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鶏的思考的日常 ver.32〜雨降りお月さん 傘忘れ 編〜



2009-07-18:異なる人と暮らす

知り合いのアメリカ人に、英会話教室を開いている人がいる。

アメリカ人の一般的イメージというと、金髪碧眼、陽気で気さくで開けっぴろげ、ちょっとおおざっぱだけれど、初対面でもどんどん話しかけてくれる親しみやすい人、というあたりだろうが、日本人がかならずしも勤勉で几帳面ではないように(というか、そんな日本人観は修正が必要なのではあるまいかと思ってしまう昨今だが)、わたしたちが接する個々の人は、そういったステレオタイプとはまったく無関係に生きている。その先生も、髪も目も色が濃いし、肌も浅黒く、アメリカ人にしては小柄で、背中を向けたところは日本人と間違えそうだ。

先生のお母さんは、もっと日本人に似ているそうだ。ポーランド系移民の二世で、わかっている限りではアジア人の血は混じっていないそうなのだが、写真を見せてもらうと、黒い髪で全体に小柄な体つき、きりっとした顔立ちは、「彫りの深い顔立ちの日本人」で通るかもしれない。もしかしたら先生が日本人と結婚し、家を建て、この国に根を下ろしたのも、そんなところに理由の一部があるのかもしれない。

さて、その日本人にも見えるお母さんは、先生が幼い頃から大変な働き者だったそうだ。家中の家具は、磨かれてぴかぴか(わたしはこの話を聞くまで、“家具を磨く”という発想がなかった。わたしときたら、食器棚や本棚の棚の部分に積もった埃を、ごくたまに拭くくらいのものだったから。まあ、磨くような家具を持っていないというところもあるのだが)、台所にはぶらさげたナベやフライパンの底が光り、ベッドのシーツは毎日取り替えられて、真っ白でピンと張っている。小学生の先生は、母の日に、膝をついて床を磨くお母さんのために、ローラースケート用のニーパットを改造して、手作りの膝当てをプレゼントしてあげたという。実際、大きなアメリカの家の床を磨くのは、相当な労働だったにちがいない。昔のアメリカのTVドラマにはかならず、大きな冷蔵庫と明るくて広いキッチンが出てくるが、そこはそんなお母さんたちの献身によって維持されていたのだ。

ただ、先生のお母さんは家庭的というだけの人ではなかった。生物学の修士号を持っていて、生き物や植物の豊富な知識がある人だった。子供たちと一緒に散歩に出かけては、自然にまつわる楽しいお話を聞かせてくれたり、花の名前や鳥の名前、昆虫の生態や動物の習性を教えてくれたりした。

一方、先生のお父さんは、知的というのとはほど遠く、休みの日は一日中、テレビの前のソファに寝そべって、夜はビールを飲みながら、そのままそこで寝てしまうような人だった。だが、お母さんがそうした生活態度をとらえて、面と向かって文句を言ったことは、先生の知る限り、ただの一度もなかったという。ゴミ箱に捨てられた父親が食い散らかしたジャンクフードの残骸を見ながら、子供時代の先生は、自分がおなじことをしたらずいぶん厳しい叱責が待っているだろうに、と、不満でもあり、不思議でもあったそうだ。

先生は、お母さんという厳しい家庭教師がいたこともあって、飛び級で十七歳のときに大学に入学することができた。家を離れてみると、それまで考えたこともなかったような、いくつものことに気がついたという。何より、自分の家がひどく特殊だったこと、そうしてお母さんが夫のことをどう思っていたか、ということも。

自分はこんなに朝早くから働いているのに。自分はこんなに夜遅くまで働いているのに。こんなに優秀な自分が、家庭のために一切を捧げているのに。どうして子供たちがわたしに応えてくれるように、あなたは応えてくれないの。自堕落な生活を改めようとしないの。

口にされない思いはかえって雄弁に、空気となって家を重苦しく覆っていたのだ。父親が帰ってきた瞬間、母親の顔をかすめる表情にも、一変する空気にも、そのころの自分はどうして気がつかなかったのだろう。父親は母親の気持ちを知っていた。だからこそ、余計に自堕落に振る舞っていたのだ。ひとたび気がついてしまえば、家に帰省するたびに、その空気がやりきれなくなって、次第に先生は家から足が遠のいていったそうだ。

数年後、最後の子供が大学に入学したのを機に、先生のご両親は離婚した。お母さんは小学校で教師として復職し、お父さんは別の女性と再婚したらしい。

そこまで教えてくれたあと、先生はこう続けた。
勤勉であることの美徳を疑ったこともないわたしの母親が、父親も含め、家族のことを愛していたことは疑いようがない。けれど、いつも、自分が正しい、間違っているのは夫であり、子供たちは自分の価値観に従うべきだと思っていたにちがいない。そうして、決して自分に歩み寄ってくれることのない妻の姿に、父親はいっそう自分の殻に閉じこもっていったのではないか、と。

こういう話を聞くと「受け入れる」というのは、どういうことなのだろう、と考えてしまう。自分とちがう人間、自分とちがう楽しみを持ち、時間の使い方をし、価値観を抱く人間と共に暮らすということは。

おそらくそれは、相手のことをがまんしながら、自分は自分の最善を尽くすことではないのだろう。自分と異なる相手というのは、「自分の最善」以外の最善がある、ということを教えてくれる相手ではないのだろうか。それこそが、自分以外の人と暮らすことの意味であり、意義なのではないか。

自分が正しい、と思ってしまうと、話はそこで終わってしまう。自分もそこで終わってしまう。だが、ほんとに自分が正しいんだろうか、別のやり方を試してみてもいいかもしれない、とか、ああ、こんな風に考えることもできるんだな、とか、あのときは自分の方が正しいに決まってると思っていたけれど、振り返ってみるとそうじゃなかったな、とか。自分以外のやり方や考え方や感じ方と接することによって、それが唯一最善のやり方ではないことを知る。そのことによって、話はそこから先へと続いていくのだし、自分も変わっていく。そういうことを来る日も来る日も気が遠くなるほどの回数、繰りかえしていくのが家庭生活なのだろう。

再婚した相手は、一緒に自堕落を楽しめるような人であればいい。一緒にビールを飲みながらテレビを見て、ソファで眠り込んでしまうような。それでも、おいしいものが好きで、楽しい食事ができるような。その相手とは会ったことがないが、先生はそんな人だろうと期待もこめて想像しているらしい。

志賀直哉の『網走まで』の中に、両親の間にはさまれた子供の顔を見ていると、父親の面差しも、母親の面差しもその子の中にあるのに、両親の顔はまったくちがっているのに驚く、といったことが書いてあった。
A≒B、B≒Cなのに、A≠Cという不思議だ。
その先生を見ていると、A≠C の関係にあるはずのお父さんとお母さんの両方が立ち上ってくるようで、表面的にどれだけちがっているように見えても、そんな記号で書き表すことのできない人間の不思議さを思う。

鶏頭




2009-07-17:ビワと迷信

上の話にも出てくるアメリカ人の先生は、自宅から徒歩数分のところにアパートの一室を借りて、そこを英会話教室としている。教室といっても、生徒の数も限られ、事務員が常駐しているわけではないので(要するに、何かの折りにはわたしが臨時事務員を務めているのだ)、その部屋も1DKのささやかなものである。

ところが一階にあるその部屋には、三畳分ほどの庭がついていて、教室に当てている部屋から、その庭に出ることができる。初夏の気持ちのいいころには、そこで授業をやれば、さぞかし気持ちがいいと思うのだが、ところがどっこい、そんな庭ではないのである。

