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鶏的思考的日常 ver.23〜行く春や 鶏啼き忘れ 目に涙 編〜



2008-06-12:レメディオス・バロを見たときの話

レメディオス・バロといえばピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』の口絵の「大地のマントを織りつむぐ」で知った画家である。

この絵はピンチョンのストーリーとも密接に関連していたので、何度も何度も口絵に戻って絵を眺めた。だいたい絵のなかに物語を描いていくタイプの画家は、見ているとうるさくなってくるので苦手なのだが、理知的で抑制されたバロの筆致はやかましさとは無縁で、暗い夜にたなびく霧を描いていく筆遣いを追っていると時間を忘れた。

ところが図書館で探しても画集などなく、ずっとバロの作品といえば、これひとつしか知らなかった。それから何年もたってから、ひょんなところで「フリーダ・カーロとその時代」という展覧会のなかでバロもいくつか展示されている、という話を聞いて、あわてて見に行った。

点数の多いフリーダ・カーロはゆっくり見ていたら疲れきってしまいそうだったのでさっさと飛ばして、行ったり来たりしながらあるだけの絵を見た。

スペインに生まれ、フランスで過ごし、のちにメキシコに亡命した、という経歴は、どう考えても太陽がついてまわりそうだったが、バロの絵には太陽はどこにもないのだった。光があっても、それは北欧かどこかの、霧を通して薄日を見るような。乳白色の、独特な不透明感を持つ色と、ほとんど質感を感じさせない細い細い線を描いていく筆さばきと、理屈と幻想があやういバランスを取っているさまざまなものたち。どれもそっくりの神経過敏な手をもつ登場人物。

ちょうどフリーダ・カーロの絵に出てくる登場人物が、男も女も何をしていてもフリーダ・カーロの自画像であるように、この極端に繊細で、神経過敏で、ほとんど体温も体重も感じさせない女性はバロ自身なのだろうか、と思ったのだった。

会場の順路でいくと、最後にあたるところに、カティ・オルナという写真家の展示があった。人形や石段を撮ったいかにもシュルレアリスムらしい作品に混じって、第二次大戦中メキシコに亡命したシュルレアリストたちのポートレイトが展示してあった。そのなかにバロの写真があった。

向こうむきに腰かけたバロが、絵筆と絵の具のチューブを持ったまま、こちらを振り向いている(だが視線はカメラよりだいぶ高い、遠くの方を見ている)。そのバロは、モノクロ写真ではあってもおそらく金髪で、色が白く、大きな目をしていて、自分の作品に出てくる女性にある部分は似ていた。だが、絵の登場人物がどれもきゃしゃで繊細で、お伽噺の登場人物の雰囲気をかもしだしているのに、現実のバロは力強く意志的で、腰のあたりもがっしりとしているのだった。

考えてみればその通りなのである。あれだけ細かい筆遣いをするためには、どう考えてもかなりな握力が必要だし、一枚の絵を描いている期間、その力を維持し続けなければならないのだ。肩から二の腕にかけての力強さは、まさしく画家のそれなのだった。

だが、バロの絵の特徴ともいえるような神経過敏な手は、やはり本人のものだった。絵に描かれているのよりずっと手首は太くて、そこから細いけれど強靱で長い指へと続いている。そこにあるのは、絵とそっくりな手だった。

やはりあれは一種の自画像なのだろうか。自分のことをそこまで華奢にイメージしていたのだろうか。こんなに強い人が、風が吹けば折れそうな女性として自分をとらえていたのだろうか。

そのギャップを思うと、不意にバロという人をひどく身近に感じられるような気がして、わたしはすっかり楽しくなってしまったのだった。

鶏頭




2008-06-11:暗闇の光

小さい頃、映画といえば父に連れて行ってもらうか、母に連れて行ってもらうかだった。わたしが小さい頃は、弟が赤ん坊だったりして、なかなか一家揃って映画に行くということにならなかったのかもしれない。ともかく、母と行くときはディズニー映画ばかりで、父と行って見たのは「ベン・ハー」とか「クレオパトラ」とか、名作のリバイバル上映が多かった。要は父は自分が見たい映画を観ていた、ということである。

だが、わたしは映画には父と行く方が圧倒的に好きだった。母という人は、いまだにそうなのだが、あらかじめ決められた時間から逆算して、自分の出発時間を割り出したり、準備の段取りをつけていくということができないのである(本人にいくら指摘しても絶対にそのことを認めないから、その癖は決して改まらない)。

公式の行事のときでさえそうなのだから、まして映画など、開演時間という発想すらない。どうするかというと、適当なところで入り、そこから最後まで見て、また最初に戻り、自分が入ったところまで見て、そこで映画館を出るというすさまじい見方をさせられるのである。わたしはもう物心ついたくらいから、これがいやでいやで、自分が大人になったら決してこんな見方はしないぞ、といつも思ったものだった。大人になるだいぶ前からひとりで映画を見に行くようになったわたしは、未だに開演時間には自分でもいやになるくらい神経質である。

初めて見たのが何の映画だったかは覚えてはいないのだが、これはおそらく最初期の記憶だろう。クッションの貼ってある重い扉を開けたら、いきなり大きなスクリーンいっぱいに、鮮やかな色で目を奪われた。妙な帽子をかぶった外国人の男と、傘を持ちドレスを着たこれまた外国人の女が、地面に置かれた絵にぴょんと飛び乗った、と思うと、そこにはアニメーションのピンクのウサギやイエロー・オーカーのバンビが出てくる。いま思えば「メアリー・ポピンズ」にちがいないのだが、この絵に飛び込むという場面にいきなり度肝を抜かれたわたしは、「メアリー・ポピンズ」というと、ずっと、絵に飛び込む映画として記憶していたのだった。「101匹わんちゃん」は、さらわれた99匹の子犬の行方を捜す犬たちが、遠吠えで情報を伝え合う。暗い空を背景に、沈んだ色調で、犬の遠吠えが遠くこだましていくシーンから見始めたために、「101匹わんちゃん」は何とも暗い、もの悲しい映画として、わたしの頭には刻まれているのだった。

