鶏的思考的日常 ver.5〜書いて忘れて何だっけ? 編〜
2006-07-04:カウンセリング初体験
先日カウンセリングを受ける機会があった。
希望したわけではなかったのだが、せっかくの機会だから、どんなものか一度体験してみたら、ということになったのだ。
カウンセリングで相談しなければならないことなどちっとも思いつかなかったのだけれど、カウンセラーに会うのは初めてである。カウンセリングというのはどんなものなのだろう、カウンセラーというのは、どういった感じの人なんだろうと、内心、興味津々という感じで、カウンセリングに臨んだのだった。
予定された当日、部屋に入っていくと、きちんとした感じの、どこか小学校の先生を思わせる感じの中年の女性がいた。
最初に向こうから簡単な自己紹介があった。自分がいままでどんなことをやってきたか、どんな訓練を受けてきたか、と話すので、ついいいチャンスだとばかり、臨床心理士と精神科医がどのようにちがうか、とか、交流はあるのか、とか、精神科医についてどのように考えているかを聞いてみる。もうちょっと詳しく聞きたかったのだけれど、「限られた時間ですので」と、その話は打ち切られてしまった。
そこからこちらの仕事の話をする。
「ええ、仕事はおもしろいです。いろいろやりたいこともありますし」
「やりたいことがいろいろおありなんですね」という調子で、語尾をいちいち引き取って繰り返すのは、それがひとつのパターンでもあるのだろうか。なんにしてもあまりにそれが続くので、ちょっとイライラしてしまった。
悩みありませんか、とは、さすがに聞いてこなかったけれど、ふつうはそういうことを話すんだろうな、とは思った。けれどもこちらからその人に言うべきことばも見つからない。
結局は、当たり障りのない話をして、時間になったのだった。
途中、向こうから「わたしの経歴が気になりますか?」と聞かれ、「いえ、カウンセラーの方にお会いするのは初めてなので、どんなことをやってらっしゃったんだろう、って、すごく興味があったんですよね」と答えたのだけれど、いまから思うとそれはわたしが相手のことを信頼していないから、いわゆる「悩み」に類することを話さないのだと思ったのかもしれない。だが、わたしはほんとうにそういうことが知りたかったのである(そうしてこのサイトを何度もご訪問してくださっている方なら、わたしがほんとうにそう思っていたのだと納得してくださるでしょう)。
最後に「何でもお話に来てくださいね、話すだけでラクになりますから」と言われたのだけれど、おそらくお話には行かないだろうと思う。
もちろん、カウンセリングが必要な人や、現実に効果がある人もいるのだと思う。このわたしにしても、もしかしたら、カウンセラーや精神科医に話を聞いてもらう必要が出てくるときが来るのかもしれない。
けれども、いまわたしはその必要を感じていない。
その昔、アメリカ人と話をしていたときのこと。日本が大好きで、日本人はすばらしい、が口癖の彼は、アメリカ人は、みな自分勝手で、自己中心的で、他人はだれでも競争相手としかみなさない、と言うのだった。だからたとえ友だちであっても弱みは見せられないし、相手も自分の悩みなど聞いてくれない。
けれども日本人は、いっしょうけんめい話を聞いてくれて、あなたは悪くない、と言ってくれる。こんな温かい心のもちぬしばかりの日本には、精神科医など必要ないだろう、と言うのだった。彼の思うところでは、どうやらアメリカでは、人に話を聞いてもらおうと思ったら、お金を払わなきゃいけないらしかった。
彼の予想に反して、日本でも徐々にカウンセリングが一般的になってきた。
これはひとつには、やはり人間関係が希薄になって、自分の弱みやネガティヴな話を平気でできる関係を築くのがむずかしくなってきている、という側面もあるのかもしれない。
それを職業とする人が出てくるのにも、一定の根拠があるのだろうと思う。
