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鶏的思考的日常 ver.27〜秋深し 自分は何をしてたっけ 編〜



2008-11-04:祝四周年

昨日11月3日はサイトを開設して四周年目の記念日に当たります。
ブログはその前の10月中、ということしか記憶にないのですが(笑)、サイトの方はタグの書き方も知らなかったわたしが、何とかそれを教えてもらい、コピペしながら準備して、きりのいい「文化の日」に開いたのでした。あまり「文化的」じゃないなあ、だけど、「体育会系」か「文化系」かっていうと、「文化系だよなあ」なんて思いながら。

通りを渡ったところに、ちょうど同じ日に開店したパン屋さんがあります。わたしが行間を空けるにはスタイルシートを貼らなきゃいけないんだ、なんて頭を悩ませていたころ、通りの向かいの以前は居酒屋だった店が、内装も一新し、ガラス張りの店内の内側に白いカーテンがかかっていました。サイトのタイトルはなんにしよう、と考えていたころ、ガラス窓にロゴが入り、ここにはパン屋ができるらしいぞ、これで焼きたてのパンが食べられる、とわくわくしたものです。そうして、「くじ」と「破壊者」、「蠅の王」と「アーバス」の四本をアップロードして、公開を完了したあとで外に出てみたら、「本日開店」ののぼりが立っていたのでした。

このサイトと一緒に産声をあげたパン屋さんも、このあいだから「四周年セール」のお知らせが出ています。それを見て、ああ、サイトももう四周年になるのか、という感慨もまた新たになっています。

なんだかんだありながら、四年間続けられたことをうれしく思います。

ところでわたしが最近、違和感を覚える言葉として、「経験値」というのがあるんです。本来なら「経験を積んで」というはずのところを、「経験値を積んで」と言う人が少なくない。「経験」に「値」つける。使っている人にとっては「些細なこと」なのかもしれませんが、「経験」と「経験値」、わたしには似て非なるものに思えます。

おそらく「経験値」という言葉はコンピューターゲームからきているのでしょう。わたし自身、その言葉を知ったのは、友だちの家でファミコンをやらせてもらったときでした。

モンスターを倒すごとに「経験値」が増えていき、それが規定の数値に到達するとファンファーレが鳴ってレベルがあがる。そうすると、わたしが操作するゲームの主人公の能力を示す数値も上がります。戦闘能力があがり、強い敵とも戦えるようになる。そうすることで、新たな課題が与えられ、行動範囲も広がります。プレイヤーはこの「経験値」を上げるために、最初は弱いモンスターをせっせと倒していくのです。自分の努力が数値化されて、それが確実に成果として目に見えるかたちで反映される。これは実に楽しいことだし、おそらくこの楽しさが、ゲームを続けさせるモチベーションとなっているのでしょう。

ところが実際のわたしたちの生活のなかでは、「経験値」に相当するような数値はありません。たとえば本を読む。本一冊読んで、得られる数値は「一」ですが、読むと同時に何もかも忘れてしまえば、それはゼロとどうちがうのか。この「一」という数字は、いったい何に還元されるのか。そのことでいったい何が「獲得」されるのか。

こういう観点から見れば、本を読むというのは、おっそろしく効率の悪いことでしょう。たまに本を年間二百冊とか、三百冊とか読むという人がいますが、一度聞いてみたいと思うのは、そんな人はいったい何冊の本を「自分のものにした」といえるのか、ということです。
何かの場面で「ああ、この情況はあの本に書いてあったことと同じだな」とか、「いまあの人が言った言葉は、あの本で登場人物が言っていたことと同じだ」とか、「そうか、あの本に書いてあったのはこういうことなんだ」とかという具合に臨機応変に取り出すことのできる本。

ある場面で「これはあの本に書いてあった」と参照できるような本は、あるていどその人の「ものにしている」本であるでしょう。強い印象を受け、読み返し、それについて考えた本であり、そういう本がほかの本と違う要素を「数値化」することはできません。

「一年間に何冊読んだか」は「経験値」と言えるかもしれないけれど、「使える本」は、わたしがその本とどのような関係を結んだかを表すものであり、その意味では「経験」としか言いようのないものだろうと思います。

あるいは、人との関係でも同じことが言えるでしょう。人を何人知っている、という数値化はできても、その人とどのくらい親しいのか、どれほどその人を理解しているのか、そういうことは決して数値化されるものではありません。「何回会った」「つきあいだして何年たった」と、たとえ「関係」を量に換算しようとしても、関係というのはそのたびごとに変化し、「量」としてすくいあげることのできないものです。

年数を重ねるというのは、「経験値」か「経験」か。

サイト開設四周年、というのは、確かに数字です。サイトの中には何本の翻訳と、何本のコラムがある……と、数えたことはないけれど(笑)、その気になれば数値化もできるでしょう。ブログやホームページを点数化してくれるようなサービスもあるみたいです。

けれど、年数を重ねるということは、それだけにとどまらないものがあるように思うのです。

変な話ですが、ものすごく容量の大きなゲームが仮にあったとする。もちろん波瀾万丈の展開が用意されていて、主人公はひたすら成長に成長を重ね、ゲームクリアするまでに十年ぐらいかかる。果たしてそんなゲームをやる人はいるのでしょうか。

努力は確実に数値化され、能力値があがっていくのが眼に見え、それによって世界が広がっていくのもわかっている。けれども、たとえそうであっても、同じことの繰り返しはかならず飽きてくるでしょう。規定値に到達するための「経験値稼ぎ」はもはやノルマでしかなく、こうなるとわかっている「予測」は、もはや「予測」とは言えず、人との出会いも「つぎのイヴェント」を構成する要件でしかない。そうなるとおそらくそれは遊びとは呼べなくなるのではないかと思います。

多くのゲームが一ヶ月で終わることを目途にできているというのは、容量の問題だけでないように思うのです。

何かを続けていこうとするときは、たえず自分で何ごとかを見つけていかなければなりません。つぎのイベントは用意されていない。自分の身の回りから、その材料を探していかなければなりません。何かを見つけたように思っても、これをどうしていったものやら、皆目見当がつかない、やってもやっても無駄なことなのかもしれない、そういう気持ちもたえず生まれてくるでしょう。その試行錯誤が自分の内だけで終わるものであれば、おそらく人は続けられるものではありません。

自分はこういうふうに考えたんだよ、と話したい人がいる。
考えを聞きたい人がいる。
その気持ちが、その人をつぎの「何か」に向かわせるのではないでしょうか。

わたしの話はおもしろくないかもしれない。
そのまま通り過ぎていくかもしれない。でも、おもしろい、と耳を傾けてくれるかもしれない。

それを積み重ねていったのが「四年」という歳月だったとしたら。

そうしてそれがわたしの「経験」だけでなく、読んでくださる方の、「経験」の、ほんの一部にでもなっているのだとしたら。

だからこそ、わたしは書き続けていけるのだと思います。

「経験値」ではなく、「経験」として。

読みに来てくださって、ほんとうにありがとう。
あなたが読んでくださるから、わたしはまたログを書きます。

だから、またお話を聞かせてください。

鶏頭




2008-11-01:ハッピーアイスクリーム

「ハッピーアイスクリーム」という言葉を知っていますか?

