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鶏的思考的日常 vol.33〜静けさや 壁にぶつかり 虫の息 編〜



2009-09-16,17:愛されない子供

小学校の一年生か二年生ぐらいの、ランドセルの方が大きいような男の子がふたり、ケンカでもしていたのだろう、道路をはさんで大声で互いを罵倒しあっていた。
「死ね!」
「おまえこそ死ね!」
死ねの大安売りにおかしくもなったのだが、冗談の応酬というより、握り拳を固めて真っ赤な声を張り上げて怒鳴っている顔を見ていると、ふとその子たちはほんとうに相手の死を願っているのかもしれないという気がしてきた。

もちろんそんなはずがない、ただ、相手を罵倒しようと、ボキャブラリも決して多くない子供たちが、知っている中で一番強烈な言葉を選んでいるだけだ、「おまえの母さんでーべーそー」などと同じように、ほとんど本来の意味など失われてしまっている、と考えるのが常識的というものだろう。

けれども、もしかしたら腹を立てている当の子供は、相手がほんとうにこの世からいなくなることを望んでいるのではないか、という気もするのだ。おまえなんか目障りだ、どこかへ行ってしまえ、この世から消えてしまえ、と、心の底から思っているのではないだろうか。

人がこの世から消えてしまうということの意味が、大人が理解するように理解はできてはいないだろう。だが、その一方で、大人とはちがうやり方で、ほんとうの意味を知っているのではないか。実は、彼らはある意味で「死」に近いところにいるのではないか、という気もするのだ。

以前にも引用したことがあるのだけれど、児童文学者の高楼方子(たかどのほうこ)の記憶は大変興味深い。二歳になったばかりの頃、どぶに落ちたときの記憶だ。

 ははあ、落ちたのだな、と思ったすぐあとに頭をよぎったのは、あ、死ぬのだな、でもこれでいいのだ、という思いだった。もともと私は、こことそっくりの所にいたのだもの、あの明るい所に私がいたのは間違いで、本当はこういう所にいるはずなのだ、だからこれでいいのだ、と思ったのだ。そして、ところで、「こういう所」とは、はていったいどこだったろう……と懸命に考えているその途中に、ぱっと光が差して私は救出され、謎は、宙ぶらりんのまま、いつまでも心にのこったのだ。

「こういう所」とは、おなかの中にいた時のことに違いない、とずいぶんあとになって気づいた。二年前くらいのことなら、誰しもが、つい最近のこととして記憶している、ということは、二歳の人間が、二年前のことをからだのどこかに記憶していたとしても、それほど意外なことではないのではないか。

 死ぬのだな、と思いながら、かすかな恐怖さえ感じなかったのも、もといた所に戻れるという安心感があったせいだと思う。もしかするとこれは、さまざまな事態で命を落とさざるを得ない、小さな子どもたちへの自然の配慮なのかもしれない。幼ければ幼いほど、胎児時代の記憶は近く、その分だけ、死に至る独りぼっちの暗闇も、恐怖から遠い、安らかな場所になりかわり、子どもを包むのではないだろうか。

(高楼方子『記憶の小瓶』クレヨンハウス)

前に引用したときは「もといた所に戻れるという安心感」というのは、一種の創作というか、大人になってからの感じ方ではないか、と思ったのだ。わたしたちは「土に還る」といった言い方をしたりして、なんとなく生まれる前と死んでからが同じ場所、という感じ方をしているけれど、子供がそんなふうに考えるものだろうか、と。

だが、もしかしたら、大人になってからのわたしたちがそんなふうに感じているのも、「からだのどこか」の記憶なのかもしれない。そうして、そこから出てきて間がない子供にとって、その世界はかならずしも恐ろしい場所ではないのかもしれないのだ。

フランスの作家シャルル=ルイ・フィリップの連作短篇に『小さな町で』(『フィリップ傑作短篇集』山田稔訳 福武文庫)というものがある。そのなかに「アリス」という作品がある。

アリス・ラルチゴーというのは、かわいらしい七歳の女の子である。その子は学校へ行こうとしない。大人たちがあれやこれや言ってみても、頑として言うことを聞かない。実はずっと母親のそばにいたいからだった。学校に行けというと

「ママが学校に行かせたら、あたし病気になって死ぬ」

という。ラルチゴー家ではアリスが生まれたあと、四年間に三人の子供が産まれていたが、いずれも生後一週間で死んでいたので、アリスの言葉は両親を震え上がらせるに足るものだったのである。

アリスは一日中外に出ようとしない。母親にまとわりつき、家事に忙殺されているようなときは邪魔をする。母親の注意が姉や兄の上に及ぶ夕食の時間は、アリスにとって恐怖のひとときだ。

 夕食の時間、テーブルのまわりに家族全員が集まっているときなど、姉やふたりの兄をじっとながめていて、アリスはふと云い知れぬ不安に襲われることがあった。彼女は愛されるだけでなく、ほかの誰よりも愛される必要があるのだ。彼女はみなの注意をひくためにまずこう呼んでみる。

「ママ」

 みなが目を上げる。するとアリスはつづけて、

「アリスだわね、いちばんかわいいのは」

やがてこのラルチゴー家に男の赤ちゃんが生まれる。過去三度の経験から、アリスは赤ん坊というのは生後一週間で死ぬものと思いこんでいた。ところが一週間経っても死にそうにはない。だんだんアリスは気が気ではなくなってくる。

周囲の人びとは、毎朝アリスが「ママ、赤ちゃん死んだ?」と聞くのは、弟のことを気遣ってだと思っている。だがやがて、アリスの真意がわかってくる。

 アリスはさらに何ごとかを期待していたのだ。もし弟がいつまでも生きているようなら、そのうち誰かが思いきって殺してくれるだろうと思っていたのだ。赤ん坊を揺籃(ゆりかご)に入れ、寒くないようにと毛布をあごのところまで引き上げるとき、アリスは母親も自分と同じ気持でいると考えてこんな風にすすめるのだった。

「毛布を口と鼻の上にかぶせた方がいいよ。息ができなくなるから」

母親は心配して「かわいいじゃないの」とアリスに赤ん坊を見せる。アリスはその小ささ、かわいらしさがたまらない。赤ん坊は死にそうにない。そこでアリスは叫ぶ。

「あたし、いちばん小さくなりたい! あたし、いちばん小さくなりたい!」

 その日の晩、彼女はこう宣言した。
「赤ちゃんが死なないのなら、あたしが死ぬ」

そうしてアリスは自分の言葉を実行する。食事もせず、一日中小さな腰かけにすわったまま、暗い目で母親の動きを追い、管を用いて流動食を注入しようとする医者にも抵抗する。作者は短篇をこの言葉で締めくくる。

アリスは仕返しをしているのだった。母親は泣いていた。アリスは、母親が自分から愛情を取り上げて弟にあたえたことにたいする仕返しをしているのだった。  アリスは七つの歳で嫉妬のため死んだ。彼女は自分の小さな腰掛けに坐っていた。突然、横に転げ落ちた。見つけた者があわてて抱き起こした。すでに死んでいた。

アリスの世界は小さい。自分と、母親と、赤ん坊と、そうして彼女にとっては添え物のような他の家族がいるだけだ。そうして、その小さな世界の中心に自分がいる。世界のほとんどをふさぐほど大きな自分がいる。その自分は、ただひたすら母親から愛されなければならない。アリスの世界は、自分と自分を愛してくれる母さえいれば十分で、それ以外のことが入り込む余地はないのだ。

