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  2010-01-01:

旧年中はブログ及び「ghostbuster's book web」に遊びに来てくださって、ほんとうにありがとうございました。いつも訪問してくださる方、コメントをくださった方、語学の試験前に慌てて見にいらっしゃった方、中国で日本文学の勉強をなさっている方、たまたま検索で見つけてくださった方……どこのどなたかもわからない、カウンタに刻まれた数字のひとつである方、すべての方にお礼を言います。

今年もまたかたつむりのような歩で、おもしろい短篇やエッセイを翻訳したり、自分が読んで考えたことを書いたりしていきたいと思っています。

 一年は正月に、一生は今に在り  (正岡子規)

この句を詠んだあとの子規の人生は、もう五年ほどしか残されていませんでした。すでに病床に就いたままの日々が多くなっていた子規の胸には、いったいどんな思いが去来していたのでしょうか。

十月になってカレンダーをめくり、残された「今年」の薄さに胸を衝かれる思いがすることがありますが、この時期の子規は、ちょうどそんな思いで自分に残された日々のことを受けとっていたのかもしれません。にもかかわらず、というか、それゆえの、というか、とにかくこの句の強さと覚悟を前にすると、わたしの背は自ずと伸びていきます。

この句をいつも、心のどこかに留めて、毎日毎日を大切に、せいいっぱい生きていきたいと思っています。

どうか今年もよろしく。
みなさまにとって、今年がすばらしい年でありますように。



 2010年 元旦



鶏頭





  2009-12-31:

2010年陰陽師的開運本〜これであなたも絶好調!

「陰陽師的日常」では、当ブログに足を運んでくださったみなさまに「開運本」をお届けします。これを読めば開運まちがいなし!

まず、あなたの基本的な傾向を知らなければなりません。
ふたつの質問から、あなたにピッタリのおすすめ本を見つけてください。深く考えず、パッと思いついた答えを選んでくださいね。

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Q1. 巧己のお父さんの茂雄には三人の子供がいます。長男が一茂、長女が三奈、では三番目の子供の名前は何でしょう。

 1.正興 …と答えた人はQ2.へ
 2.二郎 …と答えた人はQ3.へ
 3.巧己 …と答えた人はQ4.へ

Q2. 映画を見に行くとします。あなたがもっとも当てにならないと思うのはどれですか。

 1.全米が泣いた、というキャッチフレーズ …おすすめ本1へ
 2.わたし、怖いのがダメなの、というガールフレンド …おすすめ本2へ
 3.「いまなら良い席が取れます」という表示 …おすすめ本3へ

Q3. あなたが一番そのとおりだと思うのは以下のどれですか。

 1.「忙しい」という人は、実は時間の管理がヘタ …おすすめ本4へ
 2.「友だちが多い」という人は、携帯をやたらのぞく …おすすめ本5へ
 3.「統率力がある」という人は、単に声デカいだけ …おすすめ本6へ

Q4.あなたにもっとも当てはまるのはつぎのどれですか。

 1.異性のストライクゾーンは広いのだが球が来ない …おすすめ本7へ
 2.前から来る人に声をかけられたので「どうかしましたか」と返事をしたら、話しかけていたのは後ろの人だった …おすすめ本8へ
 3.トランプ占いで結果が気にいらないと、「今のは練習」と声に出してやり直す …おすすめ本9へ

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◆ Q1. で1.を選んだ人は、茂雄+一茂+三奈で思いついた名字をググりましたね?
思いついたらぱっと検索するあなたは、調べ物が苦にならない人。そんなあなたには、あなたの世界を広げる本をおすすめします。

おすすめ本 その1.

アメリア・アレナス『なぜ、これがアートなの? 』(福のり子訳 淡交社)

Q2.で1を選んだあなたは調べることが苦にならず、かといって評判にも惑わされない、自分自身のセンスを大切にする人です。そんなあなたにおすすめなのがこの本です。
なぜセザンヌの描いたリンゴの絵は「すばらし」くて、ジャクスン・ポロックを前にすると「わからない」と思ってしまうのか?
印象派が画期的だったのは、ほんとうはどういう点だったの?
なぜ現代絵画は「わけがわからない」の?
誰もが漠然と感じているんだけど、これまでどこにも書いてなかったことが解き明かされていて、もう目からウロコが落ちること請け合いです。この宣伝は信用して大丈夫。

おすすめ本 その2.

柳田国男『妖怪談義』(講談社学術文庫)

デートでもホラーを選んでしまうあなたにはこの本を。
ところで、オバケは何と鳴くでしょう?
実はモーと鳴くらしいのです。「モー」なんて牛でもあるまいし、と思った人は、ぜひこの本を読んでみてください。「怖いのがダメ」な彼女にも、感心されることまちがいなし。


おすすめ本 その3.

ピエール・ブルデュー『メディア批判』(桜本陽一訳 藤原書店)

映画会社のキャッチフレーズを鵜呑みにしないあなたにはこの本を。
このところ、新聞、テレビなどのマスコミはあまり評判がよくありません。新聞は「歪曲・捏造」するし、テレビ番組はやたら低俗だし……、などといいながら、その実、わたしたちは新聞・雑誌やネットのニュース、あるいはまたテレビ番組などのマスメディアとは、一日も無縁ではいられません。
どうしてわたしたちは、テレビで発言する人の言葉に「権威」を感じるのか、視聴率競争がなぜ番組の質を低下させるのか。いろんなことがわかってくる本です。


◆ Q1. で2.を選んだ人は、一茂、三奈という名前の関連から、「二」のつく名前が出てくるにちがいないと論理的に推理した人。そんな人には論理的思考をさらに鍛えるための本をおすすめします。

おすすめ本 その4.

渡辺慧『認識とパタン』(岩波新書)

論理的思考を優先し、しかも時間の使い方に長けたあなたには、新書をおすすめします。
仮に初めて見る犬であっても、わたしたちはそれを犬と認識できるのはどうして? わたしたちは絵を描くとき、どうして「輪郭」から描き始めるの? 「コンピュータ」とわたしたちの認識のちがいって? わたしたちの「認識」がどうなっているか、興味がある人は、この本をぜひ。自分が「わかる」仕組みがどうなっているか、ちっとも「わかってない」ことに気がつきます。

おすすめ本 その5.

町田健『コトバの謎解き ソシュール入門』(光文社新書)

携帯をやたらのぞく人が気になる、コミュニケーションに関心のあるあなたには、この本を。
わたしたちは言葉を使って意思疎通を図っていますが、よく考えるとこれは不思議なことです。ものを直接見せ合っているわけでもないのに、どうしてわたしたちは分かり合えるのか。「梅干し」という言葉を聞いただけで、どうして口に唾がたまってくるのか。それ自体ではインクのしみでしかない文字の羅列から、意味を汲みとることができるのか。
言葉の不思議について書かれたなかでは、とってもわかりやすい本だと思います。

おすすめ本 その6.

