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鶏的思考的日常 ver.26〜小さい秋 大きい秋とどうちがう 編〜



2008-10-04:禍か福か

事件や事故の報道を見ていると、偶然その電車に乗っていただけの人や、たまたまそこにいあわせただけの人が被害者になるようなケースが少なくない。そんなときいつも、自分が乗っている電車が同じように脱線したり、とんでもない人物が乗っていたりする可能性もまったくないわけではないのだろうなあ、と思う。ちょっとした巡り合わせで分けられてしまう生と死を目の当たりにして、それを分けるものは何なのか、それをどう受け止めるべきなのか、いつも考えるのだが、そこから先には進まない。

「運不運」という言い方がある。わたしの母は何かあると「運がいい」とか「運が悪い」とかと言う人で、小さい頃からうんざりするほどそれを聞かされてきた。だが、どういうわけかわたしは、記憶にあるかぎり、ただの一度もそういう考え方になじめたことがない。

いまなら、そんな考えを持つようになった母の意識の根底に、まだ幼いころ、自分の母親を失った経験があるのだろうと想像することもできる。自分に降りかかってきた不条理を、そういうかたちでしか納得できなかったのだろう、と。だが子供時代のわたしは、「運」などというわけのわからないものに自分の人生が決定されているという考え方が、とにかくがまんならなかった。母が自分の「運の悪さ」をくどくどと愚痴り始めるとイライラしたし、わたしがなにかうまくこなしたあとで、「あんたは運がいいから」と言われると、「わたしが頑張ったからのに」と癪にさわってしょうがなかった。

いや、逆に、母の言葉遣いや話の持っていき方に反発したから、あるいは単に子供らしい反抗心から、「運」なんてものがあるわけがないと思うようになったのかもしれない。何が原因でそう考えるようになったのか、ほんとうのところは定かではないのだが、何にせよ、自分の力でどうしようもないものがあるということを、わたしは認めたくなかったのである。

もし仮にそんなものがあったとしても、誰もがそういう流れに沿って生きるしかないとしたら、そのことを口にしてどうなるというのだ。仮に占いなどで先回りしてそれを知ったとしても、あらかじめ決まっていることなら、知ることに意味はない。そうなることが決まっているのなら、何をしたって仕方がないし、そもそも「良い運」とか「悪い運」などと言っても始まらないではないか。

だが、わたしもさまざまな経験を重ね、「運」そのものに対する考え方が変わってきた。

十代の終わり頃、会社のお金を使いこんだ人の話を聞いた。わたしが知っていたその人は、「近所の高校生のお姉さん」で、小学校に上がったばかりのわたしが、髪を三つ編みにしたお姉さんに、子供用自転車をゆずってもらったのだった。短大を卒業したあとは、パーマをあて、お化粧をして、見違えるような大人になってしまった姿を、ほんの数度見かけただけ、そんなことでもなければ、思い出すこともないような人だった。

わたしは何でその話を知ったのだろう。家へ回覧板を持ってきた隣のおばさんと母が話しているところに行きあわせたのか、それとも母が近所で聞き込んできて、その話をわたしに教えてくれたからだろうか。ともかく、新聞やニュースで報道される事件というのは、ロンドン郊外で起こるマザー・グースに合わせた殺人事件と同じくらい遠い世界の出来事だと思っていたわたしは、「自転車をくれた○○さんとこのお姉さん」が事件を起こしたと聞いて、ひっくり返るほど驚いてしまったのだった。

そもそもの発端というのは、宝くじに当たったからだという。当時のわたしは「そんな大金が当たる人って、ほんとうにいるんだ」と思ったものだが、いまから思えば、おそらくは百万かそこらのものだったのだろう。当たればうれしい額ではあっても、人生を左右するような額ではなかったはずだ。ともかく、その人は宝くじの当選賞金を元手にして親元を離れ、アパートを借りた。そうしてアパートを紹介してくれた不動産屋の人と、つきあうようになったらしい。

ところがその相手がどうもよろしくない、ギャンブルなどに手を出すような人物で、結局お金をずるずると渡すような羽目になった。宝くじの賞金などしれたもの、あっというまに底をつき、結局会社のお金に手を出すようになったとか。

わたしが聞いたのは、一時行方不明になっていたというその人を訪ねて、実家に会社の人が来たりした時期だったのだろう。こまごまとした家が軒を並べている界隈では、何が起こっても、すぐ隣近所の知るところとなる。人のつながりも密だった当時は、あっという間に町内全体に話が広まったにちがいない。

話を聞いて何よりも驚いたのは、それまで横領というのは経理などの専門的な知識を必要とする複雑な犯罪なのだろうとばかり思っていたのだが、自分があずかる通帳から勝手にお金を引き出すだけのような粗雑な犯罪も「横領」であることだった。そんなことをすれば、たちどころにばれてしまうではないか! そんなこともわからないほど追いつめられていたのだろうか。

やがて彼女も見つかり、額もそれほどのものではなかったこともあって、警察沙汰や新聞沙汰にもならなかった。あの人は家に帰ってくるのだろうか、道で会ったら挨拶してもいいんだろうか、などと考えていたら、一家の方がどこかに引っ越してしまった。電気メーターの数字を書き込んだ紙が玄関にはさまった空き家の前を通りながら、もしその人が宝くじに当選しなかったらどうなっただろう、と思ったものだ。当時はよくわからなかったこの事件も、それからずいぶん時が経ってから、別の考え方ができるようになった。

宝くじに当選する、というのは、一般に「幸運」と呼ばれるものだろう。だが、それが引き金となって「不幸」に転落したとしたら、それは果たして「幸運」と呼べるのだろうか。「禍福は糾える縄の如し」ということわざがあるが、ものごとに「禍」と「福」があるわけではない。出来事はただ起こるだけだ。それを「禍」ととらえるのも福ととらえるのも、移り変わる状況のなかにいる「わたし」に過ぎない。

出来事はたえず起こり続け、わたしはそれに巻き込まれ続ける。「努力した」と思ったところで、それは自分に降りかかってきたことを精一杯受けとめただけに過ぎないし、その何かで「努力」していた時期に起こった他の出来事は、出来事とも気づかずに通り過ぎてきたはずだ。その通り過ぎた出来事は、のちにほかのものとわたしが結びつけるようなことがたまたま起こらなかったから、「通り過ぎた」とも意識されぬまま、どこかに流れ去ってしまったのである。

