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鶏的思考的日常 ver.30〜昔語り 笑ってくれるは 山ばかり 編〜



2009-03-27:生理的に好き・論理的に好き

「わたし、あの人が生理的にダメ」という言い方があるが、おもしろいもので、「生理的に好き」という言い方はあまりしない(少なくともわたしは聞いたことがない)。「生理的に…」とくれば、そのあとにつづくのは「きらい」とか「イヤ」とか、要するに拒否する言葉が続いていく。
「声の高い男の人は生理的に受けつけないの」
「数字は生理的に合わない」
「太宰文学は、生理的にダメだ」……

おまけに、食べ物の好き嫌い、衣類の材質の好き嫌いや場所の好き嫌いなどのような、直接身体の「生理」に関わるようなことについても、この言葉はあまり使わない(「わたしはイカの塩辛が生理的に嫌い」とか、「化学繊維の肌触りは生理的に受けつけない」、「寒い部屋は生理的にイヤ」などとは言わない)。おかしいことに、「生理的な嫌悪感」は、どうやら身体生理に直接には関わらないことに使うらしい。つまり、このときの「生理的」は一種のメタファー(比喩)なのである。

理由ははっきりとはわからないのだが、執拗な嫌悪感はどうしようもない。そんなとき、わたしたちは「肌ざわりのよくないシャツを着たときの違和感」や「口に入れた食べ物の舌触りの悪さ」などになぞらえて、「生理的」という言葉を使うのだろう。

好きと嫌いというのは、どこまでいっても「理由」を超えたものだ。
もちろん、ある種の食べ物のように、これを食べると胃にもたれるから嫌い、とか、それを食べてお腹をこわしたから嫌いになった、とか、毎日食べさされて飽きてしまった、などというように、はっきり原因が特定できることもある。だが、多くのものは、記憶も定かではないころから、理由もはっきりしないまま、好きになったり、嫌いになったりしてきたのだろう。

だが、ある食べ物が好きだったり、嫌いだったりするからといって、「自分はどうしてミョウガが好きなのだろう」とか、「アボカドがどうしても口に合わないのはなぜなのだろう」とあまり考えたり、説明を求めたりしない。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、と割り切って平気だ。だから、「ミョウガが好き」「アボカドは嫌い」と言うだけだ。

ところがどうしてもやらなければならなかったり、世間的な評価が高かったり、誰かと行動を共にしなければならなかったりするときに、拒否感が起こってくると、まず自分にその理由を説明しなければならなくなる。「生理的にいや」と拒否するのは、多くの場合、まだ実際にその人とつきあってみたこともなければ、それをやってもいないケースがほとんどだ。相手やそのことをほとんど知らないのに、その人と話をしたくない、そのことをやりたくない、と思ったとき、どうしてなのだろう、と考えてしまう。

そのネガティブな感情を、何とか正当化しようとして出てくるのが「生理的」という言葉なのだろう。「生理的」のあとに拒否する言葉が続くのは、そのためだ。生理的にきらい、と言ってしまえば、もうそれで説明がつくとでもいうように。

だが、その「生理的」は、あくまでもメタファーだから、ほんとうの身体生理とは関係がない。たとえ、その人が「生理的に嫌い」で、その人を見たら調子が悪くなることがあったとしても、それはその人に対するネガティブなことを考えている自分のせいなのだ。「生理的に嫌い」というのは、あくまで自分の感じ方であって、その対象とは無関係だ。「あの人が生理的に嫌い」という人は、まるで相手に咎があるかのように言うが、相手とは関係がない。そう言っている自分が、何らかの理由で、相手を嫌いなだけだ。

だが、わたしたちがある感情から自由になるためには、その感情を理解しておかなければならない。「生理的に嫌い」で片づけているうちは、決してその拒否感からも自由にはなれない。「生理的に嫌い」なのは、自分がどういう状態にあるからなのか、ということを「論理的に考える」必要があるのだろう。多くの場合、「身体生理」とは無関係に、その原因は見つかるはずだ。

鶏頭




2009-03-26:エレベーターにて

寒の戻りというのか、三月の終わりというのに、今日はずいぶん寒い日だった。
たまたまエレベーターに乗り合わせたおばあさんに、「今日は寒かったですね」とありきたりのことを言うと、そのおばあさんは「ほんとにねえ、今週いっぱいは寒いらしいですよ」と言ったあと、「今日、初めて人としゃべったわ」と少し笑った。夕刊を取りに行ったらしいおばあさんは途中の階でに降りていき、「今日、初めて人としゃべった」おばあさんとはもうちょっと話せたらよかったなあ、と思いながら、わたしはひとりだけ、自分の階までエレベーターで昇った。

いまから十年以上前のことだが、わたしとほぼ同じくらいの年代の女性の隣りに住んでいたことがある。
その人とは、時折り、朝の戸口やゴミ捨て場などで顔を合わせるのだが、こちらから「おはようございます」「こんばんは」と声をかけても、向こうは口のなかでもそもそと返事が返ってくればよい方で、偶然通りですれちがうようなときは、だいぶ前から傘で顔を隠したり、下を向いていたりして、気がつかないふりをされてしまうのだった。

しばらくのあいだ、わたしの部屋でかけている音楽がやかましいのだろうか、何か気に障るようなことをしてしまったのだろうか、と、心配だった。

いろいろ考えたあげく、特に理由も見つからない、おそらく心配するようなことはないのだろう、と、考えることにした。おそらくあの人は、「顔見知り」ではあっても、自分がつきあいたくない人は、「知らない人」のカテゴリーに入れたい人なのだろう、と。確かに「顔見知り」、「どこの誰か」は知っていても、それ以上何も知らないし、知りたくもないような人とは、挨拶ひとつするのも、人によってはわずらわしいことなのかもしれなかった。

向こうから、あ、隣の人が来る、挨拶しなきゃならないなんて、いやだ、面倒だ、どうしよう……などとぐだぐだ考えるより、「こんにちは」と一声かければすむだけの話だ。だが、考えてみれば、小学生のころはやはりわたしも、同じようなことを考えていた。

学校へ行くときだったら、通りの掃除をしている近所のおばさんは、「行ってらっしゃい」と声をかけてくれるから、それに合わせてこちらも「行ってきます」と答えていればいい。だが、そうではないときに、向こうから歩いてくる近所のおばさんに、どのタイミングで「こんにちは」と頭を下げたらいいのだろうか、と真剣に悩んでいた。