話をしているときに、偶然、相手と同じ言葉を言いかける。たとえば「このあいだ」と話し始めたところ、同時に相手も「このあいだ」と言い出すようなときだ。たいていお互い気がついた瞬間、気まずくなって言葉をやめてしまう。

そんなとき「ハッピーアイスクリーム!」と叫ぶのだ。

そんな言葉があったことすらすっかり忘れていたのだが、『しぐさの民俗学 ―呪術的世界と心性』(常光徹著 ミネルヴァ書房)を読んでいたら出てきて、あれだあれだ、と思い出した。

小学校五年のとき、転校した先の学校で聞いたのだ。それまでわたしが通っていた学校とは、休憩時間の遊びも、クラスメイトが話す話題もずいぶんちがってとまどうことが多かったのだが、なかでもいきなりクラスメイトが「ハッピーアイスクリーム!」と叫んだときは驚いた。

どういう意味なの? なんでそんなことを言うの? どうして「アイスクリーム」なの? と、言っている子たちに聞いたような記憶がある。だが、おそらくだれもそんなことは知らなかったような気がする。そもそも偶然を頼りにするしかないことだから、何度も聞く機会があったとも思えない。それでもなんでアイスクリームなんだろう、なんでハッピーとつけるんだろう、アメリカやイギリスから来たんだろうか、アメリカにはそんなアイスクリームメーカーがあるのだろうか、といろいろ考えた記憶がかすかに残っている。

本によると、「ハッピーアイスクリーム」以外にも、言葉のヴァリエーションはいろいろあるようだ。言葉が相手と偶然重なったときに、一種のおまじないのように何かを言うことは、かなり前から行われていたらしい。それが70年代、少女マンガで取り上げられて以来、「ハッピーアイスクリーム」という言葉として小中学生の女の子を中心に広がっていった、と考察されていた。

本には1976年10月号の『プチマーガレット』に掲載された岩館真理子の「初恋時代」というマンガの一ページが掲載されている。

「いまはやってるのよ、これ。ふたりが同時におんなじことばをいっちゃったとき、ハッピーアイスクリームって先にいったほうが勝ちなの」
「いえなかったほうは」
「アイスクリームをおごるのでーす」

「〜でーす」という言い方を見ると、当時の少女マンガはこういう言葉遣いだった(音便化して「そうなのれーす」というのもあった)のを思い出す。当時小中学生のあいだで流行っていたからマンガになったのではなく、この作品を読んだ女の子たちが、その普及の手助けをした、と考えた方がよさそうだ。

それにしても、偶然、人と言葉が重なったとき、そのまま自分の言葉を続けられる人はいないだろう。多くの人は、「あっ…」と言ったきり、口をつぐんでしまうのではないか。親しい相手なら、そのあとに「ハモった」という言葉を続けることもあるだろうか。ともかく、驚いて口をつぐんだあとに、何となく気まずくなるのを避けることができるような言葉を探すのだ。

どうやら「同時に同じことを言い始める」というのは、「忌まれる」ことらしい。それもどうやら日本でだけではなく、諸外国でもあるようだ。『しぐさの民俗学』にはこんな経験談も報告されている。

 サハ(旧称ヤクート)からの留学生男女ふたりと大学の食堂へ行ったときのことである。たまたまふたりが同時に同じ言葉を口にする場面に遭遇した。そのとき女性のほうがすばやく相手の髪の毛をつかみ、早口でなにやら口走った。わたしが説明を求めると、こんな答えが返ってきた。ふたりが同時に同じ言葉を口にしたとき、どちらか早いほうが相手の髪の毛をつかんで「わたしの幸せ、いつくるの?」と尋ねる。相手は、「今日の晩」とか、「明日の晩」とか適当に答える。するといいことがあるというのだ。これを聞き、わたしは忘れていた幼い日の遊びを思い出した。わたしの故郷岐阜市では女の子たちの間で盛んにこれとよく似たことが行われていた。同時に同じ言葉を口にすると、相手の頭の上に手をのせ、その手を素早く自分の頭の上に移動して、「知恵もらった!」と叫ぶ。早い者勝ちなので先をあらそったのを覚えている。なにしろ相手に遅れをとると知恵を取られて頭の中がからっぽになるような、いやな気分に襲われるので、結構真剣だった。

「頭の中がからっぽになる」という箇所を読んで思い出すのは、お互い盛んに話しているなかで、不意に沈黙の瞬間が訪れるときのことだ。意識して黙ったわけではないのに、急に言葉がとぎれてしまう。それまでおしゃべりを続けていただけに、沈黙は余計に意識されてしまう。トリュフォーの「突然炎のごとく」のなかでは、そんなとき、ジャンヌ・モローが "Un ange passe."(天使が通る)とつぶやいていた。

同じ言葉を同時に口にするにせよ、同時に口をつぐむにせよ、気がついた瞬間、お互いの身体に緊張が走る。そうしてその緊張を解くために、緊張解除の儀式が必要となってくるのだ。

「ハッピーアイスクリーム」と先に行った方がおごってもらえる、というのも、少しでも早く緊張を解除するという目的を、遊びにまぎれて楽しく果たそうとするもののようだ。考えてみれば人と対面で話をする、というのは、結構な緊張を要求するものなのかもしれない。

ひとつの沈黙がうまれるのは
われわれの頭上で
天使が「時」をさえぎるからだ

(田村隆一「天使」)
鶏頭




2008-10-31:リユニオン

その昔、どうにも厄介な子がいた。公式の話し合いの場であれ、日常的なおしゃべりのなかであれ、その子の言うことにちょっとでも異を唱えようものなら、たちまち喧嘩腰になるのだ。

こちらとしては、あなたが嫌いだとか、言っていることがおかしいとかと言っているのではない、あなたの意見に対して、わたしはそうは思わないと言っているだけだ、と、どれだけ説明しても、反論はすべて自分に対する攻撃、批判的な意見には聞く耳を持とうとしないだけでなく、すぐに自分を被害者に仕立て上げ、同調者を募ったり、果ては泣きだしたりする始末。自分に対して異を唱える人は悪い人、いい人は自分に良くしてくれるに決まっているという世界観を持っているのだった。なんでも自分の言いなりの子分を従えて、ひとりずつなら決してつきあいにくいわけではない子たちが集まって、かなり厄介なグループを形成していたのだった。