出来事は絶え間なく起こり続け、わたしたちは絶え間なく巻き込まれ続ける。一生懸命取り組んだと思ったとしても、それがどれほど状況を変えているのだろう。これから先、何が起こるかもわからず、自分がやったことがどのような結果になっていくかもわからない。これではまるで川の流れに翻弄される木ぎれのようなものではないか。

だが、わたしたちは橋の上から流れていく木ぎれを眺めているわけではない。もみくちゃにされている木ぎれの位置から世界を眺めている。同時にまた、世界に働きかけ、自分自身が変わっていくことで、周囲を動かしていく存在でもある。世界とわたしの関係は、決して交わることもないまま、単に押し流し、運ばれていく、流れと木ぎれの関係とはちがう。そう考えていくと、この世界はわたしにとって何なのか、いまわたしに対して何が起こっているのかを理解することは、つぎに自分が世界に働きかけていくために、どうしても必要なことなのだ。

何の落ち度もないような人が事故にあったり、殺されてしまったり、理不尽としか思えないようなことが起こったとき、わたしたちは原因をどこかに求める。あんないい人が……、あんなに若いのに……、やりきれない思いを納得させようと、わたしたちは「運」というものを引っ張ってくるのだろう。おそらく、亡くなった人のためにではなく、何が起こるかわからない自分のこれからのために、その「運」という名の物語を必要とするのだ。

決して橋の上に立つことのできないわたしたちは、この世界という「川」が、いったいどこへ行くのかわからない。これから先、どうなっていくのかもわからない。いま起こったことが、いったい何の現れなのかもわからない。それでも、そんなふうに巻き込まれながらも、自分の力が及ぶ範囲がどれほどなのかはわからなくても、せいいっぱい何かをしていくしかない。

そのとき「運が悪かった」という言葉によって、いまの自分が置かれた苦境を受け入れやすくなるのなら、それもいいのかもしれない。「自分は運がいいのだ」という思いこみが、虚空に足を踏み出す勇気を与えてくれるのであれば、それもいいのだろう。

だが、それでもやはりわたしは「運」などというよくわからないものより、わたしを励ましてくれるさまざまな人の言葉や、書かれたもの、そうしてどれだけささやかではあっても、自分がやったことなしたことを自分の支えとしたいのだ。

わたしは「運」などというものがあるとは思わない。それでも、これまでわたしは大勢の人に育てられ、支えられしてきた。いくつかの大きな失敗、ひょっとしたら大変なことになっていたかもしれない失敗も、恥ずべきふるまいも、いろんな人に助けられたから切り抜けてこれたのだ。もしそれが「幸運」ということなのなら、わたしはまちがいなく幸運だったと思う。わたしは運がいい。だからこれ以上、周囲に何を望むことがあろう。

わたしの祖母の短すぎる一生は、不運と言えば、確かに不運なものだったろう。いまならば、結核で死ぬこともなかっただろう。それでも、幼い娘に心を残しながら逝ったとしても、その娘がさらに娘を持ち、孫となる人間が会ったこともないその人のことをどこかで身近に感じている。それはかならずしも不運とばかりはいえないのではないか、と思うのだ。まあその孫がこのていたらくでは、やはり不運だったということになるのかもしれないけれど。

鶏頭




2008-10-03:17歳だった

高校の時、同級生のお兄さんが、突然有名芸能人になった。

中学のときから、妹にあたるその子は、何かあるとお兄さんの話ばかりしていた。別の学校に通うお兄さんの顔を、直接見たことはなかったが、彼女の定期入れのなかにはお兄さんの写真がいつも入っていた。さほど仲が良かったわけでもないわたしが見せてもらったことがあるくらいだから、ほとんどの子は一度や二度、芸能人になるまえの、そこらへんのお兄ちゃんだったころの彼の写真を見たことがあったのではあるまいか。だが、写真というのは知っている人ならいざしらず、知らない人の顔というのは、意外とわかりにくいものなのである。カッコイイでしょう、と言われても、ちっともピンと来なかった。

妹の方は、なかなか体格の良い、というか、ごつい体つきの子だった。バレー部に所属していて、たくましい二の腕から繰り出す破壊力満点のスパイクは、男子ですら受けることができないと評判だった。そんな彼女の横で並んで笑っているお兄さんは、やっぱり彼女によく似ているようで、「カッコイイ」とはなかなか呼びにくいように思えたのだ。

まじめな子で、掃除当番であるとか、係りの仕事とか、誰もがめんどくさがるような仕事を「きちんとやってください」と毎日のようにH.R.で訴えて、さぼってばかりの男子たちにけむたがられていた。わたしも「授業中、本を読んでいたでしょう、そんなことしちゃダメよ」とあとで注意されて、大きなお世話、と、舌打ちしたくなったこともある。だが、口だけではなく、トイレ掃除にせよ、中庭の草むしりにせよ、道具をそろえるところから後かたづけまで常に率先してやっているのも彼女で、「しっかりした子」というのはああいう子のことを言うのだろう、と思っていたものだ。

言ってみれば派手なところのまるでない、固い女の子が、突如、学校一の有名人になってしまったのである。それも「××の妹」として。学外から取材に来るようなことはなかったが、同じ学校のなかではたちまちその噂がひろまって、「お兄さんに渡して」とプレゼントや手紙を持った上級生や下級生が、休憩時間や放課後に、教室の前に集まるようになった。「一緒に写真を撮らせて」と、一緒に写りたいのはお兄さんの方だろうに、知らない子と並んで、向けられたカメラに笑い顔を見せなければならなくなった。

あとで思い返してみれば、その少し前から彼女はぴたりとお兄さんの話をしなくなっていた。あれほど中学時代「お兄さんが、お兄さんが」と口にしていたのに。有名人になって以降はなおさら、決して話をしようとしない彼女の態度を察して、わたしたちもその話題は避けた。騒いでいるのは上級生や下級生ばかりで、同じクラスだったわたしたちは、まるで台風の目のなかにいるように、誰が言い出したわけでもなく、そのことにはふれないでいたように思う。クラスのレクリエーションでギター片手に歌を歌う子も何人かいたが、そういうときにも、当時やたら流れていたその子のお兄さんの曲を歌う子はいなかった。