白川静『孔子伝』(中公文庫BIBLIO)

「統率力」という言葉に敏感で、あるべき指導者についてはっきりしたイメージを抱いているあなたにはこの本を。
ちょっと有名すぎて、いまさら、という感じはするのですが。
孔子というと、これとはずいぶんちがいますが、谷崎潤一郎が書いた孔子像『麒麟』もおもしろい。これは全集以外では、『明治の文学』シリーズの『永井荷風・谷崎潤一郎』の巻に所収されています。もし興味がある方は読んでみてください。


◆ Q1. で3.を選んだ人は、文章を読み慣れた人。さっと読んでもポイントを逃しません。そんな人には読む楽しさをとことん味わえるものを。

おすすめ本 その7.

野上弥生子『迷路』(岩波文庫)

球が来るまでこの本を読んで待ってください。大丈夫、文庫本で上下巻1300ページあります。
昭和ってどういう時代だったんでしょう。わたしたちが生まれる前の時代の人びとは、どんなふうに戦前から戦中、戦後の時代を生きたのでしょうか。この本を読むと、主人公菅野省三と共にその時代を経験することができます。桜田門外の変で有名な井伊直弼の後裔、井伊直忠伯爵をモデルにした大変おもしろい人物も登場します。

おすすめ本 その8.

イザベラ・バード『日本奥地紀行』(高梨健吉訳 平凡社ライブラリー)

ちょっとそそっかしくて、でも知らない人に話しかけるのも厭わない。どうしたのか、と思ったら、振りかえる前に行動する、そんなあなたにはこの本を。
明治時代の日本にやってきたイギリス人イザベラ・バードは、通訳の日本人男性をたったひとり連れただけで、日光から東北地方を旅してまわります。
これを読むと、異文化コミュニケーションというのは勇気だということがよくわかります。知らない人と会話するのも小さな異文化コミュニケーション。とまどうことも楽しんじゃってください。

おすすめ本 その9.

ハインリヒ・マン『アンリ四世の青春』(小栗浩訳 晶文社)

トランプの絵柄から自分の運勢さえも読み取るほど、読解力に優れ、想像力にも長け、さらにはやり直しさえもいとわないあなたには、重厚長大な本がおすすめです。
フランスの田舎の領主であったブルボン家からパリにやってきて、ブルボン朝初代の国王となったアンリ四世を主人公に据えた、壮大な歴史物語です。母親であるナバーラ女王ジャンヌ・ダルブレ、王妃マルゴ、その母親のメディチ家の血を引くカトリーヌ・ド・メディシスなど、カラフルな登場人物も盛りだくさん。
時空を超える歴史文学の楽しさを堪能できます。つづきがまだ読みたかったら『アンリ四世の完成』もあります。

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本年もブログ「陰陽師的日常」ならびに「ghostbuster's book web」を読んでくださってありがとうございました。

ときどき何を読んだらいいか聞かれることがあります。
自分の読みたいものを読めばいい。それ以上の答えはありません。けれども「自分の読みたいもの」がわからない。ガイドというのは、それを知る助けになるものではないでしょうか。

これまでの自分の視界には入ってこなかった本を読む。自分の世界が広がると同時に、それを楽しみ、感動している自分を知る。自分をのぞきこんでいるだけでは決して知ることのできない、自分との出会いでもあります。

本なんて非現実的なことをやっていず、現実を見ろ、という言い方があります。このあいだ「感情的」という言葉に批判的なニュアンスがこめられていることを書いた(「感情的?or 理性的?? ――女はほんとうに感情的か」)のですが、「非現実的」というのも、非難の調子がこもっています。

けれど、現実というとらえどころのないものを、どうやってとらえればいいのでしょう。現実を理解し、尊重するためには、言葉であるとか人間であるとか社会であるとかを、決まり決まった見方ではなく、見ることが必要なんじゃないか。そのための方法が、他の人の考え方を知る、つまりは本を読むことではないのかと思います。

それまでの自分にはなかった考え方を知り、自分のものにしたとき、人は自分の小さな枠を超えることができます。
行ったことのないところへ。
見たことのないところへ。

――歩きたいから歩く。すると歩くのが目的になる。考えたいから考える。すると考えるのが目的になる。(夏目漱石『それから』)

本と一緒に歩いていきましょう。
2010年もよろしくお願いします。



鶏頭





  2009-12-27:

その昔、住んでいたところで、収集日のゴミの出し方が問題になったことがあった。分別されていないために、ゴミ回収のトラックが来ても、持っていってもらえないのだ。取り残されたゴミ袋を、ゴミ当番の人が中身を改めて出した人のところへ戻す、ということが、何度かあったらしい。

回覧板で経過説明と注意が回ってきて、わたしはなんとおそろしい、と思った。自分が出したゴミの中身を他人に改められるのだ。冗談じゃない、と、それ以来、分別にやたら神経質になってしまった。乾電池だの、リーフレットだの、怪しいものはいちいち分別表で確かめて、さらには「誰のゴミか」わからないように、名前が書いてあるものは棄てないように気をつけた。鉛筆けずりによく似たハンドルがついている手回し式のシュレッダーも買って、ダイレクトメールだの薬の袋だのはキコキコと細かくして出すようにした。

ところが気にならない人は気にならないのか、そもそもそんな人は回覧板すら見ないのか、事態は一向に改善されなかったらしい。分別の呼びかけはそれからあとも何度も続いた。

そこで出てきたのが、ゴミ袋の中身を見るなんて、プライバシーの侵害ではないか、という声である。自治会長名で出された「お知らせ」には、プライバシーなどというのは後ろ暗い人の言いぐさで、自分の名前を袋に書けるほど、きちんとゴミの分別をしてほしい、という内容のことが(そこまであからさまではなかったけれど)書かれていた。

それを読んで、変な気がした。どうやらプライバシーというのは、その人にとっては「隠し事」という意味らしいのだ。人には他人の立ち入りを拒む権利、干渉を拒否する権利を有する領域がある、などということは、考えたこともないらしい。会長というのは当時七十代の人だったが、このぐらいの年代の人だと、こういうふうな考え方をするものなのだろうかと考えたものだ。

それから十年以上が経つけれど、実はいまでもプライバシーというと、秘密を持つとか隠し事をする、といった理解の仕方をしている人が少なくないのかもしれない。

というのも、電車のなかや食事をする場所で化粧直しをしたり、声高に携帯電話でしゃべったりしている人が一向に減ろうとしないからだ。こういう人たちを目の当たりにすると、わたしはいつもこの人はプライバシーということをどのようにあるのだろう、と思ってしまう。

髪の毛をとかしたり、身仕舞いをしたり、個人的な電話をしたりするような行動は、あくまでもプライベートに属することだ。それを平気で他人をも巻き込んで公共の場で行えるというのは、その人が公的な領域と私的な領域の区別をつけていないということになる。

その人にとって、電車やカフェは公共の場ではなく、私室の延長。そこにたとえほかの人がいたとしても、単なる背景、人の絵の書き割りに過ぎないのだろう。自分に向けられる迷惑そうな視線も、部屋にある電気器具のノイズと同じようなものなのだろう(だからこそ、反対からいえば、人は実質的に迷惑をかけられること以上に、電車の中での化粧や電話が不快感を覚えるのだ。自分がノイズ扱いされていることに対する不快感だ)。