アリスの小さな世界のなかには「愛されること」がある。同時に「死」がある。

けれど、その「死」は、アリスのそれまでの弟たちが一週間で死んだ、という経験から学んだことだけだったのだろうか。だが、それだと、新しい赤ん坊の死を願うのは理解できるけれど、アリスが自殺を考える理由がわからない。アリスは「自分の経験」として、「死」ということを大人とはちがう知り方で知っていたのではないか、という気もするのだ。

子供は「死ね」と平気で言う。確かに、相手にも親がおり、死ねば悲しむ家族がいる、ということに思い至らないから、言葉を換えて言えば「わからない」からこそ、平気で言える側面は確かにあるだろう。けれども、「こういう所」として、身体のどこかに覚えているから、それを知っているから、「死ね」と言う、というところもあるのではないだろうか。

ほかにも、自殺しようとする子供といって思い出すのは、ジュール・ルナールの『にんじん』である。

いまも『にんじん』は子供向けの全集などに所収されているんだろうか。『にんじん』というと、「赤毛でそばかすだらけのお母さんから「にんじん」と呼ばれている男の子の物語」と思うのは、読んだことのない人だけだ。確かにそうにはちがいないのだが、そんなことは要約にもなんにもなっていない。

わたしは小学生のときにちょっと読んで、すぐに気持ち悪くなり、最後まで読んだのはおとなになってからだった。読んでしばらく、出口のないような気分になったものだったが、未だにどう読んで良いのかよくわからないところがある。

とにかく、上のふたりの子供を偏愛する母親が、にんじんをすさまじく虐めるのである。たとえばにんじんがおねしょをしたシーツをスプーンでこそげて、おしっこをしぼり取り、それをスープに混ぜてスプーンをにんじんの口につっこんで、はきだせないよう喉の奥にたらす。そうしてそれを兄と姉にも見せて、一緒に笑う、そんなエピソードがつぎからつぎへと出てくるのだ。

にんじんという子も、しゃこ(鶏の一種)の頭を靴でふみつぶし、もぐらを石にたたきつけ、猫の額を銃で撃つ。母親の顔色をうかがい、だまし、なんとか裏をかこうとする。この子がこんなふうになったのも親が悪いからだ、とか、子供というのは残酷なものだ、などとわかったような口をたたこうにも、そうした決まり文句をすりぬけるような、一種の過剰なものがある。その意味で名作なのだろうけれど、どう考えても子供向けの本ではないように思える。

さて、そのにんじんだが、彼は少なくとも三度、自殺を図っている。

一度目は

 事実、にんじんは、水をいれたバケツで自殺を企てる。彼は、勇敢に、鼻と口とを、その中へじっと突っ込んでいるのである。その時、ぴしゃりと、どこからか手が飛んできて、バケツが靴の上へひっくり返る。それで、にんじんは、命を取り止めた。

(ジュール・ルナール『にんじん』岸田 国士訳 岩波文庫)

これはまだ遊びの延長のようなものだ。だが二度目に語られる自殺は、はるかにこれよりシリアスである。

にんじん――「そんなら、もし僕が、自殺しようとしたことがあるっていったら、どうなの?

ルピック氏――おどかすな、やい。

にんじん――嘘じゃないよ。父さん、昨日だって、また、僕あ、首を吊ろうと思ったんだぜ。

「また」と言っているところを見ると、それ以前にも首を吊ろうと思ったにちがいない。だから、少なくとも三度なのである。

『にんじん』の過酷な情況にくらべると、フィリップの「アリス」は、ずいぶん恵まれている。だが、ともに愛されていないことをふたりは知っている。アリスの場合は、自分が望むほど、という注釈がつくのだが。

何となく、わたしはこんなことを思い出す。弟がまだ母におぶわれているころのことだ。うまく回らない舌で、毎日毎日、「ぼくが、うまれたときは?」と聞いていた。母に、毎日自分が生まれたときのようすを語らせるのである。朝の九時過ぎ、分娩室に運ばれてまもなく仮死状態で生まれてきたこと、産声をあげず、お医者さんが足を持ってさかさまにぶら下げてお尻を叩いたら、「うふん」と息をしたこと……その話のなかで、たとえば母が「その日は金曜日で」とか、「朝の九時過ぎ」だとかのディテールがたったひとつでも欠けるようなことがあれば、自分から「朝だった? 何時だった?」と聞いて、その部分を母の口から言わせる。いつもいつも完璧に同じ話でなければ気が済まないのだった。

わたしはそれを横で聞きながら、おなじ事ばっかり何で聞くのだろう、と不思議でならなかったのだが、いまなら、そうやって自分の知らない「自分の始まり」を確認していたのだということがわかる。

自分で自分の始まりがわからないというのは、確かに不安なものだ。わたしたちはしばしば「これはいつから始まったのだろう」と振り返って確かめないではいられない。いつのまにかある集団に属していて、いつのまにかみんなと顔見知りになっているようなときでも、「いまうまくやっているのだからそれでいいじゃないか」とはなかなか思えない。とりわけ誰かが好きになると、あの人と会ったのはいつが最初か、恋愛感情を持つようになったのはいつからか、繰りかえし思い返して確かめる。始まりが定かでないと、「いまの気持ち」や「いま自分が確かにここにいる」ということすらも揺らぐように思えるのではあるまいか。

そうして「自分の始まり」を確かめるということは、同時に、自分が望まれて生まれてきたことの確認でもある。弟がしつこく要求した話のなかにも、父が何を言い、母が何を言い、姉が何を言ったかが含まれていた。自分はその始まりから愛されていたこと、世界の中心として生まれてきたのだということを、何度でも周囲の口から聞くことで確認したかったにちがいない。

にんじんにはこの確信を持つことはできなかった。アリスもまた、世界の中心の座を小さな弟に奪われることで、確信を失ってしまった。生の確かさを失ったために、死の方へ傾斜してしまったのではあるまいか。

大人になれば、「一番」以外の関係がありうることも理解できる。時間の流れのなかで、関係が深まったり、遠ざかったり、優先順位が変わっていったりすることも理解できる。つまり、言葉を知ることで、世界の切り分け方が多面的・重層的になっていくのだ。

子供は大人より単純なわけではない。だが、ほんの少しのボキャブラリしか持たない。そのために子供の世界は、混沌を余儀なくされる。「知っていること」と「知っていること」を結びつけた結果、大人には予想もつかない結論を出すことになる。

子供の自殺というのは衝撃的で、大々的に取り上げられることが多いけれど、もしかしたら子供の自殺というのは、あれぐらいですんでいるのが不思議なくらいのことなのかもしれない。自分が出てきた場所と、いまの自分までの距離が、ほんの数年しかないのだから、そこへ戻るのもひと息なのかもしれない。

鶏頭




2009-09-15:朝の声

昔は夏の夜店でヒヨコを売っていたものだったが、いまはそんなことはしないのだろうか。

わたしが小さな頃には、アセチレンランプに照らされた、水風船や金魚すくい、綿あめやリンゴ飴、当てものなどの屋台が並んでいる中に、段ボール箱のなかで、黄色いばかりでなく、毒々しいピンクや青に染められたヒヨコたちがピイピイと鳴いていたのをよく見かけた。