当時、ときどき考えたものだ。もし自分が彼女の立場だったら、浮き足立つこともなく、派手な世界に目を奪われることもなく、あそこまで自分のペースを保っていられるだろうか。ずっと苦手で、どちらかといえば敬遠気味だった彼女だったが、わたしにはあんな「自分は自分、兄は兄」という落ち着いた態度は絶対にとれないだろうと思ったのだった。

かといって別に仲良くなったわけではないし、もしかしたら彼女の方も、わたしに対して、苦手意識のようなものを持っていたかもしれない、という気もちょっとする。

学校を卒業して以来、彼女には会っていない。それでも彼女のことは何度も思い返した。そのとき以来、彼女の態度は、わたしのひとつのモデルとなったのである。

わたしのなかにはひどく浮つきやすい、調子に乗りやすい部分があって、反面、すぐに意気消沈もしてしまう。それをあまり表には出さないようにしてはいるが、うっかり忘れて浮ついてしまって、自分を見失いそうになっている自分にはっとする。そんなとき、ああ、17歳の彼女はもっとしっかりしていたぞ、と思うのだ。

彼女の気持ちがほんとうのところ、どうだったのかはわからない。お兄さんを失ったような寂しさはまちがいなくあっただろう。口を利いたこともない上級生や下級生と、お兄さんの代わりに並んで写真を撮っているときは、どんな気持ちだったのか。たいして親しくさえなかったわたしが、一体何を知っていたのか、とも思う。

けれども問題は「どう思っているか」ではなく、「どのような態度を取るか」なのである。彼女の態度は節度のある立派なものだった。そうしてわたしたちもその態度に合わせて、自分の態度を決めていったのだ。

世の中にはいろんな人がいる。初対面からひきつけられる人がいるかと思えば、反面、どうにもウマの合わない人もいる。けれど、ウマが合わないからといって、避けていればいいのかというと、どうもそうでもないような気がする。振り返ってみれば、自分が影響を受けた人は、自分が当時尊敬していた人ばかりではない。むしろ、嫌いな人や合わない人と関わることを通じて、自分とはちがう考え方を知り、その考え方にも正当性があることを知り、さらに自分のあり方・考え方を反省し、修正を重ねていったのではなかったろうか。つまりは、自分と合ったり合わなかったりする人がいるというのは、それだけ学ぶ機会があるということなのだろう。

彼女が先生になったという話を、どこかで聞いたような気がする。たぶん、しっかりしたいい先生になっていることだろう。

鶏頭




2008-09-23:はまりこんだペダル

先日、図書館のホールに腰かけて、本を読んでいたところ、しばらく前から続いているらしい声高な話し声が、どうにも耳について耐えがたくなってきた。声のする方を振り返ると、おじいさんが公衆電話を使っているのだった。

繰りかえし言っているのは、アパートの隣の部屋には絶対にTVがある、ということ。TVがあるのに受信料を払っていない、毎日朝からTVの音が聞こえるのに受信料の徴収員が来たときは、TVを持っていないとうそをついている、と、執拗に繰り返していたのだった。

自分の部屋で、隣の部屋のTVの音が聞こえるぐらいだから、自宅から電話をかければ、自分の声も隣りに聞こえるのではないかと危惧して、わざわざ図書館まできたのだろう。同じことをくどくどと繰り返す声を聞きながら、隣の人が受信料を払っていようがいまいが、自分の懐が痛むわけではあるまいに……と、こちらまでいらだたしい気持ちになってしまった。

一度気になってしまった声は、もう無視することもできない。席を立って帰ることにした。自転車置き場に行くと、なんとわたしの自転車の前輪のスポークに、隣りの自転車のペダルががっちりとはまりこんでしまっていて、出そうにも出せない。持ち上げたら出せるか、ペダルの方を引っ張った方がいいか、いろいろやってみたが、どうにもらちがあかない。すると、そこへ通りかかった初老の男性が、悪戦苦闘しているわたしに気がついて、どうしたのか、と声をかけてくれた。

ここにはまりこんでしまったんです、と説明して、すいませんがちょっとこっちの自転車を押さえててもらえませんか、わたしこっちを引っ張ってみます、と助けを求めた。おじさんは二つ返事で引き受けてくれて、今度はふたりでああでもない、こうやったらどうだろう、と試行錯誤を続けた。それでもはまりこんだペダルはびくともしない。

そこへさらにもうひとり、同じような年格好のおじさんがやってきた。そのおじさんも、どれどれ、とのぞきこみ、よし、わしはこっちをこう押さえとくから、あんた、ここをこう引っ張れ、あんたはこっち、と今度は三人でいろいろやってみた。

そこに現れたのが、さきほど公衆電話でNHKに隣人を密告(?)していたおじいさんである。四人がかりで押さえたり引っ張ったりしてみたが、どうやってもペダルを出すことができない。こらあかん、ここを切らなあかん、と、人の自転車だから気安くそんなことを言い出すおじさんまで出てくる始末である。わたしが、入ったものは出るはずです、ときっぱり主張すると、NHKに電話をしていたおじいさんは、「そら、理屈やな」と同意してくれた。そこにもうひとり、おじさんが通りかかり、事情を聞くと、「わし、図書館の人を呼んでくる」と駆けていった。

おじさんのひとりがわたしの自転車を押さえ、もうひとりが二本のスポークを少し広げ、べつのおじさんがもう一台の自転車を支え、さらにわたしがペダルを引き出す、という役割分担を決め、「せーの」で呼吸を合わせ、何度か試したあげく、やっとのことで自転車を引き離すことができた。ベトちゃんとドクちゃんの分離手術に成功した医師団のごとく、充実感いっぱいで、やった、やった、と喜んだのだった。ちがっていたのは、わたしたちはお医者さんの使う手袋をする代わりに、両手を真っ黒にしていたということだけだったかもしれない。

そこへ図書館の警備員の人と呼びに行ったおじさんがやってきたが、もはやしてもらうことはない。わたしはほんとうにありがとうございました、とみんなにお礼を言って頭を下げて、無事、自転車に乗って帰ってこれたのだった。

自転車に乗りながら考えた。
NHKのおじいさんも、電話をかけていたときはあんなにとがった声を出していたのに、自転車を引き離すときは、全然語調がちがっていた。うまく引き離せたときは、みんなが自分のことのように喜んでくれた。
自分が誰か、あるいは何かの役に立てているという実感は、人を少し、幸せにするのかもしれなかった。

鶏頭




2008-09-22:事実は小説より奇ならず、か?