どこでも私室の延長の人にとってのプライバシーとなると、それこそ「人の目から隠さなければならないこと」になってしまう。自分の部屋の扉を閉めて、身仕舞いをしたり着替えたり、個人的な用件を片づける必要がないのであれば、扉を閉めてすることは、ほんとうに人目にふれると「恥ずかしいこと」「してはいけないこと」に限られてしまうのではないか。

逆に言うと、そんな人にとっての「パブリック・スペース」とは、いったいどんな場所なのだろう。ごく少数の、親しい人間だけで成立する共同体なのではあるまいか。気にするのは、友だちの視線や評価だけ、知らない人からどんな目で見られても気にしない……とすると、逆に、友だちの評価や視線がとんでもなく重くなってくる。

結局のところ、自分のプライバシーを大切にするということは、共同体の一員であり、同時に「個」としてある自分を大切にする、ということだ。はっきりと公共の一員であるという意識を持つことによって初めて、逆に「自分は自分である」という意識を高め、プライバシーの意識を高めることになっていくのである。



鶏頭





  2009-12-25:

『ハムレット』の有名なせりふのひとつに、金の貸し借りを禁じるものがある。留学する息子レアーティーズに向かって、ポローニアスが説教をする場面である。

「ええと、金は借りてもいけず、貸してもいけずと。貸せば、金を失い、あわせて友をも失う。借りれば、倹約がばからしゅうなるというもの」

(『ハムレット 第一幕三場』福田恆存訳)

借りたら、返すために一層倹約に励まなければならないような気もするが、ポローニアスが言っているのは、借りたら最後、返そうとしない人のことなのだろう。確かにこんな人に貸しでもしたら、友情はおしまいになるというのも、もっともな話ではある。

高校生のころ、一度、三千円を友だちに貸したことがある。その日、たまたまLPレコード(当時はまだCDではなかったのだ)を学校帰りに買おうと思っていて、それだけのお金を持っていたのだ。何で貸したのか、相手は何といったのか、まったく記憶にないのだが、財布のなかにあったのを幸い、それを全部相手に渡してしまったのである。

ところがどっこい、待てど暮らせど相手は返してくれない。そのうち、親から「あのお金はどうした」と聞かれたことから、友だちに貸したことがわかってしまい、「早く返してもらいなさい」とひどく叱られた。お金を稼いでもいない子供が、勝手にお金の貸し借りをするなんてもってのほか、というのである。

なんだかまるで借金取りになった気分……と、ひるみそうになる気持を励ましながら、三千円、返して、と何度か言いに行ったのだ。相手が何と言ったかは覚えてないが、じきにわたしを避けるようになり、なんとも困ったことになったのだった。

仕方がないから担任に相談し、担任から相手の子に言ってもらった。お金は返ってきたが、ずいぶん後味の悪い結末になってしまったのである。まさに『ハムレット』に出てくるせりふを実地で学習したわけだ。のちに母からは、貸すときはあげるものだと思いなさい、と言われた。

それから数年経って、家から離れて寮生活をしていた頃のこと。
友だちが、いま困ったことになってるの、と自分の抱えている問題をうち明けてくれた。なんとかするためには、いくばくかのお金が必要だった。相手もわたしの生活を知っているから、「貸してくれ」とは言わない。だが、実際、どれほどその言葉を口にしたかったろう。言いたい気持ちをぐっと呑み込んで、わたしからの「じゃ、貸してあげるよ」という言葉をすがるような思いで待っているのかもしれない。ふたりのあいだに「お金、貸して」という言葉が声にならないまま、宙に浮いていた。けれど、わたしの口から「じゃ、貸してあげるよ」の一言は出なかった。そんな現金はさかさにして振っても出てこなかった。

結局、その余裕がないことを言い、力になれないことを謝った。相手も、いいの、そんなつもりで言ったんじゃない、とは言ってくれたが、お互い、目を合わせることができず、それ以降はどちらからともなく疎遠になった。たまに見かけても、忸怩たる思いが先に立ち、どこか気を置いた不自然な挨拶をするよりは、と避けていた結果の疎遠だったから、おもにその責任はわたしにあったのかもしれない。別の人たちと仲良くしているのを遠くで見ながら、ホッとしていたのだ。ともかく、これは貸さなくても「友を失う」経験だった。貸していたら、失うことにはならなかったのだろうか。

それにしても、親しい関係というのはむずかしいものだ。お金がらみではなくても、相手が自分にとって大切な存在であればあるほど、重要な問題は打ち明けにくくなる。心配させるぐらいなら、黙っていようと思う。

水くさい、というのではないのだ。信用していない、というのでもない。相手にどうすることもできないような種類のことは、相手に心配させたくない、つまりは相手が大切だからこそ、言えないのである。

逆に、さほどつきあいもない、どうでもいい相手だから言えるということもある。たいして自分のことを知っているわけでもない、これから先、関係を深めていこうとも思っているわけでもない、相手に何も望まず、相手も何かしてやろうという気にはさらさらならないような関係だからこそ、気軽に吐き出すこともできる。

ところがそんなことをしてしまうと、まわりまわって親しい人の耳に入ってしまい、なんでそんな大切なことを自分には言ってくれないのか、水くさい……と気分を害されることにもなったりする。まさに、とかくこの世は住みにくい。天を仰ぎたくもなってくる。

こうやって考えてみると、信頼することと秘密を打ち明けることの関係というのは、決して単純なものではない。

以前、会ってほとんど間がないような人から、おっそろしくシリアスな出来事をうち明けられたことがある。こんなことを聞いてしまっていいんだろうか、とひるんでしまうような話だった。ところが後日、「ああ、あの人って、昔アレだったんでしょ」と言い出す人がでてきて、えっ、どうして知ってるの? とみんなが驚き、結局、そこにいた全員がその話を知っていたことがわかった。つまり、その人は会う人ごとに打ち明け話を聞かせていたのである。

当時わたしは、もしかしたらこの人は悲劇のヒロインになりたいのだろうか、そうやってみんなの同情を買って、話題の中心になりたいんだろうか、と思ったものだが、いまになって思えば、おそらくそうではなかったのだろう。おそらくその人にとって、自分に差し出せる「最良のもの」が「自分の不幸話」だったのではなかったか。

わたしたちは半ば無意識のうちに、誰かといるときは、「相手の聞きたい話」をしようとする。相手が喜びそうな話、興味深い、聞く価値のある、おもしろがる話をしようとする。その人にとって、自分の考える「相手の聞きたい話」が「打ち明け話」だったのだ。お金持の子が、ステキなおもちゃで友だちの歓心を買おうとするように、その人の場合は自分の秘密を差し出し、自分はここまであなたに心を開いていますよ、と示すことによって、相手からの好意を得ようとしていたのだろう。

だが、知るということは、知った対象とのあいだに責任が生じるということでもある。知らなければ自分には何の責任も生じようがないが、ひとたび知ってしまえば、何らかの行動が求められる。「そんなことは知らない」というのは、責任回避のせりふだし、責任を取る立場の人に向かっては「知らないではすまされない」と詰め寄っていく。自分と縁もゆかりもないテレビタレントのゴシップが楽しいのも、知ったところで何の責任も生じないからだし、野次馬がさげすまれるのも、彼らは知るだけ知って何の責任も負おうとはしない人だからだ。

