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鶏的思考的日常 ver.29〜めでたさも 中ぐらいなら 御の字か 編〜



2009-1-26-27:火事の記憶

火事に遭ったことがある。当時、わたしのいたマンションの真下の部屋から火がでたのだ。

冬の朝、洗濯物を干そうとベランダに出たところで、物が焦げるような臭いに気がついた。外を見ると、下の部屋から白い煙が上っている。一瞬、バルサンを焚いているのかと思ったが、バルサンは部屋を閉め切って焚くものだし、焚き終えて換気をしているのなら、あんなに「モウモウと立ち上る」という状態にはなるまい。第一、この臭いは明らかに何かが燃えている臭いだ。
火事だ!

すぐさま管理人室に電話をかけた。ところが通じない。部屋を飛び出すと、下から盛んに灰色の煙が上ってくるのが見える。ベランダの比ではない。隣のドアフォンを鳴らして「下の部屋が火事です」と知らせた。当時隣の人は、そこのマンションの自治会の役員をやっていたおじいさんだったのだ。非常ベルを鳴らし、「わたしは消防署に電話をかけます」といって部屋に戻った。隣のおじいさんは下へ降りた。

消防署に電話をかけた。住所を告げているあいだにも、煙の勢いは盛んになるばかりで、色もずいぶん濃くなってきた。部屋にも煙がどんどん入ってくる。なんだか足の裏も温かくなってきた、と思ったら、パリーンと窓ガラスの割れる音がした。電話をし終えて、まず、開けたままになっていた窓を閉めようと窓ガラスに近寄ると、真っ黒い煙とすすが入ってこようとしている。わたしはあわてて窓を閉め、携帯と現金と上着とノートパソコンを抱えて、出がけに玄関脇の電気のブレーカーを落として外に出た。

部屋を出ると、非常階段付近は黒煙が充満していて一寸先も見えない。口を袖口で押さえて、マンションから外へ出た。泣きたくもないのに、かってに涙が流れる。そこへ隣の家の奥さんが、「主人は、主人はいませんか」と探しているのに出くわした。ご主人が消火活動をしようとして煙に巻かれたのではないか、と心配していらっしゃる。うわ、わたしだけ逃げ出したみたいになっちゃったんだ、どうしよう、と焦りだしたところで、やがて隣のおじいさんを含めて数名の人が固まって下りてきた。なんでもそこの家は無人で、玄関に鍵がかかっていたという。みんなで協力して風呂場の窓を割って、そこから消火器を突っ込んで、消火しようとしていたそうだ。だが、煙があまりにひどくなったため、あきらめてそこを離れ、みんなが避難している場所にやってきたという。

消防車が来た。救急車も来た。ところが玄関の扉が開かないらしい。管理人さんや自治会の人たちも右往左往するばかりで、合い鍵がない、部屋の主に連絡もつかない、という怒鳴り声ばかりが飛び交っている。消防士さんたちは階段を上がったり降りたり、ホースをのばしたり、消火栓に接続したり、忙しく立ち働いているのだが、実際に消火活動がなかなか始まらない。わたしはガスの元栓を閉めなかったことを思い出し、閉めに戻ろうか、と思ったのだが、非常階段のあたりの煙がひどく、とてもではないけれど、近寄ることもできそうにない。いや、ガスが問題になるとしたら、ウチより先に下の階のはずだ、とあきらめることにした。自分の部屋がどうなったか気が気ではなかったが、下から見ている限りでは、わたしの部屋のある階からは煙が吹き出してはいないので、大丈夫だろうと思うことにした。

やがて、消防車も移動して、ベランダ側から放水が始まったらしかった。ただ見ているしかないという時間が続いた。

そのとき、わたしはこれは何かのメタファーみたいだなあ、と考えていた。わたしたちが避難しているところからは、煙だけで、火が見えることがない。放水の音も聞こえないし、様子もわからない。自分の足のすぐ下で、窓ガラスが熱で割れるほどの火事が起こったというのに自分は何もできない。することがなくて、ただ見ているしかない。

おそらく断熱材のおかげで、ウチの部屋が類焼することはないだろう。だから、被害といってもそれほどのことはないだろう。いまはとても怖いけれど、その一方で、どこかで自分は安全なんだ、とも感じている。これはいったい何のメタファーなんだろう、と、ずっとそんなことを考えていたのだった。

フィルムを巻き戻すように、煙の色も徐々に白くなっていき、やがてそれもあがらなくなってきた。仕事に行けるのだろうか、と時計を見たら、最初に火事に気がついてから三十分もたっていなくて、もっと時間が経過したとばかり思っていたわたしは驚いてしまった。

やがて黒い水が非常階段を伝って滝のように流れ出した。鎮火されて、ベランダ側から中に入った消防士が、部屋の内側から玄関の扉を開けたらしかった。わたしは自分の部屋が気になって、ホースを巻いたりして後かたづけに入っている消防士さんのところへ行って、上の階の者ですが、もう部屋に入って大丈夫でしょうか、と声をかけた。

その消防士さんは、指揮者とおぼしき人に確認をとると、その人は、火は治まったから入れるだろうが、煙がまだ残っているので、窓は決して開けないように、あと、頭が痛くなったりしたら、すぐ退出するように言われた。それだけでなく、消防士さんがひとり、部屋までついてきてくれた。

部屋に戻ると、窓を閉めていたはずだったのに、なかは煙が充満している。いそいでわたしはマスクをかけ、換気扇を回し、廊下側の窓を開け、玄関を全開にして、押入から扇風機を取り出して、家の煙を外に出すことにした。なにしろ二時間もしないうちに仕事に出なければならないのだ。わたしは忙しく働いた。

窓はすすで真っ黒だし、網戸が熱でべろりと溶けている。窓ガラスは熱で一部にひびが入り、ベランダには真っ黒なすすが積もっていた。部屋の中にもすすが入り込んでいるのだろう、白い靴下をはいていたのに、気がつけばまっ黒になっている。なにより、床が温かい。断熱材が使われていなかったら、と改めて怖ろしくなったのだった。

そうしていると、つぎからつぎへと来訪者がある。隣のおばあさん、おじいさん、管理人さんばかりではない。顔も知らないような人が、どうなったか、とのぞきに来たのには、うんざりだった。そうしているうちに、消防署の現場検証が始まった。

最初に火事を発見したことからいきさつを話し、下の部屋は全焼したが、ほかに類焼はなかったこと、火元は留守で、幸い、けが人もなかったこと、出火原因はまだわからないことなどを聞いた。

一緒にベランダに出てみると、ベランダ全体がすすだらけで真っ黒、下から吹き上がった細かな燃えかすが隅にうずたかく積もっている。ベランダに置いた鉢植えも、きれいに焼け焦げていた。避難するときに窓を閉めて出たのがよかった、開けていたらカーテンが延焼して被害が拡大したかもしれなかった、と言われたときは、実際は煙のことしか考えていなかったのだが、改めて運がよかったと思わずにはいられなかった。窓ガラスは熱で弱くなっているはずだから取り替えた方がいい、と言われ、その言葉を裏付けるように、数日後、いきなり大きなヒビが入ったが、実質的な被害はその程度。火が出た部屋の真下は天井からの漏水で、部屋全体が水浸しになったらしかった。

まだ洗濯機のなかに入ったままだった洗濯物を部屋の中につるし、床に散っているすすを掃除機で吸って、そのあいだも床が暖かいのを気持ち悪く感じていた。一部分、はっきりとそこだけ熱い場所があり、おそらくこの真下が火元だったのだろうと思った。