おそらく先生もその庭がたいそう気に入っているのだろうが、ミニチュアサイズの野生植物園さながら、これでもか、というほど、ススキだのクマザサだのの野生植物が生い茂っているのだ。もちろん自生しているわけではなく、先生が掘ってきて、そこへ植え替えているのである。そのほかにもセンリョウだのヤブコウジだのが茂みを形成し、ほかにもなんだかんだと足の踏み場もないほどである。そんななかにビワの木が一本あった。

なんでもあるとき先生が食べたビワが大変おいしくて、その種を庭にまいたのだそうだ。ビワは大きくなるのが早く、三年ほどで丈1メートルほどの、小ぶりではあるが、いかにも木らしくなってきた。

ところがあるとき、家主から「ビワの木は根を張って家の土台が傾くから切り倒してくれ」と言われた。

先生からしてみれば、三年も手塩にかけた、愛着のある木である。いきなりそんなことを言われて、おさまるはずがない。いくら根を張るといっても、家屋そのものからは5メートルほども離れた塀際である。根が果たして家屋にダメージを与える可能性があるだろうか。

先生がそう主張しても、大家は、切ってくれ、の一点張り。
やがて先生は「日本の迷信」を聞き込んできた。「ビワの木を植えた家からは病人がでる」、つまり、大家が恐れているのは、ビワの根ではなく「病人」なのではあるまいか、と考えたのである。

そこでビワと病人のあいだに何の因果関係もないと、大家を説得するために、その先生は自転車で近所を走り回って、庭先にビワがある家を見つけては、病人がいるかどうか聞いたのだそうだ。

聞かれた人はさぞかし驚いたことだろう。ピンポンとドアベルが鳴り、出てみると、体の大きな外国人が立っている。そうしてその外国人から「病人が出たことがあるか」と聞かれるのだから。

ともかく、その聞き取り調査でいったい何軒のサンプルを手に入れたのかは知らないのだが、その先生は、病人とビワの木のあいだに因果関係は存在しないことが立証されたと考えた。そうして資料を作成し、大家に再度、大家の申し出がいかに不当か訴えたのである。

家主はその主張を入れて、切り倒さなくても良い、と言ってくれたそうだ。それだけでなく、植木屋を呼んで、塀からも少し離れた適切な場所に植え替えてくれたらしい。

なんと気の毒な大家さん!

先生はわたしに向かって、大家に迷信に根拠がないことを認めさせた、と、鼻高々で教えてくれたのだが、わたしはそうではないだろう、と言った。確かに日本でも、ほかの国でも、さまざまな迷信がいまなお残っていることはあるだろう。けれども、「迷信とはわかっているけれど、昔からこうしないほうがいいとされているのだから、それはやめておこう」という形で、日常受け入れられているのであって、合理的な判断の方が圧倒的に多いのだ、と。おそらく大家さんの主張は、迷信とは関係がない。それが証拠に、植え替えてくれたではないか。おそらくその位置は、何らかの不都合があったにちがいないのだ。

けれども、先生はわたしに対してこんな指摘をしたのである。

君は、迷信を悪いもの、愚かな考えと思っている。だから、日本人にそういう側面があると指摘されると気分を害するのである。だが、迷信のどこが悪いか。現代科学でさえ、説明がつかない数々の出来事を、説明するひとつのやり方でもあるのだ。それは、ある意味での「合理性」なのである、と。

確かに、わたしは迷信を悪いもの、愚かな考えと感じていた側面はあったかもしれない。その指摘の一端は思いあたる節もあった。
だが、同時にどこかでごまかされたような気がしてならなかったのだ。わたしはいったいどこでごまかされてしまったのだろう? 

鶏頭




2009-07-11:ベトナムのタロとジロ

『ベトナム戦争のアメリカ ―もう一つのアメリカ史』(白井洋子著 刀水書房)という本を読んでいたら、気になることが書いてあった。

ベトナム戦争時、アメリカはたくさんの軍用犬をベトナムで使っていた。アメリカから送られた数は、四千匹以上。そうして、無事帰国できた犬はたった二百匹だったという。

三千八百匹あまりが「戦死」したのか、というと、そうではない。「戦死」と認定されたのは、二百八十一匹、残りはベトナムで「廃棄」されたのである。

なぜアメリカ本国に送り返さなかったのかというと、ひとつには、軍用犬がベトナムの風土病の病原菌を持ったまま、アメリカに帰国して、アメリカ在住の犬に感染することを恐れたから、そうしてもうひとつは、軍用犬としてベトコンの摘発や、脱走兵の追跡にあたったシェパードは、帰国しても適切な「使い道」がないという判断があったためらしい。

確かに、戦争の日々を生きてきた犬が、戦争が終わったからといってアメリカに戻ってきて、気持ちを切り替えて、平和な日々を余生としてのんびり生きていくことはできなくなってしまっている、というのもわかるような気がする。ベトナムで命じられていたことを、どうしてアメリカでやってはいけないのか。人間を追いつめ、攻撃し、場合によっては殺すことが、どうしてベトナムでだけの任務なのか。犬としては理解しかねることだろう。

だが、考えてみれば、人間にしてもおなじことなのだ。病原菌の保有か否かはさまざまな検査によって見つけだし、治療することは可能なのかもしれない。それなら犬だって可能なはずだが、やはり犬に対してはそこまで面倒はみきれない、ということだったのだろうか。

さらに、軍用犬が戦争が終わったからといってペットになれなかったように、人間だって平時に順応できたわけではない。実際、ベトナム戦争後、アメリカでは帰還兵の市民社会への不適応が大きな社会問題となっていったのである。ミステリや映画で「異常者」といえば「ベトナム帰還兵」だったことがあるが、いま考えてみれば、何ともひどい話だ。

こうやってみると、軍用犬の扱いと帰還兵の扱いでは、相違より、共通する点の方が目につく。戦争が終わったから「廃棄」された多くの犬と、とりあえず連れて帰ってもらえた人間。病気やケガこそ治療してくれただろうけれど、当時はベトナム戦争そのものに対する嫌悪感も強かった。帰還兵というだけで、「ベイビーキラー」などとあしざまに罵られたという話も聞く。犬の廃棄を憤るのは一種の感傷ではあるのだろうけれど、戦争が終わったからといって「不要となった命」を顧みない、という思想は、人間にも同じように適用されていたように思う。

日本の南極観測隊は、犬を残して帰国したことで、大きな非難を浴びた。そうして、一年を南極で生き延びたタロとジロは、一躍ヒーローとなった。たった二匹のタロとジロだから、南極の生態系に影響を与えるほどのことはなかったのだろうが、南極のペンギンたちにとってはたまったものではなかったろう。
ベトナムの地で生き延びたマックスやモリーは、人びとを襲うしかなかったのだろうか。それでも何とか餌付けされ、家族の一員となって、ビンちゃんやファンちゃんと一緒に遊んだりすることができたのだろうか。

鶏頭




2009-07-07:人間の近くで

先日、軒先にスズメが巣を作っているから見においで、と誘われて見に行った。正確には軒先ではなく、屋根瓦と屋根瓦の隙間である。下から見ると、飛び出した小枝が何本か見えているだけだったが、脚立にのぼると、奥の方にタワシがはさまったようなかたまりが見えた。

あまり近くにいると来なくなるから、と言われて、少し離れた場所に腰掛けて、様子を見ていた。じきにバタバタと音がして、小枝を口にくわえたスズメが戻ってくると、狭い隙間にもぐりこんだ。おそらくその小枝を巣に編み込んだのだろう。やがてスズメは、新たな資材を探しに、また出かけていった。