父親と行くと、そういうのとは全然ちがう。ちゃんと明るいうちに場内に入って、うまく坐らないと自分の体がVの字になってしまうような椅子に気をつけながら腰をおろし(記憶のなかの自分の足は、膝で降り曲がっておらず、レースの三つ折りソックスとバックルのついた黒い靴が座席の先でぶらぶらしている)、館内に流れる音楽にうっとりと耳を傾ける。やがて場内が暗くなって、コマーシャルをいくつか見たあとに、予告編があって、それから本編が始まるのだ。字幕だったはずなのに、字幕が読めなくて困った記憶もない。字幕そのものを読まずに、画面だけ見ていたのだろうか。それでもクレオパトラが自殺するときにコブラのかごにつっこむのを選んだことを覚えているのは、のちにどこかで見たからなのだろうか。

幼稚園には年に一度ほど、映画鑑賞会があったような気がする。だがそこではいったい何を見たのかまったく記憶にない。イエズス様のスライドや、シュバイツァーのスライドを見たことは覚えているのに、暗幕を張ったおゆうぎ室に集まって床に腰を下ろして、スクリーンを見上げたそこにいったい何が映っていたのか、その記憶はないのである。

小学校に入ると、毎年ではなかったが、何度か学校から映画館に出向いていった。一年のときに見たアニメーションは、最初が退屈で眠ってしまい、結局筋がわからず、学校に帰って感想文を書かされたときはたいそう困ったものだった。

高学年になって、なぜか学校からトリュフォーの「野生の少年」を見に行ったこともある。もちろん大人になるまで、監督も、映画のタイトルさえも知らなかったのだが、思い返すたびに、何となくもったいぶった、高級そうな語り口に、あれは芸術映画だったにちがいない、という気がした。やがて何かの拍子にそれがトリュフォーの作品だとわかって、いったいなぜそんな映画に連れて行ったのだろうと、あらためていぶかしく思ったものだ。

猫に小判、ブタに真珠、馬の耳に念仏、小学生にトリュフォー、小学生たちは明るい日差しの中を、よくわからなかったねー、もっと言葉がしゃべれるようになるかと思ったのにねー、などと口々に言いながら、みんなでぞろぞろと学校まで歩いて帰ったのだ。いったいどういう映画だったのだろう、と首をひねりながら、このまま教室に戻る代わりに、どこかあんな木のいっぱいあるところに遊びに行けるのならいいのに、と思いながら。

スクリーンの中の緑は、これまでみたどんな緑より美しく、日本でうっそうとした森というのは暗いものだが、フランスはあんなに美しいのだろうかと思ったものだ。あのときスクリーンで見た緑だけは、いまだに網膜の奥に残っているような気さえする。

鶏頭




2008-06-10:不思議な幼児、幼児の不思議

先日、おもしろい話を聞いた。
知り合いが妊娠したのだが、最初にそのことに気がついたのは当人ではなく、そこの家の二歳になる子だったという。
「ママのお腹のなかに赤ちゃんがいるよ〜」というのでびっくりして、あわてて調べたところその通りだったのだそうだ。やがてそのお腹のなかの「赤ちゃん」に、家族でニックネームをつけて毎日話しかけていたらしい。

ところが結局その「赤ちゃん」は育たなくて、三ヶ月になる前に流産してしまった。お母さんの方は、その子に何と話そうか胸を痛めたところ、その子が母親のお腹をなでながら言ったのだそうだ。
「××ちゃんいなくなっちゃったねー。でも、大丈夫。ママのお腹のなかにはあと30人ぐらい××ちゃんがいるから」。
それを聞いたその人は、ぎょっとして、恐ろしくすらなったという。

そういう出来事がめずらしいことなのか、ときどきあることかは知らないけれど、そういうこともあるかもしれない、という気はする。

双子の子供がいる知り合いもいるのだが、いまはもうすっかり大きくなったその子たちが小学生だったころ、そこの家に行くたびに驚いたものだった。学校から帰ったふたりが
「ママ、今日ね、学校でね、こういうことがあったんだよ」
と声をそろえてしゃべるのである。あらかじめ練習したわけでもあるまいに、完全なユニゾンで、よく似たふたりの声がまるで斉唱のようにひとつに重なって、べらべらと話していくのである。

親の方はいつものことで、不思議にも思っていないようだったが、ひどくびっくりしたわたしが、なんでそんな話し方ができるの? と聞いたら、ふたりは同時に、まるで鏡が間にはさまっているように顔を見合わせて、さあ? と首をかしげると、お互いの顔を見て笑い合うのだった。

その子たちは片方が病気で学校を休んだようなときでも、「あ、○○がもうじき帰ってくる」とわかるらしかった。親の方は、まだ帰ってくる時間じゃないよ、と言ったところに、学級閉鎖になった、ともうひとりが帰って来たようなこともあったことを聞いた。
「双子っておもしろいよ」と彼女たちの母親はよく教えてくれた。けれども、その子たちの「不思議」も、大きくなるにつれてなくなっていったそうだ。

ふだんあまり気がつかないけれど、わたしたちは言葉にはうまくのらないさまざまな感覚を持っている。だが、その「感じ」は、言葉にはつなぎとめられないために、他人とも共有しにくいし、自分の内でもなかなかつなぎとめておけるものではない。不意に現れては消える、また呼びだそうとしてもむずかしいようなあやふやな「感じ」である。そういう感覚に意識を向けなければ、感じていることすら気がつかないかもしれない。とくに仕事などで忙しかったりすると、そんなものを感じている暇も余裕もないのかもしれない。

だが、まだ言葉そのものを十分に使いこなせない子供たちのなかでは、「言葉」と同じくらいその感覚は重きを置かれているのではないか。非言語的な豊かさのなかに、まだ子供たちはいる、と言ってもいいかもしれない。

お腹のなかにいたときの記憶のある子もいる。
「お母さんのお腹のなかで、くらいど〜、て言うてた」
と言っているのを聞いたこともあるし、お風呂に入っているときに、ひょいと
「まえ○○ちゃん(※自分のこと)が入ってたおふろは暗かったよね〜」
と言った子の話を聞いたこともある。どうしたはずみかで、その頃の記憶がひょいと戻ってくるらしい。