もちろん、話をすることによって、自分の感情を客観的に眺めることもできるし、自分が直面する現実に秩序を与えることもできる。けれども、それは解決ではないだろう。解決しようと思えば、何らかの行動が必要になっていく。その行動がとれるのは、どんなえらいカウンセラーや精神科医でもなく、自分しかいない。
さまざまな不安はあるし、現実に問題も抱えている。それでも、それがあるのが、当たり前なんじゃないだろうか。むしろ、不安がない、何の問題もない、なんてことが、ある程度の年齢を重ね、それなりにいろんなことをやっている人間にありうるのだろうか。
不安のない状態を「あたりまえ」とすると、どんな些細な不安であっても、それは「悪しき状態」になってしまう。けれども、わたしたちは究極の不安、自分が、死に向かって一歩ずつ歩んでいっている、ということから、逃れることはできない。つまり、不安のない状態など、仮想されたものでしかない。
さまざまな不安があり、問題を抱え、それでもたちまち行動しなければならないわけでもない、そんなあやふやな状態にいながら、それでも楽しいことを見つけ、喜んだり、うれしくなったり、おもしろがったりする。そういうさまざまな要素が入り交じっているのが、日常ということなのだろう。
わたしはそんな日常を大切に思うし、そんな話をしていきたい人もいる。
だけど、それはカウンセラーではない。
2006-07-03:「こんにちは。山口(仮名)と申します」
どういうわけか、このところセールスの電話がやたらにかかってくる。マンション買いませんか、英会話習いませんか、生命保険に入りませんか、掃除道具買いませんか、浄水器買いませんか……。
基本的にわたしは上のように名前を名乗られたら、「はい、その山口さんが何のご用でしょう」と、一応聞くことにしている(というのは、かつて名乗った段階で「結構です」と切ったところ、ほんとうにわたしに用事があった、共通の知人から紹介された人だったことがあるのだ)。たいがいぺらぺらと関係のないことを言ってくるので、適当に切って、「そちらの会社の正式な名前を教えてください」と聞くことにしている。
「はい。わたくしどもは○○××ともうしまして、かくかくしかじかの点でお客様に大変有利な――」
「○○××ですね。じゃ、○○××さんの会社の所在地と電話番号を教えてください」
「あの、それが何か……?」
「そちらがどうしてこの番号と名前を知っているか確認したいからです。そちらはどうやってお知りになりました?」
「あの……帝国バンクという、そういう会社がありまして」
「では、帝国バンクがウチの個人情報をお宅の会社に流している、と理解してかまいませんね。では、帝国バンクの方にウチから抗議の申し入れを行いますので、○○××さんの住所と電話番号を教えてください」
「……。(プチッ、ツー、ツー、ツー)」
帝国バンクを口実にするところは結構多くて、ほんとうに帝国バンクに問い合わせたほうがいいのかもしれないと思うぐらいなのだけれど、たまに「わたし、学生のバイトですから、そんなことわかりません」という女の子もいたりする。
だから「じゃ、あなたの大学と学部、入学年度とフルネーム教えてください」
「イヤです」
「イヤって、あなた、こちらの情報を勝手に知って、電話してきたんでしょう。それならそちらの情報も開かすべきじゃないんですか」
「……。(プチッ、ツー、ツー、ツー)」
一度逆切れされたこともある。
若いお兄ちゃんだったのだけれど、先ほどまでの口調とはうってかわって突如
「あのなー、せっかくこっちはいい話をしてやってるのに、いい加減にしろよ、このヤロー、ふざけやがって、いい気になるなよ(ガチャッ、と叩きつける音)」
このときは、ちょっと怖かった。
こういう対応を始めたのは、過去にこんなことがあったからだ。
セールス電話とわかった段階でそのまま切ったところ、おそらく学生バイトといった感じの女の子だったのだけれど、切った直後から、こちらが出れば切ってしまう迷惑電話を数度にわたってかけてきたからだ。そのときはナンバーディスプレイでもなく、何も控えていなかったので、対処のしようがなかったのだが、しばらく腹が立ってたまらなかった。