考えてみれば、奥に挟まったタワシも小枝を一本一本運んで作ったのだから、たいしたものだ。もしスズメが人間サイズなら、たいそうな屋敷を造っていることだろう……と考えたところで、舌切り雀に出てくる「雀のお宿」を思い出した。

スズメこそ頻繁に見かけるが、スズメの巣を見たのはこれが初めてだ。だが、昔は巣作りに励むスズメの姿も、巣も、頻繁に目にしたことだろう。忙しく小枝を運ぶ姿を見て、スズメが人間くらい大きければ、とわたしが考えたように、昔の人も考えたのではあるまいか。あんな小さなくちばしにくわえるような小枝で立派な巣を作るのだ。スズメが人間ほど大きければ、さぞかし立派な屋敷が造れるにちがいない。「雀のお宿」がどこから来たか、なんとなくわかったような気がした。

子供の頃、近くの牛乳屋さんの軒先に、ツバメの巣があった。真下に立ってたらフンを落とされるよ、と注意されたので、少し離れたところから見ていると、口に虫やミミズなどをくわえた親ツバメが戻ってくる。ヒナたちは巣のなかでピイピイ鳴きながら大きな口を開けていて、まるで親の頭を丸飲みにしそうな勢いで、返ってきた親ツバメを急かしていたのだった。

やがて巣も完成すれば、スズメもそんなふうに虫やミミズをくわえてくるようになるのだろう。そう考えると、「大きなつづら」の大蛇やムカデもどこから来たか、なんとなくわかるような気がする。もしスズメが人間くらいのサイズになれば、虫やミミズもムカデやヘビになってもちっとも不思議ではない。

間近で見てよく知っていたから、お伽噺のなかにもそんなふうに織り込まれていったのだ。いまも昔も、スズメは人間のすぐそばで生活を続けていたことがよくわかる。

昔、自然がもっといたるところにあったころなら、スズメばかりではなく、キツネやタヌキなど、もっとさまざまな動物が身近にいたわけだ。だからこそ、昔話にはさまざまな動物が、主人公や重要な登場人物として、活躍してきたのだ。

開発の結果、残念ながら多くの生き物は姿を消したり、人間から離れていったりすることになった。だが、相変わらず人間のすぐ近くで生活している生き物もいる。ツバメが家の軒下に巣をかけるのは、カラスに襲われないためであるという。瓦のすきまにのぞく巣も、やはり人間を頼りにしているのだろう。

わたしたちは、人間が自然を破壊し、野生動物たちを危機においやっていると、何となく罪悪感を覚えている。だが、それでも人間のすぐそばで、人間の庇護や作ったものをあらかじめ考え(?)のなかに入れて、それを織り込んだ上で行動をしている動物や鳥もいるのだ。人間の感傷をよそに、動物たちは動物たちでたくましく環境に順応しているのだろう。

どうもわたしの引っ越し先の近くには、野良フェレットがいるらしく、軒下のぎりぎりのところを駆けていく姿を二度ほど見た。おそらく檻から逃げたフェレットも、自由を謳歌しつつも人間のできるだけ近くに住むことで、外敵から身を守り、食物を調達しているにちがいない。

鶏頭




2009-07-05:泥坊入口

実際の泥棒というのは楽しいものでもなんでもないが、話に出てくる「どろぼう」は、楽しい。

子供のころ、『どろぼうがっこう』(かこさとし作)という絵本がすきだった。りっぱなどろぼうになるために、どろぼうがっこうに行く子分とくまさかせんせいのお話である。この泥棒学校の生徒と先生が遠足に行ったところ……という話で、「熊坂長範」という名前を知ったのもここからだ。

小学生のころ、学校に泥棒が入ったことがある。
学校に行くと、シャッターがしまったままで、校内に入れない。ほかの子と一緒に昇降口の前で待っていたのだが、待てど暮らせど開く様子もない。そうしているあいだにも子供たちは続々と集まってくる。予想外の出来事に、みんな興奮して、わいわい騒いでいると、「どろぼうが入ったんだって」という情報がどこからともなく流れてきた。「何が盗まれたんだろう」とみんな口々に言い合ったが、学校の中に盗みたくなるようなものがあるとも思えない。おそらく職員室にある金庫だろう、いや、職員室に金庫なんてなかったよ、などと、わたしたちはみんな、本の主人公にでもなったような気でいた。自分たちがすっかり踏み荒らしてしまった地面を見下ろして、ここに足跡があったかもしれない、しまったな、証拠がなくなってしまった、などと言っている子もいた。

やがてシャッターも開き、ふだんより小一時間ほども遅れて、わたしたちも教室のなかに入っていった。わけもわからないまますっかり興奮して、教室でわいわい騒いでいたら先生がやってきた。空き巣が入り、職員室が荒らされていたことの報告があり、先生も指紋を採られた、などと言っていた。いま考えてみれば、先生の方も興奮していたのだろう。授業など上の空、わたしたちがすっかり空き巣事件に夢中になってしまったことは言うまでもない。休憩時間に「手がかりを探すんだ」と職員室へ向かうと、おなじことを考えたのだろう、ほかの子供たちに大勢会った。

その後、犯人がつかまったという話も聞かなかったから、結局つかまらなかったのかもしれない。戸締まりの大切さをやかましく言われたぐらいだが、泥棒は窓ガラスをカッターで切って侵入したという話だったから、その注意にも説得力はなかった。

テレビアニメの「サザエさん」では、数ヶ月に一度、かならず泥棒ネタが出てくるらしいが、昔はいまより泥棒が多かったのだろうか。内田百閧ノも「泥坊三昧」という随筆があって、百閧ェ「今まであの家にいた人が外に移ったのは、泥坊に襲われた為であって、それも今度だけでなく、その前もまたその前も、つまり三代続けて泥坊に入られた」という家に引っ越した経験が描かれている。三度も「泥坊」に入られたぐらいだから、おそらく家屋が立派な割りには、よほど立地が本職(?)の目から見て、好都合だったのだろう。ともかく百關謳カ、そんな物騒な話を聞いてもかまわず引っ越してきたものの、しばらくは日が暮れて薄暗くなってくると、「いよいよ今夜はやって来るのではないか」と胸騒ぎがしたという。

勝手口の電灯をつけっぱなしにしておけば、泥坊も気が引けるのではないかと考えて、つけっぱなしにしておく。便所の電気もつけっぱなしにしておく。ここらへんまでならだれでも考えそうなことだが、そこは百關謳カ、「泥坊入口」と書いた立て札を立てておいてはどうか、と考えるのだ。

泥坊は「自分が来ることを知っていたのか」とぎょっとして、いい気はしないだろう、というのである。

さらに、「泥坊さんこちらへ」と誘導し、さらに「泥坊通路」「泥坊休憩所」と作っていったらどうか、と考える。だが、やりすぎては、「自分が怖いのだろうと見透かされて、かえって泥坊の思うつぼになるかもしれない。せいぜいが勝手口の内側に「泥坊入口」と一枚でいやな気がして帰るのではないか、と妄想をたくましくする。

わたしは泥棒の心理はわからないのだが、果たして看板が出ているくらいで何か思うのだろうか。入ってやろうと決心して、準備万端整えている職業的泥棒(?)なら、そんな看板ごときでビクともしないだろう。

実際にはその家に「泥坊」が入ることはなかったのだが、数日家を空けて帰ってみると、留守番をしていた下働きの婆さんが、家を固く閉めきってしまったために、百關謳カが泥棒のまねをする羽目になったのだ。百關謳カの困惑、いかばかり……というところである。