児童文学の作家高楼方子(たかどのほうこ)は、二歳になったばかりの頃にドブに落ちた経験をこのように語っている。

 ははあ、落ちたのだな、と思ったすぐあとに頭をよぎったのは、あ、死ぬのだな、でもこれでいいのだ、という思いだった。もともと私は、こことそっくりの所にいたのだもの、あの明るい所に私がいたのは間違いで、本当はこういう所にいるはずなのだ、だからこれでいいのだ、と思ったのだ。そして、ところで、「こういう所」とは、はていったいどこだったろう……と懸命に考えているその途中に、ぱっと光が差して私は救出され、謎は、宙ぶらりんのまま、いつまでも心にのこったのだ。

「こういう所」とは、おなかの中にいた時のことに違いない、とずいぶんあとになって気づいた。二年前くらいのことなら、誰しもが、つい最近のこととして記憶している、ということは、二歳の人間が、二年前のことをからだのどこかに記憶していたとしても、それほど意外なことではないのではないか。

 死ぬのだな、と思いながら、かすかな恐怖さえ感じなかったのも、もといた所に戻れるという安心感があったせいだと思う。もしかするとこれは、さまざまな事態で命を落とさざるを得ない、小さな子どもたちへの自然の配慮なのかもしれない。幼ければ幼いほど、胎児時代の記憶は近く、その分だけ、死に至る独りぼっちの暗闇も、恐怖から遠い、安らかな場所になりかわり、子どもを包むのではないだろうか。

(高楼方子『記憶の小瓶』クレヨンハウス)

自分が生まれてきたところと、死んでいくところを一緒と言ってよいのかどうか、わたしにはなんとも言えないし、まして子供がそのことを「知って」いるとはわたしにはよくわからない。「もといた所に戻れるという安心感」というのは、二歳の子どもがそう考えた、というより、その「感じ」を、のちの「私」が何とか言葉にあてはめようとした、やはり一種の創作であるように思うのだ。それでも、「本当はこういう所にいるはずなのだ」と二歳の子供が思ったのは、自分のかすかに残る記憶に照らし合わせてみても、納得できるような気がする。

「お腹のなかにはあと30人ぐらい」の30人が、わたしたちが考える30人と同じかどうかわからない。わかるのは、ただこの子が「何か」を感じて、その「何か」はわたしたちには感じ取れないということだけだ。

言葉の世界の新参者である子供は、同時に言葉の世界で生きる大人になったわたしたちにはもはやうかがい知ることのできない世界を覚えている存在でもある。わたしたちはもはや「言葉」という眼鏡をかけてしか世界を見ることはできなくなっているが、その眼鏡のせいで見えなくなっているものはきっとたくさんあるのだろう。

わたしは小さい頃から机の下に入り込んで、本を読むのが好きだった。そんな暗いところで本を読んでいると目が悪くなる、と何度言われても、小さい薄暗い空間に体を丸めて入り込んでいると落ち着くのだった。その「落ち着く」という感じこそ、わたしの身体が覚えている胎児のときの記憶だったにちがいない。

鶏頭




2008-06-09:汚いはきれい、きれいは汚い

先日、こんなニュースを見た。

英消費者雑誌がロンドン市内の一般的なオフィスにあるコンピューターのキーボードとトイレの便座、トイレのドアの取っ手についての調査を専門家に依頼したところ、驚くような結果が明らかになった。

 調査を行った微生物学者は、対象となった33枚のキーボードのうち4つは健康被害を及ぼす可能性があり、その中の1つはふき掃除した便座の5倍不潔なレベルのバクテリアが確認されたとして、オフィスからの撤去を推奨した。

 同調査を依頼した「Which? Computing」誌のサラ・キドナー編集長は、「ほとんどの人たちは自分のパソコンに付いた汚れについてさほど気にしていないが、もし掃除していないとすれば、ランチをトイレで食べているのと同じようなものだ」とコメントした。

一応わたしはウェットティッシュや綿棒を使ってキーボードは掃除をしていますが……。

このニュースを見て改めて思うのは、わたしたちの「きれいか、汚いか」の判断は、バクテリアの量に基づいてなされるのではない、ということである。たとえこのニュースを見たとしても、自分の使っているパソコンのキーボードと、公衆トイレのドアのどちらが「汚いか」というわたしたちの意識は、おそらくきっと変わらないはずだ。

たまに図書館の本は読みたくないという人がいる。「誰がさわったかわからないのに、気持ち悪くない?」と、実際にそう聞かれたこともある。
電車のつり革はさわらない、という人の話は、もっと頻繁に聞く。お金をさわったら手を洗う、というのは、少しちがう性格の話のような気もするが。

ともかく、そういう人の話を聞くたびに、自分の手をそこまできれいだと確信できる根拠はいったいどこにあるのだろう、とちょっと不思議になってしまう。

トイレに行くと、ときどき扉が閉まったばかりの個室の中から、カラカラカラカラとものすごい量のトイレットペーパーを巻き取る音がする。おそらくそれは便座を拭くためだ。できるだけ便座から距離を取るために、紙を分厚く重ねてそこを拭く。けれど、家ではそういうことはしないだろう。家の便座は「汚くない」から。

ジョーゼフ・ヘラーに『キャッチ=22』という戦争小説がある。この小説では主人公のヨッサリアンが戦闘機に乗っているときに爆撃を受ける。同乗していた砲手の少年であるスノードンはひどいケガをする。「スノードンの体は床まで切り裂かれてずぶ濡れの山となっており、あとからあとから血が流れていた」。剥きだしになった内臓の山を目の当たりにして、ヨッサリアンは考える。

彼の内臓のメッセージを読みとるのはたやすいことだった。人間は物質だ――それがスノードンの秘密だった。窓から放り出してみろ、人間は落ちる。火をつけてみろ、人間は焼ける。土に埋めてみろ、人間は腐る――他のあらゆる台所屑と同じように。精神が消えてなくなってしまえば、人間は台所屑だ。

(ジョーゼフ・ヘラー『キャッチ=22』飛田茂雄訳 ハヤカワ文庫)

たとえば人の戻したものを始末した経験がある人なら、だれもが、自分の胃袋のなかにも同じものが入っているのか、と、何とも言えない気分になったことがあるはずだ。
トイレに行く。排泄する。たったいままで、「それ」は自分の体内にあったものだ。
そう、「人間は台所屑」でできているのだ。

たとえ自分のものでも排泄物は汚いし、吐瀉物は汚い、と思う。そればかりか床に落ちた髪の毛や、爪切りから落ちた爪のかけらさえ、見つければ即座にゴミ箱に捨てる。まして人のものになればなおさらだ。