一度、そんなヒヨコを手にのせさせてもらったことがある。おそらく屋台の前にしゃがんで段ボール箱をのぞきこんでいたのだろう。ふわふわした羽毛とオレンジ色の小さなくちばし、丸い目のヒヨコはたいそうかわいらしく、ちょんちょんとわたしの手をつつくのだった。毛糸玉をのせているようなかすかな重みと、痛いようなくすぐったいような感じに胸がしめつけられるようで、このまま手のひらにのせて連れて帰ってやりたい、と一体どれほど思ったことか。

値段も金魚すくい一回分とどれほども変わらなかったのではあるまいか。おそらくねだったのだろう、母親から、ヒヨコのうちはかわいいけど、じきにすぐに大きなニワトリになるよ、そうなったらどうするの、あんたに面倒がみてやれるの、と言われたような気がする。

だが、目の前のふわふわしたヒヨコが、不気味な赤いとさかを持つ、怖い目のニワトリになるのだとは、頭では理解していても、どうしても信じられないのだった。絶対駄目、と言われて、がっかりしながらヒヨコを箱に戻し、去り際にもう一度振り返ると、もうさっきのがどれだかわからなくなってしまっていた。来たときと同じように、電球に照らされて、黄色やピンクや青いヒヨコたちは箱のなかでピイピイ鳴きながら、うろうろしていた。お祭りが終わったら、あのヒヨコはみんなどうなるのだろう、と思ったのではなかったか。

その年ではなく、それからさらに数年が過ぎていたような気がする。二学期も半分ほどが過ぎ、秋もずいぶん深まり、日の出も遅くなったころだった。
「コォゥケコッコォォー!」と鳴くニワトリの大音声に飛び起きたことがある。いったいどこから聞こえてくるのだろうと二階の窓から頭を出せば、まだ暗いなかに電灯のあかりがぽつりぽつりとついていくのが見えた。どこから聞こえてきたのか、目を凝らしていると、起き出した人に自分の声を聞かせようとするかのように、もう一度「コォゥケコッコォォー!」と聞こえてきた。どうやら家から数軒先の庭先から聞こえてくるらしかったが、暗く冷たい外気をふるわせて響き渡るかのようだった。

後年ハムレットを読んだとき、雄鶏のことを「朝を起こすトランペット」と書いてあって、その夜明け前のことを思い出したものだ。鳴くといえば、竿竹売りや廃品回収車や救急車が通るたびに遠吠えをするイヌもいたが、ニワトリの声はイヌなどの比ではなかった。それとも、まだ人が寝静まっている、静かな時間帯だったからこそ、あそこまで大きく響いたのだろうか。

やがてそのニワトリが、夜店のヒヨコのなれの果てであることを聞いた。そこの家の、わたしより少し年少の子供が夜店で買ってもらい、玄関先の段ボール箱のなかで飼っていたのだそうだ。それが数ヶ月のちには、立派に成人? して、ある日突然、夜明けを告げるようになったらしい。

それを聞いて、わたしはそこの家へ見せてもらいに行った。ところが玄関は薄暗いし、段ボール箱は深いしで、よく見えない。なおも頼むと、家の人が箱から出してくれた。

すると、広い世界に出たことがうれしかったのか、ニワトリはいきなりとっとっとこっちへ向かって走り出したのである。ヒヨコのころとはうってかわった猛々しいクチバシである。赤いとさかもびよびよと揺れている。つつかれては大変、と思って、わたしはキャッと逃げ出した。一緒に見ていたそこの家の子も逃げ出した。子供二人がニワトリに追い掛けられている図というのは、いま考えれば笑ってしまうような情景だが、そのときのわたしは怖くて怖くて、死にものぐるいで逃げていたような気がする。にもかかわらず、そのニワトリの白い羽の先が、一部分、そのときもなお青く染まっていて、これは青いヒヨコだったんだなあ、と思ったものだった。

そこの家でも扱いに困っていたのだろう。そこへ、朝も早くから鳴くようになって、近所から苦情が殺到したらしい。気がつけば鳴き声はしなくなり、なんでもそこの家の親類が暮らす千葉の田舎の方にあげたらしかった。

こんなことを思い出したのは、今朝早く、ニワトリの声が聞こえたからだった。明け方雨が降っていたこともあるのだろう、少し離れた場所にある幼稚園から聞こえたものらしかった。集合住宅の建て込む一画に、小さな幼稚園がある。もっと近いマンションの住人から、苦情が行くことはないのか、それとも普段は鳴かないニワトリだったのだろうか。距離もあってか、子供の頃に聞いた声より、はるかに小さなものだったが、なぜかその声は、「クッカドゥードゥルドゥー」と英語風に聞こえたのだった。

距離、空気中の湿度など、いくつかの条件が重なれば、こんなふうに聞こえるのかと思うと、なんだかおかしくなってしまった。そういえばフランスでは、ニワトリは「ココリコ」と鳴くのではなかったか。いったいどういう場面で聞けばココリコと聞こえるのだろう。

鶏頭




2009-08-30:選挙って何だっけ

毛穴の詰まったような顔、という言い方をして、わかってもらえるだろうか。

ペナントレースも終盤戦にさしかかり、優勝チームを追いかけている二番手のチームが、ある日のゲームで敗色濃厚、最終回の攻撃でバッターボックスに立つ選手の顔がアップになる。今日負ければ、もはや優勝の望みはない。自分にすべてがかかっている。ところが選手は妙に顔色が悪く、脂ぎっていて、しかも毛穴の詰まったような顔になっている。そんな選手は絶対に打てない。

試験前の受験生でも、たまにそんな顔になっている子がいるし、オリンピックでもそんな顔を見かける。おそらく「ばくち打ち」というのも、そんな顔をしているのではあるまいか。

緊張というのともちょっとちがう、とにかく呼吸は浅く、いくぶん早く、血液の循環も悪くなっているからなのだろう、顔色は赤黒く、脂汗をたらしているせいなのか、顔はテラテラと光っている。そうなってしまうともう、夢の中で動いているように、自分の身体を思い通りに動かすこともできず、頭も普段通りに働くことはない。

昨日、駅前で衆議院選挙の候補者が街頭演説をしているのを見かけた。候補者は、見事なまでに毛穴の詰まった顔をして、割れてかすれた声を張り上げて、自分の名前ばかり繰りかえしていた。だが、その人は、いわゆる「追い風に乗っている」側の人で、この地区で当選するのはその人にちがいないという評判だったのだ。

その表情を見ているうちに、たとえ「当確」と目されていても、実際のところ、候補者には結果が出るまではわからないのだ、ということがよくわかった。どれだけ前評判が高くても、「追い風」だの何だのと言われようとも、当選するかどうかわからないからこそ、そこまで追い込まれ、煮詰まった顔になっていたのだろう。

街頭演説すれば、立ち止まる人もいれば、立ち止まらない人もいる。宣伝カーの窓から手を振れば、手を振り返す人もいれば、無視して通り過ぎる人もいる。やかましいと露骨に顔をしかめる人もいるし、バカにしたような視線で見返してくるかもしれない。

自分は当選するのか、落選するのか。

民意というのはいったい何なのだろう。
人びとのまなざしや、表情から読みとろうとすればするほど、候補者はいよいよわからなくなり、追いつめられていくのかもしれない。握手をして、握り返した相手の力のこめ具合に、自分への支持を読みとろうにも、候補者は気まぐれだ。別の候補者が街頭に立てば、そちらの候補者と握手するかもしれない。