母親と一緒に歩いているとき、近所の人に会おうものなら、これは大変だった。こんにちは、ではすまないのである。おとな同士、立ち話をするのなら、いっそ、わたしのことなど忘れてくれればよいのに、何かあるとこちらに水を向けてくる。聞かれたことに、はきはきと答えなかったり、間の抜けた受け応えなどしようものなら、のちのち母親にひどくなじられたものだった。

文房具など自分のものを買うときは、わたしが「ごめんください」と言わなければならない。黙ったまま店に入ろうものなら、あとでまた怒られる。「ごめんください」とアルミサッシの引き戸を開けて店に入り、「三角定規をください」と言って、店のおばあさんに出してもらう。あれこれ聞かれると、これまたはきはき答えなければならなかった。

ところが、たいてい文房具屋のおばあさんは、聞き取りにくい声で、わたしにはよくわからない、むずかしいことを聞いてくるのだ。いま思うに、ものさしは何センチか、竹のものさしがいいのか、プラスチックのものさしか、ぐらいの質問だったのだろうが、何を聞かれているのかもわからず、母に「こうでしょう」「○○が要るんでしょう、自分でそう言いなさい」と、その場で小声で指図されるだけでなく、帰る道すがら、ずっと小言をくらうのだった。

回覧板もよく持って行かされた。それにも決まりがあって、
「ごめんください。隣の○○です。回覧板を持ってきました。よろしくお願いします」
と玄関口で言うのだ。なにしろ小さい家が軒を並べているのだから、ちょっと大きな声を出せば、わが家からも充分に聞こえる。声が聞こえなかったり、口上をきちんと言わなかったりしたら、待っていたのは「ご苦労さま」の言葉ではなく、小言の方だった。

ほどなく玄関が開いて、隣のおばさんがエプロンで手を拭きながら出てくる。記憶のなかではいつも奥から大根を煮るにおいがただよってくるのだが、持っていったのは、そんな忙しい、夕飯前の時間を避けていたときの方が多かったのではないのだろうか。顔はしょっちゅう合わせていても、子供のわたしにはほとんど縁のない人だった。それでも、わたしにとっては「隣のおばさん」という関係の人だった。

自分から親しくしたいと思う人ではない人とつきあうのは、やはり億劫だし、気後れがしたり、めんどくさかったりするものだ。おそらく「ごめんください」と言って店に入り、自分の希望するものを相手に伝えて、それを出してもらうようなことも、多くの人にとって億劫だったり、気ぶっせいだったりしたからこそ、そんな店は廃れてしまったのだろう。

それでも、当時は、さまざまな親しさや関係のレベルに応じての、人とのつきあい方というのが、おそらくわたしたちの社会にはストックされていた。わたしはしつこく叱られながら、それを身につけさせられたのだ。世の中、身内や友人と、赤の他人の二種類しかいなければ、ある意味、簡単ではある。けれども簡単なことは、わたしたちの毎日を、決して豊かにしてくれるものではないのだろう。

母からくどくどと小言を言われながら育ったことを、今日初めて良かったな、と思った。

鶏頭




2009-03-24:何もない一日

「こんな時代だから」、買い物をしても、何となく服やアクセサリも買いにくくて、毎日が楽しくない、という話をしている人がいた。

「こんな時代」というのが実際にどういうことなのか、具体的な出来事があったり、何かをはっきりと把握しているわけでもないだろうに、ただ「買いにくい」という気分になってしまうというのが、まさに「時代の気分」ということなのかもしれない、とも思う。

ただ、服やアクセサリを買っていれば楽しいのか、そもそもそんなものをめったに買うことのないわたしには、あまりよくわからない。あれこれ選ぶのが楽しさというのをまったく理解しないので(いや、タワレコに行ったらそんな気分になるかな。あそこに行くと、セロファンとプラスティックのにおいを嗅ぐだけで、幸せな気分になる)、その時間を持てないのが楽しくない、ということなのだろうか。

だが、もともと毎日というのは、それほど楽しいものではないだろう。これということが何も起こらない、昨日と同じような一日がまたやってきて、やらなければならないことのいくつかが自分を待っていて、それをこなしているうちに終わってしまう、それが日常というもののはずだ。

新聞を見ていると、連日いくつもの事件が起こっている。ドラマでも登場人物は恋愛したり、事件に巻き込まれたり、大忙しだ。だが、実際のわたしたちの日常では、ほとんど何も起こらない。起こると大変だから、起こらないようにあちこち気を配って生きているのだ。

山本周五郎の、数少ない現代小説に『寝ぼけ署長』というものがあるが、これは、しょっちゅう昼寝をしている警察署長“五道三省”を主人公とした連作短篇である。

五道三省がいるところ、何も事件が起こらない。運がいいからあんな昼あんどんでも署長が務まる……、と周りには見なされているのだが、実は、それもそのはず、何かが起こる前に、目立たないよう、気付かれないよう、五道三省が気を配っているからだ。

だが現実に、わたしたちはさまざまな面で、五道三省と同じ気配りを続けている。
隣人とのあいだにトラブルが起こらないよう、ゴミ出しには気をつけているし、クラスのなかでももめ事を起こさないよう、譲るべき点は譲る。家族が病気にならないように、食事や衛生に気を配っているお母さんもいるだろうし、お父さんになった男性は、車を運転するときには、爽快感を求めて飛ばす代わりに、交通法規を守りながら、周囲に気を配って運転する方を選ぶだろう。

小説でも、五道三省の気配りは、たとえ事件を未然に防いでも、賞賛されることもなければ、感心されることもない。あんな寝ぼけ署長でも勤まるんだからなんて運がいいのか、などと悪口さえ言われる始末である。

けれど、小説なら、わたしたちの目には、その気配りがどのように実を結んだかは見えてくる。現実のわたしたちには、その果実は見えない。ただ、何もない日々が続くだけだ。

みんなで協力しながら社会を成り立たせているわたしたちは、「何も起こらないよう」、小さな努力を日々積み重ねているのだろう。そのことは、誰かが目立ったり、脚光を浴びたりするような努力の対極にあるものだ。楽しかったりするようなものではないが、それが楽しくないのが、幸福だということなのかもしれない。

新聞やドラマでしか「人生」を知らない十代の子供が、何も起こらない自分の毎日にいらだつのは理解できる。わたし自身、「何でもない」自分に耐え難い時期が結構長く続いた。