それは、わたしたちの意識が、そういうものを「汚い」として、「見えないもの」に押し込めようとしているからではないのか。わたしたちの「体」を意識させるものを忘れるために。

手を洗う。体を洗う。髪を洗う。また手を洗う。さらに洗う。何度も洗う。
そうやって、自分の身体から「汚いもの」をどんどん排除していき、自分から遠くに押しやっていく。あたかもそうすれば純粋で清潔な「精神」もしくは「心」だけでいられるかというように。
けれど、「それ」は変わらずそこにある。だってわたしたちの体は「台所屑」でできているのだから。

パソコンのキーボードについたバクテリアはどこから来たのか。風で飛んできたわけではないだろう。
手を何度も洗って「汚いもの」をどこまで排除したとしても、電車の手すりや公衆トイレのドアノブにどれほど手を触れないように気をつけたとしても、「汚いもの」はかならず回帰してくる。思いもかけない場所に。だって、わたしたちの体が「それ」を生み出しているのだから。

「汚いもの」はわたしたちなのだ。「台所屑」はわたしたちなのだ。集塵庫にうずたかく積まれているものも、実は、わたしたちなのだ。

鶏頭




2008-06-06:赤い実を食べた

このところすっかり日も長くなった。ついこのあいだまで、帰る時間というと、日が陰りかけていたのに、今日、自転車で走る帰り道には、まだ明るい日が差していた。

住宅街の細い通りに入っていくと、向こうで中年とおぼしき女性が立ち止まって、何かをしきりに口に運んでいる。最近では食べながら歩いている人を見るのもめずらしくはなくなったが、その人は髪をゆるくうしろで束ね、きちんとお化粧もし、タートルのサマーセーターにスラックス、ブランドもののバッグという大変身なりのいい人で、しかも立ち止まっている。だからこちらも、何を食べているのだろう、と、それでもあまり失礼にならないように、ちらちらと見てしまったのである。すれ違い際に確認したところ、その人が食べているのは、植え込みに繁った木イチゴらしかった。赤い実がたくさんついていて、その人は、少なくともわたしがその小道に入る前から横を通りすぎるまで、実をちぎっては口に入れ、またちぎっては口に入れしていたのである。

そこの家の人は、よく庭の手入れをしていて、わたしもいちど剪定した月桂樹の枝をもらったことがある。料理に使うんだったらあげる、と手渡されたおおぶりの枝を持って帰って、しばらくは木のにおいを楽しんだのだが、虫がぞろぞろと這いだしてきたので、葉っぱだけ取って乾かし、枝のほうは捨ててしまった。そのとき以来、顔を合わせれば挨拶を交わしている。

ともかくその家の人ではないのだ。確かに熟れた木イチゴがたくさん実ったままになっていれば、五個や十個、食べたところでどうということもないのかもしれないが、外見と年齢から似つかわしくないその人の行動に、少し驚いてしまったのだった。

昔の子供向けの本か何かで、近所の柿の木に登って、柿を取って逃げた、というような場面を読んだことがあるような気がするのだが、そういう経験がある人というのは、いったい何歳ぐらいまでなのだろう。柿の木自体、なかなか見かけないのだが、秋にもなれば、電車の窓からオレンジ色の実をたわわに実らせている柿の木を目にすることもある。取る人もいないのだろう、いつまでもいつまでも実っている。昔、甘いものが不足していた頃にはさぞかし貴重だったであろう柿の実も、いまではわざわざ取る人もいないのかもしれない。

木から果物をもいで食べたり、畑でなったトマトやスイカを、そのままそこで食べたという経験が、わたしにはない。まだ日が昇って間もない時間に朝露をふんで畑に入っていき、色づいたトマトをもいで、そのままかぶりつく、というのは、ずいぶん気持ちが良さそうだが、わたしにはまったくそんな経験がないのだ。だいたい畑のなかに入った経験自体が、学校の菜園とか農業試験場の見学とかに限られているのだから。近所に猫の額ほどの畑があって、そこに生えているトウモロコシの丈が伸びたり、トマトやキュウリが日に日に色づいていくのを見たりするのはそれだけで楽しいものだったが、その畑も数年前に建て売り住宅になってしまった。

畑のかわりにはならないが、わたしはベランダでブルーベリーとラズベリーを育てている。ゆくゆくはジャムを作るほど収穫することをもくろんでいるのだが、いまのところ、ラズベリーはせいぜい十五個か二十個ぐらい、ブルーベリーは五十個ぐらいも取れるだろうか。ところが二週間から一ヶ月ほどかけてそのくらいの収穫ということは、一日に一個か二個なのである。そろそろかな、と思っていると、ヒヨドリやムクドリに食われてしまっている。ただ、そんなときでも、その場でもいで口に入れる、ということはどうしてもできない。つい、水道の水で洗って、冷蔵庫で冷やして……ということをやってしまうのだ。

今日見た女性は、立ち止まって、ハンドバッグを肘にかけたまま、片手で枝を押さえて、反対の手で、無心に取っては口に入れていた。確かにそんなことがしたくなるほど、はっとするほどあざやかな木イチゴの赤だったのだ。小さな赤い粒が固まった実が、夕方の日を受けてきらきらと光っていた。

鶏頭




2008-06-04:『アンネの日記』とベルリンの壁

『アンネの日記』を図書館で借りて読んだのは、小学校二年のときだった。たちまち夢中になったが、その頃のわたしが心を引かれたのは、「隠れ家」とか、日記に名前をつけて呼びかけるとか、そんなところだったように思う。机の下にもぐって、そこを秘密の隠れ家に見立て、ナチスにつかまらなかった「もうひとつのアンネ・フランクのストーリー」を頭の中で繰りかえし考えていたような記憶がある。

学校では週に一時間だったか二時間だったかフランス語の授業があって、その時間は黒い服とベールに身を包んだ外国人のシスターが授業をしてくれた。一年で教わったフランス人のシスターが背が低く、顔も手も何もかもが丸かったのに対し、二年になって教わったドイツ人のシスターは、背も高く、高い鼻は鷲鼻で、顔も体もごつごつと骨張った人だった。フランス人のシスターがほとんど日本語が話せなかったのに対し、この人は日本語が大変上手で、授業の合間にさまざまな話を教えてくれた。