W.V.クワインの『哲学事典』の「濫用」の項目には、こんな文章がある。

山に登るより降りる方が疲れる、としつこく言われた人は多い。燃えさかっている石炭は焔より熱いと聞かされた人もいる。暑い日にアイスクリームを食べるのは、まずい考えだと聞かされたことがある。内部が冷えるのと戦うために身体が熱くなるからというのである。「暑い日に熱い飲物をとるのは、いいことだ、なぜなら、汗をかき、その汗が蒸発して涼しくなるから」ということを聞いた人も多い。「暑い日には厚着をするのがいい。それだけたくさん汗をかくから」というのさえ、聞いたことがあるかもしれない。なぜ、人々は本当のことを話したがらないのだろう。

 答えはわかっていると思う。事実は作り話ほど不思議ではないからだ。そうして不思議、あるいは、驚異には人をひきつけるところがあるからだ。ついでながら、この推論のおかげで、上記の五つに加えて六つめのでたらめを思い出した。「事実は小説よりも奇なり」といわれているではないか。

(クワイン『哲学事典 ―AからZの定義集』
吉田夏彦・野崎昭弘訳 ちくま学芸文庫 2007)

わたしが暑い日にアイスクリームをあまり食べない方がいい、と聞かされた理由は、クワインが聞いた理由ではなかったのだが、ここではアイスクリームの話がしたいのではない。

クワインは、人間は不思議なことや驚異にはひきつけられるものだ、だからありきたりの事実そのままを聞かせる代わりに、自分の話は聞く価値があると人に印象づけるために、半ば無意識のうちに話を誇張させ、不思議な要素を付け加えてしまう、という。事実は小説より奇なり、というのは、クワインに言わせれば、まったくのでたらめなのである。 だが、ジンメルの話を聞けば、ことはそんなに単純ではないような気がしてくる。

ゲオルク・ジンメルの短いけれど印象的なエッセイに「いかなる意味でも文学者ではなく」というものがある。それはこんな話だ。

ジンメルがあるとき馬車で小さな村を通りかかった。そこの通りの真ん中に、火事で焼けた廃屋があった。そこには腕のいい鍛冶屋が、美人で評判の女房と住んでいたという。

その鍛冶屋のところに、これまた腕のいい弟子が来た。最初は喜んでいた鍛冶屋だったが、やがて弟子の方が自分より仕事ができることがわかってしまった。親方は、自分より優れた弟子が身近にいることに耐えられず、女房に相談した。すると、女房は弟子など殺してしまえ、という。亭主が尻込みすると、それなら目をつぶしてしまえ、とそそのかした。ある夜、とうとう鍛冶屋は寝ている弟子の目をつぶすことにした。

『ぐっすり寝てるよ。仕事がきついからね。いま、こっそりあいつの部屋に入っていこうよ。あたしが松明で手元を照らしてあげるからさ』…

『やりな』
と女房がささやくと、亭主のほうは、ヤッとばかりに寝ている弟子の目を突き刺しました。

 そのときでした。弟子は残ったもう一方の目を見開いて、親方の女房をじっと見据えたのでした。その瞳には深い心の痛みと熱い想いとがあって、それを見た女房は、あっと叫んで松明を投げ捨ててしまったのです。松明は寝台の藁に落ちて、あっという間もなく火がつきました。

(ジンメル「いかなる意味でも文学者ではなく」
『ジンメル・コレクション』北川東子編訳・鈴木直訳 ちくま学芸文庫 1999)

こうしてその家は燃え尽き、三人は焼死したのだという。この話の語り手である御者自身が「この話は作り話かもしれませんがね。それを見ていて証人になれる人間は、いなかったわけですからね」と言っているのだが、御者の注釈を待つまでもなく、三人の登場人物のうち、三人ともが死んでしまえば、端の者にわかるのは、「腕の良い鍛冶屋とその弟子と美人の女房が焼死した」ことでしかない。あるふれた事故かもしれず、そこに嫉妬や憎悪や秘められた思いや絶望があったかどうかは、誰にもわからない。

御者が語って聞かせてくれた話も、クワインの言うとおり、「自分の話は聞く価値がある」とみんなが少しずつ「誇張」させてしまった結果、事実とはかけ離れた「おもしろい話」となっていったと考える方が自然かもしれない。「賢い聞き手は、眉に唾をつけることになる」と言っているクワインであれば、たとえこの話を聞いても、まちがっても「事実は小説より奇なり」という結論を導き出すことはないだろう。

だが、この話を聞いたジンメルはそうは思わなかった。

 御者のこの話は、私には宿命となった。当時、私は、自分は文学者だと思っていた。御者の話は、それ自体が文学作品の可能性を秘めた素材であった。…

女のイメージは、何度も私の心を占めた。自分が敵だと思った男を片づけようとしたそのときに、男の愛が自分に向かってやって来て、それまで憎しみの仮面をかぶっていた愛の感情があらわとなった、あの瞬間の女のイメージがである。

 同じひとつの揺らめく炎が、一方で魂にぐいと食いこみ、同時に、他方で身体を焼きつくす。私は、女の心のなかで天国と地獄が出会った残酷な瞬間を、何度もありありと感じることができた。その瞬間は私をしっかりと捉えてしまい、私は瞬間を超え出て、その縺れを、ひとつの平らな形象に置き換えることができなかった。…
そのとき、私は悟った。現実は私にとってあまりに強すぎる。私は文学者ではない、いかなる意味でも文学者ではない、と。

クワインの定義する「誇張」は、ジンメルにとっては「あまりに強すぎる」「現実」だったのである。

果たしてジンメルは、御者のしてくれた話が、一切の誇張を加えない、起こったことそのままの「事実」だと思ったのだろうか。クワインが言うように、みんなが「人をひきつける」ために話に尾ひれをつけた可能性に思い至らなかったのだろうか。わたしはそうだとは思わない。

そうではなくて、親方の女房の胸の内に去来した、「女の心のなかで天国と地獄が出会った残酷な瞬間」が、作り話か事実かということは無関係に、ジンメルにとってはこのうえない「人間の真実」と感じられたのであろう。この「人間の真実」を前にすれば、いかなるストーリーも描写も、何の重みもない絵空事と感じられたのではあるまいか。

こう考えていくと、何をもって「事実」とするのか、いったい何を「人間の真実」として定義していくのかは、そう思うところにあるとしか、つまり向き合うその人の態度を離れてはないとしかいえない。
「事実は小説より奇なり」ということが、果たして言えるのか、言えないのか。
結局それは、その「事実」と呼ばれるなにものかを、その人がどうとらえ、どのように向き合うのかに他ならないのだろう。