それでもいつからか、「これといって楽しいことのない」毎日が、どれだけありがたいことか、そうして楽しみとはほど遠い、ありふれた自分の仕事を、評価とは関係なく、ひとつひとつ丁寧にやっていくことが大切なのだとわかってきた。それが実行できているかとなると、まだまだなのだけれど。

毎日というのはもともと「楽しい」なんていう尺度とは縁のないものだといったん理解してしまえば、逆に、春の日差しがそれだけでうれしくなってくる。こういうのは、買い物よりもきっと楽しいことのように思える。

鶏頭




2009-03-14:百年に一度の大安売り

昨年の秋以降、「百年に一度の危機」という言葉が、頻繁に目に飛び込むようになってきた。おそらくその言葉が指している「百年前の危機」というのは、1929年の大恐慌のことなのだろうが、1929年と今回が何らかのかたちで共通しているからというより、1929年の大恐慌以来、最悪の金融危機である、ということが言いたくて、「百年に一度」という表現が使われるようになったのだろう。

以来、その言葉は現在の不況全般を指す表現に用いられるようになった。だが、それは、つねにその言葉を用いる人の「百年に一度」という実感を伴っているのだろうか。わたしにはそれがはなはだ疑問に思われるのだ。

まず何よりも、現在進行形で、あらゆることが日々刻々と変わっていっている出来事をとりあげて、終わってしまい、もはや動かない歴史的事実と比較することは、実際にはできない。ただ、そのなかにいるわたしたちにできるのは、過去の出来事を現在に重ね合わせ、共通点・相違点をさぐることだけだろう。何のために?――もちろん、未来図を描くために。

ところが当初、その言葉を使った人がそれなりの意味をこめて使っていたとしても、それが広く行きわたることによって、一種の定型文としてストックされ、本来の意味を失ってしまう。百というきりのいい数字が、「一日千秋の思い」「千載一遇の好機」などと同様の使われ方、誇張表現の一種になってしまうのだ。

誇張表現になってしまった「百年に一度の危機」という言葉は、危機の深刻さを訴える以上の意味をもはや持たなくなってしまった。さらに、あまりに頻繁に使われるせいで、受け手の側もその言葉に麻痺してしまい、深刻さすらも伝えていない。

そんな言葉を使っていいものだろうか。

佐藤信夫は『レトリック感覚』のなかで、誇張法を使ったこんな愉快な文例をあげている。

 ぼくが、じゃ明日から来ますと答えると支配人は総金歯をにゅっとむいて笑ったので、あたりが黄金色に目映く輝いた。

(井上ひさし『モッキンポット師の後始末』)

もちろんいくら総金歯であろうが、あたりがまばゆく輝くことはない。これはあきらかに嘘だ。けれども、人をだますことを目的とした嘘が、密かに紛れ込むのに対して、誰の目にもあきらかな嘘、だまされる人もない嘘は、嘘が、あからさまな嘘であることによって、この表現自身への批判となっている。この表現は、自己批判を含んでいるために、上質のユーモアを生む、と佐藤は読み解く。

「百年に一度の危機」「百年に一度の不況」「百年に一度の……」この言葉の空虚さは、「百年に一度」が実感も覚悟もないまま使われ、そのために嘘であるかどうかの吟味すらなされていないことから来るのだろう。

ならばいっそ、これから「百年に一度のいい天気」だとか、「百年に一度の仕事」だとか、日常でどんどん粗雑に消費することによって、みんなが飽きることで葬ってしまえばいいのかもしれない。

鶏頭




2009-03-11:パセリの話

わたしはだいたい香味野菜のたぐいは何でも好きなのだが、そうしたものが好きになったそもそものきっかけは、やはり付け合わせのパセリだったのだろう。

家族で外食、といっても、ほとんどのときはデパートの食堂だったのだろうが、そういうところに行くと、お子さまランチでもハンバーグでも海老フライでも、たいてい端っこにパセリがついていた。家では決して目にすることのない、緑のあざやかな親指の先ほどのパセリを指でつまんで食べると、ちょっと苦いような、青臭いような、独特の味がした。わたしにとって、外食を象徴するのが、そのパセリだったのである。

ところが一緒に行った家族は、パセリなんて苦い、おいしくない、と言うし、あろうことか母などは「これは食べるものではない」とまで言う。とんでもないと、みんなのを集めて、自分の皿に集めて丁寧に立てた。そうすると、緑の小さな花束のようで、見ていてとても楽しかった。もちろん最後はひとつずつつまんで、全部食べた。

幼稚園のころ、近所に住んでいたユカちゃんと、よくおままごとをして遊んでいた。ある日ユカちゃんが「田中のおばちゃんの庭に、小さい木があるよ」と言う。せまい通りを越えたところに、板塀に囲まれたその家はあった。勝手に門をくぐって、庭先に出る。ユカちゃんが指さした先には、まわりの葉にくらべてひときわ濃い緑の葉むらが見えた。縮れた葉っぱを見ても、これがあのパセリだとは思わなかったような気がする。地面から枝分かれした濃い緑の茎の先に、それぞれに葉のかたまりを戴いたそれは、お子さまランチの端に載っているものより、絵本に載っている遠い世界の木のようだった。枝をひろげた木を、そのまま縮小したような。
ユカちゃんは、「これが何年も何年もすると木になるんだよ」と言い、わたしもそれを疑わなかった。

ところが、ゆくゆくは木になるはずのそれを、ユカちゃんはもらっていこう、と言う。
「取っちゃダメなんじゃない?」とわたしが言うと、「お花だったらダメだろうけど、これは草だから大丈夫だよ」とユカちゃんは自信ありげに断言する。確かに、周囲にはオレンジのマリゴールドや黄色いキンセンカが咲き乱れている。そんな花に較べて、花壇の隅、雑草のような葉っぱがぽつぽつと芽を出しているそばにある「小さな木」は、あまり大切にされているようには思えなかった。

ユカちゃんは、二株とも根っこからすぽりと抜き、ひとつをわたしにくれた。そうしてわたしたちは、手に一つずつ収穫物をぶらさげて、おもちゃのまな板とおもちゃの包丁で調理したのだった。

その夜、ユカちゃんのお母さんが家に来た。大人ふたりで頭を寄せて、ひそひそと話している。やがて母に呼ばれた。
「あんた、田中さんのところの庭からパセリを抜いたの?」
「あれ、パセリだったの?」
何年かすれば立派な木に育つはずの「あれ」は、お子さまランチの端に載っているパセリだったのだろうか。わたしはおどろいてしまった。あれだけあると、いったい何皿ぐらいのお子さまランチに載せることができるだろう。
「あと、ユキノシタの芽も抜いたの?」
「雑草のような葉っぱ」とわたしが思ったのは、ユキノシタだったのだろうか。だが、そちらの方は、ユカちゃんは抜かなかったような気がする。