長くつきあいたい人、大切にしたい人だから言えないのは、相手に筋ちがいの責任を負わせたくないからだし、たいして親しくもない人の個人的事情を打ち明けられて困ってしまうのは、そんな人の責任をいささかでも負いたくないからだ。こう考えていくと、誰にでも秘密を言えてしまうのは、逆に、みんながどうでもいい人だから、であるからかもしれない。ただ、自分の話を聞いてくれさえすれば、自分に関心を示してさえくれれば、自分に好意を持ってさえくれれば、人がそこに責任を感じようが感じまいが、その人にとっては知ったことではない……ということだったのではなかったか。

最近ではあまり聞くことがなくなったが、一時期「それは重いよ」「こんなこと言って“重い”って思われないかなあ」などと、「重い」という言葉がよく口にされていた。この「重い」というのも、言葉を換えれば「責任を感じる」ということなのだろう。

情報を受けとること、知識を得ることは、同時に自分が知ったぶんだけの責任を負うということでもある。「友だち」という責任、「同じ共同体の一員」という責任、「その場」にいたという責任、責任もさまざまあって、その重さも一様ではないけれど、どこまでいっても情報の共有というのは、「この件に限っては、あなたとわたしは同じ舟に乗ることになりますよ」ということだ。すぐ沈みかねない舟に自分のたいせつな人を乗せられるだろうか、と考えたり、この舟に一緒に乗ったらきっと楽しいだろうなあ、と思ったり、わたしたちはその時々でさまざまなことを考えながら、人に話を打ち明けたり、打ち明けなかったりする。

人と関係を築いていくのはむずかしい。関わりができるということは、少なからぬ重さを自分が引き受けるということでもある。相手がこの重さを担ってくれるか、というのは、いつだってささやかな賭けだろうし、ときとして、大きな賭けともなるのだろう。そうして、その坦歩となるのは、結局は相手をどれだけ信頼しているか、ということなのだろう。



鶏頭





  2009-12-16:

岩村暢子の『変わる家族 変わる食卓―真実に破壊されるマーケティング常識』のなかに、クリスマスというのは、現代の家族では大きなイヴェントとなってきていることが指摘されていた。従来は、「年の初め」として、家族の中でも特別の地位を占めていたお正月が、おせち料理もお雑煮もない、ただの休日のような扱いになっていくのに対し、逆にクリスマスは、家にツリーを飾るだけでなく、家全体を電飾でおおったり、ホーム・パーティを開いたりして、家族の中での大きな行事になっている、というのである。

とりわけ子供のいる家庭では、クリスマスはお誕生日とならんで、大きなイヴェントだ。イヴの晩には枕元にプレゼント、高校生ぐらいの子供に対しても、まだ彼らがサンタクロースを信じているかのように、「約束事」を続けているという家庭も紹介されていた。

そう言われてみれば、「サンタクロースはほんとにいるんだ」と声高に主張する大人たちが、このところなんだかやけに目につく。

別にサンタクロースがいてもいいのだが、信じてもいないのに信じるふりをする、というのは、何となく気持ち悪くないか?

「クリスマスの精神」という言葉がある。平和と愛と善意のことだ。サンタクロースというのは、その象徴なのである。サンタクロースを信じるということは、つまりあの白いひげのおじいさんの実在を信じるということではなく、この世がいつか平和になり、人びとが愛しあい、お互いの気持ちが善意で満たされることを信じるということだ。一年中、その精神を実践することはむずかしくても、せめて、その日だけでもそれを実践しよう。だからこそ、第一次世界大戦中には、停戦協定もないのに、戦場で自発的にこの日は戦闘行為が中止された。

クリスチャンでもないのに、という人もいるが、以前"Happy Solstice!"のログでも書いているが、本来、この日はイエス・キリストの誕生日でもなんでもなく、旧来の太陽神信仰とキリスト教が対立することなく人びとに受け入れられるために、言ってみれば便宜的に選ばれた日なのである。だから、まあ、何もキリスト教の信者ではなくても、太陽の恩恵を受けている人なら、クリスマスを祝ったってかまわないのではないか、とわたしは思う。ただ、そのことと、サンタクロースはちょっとちがうような気がするのだ。クリスマスの精神を抜きにしたサンタクロースって、いったい何なんだろう?

カポーティの短篇「クリスマスの思い出」には、サンタクロースなんて出てこない。そのかわり、「彼女」と「ぼく」は、互いに「相手にとって必要な、すばらしいプレゼント」を思い浮かべながら、そんなものはどうやったって手に入らないので、手作りの凧をプレゼントし合う。凧揚げの場面はほんとうに美しく、何度読んでも涙が出てしまうのだけれど、凧よりなにより胸を打つのは、そんな交換がし合える関係を、人と築けるということだ。ここには、それはもちろん虚構の世界なのだけれど、にもかかわらず確かな「平和と愛と善意」がある。「平和と愛と善意」は存在するのだと、人と人はそんな関係が築きうるのだと、この短編は教えてくれる。

そう考えていくと、別にサンタクロースなどいなくてもいいような気がする。プレゼントを贈って楽しいということは、誰かのことを考えるのが楽しいのだ。誰かのことを自分以上に大切に思う気持は、確かにクリスマスの精神のはじめの一歩、と言えるかもしれない。



鶏頭





  2009-12-12:

いまカポーティの短篇「クリスマスの思い出」に手を入れているところだ。

マーガレット・ミラーが、この作品と「おじいさんの思い出」を読むたびに泣いてしまう、と話していたのをどこかで読んだことがあるのだが、それもわかるような気がする。どちらもともに、“失われた物語”だから、読者は泣かされてしまうのだ。

誰もが「喪失感」については知っている。二歳くらいの子が、自分が握っていた葉っぱを川に流したあとで、手の中にもはやそれがないことに気がついて、その喪失感に身も世もないほど悲しむのを見たことがある。つまり、「自分がそれまで持っていたものが失われた」という感覚は、人間がそんなにも幼いうちから、言葉さえまだ満足に操れないうちから備えている感覚なのだろう。

これまたあやふやな記憶のままで書いてしまうのだけれど、確か『誕生日の子どもたち』の翻訳をした村上春樹は、同書の末尾で、ここで失われるものはイノセンスだ、といったことを書いていた。

ここまで書いて、自分がどこかで引用していたことを思い出した。検索してみると、「あなたのなかの子供」だ(グーグルって便利だ)。

このときに引用した部分をもう一度、引っ張ってくる。

 言うまでもないことだが、一般の人間(僕や、たぶんあなた)は人生のある時点に差し掛かると、多かれ少なかれイノセントな世界と訣別することを余儀なくされる。そうしないことには次の段階に進むことができないからだ。人は幼児から少年や少女になり、十代のアドレッセンスの時期をくぐり抜け、やがて大人の世界=世間に入っていく。年を重ねるにつれて社会人としての責任をより多く引き受け、その役割や分担を果たすようになる。そのたびに我々の価値観はシフトし、視野は更新されていく。もちろんそこには一連の通過儀礼があり、哀しみがあり、痛みがある。しかしひとびとは導きと学習によってそのプロセスを受け入れていく。そして「無垢なる世界」は過去の、もう戻ることのない楽園としてぼんやりと記憶されるだけのものになっていく。そのプロセスが――好むと好まざるとにかかわらず――一般的には「成長」と呼ばれる。