「彼女とその仲間たち」のおかげで、簡単に決まるようなことも決まらず、結局話し合いの回数ばかりが増えていく。いまよりも折れることを知らず、筋が通らないことに我慢ができず、おまけに口の利き方も知らなかった当時のわたしは、彼女らと何度となくもめたし、首謀者である彼女を泣かしたことも一度や二度ではなかったような気がする。最後のころは、顔を合わせるのも最小限度にし、彼女の方はわたしを見かけても挨拶すらしなくなっていた。

ひょんなことから十数年ぶりにその彼女と会った。結婚したことや、子供に恵まれたが、その子がダウン症をもっていたという話は人づてに聞いてはいたのだが、雰囲気があまりに変わっていたのに驚いた。

出生前診断の話、決断と、出産までの不安、生まれてからも入院と退院を繰りかえし、手術も受けたこと。おそらく何度となく話してきたのだろう。物慣れた話しぶりではあったが、聞いているわたしは、思わず襟を正したくなるような気分だった。

同じ場にわたしが立ったとして、同じことができるものだろうか。頭が下がるような思いがする、という言い方があるが、言葉にしてしまうと何かちがうものになってしまいそうで、わたしはただ、大変だったねえ、だけどよくがんばったねえ、えらかったねえ、と、どうだっていいようなことしか言えないのだった。ときに涙を流し、ひどい対応をされた経験を話すときは昔を思わせるようなきつい口調にもなったが、彼女の動作にも、赤ちゃんを見やるまなざしにも、その言葉にはとうていおさまりそうもない、さまざまな経験があったことがうかがえた。

彼女と別れてふと変なことを思った。もし二十代のわたしが手記を書いていたら、彼女のことはまちがいなく批判的な書き方をしただろう。年より幼い、社会的に未成熟な女の子、と書いたにちがいない。

だが、いまのわたしは、しんどい決断をし、そうしていくつもの困難をくぐり抜け、これからもその困難を自分の日常として引き受けていこうとしている勇気のある女性を彼女の内に見た。

同じひとりの人間なのに。
向き合うわたしも、同じ人間なのに。

時が流れ、さまざまなことが起こり、相手が変わり、わたしが変わる。変わった相手を見て、わたしの内に変化が生じる。わたしの変化がまた彼女を変え、そうしてそれがわたしを変える。

やっぱり、時の流れは冒険なのだ。これ以上はないというほどの。

彼女の赤ちゃんはとてもかわいらしかった。かわいがられている赤ちゃんというのはとてもかわいい。その子はほんとうにかわいがられているんだ、と思った。

鶏頭




2008-10-29:もうすぐ年末

毎年、カレンダーの残りも薄くなり、文房具売り場に新しい手帳が並び始める時期になると、なにがなし、焦るような、ため息をつきたいような、なんとも複雑な気持ちになってくる。

今年初めに、この一年のうちにやろうと思ったことの数々を思い出す。本棚を見れば、目に付くところに並んでいるのは古本屋で手に入れたハインリヒ・マンの分厚い『アンリ四世の青春』『アンリ四世の完成』の二冊。今年こそ読もうと思ったのではなかったか。おそらく去年の初めにも。もしかしたら、その前の年にもそう思ったかもしれない。

目を押入れに転じれば、着なくなった古い服の整理を始め、何が入っているものやら、大学の寮の宛名の書いてある段ボール箱の整理、もはや再生手段もなくなったカセットテープやビデオテープの整理をしようと考えたことがよみがえってくる。それだけではない。毎日ストレッチとウォーキングをして、もう少し仕事を増やして貯金もしようと考えたはず。勉強して、まとまった文章もいくつか書いて……。

整理をしよう、片づけようと思いながら、本ばかりが増えた結果、押入れどころか部屋全体が物置化しつつある部屋からすごすごと退散して、わたしは本格的なため息をついてしまう。

毎年毎年、新年と四月の新学期の二回、今年やること、やろうと思うことを考えるのは、いっそやめてしまおうか、と思うのがこの時期である。やろうと決心したところで、結局自分が忘れてしまうか、忘れたわけではないけれど、かといって着手することもなく、ずるずる引き延ばしたまま300日が過ぎてしまうのをさんざん経験したものだから、また新たに決心し直しても同じこと……という気分に否応なく襲われるのである。

昔からわたしは計画を立てるのが好きで、小学生のころも一学期の終わりには、毎年夏休みの計画を立てていた。夏休みを通してやること。日々のスケジュール。計画を立ててもなかなか、というか、そのほとんどは実行できず、日が過ぎるに連れて、何度も計画を立て直した。いっそ計画を立てるより、そのあいだに何かやったほうがいいのではないか、と思っても、半ば意地のように立て続けた。

考えてみれば、当時にくらべていま、どれほどのことを知り、どれほどのことができるようになったのか。計画を立てるだけ、計画倒れの数々がここまで積もりに積もって、このていたらくになってしまったのではあるまいか。

だが、計画を立てるということは、先に希望を抱くということなのだ。たとえ夏休みの残りが一週間になったとしても、その残りを少しでもちゃんとできるように、それも結局ダメになる、とわかっていても、立てつづけたのだ。

自分に望みがあるのなら、自分がそのように生きたいと願うしかない。できなかったことがまた増えていくだけかもしれないけれど、それでも何かをやろうとすれば、つぎにやるべきことを望まなければ、やるべきことを決めることもできない。

ハインリヒ・マンは本棚に並べておけば、いつかそのうち手に取る日もくるかもしれない。今年は無理で、来年ももしかしたら無理かもしれないけれど。

鶏頭




2008-10-26:自己責任?

一人っ子で育った子供とちがって、きょうだいがいる環境で育った子供は、果物であろうがお菓子であろうが、冷蔵庫のゼリーやプリンやヨーグルトであろうが、冷凍庫のアイスクリームであろうが、「これは自分ひとりだけのものではない」ということを骨身にしみて知っている。自分がどれだけそれを食べたくても、ひとりじめすることは許されない。「もう少し食べたい」と思っても、決して思い通りにはならず、下がいればなおさら、ほしがれば上は譲ってやらなければならない。きょうだいがいなければなあ、一人っ子だったらなあ、せめて下がいなかったらなあ、と、ため息をつく経験ばかりが増えていく。

大学に入って最初に思ったのは、自分は自由なのだ、ということだった。これからはテレビだって好きなだけ見られるし、帰りが遅くなっても、でっち上げる理由に頭を悩ませなくてもいい。夜更かししようが朝寝をしようがかまわない、ハーゲンダッツのパイント入りのパックだって好きなだけ食べていい、一度にまるごとだって食べられるのだ。だれもわたしに文句は言わないし、わたしのやりたいことを止めることはできない。

ところが結局、果物だのお菓子だのゼリーだのプリンだのアイスクリームだのを思いっきり好きなだけ食べるということをしなかった。ただの一度もだ。ハーゲンダッツのパイント入りパックさえ、買うことはなかった。