それから仕事に行くためにマンションを出ると、世界はまったくいつもと変わらない。風は冷たかったが、日差しは明るく、さっきまでのことが現実味を失ったような気がした。確かに目で見、臭いも嗅ぎ、怖ろしい思いもしたのだが、そこから離れ、別の世界に身を置くと、まるでほんとうのことではなかったように思えるのだった。

いつものように電車に乗り、いつものように仕事をして、いつものように戻ってくると、やはりそこは火事の現場だった。きな臭さの残る建物に入っていき、非常階段を上っていくと、薄暗い階段に座り込み、壁に背をもたせかけたまま、放心したような顔をしている人を見た。見たこともない人だったが、おそらくこの人が火元の家の人であるような気がした。「焦点が合わない目」というのはレトリックではないのだ。じろじろ見るのも申し訳ないような気がして、わたしはすぐに目をそらした。

部屋に戻ると、きな臭さは相変わらずで、窓を開けて換気扇を回しても、目も喉も痛い。ひどい咳が出て、マスクをかけてもおさまらない。腹立たしい思いでいるところに、ドアフォンが鳴った。また野次馬か、と不機嫌な顔をしていたのだと思う。さきほど非常階段で見かけた男の人が立っていた。

「すいませんでした」と頭を下げてから、こちらに顔を向けたが、目が泳いでいて一箇所に落ち着かない。いったいどれほどの衝撃を受けたら、人はこんな目をするようになるのだろう、と思った。この人にとっては、これからが大変なのだ。大きな被害を受けたわけでもないわたしが、いったい何の非難ができよう。わたしは言うべき言葉も見つからず、「どなたもおけがはなかったんですよね。それだけは不幸中の幸いでしたね」といった、ほとんど意味のないことを言うことしかできなかったのだった。

のちに出火原因はコンセントとプラグのあいだに溜まった埃が原因だと聞いた。あわてて家中のコンセントを点検し、プラグを掃除したのは言うまでもない。

はっきりとした恐怖感というのは、その最中も、あとから振り返ってからも、一度も起こらなかった。周囲の人から、よかったねえ、一歩間違えば死んでいたかもしれなかったのに、と何度も言われたが、実際に見ていて、人が死ぬほどの規模の火事ではなかったことがわかっていたから、「一歩間違う」という言葉には、何のリアリティも感じなかった。大きな被害がなくて運がよかったねえ、とも言われたが、運がよかったのは火事を出さなかったことだ、とそのたびに思っていた。

わたしの部屋のコンセントにも、同じように埃が溜まっていた。だが、ひとたび火事になれば、火元と被害者に分かれる。火元は火を出したことで大きな借財を背負い、頭を下げて回る。だが、こちら側は被害者といったところで、植木が焼けた、網戸が溶けた、ガラスが割れた……というレベルの些細なことなのである。その程度で、いったいどうして謝罪を受けとるようなことができるのだろう。ほんとうの被害者は、火元の人ではないか。どうしてこんなことになってしまったのか。どうして火が出たのが、うちではなく、階下の部屋だったのだろう。運がいい、悪いというけれど、それを分けるものはいったい何なのだろう。

あれから時間が過ぎて、当時のようにそのことを思い出すこともまれにはなったが、いまでもわたしはそのことに答えを出せないままでいる。

鶏頭




2009-01-25:畳屋の記憶

ドアベルが鳴ったので出てみたら、「畳屋ですが。御用はございませんか」と言われた。条件反射のように、畳替えをする予定はないので、と断ったのだが、ドアを閉めたとたんに、子供の頃、商店街のはずれ、住宅街との境あたりにあった畳屋の情景と、畳の匂いがよみがえってきた。

畳一畳がいくらだか知らないが、一部屋全部、畳替えするのは、安くすむものではないだろう。おまけに本棚だのスピーカーだのテレビだの水槽だの、畳の上にのっかっている家具を全部どかして畳を替えるなど、考えただけでも大仕事だ。それでも鼻の奥に残る長らく嗅いだことのない畳の匂いが、畳屋さんの来訪とともによみがえってきた。

小学校のころ、学校帰りに畳屋の前を通りかかると、ときどき引き戸が開いて、作業をしているのが見えた。そんなときは決まって立ち止まり、次第にできていく畳を飽きず眺めたものだ。とりわけ、台の上にのせた畳に、店の人が太い針を刺していく工程を見ることができた日は、百円玉でも拾ったときのような、うれしく、得をしたみたいな気がした。

そのころは、畳屋ばかりでなく、男性用のスーツだけを仕立てる店や、包丁研ぎの店、帽子屋、お茶屋、氷屋(冬には焼き芋も売るが)、数珠屋など、ひとつのものだけを扱う店が何軒かあった。そういう店はたいていひっそりとしていて、店先に客がいることもまれだったが、氷屋であれば、冷凍庫でできるのとは似ても似つかない、巨大な氷がのこぎりで切断されていくところを見ることができたし、珠数屋の軒先には、黒ずんで色の変わった木の球でできた巨大な数珠がぶらさがっていた。

帽子だけ売っていて、あるいは包丁研ぎだけで、商いが成り立つものなのだろうか。小学生のわたしにさえ、それは不思議だった。それでも、畳屋にしても研ぎ屋にしても、店は同時に仕事場で、子供にもそこが何をする店か、というだけでなく、どういうプロセスで包丁が研がれ、畳ができていくのかを外から眺めることができた。クリーニング屋の窓の向こうでは、おじさんが汗を流しながら、見事な手際でワイシャツのアイロンがけをしていたし、店の奥で判子屋のおじさんが判子を彫っているのも見えた。

気がつけば、わたしたちの身の回りから、そんな店が消えていった。クリーニング屋は、洗濯をしてくれる店ではなく、取り次ぎ店に過ぎなくなり、店番をしているのも近所のおばさんになった。包丁研ぎは百均の隅にぶらさがっているが、どれほど売れるものだろうか。子供の「将来なりたい職業」のラインナップで、「ケーキ屋さん」というのは女の子の希望職種の上位にかならず出てくるが、それはケーキという単品を扱い、奥で店の人が白衣とエプロン姿で作っているのを見ることができる、というわかりやすさがあるのだろう。

明治初期に日本を訪れた外国人たちは、当時でさえ失われていっている日本のさまざまな風景を書き残した。そうした文献を縦横に援用しつつ、当時の日本のようすをわたしたちの前に見せてくれるのが、渡辺京二の『逝きし世の面影』である。そのなかに、こんな一節がある。

 イザベラ・バードは明治十一年訪れた新潟の町の店々について、その旅行記にとくに「ザ・ショップス」という一章を設けて詳述している。…

「桶屋と籠屋は職人仕事の完璧な手際を示し、何にでも応用の利く品々を並べている。私は桶屋の前を通と、必ず何か買いたくなってしまうのだ。ありふれた桶が用材の慎重な選択と細部の仕上げと趣味への配慮によって、一個の芸術品になっている。籠細工はざっとしたのも精巧なのも、洪水を防ぐために石を入れるのに使われる大きな竹籠から、竹で編んだみごとな扇にくっつけられているキリギリスや蜘蛛や甲虫――こいつは目をあざむくほどうまくできていて、思わず扇から払い落としたくなるほどだ――に至るまで、ただただ驚異である……」…