鶏頭




2008-09-11:はかないもの、むなしいもの

大岡信の詩に「水底吹笛」(このタイトルはなんと読むのだろう)というものがあって、十代の頃、たいそう好きだった。詩人が十八歳の時の作品で、後の難解な作品にくらべれば、水の底から聞こえてくる笛の音というイメージは、わたしにも近づきやすかったのかもしれない。そのなかに

うしなったむすうののぞみのはかなさが
とげられたわずかなのぞみのむなしさが

という一節があって、昔から対句がことのほか好きなわたしは、たいそう気に入ったのだった。現在よりはるかに記憶力の良かったその当時、何回か繰りかえして読むうちにすっかり覚えてしまい、ふっと口をついて出てくるたびに、ほんとうにそうだなあ、何で手に入れられなかった望みにくらべて手に入れた望みというのは虚しくなってしまうのだろうとうら悲しい思いでその理由をあれこれ考えてみたものだった。

そうなったらいいなあ、ではなくて、そうなりたい、そうなるんだ、と決意して、必要な準備をする。計画を立て、実際に取りかかり、上がらない成果に頭を抱え、もうダメだ、と投げ出しそうになる自分を、叱咤し、励まし、同じことをただひたすらに繰りかえす。初めのころの楽しさも感動もどこかへ行ってしまい、飽き飽きしながらも、意地になって続け、日を送る。そうやって、いざそれを手にしてみると、あれほどこいねがったもののはずなのに、いつのまにか色あせてしまっている。自分が望んだのは、こんなものだったのだろうか。こんなもののために、自分はあれほど努力を重ねてきたのか。この詩を読んだ十代の頃でさえ、すでにそんな経験を何度か重ねていた。

待っているあいだが楽しいんだ、と言っている人もいた。遠足でもお祭りでも、その日になってしまえばもうあとは終わるしかない。待っているあいだほど楽しいものはないから、その日が来たら、すぐにつぎを探せばいい、と。

けれど、なんだかそういうのもちがうような気がした。それだと人の一生は待つだけで終わってしまうではないか。何かいいことはないかな、終わった、だからつぎ、またそのつぎ……。確かにそれだと「とげられたわずかなのぞみのむなしさ」を思う暇もない。だが待ってばかりの日々は、わたしにはあまり楽しいことのようには思えなかった。

希望なんて持つから失望するの、だからわたしは何にも、誰にも期待しないの、と、若くして悟りきったようなことを言う子もいた。それはそれで平明な気持ちでいられるのかもしれないが、この人はわたしと一緒にどこかに行こうと約束したときも、ちっとも楽しみにしてくれないのだろうか、と思うと、少しだけ残念だった。

夢見たものを手に入れてしまうと、それはかならずむなしくなるものなのだろうか。色あせたりしないようにできないものだろうか。花に水をやるように、あるいはおっそろしく高価で精巧な機械のメンテナンスを続けるように、必死で維持管理すればどうだろう?

先日、こんな話を聞いた。

話を聞かせてくれた人の友だちが、映画やドラマさながらの大恋愛をし、幾多の困難をはねのけて、めでたくゴールインした。新家庭を築くにあたってその人は、自分の思いが遂げられた瞬間を決して忘れないように、いつまでも最初の「ドキドキ感」を忘れないように、所帯じみることのないように、努力を続けようと決意したのだそうだ。

わたしにその人の話をしてくれた人は、こんなことをこぼしていた。その友だちから、旅行のおみやげがあるから、家に来ない? ケーキを焼いたから、今度の休みに遊びに来て と、頻繁に誘いがある。そのたびに、結婚式の写真だの旅行の写真だのを見せられたり、新しく買ったブルーレイだの、ベランダ用のチェアだのを見せてくれたりするのだそうだ。断って、妬んでいるようにかんぐられるのも心外だし、手ぶらで出かけるわけにもいかないし。誘いに応じるのもいいかげんうんざりしてきた、どうしたものか、というのだった。

飾り立てたショー・ルームさながらの家というのは、そうやって日本経済に貢献しているところはすばらしいと思うのだが、ずぼらなわたしから見れば、話を聞いているだけで疲れそうな毎日である。恋愛は非日常だが、結婚したらずっぽりと日常なのだから、所帯じみたところで、問題はないような気がする。

所帯じみないための努力は、「とげられたのぞみ」を色あせさせないことなのだろうか。「とげられたのぞみ」をむなしくさせないために、せっせとお金をつぎこみ、観客にそれを認めてもらわなければならないのだろうか。

ところでロール・プレイング・ゲームというのがあって、わたしはやったことはないのだが、人がやっているのを端で見たことがある。

あれは、最終的に大ボスを倒すのが目的なのだが、そこに行く前の要所要所に「中ボス」というのがいて、それを倒しながら、徐々に主人公のレベルをあげていくのである。

小説の章構成のように、その段階ではその中ボスを倒すことが最大の目標である。そのためにいろいろのアイテムをそろえたり、小さな謎を解いたりしなくてはならない。つまり、ロール・プレイング・ゲームというのは、絶え間なく課題が与えられ、それを解くことの繰りかえしに過ぎないのだが、そこにストーリィがコーティングされているのだ。よくできたシナリオは、課題−解答の繰りかえしを感じさせず、そのかわりに、「成長」の実感が与えられる。つまり、「課題−解答」のプロセスで「成長(レベルアップ)」という変化を絶え間なく与えることによって、「時の流れ」を導入し、つねにプレイヤーの意識を、未来へ未来へと向けるシステムになっているのだ。

わたしはこれは人間の成長のアレゴリーになっているのだなあ、だからこのゲームが楽しいんだろうなあと見ていて思ったのだった。

やがておもしろいことに気がついた。このゲームを最後までやり終えた人は、たいていもう一度、最初からゲームをやり直すのである。最後までやることによって初めて、細かな手がかりや会話の意味が、大きな意味を結んでいることに気がつくのである。

現実では、わたしたちは、何かの経験をそっくりそのまま繰りかえすことはできない。繰りかえしはあっても、周りも条件も相手もかならず異なっているから、二度目のプレイ――すべてが同じ状態で、ちがうのは「プレイヤーが結末を知っている」という点だけ――は不可能なのである。もしかしたら、このロール・プレイング・ゲームのほんとうの楽しみは、二度目のプレーにあるのかもしれなかった。