というのも、そんなことをしてしまうと、自分の生活費にたちまち事欠くからなのだ。自分の時間にしても同じこと。もちろんどう使おうが自分の自由であったとしても、その結果はかならず自分のところに返ってくる。どれほど引き受けたくなかろうが、まるで自分宛に手紙を書いたように、かならず自分のやったこと・やらなかったことは、自分の元に戻ってくる。何かひとつでもことを起こそうと思えば、そうするとどうなるかという結果を、まず考えなければならず、結局は「自由」になることなどなかった。「自由」には、カスタードプリンにカラメルソースがかかっているごとく、もれなく「責任」が一緒についてくるのだった。

それまで親と一緒にいるときは、「責任」という言葉はたいてい説教のなかで口にされるものだった。テストの点数が悪ければ、それは勉強しなかった自分の「責任」、忘れ物をしてしまえば、前の日からちゃんと準備をしておかなかった自分の「責任」、悪い結果が出れば、かならずほかならぬ自分の責任であることを指摘され、「もとはといえばだれが悪いのか」と自分で認めさせられる羽目に陥る。そのころは自由というのは責任とは縁もゆかりもない言葉、むしろ、責任を負わなくてもいいような状態とばくぜんと思いこみ、あこがれていたのだ。

ところが説教する親はいなくなっても、事態は一向に変わらない。何かをすれば、かならず結果はついてまわる。ことを起こせば賞賛か認可か無視か非難が下される。説教されない自由こそは手に入れたものの、その代わり、自分の望む評価を得ようと思えば、あらかじめ自分で自分を「説教」しなければならなくなる。責任をいやがってそこから逃げようとすれば、自由に何かができる時間も一緒に減っていく。まるで天秤棒をかついでいるようなものだ。「自由」の度合いが増えれば「責任」も重くなる。

ところで、いつのまにか市民権を得たのか、しばらく前からあちこちで目にするようになった言葉に「自己責任」というのがある。だが、なんだかこれは奇妙な言葉だとずっと思ってきた。

これは「馬から落ちて落馬」式の畳語だ。責任の基本は、行為者が、自分の行為の結果に対して取るものである。その行為は行為者以外に責任の取りようがないのだから「自己」なんていう言葉をつけなくても、責任はすべからく「自己責任」でしかあり得ない。

もちろんその人が子供だったりして誰かの監督下にある場合、その人以外にも責任を負うべき人は出てくる。それでも、その人の年齢に応じて、行為の責任の一部をその人が負わなければならないことに変わりはないのだ。

ところがこの言葉を他人に向かって言う人は、「自己責任」と言いながら、実は「結果がどうなっても自分は何もしてやらないからな」「金なら出せん」「力は貸さない」「おまえのために何もしてやるつもりはない」と言っているに過ぎない。「助けてやらない」という代わりに「自己責任」という言葉を使う。「金は出せんが、それはおまえが蒔いた種だからだ」という言い方で、出せない自分を正当化している。

いや、そのことの当否を言っているのではないのだ。そう言いたくなるような場面だってきっとあるだろう。だが、なんともそういうことをしたくなる精神というのが、ミミッチイなあ、と思っちゃうのだ。「金なら出せん」でいいじゃないか。「力を貸してくれ」と頼まれて、「そういうことはできない」というのなら、それでいいんじゃないか?

「自己責任」という畳語まで使って、わざわざ相手を非難するのなら、非難するという行為の責任も負わなければならないのではあるまいか。もちろん説教する自由はある。だが、説教した責任は負わなければならない。それこそ、「説教はご自由に。ただし、自己責任で」。だがどうやってその責任を取るつもりなんだ?

確かに人に頼らなければならない情況は、あまり望ましいものではあるまい。自分の行為に十分に責任を負える人なら、他人に頼る必要などないのだから。けれども、そういう情況に陥ることで、その人は自分の行為に責任を取っているとも言えるのだ。

手を貸す余力がなければ――あるいはそんな気になれないだけでもいいのだけれど――、「できない」といって断るだけでいいんじゃないだろうか。少なくとも、これまで誰かに一度でも迷惑をかけたことがあるような人は、「自己責任」などということは言わない方がいいような気がする。

何にせよ、一度も人に迷惑をかけたことのない人はいないだろうし、仮にいたとしたら、逆にわたしはそんなおっかない人とはあまり仲良くなりたくはない。

鶏頭




2008-10-25:しゃべるカラス

先日のこと。
小雨の降る朝の重い空気の中を自転車で走っていた。裏通りの細い道なのだが、抜け道として有名になってきたのか、それとも親切なカーナビが教えてくれるせいなのか、最近は交通量がずいぶん増えてきた。歩道もない、大型車が通れば自転車は溝すれすれまで寄らなければならない一方通行の曲がりくねった道なのだが、表通りを走るよりは5分ほど時間が短縮できることもあって、結局いつもその道を利用することになる。

途中何ヶ所か交差点がある。同じように一方通行の道と交差している、信号も何もない、見通しの悪い交差点で車がとぎれるのを待っているときだった。頭の上で、「オハヨウ、オハヨウ」と小さな声が聞こえるのだ。オウムやキュウカンチョウのしゃべる、独特の声音である。わたしは顔を上げて声のする方を確かめた。

「オハヨウ、オハヨウ」と、また声がした。まちがいない。電線にカラスが三羽留まっていて、そのうちの一羽が「オハヨウ、オハヨウ」と言っているのだ。

視界は良好とはいえなかったが、どう見てもその黒い鳥はカラスだった。くちばしの先まで真っ黒だった。時間に余裕がなかったから、車の波がとぎれたところで道を渡ってそこを去るしかなかったのだが、しゃべるカラスのことは気にかかった。

カラスって人間の言葉をまねるんだろうか?
確かローレンツの『ソロモンの指輪』のなかに、「ロア、ロア」と人間の声で呼ぶカラスの話が出てきたような気がする。それを確かめたくて、家に帰るとカバンを置くのももどかしく、真っ先に本棚に向かった。

 周知のように、インコ類とカラス類は人間のことばをまねて「しゃべる」。しかもそのさい、音声とある特定の体験との思考的結合もときには可能である。…カラスやインコはいろいろな音声をみなきちんと区別して発している。そこには明らかに一定の、ほぼ(ほぼ!)意味をなした思考の結合が存在するのである。…

「話す」鳥が人間のことば、それも一個の完全な文章を、一回ないし、せいぜい二、三回聞いただけで覚えてしまった例を、私はもう一つ知っている。それは一羽のズキンガラスの場合であった。こいつの名は「ヘンゼル」といった。…