そのためにも、向こうの会社名と電話番号は控えておくほうがいい、と思うようになったのだった。
大学の寮にいたころは、セールスの電話というより、こんな電話がよくかかってきていた。
「こちらは市役所の住民課の山口(仮)です。そちらの寮生のかたのお名前を教えてください」
「市役所の住民課の山口さんですね。こちらから折り返しお電話させていただきます」
そういうと、たいがい即座に切れるのだった。
それでもたまに一年生の子なんかが全部喋ったりしていて、そうするとてきめんに、寮生各個人に宛てたダイレクトメールが、寮生の人数分、どっさりと届くのだった。
ところがわたしも最初からこんなふうだったわけではない。
最初は、ふつうの女の子、というよりも、世慣れない、世間知らずの、常識がない部類だったのだ。
初めてセールスに引っかかったのは、中学生のときだ。学校から帰ったら、母親が待っている。近所のスーパーのなかにある、大手化粧品店からハガキが来ている、というのだ。確かにそこで姉に勧められて洗顔料を買った。そこで抽選をしたところ、本真珠のネックレスが当たったというのだ。母親は興奮の面もちで、すぐに行ってきなさい、という。わたしは別に本真珠のネックレスなどほしくもなんともなかったのだが、母親の勢いに押された格好で行ってみた。
すると、駄菓子屋のくじびきでもらえそうな白い玉がひとつ。これにチェーンをつけてネックレスにできますよ。でも、このままだと金具がついていないから、三千円で金具をつけてあげますよ。
わたしは、お金持ってません、といって、そのまま「本真珠」一個だけ、もらって帰った。
帰ってきた姉が「なんでそんなのに騙されるのよ」と笑ったが、母親はそれを虫眼鏡でみたり、歯にコツコツあててみたりして「ほんものだわ」と言い張った。弟の「お酢に入れてみたら? 溶けたら本物だってわかるよ」という提案は受け入れられなかったのだが。
これはわたしの失敗、というより、母がそういう仕組みを知らなかっただけのような気もするが、わたしもしっかり失敗はしているのである。
大学へ入ってすぐ、とあるサークルに入った。ただ、いろんなことがめんどくさくなって、一年足らずのうちに、そこを辞めた。すると、大学というところは、高校時代とちがって、ひどく人間関係が希薄なのだった。サークルにいれば、うるさいほどだった他人との接触が、ピタッと途切れ、寮生とも必要最小限の会話しか交わさないでいて、気がつくと二週間ほど、だれとも口をきいてなかったりするようなことさえあった。
そんなときに「旅行は好きじゃないですか?」という電話がかかってきたのだ。
旅行が2〜3割、安くなるクラブがあるんだけど、どう?と言う。つい、ひさしぶりに人と話をしたのがうれしくて、電話口でこれまでにどこに行ったことがあるか、とか、世界中で行けないところはどこでしょう、といった話に、つい、引きこまれてしまったのだ。
一度クラブの集まりに顔を出してみない? と言われて、わたしはそこに出かけていった。
ところがその場所たるや、オフィス街にある貸しビルの一室。パーテーションで区切られた内側は、ちいさな机がひとつあるだけ。その声の主と向かい合ってすわると、運賃だけではなく、宿泊費も安くなる、という話が始まった。おそらく会場についたとたん、わたしはその電話の性格を理解していたのだと思う。相手がそこからこれはあくまでも旅行のための積立金なのだけれど、と言いだし、月々にいくら積み立てていくと、その旅行の割引の特典が受けられ、しかも英会話のカセットまでもらえる、と言い出したときには、やっとその話になったか、と思ったぐらいだ。つくづく、自分の馬鹿さ加減がイヤになり、ここからどうやって抜けだそうか、しか、考えなかった。相手は得々と、どれほどの人間が自分を信頼してくれているか、と話している。わたしはその最新版に組み込まれるのなんて願い下げだった。