その人が子供のときに、東ベルリンから弟と伯父さんと一緒にトラックの荷台に隠れてベルリンの壁を越えたという話を聞いたのは、そのときのことだ。一緒にベルリンの壁や東ベルリンの街並みを写した白黒の粒子の粗い写真を授見せてもらった。その先生にもらった絵はがきを、わたしはいまでも持っているのだが、このログを書こうと思って調べてみたら、第二次大戦中に爆撃されて、すっかり様相を改めてしまう前のツヴィンガー宮殿(※参考wikipedia「ドレスデン」)を描いたものだった。なぜドレスデンの絵はがきだったのか、いったいいつごろのものだったのか、いまとなっては何もわからない。四隅はすっかり丸くなり、色も変色してしまっているが、塔の先端が切り裂いているほんの少し緑の混じった空の色は、不思議なほど wikipedia の写真と同じだ。

それにしてもその人は当時いったい何歳ぐらいだったのだろう。八歳のわたしにはそういう想像は及びもつかず、聞いてみたこともなかったので、亡命がいったい何年頃の出来事なのかわからない。荷台に隠れたことや、亡命に失敗したら殺される危険さえあったと聞いて、おそらくわたしはアンネと重ね合わせ、ほとんど同一の話として聞いていたのだろう。記憶にあるのはそれぐらいで、どうしてその人と弟だけだったのか、ほかの家族はどうしたのか、西ベルリンに亡命したあとどう生活していったのか、そのことと修道院に入ったことがどう関係があったのか、そういうことに関しては、話を聞いたのか、聞いていないのかすら記憶にない。

あるときそのシスターが、いつものようにドイツの話をしてくれたあと、ドイツのことで聞きたいことがあれば、なんでも聞くように言ったのだった。だから授業が終わってすぐに教室の前に歩いていき、わたしは一番知りたかったことを聞いたのである。

「ヒトラーは、東ドイツにいたんですか、それとも西ドイツですか」

ベルリンの壁が戦後にできたことも、ドイツが東と西に分断された国であることさえも、当時のわたしはよくわかっていなかったのだ。おそらくアンネの時代から「東ドイツ」という国と「西ドイツ」という国があったぐらいに思っていたのだろう。

それを聞いたシスターは、渋面を作って「ヒトラー」という言葉を発音した。ひどい人間である、という意思表示だったのだろう。そうして、しかめっつらのまま「ヒトラーは東にもいました、西にもいました」と教えてくれたのだった。わたしが覚えているのはそこまでで、ほかにいったい何を聞いたのか、まるで記憶にない。

だが、そのときの自分の質問の愚かさと、シスターのしかめっつらと、わたしの眼をじっと見た鉄縁の奥の灰色の眼は、それからあとも何度も思い出した。いまでも緑色の黒板を背に、わたしの方へ身をかがめたシスターの大きなロザリオがぶらぶら揺れていたのが目に浮かんでくる。

わたしは自分がひどいことを聞いてしまったと、いつぐらいから思うようになったのだろう。

シスターはどんな気持ちでわたしの質問を聞いたのだろう。
日本人の子供であるわたしがそんな質問をしたことを、シスターは何と思ったのだろう。悪いことを聞いてしまったと、何ともいえない恥ずかしさと胸の痛みを思い返すたびに味わったのだった。

 ドイツ人であることは、いまだに愉快なことではない。どころなく、まだ治療法の確立していない遺伝病にかかっているような気がする。ときおり、ニューヨークの威勢のいいタクシー運転手に「お客さん、お国は?」などと訊かれると、つい冷たいぶっきらぼうな口調で「どうして」といってしまうことがある。まるで自分の国籍を明かすことは反逆行為だとでもいうような、あるいはそれがわたしに不利な材料として使われるかもしれないとでもいうような気がするのだ。歴史とは意地悪な仕置き人だ。暗闇に身を潜め、こっそりと忍びより、いきなり鞭をふるう。歴史は人びとにつきまとい、目に見えない傷跡を残してゆく。… ナチの戦犯がつかまる。強制収容所で命を落とした勇敢なユダヤ人女性の感動的な手記が見つかる。乗馬ズボンに身を固めた卑劣な男たちが子どもを家畜運搬車に追いたてている写真が発表される……そんなとき、わたしは自分が告発されているような思いになる。そしてドイツを憎む。

(ザビーネ・ライヒェル『目に見えない傷跡 ―お父さん、戦争のとき何をしたの?』
亀井よし子訳 晶文社)

この本が出版されたのは1989年、筆者は1946年生まれの女性である。彼女は1975年、ドイツを捨てアメリカに移住する。移住したところから、逆にいやおうなく「祖国ドイツ」と向き合わざるを得なくなった。そうして中年期を迎え、人生がただ自分が苦闘するだけのものではなくなった年代、つぎの世代への責任ということが意識されるようになった年代に入って、あらためてこの問題と向き合う。

 ナチ以前も、最中も、以降も、父は何よりもみずからの本性に従って行動した。彼があの時代に生まれたのは運命だ。それだけで父もまた犯罪人だったと決めつけることはできない。父があの戦争で何をしたのか、しなかったのか、わたしがそれを正確に知ることはけっしてないだろう。だから、わたしにとって父が責任ある行動をとったか否かを判断できる分野はひとつしかない。それは、父があの貴重な体験をかけがえのない教訓としてわが子に伝えることができたかどうかという点だ。父は、たとえばあのユダヤ人大虐殺のようないまわしいできごとを二度と起こしてはならないというメッセージを、わたしたちに伝えることができたのだろうか。わたしたち子どもの世代にはそうしたできごとが二度と起きないように努力する責任があると同時に、父の世代の罪を背負ってゆく義務があるのだということを、父は伝えることができたのだろうか。

ある人がある時代にある国に生まれたのは単なる偶然だ。ナチスが政権を執っていた時代にドイツに生まれたというだけで、その人が犯罪者だと決めつけることはできないのはもちろん、その人が戦争に協力したか、しなかったか、ということさえも、そんなに単純なことではない。その人の道徳的な行為や生き方を裁く資格がある人など、いるはずがない。

だが、偶然だから、免責されるのか。裁く人がいなければ、その人の責任は問われないのか。その国に生まれた「子ども」は、それが偶然でも「父の世代の罪を背負ってゆく義務がある」。