「わたしは抜かなかったけど、ユカちゃんが抜いた」
別に自分は罪を逃れるつもりはなかったのだが、実際に抜いたのは、ユカちゃんの方だった。とはいえ、それでおままごとをしたのはわたしも同罪である。うちの庭の隅に、切り刻まれたパセリが、半ばひからびて転がっているはずである。

わたしとユカちゃんは、それぞれのお母さんに付き添われて、田中さんのお宅にあやまりに行った。玄関の引き戸をがらがらとあけると、コンクリートのたたきがあって、奥から田中のおばさんが出てきた。結構長いあいだ、小言を言われ、母に押さえつけられて、何度も頭を下げさせられた。いったい何を言われたか、まったく覚えていないけれど(聞いていなかったのかもしれない)、小さな電球のオレンジ色の灯が照らす暗い玄関はいまでもはっきりと覚えている。

庭先にうっちゃられていたパセリは、母が拾い集めて、ジャガイモや挽肉とまぜてコロッケを揚げてくれた。翌日食べたパセリ入りのコロッケは、それはそれはおいしかった。

鶏頭




2009-03-10:カレーライスの思い出

子供のころ、カレーというと、ちょっとしたご馳走だった。

いまとちがって、当時の牛肉がいくら高かったといっても、カレーに入れるのは、スネとかテールとかだったし、あとは勝手口の内側につるしてあるタマネギと、台所の棚の下にいつも転がっているようなにんじんとじゃがいも、それと金色の縁取りのある「S&Bゴールデンカレー」で作るのだから、格別にお金のかかった「おかず」というわけでもなかったはずだ。

だが、そういうこととは無関係に、カレーを食べるのは、家族の誕生日だったり、通知票をもらって帰る学期末だったり、ピアノの発表会が終わった日だったりした。父はあまりカレーが好きではなかったので、そんな日は子供たちに譲ったのだ。真ん中のくぼんだ、金色の縁取りのある白いお皿を左手で軽く傾けるようにして、おおぶりのスプーンを手早く動かして端からすくって食べていた父の姿は、いかにも好きでないものを、さっさと片づけてしまおうというもので、それを見ていると申し訳ないような気持ちになったものだ。

それでも、夕方ごろからカレーの匂いが家のなかにたちこめ始めると、なんとなくうきうきした気持ちになるのだった。純粋にカレーの味が好きだったというよりも、ちょっとしたハレの日の気分に浸ることができるのがうれしかったのかもしれない。

中学に入ってから、家庭科の調理実習でカレーを作った。小麦粉を炒めるところから作るのである。「S&Bゴールデンカレー」で作る家のカレーより、黄色くて豚肉の薄切りの入ったカレーは、なぜか懐かしいような味がした。

学校の食堂のメニューのなかにカレーがあったが、まずいと評判だった。小麦粉ではなく、片栗粉を使った、妙に茶色い、ドロドロしたカレーである。ほかのメニューがそれほどまずくはなかったので、カレーのまずさはひときわ目立ったのだ。

食堂のアンケートや要望には、かならず「カレーがまずい」「あのカレーをなんとかしてくれ」というのが出されていた。ところがその返事はいつも「限られた費用で、良い肉を使うわけにはいかない」とあったのだが、わたしたちはみんな、片栗粉を使うからだ、と思っていた。調理実習のときのように小麦粉を使わないからだ、と。家庭科の先生に、食堂に指導に行ってくれ、と頼んだらどうだろう、と言っていた子もいたような気がする。大人数分作るのだから、どうやったってまずくなるはずがない、それがそんなにまずいのは、作り方に問題があるにちがいないのだ、と、わたしたちはひたすら「片栗粉」に罪を負わせていたような気がする。

ところがそれだけ評判の悪いカレーだったが、中学・高校とわたしがいた六年間のあいだに、ついぞおいしくなった、という噂は聞かなかった。どうしたら、何を入れたらそんなにまずいカレーを作ることができるのか。片栗粉はそこまで重要な役割を果たしていたのか。そのことは未だに謎のままである。

大学に入って自炊をするようになって、カレーを作ったこともある。家と同じ「S&Bゴールデンカレー」を使ったので、家で食べていたのと同じ味になった。ところがひとりぶんを作る、という発想がなく、五皿分くらいをまとめて作ってしまい、翌日は朝も晩もカレー、さらにそのつぎの日も朝晩カレー、ということになってしまって、しばらくはカレーなど見るのもいやになってしまったものだ。

英会話教室でバイトをするようになって、アメリカ人やイギリス人の知り合いができて、「一番日本らしい食事」を聞かれて作ってやったのがカレーである。イギリス人は、カレーならイギリスでもよく食べる、と言っていたのだが、実際に食べてみると "It's Japanese taste(日本の味だ)." と言って納得していた。

カレーというものを、外で食べたことが数えるほどしかない。「トップス」のカレーは、なかでもおいしくて、わたしは未だに好きなのだが、それでもあれはわたしの記憶にあるカレーとはちがう種類の食べ物である。

いまだにカレーの匂いをかぐと、白々とした蛍光灯の下で食べた子供の頃の情景がよみがえってくる。なんとなくうれしい気持ちと、父親に気兼ねをする気持ちが入り交じり、一家団欒の楽しさの記憶というのとも少しちがうのだが、子供の頃、何が一番おいしかったか、と聞かれて答えるのは、やはりカレーライスのような気がする。

鶏頭




2009-02-28:風邪の記憶

女の子ということもあるのだろうが、小さいころ、外で走り回って遊んだという記憶が数えるほどしかない。その数少ない記憶が、いつ、どこで、誰と、という具合に、細部にいたるまで異様にはっきりしているので、おそらく当時のわたしにとって、それらはいかにも特殊な体験だったのだろう。

そのころ遊びといえば、スケッチブックにクレヨンで絵を描いたり、人形たちに壮大な王朝物語を演じさせたり、あとはもう本を繰りかえし読んだりするぐらいだったのではあるまいか。そうした遊びのことは、何をした、ということではなく、ガラス戸を開け放った廊下にぺたっとすわって人形を動かしているときに、不意に降り出した天気雨の、不思議なほどきらきらしていた雨粒とか、スケッチブックからはみ出して畳についてしまった水色のクレヨンの油っぽいにおいとか、本を読んでいた部屋の畳の縁の模様とかの記憶と一緒になって残っている。