 バードの記述でおどろかされるのは、それぞれの店が特定の商品にいちじるしく特化していることだ。羽織の紐だけ、硯箱だけ売って整形が成り立つというのは、何ということだろう。もちろん、店の規模はそれだけ小さくなる。ということは一定の商品取引量の養える人口が、その分大きいということを意味する。つまりここでは生態学的に、非常に微細かつ多様な棲み分けが成立しているわけだ。細民のつつましく生きうる空間がここにあった。それだけではない。特定の一品種のみ商うというのは、その商品に対する特殊な愛着と精通をはぐくむ。商品はいわば人格化する。商店主の人格は筆となり箸となり扇となって、社会の総交通のなかに、満足と責任をともなう一定の地位を占める。それが職分というものであった。しかも彼らの多くは同時に熟達した職人でもあった。すなわち桶屋は自分が作った桶を売ったのである。商品は仕事場でもあった。

(渡辺京二『逝きし世の面影』平凡社ライブラリー)

たとえその多くが明治初期に失われたとしても、わたしが子供時代を過ごした昭和四十年代には、それでもまだ、いくぶんかは残っていたのだ。

わたしのところに畳の注文がないか聞きに来た畳屋さんの店は、いったいどこにあるのだろう。わかったところで、畳の注文ができるような余裕などないのだが、昔見たように、引き戸を開けて、通りから見えるような場所で作業をしているのだとしたら、その様子がまた見てみたいと思うのである。注文がなければ仕事もできない、だからそうやって営業活動をしているのだ、ということはわかっていても。

鶏頭




2009-01-20:冬の朝

小学校のあれは何年だったのだろうか。
理科の授業だったと思うのだが、月に一度、なんでもでもいい、季節が感じられるものを見つけてそれを書くという課題を一年間続けた。ちょうど絵日記のような具合で、紙の上半分の枠内に絵を描き、下段に文章を書くようになっている。おそらく生徒たちは、そこに毎月、桜が咲いた、鯉のぼりを見た、あじさいの花の色が変わった……などと書いていったのだろう。

自分が何を書いたかまったく覚えていないのだが、学年の終わりにみんなでそれをまとめて発表会をやった。自分のことはもちろん、ほかにどんな発表があったかも記憶にはない。たったひとつ覚えているのは、その発表会を見に来た副校長先生の講評だ。

みんなは季節の移り変わりといったら、自然現象ばかりだと思っているのではないか、スーパーの店先だって、街のショウ・ウィンドウにだって、道を歩く人にだって季節はあるのだ、もっといろんなところにある季節にも目を向けてほしい。そんな内容の話だった。

こうやってみると、子供だから自由な発想が自然にできる、というものでもなさそうだ。「理科の授業」だから自然現象のなかから探さなくてはならないと思いこんでいたのだから。

おそらく毎月苦労して書いていたのだと思う。チューリップやあじさいなどのように、即座に季節と結びつく花が見つかる月ばかりではない。図鑑を見ながら、あまりよく知らない植物の絵を描いたこともあったような気がする。

だが、副校長先生の話を聞いて、しまった、そんなにむずかしく考えないでいいんだった、もっと自分の身の回りに目を向ければ良かったんだ、と思った。図鑑の絵では実感のあろうはずがない。だが、日常のなかに自分が「ああ、冬だ」と思えば、そこにほかならぬ自分の「実感」がある。そんな機会でもなければ流れていってしまうような些細な「実感」でも、つなぎとめておけば自分の「歳時記」だ。

もちろんそのとき、そんなことまで思ったわけではないだろう。それでも、昨日今日、何の違いもないような毎日の生活も、季節のただなかにあるのだと意識するようになったのは、その出来事がきっかけだったように思う。

ピアノの鍵盤にふれて、指先からしみわたってくる冷たさ。動かすたびにどんどん指がかじかみ、動かなくなっていく。手を離し、息を吹きかけ、こすって暖め、凍えて堅くなった指をほぐしてから、また鍵盤にのせる。それを繰りかえすのが、当時のわたしにとっての冬だった。

朝、目を覚まして部屋を出ると、ぷんと灯油のにおいが鼻をつく。そのにおいのおかげで、ストーブのある部屋の暖かさが、部屋に入るより先にわたしの身の内に起こる。蒸気でくもったガラス窓とストーブの上で湯気をあげているやかん。それもまた、わたしの冬の情景だ。

学校へ行くとき、近道をするために空き地を横切る。運動靴の下のざくざくいう感触が楽しくて、霜柱のあるところを選んで歩いた。

寒がりのわたしが、寒い、寒い、と言っていると、いつも「肩の力を抜いてごらん」というクラスメイトがいた。寒いときには体が縮こまって、肩に力が入っている。だから肩の力を抜くと、寒くなくなるよ。その子は口癖のようにそう言っていたのだが、肩の力を抜くと、今度は首筋がスースーして、いっそう寒くなるような気がした。

いまわたしが冬といってまず思うのは、結露だ。毎朝、起きてすぐ、カーテンを開けて、びっしょり濡れた窓ガラスを拭く。乾いたぞうきんを何枚も用意して、手をかじかませながら、一枚一枚拭いていく。この早朝の仕事は、11月の終わりぐらいから3月の終わりぐらいまで、四ヶ月間、毎朝続く。

例外は雨の朝だ。雨のおかげで明け方気温が下がらないせいか、結露は生じない。冷たい雨の中を仕事に行くことは憂鬱ではあったが、カーテンを開けて、めずらしく濡れても曇ってもいない窓から外が見渡せるのはうれしい。窓が濡れているのではなく、窓の外が濡れている。アスファルトの路面に、まばらな街灯が反射し、真っ暗な外は、夜中か朝かわからない。それでも新聞配達のバイクの音が、普段より近く聞こえ、早朝であることを教えてくれる。雨の朝に愛着がもてるのは、この季節だけだ。

鶏頭




2009-01-19:メロスの疑問

太宰治に『走れメロス』という作品がある。確か中学の教科書にも載っていたし、子供向けの児童文学でも定番だ。つまり、鴎外の『山椒大夫』や漱石の『坊っちゃん』芥川龍之介の『鼻』や『芋粥』などのように、小中学生にも理解できる文学とみなされているのだろう。

だが、わたしはどうも『走れメロス』をどう読んだらいいのか、いまだによくわからないのだ。まさか友情を扱った話? のわけがないように思えて。

わたしが気になるのは単純であまり知恵が回るとは思えないメロスより、その親友であるセリヌンティウスである。メロスのせいで、あやうく死刑になりかけるセリヌンティウスは、最後でメロスに向かって「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」というのだが、ほんとうに一度だったのだろうか。

走っているメロスの方は、実際、ああだこうだ考える暇もなく、ひたすら走り、自分の行く手をふさぐあれやこれやを片づけなければならないのだから、いらないことが頭をよぎる暇もないだろう。

ところが、セリヌンティウスときたら、死刑を目前に、獄舎につながれて、なにひとつすることもない。そんなときに考えることといえば、メロスのことばかりだろう。

メロスが来るか来ないか。ひとたび考え始めると、おびただしい疑念が去来するはずだ。
メロスはふだんからはた迷惑なやつだった。
メロスはおれのことを親友だとかなんとか言っているが、どこまでほんとうにそう思っているのだろう。

やがて些細な事実がよみがえってくる。ちょっとした言葉の端々、ちょっとした表情。これまでそんなことを覚えていたことさえ気がつかずにいたような記憶がどっと出てくるにちがいない。