だが、ゲームとしての目的は、あくまでも最後のボスを倒すことである。言ってみれば、その段階で望みは遂げられたわけだ。ではなぜ、望みを遂げてしまったにもかかわらず、繰りかえすことが楽しいのだろう。

おそらく、一度やるだけでは、すみずみまで味わうことができないからだ。ちょうど空腹でたまらない人が食べ物を前にして、味もわからずむさぼるのに対して、ある程度空腹も満たされて初めて、料理を味わい、食事を楽しむことができるように。それと同じで、望みが遂げられれば、強烈な満足感を覚えることができる。けれど、その「遂げられた望み」を味わい、すみずみまで楽しむことは、達成されてからでなくてはできないことだ。

わたしたちの日常では、同じゲームをやり直すことはできない。だから、たいていのことは「それが何か」もよくわからないまま、先へ、先へと押し流される。夢も望みも、わたしたちを先へ、先へと引っ張ってゆく。けれど、「のぞみ」をほんとうに味わい、経験することができるのは、遂げられてからでなくては不可能だ。

おそらくそれは達成感のように、強烈な感情ではないのだろう。達成感は確かに一瞬で「むなし」くなってしまう。けれど、手に入れなければ決して味わうことのできないものがあるのだ。それをわたしたちは「初めてやるゲーム」のなかで見つけなければならない。

日常のなかでは、「出会った頃のドキドキ感」は望むべくもない。それでも日常には日常にしかない、穏やかで深い喜びがあるのだろう。そうして、それはきっと経験を重ねなければ見つけることがむずかしいことなのだ。

望みがかなった瞬間が失われることを恐れることはない。「とげられたわずかなのぞみ」はむなしくなればいい。そんなものは手放してしまえばいい。その代わりに、わたしたちは何ものかを要求しない、という楽しみを味わうことができるのだから。

大岡信の詩はこう続く。

あすののぞみもむなしかろうと
ふえにひそんでうたっているが
ひめますのまあるいひとみをみつめながら
ひとときのみどりのゆめをすなにうつし
ひょうひょうとふえをふこうよ
くちびるをさあおにぬらしふえをふこうよ

鶏頭




2008-09-10:ウェルズの「未来人」

H.G.ウェルズは以前にも「H.G.ウェルズとタイムマシン」で書いたことがあるのだが、大変に洞察力のある人だった。『アシモフの雑学コレクション』にも「H.G.ウェルズは1914年の小説のなかで、原子兵器について書き、それを原子爆弾と呼んだ」と出てくるが、実際その洞察力には舌を巻くしかない。

ところでそのウェルズの処女作である『タイムマシン』には、未来人が登場する。未来人は小柄で優雅でみな美しい。優しく、子供のようにあどけなく、「耳や口は非常に小さく、薄い唇は燃えるような紅色で、顎の先は細い。大きい柔和な眼には、気のせいかもしれないのだが、ぼくの期待していた知的好奇の光はないようである」(『タイム・マシン 他九篇』橋本槙矩訳 岩波文庫)という外見である。

彼らは優しく、人なつこく、子供っぽい。すぐに疲れてしまい、怠け者で、物事に無関心である。ウェルズはどうして未来人にそんな性格を与えたのか。

人間の力は困窮から生まれるのだが、社会の安定は脆弱を生む。人類は社会改革と生活安定のための努力を続け、ついに最高の地点に到達した。人間は次から次へと自然を征服していった。現在は夢にすぎないことが、実現された。

平和な共産主義社会である未来で、人類は何ら野心を抱かず、労働の必要もない。日々遊んで暮らす彼らを、実は脅かす生き物もいるのだが、それはここでの話とはちょっとずれるので、興味がある方は本を読んでみてください。

理想というのは、手が届かないところにあるからこその理想であって、つねにわたしたちを行為に向かわせるものだ。ひとつわかれば、ふたつわからないことがでてくる……というのが、「わかる」ことの根本にあるとすれば、どれほど科学技術が進歩を遂げても、「わからない」ことはなくなってはいかないし、つねに理想は「その先」にあるはずだ。だから、「未来人」がもはや野心を抱かないかというと、それは疑問であるように思う。

一方で、ウェルズの描く未来人のなかに、容易に現代人の姿を見いだせる、というのもまた事実なのである。

たとえば、食べること。
秋も深まってくると、電車の車窓から、たわわに実ったカキが放置されているのをしばしば見かける。朱色のカキは風景の美しいアクセントだが、昔ならありえない光景だったろう。いまでは渋柿を取って皮をむいて干して……という手間をかけてまで、食べたがる人がいないのだ。

そのまま食べようとしても渋くて食べられない柿を、なんとかして食用にしよう、果物のない冬に備えて保存しておこう、と「努力を続け」た結果、干し柿という食べ方が生まれた。そこに至るまで、多くの人が渋みの抜けていないカキにかぶりついては、吐き出すのを繰りかえしたことだろう。フグになるともっとすごい。毒のある部位を特定するまで、いったいどれほどの人が命を落としたことか。

我々は事もなくフグ料理に酔ひ痴れてゐるが、あれが料理として通用するに至るまでの暗黒時代を想像すれば、そこにも一篇の大ドラマがある。幾十百の斯道の殉教者が血に血をついだ作品なのである。

 その人の名は筑紫の浦の太郎兵衛であるかも知れず、玄海灘の頓兵衛であるかも知れぬ。
 とにかく、この怪物を食べてくれようと心をかため、忽ち十字架にかけられて天国へ急いだ人がある筈だが、そのとき、子孫を枕頭に集めて、爾来この怪物を食つてはならぬと遺言した太郎兵衛もあるかも知れぬが、おい、俺は今こゝにかうして死ぬけれども、この肉の甘味だけは子々孫々忘れてはならぬ。

 俺は不幸にして血をしぼるのを忘れたやうだが、お前達は忘れず血をしぼつて食ふがいゝ。夢々勇気をくぢいてはならぬ。

 かう遺言して往生を遂げた頓兵衛がゐたに相違ない。かうしてフグの胃袋に就て、肝臓に就て、又臓物の一つ/\に就て各々の訓戒を残し、自らは十字架にかゝつて果てた幾百十の頓兵衛がゐたのだ。