以前は選挙といえば、宣伝カーで自分の名前を繰りかえすことしかしない候補者が不思議だった。なぜ政治にたいするビジョンなり、政策なりを訴えないのだろうかと。

だが、政策で支持・不支持が決まるなら、そもそも選挙運動をするまでもないのだ。あるいは、政党の支持・不支持で各候補者の当選・落選が決まるのであれば。

現実の選挙はどうなるかわからない。個々の人びとが一体誰を選ぶのか、誰にもそれはわからない。だからこそ、名前をひたすら繰りかえし、考えなくても(あるいは、何も考えないで)その名前を書いてもらえるように、なおも繰りかえし、お願いを続けるのだろう。

選挙って何なのだろう。

鶏頭




2009-08-22:漂泊の思い止まず

先日、中学生になって数ヶ月が過ぎた男の子が、「人生って旅みたいだね」と言った。とっさに引退時に「人生とは旅であり、旅とは人生である」と言って失笑を買った(のではなかったっけ?)サッカー選手のことを思いだしたのだが、相手の真剣そのものの顔を見て、あわててそれを飲み込んだ。

もうすぐティーンエイジの世界に入ろうとするその子は、自分の来し方を振り返って、「旅みたい」という比喩と巡り会ったのらしい。彼は「旅」という一語を発見したことによって、小学校を卒業し、新しい世界に入って三ヶ月を過ごした自分の世界が一点に焦点化し得たことを、ちょうど「水」という言葉を発見したヘレン・ケラーのように喜んで、顔を輝かせていたのだ。

「旅」というのは、あまりに手垢がつきすぎて、ある程度の年齢を過ぎれば、使うのがはばかられるような比喩である。だが、それは逆に言うと、誰もがこの言葉から連想されるイメージ、ひとところに定着するのではなく、知らないところに行き、知らない世界を見る、ということに、どうしようもなく心を引かれてきたから、あらためて口にすることに気恥ずかしさを覚えるまでに、多くの人の間に定着してきたのだろう。

芭蕉は

 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。

と、「旅人」という比喩を時間になぞらえて使っている。歳月の中を生きる人を「旅人」となぞらえるかわりに、時間の方を「旅人」と逆転させることで、新鮮な感動を生み、その効果はいまなお生きているわけだ。こう考えると、芭蕉の時代から、すでに人が「旅人」である、という隠喩は、一般的なものだったのかもしれない。

だが、旅と日常とはどうちがうのだろう。

わたしたちはたとえ「仮の宿」であっても、どこかに定着せずには生活を営んでいけない。出張も、最初に確保するのは、泊まる場所だ。つまり、ものを入れようと思ったら、袋の底は閉じていなければならないように、何にせよ行動するためには、一方で、留まる場所がなくてはならないということなのだろう。

袋の綴じ目がしっかりしていれば、よりたくさんのものを詰めることができる。けれども同じ袋のままでは、そのうち飽きてしまうし、どれだけ大きな袋でも、もので一杯になるかもしれない。

だから、ときに小さな袋、綴じ目もきゃしゃで、ほんの一度か二度使えば充分のような袋がほしくなる。また大きな袋に戻っていくために。あるいは、新しい、自分に合ったしっかりした袋を見つけるために。あるいは、自分が小さな袋になって、風に吹かれていくために。

予定に組み込まれ、スケジュールも決まった旅行は、「旅」とは呼べないものかもしれない。それでも、小さな袋であることには変わりはない。入道雲が鱗雲に変わるころ、わたしは小さな袋を持っていく。大きな袋につめる物を探しに。

鶏頭




2009-08-15:生意気な頃を過ぎても

かなり大きくなるまで、わたしはずっと生意気だった。
だが、ある集団において生意気でいられるためには、一定の条件が必要だ。

その人が相対的に年少者で、責任がないこと。
周囲の年長者・責任者がその生意気を許すこと。
少なくともこのふたつがなければ、人は生意気ではいられない。

たとえばその人が七十代だって、「老人会」に参加したばかりの若手なら、生意気でいられる。こんなやり方は古くさい、きょうびの「老人」は、こんな古くさいやり方には馴染まない、といって、八十代の中堅とか、九十代の古参とかに楯突くこともできる。

十六歳だって、ボーイスカウトや小学生相手のキャンプのリーダーを努めるときは、生意気なことを言う小学生の話に、黙って耳を傾けてやらなければならない。

こう考えていくと、ずっと生意気でいられたわたしは、大変周囲の人に恵まれていたのだし、それを良いことに好き放題やってきたのだと思う。よくまあ周囲が我慢してくれたものだ。

もしそういう人たちが、わたしの「生意気」な意見を、ひとつひとつ理論と経験の蓄積でもって論破していたらどうなっていただろう。もしかしたら、じきに恥をかくことを恐れるあまり、自分の意見を作ることすらしなくなっていったかもしれない。

少なくとも、自分で自分が生意気であったことに気がつき、自分の態度の誤りに気づき、さらには未熟な部分に気がつき、時間をかけながらそれを少しずつ修正してこれたのも、おそらく周囲の人が我慢してくれたからだ。

大目に見る、我慢する、言葉を換えていえば、ある程度までは放っておく、と言ってもいいかもしれない。おそらくそんなやり方では失敗するだろうとわかっていて、けれどもわたしのやりたいようにやらせてくれて、現に失敗してしまったようなこともあったにちがいない。「それ見たことか」と言いたいようなときもあっただろう。だが、ありがたいことに、わたしはどれだけ失敗しても、周囲の人からそんなふうに言われたことだけはなかった。

だから、次第に生意気であることが許されなくなってきたいま、わたしも年少の人、自分より経験の少ない人に対して、「そうなると思っていた」とだけは言うまいと固く心に誓っている。

ただ、教える側に回ってみれば、目の前で失敗へと至るプロセスを逐一見せられるのは辛いものだ。

よく、最近の親は過保護で、何でもかんでも親が手を出す、という言い方があるが、親が手を出すことと、過保護のあいだにはあまり関係はないように思う。たとえば二つぐらいの子が、靴をはこうとするのを見たことがある人ならわかると思うが、実際、靴を一足はくのに、いったいどのくらい時間がかかるかと思うぐらいだ。それをじっと見ているのは、おそろしいほどの忍耐力が必要で、たいていは待ちきれなくて手を出してしまうのである。だからそんなとき、修行だと思ってそれに耐えるか、そうでなければ一応目の届く範囲で、何かほかのことをしていた方がいいように思う。おそらく何でも手を出す親は、いろんな理由でその余裕がないのだ。

ただ、わたしの周囲の人たちは、わたしが失敗するプロセスを逐一見守ってくれていたのか、というと、どうもそうではなかったような気がする。それぞれに自分自身の課題や仕事を持ちながら、そのひとつとしてわたしの面倒を見てくれていた。おそらくわたしを育てるという仕事は、その人たちにとって、それほどのプライオリティがあるものではなかったろう。だからこそ、好き放題にさせてくれたのだろうし、わたしの方も勝手に育つこともできたのだ。

そんなふうに考えていくと、育てる−育てられるという関係は、全身全霊をかけて向き合うものではないように思えてくる。何にせよ、育てられる側には、自分が育ちたい、というか、いまのままではいたくない、いられない、という強力な動機が不可欠で、そんなものを持っている子なら、放っておいても勝手に育つのだ。話を聞いてほしがるときに、ふんふんと聞いてやり、ときどき、様子を見てやるぐらいで充分のような気がする。なにしろこのわたしがそれで何とかここまで来れたのだから。