(村上春樹 「訳者あとがき」トルーマン・カポーティ『誕生日の子どもたち』文藝春秋社)

この本文を書いたときにも、「はたしてそうなのだろうか。」という文章をわたしはこのあとに続けているが、やはり同じことを思う。ただ、この「あなたのなかの子供」という文章を書いたときは、「子供のうちに「無垢」を見るのは、子供が無垢だからではなく、自分がもう子供に戻れないからだ。」ということが頭にあったのだけれど、いま思うのは、果たして「イノセンス」なんてものがどこかにあるのだろうか、ということだ。

語り手は二十数年後、七歳の自分が過ごした最後の幸せなクリスマスのことを振り返っている。自分の幸せな時代が「ぼくの友だち」と暮らしていた家から引き離されたときに終わってしまった、と感じる語り手は、最後のクリスマスの一連の出来事を、事細かに思い出す。

七歳のときの出来事をこれほどまでに覚えていることが可能かどうか、ということを問題にしているのではない。家から離れたのちに繰りかえし、繰りかえし、そのときのことを思い返していれば、さらには何かに書きとめたり、人に語って聞かせたり、あるいは逆に聞かされたりしていれば、小さい時期の出来事であろうとも、しっかりとした記憶を大人になっても保っていることは可能だ。

けれども、こうやって繰りかえし思い返すことによって確かなものとなっていく「記憶」が、「捏造」ではないとどうして言えるだろう。

語り手は、「このときまでの自分は幸せだった」という前提のもと、これらの出来事を振り返っている。「いまの自分は幸せではないが、それは自分がその場所を離れたときに失われてしまったからだ」という前提に立っている、といってもいい。

だが、よく考えてみると、「このときまでの自分は幸せだった」ことを保証するのは、いまは「失われてしまった」ということなのである。失われてしまったものを数え上げることによって、あの頃自分が持っていたものが保証され、「あの頃の自分が幸せだった」ということが保証されていく、という構造になっているのだ。

ほんとうは幸せだったのだろうか、というと、不幸だったのではあるまいかと考えているのかと言われそうだが、そんなことではないのだ。幸福だとか、不幸だとか、イノセンスだとか、そんなものが実在するのか、ということが言いたいのだ。

自分はイノセントであった、過去のある時期まで確かにイノセンスを保持していた、そのことを証明するために、過去が語られる。だが、過去とは何かがそこにあったことを保証するために、つまり、いま現在の自分を成り立たせるために、そこにあるわけではないだろう。過去が「現在」としてあったときというのは、幸せでも不幸せでもなく、イノセンスでも不純でもなく、そもそもそのような尺度の存在しない生として生きられていたのではないのか。

わたしたちはどうしても過去を現在から解釈してしまうのだが、そうすることで、過去は不可避的にねじ曲がり、出来事にはバイアスがかかっていく。

そもそも出来事というのは、その出来事が誰かによって体験された時点で、「ありのまま」ではなくなる。一箇所からの視点に限定され、さらにそれを把握しようとする言葉による変質作用を受ける。さらに、出来事に区切りがついたときの気持ちによって、出来事は意味づけられ、さらにそののち記憶として取り出した時点での気持ちによる浸食作用を受ける。「過去の出来事」というのは、どうしたって思い出す自分による「捏造」なのである。

もちろん、「捏造」だからこそ、たったひとりの人間に起こった出来事が、物語化されることによって、普遍化され、共有され、多くの人の感動になっていく、とも言える。さらに、文字通り過ぎ去り、もはやどこにもないことが、記憶の中には確かにある、というだけで、わたしたちの慰めになるという側面もあるだろう。

だが、そうやって現在の光に当てた過去の記憶は、そのときそれが起こった、そのありのままの姿ではないのだと知っておくことも必要だろう。子供は、無垢でも何でもなく、ただ子供だったのだ。



鶏頭





  2009-11-26:

いまわたしが住んでいる集合住宅は、前とはちがってペット可のところである。いったい何軒ぐらいがペットを飼っているのか知らないが、小型犬を抱いて歩いている人をときおり見かける。みんなが抱いているのは、建物のなかは歩かせないこと、という決まりでもあるのだろうか。

それを見ていると、どうも抱かれているイヌと、抱いている飼い主が、似ているような気がしてしょうがないのだ。今日会った人などは、イヌと飼い主がまったく同じ、斜め下から見上げるような目つきでこちらを見るので、笑ってしまいそうになった。

イヌの方が飼い主にならって同じ仕草をするのか、身近でイヌと生活していると、何となくその仕草がうつってくるのか定かではないが、どうも飼い主にそっくりなイヌ、イヌそっくりな飼い主の例は、思い返すといくらでも出てくるような気がする。

これを見ていて思い出したのは、H.G.ウェルズの『モロー博士の島』という小説である(手元に本がないので、昔読んだ記憶だけで書いているので、ちがっているかも知れない)。

海で遭難した主人公は、孤島でたったひとり研究を続けている科学者に助けられる。その科学者はどうやら、かつてイギリスを追放されたモロー博士らしい。

主人公はやがて奇妙な島民たちに気がつく。どうも人間というより動物に近い彼らは、モロー博士によって、生体実験の実験台にされているのではないか、と主人公は疑念を抱くのだ。

だが、手術中の獣人にモロー博士が殺されて、そうでなかったことが判明した。モロー博士が試みたのは、動物を改造して知性を伸ばし、人間に近づけることだった。人間を獣化しようとしたのではなく、逆に獣を人間化しようとしていたのである。

主人公は最後にロンドンに戻るのだが、自分の周囲を見渡して、妙に獣じみた人が多いのにゾッとする、というところで終わる。

ちょうどこの本を読んだころ、「カエル」と陰で呼ばれていた先生に生物を教わっていたので、奇妙な符合にしばらく笑いがとまらなかった。ロンドンに戻って感じた「獣じみた人間」というのが、やたらとリアルに思えたのである。主人公があの先生を見たら、人間化させたカエルと思うのだろうか。わたしたちは「カエル化した人間」と思って、「カエルがさあ」「カエルの授業って」などと言っていたのだが。

おそらくH.G.ウェルズの念頭には、進化論があったにちがいない。ダーウィンの『種の起源』の発表が1859年だから、『モロー博士の島』が書かれた1896年というと、「進化」という考え方が、あらゆる領域で影響を持ち始めた時期だろう。

ただ、その一方で、人間の顔には、どう見ても「カエル顔」「サル顔」「ウマ面」「魚顔」……と、そんな分類をしたくなるような顔があまたあることもまた、事実なのである。この作品の根っこのところには、そんな誰でも思いつくような、どことなく子供らしいともいえるものの見方、感じ方あるのではあるまいか。