「すいません。用事があるので帰ります」
「じゃ、この用紙に必要事項を記入して」
「印鑑、持ってないから」
「印鑑なんて、どうでもいいよ。これはキミとボクとの信頼関係の問題だから」
「帰ります」
「じゃ、これに書いてからね」
「書きません。帰ります」
なおも食い下がる相手が少し怖かったのだけれど、そのような気配は意地でも見せるものか、と歯を食いしばって、あくまでも毅然と、そこを出たのだった。ビルから出ると、足が震えた。
以来、そうした勧誘には一切関わってきたことはない。そのときの苦い経験は見事に教訓化されたのだ。
ときどき学生バイトらしいセールスの電話の声を聞くたびに、この子たちは自分が何をやっているのかわかっているのだろうか、という気がする。あるいは、かつてのわたしのように、丸め込まれてやっているのではあるまいか。そうして、抜けられないまま、続けているのではあるまいか。
そういう電話セールスが、かならずしも詐欺まがいばかりとも限らないのだろうけれど、少なくとも、こちらが開かしてもいない電話番号を、どこからかで入手して、かけてくるような相手は、それだけで信用はできない。
にも関わらず、そうした電話があとをたたないところをみると、やはり引っかかる人はいるのだろう。
だれかと話をしたい、というだけのお年寄りがその被害に遭うのだろうか。
ちょっとでも人の声が聞きたい。その気持ちは確かによくわかるのだけれど。
2006-07-02:陰陽師的2006年後半開運四字熟語
ご訪問してくださるみなさま、いかがお過ごしでしょうか。
拙ブログ「陰陽師的日常」も、管理人がまったく営業活動をしていないにもかかわらず、徐々に来訪してくださる方々も増えるようになりました。その多くは英語のテキストの訳を探しに来た学生のみなさんでしょうが(挨拶はしていくように)、それ以外にも、2006年1月1日付けの「陰陽師的2006年占い」からいらっしゃる方が大変多いのです。
あのページが多くの方に気に入っていただいているとは望外の喜びであるとともに、日頃のご愛顧になんとかお応えすべく、ない知恵を絞りました。
2006年も半分が過ぎ、残る半年、ご訪問してくださっているみなさまに運が開けるよう、陰陽道にはまったく基づかない、ワタクシの編み出した独自の統計(含嘘)と四字熟語表をもとに、「開運四字熟語」をお届けします。
この四字を、紙に書いて冷蔵庫のドアにでも貼っておけば、開運間違いなし。
ただ、何をもって「開運」とするかは、みなさまそれぞれにゆだねたいと存じますので、入念な解釈とご判断をお願いいたします。
陰陽師的2006年後半開運四字熟語
【牡羊座】暗中飛躍(あんちゅうひやく):人に知られないように秘密のうちに策動・活躍すること
受験生だった頃、みんながテレビ番組の話ばかりするのに安心してテレビを見ていたら、友人はみんな新聞のテレビ欄を読んだだけでこっそり勉強していて、実際に見ていたのは自分だけだった、という経験はありませんか?努力というのは人に隠れてやるものです。
ダイエットのための縄跳びは、暗がりでやりましょう。
【牡牛座】以心伝心(いしんでんしん):考えていることが、言葉を使わないでも互いにわかること
心とは、定義できない「なにものか」です。定義できない「なにものか」が果たしてあるといえるのでしょうか。けれども多くの人は「ある」と思っています。確かにことばでは伝わらないものが伝わったと思う瞬間はあるけれど、メールのやりとりではこれは控えた方が無難です。行間の読み過ぎは異心電信となりかねません。
【双子座】海千山千(うみせんやません):さまざまな経験を積み、世間の表裏を知り尽くしてずる賢いこと、また、そういう人