たいてい家にいたわたしにとって、夏も冬もほとんど関係なさそうなものだが、そのころ冬ならではの記憶といえば、扁桃腺を腫らして高い熱を出して寝込んだときのものだ。

石油ストーブの上には薬缶が載って、チンチンとかすかな音が聞こえる。ときどき湯冷ましをもらう以外は、ほとんど何も口にしないせいで、口のなかが妙にねばつき、舌の奥に苦い味が残ったような気がする。そうしてかならず三度、スプーンで飲まされる水薬の、変な甘ったるさ。そんなときかならず、以前小児科で見かけた奇妙な男の子のことを思い出すのだった。自分と同じくらいの年の子で、お母さんが帰り際に水薬をもらうや否や、それちょうだい、と手を伸ばし、薬ビンからぐびぐびと口飲みし、そこまで、と言われると、もっと飲ませろ、とダダをこねていた子供のことだ。あの子はこの味のどこがそんなに気に入ったのだろう、と、水薬を飲むたび、不思議だった。

やがて症状も落ち着いてくると、苦しさもなくなる。それでも足の裏の熱さだけは気持ち悪く、布団のつめたい場所を探してそこに置いても、そこもまたすぐに温まってくるのだ。そのころは意識もはっきりしていて、本棚の背表紙を眺めながら、一冊ずつその中身をあれやこれやいろんなことを考えているのだが、寝た記憶もないのに、部屋の影が急に向きを変えているのだった。

ときどき冷たい手が額の上に載せられる。もう熱はないね、という言葉といっしょに、しんどくない? とか、何か食べたいものはある? とか、寒くない? とかと聞かれるのだが、その質問にはほとんど意味はないし、答えにも意味はない。それでもかまってもらえるのはうれしかった。

そこから少しずつ起きる時間が長くなってくると、もはやほかの日々とまぎれてしまって、記憶には残っていない。明日は久しぶりの学校だという夜は、クラスの様子はどうなっているだろう、と少し緊張しながら、ランドセルに時間割に合わせて教科書やノートを詰めたものだった。その緊張は、学校へ入るまで続くのだが、たいがい教室に入る前にクラスメイトに声をかけられて、自分がそれまで休んでいたことさえも忘れてしまうのだった。

鶏頭




2009-02-23:ご用聞きのおじさん

最近はゴミの分別がやかましくなって、ペットボトルとびんを一緒の袋に入れて出すと、その袋だけが捨て子のように取り残されてしまう。収拾が終わったあと、ぽつんと転がっているゴミ袋を見るのは、なんともうらさびしい眺めなので、せめて自分の出したゴミはそんな目に遭わないよう、冷蔵庫に貼ってある分別表を見ながら、ちゃんと振り分けていく。

資源ゴミというのは月に二回なのだが、出先でついペットボトルのお茶を買ってしまうような夏はともかく、いまのような季節だと、びんもペットボトルも缶も、たいしてあるわけではない。小さなポリ袋にひとつふたつ入れたのを三つぶらさげて、ゴミを出しに行く。

ゴミ置き場も三つに分けられているのだが、ペットボトルが圧倒的に多い。この季節でもペットボトルがあれだけ出ているということは、お茶はもうペットボトルで買ってくるものになってきたのだろうか。考えてみれば、醤油もみりんもペットボトルに入っている。

わたしが子供の頃は、そういうものは全部一升瓶に入っていた。

当時は家に酒屋さんと米屋さんが「ご用聞き」に来ていたのだ。店に買い物に行くのではなく、店の人が月に一度ほど「ご用はありませんか」といって、注文を取りに来る。いまでも酒屋のおじさんの出っ張ったお腹に巻き付けられた、醤油で煮しめたようないろの、ずたぶくろのような前掛けが目の前に浮かんでくる。そこから帳面を出し、耳にはさんだボールペンで、注文の品を書きつけていた。

次の日には勝手口の横に黄色いプラスティックのケースに入ったキリンビールや、水色の一升瓶に入った醤油、そうでなければ10キロ入りの米袋やプラッシーが積んであった。プラッシーが来るとうれしくて、冷蔵庫に何本も入れて、「ほかのものが入らなくなる」と怒られたものだ。

プラッシーと言って、わかる人がいるんだろうか。
おそらく200mlだったと思うのだが、瓶に入ったジュースだ。当時、ジュースというと、果汁は入っていなかったのだが(高校時代、わたしが持っていたカタカナ語の英和辞典には、「ジュース」の項目にjuice ではなく pop という単語が載っていて、「日本のジュースは果汁100パーセントではないので、juice ではない」と注釈がついていた。だが、そのころは100パーセントのオレンジジュースはふつうに売っていたのだが)、このプラッシーにはちゃんとみかんの果汁が入っているのだ、と米屋のおじさんは自慢げに言っていた。粒が入っているから、よく振って飲むんだよ、と。

冷蔵庫で冷やして飲むとおいしくて、やっぱり果汁入りはおいしいなあ、と思っていたのだが、いま考えてみれば何パーセントくらい入っていたのだろう。のちに百パーセントの濃縮還元ジュースを初めて飲んだとき、プラッシーとは味がずいぶんちがうなあ、と思ったものだった。

オレンジ色ではなく、オレンジがかった黄色で、色が薄い。のちに小学校で「プラッシーには米のとぎ汁が入っている」という話を聞いて、そういえば微妙に白濁しているような気がして、家に帰ってあわてて母に聞いて確かめたこともある。「そんなわけないでしょう」と一笑に付されたが、ガラス瓶を透かして見ても、妙に白っぽいような気がして、もしかしたら、という疑念は消えないのだった(子供というのはそういうことを言いたがるものなのかもしれない。のちに「キャラメルコーンに芋虫が入っている」というのを聞いたときは、さすがに嘘だと思った)。

米のとぎ汁疑惑は百パーセント払拭されたわけではなかったが、プラッシーはよく飲んだ。ご飯が食べられなくなる、という理由で、一日一本、と制限されていて、休みの日などはどのタイミングで飲むか、朝からずっと考えていたような気がする(なんというしょうもない一日の過ごし方だ……)。夜まで待って、風呂上がりに飲もうとしたら、こんな時間に飲んだら虫歯になる、と栓を抜いたところで言われて、涙が出るほどくやしかった(どうしてこういうしょうもないことはこんなにはっきり覚えているのだろう)。