そういえば、サキの短篇にも、飼っているペットによって性格の変わっていく人物を主人公にした作品があった。つきあう相手によって、雰囲気が変わる女の子がいるように、ペットによって性格が変わる人がいてもおかしくない。そのように考えていくと、飼っているイヌに飼い主が似てくることも、ありうるのかもしれない。

もっとも、ウェルズの短篇の最後に出てくる動物を思わせる人びとが、みんなそんなペットを飼っているわけではないのだろうが。

キンギョを飼って久しいわたしも、すでにキンギョにずいぶん似てきているのかもしれない。いや、別に赤くはないんですけどね。



鶏頭





  2009-11-22:

『ザ・ホワイトハウス』というアメリカのドラマを、ちょっと前から少しずつ見ている。架空のバートレット大統領を支える「ベスト・アンド・ブライテスト」の人々のドラマである。

まだ第一シーズンと第二シーズンの半分ほどしか見ていないのだが、その中のひとつ、クリスマスの回のエピソードが気になった。

ホワイトハウスの広報部長トビー・ジーグラーのもとに、警察から連絡が行く。ワシントンのナショナル・モールのベンチで亡くなっていたホームレスのポケットに、トビーの名刺が入っていたのだ。どうやら凍死したらしい。その男が着ていたのは、以前トビーが救世軍に寄付したコートだった。うっかりポケットに名刺を入れたまま、寄付してしまったらしい。ひょんなことから巻き込まれてしまったトビーは、そのまま知らん顔をしている気にもなれず、なんとか男の近親者に連絡を取ろうとする。というのも、亡くなった男の腕には、海兵隊第七師団第二大隊として朝鮮戦争に従軍したことを示す入れ墨があり、彼には兵士としてアーリントン墓地に埋葬される権利があったからだった。

その男には同じホームレスの弟がいた。弟には知的障害があって、事態がいまひとつ飲み込めていない様子である。そこでトビーは自分が中心となって、彼の葬儀を執り行おうと計画する。葬式には、ホームレスの弟と、公園で生前の男の姿を何度か見かけていた、同じく元軍人である売店の男、そうして大統領の私設秘書で、子供ふたりをヴェトナム戦争で亡くした女性が参列する。かくしてトビーの計らいで、ホームレスとして亡くなった男は、正式な手続きに則った軍人としての葬式をあげてもらい、アーリントン墓地に埋葬される、というものだった。

これを見ながら、わたしは葬式ということを改めて考えたのだった。

このドラマを見るまで、葬儀というのは生きている人間のためにやるものだ、とずっと思っていた。だが、トビーは「生きている人」のために葬儀を行おうとしたのではない。故人のために、戦争に従軍し、アメリカのために戦い、おそらくその後の人生に大きな影を落としたのもその戦争だったのだろう、そうした人物のために、きちんとした葬儀を執り行ってやろうとしたのである。

ドラマを見て初めて気がついたのは、わたしがそれまで持っていた「生きている人間のための葬儀」という見方は、あくまでも、人間を「意識」として見る見方だったのだ、ということだった。意識がなくなった身体は、もはや「なきがら」であって、その人ではない。だからこそ、葬儀はその「なきがら」に別れを告げるための、生きている人びとのための式である、というふうに考えていたのだ。

けれども、どうして「なきがら(亡き殻)」といえるのだろう?
もし、人間が意識だけの存在ではない、身体を含めてその人であるのだとしたら、その人の意識がなくなった身体も、未だその人であり続けるはずではないか。埋葬され、土に還るまでは、「その人」はいつづけるのではないか。

いまのわたしたちの社会は、意識がなくなった「その人」は、そのまま土に還ることができるようにはなっていない。だからこそ、生きている人間が、その代わりに、その人の身体を土に返さなければならない。お葬式というのは、そのためにあるのではないのだろうか。

これまで、何度か葬儀に参列してきた。
ある先生のお葬式では、さまざまな年代の、その先生の教え子が一堂に会し、久しぶりに顔を合わせた人たちの輪があちこちにできて話がはずんでいた。みんな涙を流しながら、一方で、昔と変わらない、あるいはすっかり変わってしまった旧友たちに再開して、みんなが笑っていた。

曾祖母の式でも、滅多に顔を合わさない親戚が、日本中から集まってきたものだった。そんなとき、ひとりの人の死はさまざまな人を結びつけるのだ、と思ったものだ。そんな経験があったから、よけいに、葬儀は生きている人のためにある、と考えるようになったのだろう。

けれど、それだけではないのかもしれない。「袖振り合うも多生の縁」というが、トビーと故人は、生前、何の関係もなかった。単に彼のコートを着ていたというだけのつながりでしかない。それでも「土に返す」役目を誰かがしなければならないのなら、そうしてそれがいまの自分にできるのなら、自分がその役目を担おうとトビーは考えたのではあるまいか。

おそらく、葬儀は、残された人のためにのみあるのではない。ひとが土に還るまでが「人間」であるのなら、残された人が土に返してやらなければならないのだ。そのために、わたしたちは葬儀を行い、人を埋葬するのだろう。



鶏頭





  2009-11-23 :

昨日も書いた『ザ・ホワイトハウス』の第十回「聖なる日」というエピソードの話のつづき。

ドラマのなかで、広報部長であるトビーが、亡くなったホームレスの弟を探し当て、お兄さんが亡くなった旨を伝える場面がある。そうして、いったん帰りかけて思い直し、君のお兄さんは軍人として軍隊式の正式な埋葬をしてもらう権利がある、こんなことは差し出がましいのだが、とためらいながら、"I'm a powerful person..." と言い、だから自分に葬儀の手配をさせてほしい、と伝える。

このときのトビーは、ホームレスで、知的障害がある相手に対して、自分に権力があることを恥じていた。それを演じている役者も、その「恥じる」感覚を理解した上で、過不足のない演技をしていたために、大変心に残るエピソードになっていた。

たとえば、自分より権力があったり、優秀だったりする人間に対して、うらやましがったり、妬んだりする、というのは、映画でもドラマでもよく出てくる。あるいは、権力があったり、優秀だったりする人間が、下の人間に向かって威張りかえる、というのも、よく見かける筋書きである。だが、そうではなくて、力がある人間がそれを恥じ、いたたまれなく思う、という場面は、これまであまり見たことがなかった。

ホワイトハウスの職員とはずいぶんちがうけれど、わたしたち自身がこんな経験をしたことはないだろうか。
中学生か高校生のころ、何かの大会に出場して賞を取った。全校生徒の前で表彰される。確かに誇らしい気持がないわけではないのだが、恥ずかしい気持の方が強い。表彰などしなければいいのに、と思ってしまう。

あるいは。
テストが終わって、全然できなかった、と落ち込んでいるとき、クラスメイトに点数を聞かれる。まあまあだった、と喜んでいる相手の点数が、自分の点数よりかなり悪かったりしたとき、なんともいえない後ろめたい思い、思わず自分の答案を隠したくなるような気がしたことは。