「祖国」というのは、たとえそこに生まれたのが偶然でも、その人について回る。国を離れても、ある日、思いがけないかたちでその「責任」を問われるのである。まったく無自覚に亡命した過去を持つ人に責任をつきつけてしまったわたしは、おそらくその「問い」によって、「責任」の輪の中に足を踏み入れてしまったのだ。覚悟も何もないまま、「こっそりと忍びより、いきなり鞭をふる」ってしまったことの罪が赦されることがあるとしたら、今度は自分自身がその問いを引き受けていくときだけだろう。

 責任は、われわれが自由である、すなわち自己が原因であるとした時にのみ存在します。現実にはそんなことはありえない。私が何らかの意図をもって行動しても、現実にはまるでちがった結果に終わる場合がある。しかし、その時でも、あたかも自分が原因であるかのように考える時に責任が生じるのです。では、どのように責任をとるのか。それは、謝罪や服役、自殺というようなことだけではないと思います。

 ……もう一つの望ましい責任の取り方は、この間の過程を残らず考察することです。いかにしてそうなったのかを、徹底的に検証し認識すること。それは自己弁護とは別のものです。

(柄谷行人『倫理21』平凡社)
鶏頭




2008-05-24:捜し物はなんですか

電車から降りて、さて改札を出ようというときになって切符が見あたらない、というのは厄介なことだ。何度かそういう経験をして、なるべく入れる場所を決めておくようにしているのだが、ついうっかりそこ以外の場所に入れてしまったらもう大変だ。いくつもあるポケットを順番に探し(そういうときのたびに、自分はなんとポケットのたくさんついている服を着ているのだろうと驚いてしまう)、そこからかばんのポケットや財布のなかを探し、それでも見つからなければ、かばんの中身をいちいち改めなくてはならない。薄っぺらい切符だから、本のあいだにでもはさまってしまうと、見つけるのは一大事なのである。

それでもどうしても見つからない、となると、仕方がない。改札で「すいません、切符を落としてしまったんですが」と駅員さんに頭をさげる。
「どこからですか」
「××からです」
「いくらでした?」
「△△円でした」
「今回は結構ですので、つぎからは気をつけてください」
たいていこういう問答になって、すいませんでした、と頭を下げて、改札を出る。

このときに払うつもりで財布を手に持っているのだが、実際にお金を払ったことはない。自分でもときどき財布をにぎっているのは、単にポーズのような気がしないではないのだが、実際に請求されたら、もしかしたらちょっとムッとしてしまうかもしれない。もちろん悪いのはなくしてしまった自分なのだが。たまに「今回はね、結構です。でもね、つぎからは……」と、文字にするとまったく同じでも、妙にもったいぶった恩着せがましい言い方をする人に運悪く出くわすこともあって、こんなことならいっそ払った方がまし、と思うこともある。

ところが家に帰ると、あれほど探して見つからなかった切符がひょいと見つかるのである。決して意外なところから出てきたりはしない。胸ポケットのポケット側(身ごろではないほう)の裏地にぴったりとはりついていたりして、実際何度か改めた場所だったりするのである。見つからないときは、実際一生懸命探しているのだが、どうしたはずみか死角や盲点に入り込んでしまうのである。死角や盲点というのは、見慣れた場所、普段の場所に生まれるものだ、とあらためて思う一瞬である。まあ考えてみれば、そんなに突飛な場所に入れるはずがないのだから、ありきたりの場所から出てくるのも当たり前のことなのだが。

探しているときというのは、ものは見つからないものだ。なのになんで探していないとき、こんなに簡単に見つかるのだろう。ない、ない、と焦る気持ち、あれがないと大変だ、という動揺。そんなものが死角や盲点を生むのかもしれない、とも思う。そういうときは、いっそ「探しているときは見つからない」と、いったんやめてみるのもいいかもしれない。焦るものでなければ、の話だが。改札を出るときは、説教覚悟で財布を握って、頭を下げよう。

切符以外でわたしがよくあるのが、本のなかに「あれはどこにあったか」と探して、どうしても見つからなかったりする。

以前、赤狩りやハメットの投獄で農場を手放さざるを得なくなったリリアン・ヘルマンが、農場をたたむ直前に、農場に鹿の群れを見つける、という印象的な場面をどこかで読んだように思った。鹿を見つけたハメットが、ヘルマンにそっと教えてくれる。ふたりは鹿を驚かさないように身を隠して、窓からそっと鹿の群れを見つめる、という場面は、一度読んだだけでひどく心に残ったのだった。ところが『未完の女』や『ジュリア』を隅から隅まで探したのだけれど、どうしても見つからない。さらに『メイビー』やフィーブルマンの『リリアン・ヘルマンの思い出』までも探したのだが、やはり見つからなかった。結局、どこかで記憶の捏造してしまったのだろうか、と思っていた(わたしはときどき本の中に勝手に一場面をつけくわえてしまう)。だが、そのときから何年もたって、サイトでヘルマンのことを書こうと思って『眠れない時代』を読み返したとき、確かにその場面があったことを知る。赤狩りをとりあげた『眠れない時代』だけは、そのなかにあるはずがない最初から探してみなかったのである。

逆に、何を調べるわけでもない、でも、何かないかなあと思いながらあてもなくぱらぱらめくっているときというのは、たいてい、ああ、わたしはこれを探していたんだ、というものが見つかるものだ。本のページからその単語だけが浮き上がって見えるように。そういうときは、逆に、言葉がわたしをつかまえたのだ、と思う。

このまえ、啄木について何か書こうと思ったのも(「啄木と言葉のふるさと」)、そんな感じだった。何か書こう、と思って、ばくぜんと本の背表紙を見ているときに、ひょいと『一握の砂』が目に飛び込んできたのだった。

鶏頭




2008-05-22:バンドエイドの箱に入ったサビオ

以前「サビオ持ってない?」と聞かれて、何のことかわからなかったことがある。「サビオ」というのが「バンドエイド」のことだと知って驚いた。のちに、「カットバン」と呼ぶ人がいることも知った。

ものの名前には、「もっともふさわしい呼び名」というものがある。たとえば小銭入れのなかの十円玉を、「貨幣」と呼ぶこともできるし、「硬貨」と呼ぶこともできる。「銅貨」と呼んでも「コイン」と呼んでもいいし、「金属の物体」とも呼べるし、「茶色い円盤」と呼んでも差し支えない。だが、「十円」というのが「真の名称」であるとだれもが感じているにちがいない。

