっくり話は楽しい。数日間安静にしておれば良くなることがわかっているから、気安くおもしろがれるという側面があるのだろうが、それだけでなく、おかしさのいくぶんかは「ぎっくり」という語感のおかしさにあるように思う。

自転車置き場で、自転車が将棋倒しになりそうになって、あわてて変な風に体をのばしたら、その瞬間に「ギクッ」ときたという話。二十代最後の誕生日、ということで、友人がお祝いの予定を組んでくれていたのだが、その当日、ベッドで朝、伸びをしたらその瞬間に「ギクッ」となってしまった、という話。駅で杖をついたおばあさんの荷物を代わりに持ってあげて、階段を上っていたら、途中で「ギクッ」となって、そのおばあさんに救急車を呼んでもらった、という話。どれも聞いていたら笑ってしまうような話だ。

もちろんわたしの「ラジオ体操」も、やっぱりおかしい。
病気やけがで笑えることというのも珍しいことで、そういう意味では得がたいものなのかもしれない。休養ができるということに関していえば、これほどの休養もないだろうし。

鶏頭




2008-04-26 :ソクラテスであろうが豚であろうが

昨日の話と似たような、多少ちがうような話を続ける。

昨日のログを書いた後で読み返してみて、ふと彼女がなんであそこまでしきりに「忙しい、忙しい」と繰りかえして言ったか、やっと思い当たったのだった。おそらく彼女は充実している彼女の生活を、わたしに「うらやましい」と思ってほしかったのだ。

そう考えてみれば、いろいろ細かいところに合点がいく。非常に申し訳ないことに、わたしはそのことにまったく気がつかず、何を言われても「なるほどね」と、至極あっさり受け流してしまっていたのだ。

ときどき、自分がどんなに幸せか、承認を求めないではいられないような人に会うことがある。自分がどれほど忙しいか、人に求められているか、大切にされているか、あるいは、自分に何ができるか、自分は何を持っているか、自分はどこの大学を出たか、どこの企業に勤めているか、自分の結婚相手や恋人や親や子供がどれほど優れているか、そういうことを言う人というのは、ほんとうのところは自慢がしたいのではなく、自分の幸せを認めてもらいたいのだろう。

けれど、前にも引いたジンメルではないが、言葉というものは、かならず意図しているものとちがうものを伝えてしまう。そういうメッセージから受けとるのは、逆に、その人の自信のなさだ。

自分が幸せだ、自分は満ち足りている、と人に言わずにはおれないのは、実はその人がどこかいまの自分に自信がなくて、そうではないよ、あなたは幸せだよ、間違ってないよ、と言って欲しいのだ。「ほんと、あなた恵まれてるわね、うらやましいわ」と言って欲しいのに、実際には自分の自信のなさを、人に向かって発信しているのだ。

そんな人は、自分とちがう生き方をしている人を見たら、自分が否定されたように感じる。だから相手を否定しないではいられない。相手に、あなたの生き方の方がずっとすばらしい、と認めさせずにはいられない。

子供を持たないことに決めた、という人は、たいてい「子供はまだ?」という周囲の言葉に、神経を尖らせ、必要以上に傷ついてしまうように思える。逆に、子供を持って専業主婦になった人は、「子供がキライ」という人の言葉に、やはり必要以上に神経質になっているような気がする。

あるいは「専業主婦は暇だ」という言葉に神経を尖らせたり傷ついたりすることだって同じだ。ときにそれが「まとも」という言葉だったり、「世間では」という言葉だったり、「普通だったら」という言葉だったり、なんにせよ確かに無神経な言葉にはちがいないのだが、しょせん、そういうことを平気で口にできるような人間は、あまり深くものごとを考えない人か、あるいは自分に自信がなくて自分以外の人に対して攻撃的になっているかのどちらかではあるまいか。そんな言葉にむかつくぐらいはかまわないけれど、傷つく必要はまったくない。

いまの自分に自信があれば、つまり、いままでのいくつかの選択の場面で、迷いながらもじっくりと考えて、自分に納得のいく結論を出した人であれば、まあいろんな考え方があるからね、と笑って聞けるのではないだろうか。もちろん悪意を持って言われれば頭にも来るだろうが、そんなことを言うような人間は、その人間に問題があるんだ、と思えるような気がする。

幸せという「何ものか」があるわけではないし、その「何ものか」を手に入れなければ「幸せ」になれないわけでもない。

日々、わたしたちはさまざまな選択にさらされる。何かを選ぶということは、ほかの何かをあきらめるということだ。ケーキは食べてしまえばなくなるし、これから海に行こうと決めてしまえば、今日、山に行くことはできない。ケーキはいま食べてしまった方が幸せなのか、まだ持っていた方が幸せなのか。海に行った方が幸せか、山が幸せか、いったい誰にわかるというのだ。

そんな誰にも答えの出せないことを考えるよりも、そのときどきをどうやったら一番楽しく過ごせるかを考えたほうがいい。ケーキを食べるのだったら、どうやったら一番おいしく食べることができるのか考えればいい。それはいま決断を下さなければならないのか。結論を先送りする、とい選択肢ももちろんありだ。

そうしていったん選択してしまったら、それを受け入れること。ケーキを食べずにまだ持っている人と持ってない自分をくらべたって仕方がないのだから。自分が日々を納得して過ごせたら、それが一番いいのだし、自分のありようを納得できている人は、まわりを否定する必要もないはずなのだ。

もしあのときああしていたら、いまごろ自分は……という仮定ほど、いまの自分を損なうものはないような気がする。その「なんとか」でなかったからこそ、いま、自分がここにいるのだから。そんな疑念が湧き上がってきたら、未来の自分が「もしあのとき、過去の出来事をああしていたら、こうしていたらと無意味なことを考えているかわりに、何かをしていたら」と考えているところを想像してみたらいい。いま自分がやっていることのばからしさがよくわかるはずだ。