飲み終わったプラッシーは、さっと水洗いして、ケースに入れておく。そうすると、つぎの米と一緒に、新しいプラッシーは届くのだった。ガラス瓶には底の方に傷がけっこうついていたが、そういうものだろうと思っていた。

わたしの家がいつまで酒屋や米屋の掛け売りを続けていたのか、わたしはほとんど記憶がないのだが、勝手口の脇にペットボトルが置いてあったのは見たことがない。スーパーでは醤油がペットボトルに入って売られていても、家に届くのは一升瓶だった。

掛け売りが廃れたのは、消費者がペットボトルで買ってくるようになったせいだろうか。ビールはいつのまにか缶が主流になり、調味料はペットボトルに入って、持ち運びが便利になった。

いままたリユースの声があちこちで聞かれるが、以前のような掛け売りのシステムのないところでは、なかなか定着もむずかしいかと思う。

酒屋のおじさんは話し好きな人で、一度注文を取りに来ると、三十分ぐらいは勝手口で話し込んでいた。米屋のおじさんにはプロ野球のオープン戦のチケットをもらったこともある。掛け売りが復活すれば、それはそれで助かる人も多いように思うのだが、小売店そのものがなくなったいまとなっては、そういうシステムもむずかしいのかもしれない。

鶏頭




2009-02-22:それ、いくら?

ちょっと前に、以前、下の階が火事になった話をした。その後日談である。
火事から二週間ほどがたったころ、その火事を出した家の人が「お詫び」としてお金を持ってきた。自分の部屋が全焼し、住むところもなくなった人からお金を受けとるのは、何か心苦しかったのだが、まあこういうときに見舞い金を払うというのは常識的に考えてもふつうのことだろうと思って、わたしは封筒を受けとった。

不思議なもので、そんなものの相場があるのかどうかさえ知らなかったはずなのに、わたしの頭のなかには「だいたいこのぐらい」という目安があったらしい。封筒を開けて、思ったよりはるかに多い紙幣が入っていたのにびっくりして、あわててその人に返しに行った。

熱であおられた鉢植えがダメになったり、網戸が溶けたり、窓ガラスにひびが入ったりの実害はあったにせよ(窓ガラスに関しては、共有設備ということで、アパートの管理組合が入っている保険でまかなわれることになっていた)、それ以上なかったのだ。そんな額は受け取れない。

受け取ってください、こんなに受け取れません、の押し問答があったのち、火元の人は「じゃ、どのくらいが適当ですかねえ」とわたしに聞いてきた。
わたしとしても、答えられるはずがない。いっそ「お詫びの気持ちだけ」の方がすっきりする、と思ったわたしがそう言うと、それは困ります、と相手は言う。そこで相手は、じゃ、半分ということで、と、封筒から半分を抜いて、残りを渡してくれた。

半分でも、実害と比較すると、もらいすぎなのだ。それでも、これくらいならいいか、という範囲であるように思えて、お気遣いありがとうございました、といって受け取った。

だが、受け取って良かったのか、のちのち気になった。
何人かの人に、もらうべきだったのか、とか、そういうときの相場などを聞いてみた。

みんな、口をそろえて「それはもらうべきだ」と言う。もらうのは当然だ、と。
ところがいったいどのくらいの額が適当か、となると、みんな困ってしまうのだ。くれるというものなら、そのままもらっておけばいい、という人が大半だった。
相場について誰に聞いても、「火事に遭った知り合いに「お見舞い」を出すんだったらわかるけれど……」と口ごもる。その相場にしても、何か根拠がある数字ではなく、なんとなくみんなそのぐらいを出しているらしい、ぐらいのものでしかないのだった。

なかには「怖い思いをしたのだから、それだけもらったって全然多すぎるとは思わない」という人もいて、「怖い思い」に果たして値段がつけられるのだろうか、とこれまた頭が痛くなってしまった。わたしはそれほど怖い思いをしたのだろうか、とつらつら思い返してみれば、真上の自分の部屋が類焼することはまずないだろう、と、ヘンに落ち着いていたような気もして、一層受けとったことが申し訳ないような気になってきた。
なんにせよ、値段のないものに値段をつけることのむずかしさを感じた経験だったのである。

ネットの広告に、「あなたの適正年収を診断します」というものがある。学歴や資格など、いくつかの項目に記入すると、「適正年収」が出るらしいのだが、これはいったいどうやって割り出すのだろうか。公務員の給与あたりを基準にしているのだろうか。

だが、その「尺度」がいったいどこから割り出されたものなのだろう。しかも、それを自分に当てはめる根拠がどこにあるのだろうか。だが、こういう基準さえないところでは、自分に値段をつけることは不可能なのだ。わたしたちは暫定的に、そういう基準が適切であるかのようにふるまっている。

慰謝料というのも、よくわからないものだ。
知り合いに慰謝料をもらって離婚した人がいるが、離婚が成立して慰謝料をもらったときに、何ともいえない空虚感を感じたそうだ。いろいろもめて、調停を申し立てて、それが銀行に振り込まれた数字となって表れて、もちろん調停でそれを受け入れてはいても、「自分の苦しみはこの値段だったのか」と愕然とする思いだった、という。「その気持ちは経験者じゃないと絶対にわからない」と言っていた。わたしも聞いていて、そんなものなのだろうと思ったのだった。

わたしたちは自分の能力とか、感情とか、本来なら値段のつけようのないものに値段をつけている。別の言い方をすれば、本来「質」としてあるものを、「量」に置き換えて、計測しているのだ。「わかったかどうか」をテストの点数で判定する小学生時代からの経験をふまえて、わたしたちはふだんそれを当たり前のように受け入れているけれど、それは本来、ずいぶんおかしなことだ。その置き換えが適切なものなのかどうなのか、判断の根拠などどこにもないからだ。

「質」の「量」への換算は、日常あまねく行きわたっていて、わたしたちはそのことをふだん意識することもない。ところが非日常的な感情の激しい揺れを経験したときに、不意に、「質」が「量」として計測されることの違和感が兆す。
なぜ、それにその値段がついているのだろう。
その換算は、いったいどんな根拠に基づいてなされているのだろう。
切り換えられた瞬間、「質」は、それこそ変質してしまうのではないか。

そうやって考えてみると、わたしたちはおそろしく危うい世界に立っているような気がしてくる。類焼の可能性が低い、下の部屋の火事よりは、わたしはそのことがよほどおそろしい。

鶏頭




2009-02-18:恥ずかしいことですよ?