なぜ十円玉の真の名称が「十円」であって、「1965年製造の十円」ではないのか。

子どもの頃、お菓子を買うという行為をするときに、「その飴玉は10円だよ」と駄菓子屋のおばさんから要求されたのは、「10円」なのであって、決して「1965年製造の10円」などではなかったのです。私たちは売買という行為の文脈の中で覚えたこの「10円」という名前を真なる名称である、と感じているのです。
 このように私たちが習得してきた基本的な言葉にはどれも何らかの行為や動作が伴っています。

(青木克仁『認知意味論の哲学』大学教育出版)

それまで知らなかったものに出会う。それが何であるか、わたしたちは行為や動作として理解しながら、同時にそのものの名前を覚えていく。そのときの名前が「真の名称」となっていくのだ。

小さな頃、転んでケガをしたり、指を切ったりしたときに貼ってもらった「行為や動作と結びついた」救急絆創膏は、「バンドエイド」だった。だからわたしにとっては「バンドエイド」が「真の名称」なのだが、「サビオ」と呼ぶ人にとっては、「サビオ」こそが「真の名称」なのだろう。そうしてもはや実際に貼るのがバンドエイドであっても、その人がケガをして貼るのは「サビオ」なのである。

以前にも引用したことのある小田嶋隆のこの文章

貧困とは昼食にボンカレーを食べるような生活のことで、貧乏というのは、ボンカレーをうまいと思ってしまう感覚のことである。ついでに言えば、中流意識とは、ボンカレーを恥じて、ボンカレーゴールドを買おうとする意志のことだ。

(小田嶋隆『我が心はICにあらず』光文社文庫)

これに出てくる「ボンカレー」にしても、「レトルトカレー」でも「ククレカレー」でも一向にかまわないのだが、やはりここでぴったりくる「お湯で温めてご飯にかける「あれ」」の「真の名称」は「ボンカレー」なのだろう。

そういえば以前「モス・バーガーのマックシェイクはおいしい」という不思議な言い方を聞いたこともある。その人にとって、あの「シェイク」は「マックシェイク」が「真の名称」で、たとえモス・バーガー(これはハンバーガーを指すのではなく店の名前)で販売されている「シェイク」であっても「マックシェイク」なのだろう。

さて、これはわたしだけなのかどうなのかよくわからないのだが、わたしはそれまで知らなかった人を「あれは〜さんよ」と誰かに教えてもらったら、そのとき耳で聞いた「〜さん」という呼び名が「真の名称」となってしまう。

たとえばそれが「山田さん」だったら、その人はそれ以降もずっとわたしのなかでは「山田さん」だし、「じゅんちゃん」と聞いたら、ずっと「じゅんちゃん」のままだし、「いもやん」と聞いたら、たとえ「井本さん」という本名を聞いたとしても、「いもやん」なのである。ドリーム・シアターのボーカルは「ラブリエさん」と教えてもらったので、以来ずっと「ジェイムズ・ラブリエ」ではなく「ラブリエさん」だし、一度などはある人を「××のババア」という呼び名で聞いてしまったので、その人を話題にしなければならないときは頭の中に浮かぶ「××のババア」を、いちいち「××さん」と翻訳し直して口にしていたのでえらく疲れてしまった。だが、そのあともやはり、わたしにとってその人は、「××のババア」であり続けたのだった。

とはいえ、こうした呼び名というのは、聞いたのはたった一度きりなのである。「反復する行為や動作として理解しつつ覚えていった名前」ではない。だから、実は、変更しようと思えば、その気にさえなるならば、簡単なのである。実際、「コバヤシさん」と聞いたように思った人が「コバシさん」だった、ということだってあったし、教えてくれた人が、間違えていたこともあった。そういうときは、漢字の読み間違いや英単語の発音のまちがいなど、一度訂正されたらたいていその間違いを繰りかえすことのないように、情報はきちんと更新されていくのだ。

わたしのなかで情報が更新されることはなかった、というのは、おそらくそういう呼び方をしてはいけない、という強い意志が生まれなかったからにちがいない。「××のババア」は、実際「××のババア」と呼ぶにふさわしい、と言ったら言い過ぎかな、少なくともわたしにとっては「××のババア」とでも密かに呼びたくなる人だったのだから。「ラブリエさん」を「ラブリエさん」と呼びつづけているのも、おそらくはそうしたい意志がどこかに働いているにちがいない。

鶏頭




2008-05-20:飲んだり飲まれたり

わたしはたとえライトビールであろうが、カンパリソーダであろうが、アルコール類は一切ダメなので、いわゆる「飲みに行く」ということがまずない。それでも年に一回か二回はお酒の席につきあわなければならなくならないので、そんな折りは楽しそうな人たちが少しうらやましくなる。

飲まないといっても、思想信条から「わたしは飲みません」と口をつけたこともない人とはちがって、わたしの場合は検証の結果、飲まない方がいいという結論に至ったのである。

子供のころからナマコの酢の物とか、カラスミとか、いわゆる「酒のつまみ」と呼ばれるものが好きで、親戚が集まる席では、よく「この子は将来酒飲みになる」と何の根拠もない断言をされていた。酒のつまみが好きだから酒飲みになる、という因果言明には、かなり早い時期から疑問を感じてはいたが、やがて長ずるに「いかにも強そうな顔をしている」(どんな顔だったんだろう)という評価まで加わって、法事などの際に集まった親族に、毎年将来を嘱望(?)されていたのだった。

最初の検証に関しては、法定年齢に満たない時期であったので、詳細はあまりあきらかにしたくないのだが、まあよくある話という気もするので、想像で補って読んでいただきたい。試験前に友だちの家に集まって、みんなで励まし合って勉強合宿をする、と親を騙して集まって……という流れである。

コップに半分ほどビールを飲んで、苦くておいしくないな……と思っていたら、しばらくして急に心臓がばくばく言い始め、脳貧血状態になってぱたんと倒れてしまった。小一時間ほどで大丈夫になったが、それまでずっと横になっていたのである。ところがわたしが起きあがれる状態になったところで、もうひとり、わたしと同じくそのときがビールを飲んだ初めて、という子が、それまでぐいぐい飲んでいたものをすべてぶちまけてしまったのである。人間の胃袋にはこんなにたくさんのものが入っているのか、と驚いた経験でもあった。その家では教科書を開くどころの騒ぎではなかったのは言うまでもない。