いま自分がここにいるのは、過去の自分の選択の結果だ。進んで下した選択ばかりではない。あきらめたこともある。それでも、ここにこうしていられるだけで、それはそんなに悪くないことなんじゃないだろうか。もしかしたら、わたしはえらく低いところで「満足」してしまっているのかもしれないのだが、まあそれならそれでいいと思っている。わたしが痩せたソクラテスか太った豚か、別にだれにも判断してもらわなくてもかまわない。

鶏頭




2008-04-25:忙しいんだか、忙しくないんだか

先日、知り合い(友だち、と、わたしのなかでは微妙に位置づけにくいので、この曖昧な言葉を使う)と偶然に会った。なんとなくお茶でも、という話になって、すぐ近くのスタバでアイスカフェアメリカーノを飲んだのだが、結局わたしは「なるほど」と相づちを打つ以外は、ほとんど口を開くこともなく、彼女のいう自分がどれほど忙しいかという話を延々と聞かされる羽目になったのだった。

職場でいま大きなプロジェクトにかかりきりになっていること、周囲に無能な人間が多いこと、しかも子供のP.T.A.の役員まで回ってきて、その会合に出なければならなかったこと。もうストレスが溜まって溜まって……。

その話の合間合間に携帯をやたら取り出してはメールをチェックし、着信音が鳴るやカパッと開き、目を走らせてすぐさま返信する。そのあいだ、こちらはじーっと待つしかない。そのうち、携帯を開くたびに、こっちも本を取り出して読むことにしたのだが、それを見て、「うらやましい」と彼女は言ったのである。自分には、いまは本を読む暇などほとんどない、と。なるほど。

そのうち、彼女は携帯に目を走らせて時間を確認すると「ああ、もうこんな時間」と立ち上がった。「またメールするから」という言葉を残して、わたしたちはあたふたと別れたのである。

二十分ほどしてメールは来たが、わたしはその返信はまだ(もらってから54時間ほど経っているが)していない。あの頻繁に打っていたメールが、もしこんな内容であれば、彼女の毎日を忙しくしているものがどういったものなのか、その一端の想像はつくような気がする、というのは意地悪な見方かな。

いつから「忙しい」ことがそんな立派なことになってしまったのだろう?
確かにわたしもときどき忙しくなることはあるのだが、多くの場合、それはそんなに褒められたことではないのだ。わたしの場合、やらなければ、と思い始めてから取りかかるまでに時間がかかるし、いよいよダメだ、もう間に合わない、という状態になって、初めて起動する脳内のアプリケーション(笑)みたいなものがあって、それが起動するのを待っている(何か言い訳みたいだなあ)。

おまけに世の中には気乗りのしないことも、もうひとつ言えば、どうしてもやらなければならないわけではないことも多いのである。
たとえば、携帯メールとか。

反面、たとえお金にならなくてもやって楽しいことはたくさんあるし(このブログとか)、そういうことはできるだけ時間をかけて丁寧にやりたい。

結局、仕事をばりばりやっている人から見ると、ずいぶんお気楽に過ごしているように見えるわたしでも、(忙しいときには)かなり忙しくなってしまうのだが、これはどちらかというと(というか誰が見ても明らかに)自分に責任があるのであって、だからそれを思うと恥ずかしくて忙しいなんてあまり言えないのだ。

わたしの知り合いには専業主婦も何人かいて、それぞれにおもしろい人たちなのだけれど、この人たちにはある種の言葉に「ちょっと神経質」という共通点があるように思う。

つまり、そういう人たちに、ついうっかり「昼間、自由になる時間がある」ようなことを言うと、たいてい「そんなことない」という言葉が返ってくるのである。多くの人は、不当な批判をされたような、傷ついた顔になって、子供の世話がどれほど大変か、自分の自由になる時間なんて一日のうちに何分あるか……。朝から晩まで家事と家族の世話に追われ、なのに誰からも評価されず、感謝もされず、もちろんお金ももらえず、これほど割の合わないことはない、と言われてしまうので、わたしとしては、自由な時間があるから昼寝でもできると言いたかったわけではなくて、予定を組むとき、昼間だったら比較的融通がつきやすいね、ぐらいの意味で言ったのだが、それでも、ごめん、と謝らなければならないような気がしてしまう。

事実忙しいのだろう。
けれど、どうしてもやらなければならないわけではないことの手を抜いて、気乗りのしないことはパスしたっていいのだと思うし、自分は賃労働をしていない、ということに負い目を感じる必要もない。働いてないから、子供たちとゆっくり時間を過ごせて楽しい、と言ったって、事実、そんな時間の過ごし方をしたって全然かまわないと思うのだ。

別に忙しいのが偉いわけじゃない。
だって、ジョン・レノンだって"Beautiful Boy" のなかで言っているじゃないか。

"Life is what happens to you while you're busy making other plans."
 (人生とは、何かの計画を立てるのに忙しいときに起きてしまう別のできごと)

いや、別の人が言ったこんな名言も、わたしは捨てがたいと思ってるんですが。

"Life is a medley of everything that happens to you while you're saying busy."
 (人生とは、忙しいと言うのに忙しいうちに起きてしまうさまざまなできごとのごたまぜ)

鶏頭




2008-04-24:夢のような読書

いまのところわたしが考える最高の読書というのはこれだ。

・休暇に
・暖かいところで
・海辺やプールサイドで
・数日間の時間をかけながら
・紙と鉛筆を持って(海辺やプールサイドでは濡らさないように気をつけて)
・『百年の孤独』を読む

というものである。
なぜ紙と鉛筆が必要かというと、家系図を書きながら読むためである。百年の間にほんの少しだけちがう名前の人物が、ずいぶんたくさん出てくるので、紙はB4サイズぐらいが適当かもしれない。

わたしは上の四つの条件とはまったくちがったのだが、紙と鉛筆だけは持って、家系図を書きながら読んだ。数年前に改訳版が出て、それには家系図があらかじめついているらしい。だが、おそらくこれは本の楽しみを半減させてしまうはずだ。