仮に海に千年、山に千年生きた人がいたとしても、人間界に初めて脚を踏み入れるのなら、それは世慣れぬ人にほかなりません。経験とは年数ばかりでなく、どこで、何の経験を積んだかが問われます。海に千回潜ればスキューバの達人、山に千回登れば登山の達人になれるかもしれませんが、両方を極めても「暇人」と認定されるだけかもしれません。
【蟹座】縁木求魚(えんぼくきゅうぎょ):誤った手段では目的が達成できないこと
魚がほしいときには木の生えている森ではなく、海へ行きましょう。魚を買いに行くときは、植木屋ではなく、魚屋へ行きましょう。目的を達成しようと思ったら、適切な手段を取ることが何よりも大切です。手段を誤っていては、得るものはありません。アイスクリームがほしければ、スーパーへ行き、CDがほしければ、CDショップに行く(ただし財布の中身と相談して)、話がしたい人がいるなら話をしてみる。キンギョがほしければ、わたしに連絡してください。開運キンギョ、さしあげます。ちなみに送料はご負担をお願いします。ネコ、あるいは熱帯魚の餌にする、というのはご遠慮ください。
【獅子座】岡目八目(おかめはちもく):碁は見物している人の方が対局者よりもずっと先の手まで見越すことができるということ
碁を端で見ている人は、対局者よりも八目も先まで見えるのだそうです。となると、囲碁の解説者はこれからどうなっていくか、すべてお見通し、ということになるはずですが、実際はどうなのでしょうか。少なくともわたしの知る範囲での解説者(たとえば野球など)は全員、結果が出てしまってから、ああすればよかった、こうすればよかったと言っているだけのような気もします。岡目八目でわかったとしても、対局をしていなければおもしろさは味わえません。対局者でありながら、岡の目を持つことが必要なのでしょう。八つも目があったら、うなぎになってしまいます。
【乙女座】夏炉冬扇(かろとうせん):夏の火・冬の扇のように役に立たない人やもの。
夏のスーパーへ行けば冷房が効き過ぎてチェッカーさんの足下にはストーブが置いてあり、冬の室内では暖房効率をよくするために扇風機を回すような世の中になりました。何がいったい役に立って、何がいったい役に立たないか、類型的思考はそれこそ役に立ちません。むしろ、夏に火鉢を、冬に扇を使う発想の柔軟さこそが求められているのかもしれません。
世の類型的思考をうちやぶる、あなたの自由な発想が開運を呼びます。
ただ、夏の野外、どこでもかしこでも炉を出して肉を焼くのは、柔軟さということとは無関係であるように思います。
【天秤座】漁父之利(ぎょふのり):二者が争っているのに乗じて、第三者がうまうまと利益を手に入れること
蛤とシギの両方を手に入れた漁師はほんとうにうれしかったのでしょうか。画像検索する限り、シギはたいしておいしそうな鳥には見えませんし、蛤も根気よく掘っていけば、一個といわずたくさん手に入るような気もします。漁父之利がうれしいのは、実利というよりたまたま「ちょっとラッキー」なできごとにでくわした喜びであるように思います。求めれば、たいしてうれしくないことも、不意にもらえれば、ちょっとうれしい。電車のなかで席の譲り合いをしているおじさんを後目に、「あ、すわっていいですか?」と何食わぬ顔をしてちゃっかりすわるのは、ほんとうにうれしいものです。
【蠍座】愚公移山(ぐこういざん):根気よく努力し続ければ、ついには成功するということ
中国の愚公さんという人は、山を動かしたのだそうです。いまだったら、環境破壊ということで大変なことになるでしょう。今日ではこの熟語は、四字熟語も時代の制約を受けるという例証なのかもしれません。何ごとも続けていけば、必ず変わっていきます。けれどもそれがどう変わるか、自分が望んだ評価を受けるかは不明です。続けることは、確かに尊い。けれどもそれがどういう意味を持つかは、やはり考えておいた方がいいでしょう。山が移ってきて麓になってしまった住人に訴えられることのないよう、どうかよく気をつけてください。
【射手座】鶏口牛後(けいこうぎゅうご):大きな組織に付き従って軽んぜられるよりも、小さな組織の長となって重んぜられるほうがよいということ。