さて、以前わたしが住んでいたところは住宅街の中にぽつんとある高層アパートで、しかもその最上階だったので、泥棒が入るなどということを考えたこともなかった。ところが見晴らしの良さと換気のあいだには相関関係はなかったようで、水回りのカビがひどい。だから出かけるときになると、少しでも空気を入れ換えようと、換気扇ばかりでなく、窓を開け放っていたのである。

ところが、外壁の塗装工事の折りに足場が組まれた。その最中、工事が休みの日を見計らって、空き巣が入ったのである。足場だけでなく防音スクリーンも張るために、侵入しているところを見とがめられる怖れもなかったのだ。

さっそく注意が呼びかけられた。戸締まり施錠だけでない、日中もカーテンを閉める毎日が続いた。休みの日だけでもそれがたまったものではなかったのだから、毎日家にいる人はさぞかし大変だったことと思う。どうにか作業が終わって、足場が解体されたときは、やれやれ、やっと終わった、と思ったものだが、かといって安心はできないという呼びかけが続いた。特に最上階は危ないのだという。泥棒が入るのは、一階からとばかりは限らない、屋上からロープを使って登山の要領で降りてくるらしかった。

取られるほどのものがあるわけではないが、それでも外から見れば同じ窓である。うっかりほかの家と間違えられては大変だ。しばらくはベランダに面した側で寝るのも気持ちが悪かったものだ。

マンションの自治会では、その空き巣事件が起こったことをきっかけに、挨拶運動を始めた。古い型の建物だから、オートロックもないし、どこからでも入れる。それだけに、住民が相互に顔見知りで、気軽に話ができるような関係にあることが、何よりも「犯罪防止」になっていく……ということを、会長がどこかから聞き込んできたらしい。そうして実際に、それまではエレベーターに一緒に乗り合わせても、うつむいて目を合わさないようにして、挨拶を避けるような身ぶりをされることも多かったのに、「住み良いマンションは挨拶から!」などという標語がでかでかと目の前にあるせいか、誰も彼もが自然に「おはようございます」と言い合うようになっていった。それがどこまで犯罪の抑止に効果があったのかどうかわからないが、エレベーターが一階につくまでの、何とも言えない緊張感がなくなっただけでも、よほど気分の良いものだった。

考えてみれば、大規模の集合住宅というのは、垂直にした町内のようなものだ。けれど、横に広がる町内が「地縁」をベースに、ゆるやかな人間関係を形成しているのに対し、垂直に伸びる集合住宅では、「地縁」は形成しにくい。百閧フ『泥坊三昧』でも、百閧ェ気にしているのは、閉めきった自分の家に入るために、泥坊の羽目をすることになった自分のふるまいが隣の奥さんの目にどう映ったか、なのだが、隣りにどんな人が住んでいるかすらも知らないですませられる集合住宅では、そもそもそんなことすらも起こらない。

現実の社会には、自分とは異なるさまざまな人が住んでいる。水平にひろがるかつての町内は、さまざまな人のさまざまな生活が営まれているのを、実際に日々体感することができていた。ところが垂直な集合住宅は、多少の間取りの差はあっても、均質な空間である。「さまざまな人」はわたしたちの目の前から姿を消し、抽象的な、背景と変わらない存在、エレベーターなどの狭い空間に一緒になれば、「違和感」というか、「異物感」を感じさせる存在にまで成り下がってしまったのである。

反面、毎日、些細な犯罪から重大な犯罪までの報道にさらされている。ひったくりや空き巣などが身近に起こったりすれば、「地域」や「共同体」という外殻を持たない自分の生活が、じかに脅かされるように感じる。

オートロックどころではないのだ。城塞のようなマンションや、文字通り、城塞のように外部を遮断した一区画もあるらしい。「以前の日本人は、水と安全はタダだと思っていたが、オウム事件以降、そうではなくなった。安全は金で買うものだ」という言葉を聞くこともある。

だが、本来、社会を構成する「さまざまな人」の中には、「泥棒」「空き巣」などの好ましからざる人びとさえもが含まれているのだ。「自分の安全」「家族の安全」を守るためにそういう人を徹底的に排除していけば、逆に、「城塞」の内に住む人は、「城塞」の外に絶えず怯えて暮らさなければならなくなってしまう。牢獄に入っているのはいったいどちらなのか、ということにもなりかねない。

さまざまな人と共に暮らす。もちろん泥棒も空き巣も怖いけれど、反面、泥棒にせよ、強盗にせよ、個別の人間の行為なのである。いたずらに怯えるより、そういう人もいる、ということを考えの中に入れておく必要があるのではないか。『どろぼうがっこう』のお話のようにどろぼうをおもしろがったり、百閧フように「泥坊」の身になって考えたり、というのは、先人の知恵と言えないだろうか。

鶏頭




2009-06-30:もったいないわたしたち

近所のスーパーでは午後七時十分ごろになると、お惣菜コーナーの周囲に徐々に人が集まってくる。そういう人の多くは商品を手に取ったりするわけでもなく、ただぶらぶらしているので、最初は一種異様な光景に思えた。この人たちは一体何をしているのだろう、と思ったのだ。

だが、すぐに疑問も氷解した。七時十五分前後になると同時に、店の人が二割引、三割引、半額と赤い字で書いてあるシールの束を持ってくる。そうして、惣菜が調理された時間や痛みやすさなどに応じて、割り引いていくのである。

陳列棚の周りにはあっというまに人だかりができる。そうしてシールが張られていく先から、つぎつぎに手が伸び、割引されたパックは買い物カゴに収まる。陳列棚は十分もしないうちに空になる。

この手のタイムセールを「見切り販売」と呼ぶことを、最近のニュースで知った。セブンイレブンでは加盟店に対し、この「見切り販売」を制限している結果、廃棄処分されるお弁当などが相当な量になるというのだ。

スーパーのお惣菜コーナーでも見られるように、時間を決めると、その時間を待って安くなってから買おうとする客が増えて、結局、店の側は損をすることになるのかもしれない。けれど、「見切り販売」を制限しようとする本社に対して、店側は、たとえその分、赤字になってもいいから、何とか廃棄処分は避けたいと、十分食べられるお弁当やおにぎりを廃棄することに抵抗があるようだった。

繰りかえし報道されるニュースは、セブンイレブンの親会社に対して批判的なトーンが感じられた。そうしてその批判の多くは、大量の食品を廃棄することに向けられていたように思う。

確かにカメラが賞味期限切れのお弁当やおにぎりやサンドイッチ類を廃棄している映像をとらえると、「もったいない」と思う。だが、多くの人が寝ている夜中でも、あたりを煌々と照らしている蛍光灯に使われている電力は、「もったいな」くはないのか。一日に何度も入れ替えをする、そのための輸送にかかる費用は「もったいな」くはないのか。こう考えていけば、「コンビニ」という存在は、「もったいない」の上に成り立っている存在と言えないだろうか。

「もったいない」から、コンビニをなくしてしまえ、と言いたいのではない。わたしたちが「もったいない」と感じるのは、自分の目の届く、ごくごくせまい範囲だけで、それを越えればもう何とも思わない、ということなのだ。

スーパーではお惣菜ばかりでなく、肉や魚、野菜類など、さまざまな商品が「見切り販売」されている。だが、いずれも賞味期限が迫っているが、過ぎてはいない。過ぎたものは、廃棄されている。その廃棄に対して、わたしたちは「もったいない」とは言わない。あたかも「賞味期限」というハードルを越えさえすれば、廃棄することのお墨付きをもらったかのようだ。