ホセ・アルカディオ・ブエンディーアがマコンドを切り開いて、町がなかったところに町ができていく。そうして一世紀のあいだに寄せては返す波のように繰りかえされる、同じような名前を持った登場人物が何十人も現れていく。その波のような名前をひとつひとつつかまえて、家系図を自分の手で作ることによって、人間の生きていく歴史のつらなり、ゆっくりと流れていく時間と、「いま生きている自分」の時間を一致させていく。

そうして、さいごでまたその時間がゆっくりと円環していくことを、自分の手で確認したとき、なんともいえない豊かな気持ちに包まれる。そういう円環的時間を自分の実感として感じることができるという意味で、実に希有な小説なのである。

ですから、まだこのガルシア・マルケスの『百年の孤独』をお読みでない方は、ぜひ、そうやってお読みください。
おそらく、人生最高の読書体験のひとつになることと思います。
これはわたしが保障します。

ところで、「百年の孤独」という名前の焼酎がある、という話をこのあいだ教えてもらった。名前の由来はこの小説らしい。

そうしてこの焼酎のラベルには、

"When you hear music, after it's over, it's gone in the air, you can never capture it again."
(君が音楽を聴いているとする。だがそれが終わってしまうと、音は空中に消えてしまって、もはや二度とその音をつかまえることはできないのだ)

これはジャズ・ミュージシャンであるエリック・ドルフィーの言葉だという。この言葉は彼の最後のアルバム"Last Date" での彼の言葉なのだそうだ。

エリック・ドルフィーはアルバムのなかでバス・クラリネット、アルト・サックス、フルートと三種類の楽器を吹いている。バス・クラリネットの音は、深い、つやのある音がころころと転がっていってとどまるところを知らないように聞こえる。ひとつひとつの音などと意識することもない。音楽は、そこにある、見えているような気さえする。

だが、ドルフィーのフルートの音は風の音のようだ。"South Street Exit" の、重さをまるで感じない、渺々と吹きすぎる風のような音を聞いていると「それが終わってしまうと、音は空中に消えてしまって、もはや二度とその音をつかまえることはできないのだ」という言葉が、実感となってくる。「消える」というのは、「そこにあったものが消える」ということなのだ。あったものがなくなることは、最初からなかったこととは全然違うのだ、と。

マルケスの、円環する大きな時間と、ドルフィーのこの「瞬間」、両極端でありながら、通底するものがあるように思う。「ある」ということの不確かさ。かつてそこに「あり」、いまは「ない」ものの確かさ。

わたしがお酒が飲めたら、上の六つの条件にこの焼酎を加えたいのだけれど、どなたかぜひ、それをやってみてくださいませんか。
だけどエリック・ドルフィーを聴きながら焼酎を飲んだら、ちょっと悪酔いしそうな気がしないではないけれど。

鶏頭




2008-04-18:威張りカエル・そっくりカエル・ひっくりカエル

ところでダールの「味」に出てくるリチャード・プラットは、なぜあんなにいやらしいのだろう。

たとえば食いしん坊がいるとする。みんなで食事をしても、自分のものはいち早く食べ終えて、こちらが食べているものをよだれを垂らしそうな顔で見ているから、仕方なしに「唐揚げ、ひとつ食べていいよ」とか「このスパゲティ、ちょっと食べてみる?」とかと、つい言ってしまうような人物である(またそういう雰囲気に持っていくのがうまいのだ)。こういう人物は、尊敬はされないが(あたりまえだ)、少なくともいやらしくはない。

ところが卓上の塩入れを手にとって「これは精製塩を使ってるね、自分は『ゲランドの塩』しか使わないんだ、精製塩は体に悪いよ」などという人物がいたら、コーヒーにでもその「ゲランドの塩」をたっぷり入れて「体に良い塩を使ってみたよ」と言ってやりたくなる。

このように、食いしん坊がいても、別に食事はまずくならないが、蘊蓄垂れがいると、とたんに食事はまずくなるものなのである。

サキの短編「ラプロシュカの魂」の主人公、ラプロシュカのケチはほほえましいが、「博愛主義者と幸せな猫」の主人公、貧しい人間を探しに出かけるジョカンサはいやらしい。

どうやらわたしたちは自分をひけらかそうとする人間にたまらないいやらしさを感じるようだ。

逆にどんなときにひけらかしたくなるんだろう。たとえば「味」のマイク・スコフィールドはこんな人物だ。

「彼のような人物にありがちなのだが、ちょっと目端が利くのを生かしたところ、金持ちになっていたことに気がついて、当惑もし、恥ずかしがってもいるようなところがあった。」(私訳)

だからこそ彼はいろんなものを収集し、知識を得、「教養人」になろうと努めた。プラットを招いたのは、努力の結果、自分が「教養人」の仲間入りをしたことを判定してほしかったのである。ここでの蘊蓄の披露=ひけらかしは、勉強の成果、努力の成果の披露である。ひけらかしの視線の先には判定者プラットがいる。判定者の顔色をうかがいながら、クジャクが羽をひろげるように精一杯知識を誇示しているその姿は、端から見ればどこか滑稽だ。

一方、プラットも同じように自分の知識や能力をひけらかす。確かに過去、プラットも努力や勉強をしたことがあったかもしれないが、そんなものは隠している。あたかも生まれつき、自分には天賦の才能があるかのような顔をする。つまり、彼のひけらかしは、周囲に対する自分の能力の誇示にあるばかりでなく、誇示することによって相手をおとしめようとしているのだ。「わかる」自分を誇ると同時に、わからない周囲をばかにするひけらかしなのである。これでは周囲が不愉快になるのも無理はない。