英語では「大きな池の小さな魚でいるよりは小さな池の大きな魚であったほうがいい」といいます。人の考えることにはたいして差がないのでしょう。ただ、大きい、小さい、というのはあくまでも主観的な判断なので、自分が太平洋並みに大きいと思っている海も、せいぜいのところ25mプールのサイズだったり、鶏の頭のあたりにいると思っていても、実は羽根の先あたりだったりすることはままある話です。鶏の口と牛の尻尾、どっちがいいだろうと悩むより、鶏や牛をおいしくいただくことをおすすめします。狂牛病だけは恐ろしいですが。
【山羊座】行雲流水(こううんりゅうすい):空を行く雲や流れる水のように、自然のままに行動すること
準備をしたり、計画を立てたりしていても、思いがけないこと・予期せぬことは起こります。ジョン・レノンも「人生とは何かを計画しているときに起きてしまう別のできごと」と言っています。もともと考えない人は論外ですが、さまざまに考え、多くの計画で忙しい人には(忙しいというのに忙しい人も含めて)「行雲流水」をおすすめしたいと思います。おそらく人はほんとうに求めているものは、自分では得られない、思いがけないときにでくわした他者からしか与えられないものではないかと思います。求めていないものなら、クレジットカードの請求書だとか体脂肪だとか、いくらでも得られるのですが。
【水瓶座】採長補短(さいちょうほたん):人の長所を取り入れ、自分の短所を補うこと
一般に長所といい、短所といいますが、それはいったいなんなのでしょう。同じことをしていても、あるときは「気配りができる」と言われ、またあるときは「人の顔色ばかりうかがう」と言われる。わたしたちの行為は、場によって、相手によって、同じことがまったくちがったふうに評価されます。その人の同じ面が、あるときは長所と言われ、またあるときは短所と言われる。それだけのことなのです。うまくいかなかったら、調整する。長いところはちょっとカットし、足りないところはどこかからもってくる。その調整能力こそ、求められる採長補短ではないかと思います。
【魚座】心機一転(しんきいってん):あるきっかけを境に、気持ちをすっかり変えてしまうこと
今年も半年が過ぎました。年頭の誓いは、いったい自分が何を誓ったかさえ記憶になく、半ば惰性のまま、半年が過ぎました。心機一転、リセット、やりなおし、ああ、なんと甘美な響きでしょう。けれども、昨日は今日に続き、今日は明日に続くのです。心機一転しようが、日は続き、なにも変わらない。心機一転とは、「したところで何も変わりはない」ということだと知りましょう。やりたいことがあれば、いまからやる。そうして、続けるのです。飽きてきたら、「心機一転しても何も変わらない」ということを思い出すのです。少しずつ積み重ねたことは、やめてしまえば無に帰すけれど、続けていけばかならずあなたをどこかに運びます。アイスクリームも毎日食べていれば、かならずあなたの身についていくのです。
2006-06-22:あなたを何と呼びましょう?
いまの小学校は、男の子も女の子も等しく「名字+さん」づけで呼ぶらしい。だから、子供が家に帰って「〜さん」と話しているので、親はてっきり女の子だと思っていたら、男の子で驚いた、などという話を、しばらくまえからずいぶん聞いた。これもいわゆる「ジェンダーフリー」なのだそうだけれど、男の子を「君」づけで呼ぶことに何の問題があるのか、わたしにはよくわからない。
もちろん、人に対する呼びかけというのは、両者が置かれた関係に拘束されるのは言うまでもないのだけれど、逆に、その人との関わりを決めてしまう場合もある。
たとえば、英会話スクールなどに行くと、非常に多くの場合、講師が
"Hi, I'm John. What's your name?"
といきなり自己紹介してくるので、こちらも
"My name is Kinnosuke Natsume."