おそらくセリヌンティウスは獄中にあって、メロスが来るか来ないか、そればかりを考えていたはずだ。怖ろしい疑念に七転八倒していたセリヌンティウスが、戻ってきたメロスを見て、うれしさのあまり、興奮してそんなことを口走ったのかもしれないが、以降のふたりが、これまでと同じように友だちづきあいが続けられるものかどうか、わたしはかなり疑問に思っている。

考えてみると、「瓜田に沓を納れず李下に冠を正さず」ということわざと裏腹に、実際のところ、何か疑わしい行動を取ったから疑われた、というケースはまれなのではないか。

むしろ疑う気持ちが、頭のなかの記憶を洗いざらい調べ上げ、記憶していることさえ忘れていた記憶を引っ張り出してくるのではあるまいか。

シェイクスピアの『オセロ』では、オセロに密かに悪意を持っているイアーゴーが、オセロに対して妻デズデモーナの貞節に疑いを吹きこむ。そういえば、とオセロは考える。キャシオーのやつが、自分がデズデモーナに与えたハンカチを持っていた……。

ヒッチコックの映画にも《疑惑の影》というものがある。
ハイティーンの女の子、チャーリーが暮らす平和な一家に、彼女と同じ名前の叔父さんが訪ねてくる。この叔父さんが、殺人犯なのではないか。叔父さんが新聞を破り捨てたのはどうしてなのだろう、そこには何が書いてあったのだろう。チャーリーの疑惑は、ふだんなら見過ごしてしまうような、些細な出来事を、証拠として拾い上げ、つなぎ合わせる。

ポイントは、事実があって疑念が生じるのではない。逆に、疑念が「事実」を集めてくる、という点である。

疑惑が生じる。この疑惑はほんとうだろうか。そう考えた人は、なんとかその証拠を集めようとする。疑惑をうち消すような証拠が見つかったとき、その人の疑惑はほんとうに解消するのだろうか。うち消すような証拠をうち消すような反証を、また探そうとするのではないか。そしてまた疑惑を裏付けるような証拠が見つかると、そこからさらにそれをうち消すような……、と、際限のない問いの連鎖にからめとられてしまうように思うのだ。その疑惑の連鎖は、事態を決着させるような事柄に至るまで、ジェットコースターから降りれないように、止むことはない。

こう考えていくと、おそらく疑惑というのは、何か根拠があって生じるのではない、ということだ。思いがけず獄に繋がれることになったセリヌンティウス、ムーア人でありながらヴェニスで高位に就くオセロ、平和な家に叔父さんが来たことで微妙に家のなかの空気が変わってしまったチャーリー、いずれも自分を取り巻く周囲と自分とのあいだに、不調和を感じる、そんなときに、どこからともなく胸の内にきざすものなのである。

いったん疑惑が生じると、それがどれほど怖ろしい真相であっても、というか、自分が考えて怖ろしいと思われることを「真相」として、そこへ向かってひたすら突き進むもののようだ。

こう考えていくと、メロスと殴り合っただけで、セリヌンティウスとメロスの友情がいっそう固いものとなる、というのは、あまりに夢のような話に思えるのだ。またセリヌンティウスが不安になるような事態が生じると、あのときメロスは……と思い始めるのではないか。

まああれはギリシア神話に基づく、言ってみればお伽噺のようなもの、そんな話にいちゃもんをつけるのは……、という気もしないではないのだが。

鶏頭




2009-01-18:お金と正義

子供、それもかなり小さい、小学校に上がるか上がらないかのころだったが、道ばたにお金が落ちていたら、かならず拾って交番に届けていた。お金といっても十円玉や、せいぜい百円玉である。目の位置が地面に近いから、見つけやすいのだろうか。大人になってお金が落ちているのを見たことがないのだが、子供のときはときどき拾っていたような記憶がある。お金というのは、当時の方がよく落ちていたのだろうか。

落ちていたお金を拾うと、どこに向かっていたにせよ、即座に行き先を変更してまっすぐ交番に向かう。おまわりさんに、「これ、落ちてました」と差し出すと、たいてい「どうもありがとう」と言って、おまわりさんは自分の財布を取り出して十円(百円玉のときは百円)くれた。名前もどこで拾ったかも聞かれなかったはずだ。もちろんもらえる十円がうれしくないわけではなかったのだろうが、それ以上に正義を遂行したような気がして、意気揚々と帰ったものだ。もちろん家に帰ると真っ先にそのことを報告した。

四歳や五歳ぐらいの子供にとって、なかなか「自分は正しいことをした」と胸を張って報告できる場面に遭遇することはない。お金を拾って届ける、というのは、その数少ない経験だったように思う。

こんなことを思い出したのも、先日、こんな経験をしたからだ。
百円均一の店で買い物をしたときのこと。ハンドソープの詰め替えだのレンジマットだのガムテープだの重曹だの、ごたごたしたものを七点買い、カゴを使わずに積み重ねてレジに置いた。

レジを担当していたのは高校生ぐらいのバイトのお兄ちゃんである。バイト君は「六点のお買いあげで630円になります」という。重曹の下になっていた「着火マン」に気がつかなかったらしい。だから、わたしは「七つ買ったから735円ですよ」と言って、それだけのお金を払ったた。黙っていたら105円儲かった(?)のかもしれないのだが、正直に申告したのである。すると、バイト君、あわてながら品物を二、三度数え直し、あたふたとレジを打ち直すと、すいませんでした、と何度も謝ってくれた。

それだけの話、735円の買い物をして、735円払ったというだけの話なのである。なのに、店を出た自分の内に「なんだかちょっと良いことをした」という意識があったのだ。ちょうど、十円拾ってそれを届けたときのように。

その「正しい」ことをしたという意識が、どこからきたものか、なんだかひどく気にかかった。こうしたまちがいは時として起こる。もちろんレジの打ち間違いは、こちらが損をすることもある。そういうとき、たとえ些細な金額でも訂正を求めることもあるし、面倒になってまあいいや、とそのままにしてしまうこともある。だが、向こうが間違えた結果、こちらに得になっているときは、わたしが単に小心なだけかもしれないのだが、妙に落ち着かない気持ちになって、かならず訂正を申し入れてしまうのだ。そうして、その結果、ちょっとだけ良い気分になる。

たかがこれぐらいのことで、良いことをしたという気分になるのは、単にわたしが小さい人間だけなのかもしれないのだが、安岡章太郎も同じようなことを短篇のなかで書いていたような記憶があるのだ。タイトルも記憶にないし、短篇だったか、長篇のなかの一エピソードだったかどうかもわからないのだけれど、だいたいこんな内容のものだった。

主人公は中学生ぐらい。親に頼まれておつかいに行く。買い物をして、五千円札で払っておつりをもらった。店を出て、おつりをよく見ると、七千円あまり。店の人が五千札と一万円札をまちがえたのだ(昔は両方とも聖徳太子で、ときに起こる間違いだった。わたしも主人公と同じ経験をしたことがある)。主人公は葛藤したあげく、帰りかけた道を引き返して、店の人に申し出る。店の人は、少し驚いたような顔をしたが、すぐにぱっと明るい顔になって、お礼を言ってくれる。主人公はとても善いことをしたような気になって、颯爽と家に帰る。お母さんに意気揚々とそのことを報告すると、最初から一万円札を渡したんだよ、馬鹿な子だね、と叱責される。いまさら返してくれとも言えないし、主人公は一転、情けない気持ちになる。そこから振り返ってみれば、店主の「明るい顔」は、主人公をカモにした表情だったのではあるまいか……。