だが、この二種類のひけらかしはまるっきり異なるものなのだろうか。

以前、別のところでジンメルのこんな一節を引用したことがある。

人間の全交流は、より明瞭でない微妙な形式において、つまり断片的な萌芽を手がかりとして、あるいは暗黙のうちに、各人が他者についてその他者がすすんで明らかにするよりもいくらかはより多くのことを知っているということに基づいている。しばしばその多くのことは、それが他の者によって知られるということをその本人が知れば、本人には都合が悪いことなのである。このことは、個人的な意味においては無配慮とみなされるかもしれないが、しかし社会的な意味においては、生きいきとした交流が存続するための条件として必要である。

(ゲオルク・ジンメル『社会学』白水社)

たとえば「わたしは××大学を出た」と、話の脈絡とは無関係に言う人がいたとする。その人は「自分は××大に合格できるほど頭が良い」と言いたいのだが、聞いている側は「この人にとっては××大出ということを後生大事にしておかなければならないような人なんだ」と受け取る。

マイク・スコフィールドは「教養がある」と認められたい。だが、それを見る人は、小金を貯めた株屋が気取っていると感じる。リチャード・プラットは繊細な舌と豊かな教養を誇る。だが、話し相手にされてしまったマイクの娘は「礼儀正しくあいづちはうっているものの、仕方なくそうしているに過ぎない」。そうしてこれは、差し出すものと受け取るものがずれているというだけでなく、「他の者によって知られるということをその本人が知れば、本人には都合が悪いこと」に気がついているということだ。

相手が自分に対して抱く印象は、わたしたちはどうすることもできない。だがそれを、ひけらかしたり、自慢したりすることで、自分の思う方向へコントロールしようとしているのではあるまいか。

だが、たとえそれを目論んだところで、相手はかならずわたしたちの目論みとはちがう印象を持つのだ。もっとも都合が悪いこと。それは相手をコントロールしようとする欲望ではないか。ひけらかしがあらわにするのも、その「もっとも都合が悪いこと」だとしたら。

ときに、わたしたちははっきりと意識もせずに、こんなふうなひけらかしをしてしまうことがある。それは、きっと自分のどこかに自信がなかったり、引け目があったりするのだろう。けれども、どんなときでも、見せたい「自分」より、ありのままの自分の方がまだマシ、ということだけは覚えて置いた方がいい。

鶏頭




2008-04-06:さくら、桜

桜にまつわる最初の記憶は、桜の木の下でままごとあそびをしていた記憶かもしれない。アルマイトのお弁当箱に、落ちた花びらを集めて入れた記憶だ。破れたり、土のついたりしていない、きれいな花びらだけを集めて、銀色の弁当箱に詰めていった。じき、薄紅色のはなびらでいっぱいになった弁当箱を開けて食べるのは、いったい誰のつもりだったのだろう。

近所に、庭に桜の木がある家があった。夜になると桜の花はぼうっと白く浮かび上がり、まるで明かりのようにあたりを照らしている。もちろん街灯のように明るいわけではないのだが、暗い住宅街の一画に、ぼうっと白くかすむように浮かび上がる桜の木は、美しいというより、何か不思議なもののような気がした。そこから引っ越した後に、「花明かり」という言葉を知って、小さな頃に見たこの家の塀の上から伸びる桜の枝のことを思い出したものだ。

桜の見頃というのはせいぜいが一週間ということで、わたしのいる地域では、昨日、今日がお花見のピークだったようだ。電車のなかからも、桜の下に集まって、お弁当をひろげたりバーベキューをやったり、あるいは青いシートを広げて場所取りをしていたりする人の姿が見受けられた。

この時間になっても、部屋の窓から、家並みの向こうに見える桜並木の通りには、明かりがついているのが見える。あの明かりの下では、夜桜を見物している人もいるのだろう。

花見の楽しみのひとつは、「今年もこうやってお花見をすることができた」という恒例行事としての楽しみという側面もあるにちがいない。子供の頃は、決まり決まった家族の行事や学校の行事を、ありがたく思うわけでもなく、楽しみにするわけでもなかった。毎年やっているから、今年もやる、ということに、たいした意味を見いだすことができなかったのだ。

だがいつからか、「毎年」の意味が、わたしにもわかってきたように思う。おそらくそれは毎年咲く桜とは無関係ではない。

春になると桜は咲く。過ぎゆく時間を超えて、同じ木に同じ花が咲く。桜は回帰してくる。だが、回帰してきた桜を見上げるわたしは同じではない。同じ桜を同じではないわたしが見ることによって、「ふたたび戻ってくることのないわたしの時間」がいっそう強く意識されるのだ。同じ桜を見ながら、過去を、去年のことを思う。そうしていまを、来年のことを。過ぎ去った日々を思い、また来年も同じように花を見ることができればと思う。桜はそうした切れ目なく過ぎゆく時間の、眼に見える「刻み目」なのである。

桜の花と一緒に、わたしの記憶も回帰してくる。アルマイトのお弁当箱に花びらを詰めた日々も、暗い中に浮かび上がる桜を息をつめて見た日々も。過ぎ去ったはずの時間なのに、今年もまた戻ってきて、いまのわたしとともにあるのだ。

そうして、花の季節が終わると、わたしたちの意識からも桜の姿は退いていく。今年の記憶をつけくわえて、桜の思い出も、どこかに行ってしまう。

いつとなくさくらが咲いて逢うては別れる (山頭火)

だが、また春は来る。桜は咲く。

鶏頭




2008-04-05:重い言葉、軽い言葉

わたしたちは話の中で相手と同じ言葉を使っているときは、深く考えることなく相手と自分とは同じことを言っているのだと思っている。だが、たとえば「あの人、優しいよね」という言葉に、ほんとうにそうだ、と同意したところで、「あなた」と「わたし」が思っている「優しさ」の中身は、かならずしも一致しているわけではない。一方が、自分に対して親切にしてくれたことを感謝しているのに対し、もう一方は「女の子と見ると優しくするんだから」と不満を抱えているかもしれないのだ。