自分より相手が上にあるときは、力一杯ふるまうことに何の抵抗もない。まだまだ、と押さえつけられれば、悔しいけれど、闘志も湧いてくる。ところが逆に、自分の方が上位であることがわかってしまうと、急に後ろめたい気持になって、自分ができるということを隠したくなる。

将棋や囲碁で、自分の方が圧倒的に強いことがわかる。手加減するのが相手に対して失礼だということはわかっている。それでも、自分が力を出し切って、相手を完膚無きまでに叩きのめすことはしたくない。どうしたらいいのか。自分の強さになんともいえない恥ずかしさを感じ、強い自分がいたたまれない。

謙虚などということとは無縁の感情だ。ただ、力があることが恥ずかしい。
おそらく人が自慢したり、自分の持つ力を誇示してはばからないときというのは、その人がたまたま権力欲が強い人だから、という側面もまったくなくはないのだろうが、それ以上にその人が、自分の力を心の底から信じられないからではないのだろうか。信じられないからこそ、人に認めて欲しい。何かあるごとに確認が必要なほど、その力はその人のものではないということなのだろう。

ホワイトハウスの広報部長であり、国内政策担当大統領補佐官のトビー・ジーグラーが同僚と共に、ホワイトハウスで公務に当たっているとき、当然彼は恥ずかしさを感じたりはしない。ホワイトハウスでの上級職員という集団の一員として、自分を位置づけ、それにふさわしい、責任を持った行動をしている。

だが、その彼が、ホームレスの男の前に立つとき、トビーは「ホワイトハウスの広報部長」ではなく、単に、「亡くなった兄と何らかの関わり合いのあった男」として、相手の目にさらされる。そのとき、トビーは自分自身を相手の目で見直したのだ。

戦争に行かなかった男。たまたま、戦争に行かなくてすんだ。うまく逃れた男。

確かに人は、生まれる時代を選べない。生まれる場所も、両親も選べない。だが、その偶然によって、人の生涯は大きく左右される。自分がなぜここにいて、なぜあそこにはいないのか。自分が単にうまく逃げたからではないのか。うまいこと立ち回っただけだったからではないのか。そうしなかった彼だから、寒い日にナショナル・モールで夜明かししようとして、そのまま亡くなったのではなかったか。

トビーが感じた恥ずかしさは、おそらく一種の罪の意識だろう。感じない人もいるかもしれない。どうしようもないことではないか、と、切り捨ててしまえるものなのかもしれない。それでも、「いま自分がここにいること」は、単なる偶然の積み重ねでしかなかったことに気がついたとき、「うまくやった側」にいる人は、そうでない側の人に対して、羞恥と同時に罪の意識を抱くのだろう。

自分にこれができるのは、それは努力したからだ、と胸を張って言える人は言えばいい。けれど、努力することすらできなかった人、スタートラインにすら立てなかった人がいることを、時には思い出した方がいい。自分の「努力」なるものが、さまざまな偶然の積み重ねのなかでいかにちっぽけなものだったかがわかるだろう。同時に、何かができない人をバカにしたり、軽く扱ったりすることが、まったく根拠のないことであるか、ということも。



鶏頭





  2009-11-19

以前、ウチダさんの『下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち』を読んでいたら、自分のことを知りたいのなら、自分のことを生まれたときからよく知っている親や親戚に話を聞きに行けばいいのに、「自分探し」という人は、決してそういう人に話を聞きに行こうとはしない、彼らが行きたがる先は、外国の人のあまりいないような、少なくとも自分を知っている人間がまったくいないようなところである、彼らの「自分探し」というのは自分を知ろうとすることではなく、「これまでの自分」をいったんリセットすることだ、というようなことが書いてあって、おかしくなって笑ってしまった(記憶だけで書いているので、内容はちょっといい加減かも)。

「自分と向きあう」「内面の声を聞く」などという言葉もあるように、確かに自分を知ろうと思えば、山にこもったりして、ひとりきり、自分と対話しているところが浮かんでくる。だが、ほんとうにそんなことをして、「自分が何ものか」ということがわかるのだろうか。

芥川龍之介の『続野人生計事』というエッセイのなかに、「知己料」という小文がある(八の項目)。

芥川がいままで書いたことのない雑誌に、依頼を受けて、短篇をひとつ書く。どうやらこのころは、原稿料がいくらになるかあらかじめわかっていなかったらしく、いったいいくらになるものやら、今日届くか、明日届くかと首を長くして待っている。

ここに出てくる「直侍を待つ三千歳」というのは、歌舞伎の演目『雪暮夜入谷畦道(ゆきのゆうべいりやのあぜみち)』のなかに出てくる花魁「三千歳」が、恋しい直侍を思って「一日逢わねば千日の 思いに私ゃ煩(わず)ろうて 鍼や薬の験(しるし)さえ 泣きの涙に紙濡らし…」と歌うのを指しているのだろう。恋煩いの女が男を待つように、原稿料が入るのを待っているわけだ(ちょっとたとえがすごいね)。

なかなか来ない。そこで芥川は友人の、これも作家である久米正雄と、原稿料がどのくらいもらえるだろうと推測し合うのだ。久米正雄は原稿用紙一枚につき「一円五十銭は大丈夫払ふよ。」と予想し、十二枚だから、十八円、そのうち「八円だけおごれよ。」と捕らぬ狸の皮算用をしている。芥川もだんだんその気になってくる。

ところが原稿料は届いてみると、三円六十銭、一枚につき三十銭しかもらえなかった。そこで久米正雄が、彼が発明したとされる「微苦笑」という言葉そのものの顔になって、「三十銭は知己料をさしひいたんだらう。一円五十銭マイナス三十銭―― 一円二十銭の知己料は高いな。」という。

わたしはその昔、この短篇を初めて読んだとき、ここの意味がよくわからなかった。知己というと、自分のことをよく知ってくれている人のことで、親友という意味の言葉である。そこから転じて、単に知人の意であるときもある。

親友だから稿料を差し引いたのか。一度書いて、知り合いになったから、「知り合い料」を引いたということなのか。それでも、雑誌社の方が引くというのはどういうわけか。どうも合点がいかないなあと思っていたのだ。

それをこのあいだ読み返してみて、はっと気がついた。「知己料」というのは、文字通り、おのれを知る料金だ。自分がいったいどれくらいの書き手であるかを教えるために、知己料に当たる一円二十銭を、雑誌社の側が差し引いたんじゃないか、と久米正雄は言ったのだ。一円二十銭が、自分を知るための授業料だった、というわけである。

自分の姿は自分には見えない。だから、自分の姿を映しだしてくれる鏡が必要だ。鏡は、文字通りの鏡でもあるし、ほかの人のこともある。その人の反応を通して、自分がその人の目に、どういうふうに映っているかがわかるのだ。

果たして自分の書くものに、どのくらいの値打ちがあるものか。自分ではわからない。自分では値段のつけようがない。だから、まず友人が判定してくれる。一円五十銭。

だが、実際には三十銭しかもらえなかった。久米正雄には一円五十銭分の価値があるように映っている。だからおそらく雑誌社もそう判断したのだろう。だが、「あなたの原稿は一枚一円五十銭の価値がありますよ」ということを、芥川に教える代わりに、授業料をさっぴいて、残った金額を払ったのだ、という。