あるときヘンゼルは、何週間もの間姿をあらわさなかった。ふたたび彼が帰ってきたとき、私は彼が足の指を一本折っていて、それが曲がったままなおってしまっているのに気がついた。この曲がった足指こそ、この人語を話すズキンガラス、ヘンゼルの物語のポイントである。つまりわれわれは、彼がどうしてこんなけがをしたのかを知った。だれから? ヘンゼルがしゃべってくれたのだ! まさかと思う人は思うがよい。長い間、姿を消していたヘンゼルは、ひょっこりわれわれのところへ帰ってきた。そのとき彼は新しい文章を覚えてきた。彼はいたずら坊主のスラングで、こんなふうに口走った――「キツネなわでとったんや」

コンラート・ローレンツ『ソロモンの指輪』日高敏隆訳 早川書房

自分が負傷した原因を教えてくれるカラスというのは、想像するだけで愉快になってくるが、ローレンツはヘンゼルが自分が話すことを理解しているわけではない、とはっきり断言している。「たしかにある発声をきわめて明確な思考結合によってある事件と結びつけることはできる。だが、その能力をなんらかの目的と結びつけることはけっして学習できないのだ」と。

そこから直線距離にして100メートルぐらいのところに小学校がある。毎朝「おはよう」と挨拶を交わす子供たちの言葉を聞いているうち、カラスが覚えたとしも不思議はない。

「朝」を察知したカラスが、朝という情況と「オハヨウ」という言葉を結びつけていた可能性はあるが、かといってわたしに挨拶してくれたわけではない、ということだろうか。

だが、同じく交差点で待っていた車の運転手は別として、ほか人間はいなかった。それを考えると、意味はわかってはいなくても、わたしのために「オハヨウ、オハヨウ」と言ってくれたのかもしれなかった。

そういうときはどう反応するのがよいのだろう。ローレンツは同じところでしゃべるオウムのことも書いている。

彼はちゃんと意味にあわせて「おはよう」と「こんばんは」をいった。そしてお客が帰ろうとして立ちあがると、人がよさそうな低いしゃがれ声で「じゃあまたね」というのであった。ふしぎなことにこれをいうのは、客がほんとうに帰ろうとして腰をあげたときだけなのである。…彼もまた無意識的に与えられたごくかすかな合図によって、客が「ほんとに帰る気」になったことをみぬくのだ。それはいったいどんな合図なのだろう? われわれにはまるきりわからない。わざと帰るふりをしてそのことばをいわせてみようともしたけれど、一度も成功したことはない。だが人がそしらぬ顔で出ていって、あいさつもせずこっそり帰ってしまおうとすると、とたんにあざけりに近い声がその人の耳にとびこんでくる――「じゃあ、またね!」

家にいたネコの一匹も、同じようなところがあった。そのネコは、どういうわけかわたしがいないときは絶対にわたしの部屋に入らない。朝、学校へ行くときにせよ、帰ってから塾に行こうとするときにせよ、わたしが部屋から出ていくときは、かならず足にまとわりつくようにして一緒に部屋から出ていくのだ。それがちょっとトイレに行ったり、下へお茶を取りに行ったりするような場合であると、絶対に動こうとしない。試しにわざとカバンを下げて部屋を出てみても、「じゃ、行って来るね」と声をかけてみても、決してネコはだませないのだった。

動物は言葉を解さないから、人間がどのような言葉をかけても、その言葉を理解することはないだろう。だが、その言葉を発する人が、どのような表情を浮かべ、どのような声の調子で自分に語りかけるか、それは自分に対してどのような気持ちを抱いているか、彼らにはそれがわかるのだ。だが、「オハヨウ、オハヨウ」というあいさつは、彼らの方から人間の世界に歩み寄ろうとしているのではあるまいか。こちらがいいかげんな気持ちでいたら(?)カラスには見抜かれてしまうのかもしれない。誠意をこめて「おはよう」と言い返したらいいんだろうか。高いところから聞こえてくる声に、いったいどう返事をしたものか、頭を悩ませているところだ。

しゃべるカラスの目撃談がありましたら、どうか教えてください。

鶏頭




2008-10-09:赤か黒か

幼年童話に『いやいやえん』という大変愉快な本がある。わたしが小学生の低学年の頃にはあったので、ずいぶん息の長い本だが、つい先日も本屋の店頭で見かけたので、おそらくいまでも愛されているのだろう。子供というのは同じ本を飽きずに繰りかえし読むものだが、『いやいやえん』をわたしが読んだのは、おそらく五百回ではきかないだろう。連作短篇の体裁を取っているのだが、すべての章のあらすじが言えるし、いまだにやまわきゆりこの挿絵は、そのすべてを頭の中に思い描くことができる。

保育園の年中組の「しげる」という男の子が主人公なのだが、この子が先生の言うこともお母さんの言うこともちっとも聞かなくて、そのくせ自分を食べようとするおおかみのまんまと裏をかいたり(というか、本人にはそのつもりはちっともないのだが、結果としてそうなってしまう)、ひとりだけでおそろしい黒い山にどんどん入っていって、その山に住む鬼の子と友だちになってしまうような、おもしろい男の子なのだ。

わたしがそれを読んだのは小学生のときで、当時のわたしからしてみれば、保育園(幼稚園)時代なんて、つい昨日のようなものだ。しげるたちのちゅーりっぷ保育園も身近に感じられてもよさそうなものなのだが、全然そんなことはなかった。まあその保育園にはこぐまもやってくるし、積み木を並べて船を造り、年長さんの男の子全員でクジラ取りにいくような保育園なので、ちっとも身近に感じなかったのかも当たり前かもしれない。

ただ、そのなかでたったひとつ、身近に感じたのは、しげるがおねえさんのお下がりの赤いシャツを着せられそうになって、赤は女の色だからいやだよう、と駄々をこねる場面だった。この感じはよくわかった。いまでこそ男の子の着る服も全体にカラフルになって、デザインも女の子と変わらないくらい洗練されている。赤いシャツを来ていたら「女色(※おんないろ、と読む)」などと言われるようなことはないだろう。ピンクだってオレンジだっていまの小学生の男の子は平気で着ている。だが、わたしの頃まで、赤やピンクやオレンジは「女色」で、青や緑や紺や黒は「男色(これも当然おとこいろと読む)」という区分ははっきりしていた。黄色は学童帽や傘や雨合羽の「安全の色」で、この色に関してはユニセックスなのである。

わたしの弟も、赤ん坊の頃はお下がりのベビー服を嬉々として(ということはないだろうが)着せられていたが、物心つき始めると、「女の服なんか絶対着ない」と言い張るようになっていた。それどころかこまかいボーダーのなかに、赤い線がちょっと混ざっているだけで、「女の服」と言っていたぐらいだ。

子供というのは、実に保守的で、頑固で、融通が利かない生き物なのである。だからわたしは子供の発想が柔軟だ、などというのを信じない。柔軟はむしろさまざまなことを経験するなかで、獲得する資質であるように思っている。