あるいは、冷蔵庫の中。買い物をしてきて、冷蔵庫に入れたのはいいが、そのなかで使い切れないまま、賞味期限が切れたり、味が変わったりして、結局途中で廃棄することになる食品が、いったいどれだけあるだろう。「もったいないことをしてしまった」という罪悪感を抱えて、食品を捨てたことのない人が、いったいどれほどの割合でいるのだろうか。

わたしたちが、見切り販売を禁じ、食品廃棄を加盟店に求めるセブンイレブンの親会社に対して、批判的に見てしまうのは、おそらくはわたしたち自身の後ろめたさがそこに投影されているからにちがいない。

鶏頭




2009-06-14:犬とみそ汁

最近の犬は、家の中で飼われていることが多いが、わたしが子供の頃は、犬というのは玄関先の犬小屋に繋がれているものだった。郵便屋さんや新聞配達のおじさんが来たら、自分の出番だ! とばかりに、わんわんわんわんとやかましく吠えるのだが、それ以外のときはつまらなそうな顔をして犬小屋に寝そべって、前を通るわたしをちらりと見上げてもすぐに目をそらし、何かいいことないかな〜という顔をしていたものだ。

種類もたいていしっぽのくるんと巻いている柴犬で、たいして大きいわけでもないし、さほど見栄えもよくない。そんなふうに、かつてはありふれていた犬が、いまではコマーシャルで「お父さん」と呼ばれるようになってしまった。昔は動物図鑑でしか見たことのなかったような犬が、当たり前のように飼われるようになって、今度は逆に、柴犬の方が新鮮に見えるのかもしれない。

ただ、当時は「お父さん」と同じ白い犬でも、あんなに真っ白ではなかった。愛玩犬としては比較的早くからメジャーだったスピッツが真っ白かったのに対して、庭先の「シロ」たちは、黄ばんだと言ったらよいのか、薄汚れたと言ったらよいのか、決して「白」ではなかったのである。

そんな犬の犬小屋の奥には、たいてい古びて薄汚れた毛布が丸まっていて、犬小屋の前にはいびつにひしゃげたアルマイトの鍋があった。それが犬の餌入れなのだ。

のちにチャールズ・M・シュルツのマンガ『ピーナツ』を見て、スヌーピーが白い横板の張られた赤い屋根の家のてっぺんに寝そべっているのに驚いたのを覚えている。アメリカでは犬もおしゃれな家に住んでいるのか、と。スヌーピーのエサ入れは、青いプラスティックのこれまたおしゃれなボウルだった。

スヌーピーが食べていたのはまちがいなくドックフードだったのだろうが、わが町内に買われていた犬たちが食べているのは、ドッグフードなどではなく、たいていみそ汁をかけたご飯だった。犬を飼っている近所のおじさんが「新米を食べる犬なんか、世界中探しても日本ぐらいしかおらん」と苦々しげに話していたのをいやによく覚えているのだが、どうも自分の家の犬が好きではなかったからそんなことを言っていたのかもしれない。だがわたしの目には、スヌーピーたちの方がよほど恵まれているように思えた。

ともかく人間が食べているみそ汁とご飯を混ぜ合わせた食事を与えられると、大慌てでハクハクと音を立ててむさぼり食い、あっというまに平らげてしまう。食べ終わると今度はぺろぺろと鍋をなめまわし、アルマイトの鍋は磨いたようになる。だが、なめるだけで飽き足らないのか、ときどき噛みつくので、アルマイトの鍋はあちこちがへこんでしまうのだった。

そんなふうに当時の犬は「みそ汁ご飯」が大好物(?)だったのだが、犬もみそ汁が好きだったのだろうか。猫を飼っている当時、猫に同じ猫缶ばかり食べさせていると、じきに飽きて食べなくなってしまっていたが、当時の犬は来る日も来る日も「みそ汁ご飯」で飽きるということはなかったのだろうか。

以前「○○君ってご飯みたい。毎日食べても食べ飽きないみたいに、毎日会っても飽きないの」と言っている人に、「あのね、ご飯が食べ飽きないのは、おかずが毎日ちがうからでしょ」と言っている人がいた。

だが、毎日パンが続くと、わたしたちの多くは、「ご飯」、つまり、炊いた米が食べたくなる。米と明太子だけでも(栄養価はともかく)わたしは一週間食べ続けられる自信はある(意味のない自信だなあ……)。おそらく食べ飽きないのはおかずが代わるからではなく、米だから食べ飽きないのだ。

大学に入るまでは、調理実習以外では米をといだこともなかったわたしが、結局自炊をするようになったのは、もちろん外食するお金がなかったということもあるのだが、外食の味に飽きてしまったことも理由のひとつだ。ご飯にみそ汁、煮魚や焼き魚、かぼちゃや里芋の煮付け、きゅうりやなすのぬか漬け、そういうものが無性に食べたくなったのである。もちろん、その全部が並ぶこともなく、1/4個でもかぼちゃを買ってしまえば、三〜四日はかぼちゃの煮付けばかりを食べなくてはならない羽目になる。それでも、だしと醤油で味付けしたものなら、毎日でも食べることができた。

毎日でも食べることができるものは、人によって多少ちがうことはあっても、日本人の多くはやはりご飯にみそ汁、あとは明太子だったり卵焼きだったり、大きなちがいはないのではないか。

以前、アメリカ人の知り合いに聞いたら、日本のパン屋に売っているような、白くて甘くてふわふわしたパンではなく、塩の味しかしない、ずっしり重いパンなら毎日食べられる、と言っていた。彼の求めるパンは、ふつうのパン屋には売っていなくて、わざわざそのパンを遠くまで買いに行き、たくさん買ってきて、冷凍庫に保存していると言っていた。

前にモロヘイヤの話を読んだこともある。古くからモロヘイヤを食べていた原産国のエジプトでは、スープにして食べる以外の食べ方はないのだという。日本人は入ってきてからすぐに、パンに練り込むとか和え物にするとか、さまざまな食べ方を工夫した。これは、日本人が新しい食べ方の探求に熱心という以上に、いまひとつ口に合わないモロヘイヤのなんとか食べやすい調理法を求めて四苦八苦した、と考えた方がいいように思う。

思うのだが、結局、毎日食べて飽きることのない料理というのは、生まれてこの方、繰りかえし繰りかえし食べ続けた味なのではあるまいか。飽きるほど繰りかえし、そこからさらに繰りかえすことによって、それが「食べ飽きない味」になっていくのではないのだろうか。

そうして、そんなふうに食べ続けて飽きない味というのは、ごく狭い、特定の味なのだろう。日本の犬も、みそ汁ごはんをそんなふうに「食べ飽きない味」と感じていたとしたら、なんとなく楽しくなってくる。

鶏頭




2009-06-08:アンケートで知った『クオ・ヴァディス』

引っ越し作業で本を梱包しているとき、本棚の奥からグラシン紙が茶色く変色してしまった三冊の岩波文庫が出てきた。シェンキヴィチの『クオ・ヴァディス ――ネロの時代の物語』の上・中・下だった。

高校生のとき、校内誌の編集委員になった。一年に一度発行するだけなのだが、100ページ近い小冊子を作るのだから、なかなか大変な仕事だった。確か、三ヶ月ほど、ほぼ毎日のように放課後集まっては、構成を決めたり、原稿を集めたり、取材に行ったり、はたまた印刷屋に出して、戻ってきたものを校正したり、という作業をやっていたような気がする。クラス紹介あり、クラブ紹介ありで、毎年人気の高い雑誌だったので、自分たちの年だけつまらないものになっては大変だ、というプレッシャーはかなり高かった。