「優しい」というような抽象的な言葉だけではない。
小学生の頃、こんなことがあった。ある日先生が「メロンとスイカのどちらがおいしいか?」と子供たちに尋ねたのだ。まだメロンがそこまで日常的な果物ではないころ、スイカがいまのように高級品になってはいないころの話である。ほとんどの子供は「メロン」と答えたのだが、「スイカの方がおいしい」と答えた子供が、わたしを含めて数人いた。

それ以前から「リンゴとミカン、どっちがおいしいと思う?」「カボチャのコロッケとジャガイモのコロッケ、どっちがおいしいと思う?」というたぐいの質問をされるたびに、答えようがないなあと困っていたのだが、そのときにあえてスイカを選んだのには理由があった。ちょうど数日前、家で頂き物のメロンを食べたのだが、刺激が強くて、すぐに舌が痛くなってしまったのだ。そうして次の日あたりにスイカを食べたのだが、毎日のように食べているにもかかわらず、その舌触りと穏やかな甘さは、スイカのおいしさを改めて実感したのだった。そういう経緯があったために、その質問のわたしの答えは、断然、メロンではなくスイカなのだった。

ところが先生は、クラス全員にメロンの方がおいしいと言わせたかったらしく、スイカを批判する。先生が「メロン、メロン」と言うたびに、舌にあのときの刺激がよみがえって、話を聞いているあいだじゅう、舌先にピリピリする感じがよみがえってくる。昔のことで細部などまるで覚えてないのだが、最後に先生はいらだたしげに、「あなたたちだけ水泳大会のときにスイカを食べてなさい」と言ったのだった。

その言葉の意味がわかったのは、後日開かれた水泳大会のときだった。先生の実家から届いたメロンが、少しずつみんなにふるまわれたのだ。わたしにもやっと先生のいらだちの原因が理解できたのだが、同じ「メロン」という言葉なのに、人によって何を感じるか、その言葉にどういう意味をこめるかというのは、まるでちがうのだなあ、と思った経験だった。それまで「メロンという言葉が意味するのはメロンそのものであって、それ以上でもそれ以下でもない」と思っていたのに。

そんなことを思うと、わたしたちのコミュニケーションというのは、もともとちがうものをなんとか調整しようと、涙ぐましい努力を(それと気がつかないまま)しつつ、大なり小なりの誤解を残したまま、それと気づかず(あるいは微妙な違和感を覚えつつ)終わっていくのかもしれない。

人による経験のちがい、そこから来る言葉の意味合いの差ということとは別に、人によってその「言葉の重さ」がちがうな、と思うこともある。武田泰淳の『異形の者』という短編の冒頭を読んだとき、わたしが感じたのはそれだった。

この小説では、主人公である「私」が、喫茶店で働く同棲相手の仕事が引けるのを店で待っているとき、ほろ酔い加減の哲学者に議論をふっかけられるところから物語は始まっていく。

哲学者は「愛とは何か」とか「憎しみとは何か」と、つぎつぎと「私」に問いかける。やがて「地獄をどう思うか、あんたにとって地獄は存在するのか」と聞くのである。

「地獄は、どうもあるような記がします」
「ではあんたは地獄に往くと思いますか」
「私がですか。私は地獄へなど往きません」と私は、旅行の相談でもしているように気楽に答えた。
「そうですか」と哲学者はたちまちうれしげに顔をかがやかし、勝ちほこったように断言した。「そうでしょう。あんたはそうでしょう。ところが僕は地獄へ往きます。僕は地獄へ堕ちるんですよ」……

「そうですよ」と彼は生気溌剌として言った。「僕は実に罪悪にみちみちているんですからね。あなたにはわからないだろうが。実におそろしいことですよ、これは。しかし事実なんですよ、これは」
「そんなことはないでしょう。地獄へなんてことは」
「いや地獄です」と彼は、私のしめっぽい同情をはらいのけるようにして、ニヤリと会心の笑いをもらした。私はだが少しも同情してなどいなかった。彼を地獄へなど、そうやすやすとやってたまるものかという意地わるい心、むしろ予言者じみた自信を以て、そう主張したのであった。
「先生は極楽へ往きますよ」

(武田泰淳「異形の者」『ひかりごけ・海肌の匂い』新潮文庫)

「地獄へ堕ちる」という言葉にどのような意味を「哲学者」がこめているかはわからない。だが、彼がおそろしく軽くこの言葉を使っていることだけははっきりしている。そうして、その軽さが主人公をいらだたせていることも。

少なくとも「地獄に堕ちる」という言葉は「うれしげに顔をかがやかし、勝ちほこったように断言」できることではないはずだ。「僕は実に罪悪にみちみちているんですからね」という言葉が「生気溌剌として」発せられるはずがない。恐ろしいはずの「地獄へ堕ちる」ことをうれしがる、恥ずべき罪を、楽しげに語る、ここに告白ごっこのいやらしさがある。自分は悪人である、悪いと率直に認められる自分こそ、正直で立派なのだ、という逆立ちした自慢である。

「哲学者」に対する反発が、「私」に「先生は極楽へ往きますよ」という言葉を言わせる。あえて「旅行の相談でもしているように気楽」な言い方をさせる。だからいよいよ相手は「私」の本心に気がつかない。

「地獄」について「私」がどう考えているかについては、この『異形の者』という作品全体とも関連してくるので、ここでそれこそ軽々しく論じるつもりはない。ここでわたしが言いたいのは、「地獄」という言葉や「罪」という言葉の重さは、人によって決して同じではないこと、そうして、重い人間にとって、相手の軽さは手に取るように感じられ、ときにその軽さがやりきれなく思えて、反発や軽蔑を喚起するが、軽い側の人間には、相手の重さは決して気づくことがない、ということなのだ。その重さを知っている人間には、軽さも理解できるが、軽さしか知らない人間には、重さは理解できない。