(坂口安吾「ラムネ氏のこと」

安吾は「フグに徹しラムネに徹する者のみが、とにかく、物のありかたを変へてきた」とここでは言っているのだが、いまのわたしたちは「物のありかた」を変える、少なくとも「食べられないものを食べられるようにする」ことを、そこまで真剣に取り組めるのだろうか。それを食べて死人がでるようなフグや毒キノコを、身体を張って実験し、なおかつその経験を蓄積してきたことを思えば、先人のその勇気には、ただただ頭が下がるばかりである。

考えてみれば虫だの、ナマコだの、毒蛇だの、人間はどえらいものを食べてきた。しかも、煮たり焼いたりするばかりではない。粉にし、溶かし、蒸し、漬け、干し、煙でいぶし、腐らせ、発酵させ、カビを生やし、何年も熟成させるなどして、ありとあらゆる食べ方を編み出してきた。結局のところ、「飢え」はそれほど人間にとって大問題で、何とか生き延びるために、人間は知恵と勇気を総動員し、努力を積み重ねてきたのだろう。生きる知恵はすなわち食べる知恵、生きるための努力はすなわち食べるための努力だったのだ。

ところがかつては各家庭において継承されてきたそれらの技術の多くを、わたしたちはいともやすやすと失ってしまった。しかも、どれだけ多くの食物を「これ食べられない」「気持ち悪い」などと言って排斥してしまっているだろう。甘く、柔らかく、口当たりの良いものばかりを好む今日のわたしたちの姿は、「人間の力は困窮から生まれるのだが、社会の安定は脆弱を生む」という言葉そのものではあるまいか。

栄養状態の良い現代のわたしたちは、ウェルズの予想とは異なって、過去の人びとにくらべて身長こそ高い。だが、毎年発表される小・中学生の体力・運動能力の統計は、いくつかの面で低下の一途をたどっているという。そこらへんを歩いている十代は、男の子であっても、美しく、優しい顔立ちをしていて、大声でしゃべっているのを聞いても、言葉遣いはあどけなく、残念ながらあまり知的好奇心はうかがえない……。

いや、これは前に書いた、「昔は良かった」式のおばさんの繰り言に相違あるまい。H.G.ウェルズの予言は、「未来人」に関しては、外れたのだ……。

鶏頭




2008-09-09:最近の若いやつは…

昨日、ネロの話を探して『アシモフの雑学コレクション』をひっくりかえしていたら、こんな一文に目が留まった。

紀元前二八〇〇年ごろの、古代アッシリアの粘土板にある文。
「世も末だ。未来は明るくない。賄賂や不正の横行は、目にあまる」
 それから二千年後の、ソクラテスの言。
「子供は、暴君と同じだ。部屋に年長者が入ってきても、起立もしない。親にはふてくされ、客の前でもさわぎ、食事のマナーを知らず、足を組み、師にさからう」
 プラトンは、自分の弟子について。
「最近の若者は、なんだ。目上の者を尊敬せず、親に反抗。法律は無視。妄想にふけって、街であばれる。道徳心のかけらもない。このままだと、どうなる」

(アイザック・アシモフ『アシモフの雑学コレクション』
星新一編訳 新潮文庫)

学生のとき、デパートの催事場の手芸コーナーの販売のバイトをしたことがある。期間限定の、確か一週間ほどの短期バイトだった。

手芸コーナーというのは楽なもので、のぞきに来るお客さんといっても日に十人かそこらのもの、それも中高年の、時間だけはたっぷりありそうなご婦人ばかりで、少々わたしがファスナーを袋に入れるのをもたつこうが、2−3−8−¥と数字を探しながらレジを打とうが、ふと気がつけば長蛇の列ができている……なんてことはまちがってもない。過去のバイト歴をたどって「楽なバイトランキング」を作成するとしたら、まちがいなくこのときのバイトが一位の座に輝くはずである。

初日とつぎの日の午前中ぐらいはデパートの正社員の人が来ていたが、それからあとは、始業時間と閉店時間にレジ管理のために顔を出すぐらいで、あとはわたしともうひとり別の大学の、こちらはわたしより学年が上、このデパートでは何度もバイトしたことがあるという女の人がふたりだけ。客が少ないばかりではなく、上司に気を遣わなくてすむという意味でも、夢のような売り場なのだった。

初日、臨時社員証と名札を渡された。それにはあらかじめ「安藤」という聞いたことのない名前が書いてある。バイトのお姉さんに聞くと、「安全のためにこういうふうになってるみたいよ。変な人に名前を覚えられたら困るから」と教えてくれた。個人情報保護などという思想もまったくないころではあったが、デパートは自衛のためにそういうことをしていたのだろう。いまは逆にどこでも名前の入ったパスを胸元にぶらさげているが、あれは本名なのだろうか、と、ときどきそのときのことを思い出す。

臨時「安藤さん」に、デパートの奥にはそこで働く人専用の食堂があって、臨時社員証を見せると、ずいぶん安い値段でおいしい昼食が採れることを教えてくれたのも、そのバイトのお姉さんだった。生協の会員割引どころのさわぎではない、確か、二百円台できちんとしたランチが食べられるのである(しかも学食よりはるかにおいしい)。何人もの人の手を渡ったことがあきらかな、ビニールのパスケースもよれよれの臨時社員証を返さずにはすむ手だてはあるまいか、と、おそらく誰もが考えるようなことをわたしも考えた。

五日目ぐらいに、通りかかったお客さんにミシンの糸の値段をたずねられて、いままで自分が売っていた値段(そこにある札に書いてある)を答えたところ、「あんたな、それ、ナイロンの糸の値段え、絹はそんな値段やおへんえ」と上品に指摘されてしまった。わたしのずさんな脳には「ミシン糸」というくくりしかなかったのだが、確かに見てみると、「絹百パーセント」と麗々しく書いてあるのと、「伸縮性・柔軟性にすぐれたナイロン糸」の二種類がある。値段を書いたポップが立っているのは、ナイロン糸の箱のところで、隣の箱には小さな小さな値段シールが、ナイロン糸の三倍ほどの価格を表示してこっそりと張ってあった。

その前にも二度ほどミシン糸を売った記憶はあったのだが、いったいどちらだったのだろう。少ない売り上げに、わたしはいったいどれだけの損失を与えてしまったのだろう。背中をつつーっと冷たい汗が流れたが、何食わぬ顔で「あ、そうでしたね、××円いただきます」と返事をして、絹の方をお買いあげいただいた。