鶏頭




2009-08-14:立秋を過ぎて

日中は暑かったが、日が落ちてから、今日ははっとするほど涼しい風が吹いていた。もう立秋も過ぎていたのだ。立秋というと、この歌を思い出す。

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(藤原敏行)

古今集のなかでも最も有名な歌のひとつだろう。あまりに人口に膾炙されすぎ、あえて取り上げるのも気恥ずかしさを感じるほどなのだが、わたしはこの歌に思い出があるのだ。

高校一年のときだった。週二時間の古文の授業を受け持ったのは、非常勤講師の女性だった。当時「おばさん」とばかり思っていたのだが、いま思えば、子供が小学校に上がったぐらいの年代、いまのわたしと同じか、若いぐらいの人だったのだろう。

何かの解釈をめぐってだったか、それとは関係のない話だったか忘れてしまったが、四月の授業が始まって回数も重ねないうちに、わたしはこの人のことをひどくつまらない先生だと結論を出した。

国語は実際、ほんとうに良い先生がたくさんいた学校だった。その前の年に教わった退官も間近の先生は、授業すべて録音しておきたいと思うような、中身の濃い授業を毎回してくださる先生だったし、現国の先生の話は、毎回、世の中にはこんなにおもしろい本があるのだと胸がわくわくするような講義をしてくれていた。そんななかに混じって、教科書を読み上げ、文法事項をいくつか指摘し、現代語に訳すという授業は、逆にひどく異質だったのだ。この人はこんな薄っぺらい、紙きれのような知識で教壇に立つのか、といった、義憤めいた気持ちがわたしの側にあったのだろう。

そう思う自分がいったいどれほどのものだったか、当時を振り返ると、そんな不遜なことを考えていた自分が恥ずかしくてたまらなくなるのだが、当時のわたしにとっては、自分は棚にあげて、その先生の「薄さ」が許し難いものに思えたのだった。そこでわたしは授業を聞かないことにした。

聞いていないことをデモンストレーションするべく、授業中は堂々とほかの本を広げて読むのである。とはいえそれで悪い点を取るのはくやしいので、中学の時から使っていた小西甚一の『古文研究法』で、家に帰って文法を一生懸命勉強した。

試験の答案が返ってきたとき、「勉強しない割には成績はいいのね」と小さい声でその先生から嫌みを言われ、やった、と胸の内で小さくガッツポーズをしたものだ。だが、考えてみれば文法なんてものをまじめにやったのはその一年だけ、結局それで受験まで乗り切ったのだから、意地を張るというのもいいところがあるのかもしれない。

その先生から見れば、さぞかし嫌みな生徒だったことだろう。だが、一度も注意されなかったのは、おそらく先生の側に、自分が非常勤だからという引け目があったにちがいなかった。そんなふうにイヤミを言うのが精一杯で、二学期からはそれさえも言わなくなっていた。

そんなふうに授業は聞かないことにしていた古文だったが、その先生が、教科書に載っていた藤原敏行の「秋来ぬと…」をとりあげて、こんな話をしていたのが耳に入ってきたことがある。

その先生が、子供の保育園のお迎えにいったときのこと。夏のさなかだったにもかかわらず、吹く風に秋を感じた、そのときにこの歌を思いだしたという。でも、周囲のほかのお母さん連中に言ったところで誰もわかってくれない、こんなことがわかるのは自分だけなんだ、と思った、という内容の話だった。

こんなに有名な歌を思い出すぐらいで、「自分だけ」もへったくれもないもんだ、と高校生のわたしは思ったのだったが、一方で、周囲の人に言ってもわかってもらえない、と思って、飲み込んでしまう、という気持ちは、ものすごくよくわかりもした。

自分の内に湧き上がった、もろい、ほんの一瞬でこわれてしまうあぶくのような感覚、なんだかそれはとても大切なもののように思える。だからそれをつなぎとめておきたい。言葉にして公然化し、誰かと共有したい。なのにその相手がいない。その願いも、それがかなわない寂しさも、わたしにはあまりに身近なものだったのだ(と、いまのわたしならそう説明するだろう)。

だが、一瞬感じた親近感も、長続きすることはなかった。やはりその先生はどこまでいってもその先生で、授業はつまらなく、解釈は薄っぺらく、その一瞬を除けば、まともに授業を聞いた記憶もない。いまとなってはその先生の名前も顔も覚えていないし、申し訳ないことをしたと思う反面、自分が教える経験をしてみれば、生徒からのそういう評価を受けとめて、そういう異議申し立てに応えるような授業をすべきだったのだろう、とも思う。

それでも、自分の感じたことを口にしようものなら、周囲から完全に浮いてしまうだろう、そう思って飲み込んでしまう経験は、それからのちも何度かくり返した。そうしながら、口にされない自分の感じたことを、いまここにいない人に向けて伝えるために、頭の中や、文章にして、言葉を組み立てていく、という回路を自分の中に作っていくようになった。

いま、目の前に伝えたいその人がいなくても、「いない」という存在の仕方で、そこにいることができる人がいる。その人に、伝えることは可能なのだ。そうすることで、あぶくはあぶくではなくなる。

人は千年以上、夏の日差しのなかをよぎる、その年最初の秋の風に驚いてきたのだ。日向をさっとかすめる雲の翳りを。

もうすぐ、夏は行ってしまう。

行ってしまう、ということで、夏は、いまがまだ夏であることを教えてくれる。
ちょうど、不在の人が、不在であることによってその存在を意識させるように。
「つまらない先生」のたった一度の、ほんの一言が、いつまでも記憶に残っていくように。

鶏頭




2009-08-08:どぶがなくなっても

「どぶ板選挙」という言葉を新聞で見て、ああ、ここにはまだ「どぶ」という言葉が残っている、と思った。

わたしが子供の頃は、まだ町内にどぶがあった。家の板塀や生け垣が続くその外、路地の端っこに溝があり、その上に板で作った蓋がのせてある。たまにその蓋がないところがあって、子供たちはそこにしゃがみこんで、中をのぞき込むのだった。短く切った赤い糸の切れ端のようなイトミミズがうにょうにょしている底を、棒きれでかき回すと、たちまち水は墨汁を流したように真っ黒くなり、どぶ独特の臭いが立ち上る。

近所の子供は、たいがいそこに一度や二度、落ちた経験があった。
わたしは一度三輪車でバックしていて、三輪車ごとそこにはまったことがあるし、もっと大きくなってからは、友だちと遊びに行こうとしていたら、あとをついてきていた小さな弟がどぶにはまって、母にひどく怒られたこともある。道で転んで、そのまま頭からどぶにダイビングした子の話を聞いたこともあるし、腐ったどぶ板を踏み抜いて、どぶにはまっただけでなく、膝から血を流しながら家へ帰った子の話も聞いた。本を読みながら学校から帰っていると、「どぶへはまるよ」と注意とも揶揄ともつかないことを言われたし、友だち同士では「どぶへはまって死んでしまえ」というのが、最大の罵倒語だった。

小学校のあいだに、木のどぶ板はコンクリートのふたに代わった。その上を走ると、ぽこぽん、ぽこぽん、という軽い音が続くのがうれしくて、代わった当座はよくそこを走った。その穴に足をひっかけて転んだときの跡が、わたしの膝にはいまも残っている。