「地獄」や「罪」の意味の軽い「哲学者」の語る「愛」も「憎しみ」も似たようなものだろう。「命」も「他人」も、軽い、風が吹けば飛んでいってしまうものだろう。

言葉が軽いというのは、結局、どういうことなのか。辞書に載っていたり、世間で一般的に使われる意味にそのままよりかかり、その言葉の持つ意味をつきつめて考えることもない。自分の経験と照らし合わせ、意味を深めていくような作業を怠った言葉、とは言えないか。

言葉の意味をつきつめて考えるということは、同時に、自分自身について深く考えていくということを意味するはずだ。この「哲学者」は、自分をつきつめることもないまま、辞書的意味をそのまま右から左へ差し出すように使い、自分が「使える」ことを「理解」と呼んでいるのだろう。こうやって「地獄」や「罪」や「愛」や「憎しみ」が人によってはとてつもない深さをもっていることに気がつくこともないまま、軽く、軽く使っていくのだろう。

「軽い」ということに価値がおかれるようになって、もうずいぶんになる。その昔「いまの文化の「軽さ」は、芭蕉が晩年に到達した「かるみ」の境地に通じるものだ」と誰かが新聞に「軽さ称揚」の文を書いていて、適当なことを言う大人が世の中にはいるのだなあ、と芭蕉を習ったばかりの中学生(わたしのことだ)は考えたものだった。だが、そういうわたしも、もっとクラス全体が分かり合おうとしなくては、とやたらと「話し合い」を持ちたがる連中をじゃまくさいと思っていたのである。

いまのわたしたちにとって、「重い」という言葉は、避けた方がいい、そういうことは言わない方がいい、というニュアンスで使われることが多い。

「そんなことを言うと重いかな」
「これは重いよ」
「重い。引く」というふうに。

相手との距離を取っておきたい、現在以上に関係を密にするつもりはないとき、「重い」といって相手を遠ざける。逆に、相手に嫌われては困ると思って、この言葉は「重い」のではないか、この行動は「重い」と受け取られるのではないか、とためらったり不安に思ったりすることもある。

それでも、ほんとうに相手と通り一遍だけではない関係を築いていこうと思えば、その関係は「重く」なっていかなければならないのではあるまいか。それは相手に依存することで、自分の重さを相手にそっくり預けてしまうことではない。相手との関係を深めていくことと、依存をすることのあいだには、おそらく何の関係もない。

自分にとって大切な言葉がだれにでもあるだろう。まずはその言葉を、できるだけ重くしていくこと。その言葉をつきつめ、自分自身の経験と結びつけ、自分なりの意味を与えていくこと。

自分の言葉全体を少しずつ重いものにしていくことが、結局は通り一遍だけではない関係を人とのあいだに作っていくことにつながっていくのではないか、と思うのだ。

「重くなる」ことを怖れる必要は、たぶん、ない。
「重い」ことをいやがるような相手は、たぶん、あなたにとって大切な人にはなっていかない。

低いものと浅いものとは、同一のレベルにある。「かれは愛している、激しく、しかし低級に」という言い方は可能だ。「かれは愛している、深く、しかし低級に」という言い方は不可能だ。

シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』
鶏頭




2008-03-14:塩の話

なんとなく尻切れトンボで終わった感じもする昨日のログではあるが、ともかく東インド会社という一企業が、一時期ではあるにせよ、インドという国を統治していたことがわかってもらえただろうか。

その時代のイギリス人にとって、インドは格好の就職先だった。貧乏貴族にとっては没落を防止する最後の砦として、中流階級にとっては、総督はじめ高位高官のほとんどは貴族で占められていたものの、実質的にインド統治にあたる官僚や軍の将校の道が開かれていた。彼らにとってはイギリス本国では得られない活躍の場が与えられたのである。

だが、統治されたインドの側はどうだったのだろう。ここでは東インド会社がインド国民に課した税には、こんなものがあったということを紹介しておきたい。

イギリスは巨大で人口もまた膨大なインドを支配しづけるために、富裕な王族や地主の支持が必要だった。そのために彼らには課税しなかった。だが、インドの多くの国民は、まったく貨幣を持っていない。課税の対象になるような商品も持ってなかった。そこで昔からある塩税に目をつけたのである。

そもそも塩税を考案したのは中国で、紀元前12世紀の文献にはすでに塩税の語句が見られるという。

塩をあらわす古代の漢字は三つの部分からなる象形文字だった。下部は道具、左上は帝国の高官、右上は塩水をあらわす。つまり「塩」をあらわす漢字そのものが、塩の国家専売を形容していたのだ。
 健康のため、そして生存のためにすべての人類が必要とする物質は、多額の税収をもたらす。誰もが買わなければならないので、塩税そのものが国家を支えることになる。

(マーク・カーランスキー『「塩」の世界史』山本光伸訳 扶桑社)

以来、さまざまな国で塩税は賦課されたのだが、悪名高いのは革命前のフランスである。当時のフランス国民は王から毎週塩を購入しなければならず、そうしなければ鞭で打たれるか、牢獄に入れられるかしたのである。しばしばこの塩税(ガベル)をめぐっては一揆が起こり、これがフランス革命の原因のひとつともなったと言われている。

では、インドではどうだったのだろう。

インドの海岸地帯では東海岸でも西海岸でも、古代から塩が作られていた。インド中部の人びとは、牛車で綿や穀物などを運んできては、塩と交換していた。どの地域でも、支配者たちは少額の税を課したが、塩はあちこちで取り引きされていたために、領内の塩の競争力を下げるような高額な税を課すことを避けたのである。

ところが先にも書いたように、イギリスの課した塩税は少額のものではなかった。しかも、塩の豊富なインドで、その気になればただで手に入れることができるものに対して、一律高額の課税がなされるというのは、きわめて不公正なものであったといえよう。