おっと、話がそれた。

ところがわたしは赤やピンクやオレンジが好きではなかった。絵でも、深い緑や青の使ってある絵が好きだった。だが、女子である以上、ランドセルは「赤」しかないと思いこんでいた。赤以外のランドセルを自分が背負うところは夢にも想像できなかったのである。だから小学校に入学するときも、当然ランドセルは赤かった。ほんとうに赤信号の赤、消防自動車の赤、真っ赤なランドセルだったのである。

わたしはださい(当時はまだそんな言葉はなかったが)色だ、と思っていた。それでも自分は女なのだから、仕方がない、とあきらめていたのだ。ところが登校して驚いた。「赤」というカテゴリーにも実にさまざまな色合いがあるではないか。なかでもくすんだチョコレート色のランドセルがかっこいい、と思った。紺色の制服に実に映えるのだ。ああ、あの色も赤なんだ、と目から鱗が落ちるような思いだった。

ところで、なぜ女の子のランドセル、ランドセルばかりではない、うわばきの爪先のゴム部分の色も、筆箱も、トイレのサインにいたるまで、赤なのだろう。この赤は「女である」ことを示す記号になっているような気がする。

なぜ女が赤なのか、それに対して男は「黒」なのか。
ごぞんじの方、教えてください。

鶏頭




2008-10-08:いつだって明るい方を見よう

80年代半ば、核巡航ミサイル「トマホーク」を積んだアメリカ海軍の艦船が横須賀に来るということがあった。

わたしの周囲では、にわかに反核運動が盛り上がり、学習会が開かれたり、寄港に反対する署名が集められたりした。同じクラスの子のなかにも、そういう学習会や集会に参加するうち、ハンストの支援行動や、デモやに参加する子も出てきた。よく覚えてないのだが、最初の頃はわたしもおもしろがって、何度かそんな話を聞きに行ったこともあるような気がする(わたしも名前を知っている作家の講演会もあって、要はその作家が見たかったのだろう)。

そういうところで話を聞いていると、なんだかトマホークの来航を許したら、その次の年にも戦争が始まりそうで、最初はひどく怖くなった。それは大変だ、なんとか阻止しなければ、と思って、学習会にも参加したのだが、次第になんだかおかしいぞ、という気がし始めた(もしかしたら親か誰かに指摘されたのかもしれない)。

日本の軍事費がはねあがっているグラフを見せられ、自衛隊の軍備は世界第何位、などという話も聞いた。「もう戦後じゃなくて、戦前なんだ」と言われたのも覚えている。聞けば聞くほど「そこで話されていること」と、「一歩外へ出てみた世界」とのギャップが広がるような気がした。

いったいどちらがほんとうなのだろう。あの人たちは、世の中の人間は気づいていない、とか、真実は政府によってインペイされている、と言っているけれど、ひとにぎりの人しか知らない「真実」というのは、果たして「真実」と呼べるのだろうか、みたいなことを、考えていたのではなかったか(そんな言葉遣いはできなかったけれど)。

わたしの周囲の子たちはどんどん盛り上がり、署名板を手に、戦争を許すのか、トマホークの来航に反対するか、みたいな詰め寄り方をするようになった。だが、周囲の盛り上がりとは逆に、わたしはどんどん冷めていった。わたしが署名をしようがすまいが来るものは来るでしょ、と言ったら、「敗北主義者!」とまで言われてしまい、トマホークの来航より、すっかり変わってしまったその子たちの方になんともいえない違和感を覚えたのだった。

その子たちがどれだけ一生懸命に署名を集めたりビラをまいたりしても、やはりトマホークは横須賀に来て、その内のひとりは「なんで来るの」と泣いていた。わたしは、たかだか自分たちが署名したりデモしたりするぐらいで情勢が変わると思う方がどうかしている、と思う反面、そう思う自分がいったい何をしたのか、何を考えたのか、自問せざるをえなかった。何もしない人間が、何ごとか懸命にやった人間(やり方は賢明ではないにせよ)をバカにするようなことをしていいんだろうか。少なくとも、わたしがその子たちを軽んじることはしてはいけないだろう。そんなことも考えたような気がする。なんともいえない複雑な思いといっしょに、その出来事はわたしに記憶されたのだった。

そのあと、予想もしなかったことにソ連が崩壊して、社会主義を標榜する国の多くが雪崩を打ってその看板をおろしてしまった。当時、その子たちがしきりに言っていた「戦争」は、国対国のものではなくなって、局地的な民族紛争に性格を変えていった。

91年には湾岸戦争が始まり、物心ついてから初めての戦争に、連日わたしの目はテレビに釘付けになった。アメリカを中心とする多国籍軍の圧倒的な戦力を見ながら、もちろん宗教や民族をめぐる紛争はこれからも続いていくだろうが、それがどういう方向に進んでいくにせよ、もはや昔のような国家同士の戦闘にはなっていかないだろう、という気がした。そのころ、トマホークのときに講演を聞きに行った作家が、現在の日本の情況と第二次世界大戦前夜の日本の情況は同じだ、と、トマホークのときにも言っていたことをまた言っていて、なんだか滑稽な気がしたものだった。この人は、これから何かあるたびに、いまの日本の情況は、開戦前夜とそっくりだ、と言い続けるのだろう、と。

わたしたちは未来に対して漠然とした不安を抱いている。
やがてくるかもしれない「第三次世界大戦」にせよ、いま、連日新聞をにぎわしている金融不安にせよ、北朝鮮の核ミサイルにせよ、あるいはまた地球温暖化にせよ、この漠然とした不安を形に変えたものなのだろう。だから具体的にはそのことのどこがどう問題なのかよくわからなくても、わたしたちの不安を吸収して、いよいよそれは大きくわたしたちにのしかかっていく。

ちょっと前にネグリの『帝国』を読んだのだが、それには《帝国》は、市場を外部へと求め、その外部を内部化するというプロセスを繰り返していった、そうしてとうとう市場はグローバルなもの、「外部は存在しない」という状況にまで至った、と書いてあった。わたしは経済的な知識はほとんどないので、それがどこまで正しいのか、当を得た分析なのかどうか評価できないのだが、わたしの目にはまったくネグリは正しいことを言っているように思えた(そこはそれ、説得されやすい素直な性格ゆえ…)。

なんというか、「ものを作り、それを売り、資本を蓄積する」ことで創出されるような豊かさというのは、きっと二十世紀までで終わってしまったのだと思う。だから「景気を回復させる」のではなく、別の考え方をするしかないのだろうと思う。その別の考え方がなんなのか、わかればわたしはこんなところでこんなことをしていないのだが(笑)、きっと「景気」は、従来の意味ではよくならない。たぶん、良くなる−良くならないという考え方の外に出ることが、大切なのだと思う。