なんというむちゃくちゃな理屈だ、と思うが、そう断言する久米正雄の言葉の背景には、自分が一番芥川の書いたものの価値を理解できている、という自負もあったのだろう。

そしてまた、芥川がこの話を書き残したのは、雑誌社が「三十銭」と評価した自分の原稿を、親友である久米正雄はその五倍の価値があると認め、なおかつ稿料が低かった理由まで想像してくれたからなのである。もちろん「その友情がありがたかった」などとは一言も書いてないが、そう言ってくれた久米正雄のことを書くために、このエピソードが載せられているのだ。

結局、自分の中をのぞきこむより、社会の評価に身をさらすことが、自分を知る第一歩、ということなのだろう。さらに、自分をよく知っている人間が、自分に対してどのようにふるまうか、友情や好意をもって接してくれるか、厳しい態度を取るか、そういうさまざまな「鏡」に自分を映してみて、気に入ろうが気に入るまいが、それを「自分」だと受け入れることが、自分を知る、ということなのだろう。



鶏頭





  2009-11-10:

マーガレット・ミラーのミステリに『まるで天使のような』(ハヤカワ・ミステリ文庫 41-4)という作品がある。
まあ、とにかくおもしろいから、読んでみてください。

ということで、そのものズバリは書かないが、結構ネタバレに近い話を書いてしまうので、本を読みたい人はこれ以下は読まないように。

マーガレット・ミラーのミステリは、失踪のテーマを扱ったものが多い。依頼を受けた探偵が、行方不明の人物を捜していく。消えた地点から足取りを逆に辿って時系列をさかのぼる。その人物が「どこへ行ったか」「何をしたか」を丹念に探り当て、関わった人びとから証言を得て、彼もしくは彼女がどんな人物であるか、失踪以前に知られていたその人の「もうひとつの顔」が少しずつ明らかになっていく。「なぜ失踪したか」の答えも、その「もうひとつの顔」が完全に読者の前に明らかになった時点で、わかってくるのだ。

ミラーの作品では、失踪者は失踪したのではなくすでに殺されているか、殺人を犯したために潜伏しているかのどちらかだ。確かに現実社会においても、人が失踪するということ、つまり、その人が所属している共同体から姿を消すということは、そのぐらい、大変な場合以外にはあり得ないだろう。報道でも、行方不明者が告知される場合は「事件との関わり」が示唆されることになる。

『まるで天使のような』でも、それまでの人間関係を切り捨てようとしたある人物が、あるカルト教団に身を隠す。だが残念ながら、その人が新たな場所で築いた人間関係が発端となって、私立探偵の介入を招き、結局のところ切り捨てたはずの関係から復讐されることになるのだが。

わたしたちはときに、いまの人間関係にうんざりしてしまって、一切合切リセットして、新しい関係を築いていきたいと思うことがある。転職したり、引っ越したり、というのも、それを実行することにほかならないだろう。「知らない町を歩いてみたい」という歌がセンチメンタルなメロディののせて歌われるのは、いまの人間関係から、つかのま、脱出したいなあという、ささやかであるにも関わらず、現実には果たせない願望だからなのだろう。

けれども考えてみれば、旅行は帰っていく家があるからこそ可能なのだし、転職や独立も人間関係のすべてを断ち切ることにはならない。転職したところで家族関係は続いていくし、実家を出たところで、実家とまるっきり縁が切れてしまうことにはならない。ひとりで山小屋で生活していたユナ・ボマーでさえ、逮捕のきっかけになったのは、弟からの通報だった。

また、たとえある共同体から離れてみたところで、ものを買おうと思えば、そのお金をどこかから調達しなければならないし、貨幣を媒介とした共同体にはどうしたって属さないわけにはいかない。国を捨てようと思えば、まず日本から出なければならないし、そのためにはパスポートが不可欠である。「日本人」であることをやめようとする際にも、手続きを経なければ日本人という共同体から離れることもできない。

どうしたって人は人間関係とは無縁ではいられないし、制約から逃れることもできない。わたしたちはそのことを知っているから、逆に「ちょっとだけ」離れることを夢見るのだろう。

ここ数日「潜伏」という言葉をニュースで頻繁に聞いた。
まるでミステリを地でいくような話だが、わたしも含めて多くの人は、容疑者が発見される前までは、もう彼は生きてはいないだろう、それも逃亡後まもないころに、この世の人ではなくなっているだろうと思っていたのではあるまいか。

いまのわたしたちは、お金もなく、住む場所もなく、戸籍も、保証人もないところで生きてはいけなくなっている。ときにわずらわしくもなり、制約としか感じられないさまざまな関係が、逆にわたしたちを生かしているともいえるのだ。

ところが身一つで逃亡した彼は、とにもかくにも生き延びた。彼はある意味で、孤島のなくなった現代におけるロビンソン・クルーソーだったのかもしれない。

もちろん彼はたったひとりでいたわけではなかった。だが、彼が属することを許された過去も経歴も問わない共同体は、問われないという面では気楽なように思えても、きわめてせまい、制限された、極端に不自由な場所だった。

高校生の頃、学校に行くために電車を待っているとき、向かいのホームに入ってきた電車を見ながら、あれに乗ってどこかに行きたいと毎朝思っていた。高校を卒業したら、大学に入って家を出たら、いまよりもっと自由になれる。そうなったら、いつかそれをやってやろうと思っていた。

だが、家を出ても、逆方向の電車に乗ることはなかった。少しも自由になどなれなかった。

その頃は、自由というのは、親や学校や社会が決めた規則から自由になることだと思っていたのだ。だが、どこまでいっても規則はある。規則から逸脱した自分を叱る年長者は身近にいなくなっても、逸脱したことによる不都合の責任は、かならず自分が取らなければならない。自分が他の人間と一緒に社会で生きていく限り、規則には従わなければならない。規則の外に出るのが「自由」だと考えているかぎり、自由なんてものはどこにも見つからない。

容疑者の男性の、まじめな仕事ぶり、わからないところはメモを取る、部屋には英和辞書……そんな報道を見るにつけ、胸が痛くなるような気がした。

人間、ひとつ踏み外してしまうと、どうしてこんなことに……ということになってしまうのかもしれない。菊池寛の仇討ち小説『下郎元右衛門―敵討天下茶屋』のなかで、主君を殺し金を奪った元右衛門は考える。

「どうして、俺はこんなひどい悪人になってしまったんだろう。別に、おれは特別悪人に生れついたとは思えないんだが、なぜ俺がこんた大それた男になったんだろう。敵討、貧乏、女、賭変、忠義、人情、そんなものが妙に、こんぐらがってしまったんだ。そして、俺がいつの間にか、こんな悪人になってしまっているんだ。俺は悪人じゃないが」

この言葉は、そのまま彼の気持だったのかもしれない。

英和辞書を手元に置いて、彼はいったい何を読んだのだろう。何を読むかを選んだときの彼は、「何を読むか」という小さな選択のなかで、ささやかな自由を手にしていたのだろうか。



鶏頭




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