日に数人訪れる客の相手をする以外、特にすることもない。商品整理といったところで、手に取る人も来ないのだから、一度してしまえばそれで大丈夫なのである。商品の台の奥に立っている時間が多かった。立っているだけでバイト代が入るのだ。なんぼでも立っている、ぐらいの気分だったのだろう。

ところが暇だったのは手芸コーナーばかりではなく、隣の健康食品コーナーもずいぶん暇だったらしい。そこの主任、おそらくデパートの正社員だったように思うのだが、ワイシャツを袖まくりしてネクタイ姿の中年の男性が、しょっちゅうわたしたちのコーナーに雑談に来るのだった。最初は顔見知りらしいバイトのお姉さんのところに来ていたのだが、じきにわたしが出身大学の後輩だとわかって、どうやら親近感を覚えたらしい。回遊魚のようにふらりと回ってきては、回遊魚らしからぬ仕草で立ち止まって、大学の頃の話を始めるようになったのである。

その人が学生時代を過ごしたのは七十年代、学生の政治意識が高いころで、連日政治集会や抗議デモが行われたのだそうだ。こんなことは知らないだろう、あんなこともあった、とさまざまな「闘争」の話を教えてくれ、たいていの話はおもしろく聞くわたしなのだが、なんだかちっともおもしろくなくて、わたしはいつも退屈だった。

政治意識の高い当時の学生は、デモをやるというだけで、大勢の学生が集まってきた。それにくらべていまはどうだ。君なんかはデモに参加したこともないだろう、と言うのである。
「あの頃は君らみたいなふつうの女子学生が、お茶やお花の稽古に行く途中、当たり前のようにデモに参加してたんや」

だからわたしは
「ええっ? 七十年代って『お茶やお花の稽古』がまだそんなに一般的な時代だったんですか? だれでもやるようなことだったんですか?」と聞いてやった。

どうやらわたしの皮肉は通じたらしく、相手はいやな顔をしてどこかに行ってしまった。わたしとしては、十分礼儀は尽くしたつもりだったのだが(含嘘)、正直、来る日も来る日も変わりばえのしない話にうんざりしていたのである。ほんとうは「だからぁ?(それがどうしたって言うんだ)」と言いたかったのだが、それを言わなかっただけでもわたしの自制心は褒めるに値するのではあるまいか(でもないか)。

それでうまいことその「元学生活動家」を撃退できたかどうか記憶はない。相変わらずやってきては似たような話をしていたような気もする。いま考えるに、彼にしてみれば、単に思い出話がしたかっただけではなく、政治意識の低い「いまどきの学生」に対する不満が募っていたのだろう。そうしたところに、日頃の思いをぶちまける格好の相手として、わたしが現れたというわけだ。

「最近の若い者は……」という切り出し方は、アシモフを引くまでもなく、実によく耳にする言葉である。このあいだはとある小学生が「最近の小学生はムシキングも知らない」と怒っているのを聞いたが、おそらく自分を「ある世代の一員」として抽象化する能力をもつようになるとすぐ、人間というのは「自分の世代」とその下との比較を始めるのだろう。

自分の上にも「世代」はあり、その「世代」が自分の年の頃にも何かをやっていただろう、ということは、頭ではわかっても、実際に眼で見ることはないために、比較することはできない。自分が体験したこともない、することもない過去の話は、そういうことがあったと聞いても、興味は持てないし、何らの価値も感じることはできない。

だが、自分がやってきたことを、自分の下の世代が、興味も持たないでいると、自分たちの世代が、ひいてはそれを楽しんだ自分がバカにされたように感じる。なんでそんなおもしろいことを(価値のあることを、大切なことを、立派なことを)やろうとはしないんだ、関心を払わないんだ?
そこで、「こんな楽しいことがあるぞ」と教えてやる。ところが下の世代は、そんな過去の話など興味を持たない。耳を傾けてもくれないとわかった彼または彼女は考える。

あいつらはバカだ。

ところで、目の前にリンゴがふたつあるとする。どちらが大きいかわかりますね?
そのふたつのリンゴを、自分から等距離に置いて、それぞれに見比べてみたらいいのだ。

では、あなたの目の前に、よく似た背格好の人がいる。その人とあなたとどちらが身長が高いかわかります? 立って並んでみたわけでもない。お互いすわっていたりすると、身体の大きさなど、相当差がないかぎり、実際にはわからないはずだ。つまり、比較というのは、ふたつのものをならべて、自分から等間隔に置いて、同じ条件のもとに比較観察しなくては、わかることではないのだ。

いまと過去を比べてどちらが良いか、の比較は、ふたつのリンゴを比べるようにはできない。わたしたちはその両方から身を引き離して、歴史的な傍観者となることはできない。つまり、いま実際に生きているわたしたちに、過去と現在の比較はできないのだ。

自分がやって楽しかったことは、自分にとって重要なことだ。自分の一部を作り上げているとも言えるような経験は、事実、かけがえのないものだ。だが、それをやったことのない人にとっては、単なる「出来事A」に過ぎない。同じように受け取ってほしい、といったところで、無理な話だ。それを、そうしてくれないから、と「最近の若者は、なんだ」と言うなんて、プラトンさんも心が狭いよ、という気がするのである(たぶんプラトンが言っているのはそういうことではないのだろうが)。

ここでわたしはカズオ・イシグロの『日の名残』を思い出す。執事のミスター・スティーヴンズはかつての日々を懐かしむ。すばらしいダーリントン卿との日々を思い返しながら、彼はやがて自分は当時、ほんとうのことを見ることを避け、自分が見たいことだけを見ていたことに気がつく。そうすることで過去の欺瞞に気づくだけでなく、その結果として導かれた「現在」に気づくのだ。だが、彼は悲痛に満ちた自己認識で告白を終わることはない。最後に彼は「いま」の主人に何が求められているかに気づく。未来に自分を合わせようとする。

ミスター・スティーヴンズの回想は、わたしたちにできる時間との最上のつきあいなのかもしれない。

一番バカげているのは、そういう過去の話を聞いて「ああ、きっと昔は良かったんだろう、いまはそれにくらべてなんだ」と、自分の手に取ることもできない「過去」を夢想しながら、現在をけなして、結局のところ、何もしないことだろう。

いまはとんでもない時代、ひどい時代と言われているが、大丈夫。
紀元前二千八百年から人はそう思ってきたのだから。

鶏頭




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