とでも答えようものなら、その瞬間から「John−金之助」と呼び合う関係になる。
それは、先生−生徒の関係ではなく、ひとりの人間対ひとりの人間という関係を求めている、という側面ばかりでなく、一気に距離を縮めたい、という思惑もあるのだ。
以前、アメリカにいるときに病院に行ったことがあるのだが、診察を受ける前に、やはり同じように
"Hi, I'm John."
と自己紹介され、それからカルテを見て、わたしの名前を確認すると
"* * , what's the matter?"(* *、どうしたの?)
とやおら聞かれたのには、ちょっと面食らった。
相手と対等の立場に立ちたい、相手との距離を縮めたい、と思ったときに、ファーストネームで呼びかけることは、アメリカ人にとっての一番手っ取り早い方法なのかもしれない。
逆に、日本人がどうしても"Mr."や"Mrs."をつけて呼びたがるのを、英会話教室の講師が訂正する場面もよく目にした。
手紙の書き出しで、"Dear Mr.Pitt"と書いてきた生徒に対し、「これではあなたが友だちになりたくないみたいだ」と言うのも聞いたことがある。ただしその相手は映画スターで、その生徒はファンレターの添削を頼んでいたのだけれど。「友だちになりたくないみたい」と言われた生徒の方も、ずいぶんとまどったことだろう。
ただし、ここでわざわざ「アメリカ人」と断ったのは、ほかのヨーロッパ人まで等しくそういえるのかどうかよくわからなかったからだ。
生徒のことを同じようにファーストネームで呼ぶイギリス人講師は、それでも、生徒が年配であった場合は、Mr.や Madame の敬称に、姓の方で呼んでいたし、彼は「アメリカ人のフランクさっていうのは、イギリス人でもちょっと、って思うもの」と言っていた。
あるいは、わたしが教わったアイルランド人は、生徒はすべて敬称付きの名字で呼んでいた。それが高校生のわたしに対しても、だ。
結局は、その人の考え方しだい、というところなのかもしれない。
ただ、英語の場合は、ファーストネームで呼ぶか、ファミリーネームで呼ぶか、はたまた愛称で呼ぶか、ぐらいしかないのが厄介なところでもある。
敬称なしのファミリーネームとなると、ニュアンスはまったく変わってくる。
エド・マクベインの87分署シリーズでも出てくるのだけれど、容疑者の取り調べの最中に、最初はファーストネームで親しげに呼びかけ、途中から敬称抜きのファミリーネームに切り換える、それは一種の威嚇になっていくのだ。威嚇、あるいは叱責、親が子に「ジミー・ブラウン、いったいそれはどういうこと」と、フルネームで呼んだりするのも、根本にあるのは同じ思想だろう。
日本語の場合、夏目様、夏目先生、夏目さん、夏目君、なっちゃん、金之助さん、金之助君、金さん、金ちゃん、金どん、金、まだまだいくらでもヴァリエーションが広がりそうだけれど、相手との関係、場、心的距離感、といったさまざまな場面に応じて、いろんな呼びかけが可能だ。ある場では「先生」と呼び、別の場では「夏目さん」と呼ぶような場合も少なくない。
以前、自分より年上の人に教える機会があって、そのときはちょっとこまった。
わたしはどうも運動もしないクセに、そういうところだけ体育会気質というか、年長者に対しては、敬語とまではいかないにしても、丁寧語でしゃべってしまうところがある。学生時代、浪人していて、同じ学年でも自分より年長の人がいたのだけれど、どうしても丁寧語しか使えなかったぐらいなのだ。
名字プラスさんづけで、敬語でしゃべってしまうと、実際教えてるんだか、教えてないんだか、さらに間違った部分の指摘など、何を言っているのか自分でもよくわからなくなってくるのだ(これはほんとです、一度ためしにやってみてください)。
そんなに疲れることは、しばらくはちょっと勘弁してほしいのだけれど、いまのところ、敬意と、親しみのこもった呼びかけというのは、どんなふうにしていったらいいかなぁ、もうちょっと個性的な呼びかけをしてみたいなぁ、などということを考えたりもしている。
2006-06-20:意見、言えます?