夏休みに入って最初の日曜日は、たいてい町内のどぶさらいの日だった。ふだんは背広を着て、白いワイシャツにネクタイを締めている近所のおじさんが、軍手をはめて、長靴をはいて、頭にタオルを巻いて出てくる。一年に二度、七月と十二月、朝からどぶさらいが始まる。

子供たちはどぶの脇に生えている草をむしり、大人はスコップでどぶの底をさらって道の端に積み上げる。緑の髪の毛のような水草と、黒っぽい泥に混じって、空き缶や煙草の吸い殻、へこんだゴムボールが、ふたたび日の目を見ることになる。どぶを流れる水はきれいになっても、通り全体がどぶ臭くなり、それはしばらく続く。浚われた堆積物は、道ばたに積み上げたままで、夏の日に照らされて次第に乾いていく。ここに置いたままだったら、浚っても意味がないのに、と母はよくこぼしていたが、子供たちが乾いてきた堆積物を蹴っ飛ばしたり、降る雨に流されたりして、積み上げられていたものは、しだいにもとの棲み家に戻っていくのだった。

どぶを辞書で引くと「溝」という字が出てくる。なぜ「溝(みぞ)」と書いて「どぶ」と読むのか、その語源が何なのか知らないが、下水が完備されて、「どぶ」がわたしたちの周囲から姿を消しても、「どぶ板選挙」などという言葉としていまにも残っているのだった。

イナゴを見たことがなくても、「イナゴの襲撃」というのは想像がつくように、これからもどぶがなくなっても、どぶ板を踏みながら戸別訪問する選挙活動の姿は想像されていくのだろうか。

鶏頭




2009-08-07:ミス・デントには耐えられそうにない話

チーヴァーの「ニューヨーク発五時四十八分」を訳していて、ブレイクが、ミス・デントがあまりに神経質で、おそらくそのせいで孤独なのだろうと考える場面がある。なぜ神経質だと孤独なのか、チーヴァーは書いていないのだが、確かにそういうものかもしれないとも思う。

その昔、常盤新平のエッセイか何かで読んだきり、その人の名前も忘れてしまったので、検索にえらく手間がかかったのだが、やっとわかった。Bernard Meltzerである。

このバーナード・メルツァーという人は、1967年から1990年代の半ばまで(これは Wikipedia 仕込みの知識)アメリカで大変有名な人だった。ラジオで悩み相談をやっていたのだ。聴取者から電話がかかってくる。それに対して、ひとつひとつ答えていく、その応答に、多くの人びとは感動したのだという。

わたしが読んだのは、こんな相談だった(何で読んだか思い出せず、あやふやな記憶のままで書いているので、実際のところはかなりアヤシイのだが)。

その人の悩みは、自分の友人がスープを音を立てて飲む、というものだった。友人を傷つけず、いったいどうやって注意したら良いのだろうか。

実際、アメリカ人やイギリス人たちがラーメンやうどんを食べるとき、どれほど音を立てずに食べようと苦労しているか! 
「すする」という動詞が、彼等の辞書にはないのである。もちろん和英辞典を引けば [sip] という単語や [slurp] という単語が出てくるが、sip というのは、アルコール度数の高いお酒などを飲むときに、ちょっとずつ飲むときの感じ、slurp というのは、かきこむ、とか、流し込む、とかいう感じの、非常に下品な食べ方をするときに使う動詞で、単語自体、ネガティヴな印象が染みついているような単語なのである。

日本でだって、音を立てて食べるのはお行儀が悪いと注意されるが(わたしだって小さい頃にうるさいくらい注意されたものである)、彼等の食事中の音に対する過敏さは、およそ日本の比ではないように思う。

なるほど、親しい友人がこれでは、アメリカ人は日本人以上に厳しいだろうなあ、と思った。ところが、そのメルツァーおじさん、その質問に対して、こんなふうに応えたのである。

たとえあなたとしては不本意であっても、それを相手の欠点として認めてしまうべきだ。あなたが決してやってはいけないことは、「君はものを食べるときに、音を立てているが、それはやめた方がいいよ」と注意することだ。別に相手が音を立ててスープを飲んだとしても、いいではないか。少なくともあなたは卑屈なところのない友人を持てるのだから。もしそれが耐えきれず、つきあいをやめたとしても、人を引きずり倒すようなまねをするものではない。

細かい言葉はおそらくちがっているだろうが、大筋ではこういうことだったように思う。なるほど、こういう考え方もあるのか、というより、確かにこれ以外に正解はないだろう、というぐらいの回答である。そうなんだ、親でも、身内でも、先生でも、先輩でもない、友だちというのは、こういうものなんだ、と思った。何か深いところで「腑に落ちた」と思ったから、こんなふうに、いまだにそのことを覚えているのである。

わたしたちがいつもちゃんとしていて、他人の厄介にならず、自分の身の回りのことは自分でできて、間違ったこともしないでいられるのなら、切磋琢磨して、お互いに高めあうことができるような友だちはいいものだ。

けれど、現実のわたしたちはしょっちゅう間違えるし、できないことはたくさんあるし、他人にはつい期待してしまうし、得手勝手な期待でも相手がそれに応えてくれないと恨みに思ってしまう面がある。暑かった、寒かった、頭が痛い、お腹がすいていた、寝不足だった、という程度の理由で、不機嫌になってしまったりもする。

それだけでなく、わたしの考え方にせよ、行動にせよ、これまでのわたしの積み重ねてきた日々や立場を反映して、独特のゆがみを見せている。

つまり、友だちづきあいというのは、そんなでこぼこした人間同士が、いろいろあるけど、とつきあっていくことなのである。もちろん、誰とでも友だちになれるはずがない。現実には好きになれる人ばかりではないだろうし、長い期間となるとなおさらだろう。さまざまなことがあって、意図したわけではなくても疎遠になってしまうこともある。

けれど、その人と一緒にいるのが楽しい、というのであれば、自分と相容れない「ゆがみ」に対しても、欠点として認めたり、目をつぶったりすることが必要になるわけだ。どこか鈍感になれない、神経質なばかりの人だと、それはむずかしかろう。チーヴァーの言うように、孤独になるのも仕方のないことかもしれない。

仮にいま、食べるときに音を立てずにいても、何らかの事故で、あるいは歳を取って体が不自由になれば、ずるずると音を立てて食べることになるかもしれない。もし他人のそれを認められなければ、自分がそうなったとき、さぞかし辛いことだろう。

結局は、それぞれの人に与えられたものを、与えられたものとして大切にする。そして、他の人のそれも認める。それを出発点にしていくしかないのだろう。そうしていけば、いつか、好き・嫌いを超えた、深い関わりができるようになっていくのかもしれない。

鶏頭




2009-08-03,04 :『女主人』のつけたし

一昨日まで連載していたダールの『女主人』はいかがでしたか。
怪談の季節ということで、選んでみました。以下、ネタバレを含むので、まだ読んでいない方は本文の方を先に読んでみてください。

この作品がゾッとするのは、ひとえに女主人の持つ特殊な技術にあると言ってよい。推理小説に殺人者はつきものだが、殺人シーンは一切出てこないにもかかわらず、彼女をほかの殺人者から際だたせているのは、巣を作って獲物をクモのように待っていることよりも、その目的が、剥製作りにあるからだろう。