あまり知られていないのだが、英国支配の時代に塩税と関連して、中部インドを横断して数千キロにも渡る巨大な壁が造られた。これは中国の万里の長城のスケールに相当する。ただし、インドの壁は侵入者を防ぐためではなく、安い塩を中に入れないためのものである。この壁に囲まれた地域のなかで、植民地の支配者たちは、塩という何気ないが生活に不可欠なミネラルをインドの人々が使用することに対して課税したのである。…約一週間の労働に相当する割合の塩を毎月ごとに徴収したため、塩の密輸が行われるのは必定だった。それを防ぐために壁が作られたのである。

(マーティン・コーエン『倫理問題101問』榑沼範久訳 ちくま学芸文庫)

これに対して立ち上がったのが、ガンジーである。ガンジーが計画したのは「塩の行進」だった。

 ある朝、ここで奇妙な儀式のようなものが執り行われていた。白い服を着た何千人もの人びとを先導しているのは僧侶のようだ。少なくとも、素人目には僧侶だと思われる人物である。

 白衣を纏ったその人物は丸い眼鏡をかけたまま海に入っていった。信者たちは声も立てずに砂浜に立ち止まっていた。僧侶は…海水が膝に達するまで前進し、海水を体に振りかけて体を洗った。まるで、後方に控えて自分注視している群衆の前で清めの儀式を執り行っているかのように。

 やがて、その人物は静かな海面から上半身を起こし、体の向きを変えて大勢の同伴者たちが待つ砂浜の方へと戻っていった。その途中、彼は乾いた泥が海面から顔を出している上にかがみ込み、表面に付着した白い粉のようなものを一掴み掬い取った。

 群衆は一連の動作を沈黙したまま食い入るように見詰めていた。そしてガンジーがわずかな粗塩を採取したとき、全員が感嘆の声を上げた。それは、獣のうなり声にも、安堵のため息にも似ていた。

(ピエール・ラズロ『塩の博物誌』神田 順子訳 東京書籍)

ガンジー指導の下で人々は海まで行進し、海水から塩をつくった。生きるために必要な塩を、そうやって自らの手で作りだしたのである。塩は塩にとどまらなかった。生きてゆくのに必要な塩を自分たちの手で作り出すことができるなら、ほかのものだってできる。事実、かつてはそうしていたのだから。そうやって別の国の支配に従属していたインドの国民が、経済的な自立を手に入れ、自信を取り戻すことで、植民地支配をみなで拒絶することができる、とガンジーは考えたのである。

塩の行進はインド独立運動の火ぶたを切ることになった。インドが独立を確立するのはそれから十五年後のことである。

鶏頭




2008-03-13:東インド会社に就職するには

サマセット・モームの "The Outstation" のタイトルでもある "outstation" の訳語を探すために、何冊かイギリスの植民地統治についての本を読んだのだが、とてもおもしろかった。

イギリス東インド会社というのは、「会社」とついているように、確かにひとつの企業なのである。正式名称は "Honourable East India Company" 「誉れ高き東インド会社」というゴージャスな名前である。ただこの "Honourable" は植民地などの行政官に対してもつけられる敬称で、実際のところ特にありがたいものではない。

東インド会社が設立されたのは1600年のこと。ロンドンの「冒険商人」という組織による純民間会社である。ところがこの民間会社はやがてインドにあっては政府として機能するようになっていった。

東インド会社は商社でありながらインドに領地を得たことによって、領地の統治者=政府となった。われわれにはなかなか理解しにくいが、約二〇〇〇人の株主がいて、その株式が証券取引所で毎日取り引きされる会社が、イギリス議会の監督の下に一八五八年までインドを支配していたのである。その政府は税金を徴収し、戦争をし、藩王(※インド各地の小王国の君主)、近隣諸国とさまざまな外交交渉をし、条約を締結した。

(浜渦哲雄『英国紳士の植民地統治 インド高等文官への道』中公新書)

もちろん最初から一企業にインドを支配してやろうというもくろみがあったわけではない。同じく浜渦の『大英帝国インド総督列伝』(中央公論新社)によると、当時の政府は海外での商業活動を保護してくれたわけではなく、この会社自らが、ポルトガルやオランダ、フランスの東インド会社と抗争を重ねたり、地域の支配者同士の戦争に介入したりしているうちに領土の保有者となっていったのだという。

映画《パイレーツ・オブ・カリビアン》の二作目・三作目には、東インド会社の重役ベケット卿が登場する。彼はポートロイヤル(ジャマイカ)のスワン総督など、歯牙にもかけないが、全盛期の東インド会社は、事実そのくらいの権力をもっていたのである。

ちなみに17世紀当時のヨーロッパ人にとって、「東インド」とは、喜望峰以からマゼラン海峡以西の地域を指した。つまりアフリカ、アジア、アメリカまでもが「東インド」だったのである。いまのわたしたちから見ればずいぶん荒っぽいくくりだが、当時のヨーロッパ人からすれば、文明の圏外はその程度の区分で十分、というところだったのだろうか。

ともかく、東インド会社は紆余曲折を経ながら、政府や外交機能を果たすようになっていき、1765年にインドのムガル皇帝からベンガルの徴税権を付与されて以降は、会社が政府そのものになっていく大きな契機となった。

ただし、イギリス本国では一企業によるインド統治に反対する意見は絶えず出され続けた。だが、当時の東インド会社の書記官=ライター(海外勤務社員)になることは国会議員になるのと同じくらいの値打ちがあったために、直接統治にすると、与党が人事権を悪用し、国内の政治的腐敗を招く怖れがあったらしい。

その結果、政治とは直接関係のない株主が運営する会社にインドを統治させ、政府が会社に規制を加えるという形態ができあがったのだという。「会社の幹部社員であったJ.S.ミルは会社がインドを統治する方が政府による統治よりも安上がりである、と議会で証言している」(『大英帝国インド総督列伝』)と、思わぬところで功利主義者J.S.ミルの名前を見つけてしまうのだが、社員ミルにとっては残念なことに(?)、実際には1773年のノースの規制法あたりから、政府の監督は、徐々に強化の一途をたどっていく。会社の権力の乱用を押さえようとする政府と、あくまでも利益を守り抜こうとする株主・社員の綱引きが、実に19世紀初めに東インド会社が貿易の独占を禁じられるまで続くのである。