この話は、ひとがいかに些細なことで「善行」を施したような気分になるものか、皮肉っぽく描いている。そうして、それが自分に不利益をもたらすことがわかった段階で、仮に相手に対してほんとうに「善行(利益)」になったとしても、どれほど後悔してしまうか、ということまで。わたしたちの「正義感」なるものが、現実に自分が被る不利益の前では、いかにもろいものか、実にうまくすくい上げていると思う。

わたしが一点少なく計算されて、「ちがってますよ」と申し出た。ここでわたしが払った額は、あたりまえの額だ。にもかかわらず、わたしは「ちょっと良いことをしたような気分」になった。そこにはせこい話だが、黙っていたら百五円儲かった、という計算が働いたにちがいない。自分はその「利益」を失っても、正当な商取引をすることを選んだ、ということからくる「良いことをしたような気分」、正義感であったにちがいない。子供時代に十円玉を届けたのと、まったく同じ心理が働いている。

向こうから来る人に道を譲ったり、図書館で、高い棚にある本を取ってあげたり、後ろから来る人のためにドアを開けておいてあげたり、わたしたちは日常、ちょっとした心遣いを、他人のためにしてあげたり、してもらったりする。何かしたときは一瞬、ああ、自分は良いことをしたな、と良い気分になる(わたしだけか)し、してもらったときは、どうもありがとう、と、これまた良い気分になる。だがどちらにしても、それが自分の「正義感」に結びつくことはない。そういう生活のなかの心遣いや思いやりは、「正義」というカテゴリとは少しちがうところに収められるように思うのだ。

それに対して、お金がからむことにおいて、自分の利益を棚上げしてでも正しくふるまうこと、つまり、適正な商取引を行うことは、正義感をもたらす。それは、商取引が「適正なルールで行うこと」を前提としたものだからかもしれない。

こんなふうに考えられないだろうか。
コインゲームをする人は、かならずコインを持っていなければならない。コインゲームを持っていることがゲームに参加する資格だし、コインを使うことは同時にゲームをプレイすることでもある。コインはルールにのっとって渡したり受け取ったりしなければならないし、不正に自分のものにしようとする人物は、プレイする資格を失う。
社会でお金を使うときのわたしたちも、まさにこれと同じなのだろう。

そもそもお金というものが出てきたのは、海辺に住む人と山に住む人が、魚とリンゴを恨みっこなしで交換できるような、共通の尺度が必要だったからだ。けれども、本来なら、それそのものにまったくの価値がない「貨幣」(あるいは石ころでも牛乳の蓋でもいいのだが)を、あえて尺度として受け入れ、あたかもそれそのものに価値があるかのようにふるまうことは、「自分はそのルールを受け入れているのだ」「それに沿って正しく行動するのだ」という意思表示に等しいのかもしれない。みんながそのルールに従わなければ、そのゲームは成立しない。だからこそ、強制的にではなく自発的に従うことが求められる。ゲームに参加する、ということは、自分がルールに従っているという意思表示にほかならない。「正義感」というのは、自分は自発的にルールにしたがっているのだ、という意識から生まれているのかもしれない。

逆に、このルールを逸脱しているがゆえに得をしたという意識が、現実にあがった利益以上のものを錯覚させていることもあるように思う。

自動改札というのは、子供料金で通過すると、だいたい赤いランプが点灯するようになっている。たまに、どう見ても子供料金に該当しない年齢の人が、子供料金で通過しているのを見ることもある。子供料金で乗車して、いったいどれほどの利益を得ることができるだろう。その人が求めているのは、現実の利益というより、自分が社会のルールを出し抜いた、という意識ではあるまいか。冷静に損失と利益を引き比べてみれば、正規の料金で乗車したほうがどれだけ「得」であることか。

実際にはどれほどの「利益」でもないのに、不正なことをして「儲けた」ときに「得」をした気分になるのは、ルールの裏をかいた、という気持からではあるまいか。だからこそギャンブルにはまる人が出てくるのだろうし、「競馬で家を建てたやつはいない」といいながら、一攫千金を夢見る人はあとをたたないのだろう。

鶏頭




2009-01-16:百年前

暮れから正月にかけて「百年に一度」という文字を、新聞やネットのニュースで何度も見た。百年に一度の大不況だ、不景気だ、危機だ、と煽っているのだ。

確かに実際に大変な思いをしていらっしゃる人もいるのだろう。だからあまり軽はずみに何か言うのもはばかられるのだが、わたしとしては、そんな実感もないのに、そんな言葉ばかりが踊っているのが何ともいえず奇妙に思えてきてならないのだ。今年の年賀状にもいくつか「これから厳しくなるだろうが」と書いてあった。だが、その言葉は書いた人の実感に裏打ちされたものというより、いまのところそんな実感はないが、みんなが言っているように、これからそうなるかもしれないので、気を引き締めていよう、という意味にしか読みとれなかった。

百年前、というと、明治42年だ。伊藤博文がハルピンで安重根に暗殺され、二葉亭四迷がインド洋上で日本に向かう船中で亡くなり、夏目漱石が『それから』を朝日新聞に連載し、中島敦と太宰治と松本清張が生まれたのがこの年だ(松本清張と太宰治が同じ年に生まれたというのが、わたしにはどうしてもピンとこない)。

1904年に生まれた幸田文は、当時のことをこう書いている。

 貧乏のことをお話したいのです。明治の末から大正へかけての頃のことです。これも地域にもよるでしょうが、私の知っている範囲では、切詰めたつましい暮しの家が多く、ひどく窮乏している家も珍しくはなかったのです。

 どこも衣料はきびしい倹約で、質素でしたし、食事がまた粗末でした。粗末というより、お菜はないにひとしい漬物だけ、という家を私はいくつも見て知っています。初鰹などとさもきっぷのいいもののようにいうけれど、あれはもうその頃には伝説みたいなもので、それにしても女房を質に置かなければ、食べられなかったというお粗末な生活をうらがきにしています。だからこそお祭りだとか、子の誕生日だとかがせいぜいのご馳走で、それとて赤のごはんに半ぺんのおつゆに煮しめくらいが限度で、もし小鯛の焼物でもあろうものなら、それこそ「しなじな並べて」と吹聴するうれしがりようです。電灯だって五燭が普通だったのです。ですからあの頃の一般の暮らしには苦がにじんでいました。

(幸田文「いまここにはなくて」『季節のかたみ』)

もっと時代が下ってからも、その情況は続いたようだ。山田風太郎は幼い頃の記憶でこんな話を書いている。大正の終わりから昭和の初めにかけてのことだろう。家が医者で、近在でも裕福な家の子供だった風太郎が友だちのところへ行くと、そこではちゃぶ台の真ん中に香の物を盛った鉢があって、それだけをおかずに、一家全員が夕食を食べている。暗いなかでそんな食事をする彼らに、いったい何の楽しみがあったのだろうか、と、そのエッセイにはあった。

そのうち、わたしたちの生活がそんなことになるのだろうか。

わたしの母は、八歳になる前に母親を亡くした。戦後まだ十年も経っていないころである。そののち、大変な苦労をしながら成長したという。おそらくその記憶は母の深いところに根を下ろしてしまったのだ。大人になって自分の家族を持ってからは、多少のあれやこれやはあっても、傍目には平穏な日々を送っているように見える。それでも、母の内からは、ある日それが急に失われるのではないかという不安が、おそらく消えることはないのだろう。

わたしが子供の頃、誕生日とか、家族旅行とか、何か楽しいイヴェントがあるたびに、「こんな生活がいつまでも続くと思ってはいけないよ」と母は繰りかえしわたしに言った。これから先、何が起こるかわからない。綱渡りをしているようなものだ、と。