二度目の経験もやはり法定年齢に満たなかったのだが、今度は大学に入ったから、そろそろ大丈夫かな、と、あまり根拠もなくそう考えたのである。このときはかなりおそるおそる、それも口当たりの良いカンパリソーダを口に運んだのだが、案の定、飲んで十五分ほど経ったら、やはり脳貧血を起こしてしまった。さすがにあらかじめ心づもりをしていたので、倒れるような事態にはいたらなかったが。

やがておおっぴらに飲める年齢になったが、おそらく脳貧血と法定年齢のあいだに因果関係はなかろうと思うと、三度目を試してみる気にはなれずにいる。脳貧血は起こしたことのある人であればわかると思うのだが、一時的なものとはいえ、かなりそのときは苦しい。だから、きっとアルコールとわたしの親和性は低いのだ、と思うことにしている。

だからわたしは酒の席でもまったく同じ人格のままなのだが(当たり前だ)、そうなるとどうしても、アルコールが入ると人格が変わる人に目が行くようになる。ふだんは寡黙な人が、急に饒舌になったり、ふだんから説教臭い人が、タガがはずれるほどに説教臭くなったり、やたらべたべた触りたがる(というと誤解を招きそうだが、わたしが見たことのあるのはいずれも女性で、腕を組んできたり、肩に頭をもたせかけたり、すりよってきたりする行為をここでは言っている)人もいれば、「ごめん、あのときはあんなことを言ってほんとうに悪かった」と涙ぐむ人もいる。

どちらかといえば、ふだん自制心の強い人の方が、そういうときの落差が大きいような気がするが、「自制心」というのはそもそもそういうものだから、当たり前のことなのかもしれない。別に酒の席で本音が出るとは思わないし、どちらがその人の「ほんとう」かと聞かれれば、やはり日常の自制している姿が「ほんとう」なのだろう(あまり「ほんとう」という規定に意味があるとは思わないが)。へえ、あの人にこんな面があるんだ、と思うにせよ、それをあとで蒸し返して、本人に言うのは反則のような気がする。

ところで、山田風太郎の小説に『エドの舞踏会』という連作短編がある。明治もまだ浅い、鹿鳴館ができて間もない時代、海軍少佐山本権兵衛が、西郷従道(隆盛の弟で、ちなみに兄の方はすでに西南の役で没している)に頼まれて、出席をしぶる大臣の妻たちを、鹿鳴館の舞踏会に勧誘してまわる、というのがおおまかな筋である。

それぞれの章で、井上馨夫妻や伊藤博文夫妻らが取り上げられるのだが、明治政府の要人たちの多くが芸者だった女性を妻にしていた。芸者といっても、江戸の崩壊と武士の没落によって芸者になることを余儀なくされた女たちである。夫が政治の表舞台に出ていくのに合わせて、彼女らもまた、それぞれに世間に立ち向かっていく。

そのなかに、黒田清隆夫妻の章がある。伊藤博文のあとを受けて二代首相となった黒田清隆は、首相となる前は酒を飲むと人格が一変する、というより、ひどい酒乱だった。

維新時の北越戦争、函館戦争の指揮を執り、西南の役には熊本城攻囲の敵を総体客におちいらせた衝背作戦の将となったかがやかしい軍歴を持ち、維新後は、みずから渡米して、ケブロン、クラークなどアメリカでも一流の偉材をひっぱってきて、北海道開拓のいしずえを築くという大功をたて、現存する薩摩人中第一の人物と目されながら、根まわしに巧みで万事ぬけめのない伊藤井上などにまんまと先を越されて、いまのところ中枢から押し出されたかたちなのは、一にも二にも酒のせいだといわれる。

 それは当人も気にしていて、宴会でも徳利の三本目くらいになると、「これから了介十分頂戴いたしたいと存ずるので、みなさん、あとはどうぞお構いなく」など神妙に挨拶するのだが、あっというまに限界を越え、すでに逃げ出して不在の人間を罵倒しはじめ、まだ残っている人間には執拗にからみ、その言辞は痛絶をきわめる。それどころか、十度に一度くらいはピストルをひねくったり、刀を持ち出したりするという。

 しかし。――

 おかしいことをいうようだが、それは清隆のある種の人の好さと弱気のせいではなかろうか、と権兵衛は考えた。

 その豪酒も、小人どもにしてやられて漁夫の利を奪われる彼のかんしゃくの爆発ではあるまいか。彼はどうやら、自分の大ざっぱさと気弱さを自覚して、そのことに大変なコンプレックスを感じていて、それがあの酒狂に変形するのではあるまいか。

(山田風太郎『エドの舞踏会』)

だがこの清隆が、あることをきっかけに酒を飲まなくなった。その顛末がこの章の中心なので、その点は伏せておくが(この本はとてもおもしろいのでぜひお読みください)、酒を飲まなくなって以降の清隆が、「酒が抜けると、彼は清新なアイデアマンたる前半生の特性を失って、空っぽの大入道と化した観があった」となってしまうのである。

維新前後の清隆の活躍と、首相となってからの「デクノボー」ぶりと。実際に山田風太郎の描くように、清隆が酒を止めたことが原因であったかどうかはわからない。とりわけこの章の中心、なんとなくチャタレイ夫人と森番を思わせるふたりの造型は、おそらく純粋なフィクションなのだろう。だが、みずからの影の部分、酒を飲んで表に現れる影の部分をなんとか飼い慣らそうとした結果、日の当たる部分も生彩を欠いてしまった、というのは何となくうなずけるのである(どこかに芥川龍之介の「酒虫」も感じられる)。

酒を飲んで人格が変わるような人は、自分のふだんは意識して抑えつけている部分を解放したりしているのだろう。そう考えると、酒乱はかなわないが、ときに酒を飲んで自分を解放するのは、その人にとってはそうする必要があるということなのだろう。

それを考えると、酒を飲めない自分が、影の部分を解放する喜びを味わえないことが残念にも思えてくるのだが、日頃から立派でもなければ、たいしたことをしているわけでもないわたしは、わざわざそんなことをする必要もないのかもしれない。

鶏頭




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