モームの短編にも出てくるが、植民地というのは、本国で行く当てを失ったイギリス貴族を没落から救う職を用意してくれる場所だった。だからもしあなたがイギリスの貧乏貴族の三、四男で、なんとか起死回生を願うなら、東インド会社に就職することは、願ってもないチャンスを手に入れたことになる。

とくに初期の頃は社員が職務のほかに、自分で商売をすることも認められており(一種の内職ということだ)、これは格好の賄賂の手段ともなった。社員の多くは会社の特権を利用して蓄財し、帰国後には土地を買い、会社の役員からさらに国会議員になる者も多くいたようだ。

だが、こうした不正・蓄財が政府の介入の口実になるのは、いずこの歴史も同じである。上にも書いた「ノースの規制法」は、東インド会社に対しては規制を意図したものだったが、インド行政に対しては、総督職を設け、インド人を排除してイギリスが全面的に掌握することになったのである。総督といっても、東インド会社が独占権を持っていた1833年までは、建前上、東インド会社の社員である。だが実際には政府主導の下で行われた。この総督の俸給は、もちろん東インド会社が払うのである。こうやって総督が任命され、商務と公務は分化され、一方で腐敗した行政の浄化が試みられた。この「腐敗した行政の浄化」というのは、歴代総督の重要な課題であったらしく、『総督列伝』のなかでも何度も見かける。ということは、やはりなかなかうまくいかなかったのだろう。

事実、インド成金は羨望の的だったが、インドで十年以上勤務し、なおかつ「成金」として帰国することは容易なことではなかったらしい。同書によると、一七〇〇年から七五年に採用された社員六四五人のうち、五七%にあたる三六八人がインドで死亡している。「帰国途上での死亡者、精神錯乱者などをいれると損耗率はもっと高くなるだろう」と恐ろしいことがサラリと書いてあって、モームの短編を改めて思い出すのである。だからもしあなたが東インド会社就職を希望するのなら、なによりも体を鍛え、高温多湿のインドに耐えうるような体力と、異文化・異民族に混ざって生活する精神力を培っておくことが必要だろう。

だが、いくら体力・精神力ともにインド生活に耐えうる状態にあったとしても、初期の東インド会社では、採用・不採用は理事の推薦によって決まっていたらしい。コネがものを言う時代である。だが、これまた歴史のならいで、その採用権は理事の「役得」となり、公然と売買されるようになっていく。やがて会社の業務が多様化・複雑化するにつれて、社員を養成する機関が求められるようになった。予備校の出現である。

当時はその要請に応える大学がなかったために、東インド会社は、自前の社員養成大学を、一八〇二年にまずカルカッタに設立した。これはイギリスから送られてきた研修生を三年間教育する機関だったのだが、これはやがて語学学校に格下げされ、理事会が学生を推薦し、直接監督できるよう、イギリス本国に大学を設立することになる。一八〇六年に「東インド大学」が設立されてからは、東インド会社に就職するためには、この大学に入学しなければならないことになったのである。

学生は理事の推薦を受けた者しか入学できなかった。そのため縁故関係が幅をきかし、二代、三代に渡ってインドに勤務するインド関係者が約半分を占めた。それ以外は貴族・地主(の二、三男)が約四分の一、聖職者が十分の一、といった具合である。大学の授業料は、年間100ポンド、1850年代の普通の男子の年収が60ポンド以下だった時代のことである。いまの日本に換算すると、年間1000万円くらいだろうか。要は私学の医学部クラスと考えたらいいかもしれない。一方、教授の年俸は500ポンド、相当な高給である。いま5000万ほどの年俸を得ておられる大学教授は日本でどのくらいいらっしゃるのだろう。あの『人口論』を表したマルサスもこの「イースト・インディア・カレッジ」で政治経済学の教鞭を執っている。

ともかく、高い授業料を払って、同じ大学で机を並べて勉強していた者が、卒業後、ごっそりインドに行って、「インド高等文官」になったのである。言ってみればみんなが顔なじみ、毎日が同窓会の世界だ。こうした閉鎖性がやがて問題にならないはずがなく、1853年からは公開試験が導入されるようになる。名門パブリックスクールや、大学の卒業生を対象とした公開試験によって、いっそう優秀な人材を求めたのである。

ところがこの公開試験、支配層から見て思いもかけない結果となった。中流下層階級の子弟が10%強を占めたのである。試験科目は英語や古典、数学、英国史が中心で、一週間にわたる筆記試験は、細かい知識を要求するために、「ガリ勉」が高得点を修めた。その結果、貴族から見れば「泥の中からのはい上がり者」が公開試験に合格するようになったのである。いまのわたしたちから見れば、こうなることは予想に難くない、というべきか、いずこも同じ、というべきか。「学歴社会」というのは、機会均等社会の別名であった、ということを改めて思うのである。あなたがこの時代の貴族の二、三男で、一発逆転をねらいたいが、ガリ勉はいやだ……と思っていたとするならば、もはやあなたにチャンスはない。コネがものを言う時代は遠く過ぎ去ってしまった。

さて、イギリスの方はこの公開試験に合格するための予備校までできて、受験戦争はいっそうの加熱を見せるようになる。やがてインドの統治は東インド会社からイギリス政府に正式に移行してしまうのだが、この公開試験は、インドがイギリスから独立するまで続くことになる。インドにおける民族運動のたかまりとイギリスのインド統治の紆余曲折を受け、このインド高等文官公開試験もさまざまな変化の波にさらされることになるのだが、この話はこのくらいにしておこう。

鶏頭




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