いまのわたしなら、どんな気持で母がそんなことを口にしていたか、理解はできる。だが、聞かされる子供としては、たまったものではなかった。わたしは母の話を聞くたびに、貧乏になるのでは、と考えて、心底それが怖ろしかった。だが、その怖ろしい状態がどんなものか、まったく想像がつかないのである。自分から何もかもが失われる、やがて家まで失われて、橋の下にひとりで寝ているところを夢に見て、ぎょっとして夜中に目を覚ましたこともある。

やがて大学に行くようになって、実際に、ほんとうにお金がない、つぎのバイト代が入るまで、全然無い、他に入る当てもない、という貧乏生活を何年か経験した。そうして思ったのは、貧乏になることを恐れていたときほど、それはきつくはなかった、ということなのである。とりあえず探せばバイトがあり、生活はできたということもあったし、その状態が一生続くとは考えていなかったという面で、いまのいわゆる「ワーキングプア」と言われる状態とは多少ちがうこともあっただろう。それでも、貧乏は貧乏でも、怖れていた子供のときとはちがって、自分で何とかできたのだ。

貧乏な状態というのは、もちろん困ったものだ。目の前の生活を、どうにか回していかなければならない。その手だてで頭はいっぱいだ。何をやっていても、ふと気がつけば頭の中でお金の算段をしている。当時のことといったら、記憶にあるのはお金がなかったことばかりで、バブルも、当時流行のファッションも、華やかだったらしい世間のことも、ちっとも目に入りはしなかった。周囲と引き比べて、自分を惨めに思うゆとりもなかったのかもしれない。それでもその年に読んだ本は覚えているし、当時、書いていた文章も残っている。いつも聴いていたテープはいまも残っているし、映画だってずいぶん見た。お金の算段ばかりをしていたわけではないのだ。

またあの当時の、バイト代や奨学金が振り込まれる日を指折り数えるような生活に戻りたいとは思わない。できればそうなってほしくない。だが、なったらなったでどうにかなるさ、とどこかで思っている自分がいる。

幸田文は、父露伴を看取り、別れた夫を看取ったあと、文章を書いて身を立てるようになった。

 いまは貧乏は消えたかにみえる世の中です。でも本当に消え去ったといえるでしょうか。そうは私は思いません。いまここにない、というだけのことで実はどこかに引籠っていると思うのです。

 このごろ私はよく「また気がたるんでいるな」と思うことがあります。平安だと、とかく心がだらんとします。嫌です。休息や寛ぎとはちがって、無気力になるのです。平安で、しかもきりっと締まっていたいと思いますが、なかなかそうはいきません。緊張して暮らしていた過ぎた日々のことを思うと、あの頃には貧乏がいて緊張をうながしてくれていた、と思い出します。でもあれにまた出て来てもらいたいなど、そんなことは、ふるふるご免です。ただ、ほのかにないものねだりの「今ここにはない」淋しさを感じます。…

 私はないものねだりを嫌いじゃありません。貧乏は義理にも好きとは申しませんが、貧乏のうながしてくれる緊張はなつかしく、今ここにある平安のだれよりずっといいと思います。

人は同じ条件にあるわけではない。ほかの人の抱える困難も、ほんとうのところはわからない。だからこんなことを書いていると、何もわかりもしないのに、一体何をのんきなことを言っているのだ、と言われるかもしれない。もし不快に思った人がいたら、ごめんなさい、謝ります。

それでも、困難に陥った人の姿を見て、明日はわが身かもしれない、と怯えるのは、少なくともそれは思いやりとは何の関係もない。

鶏頭




2009-01-15:アイリッシュ・ギャングとしてのトンプソン一家

先日、ロバート・シェクリィの「危険の報酬」を訳した。以前読んだときには、トンプソン一家がなぜ主人公をつけねらうのか、原作では十分な説明がなされていないのではないかと思っていたのだが、彼らがアイリッシュ・ギャングだとすると、なんであそこまで執念深く追いかけたのか、納得がいくように思った。

おそらく「トンプソン」という名前から見ても、一味はアイリッシュ・ギャングという設定になっているのだろう。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ニューヨーク暗黒街を牛耳っていたのがアイリッシュ・ギャングである。暗黒街というと、イタリア人やシチリア人のマフィアを連想するが、アイルランド人はイタリア人やシチリア人よりも移民してきたのが早く、その分、先に勢力を築いていたのである。

体一つでやってきた移民たちが落ち着く先は、ニューヨークやシカゴのスラム街である。早い者勝ちの新世界では、ろくな仕事が残っていない。もちろん肉体労働に就いて懸命に働きながら、アメリカン・ドリームを目指したアイルランド系移民もいたが(その頂点がジョン・F・ケネディを輩出したケネディ家であり、『グレート・ギャツビィ』に出てくるアッパー・ミドルたちも、多くはアイルランド系移民の三代目である)、まともな職に就かない人びともいた。身を寄せ合って暮らす同胞から上前をはね、金持ちにたかり、金をよこさなければ爆弾で吹っ飛ばす。そんなことをしながら、勢力を蓄えていった連中がいたのである。

彼らは賭博や選挙、売春、保護(店から上納金を取る代わりに、そこで騒ぎをおこさないでやる)、労働組合(はじめから犯罪を目的とするものもあった)などをおもななりわいとしていた。やがてこのアイリッシュ・ギャングは、イタリア系マフィアとの抗争を繰りかえし(1929年の聖ヴァレンタインの虐殺も、アイリッシュ・ギャングとイタリアン・マフィアの抗争である)、やがて彼らに敗れ、表舞台、というか裏舞台の主役の座を彼らに譲ることになる(映画『ステート・オブ・グレース』は初期の状況をアイルランド側から描いている)。

常盤新平の『マフィアの噺』にはおもしろいことが書いてある。1951年、ニューヨークで最も視聴率が高かったのは、マンハッタンで開かれた組織犯罪に関する合衆国上院の公聴会の模様だったという。つまり、ノミ屋、ポン引き、泥棒などの組織犯罪に関する証言が公聴会でなされ、「マフィア」という犯罪組織が、公式に認知されたのだという。

F.L.アレンの『オンリー・イエスタディ』にも、1920年代、人びとがタブロイド新聞でギャングの殺し合いの物語をむさぼり読んだ、ということが書いてあるが、テレビの時代になっても、ギャングの物語が人びとの好奇心をかき立てたことは想像にかたくない。つまり、シェクリィの短篇のなかで、トンプソン一家のスポークスマンがテレビカメラの前に姿を現し、一家を代表して発言をする場面と同じもの、それも実際のマフィアやアイリッシュ・ギャングのそれを、当時の人びとは現実に見ていたのだ。

おそらくトンプソン一家はテレビ局と契約し、ジム・レイダー殺しをビジネスとして請け負ったのだろう。できるだけ最後を引き延ばすこと、カメラの前で行うことなどを条件として、殺人として問われないという免責条項と引き換えに、契約していたのだ。犯罪をビジネスとして請け負うのが、ギャング、あるいはマフィアなのである。

このビジネスとしての犯罪、というのが、いまのわたしたちには理解しにくい点なのではあるまいか。いまだにテレビや映画では「やくざ物」というジャンルが作られているようだが、やくざ間の抗争や一家内部の掟のようなものがドラマの中心であるように思われる。だが、日本はどうなのかよく知らないのだけれど、アメリカのギャングやマフィアは、なによりもまず、邪魔な相手を手っ取り早く片づけることを請け負う団体としてあったのだ。いわば非合法清掃業というところか。掃除するのが「人間」であるところが問題なのだが。