わたしが責任編集したのは、先生紹介のページである。あらかじめ先生にアンケート用紙を渡して、記入をお願いする。期日が来ると回収し、それを本の体裁に書き直してから、先生の写真の横に貼り付ける。

名前や教科担任の他に、三項目か四項目ほどの質問を用意した。よく覚えてはいないのだが、おそらくは座右の銘とかどんな高校生だったか、などということを聞いたのだろう。いまでもはっきり覚えているのは「中学・高校時代に夢中になった本/中学生・高校生にお薦めの本」という質問だった。もしかしたらわたしが考えた質問項目だったかもしれない。そこははっきりとはしていないのだが、それこそがわたしが何より聞きたかったことであり、アンケート用紙が返ってきてから、一番興味を持って読んだ項目だった。

さて、アンケートを先生にお願いし、回収するだけの作業が、実際には大仕事となった。まず、期日までに回収できたのが半分以下。生徒に対しては宿題や課題の期限を厳しく区切るはずの先生が、そのていたらくなのである。残りは「すいません、お願いしたアンケートはどうなりましたか」と催促に行かなくてはならない。一度や二度ではなかった先生もいたし、「勘弁してよ」などと言われることもあった。ひとりの先生からは、「こんな箇条書きの質問で、先生を理解したような気になっては困る。これだから○×式問題の世代は……」と説教をくらいもした。

ところが、その「箇条書きの質問」であるにも関わらず、不思議なほどその先生が「どんな先生か」がわかるのだった。手書きの文字を通して、その先生の「手ざわり」のようなものが伝わってくるのである。

ひとつひとつの項目に丁寧に書いてくれている先生もいれば、どの項目にも「特になし」としか書いてくれなかった先生もいた。「本を紹介してほしい人は個人的に聞きに来るように」と書いていた先生は、いったい何を思ってアンケートにわざわざこんなことを書くのだろう、と思ったものだ。

「活字が苦手な生徒にはこの本を、本好きな生徒にはこの本を」といろいろ心を配ってくれた先生や、「中学生の必読書、高校生の必読書、高校生でもむずかしいかもしれないが、一度は読んでおいた方がいい本」とそれぞれにあげてくれた先生、こんな先生のアンケートは、回収する苦労も吹き飛ぶほど楽しかった。

その反対に「忙しくて本を読む暇もない」と書いていた先生、「マンガばっかり読んでいた」と書いていた先生、「教科書」と書いていた先生も「朝日新聞」と書いていた先生も、それぞれの先生の人となりが手に取るようにわかって、それはそれでおもしろいアンケートだった。

そうした中で世界史の先生があげていたのが『クオ・ヴァディス』だった。最高におもしろい、とあったので、そのアンケートを読むやいなや、わたしは本屋に直行した。家に帰るのが待ちきれないような思いで読み始めた本だったが、最初のうちしばらくは、人の名前やローマ時代に手こずった。だが、上巻を半分過ぎたぐらいから作品世界に入り込めるようになってきて、俄然おもしろくなって、中・下はほとんど一息に読んでしまったような気がする。

世界史の授業は、先生が作ってくれるプリントの量がとにかく多くて、いっしょうけんめい勉強していたら、きっと豊かな歴史を自分のものにすることができたのだろう。だが、わたしときたら覚えなければならないことの多さにうんざりしてしまって、まともに勉強もしないうちから、苦手意識を抱いて遠ざけてしまったのだ。いま思えばもったいないことをした。だが『クオ・ヴァディス』を入り口に、シュテファン・ツヴァイクや評伝のおもしろさに夢中になっていったのも、同じ時期のことである。世界史ではろくな点数を取らなかったが、その先生からは、たった一行のアンケートの回答から、新しい世界を広げてもらったのだった。

鶏頭




2009-06-10:失敗しても

さて、高校時代の校内誌の話の続き。

先生紹介やクラス、部活紹介に、自由投稿と、苦労して原稿を集め終わると、今度はレイアウトを決めて、一ページ一ページ作っていく。パソコンもワープロもまだ普及していなかった時代だから、全部手書きで、写真のコピーやイラストを糊貼りしていくのだ。「ここに写真」「ここを大きく」「見出しは白抜きで」などと指定もして、とりあえず全体が完成したところで印刷屋さんに送る。印刷屋さんから「見本」が戻ってきて、いよいよ校正作業という大仕事の始まりだ。

校正は見落としがあってはいけないから、どのページも三人から四人の目にふれるように担当表を作った。ところがおそらく安い料金でやってもらっていたせいなのだろう、一ページにつき五つから七つくらいは平気で誤植がある。ひどいページだと、十三ほどもある。そうなると、実際、一行一行に気が抜けないのだ。神経をとがらせながら、一字ずつすくいあげるように文字に目を走らせ、ちがっているところに赤ボールペンで印をつける。ページはすぐに真っ赤になった。

さらに見本を元に、ページレイアウトを見直し、写真を置き換え、祈るような気持ちで最終稿を印刷屋さんに送り出す。ところがそれだけ何人もが目を皿のように探したにもかかわらず、完成版にはやはり誤植が三つほど出てきた。しかもそのうちひとつは、投稿してくれた先生の名前だったのだ。全校生徒に配布する前に、一足先に渡した顧問の先生からそれを指摘された。

編集委員一同、頭を抱えた。わたしがいけなかったの、こんなことになってもうおしまい、と泣き出す子もいた。わたしもいま考えればなぜあれほど落ち込んだのだろうと思うほど、気持ちが塞いだ。自分が数ヶ月に渡って心血を注いだことが、全部ダメになったような気がして、なんともいえない敗北感を感じたのである。

どうしてもっとちゃんと見なかったのだろう、なぜ気がつかなかったのだろう、どうして顧問もいまになってそんなことを言うのだろう。見本を渡したときは気が付かなかったのだろうか……。

とりあえず、できることがないか印刷屋さんに聞いてみよう、いまさら刷り直すことはできないが、正誤表を入れるとか、そんなことならできるはず、と考えて、わたしは印刷屋さんに電話をかけた。

「やはり先生の名前の誤植はまずいでしょう、訂正用のシールを貼るという方法もありますよ、一冊ずつ貼るのは大変ですが」

そう言われて、わたしは覚悟を決めた。やりましょう。それで取り返しがつくのなら、全校生徒プラス先生分、編集委員全員でやります。

訂正シールが刷り上がり、送られて来た日、わたしたちは全員、ピンセットを手に集まった。何人か、助っ人も来てくれた。そうやってみんなで手分けして、うずたかく積まれた校内誌一冊ずつにピンセットでシールを貼っていったのだった。

事前に考えていたときには気の遠くなるような作業だったのだが、実際始めてみると、二時間あまりで終わったのではなかったか。確かにシールが貼られたページは、何らかの誤植があったことは一目瞭然だった。だが、ちゃんと訂正したのだ。確かに過ちはなかったことにはできない。それでも、どんな失敗も、「校内誌ができあがった」という事実をくつがえすようなものではなかった。あくまでもそれは一ページのなかの、人の名前の一文字に過ぎないのだ。わたしたちが実際にやりとげたことは、それ以上のことなのだ。わたしたちは、一冊の雑誌にシールを一枚貼るごとに、それを確信していったように思う。

すべてを訂正し終えて、わたしは何ともいえない解放感を感じていた。自分を解放したのは、校内誌が無事完成したからではない。そうではなくて、例年のものよりもっとすばらしいものを作ってやろう、とか、今年の編集委員はすごいね、と言ってもらいたい、などといった、気がつかないうちにわたしをがんじがらめにしていた「下心」だった。それが、失敗したことによって、すべてチャラになった。わたしを縛っていた余分な思いからわたしを解放したのは、その失敗だったのだ。