冷凍餃子事件の頃だから、一年ほど前のことになる。
ニュースのなかで、街頭インタビューをやっていた。

餃子事件についてどう思いますか、とマイクを向けられて、主婦とおぼしき女性が、「自分が食べるものを輸入に頼るなんて、恥ずかしいことですよ」と非難する調子で言ったので、ものすごく奇妙な気がした。
ところがこの奇妙さは、それを伝えたリポーターもスタジオのアナウンサーも感じなかったらしく、その奇妙なコメントは「街の声の代表」のように、全体のなかに織り込まれていったのだった。

わたしが奇妙に思ったのは、この人の「恥ずかしいことですよ」の主語がよくわからなかったからだ。

「わたし」が「恥ずかしい」のか。
「わたしが、(自分が食べるものを輸入に頼っている)日本人を、(その一員として)恥ずかしく感じる」という意味でこの言葉が口にされたのなら、少なくとも「恥ずかしい」のは自分を含む日本人であるから、非難のニュアンスがこもるのはおかしくはないか。

「わたしが恥ずかしい」というとき、人は外に向けた非難のニュアンスをそこにこめることはしない。非難というのは、あくまでも自分以外の人びとに向けられるものだ。

そう考えていくと、この人の「恥ずかしいことですよ」は、「それは恥ずかしいことなのだから、恥と知るべきです」という文章の省略形のように思えてくる。

だからこのとき「恥ずかしい」の主語は「(自分が食べるものを輸入に)頼ることが」ということになるのだろう。

では、そう言っている人は、いったいどこに立ってこの発言をしているのだろうか。
「わたしが恥ずかしい」なら、恥ずかしくないような行動を考えなければならない。
けれども「××することが恥ずかしい」というのは、「空が青い」と一緒で、それを言っている人は何の関係もない。
「空が青いですね」
「今日は寒いですね」
「それは恥ずかしいことですね」

どこかに「あるべき正しいやり方」があって、現在の状態をそれと引き比べて「恥ずかしいことですよ」と客観的に評価しているのだ。

だが、それを言っている人は、ほんとうにそのことと無関係なのだろうか。
冷凍餃子事件が明らかにしたのは、こういうことではなかったか。
安いから、手に入れやすいから、という理由で輸入食品を購入していた。農業生産者が現在置かれている状況を、自分がまったく知らないことにさえ気がついていなかった。
恥ずかしいのはこの自分なのだ。

首相が簡単な漢字さえ読めないという報道が新聞をにぎわしていたころ、わたしはこのときのインタビューを思い出していた。そうしてG7での元財務大臣の記者会見での応答をめぐる報道についても、「恥ずかしいことですよ」の大合唱を聞いたように思ったのだ。

だが、そういう首相や財務大臣を戴いているのは、わたしたちなのだ。
恥ずかしいのは、誰なのか。
なのに新聞のトーンは、もれなく引用してある海外のメディアの報道と、いささかも変わりはない。「恥ずかしいことですよ」と言っていれば、それですむのか。

去年のちょうどいまごろ、中野好夫の文章を引用して、「指導者出よ?」という文章を書いた。

戦後まもない昭和21年三月、中野はこう書く。

戦争中ついに私に諒解できなかったことは、指導者出でよ、大号令を待つ、というあの国民の声である。さらにもっと滑稽なのは、国民の準備はできている、今はただ大号令を待つのみ、というあの悲鳴である。それも一般大衆だけならまだしもだが、堂々たる知識層も言った。一流の新聞紙までが臆面もなく三日に一度は書いた。(中略) 一体号令してくれとは、正直言って一人前の成人のそう口にすべき言葉ではないはずである。民主主義に再出発するという日本人が真剣に考え直さなければならない問題ではないかと思う。

(中野好夫「歴史に学ぶ」『ちくま日本文学全集 中野好夫』所収 筑摩書房)

わたしたちはいまも待っているのだろうか。すばらしい指導力を発揮してくれる首相や大臣が登場して、大号令を発してくれるのを。そうして、どこかにいるすばらしい指導者と引き比べて、現在の首相や元財務大臣を「恥ずかしい」と批判しているのだろうか。

そう考えていくと、わたしたちは自分たちにふさわしい人びとを、自分たちの代表に戴いている、と言えるのかもしれない。

……うん、勉強しよう。

鶏頭




2009-02-16:朝の占い

先日まで訳していたサキの「こよみ」だが、昔、わたしのうちにも酒屋が持ってきてくれる大ぶりの日めくりの端に、毎日占いのようなものがついていた。いまでもJRに乗ると、車内のモニターに星占いが出る。インターネットにつないで、msn でも goo でも yahoo でもポータルサイトにアクセスすれば、たいてい星占いが端の方に出てくる。

わざわざ自分から進んで見に行ったりはしなくても、目に飛び込んでくればとりあえず自分の星座は見る。占いなど信じていなくても「周りの人の気持ちも考えて行動しましょう」とあれば、頭の隅に留めておく。たとえ駅を出る頃には忘れてしまっていても、とりあえずその場では自分の星座を確認せずにはいられない。

わたしたちはそんなに占いが好きなんだろうか。
毎日目にしても、当たったかどうかなど、ほとんど気にしない、というか、昼過ぎまで覚えていることはまれではないか。そんなに好きなら、もっと意識に留めておいて、当たったか当たらなかったかの結果を大切にするのではないか。そういえば「幸運な一日」とあったけど、別にたいしたことはなかったなあ、と寝る前にひょいと思い出すことがあるにせよ、それで落胆することもなく、その占いを書いた占い師(?)を恨みに思うようなこともないだろう。

こんなふうに考えていくと、わたしたちは「占いが当たっているかどうか」ではなく、「今日という日」の目安がほしいのかもしれない、という気がする。

知らないところへ行く道は遠い。不安になりながら、初めての場所へ行く。ところがそこから帰る道は、あれ、こんなに近かったのか、と思う経験は、だれにもあるのではあるまいか。

それでも、たとえ行ったことがなくても、その近くまでなら行ったことがあったり、目印になる場所を知っていたりすれば、その不安感はずいぶんちがう。

新しい日に向き合うわたしたちは、知らないところへ行くのと一緒だ。占いは、地図の代わりにはならなくても、漠然とした「あそこらへん」ぐらいの目安にはなる。そうやって、一日が軌道にのってしまえば、もはやその目安はいらなくなる。