金融不安だろうがなんだろうが、人が生きるということは、ものやサービスを消費するということだ。その「もの」は生産されなければならないし、サービスは提供されなければならない。そういう意味で、経済活動はこれからも続いていくのだ。変なことを言っているような気がしてきたので、わかりもしない話をするのはやめるけれど、とにかく日常の暮らしというのは、続けていかなければならないし、続いていく。そうした等身大の経済は続いていく。

続いていく日常は、人の心に一種の平衡をもたらす。もちろん不安の根元は、この日常が奪われたらどうしよう、と思うことにあるのだが、「奪われるかもしれない」と思うから不安がふくれあがるのであって、不安の正体というのは、実のところ実体のないものだ。実体がないからこそ、根を断つことが不可能なのである。

大学生になって、家を出てしばらく、夜になって点灯する家々の灯りが嫌いだった。あの下に「平凡でどうでもいい日常」があると思ってぞっとしたものだ。当時のわたしは、何かもっと激しいものとか、真実とか、確かなものとか、芸術的なものとか、とにかく日常の向こうにある、もっと身を焦がすようなものを求めていたのだ。

いま振り返ってみると、なんだかとってもこっぱずかしいのだが。

でも、自分が何とか自分の生活を成り立たせようと苦労するなか(人に迷惑をかけたり、不義理をしたり、怒られたり、顔向けできないようなことをしたりしながら)、「どうでもいい日常」というのが、実はすごくいい(なんてほんとうはそんなことに力を入れてはいけないのだけれど)ものだということがわかった。

たぶん、わたしも歳を取った、ということなのだろうと思う。それでも、わたしはこれだけのことをわかるまで、それだけの時間が必要だった。

気持ちはさまざまに揺れ動く。逆に、揺れ動くから気持ちなのであって、揺れ動かなくなってしまったときの方が問題だ。けれども揺れ動く気持ちを底でささえるのは、日々の生活なのだろう。

日常は、ドラマとは似ていない。何が起こっても朝は来るし、時間がたてばお腹がすく。お腹がすけばご飯だってつくらなければならないし、食べたら食器は汚れる。洗い、片づけ、掃除する仕事はついてまわる。そういう「毎日かならずやらなければならないことども」というのは、ふだんわたしたちの意識する幸わせとか不幸せとかいうことと、ちがう位相にあるのかもしれない。それでも日常を回しているのはそんなことだ。

幸せも、不幸せも、本人がそう思いこむことによって成り立っているのだとしたら、明るい方を見ようではないか。第二次世界大戦前と、いまの国内情勢の類似点なら、きっといつだって見つけることができる。同じように、明治時代との類似点だって、江戸時代との類似点だって見つけることができるはずだ。

鶏頭




2008-10-07:変わること変わらないこと

わたしは藤沢周平が好きで、疲れてあまりものを考えたくないようなとき、だらだらしたいようなときに、適当なところを開いて読み始めることが多い。たいてい何度も読んでいるので、どこを開いても、たいていの登場人物とは顔なじみなのである。そのままその短篇を読むだけで切り上げることもあるが、そこから最後まで読み通したり、『用心棒日月抄』などのような連作短篇だと、ついつい最初に戻って読み直してしまったり、獄医立花登シリーズだったりすると、ついでに山本周五郎の『赤ひげ診療譚』なども読み返してしまったりして、気がつけば、ああ、シマッタ、こんな時間だ! と泡を食う羽目になることもある。それでもたいてい、読み進むうち、せせらぎか何かを見入ったときのように、気持ちの底の方が澄んできて、頭のなかがうまく切り替えられる。

ただ、それとは別に、『蝉しぐれ』などの武家物に顕著なのだが、主人公はところどころで封建社会のありようそのものに疑念を抱いているような箇所が気になって、これはどう考えても封建制以外の社会制度を知っている人間の考え方、近代人のものの見方だなあ、と思うのだ。こんなふうに、当時の人が、いまの自分のありように疑問を抱いたりはしなかっただろう。いつもではないのだが、ひとたびそんな方向に視点が向かってしまうと、その作品世界の根幹が揺らぐような気がして、気持ちが少し離れる。そうして、時代に生きた人の考え方というのは、どうしたってわからないんだろうなあ、という気がする。

だが、逆に、昔の人が書いた本を読んで、現代にあまりにぴったり当てはまるために、驚いてしまうこともある。たとえば『徒然草』の百九十四段など、その意味でたいそうおもしろい。その段では兼好法師は嘘をつかれた人を分類するのだ。ここでは大意を記す。

嘘をいいふらしてだまそうとする人がいたとする。それに対して人はどんな態度を取るものだろうか。
1.その嘘を信じてだまされてしまう人
2.嘘を深く信じて、さらに自分の嘘を付け加えてしまう人
3.関心を持たない人
4.信用するわけでもなく、かといってしないでもなく、考えこんでしまう人
5.ほんとうではないだろうと思いつつも、人が言っていることだからそうかもしれないとそれ以上考えることをやめてしまう人
6.推測してわかったふりをして、利口そうにうなずいてほほえんでいるが、実際にはまるでわかっていない人
7.推測することで嘘を見破り、「嘘だな」と思いながらも、自分の考えも間違っているかもしれないと自信のもてない人
8.「別にいいんじゃない?」と手を打って笑う人
9.嘘と知りながら、確実にわかっている領域すら知らないふりをして黙っている人
10.嘘の意図するところを理解し、そもそも嘘をついた人と同じ気持ちで、人を騙すことに協力する人

兼好法師は、「達人」から見れば、嘘に騙される人というのは、このように簡単にわかってしまう、というふうに話を続けていくのだが、確かにこの分析は鋭くて、書かれてから700年近く経った今日でも、「こんな人はいないよ」と思うタイプもなければ、これよりほかのタイプというのも思いつかない。嘘とわたしたちの関係は、この700年ほどのあいだに、いささかも変わっていないのだろうか。

こう思ったのはわたしだけではなかったようで、いまから70年ほど前に寺田寅彦はこんなことを書いている。

これは「嘘」とは事変るが、アインシュタインの相対性原理がまだ十分に承認されなかった頃、この所論に対する色々な学者の十人十色の態度を分類してみると、この『徒然草』第百九十四段の中の「嘘に対する人々の態度の種々相」とかなりまでぴったり当て嵌まるのは実に面白いと思う。科学の事でさえそうである。いわんや嘘か本当か結局証明の不可能な当世流行何々イズムなどに対する人々の態度には猶更よくあてはまるであろう。読者は試みに例えば、マルキシズムに対する現代各人各様の態度を「あまりに深く信をおこして」以下の数行にあてはめて見るとなかなかの興味があるであろう。ありとあらゆる可能な態度のヴァリアチオンが列挙してあるので、それらの各種の代表者を現代の吾々の周囲から物色するとすぐにそれぞれの標本が見付かる、そうして最後に自分自身がやはりそのうちのどれかのタイプに属することを発見して苦笑する人が多いであろう。