こう考えると、なぜトンプソン一家のスポークスマンがテレビカメラの前に顔を出し、あえて観客からの罵声を浴びたのかも理解できるし、舌鋒するどい司会者の前に、たじたじとなって見せた理由もよくわかる。すべてビジネスだったのだ。

どうもわたしたちは「昔の人は単純だった」という思いこみから、なかなか自由にはなれないようだ。テレビ黎明期というと、やらせもなければ、人びとはみんな目の前の光景を「真実」と思いこんで、夢中になっていたとばかり考えてしまう。ところが実際は、やらせは最初からあったし、人びともある程度はそれを理解した上で楽しんでいたのではあるまいか。

いまでは法も整備され、組織犯罪に対する摘発も、かつてとはくらべものにならないほど厳しくなった。だが、常盤新平の本を読んでいると、マフィアが衰亡していったのは、マフィア自身の価値観の変化だったという。

 ファミリー、家族がマフィアの土台となる。しかし、アメリカでは家族は社会の単位ではない。アメリカは一人ひとりを独立した個人とみなす国であり、そのように行動する。

 それ故に、アメリカ的な価値観はマフィアの価値観と衝突してきた。マフィアの人間は自分を「個人」と考えるようになってきた。一族の繁栄よりも個人の欲望が優先して、家族の絆から逃れたのだ。

 家族の結束は調和と責任感を育てた。家族は個人の欲望を抑えながら、一方では家族のメンバーが活動できる、より広い舞台を提供していた。けれども、アメリカでは何ごとも個人が中心である。個人を押さえるものがない。したがって、ファーザー(父)――ゴッドファーザー ――などに用はなかった。

(常磐新平『マフィアの噺』文春文庫)

「一人ひとりを独立した個人とみなす国」に生きているわけではなかったわたしたちだが、気がつけばいつのまにか家族の求心力は、ずいぶん弱いものになっている。だからこそ、擬似的な「ファミリー、家族」を土台とするヤクザのドラマがなくならないのかもしれない。

そんなドラマのおかげで、彼らがファミリーでありながら、同時に犯罪をビジネスとしていた組織でもあったことが、すっかり見えにくくなってしまっていた。シェクリィが書いた当時なら、誰にでも理解できたはずのギャングトンプソン一家とテレビ局のつながりも、どういう関係だったのか見えにくくなってしまったのではあるまいか。

鶏頭




2009-01-13:しあわせなキンギョ、しあわせなわたし

正月、初詣の帰りにでも金魚すくいをさせてもらったのだろう、寒いなか、キンギョの入った袋を下げて歩いている子供の姿を何人も目にした。冷たい水に手を突っこむ方は、熱中しているからいいのかもしれないが、キンギョとしたら底にじっとしていたいところだろうに、追い回されて、気の毒なことである。そのあげく、大地震もかくやと思われるほどの揺れを、家までの距離、経験し続けての引っ越しである。

ところが人間の引っ越しなら新居が待っているが、キンギョすくいのキンギョには、彼もしくは彼女を待ち受ける家など、いまだ存在しない。すくったのはいいけれど、さて帰ってから何に入れよう、洗面器は、ボールは、という運命が待っている。

こういうときネットというのはキンギョにとってもありがたいもので、自分に必要なものも、飼い主が検索しさえすれば、とりあえずわかる仕組みになっている。まあ、水槽にキンギョを放つ一事をとっても、おっそろしく厳密なサイトもあれば、初心者の試行錯誤を記したサイトもあって、飼い主がいったいどこを参考にするか、多少の運不運はあるかもしれないが。わたしがキンギョを飼い始めたときは、パソコンの常時接続にしてまだ日も浅いころで、カルキ抜きにしても水換えにしても、これがもし半年前なら、こんなふうに頻繁に検索して手順を調べることもできなかっただろう、たちまちキンギョを死なせていたかもしれない、とあとになって何度も思ったものだった。

ともかく、キンギョにしてみれば、冷たい露店の水おけのなかで追いかけ回され、強制連行され、何の準備もしていない、下手をすればカルキ抜きさえしていない収容所へ投げ込まれるのである。キンギョすくいで連れて帰ったキンギョが持つかどうか、最初の一週間が山場、というのをどこかで見たことがあるが、確かにそれだけの過酷な体験が、あの小さな体に響かないはずがない。

幸いにも、うちのキンギョはその一週間を耐え抜き、以降何度かの転変がありつつも、一匹は今日まで命を長らえている。おかげでわたしの飼いとしてのキャリアも七年になり、それが正しいかどうかはともかく、自分なりの方法も定まってきた。その昔「金魚的日常」という文章も書いたことがあるが、実際、たかがキンギョと言っても、世話をするのはやはり大変で、手探りで、うまくいったり失敗したりしてきたのだ。

夏に病気が蔓延し、当時、過密飼育していた水槽のキンギョの半数を殺してしまったこともあるし、逆に冬場、急にサーモスタットが働かなくなり、加熱しっぱなしになった結果、水槽が温泉状態になり、一晩で五匹のキンギョを昇天させてしまったこともある。浮いているキンギョたちの姿にぎょっとして温度計の目盛りに気がついても時すでに遅く、なんともいえない思いで温泉と化した水槽を片づけたことを思い出す。

何度も病気になったし、治ったこともあるが、治療用水槽の底で、体を曲げて横になったまま、それでも一週間、二週間と生き続けるキンギョの最期を、なすすべなくみとどけたこともあった。ウチで生まれたキンギョも三代目になるが、ずいぶん死なせたことを考えると、いったい自分が何をやっているのかよくわからなくなってくる。

ときに「アンタのところのキンギョはしあわせよ」と言われることがある。
人によっては金魚すくいで連れて帰っても、エアポンプさえない、ろくに水換えさえしてやらない状態でほったらかしているケースだってあるのに、というわけだ。
だが、どれだけ手をかけたところで、卵から育てながらも現実に何匹も殺しているのだから、ほったらかしにしているのとどれほどの差があろう。

おまけにキンギョにとって、いったいどういう状態が「しあわせ」と呼べるのか、キンギョならぬ身としては、わかりようがないのだ。

わたしのよく行くペットショップは、和金(ただ赤いだけの何の変哲もないキンギョを指す。当然ウチのキンギョもそれだ)は扱わないのだそうだ。というのも、ペットショップが仕入れる和金というのは、ほかの大型熱帯魚のエサでもあるからなのだそうだ。店によっては、一方で生き餌として飼育しつつ、仕入れ値の何十倍かの値段で、安価なキンギョとして売っているところもあるらしい。行きつけのペットショップのお兄ちゃんは、そういうことに矛盾を感じるから扱わないのだとか。

ただ、ほかの熱帯魚にエサとして食われるのと、ペットとして飼われ、そこで病気になったり、事故に遭ったりして死ぬのと、実際どちらが「しあわせ」と言えるのか、わたしにはよくわからない。

小学生のまだ低学年のころだったと思うが、『ドリトル先生』のシリーズが好きで、全巻を繰りかえし読んで飽きることがなかった。いまとなってはどの本だったかも覚えていないのだが、水族館の魚が、ふるさとの海の記憶を懐かしみ、ドリトル先生に話して聞かせながら、恋しさのあまりに涙を流すというエピソードがあった。だが、水族館の魚がほんとうにそんなことを考えているか、当の魚でもなければわかりはしないだろう。