占いを信じているわけではない。それでも、目安があればのっぺらぼうの一日にめりはりがつく。わたしたちが求めているのは、おそらくはアドバイスではなく「めりはり」なのだ。言ってみればそのアドバイスというのは何でもいいのだ。

サキの短篇の「暦」では、ヴェラたちはごく当たり障りのないことを書いておいて、当たったかどうかの判断は、読み手に任せている。
けれども読み手が求めていたのは「当たるかどうか」ではなく、背中を押してくれる「目安」であったと考えると、18ペンス分の価値は十分あったにちがいない。

鶏頭




2009-02-02:賢いウマ

鴎外と脚気問題を調べているときに読んだ『だます心 だまされる心』(安斎育郎 岩波新書)のなかにおもしろい話がでていた。「利口なハンス事件」である。

20世紀初頭のことである。
ドイツの馬主フォン・オステンはつねづね「ウマは賢い生き物である」という信念を持っていた。動物に教育を施してやれば、まちがいなく人間と同じところまで知能を発揮できるにちがいないと考え、数字とアルファベットを特訓したのである。

苦節二年、数字とアルファベットを駆使するスーパーお馬さんとなった。
数字は、一方の脚で十の位を、もう一方の脚で一の位をあらわす。つまり、右脚でコツコツコツと三回蹄を鳴らし、ついで左足でコツコツコツコツと四回鳴らせば、34を意味する、という具合である。
アルファベットも同様。
"H"ならば床をコツコツコツコツコツコツコツコツと八回鳴らす。
そうなればもうしめたもの。以来ハンスはどんな質問をも的確に理解し、仕草によってその答えを教えてくれるようになった。算数の加減乗除の計算も、分数を小数にすることも、日付や日時を答えるばかりでなく、「七時から五分経過すると、時計の短針・長針はどこをさすか」といった質問に答えることもできたのである。
"zyzzyva" なんていう単語を綴らせようと思ったら(ちなみにこのジジヴァというのはゾウムシの一種らしいが、その実物よりもクロスワードで有名な虫だ)、数える方も相当辛抱強くなければならない。「zyzzyva が63匹、tsetse fly が72匹」なんて答えだったら、どうやってカウントしたらよいのだろう。
まあそんな埒もない妄想はさておいて、かくてハンスは「クレバー(賢い)・ハンス」と呼ばれることになったのだった。

こう書くと、たいていの人は、馬主であるフォン・オステンが何かトリックをやっていると思うでしょう?(わたしだったらまちがいなくそう思う)
ところがこのフォン・オステン、「いささか変わり者ではあったのですが」(というのは、わたしの文章ではない。安斎さんがそう書いている)、信望の厚い人格者だったのである。彼としては、ハンスに芸を覚え込ませたのではなく、あくまで教育を施したつもりだった。見せ物ではないのだから、質問したい人は誰だって質問できたし、しかもそのたびにハンスは正解した。その結果、これぞ本物の「天才馬」、と名声は高まったのである。

そこでなんと科学者による調査委員会が設立され、調査・実験が繰りかえされた(二十世紀初頭というのは、まだそんな時代だったのだ)。その結果委員会は、「トリックは存在しない」という結論に到達したのである。「ハンスは本物だ」

ところがその結論は数週間であっけなく潰えた。
それはどうしてか。
実験のやり方を変えたのである。
一枚のカードに問題を書いて、それをたくさん用意し、実験場にいた誰にも問題がわからないようにして、一枚をハンスにだけ見せる。すると、ハンスはどんなに簡単な問題さえも答えることができなくなってしまったのだ。

つまりハンスは問題ではなく、居合わせた人に注意を向けていたのだ。コツコツと脚を鳴らしながら、人間のちょっとした反応で「打ち止めの合図」のサインを受けとっていたのである。

研究者プングストはこう結論づけた。
「床打ち止めの合図となったのは、問題およびその答としての「必要な打数」を知っている質問者自身の、主として頭部の動きとしてあらわれるかすかな変化である」

つまり質問している人びとの、「ここで打ち終えるはずだ」「ここで止めてほしい」といった気持ちがわずかな変化をもたらし、無意識の動きとなってあらわれたというのである。

ハンスはまさに本物の「天才馬」ではあるまいか!
フォン・オステンがそんな技術を教えたわけではない。だが、質問者が期待する答えを出せば、褒美にエサを与えられる。そのことから、二年間の訓練期間のなかで、質問者のかすかな変化を読みとる技術を独習していったのである。やはり「クレバー・ハンス」はほんとうに賢いウマだったのである。

『だます心 だまされる心』には、この事件が以下のような教訓をもたらした、という。

@教師が教えるつもりでいることが、教師の意図どおり学習者に伝わるとはかぎらない。
Aただしい答えが出たからといって、学習者が教師の意図どおりの内容を正しく理解したと思いこんではならない。
B教師がどんなすぐれた教授法を採用しても、学習者しだいでは何の効果もしめさないことがある。

こんなことぐらい、ある程度、人を教えた経験がある人なら、誰だって知っていることではないか、と思うのだが、まあそれはいい。

こんなこと以上にわたしたちが教訓にしなければならないのは、わたしたちはおもしろいものが好きなのだ、ということだ。
ウマが答える、と考えるだけで、わたしたちは楽しくなってしまう。人間が同じ問題を解いても、わたしたちはおもしろくもなんともないので、反応は皆無だ。おもしろがるいきいきとした心の働きは、おそらく仕草や表情に出ていたにちがいない。賢いウマはそれを見逃さなかったのだ。わたしたちが驚いたりおもしろがったりする表情や反応が、ハンスのモチベーションとなった。かくてハンスはその能力を洗練させていったのだ。

言葉を使うわたしたちは、言葉の意味を日々やりとりしている、と思ってしまいがちだ。だが、ほんとうに受けとっているのは、元気そうな声だったり、自分を気遣ってくれている相手の思いやりだったり、体調や機嫌が悪そうだったり、ちょっとした相手の変化を受けとっているのだろう。言葉なら嘘も言えるが、そうしたものは嘘はつけない。言葉を使わない動物なら、もっとはっきりそうしたサインを感じ取るはずだ。

ハンスが求めていたのもご褒美のニンジンより、飼い主が喜ぶ表情だったのではないか、というと、擬人化がすぎるのだろうか。

鶏頭




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