鶏頭




2009-06-07:愚かしさとかわいらしさと

チェホフを初めて読んだのは中学生だったか、高校生だったか。そのころは戯曲の方がずっと好きで、短篇はどれもぴんと来なかった。なかでも『かわいい女』は読んでいていらいらした。

主人公はオリガ・セミョーノヴナ、作品中では愛称のオーレンカと呼ばれる。オーレンカは優しく気だてのよい、健康でバラ色の頬をした、働き者の女性。劇場経営者と結婚し、切符売り場の仕事をして夫をせっせと助ける。演劇に夢中になって、口を開けば劇場の話ばかり。ところがその夫は亡くなってしまい、オーレンカは未亡人になる。悲嘆に暮れるオーレンカだったが、材木商と知り合い再婚する。ふたたび彼女は生き生きとし始め、今度は頭のなかを占めるのは材木のことばかり、材木が世界で一番大切なことになる。だが、どういう巡り合わせか、今度はその材木商も死んで、またしてもオーレンカは後家さんになってしまう。そこに登場したのが獣医。彼には妻子がいたのだが、妻の不行跡のおかげでうまくいっていない。その彼と恋仲になったオーレンカが夢中になったのは動物の病気のこと……。

わたしの周囲にもこんな女の子ならいくらでもいた。朝から晩まで、好きな男の子の話ばかりしている女の子たち。自分の世界のすべてを彼氏が占めてしまう。自分の趣味は、彼氏の趣味。相手がアウトドアタイプの男の子なら、にわかに釣り雑誌を読むようになり、プログレ好きなら、室町幕府歴代将軍を暗記するがごとく、イエスのメンバーの変遷を暗記する。つきあう相手の言葉遣いとそっくりになり、同じ持ち物を持って得意になっているような女の子たち。

『かわいい女』では、オーレンカの住む町に駐留していた連隊が去るとともに、獣医も一緒に去ってしまう。愛する者のいなくなったオーレンカは、みるみるうちに老いていき、淀んだ目の無気力な女になってしまう。あれほど働き者だったオーレンカが、無気力になり、ぼんやりと椅子にすわりこんだまま、うつらうつらするだけ。

が、中でも一ばん始末の悪かったのは、彼女にもう意見というものが一つもないことだった。彼女の眼には身のまわりにある物のすがたが映りもし、まわりで起こることが一々会得もできるのだったが、しかも何事につけても意見を組み立てることが出来ず、何の話をしたものやら、てんで見当がつかなかった。ところでこの何一つ意見がないというのは、なんという怖ろしいことだろう! 例えば壜の立っているところ、雨の降っているところ、または百姓が荷馬車に乗って行くところを目にしても、その壜なり雨なり百姓なりが何のためにあるのやら、それにどんな意味があるのやら、それが言えず、仮に千ルーブルやると言われたって何の返事もできないに違いない。

当時、わたしたちのクラスにも、「公認」のカップルがいた。ほかの子たちが「つきあっている」といっても、一学期間持てばいい方だったのに、中学から高校とふたりの仲は、周囲と比べると不思議なほど(といっても二年余りぐらいのものだったのだが)長く続いていた。本田君(仮名)といえば佐々木さん(同じく仮名)、佐々木さんといえば本田君、ハートが半分になったペンダントをそれぞれに首から下げているという噂で、おそろいのバインダーを持ち、交換日記をしていた。校外学習でも遠足のときも、バスに乗るときにはみんなが譲り合って、ふたりが隣同士になるようにし、フォークダンスでたまたま本田君とパートナーになった女の子は、わざわざ佐々木さんに「ごめんね」と謝って見せた。そんなときは佐々木さんの方も「気にしないで」と鷹揚なところを見せていて、なんだかわたしたちよりずっと大人に見えたものだった。

ところがその原因が何だったか、将来結婚の約束までしていたというふたりが別れてしまったのである。教室の後ろで佐々木さんを取り囲んでなぐさめている女の子たちの姿を何度も見たし、うつむいてひとりで廊下を歩いている佐々木さんの姿は、何か一気に老けて見えたものだった。一方本田君はどうかといえば、何だかえらく晴れ晴れとして見え、やがてほかの男の子とまったく見分けがつかなくなってしまった。

自分の意見もないような女なんて最低だ、自分というものがないから、そんなことになってしまうんだ……。『かわいい女』を読んだのは、ふたりのカップルの破局を目の当たりにしたあとだったのだろうか。いまとなっては定かではないが、ともかくオーレンカへの反感が先に立ち、それ以外のことなど考えられなかった。何とか「自分」というものを作りあげようと必死だった十代のわたしは「意見というものが一つもない」空っぽの女、外の世界が、どれほど自分に働きかけても、何も感じることのできない女というのが、がまんならなかったのだ。

戯曲『かもめ』のなかで、女主人公に「あたしたちの仕事は、舞台で演じていようと、ものを書いていようと同じこと、この仕事の肝腎かなめは名声ではなく、輝きではなく、あたしが空想していたようなことではなく、堪え忍ぶ能力なのよ。おのれの十字架を運べるようになれ、そして信ぜよ。あたしは信じていますからそれほど苦痛ではありません。そして、自分の使命について考えるとき、わたしは生活を恐れません。」と言わせたチェホフなのだもの、「かわいい」というのはまったくの皮肉にちがいない、と当時のわたしは考えていた。

だが、一方で、自分自身がある局面では、まさにオーレンカとなっていることに、当時はまったく気がついていなかったのだ。

わたしたちは誰かと一緒にいるだけで、否応なく相手の影響を受けてしまう。意識することなく、口調が似てきたり、使う言葉が似てきたり。相手とよく似たものの考え方をしていることにハッと気がついて、苦笑したり。

それが誰かとともに過ごすということなのだとすれば、オーレンカは多少極端なところがあるとはいえ、果たしてそんなにも愚かしい人物なのだろうか。

そこからさらに、誰かにあこがれ、その人のようになりたいと思うとき。
本を読んで、目の覚めるような経験をし、もっと作者について知りたいと思うとき。
何かに興味を持って自分のものにしようとするとき。

習おう、学ぼう、何かを身につけようと思うなら、それまでの自己流をすべて捨て、いったんリセットしたのちに、できるだけ手本通りにできるよう、自分自身を作りかえなければならない。自分のやり方を押し通そうとしたり、自己流に解釈したりしていると、結局は何も自分のものになってはくれない。

そんなときのわたしは、オーレンカそのものだ。自分が習おうとしている人やものごとが世界の中心となってしまい、そのこと以上に大切なことはなくなってしまう。

「自分」というものはそんなに確固としたものではない。確固としたものでないからこそ、さまざまな新しいことを知ることができ、さまざまなことができるようになり、いろんな人とつきあっていけるのだろう。いったん自分をリセットすることができ、そこからもう一度自分を組み換えていけるからこそ、飛躍もあるのだろう。わたしたちのなかに、自分のこれまでのやり方をさっぱりと捨て、人の言うことをそっくりそのまま受け入れる「かわいい」性質があるからこそ、わたしたちは生まれたときのままではないのだろう。

チェホフは誰のなかにもあるそんな性質を、一種のカリカチュアとして描いて見せた。確かに揶揄するところもなくはなかったかもしれない。けれども、それは愚かさをあげつらうものではなかった。その証拠に、チェホフは年取ったオーレンカに、もう一度、愛の対象を与えてやる。かつての愛人だった獣医の息子を、邪険にされながらもそっと愛していくオーレンカの姿は、わたしたちの胸を暖めてくれる。

彼女にしてみれば赤の他人のこの少年、その両の頬にある靨(えくぼ)、そのぶかぶかの制帽――そのためになら、彼女は自分の命を投げだしても惜しくはなかったろう。それどころか、喜び勇んで、感動の涙をながしながら、命を投げだしたに違いない。どういうわけで? だがそのわけを、一体だれが知り得よう?