魚というのは一度にものすごい数の産卵をする。裏を返せば個体1匹生き延びさせるためには、億単位の卵が必要なほど、海にせよ川にせよ、自然のなかで生き延びるのは過酷であるということだ。快適な温度が維持され、エサを与えられ、天敵に襲われることもない水族館の魚が、ドリトル先生に出てくる魚のように故郷の海を恋しがるものなのだろうか。

さらに、キンギョなど観賞魚の多くは、人間に飼われることを前提として品種改良を重ねたもので、もはや「自然」とはずいぶん隔たってしまっている。仮に彼らに故郷の記憶があったとしても、それは水槽だ。キンギョは泳ぐのがヘタだし、フィルターのあいだのような細い隙間にはさまってしまうような、信じられないほどのマヌケなことも平気でする。野生の生き物にはあり得ない危機感のなさである。彼らはもはや「自然」(もはやわたしたちの周囲では、いったい何を「自然」と呼ぶかはむずかしいところなのだが)のなかでは生きてはいけない。

おそらくキンギョが「しあわせかどうか」と考えるのは、たんなるキンギョの擬人化に過ぎず、意味などないことなのだろう。

水がきれいで、ヒーターのおかげで水温は25℃、フィルターも作動して酸素が十分送り込まれ、水草も緑豊かにたゆたっているのを見ると、キンギョもなんとなく楽しそうに見える。さきほど「擬人化」と書いたが、これは「擬人化」ならぬ「擬魚化」と言った方が適当なのかもしれない。いつのまにか自分をキンギョになぞらえて、自分ならこのなかにいればきっとしあわせだろう、と思うのだろう。
かわいそう、こんなせまいところに閉じこめられて……と思うのもおなじこと。いずれにせよ、この「擬魚化」のなせるわざなのだろう。
おそらくキンギョはそんな尺度と無縁のところで生きている。

そう考えると、キンギョと暮らしてしあわせなのは、キンギョではなくわたしなのだ。世話をしてもらってしあわせなのだ、と考えるのも、自由を制限されて、あるいはへたくそな飼育の犠牲になってかわいそう、と考えるのも、それは自分を「擬魚化」して考えているに過ぎない。

それでもこの「擬魚化」のおかげで、わたしはほんの少し、人間である自分から離れることができる。漱石がネコの視点から自分の日常を眺めることで、精神の安定を取りもどしたように、キンギョの世話をするこどで、それがキンギョのためになっているかどうかは定かではないにせよ、わたしの毎日はまちがいなく、少しだけ、豊かなものになっている。

いてくれて、ありがとう。

鶏頭




2009-01-03:あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。
2009年版の占いにも拙ブログに総計千名ちょっとの方が足をお運びくださってありがとうございました。検索で飛んでいらっしゃった方が、インチキではないかと腹を立てず、笑ってくださったら良いのだけれど。
良かったら、またときどき遊びに来てください。

そうして、いつも遊びに来てくださる方、本年もどうぞよろしく。
翻訳と、本を読んで考えたあれやこれやと、身の回りのあれやこれや、たまに音楽や映画の話なども織り混ぜながら、今年も歩くペースでやっていきます。
こういう本が読みたい、こんな翻訳が読んでみたい、あの曲は何て歌ってるの……そんなリクエストがありましたら、どうぞお気軽にお寄せください。

* * }

元日の朝、初日の出を拝もうとベランダに出てみました。
東の空には灰色の雲が広がっていたのですが、やがて雲の色が薄くなり、その向こうに日が昇ったのがわかりました。やがて雲の切れ間から差しこむ日の光の筋が幾本も見え、新しい年の日の光を見ることができました。

朝日にしても、夕日にしても、あるいは夜空にしても、人間はどうしてはるか遠くを見るのでしょう。空を見上げる必要なんて、出かけるときに傘が必要か、洗濯物が干せるかどうかを確かめるとき以外はほとんどないのかもしれません。あわただしい毎日が続くようなとき、空を見上げることも忘れてしまうこともあるでしょう。

それでも、遠くを見つめているうちに、不思議と心は安らぎます。

考えてみれば、わたしたちの体を構成する元素は、すべて宇宙からやってきたものです。わたしたちの体は、文字通り「星のかけら」です。M78星雲の彼方からやってきたウルトラマンならずとも、地球上に生きとし生けるものの故郷は、宇宙。だからこそ、空を見上げると心が安らぐ、というのは、むちゃくちゃな理屈なんでしょうか。

新しい年の太陽の光を見ながら、わたしは今年もまた良い年でありますように、と、誰か、もしくは何ものかに祈ったのでした。


小学生の国語の問題集から見つけた詩を。

きょうという日   室生犀星

時計でも
十二時を打つとき
おしまいの鐘をよくきくと、
とても、大きく打つ、
きょうのおわかれにね、
きょうがもう帰って来ないために、
きょうが地球の上にもうなくなり、
ほかの無くなった日にまぎれ込んで
なんでもない日になって行くからだ、
茫々何千里の歳月に連れ込まれるのだ、
きようという日、
そんな日があったか知らと、
どんなにきょうが華やかな日であっても、
人びとはそう言ってわすれて行く、
きょうの去るのを停めることが出来ない、
きょう一日だけでも好く生きなければならない。


柱時計の音を聞くこともなくなりました。それでも静かな夜に時を刻む時計の音が、あたりの静けさをいっそう際だたせるものであることは想像できます。
そこに鐘の音が鳴る。「きょう」という日の終わりを告げるために。
「きょう」は「昨日」になって、どこかにいってしまう。それはもはやわたしたちから永遠に失われてしまいます。

日ごろわたしたちは、いとも簡単に「明日がある」「明日またやればいい」なんて思ってしまう。けれど失われてしまった「きょう」は、決して取り返しがつかないのだということは、忘れないようにしよう。「きょう一日だけでも好く生きなければならない。」ということを、いつも頭のどこかに留めて置こう。

おそらくこの問題を作った人は、そういうことを小学生に教えようとして、この詩を採用したのだろうと思います。けれど、こういうことはいくら言われてもわかるものではない。この詩を通して詩人の言いたかったことは何ですか、という問いに、「一日一日は取り返しのつかないものだから、日々を懸命に生きていかなければならないということ」と答えを書くことはできても、それがどういうことかは、ほんとうにはわからないのではないでしょうか。

この詩の意味がわかるのは、日々を無為のうちに過ごし、ああ、今日も何もできなかった、とほぞを噛むような夜を幾夜も重ね、それでもなお「明日こそ」と決意する夜を過ごしたことのある人、あるいは充実した仕事をし、周囲からも認められ、天にも昇るような気持ちを味わった今日すらも、ほかの何千、何万という日々のなかに紛れ込んでしまうことを知っている人、失意の底で、二度と夜が明けることもあるまいと思ったのに、それでも朝は来たのを知っている人、そういうさまざまな夜の経験を、自分の内に刻み込んでいる人なのではないかとわたしは思うのです。

新しい年は、古い年が去っていくことを同時に意味する。
毎日、毎日が去っていく。
坂口安吾も言っています。「時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分が生れてから、死ぬまでの間です。」(「不良少年とキリスト」)
これがどういうことか身をもって知っているのが大人なのだ、と。
だからこそ、
「きょう一日だけでも好く生きなければならない。」

そんな日を、一日でも積み重ねていきたいと思います。

今年がみなさまにとってすばらしい年でありますように。

今年もよろしく。

鶏頭




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