初出が1934(昭和9)年のエッセイで、1905年と1916年に発表された「アインシュタインの相対性原理」が「まだ十分に承認されなかった頃」というのは、書かれた時期より十年ほどまえ、というふうに理解すれば良いのだろうか。ともかく、現代では大学で物理学の授業として普通に扱われている相対性理論が、「嘘」と同じ扱い(「事変る」と寺田先生は注解をつけておられるが)をされていた時期があったことを思うと、感無量である。♪相対性理論だって、マルキシズムだって、自然主義だって〜(とは寺田さんは書いていないが)みんなみんな、このどれかの態度を取るんだ、友だちなんだ〜、というわけである。いや、友だちではなくて、達人には見透かされちゃうんだ〜、と言うべきか。

理論は時代を経るごとに、新たな証明がなされたり、発見によって補強されたり、逆に反証が見つかって、うち捨てられたりするものだ。だが、自分の知らない理論をつきつけられた人の態度は、仮に相対性理論のモデルを使って小学生が実験するような時代が来たとしても、嘘をめぐる人間の対応と同じ、ということなのだろう。

理論やイズムは新しくなったとしても、人間がとまどうことには変わらない。そう考えていくと、人間の中に変わる部分と変わらない部分があるのではなくて、人間の本質的な感じ方というものは、結局変わらないからこそ、社会システムが変われば、それに対応する人の感じ方、考え方という面では変わらざるを得ないのかもしれない。

鶏頭

2008-10-05:図書館にて

先日、図書館で書庫請求をした。ちがう分野の本を三冊頼んだので、ある程度時間がかかることを見越して、貸し出しカウンターの端っこに立ったまま、一緒に借りる本を読んでいた。そこに同じように書庫請求におじさんがやってきたのである。

職員が「取ってきますので、ここでお待ち下さい」と言うと、そのおじさんは「ほかにも借りる本があるから取ってくるわ」と言う。そこで職員が「では、その本をお貸りのときに、一緒に書庫請求なさってください」と言うと、「何でいま取ってきてくれんのか」と言う。職員(若い女性だったのだが)は一瞬ひるんで、「そうすると、貸し出し手続きが一度ですみますから」と言った。するとそのおじさんは、「あんたが取ってきてくれるあいだに、わしが借りる本を取ってくりゃええんやろ」と言い置いて、書架の方へ行ってしまった。その職員はちょっとため息をついて、書庫に下りていくと、どうやら見つけやすい本だったのだろう、すぐにそれを持って戻ってきた。おじさんの姿はもちろんまだない。その職員は、あたりを見回して、おじさんの姿がないことを確かめると、その本を脇に置いて、貸し出し業務に戻った。

すると、つぎにやってきたのも書庫請求の、これまた同年輩、リタイアしたばかり、という年格好のおじさんである。その職員は、先ほどよりやや強めに「ここでお待ち下さい」と言った。すると、別人であるにもかかわらず、そのおじさんも「借りる本を探してくるから、その本、こっちへ持ってきといて」と言った。「持ってきたら呼び出ししてくれりゃわかるから」

職員は諦めたように、「館内呼び出しは非常用ですから、ここからお呼びして声の届く範囲にいらっしゃってください」と言って、書庫へまた下りていった。

今度もまたすぐ見つかったらしく、その人は雑誌を片手に戻ってきた。
「××さん」と呼んだが、もちろんそのおじさんの姿はない。最初に取ってきた本の上にその雑誌を乗せて、疲れたようにため息をつくと、その人は貸し出し業務に戻った。

そこでわたしの本を探しに行ってくれた人が「お待たせしました」と取ってきてくれたので、それからあとどうなったかは知らない。書庫請求というのは、カウンターで取ってきてくれるのを待つものだとばかり思っていたわたしは、二回続けて同じことをした人がいたのにすっかり驚いてしまった。

自分が待つのはいやだ。まあここまではいい。誰だって待たされたくはない。だが、そこで自分が待たされるのを拒否すると、逆に、他の人を自分が待たせることになる。わたしが驚いたのは、たったそれだけのことに思い至らない人がいる、ということだった。

他の人に自分の便宜を図ってもらうようなときには、相手の手を煩わせる割合を最小限に留めるよう、自分も協力する。このことは、だれでも成長過程において学んでいく種類のことなのではあるまいか。たとえば教科書を忘れて、隣のクラスの友だちに貸してくれるように頼むときに、「自分はちょっと外で遊んでくるから、自分の席に教科書を置いておいて」と頼む子はいない(いたらつぎから貸してもらえない)。もしかしたら企業の管理職というのは、人を待たすことに何の痛痒も感じなくなる、という一種の職業病を罹患させるのかもしれないが。

実際のところ、そういう人の割合がどれほどを占めるのか、わたしにはよくわからない。たまたま同じ件を続けて目撃しただけなのかもしれない。だが、自分の行動が、非常にわかりやすく「身勝手」であることに気がつかない人が、あちこちで目に付くようになったことは、何となく、日々感じるところではある。

一方で、よくわからない犯罪がつぎつぎと起こっている。耳目を驚かせるような事件が、ひとつ起こったかと思えば、どう考えてよいのかもよくわからないうちにまた別の事件が起こる。小さな子どもが性犯罪の犠牲になったかと思えば、親に殺される子供もいる。その犯人もつかまらないうちに、新聞の紙面を別の大きな事件が埋め尽くす。

もはやひとつひとつの事件に衝撃を受けることもなく、まるで疲労が蓄積していくように、よくわからない事件から受ける違和感だけが積み重なっていく。そこから来るのは、自分たちが生きている社会は、よくわからない、自分にはどうしようもできない場所だ、という意識、まるで無力な子供のような意識だ。無力な子供がそんなおそろしい社会で生きていこうと思えば、できるだけ巻き込まれないように、自分を傷つけないとわかっている少人数だけとつきあって、世間など締め出して、ささやかな世界を快適に整えていく、ということになってしまう。

だが、確かにいろんな事件が起こっているとしても、自分が現実に生きている世界というのは、実際のところ、ごくごく狭いものなのである。自分が果たすべき責任だってあるし、自分にできることもある。自分が何かをすることで、人を助けることもできるし、自分の周囲を変えていくことも、人を動かすこともできるのだ。

あふれるほどの報道で、わたしたちは現実の距離感を失っているのではないか、と思うのだ。自分の関われる範囲で、自分にできることはまちがいなくある。そうした責任を果たすことが、わけのわからない犯罪を減らしていくことにもどこかでつながっていくような気がするのだ。もしかしたら、風が吹けば桶屋が儲かる、ぐらいの因果関係かもしれないのだけれど。

鶏頭




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