こんなふうに誰かを愛することが、愚かしいことであるのなら、愚かしさ以上の美しい質はあるのだろうか。こんな箇所に気づくことができたのも、わたしが愚かだったからこそなのだ。

鶏頭




2009-06-05:粗品ならいらんっ!

以前の部屋にいたころ、真下の部屋で内装工事が始まるというので、「粗品」と印刷された紙を巻いた台所用洗剤をもらった。内装工事と洗剤のあいだにどのような因果関係があるのか判然としなかったが、やかましくするのでお詫びをかねて、という意味合いだったのだろう。

予想にたがわず壁にネジを差しこんでいるらしい電動ドリルの音や、どこかを削っているらしい音など、足の下から響く音は実にやかましくはあったのだが、その慰謝料代わり(?)の台所用洗剤は、わたしは手がかぶれるために使わないまま、棚の上に置かれることとなった。そうやって歳月を経て、引っ越しのときに処分されてしまったのである。

新聞の契約を切るときにも、最後の新聞代を払ったのちに「粗品」をもらった。新聞を入れるゴミ袋? と、販売店の名の入ったプラスティックのコップである。ゴミ袋は使ったが、コップの方は使うことがないのはわかっているので、そのゴミ袋の内容物となった。

銀行へ行ったら、印鑑ケースをもらった。印鑑ケースなど、ひとつあれば十分ではないのか。必要がないので、捨てた。

仕事場の近くに新しい喫茶店ができたので行ってみたら、不気味な柄の小皿をくれた。色が何とも気持ちが悪いので、これも捨てた。

どれも百均ショップで手に入るようなものばかりだが、かといって手に入れてどうするというのか、というものばかりである。もらったところでゴミにしかならない。せっかくくれたものを、という気持ちがないわけではない。確かに「もったいない」話なのだが、いらないものはいらないのだ。

いつも、こんなものが差し出されるとき、わたしの頭のなかに、アニメの「サザエさん」の波平さんが登場して、「粗品ならいらんっ!」とあの声で言ってくれる。だが、わたしはそれを口に出しては言えないので、口のなかで、ありがとうございます、などともごもご言って、受けとるしかない。

一種の「粗品文化」と言ってもいいと思うのだが、どうしてこんなゴミにしかならないものをくれるのだろう。もらってうれしいかどうか、ということを考えることもなく、単に慣習でやりとりしているから、そんなことになるのだろう。

もらったばかりのものを捨てるのは、さすがに胸が痛むので、棚の上などでしばらく「寝かして」、それからおもむろに捨てる。寝かした期間のおかげで使わずに捨てたという罪悪感が薄まるわけではないのだが。

鶏頭




2009-06-04:沈黙は金

フランスの作家ナタリー・サロートの戯曲に "Le Silence" という作品がある。その昔、フランス語をなんとかものにしようという大それた野望を抱いていたころに読んだもので、引っ越しのときにそのころ使っていたテキストが出てきたのである。いやはや、もう全然読めなくなってますね。それでも欄外にごしょごしょ書いた、当時の翻訳というか、仏文解釈をたよりに本文を読んでみたのだが、非常におもしろかった。

サロンで知的な会話を楽しんでいる人びとがいる。そのなかに、たったひとり、かたくなに沈黙を守っているジャン=ピエールという青年がいた。
みんながしゃべっているなか、ひとりだまりこくっているジャン=ピエールの存在は、しだいに人びとの意識に重くのしかかってくる。残った人びとがしゃべればしゃべるほど、ジャン=ピエールの沈黙を意識しないではいられない。ジャン=ピエールに比べて、自分は何と騒々しい、空っぽな人間なんだ……と自己嫌悪に陥っていく。

ところが、ジャン=ピエールはついに沈黙を破る。そうして愚にもつかない話を始めるのだ。彼の沈黙は、沈思黙考によるものなどではなく、単にほかの人たちの話についていけなかっただけだったのだ。沈黙する彼の姿を鏡にしてわが身を顧みたり、雄弁に優る沈黙の意義を見いだしたりしていた人びとは、愕然としてしまう、というのが、おおまかな筋である。

確かに「沈黙は金、雄弁は銀」という言葉もあるように、沈黙の説得力に優る雄弁はないのかもしれない。なぜそんなことが起こるのか。それは、相手が言葉で説明してくれば、賛成するにせよ反対するにせよ保留するにせよ、わたしたちはあくまで受け手の立場に置かれるのに対し、何も言わない相手であれば、その沈黙の意味の解釈は、わたしたちの手に委ねられるからだろう。どうして黙っているのか、どういうふうに考えるのか。考えるということは、相手の立場になってみる、ということでもある。沈黙の意味の解釈を通して、わたしたちは相手と共同作業をすることになるのだ。だからこそ、沈黙は人を動かすことにもなるだろう。しかも、解釈しても解釈しても、自分ではない他者の考えにはどうも埋まらない空白が生じる場合もある。まだ何かありそうだ、と思ったとき、わたしたちはその空白に「深遠さ」を感じるのだろう。

ただ、ここで思うのは、周囲の人を苛立たせ、やがて深遠さを感じさせたジャン=ピエールは、いったいどのような表情を浮かべていたのだろう。

わたしたちが話をするとき、ほとんど意識することなく、相手の反応に反応している。たまにその反応が鈍い人もいて、誰に対しても同じ調子で話をしてしまうのだが、そういう人は「あの人はああいう人だから」と相手にされなくなってしまう。わたしたちは、相手が自分の話をどう感じているか、ちょうど色を見分けたり、音を聞き分けたりするように、気がついているのだ。この人はいま退屈している、おもしろがっている、興味深そうなふりをしているが、時間を気にしている、何か心ここにあらずという感じだ、警戒している雰囲気だ……。

黙っていても、耳を傾けたり楽しんでいたりする気配が感じ取れれば、周囲の人はそれを「沈黙」、すなわち一種の拒絶とは感じなかっただろう。怒っている様子がうかがえれば、自分の話のどこが彼を苛立たせているのだろうと感じることだろう。

そう考えていけば、周囲の人びとが拒絶と感じたジャン=ピエールの沈黙がどんなものだったか、おぼろげに見えてくる。彼の表情からはおそらく何も読みとれなかったのだ。その向こうに幕のかかっているような、一種不透明な表情をしていたのにちがいない。

おそらく彼の内側がからっぽだったからこそ、そんな態度がとれたのだろう。そう考えると、ジャン=ピエールの話がおっそろしくくだらなかったのも、むべなるかな、である。

自分の無内容を隠すもっとも賢明な方法は、沈黙することなのだろう。ときおりうなずいたり、ほほえんだり、小首を傾げたりすることを意思表示に換えて。そうしていれば、あの人は深遠な人だ、あの人の考えは深い、と人を騙すことはできるのかもしれない。けれども、自分の空虚さを隠すことはできても、黙っているだけでは無内容な自分を豊かにすることはできない。そう考えていくと、いつまでも無内容ではいられない、と思うのなら、たとえバカをさらし、恥をかくことになったとしても、自分の考えを明らかにし、笑われたり批判されたりしながら周囲と交わることで、自分の考えを深めるしかない。銀どころか、銅にも及ばない、鉛のような発言を繰りかえすことで、人は少しずつ磨かれていくのではあるまいか。

鶏頭




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