とはいえ、剥製そのものがかならずしも不気味なわけではない。

その昔、小学校の理科室の奥にある準備室に、ライチョウだったかキジだったかの剥製が、ロッカーの上で埃をかぶっていた。カーテンを通した鈍い光の中で見る人体模型や剥製は、不気味というよりひどく非現実的で、人体模型がまるで人間と関係があるとは思えないように、ライチョウの剥製が本物の鳥の羽でできているようにも思えなかった。

動物園でシロクマの剥製も見たことがあるが、剥製か、まるっきりの作り物であるか、見ただけではほとんど区別もつかず、したがって、剥製を不気味と感じることもなかったのである。

かわいがっていたペットが死んで、その悲しさを埋めようと、剥製にすることを考える人はいる。

忠犬ハチ公も南極のタロとジロも、日本最後の天然朱鷺も、みんな剥製にされている。彼らが生きていたことを記念しておくために剥製にすることは、特にめずらしいことではない。

ここではそんな人が、質問をしている。

「亡き子犬を剥製にしたいのですが」

「亡き猫を剥製化するかどうか悩んでいます。」

だがどちらの質問に対しても、圧倒的多数の回答者が剥製にすることに反対し、埋葬することを勧めている。たとえ剥製にしても、生きていた姿とはほど遠いものになるから、と言っている人もいるが、多くの人は「剥製にすること」自体を疎んじているように思える。

南極のタロとジロにせよ、朱鷺のキンにせよ、公的な性格の強い動物で、個人のペットとはちがう。剥製を考える人に反対する人は、おそらくは自分であれば自分のペットに対して、そういうことはしたくない、と考えているにちがいない。

剥製にするためには、遺体に手を加えなければならない。名前は知っていても、自分と直接には関係のない南極の犬や朱鷺であれば、「死んだ」と聞いても、遺体をリアルに想像することもないが、自分と生活を共にし、家族の一員として過ごした生き物であれば、たとえ遺体であっても手を加えることに、激しい抵抗感を覚えるのは、十分に理解できる。というか、そんなふうに遺体を加工するという発想自体が、何だかひどくグロテスクなものに思えるのだ。

一方で、剥製にしようかと考える飼い主の気持ちはどのようなものなのだろうか。
ペットを亡くしたばかりだと、このあいだまでそばにいた生き物がいなくなる、空間的な喪失感が何よりも堪えるのかもしれない。彼らの不在がつらく、どういうかたちであっても、目の前にいてほしい、空間をふさいでいてほしい、という気持ちなのだろうか。生きていなくても、そこにいるだけでいい、たとえ動くことはなくても、目の前にいるだけでいい……。ここまで来ると、その人がペットに対して何を求めているかということと、剥製にしたい、あるいは剥製なんて考えるだけでゾッとする、と考えることは、無関係ではなくなってくるように思う。

わたしのペットだから、剥製にしようが自分の勝手ではないか、と言う人に対しては、おそらくわたしたちの多くは、ちょっとそれはちがうんじゃないか、と思うのではあるまいか。

確かに「わたしのイヌ」「うちのネコ」という言い方はする。だが、その所有格が意味するところは、イヌやネコの体を「わたし」が所有している、という意味ではなく、そのイヌやネコに対する責任は、自分にある、という意味で「わたしの」「ぼくの」と言っているのだ。イヌの体は、たとえその飼い主が自分であったとしても、あくまでそのイヌのものだ。

だが、そのイヌが死んでしまったらどうだろう。イヌの命がないいま、飼い主である自分のものだ、と思えるだろうか。自分の経験を振り返ってみれば、むしろ、生きているときより、自分の手の届かないものになったような、みだりに手を触れてはならないもののような気がしたのを思い出す。つまり、死ぬまでは「うちのネコ」であっても、死んでしまったら、もはや「うちのネコ」ではなくなり、「うち」とは別の世界に属する存在になったように思われた。

キンギョが死んだことを「星になった」という言い方で表現しているのも見たことがある。これも同じ、ペットは生命を失うと同時に、わたしたちの世界から離れた、とする考え方だ。

遺体はわたしたちの側に残っていても、ペットをペットとしていた「何ものか」は、わたしたちの世界を離れてしまった。だから、その遺体も、どういうやり方をするにせよ、懇ろに弔ってやって、わたしたちの世界から切り離し、送り出してやらなければならない、という考え方は、わたしにはとても自然なもののように思える。

自分のペットを剥製にしようとする人に対する違和感は、本来なら自分のものではないものを、自分の思うままにしようとしていること、言葉を換えれば、冒涜に対する違和感ではあるまいか。

くだんの「女主人」が恐ろしいのは、単なる殺人者ならば、相手の命を奪うだけだが、ペットやねらいを定めた若い男性を剥製にすることによって、完全に自分のものにしようとしているからなのだろう。

これをもっと丹念に書いていけば、ローレンス・ブロックの『サイコ』や、トーマス・ハリスの『羊たちの沈黙』のような、サイコ・ホラーになる。けれど、ロアルド・ダールはそれをちらりと匂わすだけに留めて、独特の苦い舌触りと不気味さのある短篇にしあげている。それでも、わたしたちが無意識のうちに、見ないようにしている暗闇に、一瞬光を浴びせるものであることには変わりない。

鶏頭




2009-07-26:読めない……

それにしても読めないのが、いまどきの子供の名前だ。

http://www.meijiyasuda.co.jp/profile/etc/ranking/name/

以前にも「名前の話」というログを書いたが、2008年のトップ(二年連続)となった「大翔」が読める人は手を挙げて!

ほかの読み方もあるが、41人のうち、23人が「ヒロト」と読むのだそうだ。「ヒロト」以下「ハルト」「ヤマト」…あとはもう好きにして頂戴、といいたくなる。要は「何でもあり」なのである。

女の子でも「陽菜」と書いて、「ヒナ」というのが大人気なのだが、「青梗菜」「搨菜」と並んで出てきそうな気がする。

おそらく、こういう名前をつける人というのは、「健一」とか「明子」などという「ありきたり」の名前ではなく、「個性的」な名前を、と考えて、そんな名前を選んだのだろう。

ただ、こんな名前がついていれば個性的なんだろうか、そもそも、個性的とは「人とはちがう」ということなんだろうか、と疑問に思うのである。

同じ人間がこの世にふたりといない、ということを思えば、人はみな、かならず個性的なはずだ。ところがある種の人は「個性的」と評価され、ある種の人は「平凡」とみなされる。あるいは子供に対しては、「個性を伸ばす」ことが大切とされる。

だが、目立つことを「個性的」であるとする根拠はいったい何なのだろう。
人がひとりひとりちがうのなら、それだけで「個性的」であるはずなのだし、人目を引かないこと、目立たないことも十分その人の個性のはずだ。

山本周五郎にはめずらしく、現代物の連作短篇に『寝ぼけ署長』というものがある。警察署で居眠りばかりしている署長、五道三省なのだが、彼の周囲では不思議なことに事件がひとつも起こらない。ほんとに運がいい、あんな男でも署長が勤まるんだからな、と陰口をたたかれるのだが、実は彼は目立たない、細かいところに気を配っていた。そのために、事件が起こらなかったのである。

もし五道三省の「個性」をあえてあげるとすれば、あだ名ともなった「寝ぼけ署長」ということなのかもしれない。表だって立派なことを言うわけでもない、華々しい活躍をするわけでもない、それでも彼は「何ごとも起こさない」という、目立たないけれど、大変な仕事をしていたわけだ。どんな組織でも、そういう形で支えている人がかならずいる。そういう人がいなければ、組織というのは回っていかない。

「何ごとも起こさない」ということは、実際には目立たない。なかなか理解も意識もされないし、ときには本人ですら、気がついていないかもしれない。けれども、わたしたちはもっとそんな「目立たないこと」「何ごとも起こさないこと」に、もっと気が付くべきだし、評価すべきだろう。

少年犯罪が起こると、判で付いたように「ふだんは目立たない、おとなしい子だった」というコメントがあがってくる。「目立つこと」「華々しいこと」ばかりを評価する風潮のなかで、もしかしたら、自分に貼られた「目立たない」「地味」というレッテルに苛立ち、自分はここにいるのだ、という叫び声として犯行に走らせたという側面は、なかったのだろうか。

一度聞いたら忘れられないような名前、個性的な名前をつけてやろうとするあまり、読めない名前ばかりになって、何がどう個性的かもわからなくなってしまった。

子供が生まれるということは、ただそれだけで小さな奇跡だ。
どんな子だって、それぞれに個性的なのだ。別につけたきゃどんな名前をつけても、わたしがとやかく言う筋合いではないのだが、「大翔」はどう見ても「ダイショウ」としか読めないし、それを「ヒロト」と言われても、何だかな、と思うのである。

鶏頭




2009-07-22:昔ながらの自転車屋

帰りがけ、駐輪場から出て、自転車に乗ってすぐ、後輪がパンクしていることに気がついた。そういえば、来るとき後ろの空気がなくなってきたのかなあ、とは思っていたのだ。それでも駅の駐輪場に預けてしまえば、自転車のことはすっかり忘れていたのだった。

駅前の自転車屋まで押していくと、なんとシャッターが下りていて、張り紙がしてある。紙にはマジックで書いた「本日臨時休業」の文字。頭のなかにインプットしてある自転車屋を思い浮かべる。そこから一番近いのは、家とは反対の方角で、前を何度か通ったことはあるが、入ったことはない店である。駅のはずれの商店街の一角にある昔ながらの自転車屋で、軒の低い、家の間口を広げたような店先に、この前売れたのはいつだったかわからないような、黄色い値札のついた自転車が数台置いてあり、その横が修理場になっていたような記憶があった。その修理場から、歩道にまで自転車がはみ出していて、前を通るのに難儀したこともあったような気がする。

とにかく記憶をたよりに、そこだけ取り残されたような、古いアパートやクリーニング屋や八百屋やパン屋が軒を連ねる通りを、自転車を押しながら歩いていった。

修理場のサッシが開いていて、頭の白いおじさんがふたり、長いすに並んでタバコを吸いながら、話をしていた。 「パンクだと思うんですけど、修理をお願いできますか?」と言うと ふたりともさっと立ちあがって、「まあ、すわってすわって」とわたしに長いすをすすめた。ちょうど小学校にあるような、木の長いすの上に、畳を一枚のせたものである。ひとりのおじさんは、わたしの自転車を店のなかへ入れ、もうひとりは立ったまま「チェーンに油を差したらなあかんな、このままやったらチェーンが切れるよ」と観察している。

自転車を入れてくれたおじさんは、腰を載せる低い台を持ってきて、それに腰かけると、自転車のタイヤにドライバーをはさんで、チューブを取り出した。どうやらこのクレープ地の下着のシャツに、腹巻きをしているおじさんの方が自転車屋さんらしい。駅前の自転車屋の、ブリジストンのロゴ入りの、青いつなぎを着たお兄さんとはえらい違いである。

蚊の死骸が二、三匹浮かんでいる赤い桶を引き寄せると、おじさんは、反対側の手に持っていたタバコに、すくった水をぱしゃっとかけて、火を消し、それを少し遠くにある蓋を切った灯油缶に放り込んだ。見ると、そこには一年分ほどもあのではないかと思われるぐらいのタバコの吸い殻が溜まっている。

タバコを捨てた手に、今度はドライバーを持って、後輪からチューブを取り出す。 「あー、タイヤがだいぶあかんようになってるなあ。そろそろ変えたらなあかんかもしれんなあ」と、タイヤのゴムの部分がひび割れている箇所を教えてくれた。考えてみれば、十年近く乗っている自転車で、前輪は五年ほど前、外に駐輪しているときにカッターか何かで切られたときに取り替えたのだが、後輪は買ったときのままだ。ほとんど毎日乗っているのだから、へたってきても当たり前だ。

だが、そうは言ってもおじさんはそれ以上、タイヤを取り替えた方がいいとも言わず、黙々と作業を続けている。もうひとりのおじさんは、立ったまま、ミシン油みたいな、さらさらした油では、ちょっとの間はいいが、すぐダメになってしまう、車用のオイルはべたべたしすぎて、ほこりを吸って余計走りにくくなる、としゃべり続けている。

チューブに空気をいれると、シューシューと音がする。腹巻きのおじさんは、水に漬けてその箇所を探した。直径5ミリほどの穴が空いている箇所が見つかった。 「こら、尖った石かなんかを踏んだんやな」 そう言うと、おじさんは工具箱に入れてあった丸い大きな石で、チューブをこすり始めた。そうやってチューブから完全に水気を取り除くと、透明の接着剤を掬い取って、手早く塗っていく。そのあと、さらに工具から黒いパッチを取り出して、その箇所に当てた。チューブを引き延ばしながら、パッチを馴染ませていく。再度、桶につけて、空気が漏れていないか確認して、後輪に戻していった。

「虫ゴムも替えときまひょな」とおじさんが言い、わたしが、何で虫ゴムっていうんだろうなあ、と人生で何度目かにそう思っていると、もうひとりのおじさんが「ほれ」と小さな引き出しから、小さな黒っぽいゴムを取り出した。腹巻きのおじさんは「おおきに」とそれを受けとって、自分の口に入れ、つばをつけてから、自転車の空気穴のところの金具に差しこもうとする。うまくいかなかったらしく、もう一度口に入れ、やり直すと今度はうまくいった。そこからボルトを締め直し、最後にキャップをかぶせてできあがり。

「ありがとうございました」とお礼を言うと「パンクの修理は800円な」と言われた(小学生のときは500円だったことを思い出した)。財布からお金を出そうとしていると、おばさんが「あんた、ちょっと戻ってきて、××がまたあかんようになったから」と、自転車屋さんではない方のおじさんを呼びに来た。見ているとふたりは一軒置いた八百屋に入っていく。どうやらチェーンに差す油について講釈してくれたおじさんは八百屋さんらしかった。

それを見て思い出したのか、自転車屋のおじさんは、「これ、差しときまひょか」といって、細いノズルのついたオイルをスプレーでシューッシューッと差してくれた。どうやらそれはサービスだったらしい。千円札を出すと、奥へいったん戻ったおじさんが、「すんまへんなあ、百円玉が一枚しかあらへんかった」と恐縮しながら百円玉と五十円玉二枚のおつりを手渡してくれた。

「どうもありがとうございました。ほんとうに助かりました」ともう一度頭を下げて、自転車屋をあとにした。タイヤの交換について、おじさんから勧められなかったことをもう一度思い出し、つぎにパンクしたらここに持ってきて、タイヤごと替えようかと思ったのだった。

鶏頭




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