高校生の頃、歩道橋の上でいきなりマイクをつきつけられたことがある。カメラを持った人と、マイクを持った人、それにマイクの機材を抱えた人の三人に取り囲まれて、ぎょっとした。
「あなた、高校生だよね、○○についてなんだけどォ、どう思う?」
わたしはその○○という単語をまったく知らなかったためにちゃんと聞き取ることすらできなかったのだけれど、顔の前にマイクを突き出されたうえに、そんななれなれしい口ぶりをされて、そっちのほうに大変頭に来たのだった。
おそらく「わたしがどうしてそういうことに答えなきゃならないんですか」とかなんとか、そんなふうなことを答えたのだと思う。
加えて、自分が不快である、という意思表示をするために、連中をぎろっとにらもうとしたのだけれど、もう三人組はつぎの目標を見つけて走り出し、わたしは眼光を鋭くさせたまま(笑)、そこに取り残されたのだった。
そのときはっきりと覚えているのは、少し離れたところにいた制服姿の女の子が、同じようにマイクをつきつけられて、「それって××じゃないですか〜」と答えていたことだ。どうしてそんなふうにいきなり聞かれて、たちどころに答えることができるのだろうか。
聞く−答えるというのは、最低限の信頼関係のないところでは、そんなことしちゃいけないんじゃないだろうか。
わたしが気むずかしいのかもしれない。もっと単純に考えてもいいのかもしれない。それでも、アンケートと称して、さまざまなことを聞いてきたり、あるいは逆に、聞かれたらなんでも答えてしまう人を目の当たりにしたりして、なんだかなぁ、とちょっと考えてしまうのだ。
「○△の事件に対してどう思うか」という質問もよくあるのだけれど、当事者でもない、詳しい事情を知っているわけでもない、表面に現れたことの概略すらも知らないところで、どうして意見が言えるだろう。
さらには「死刑制度についてどう思うか」とか、「憲法改正についてどう考えるか」とかといった、自分の側にある程度の意見をつくるには、最低限の勉強が必要で、しかもそれを簡単に「賛成」だの「反対」だのと言えないはずのことがらでも、平気で聞いてくる人もいる。それを聞いて、いったいどうしようというんだろう、といつもわたしは考えてしまう。
加えて、自分が意見を言ったところで、それがどうなっていくのだろう。
新聞の投書欄にしてもそうなのだけれど、そこへ投書する人は、いったい誰に対して、どういう効果をねらって書いているのかよくわからないことが少なくない。
「電車の中での化粧は見苦しい」と投書したところで、それを読んで、ああ、わたしは化粧なんて見苦しいことをしていたのね、と思う人が出てくるはずがないし、まして文の最後に「心を飾る人になってほしい」なんてことが書いてあったら、「けっ」というリアクション以外、期待することはむずかしいのではあるまいか。
意見を作ることは、簡単ではない。
さまざまな要素が入り交じったことを、単純化して答えを出すことは、少なくとも多くの要素を切り捨てているのだということを知っておいた方がいい。
簡単に聞かない。
簡単に答えない。
少なくとも、わたしはそういう人の話が聞きたい。
2006-06-15:タイトルの話――いまさら書くようなことでもないのだけれど
このブログのタイトルは「陰陽師的日常」という。
これだけだと、陰陽道(おおっと「陰陽道」で一発変換できてびっくり。「おんみょうじ」を変換しようとすると、どうしても「音名字」となってしまい、ATOKの辞書登録が面倒くさいわたしは、何を隠そう自分のハンドルネームを「いんようし」から変換させているのだ。みなさん、どうしていらっしゃいます?)を学んでいる人の日記かな、という感じもするのだが思うのだが、そうではない。
まずハンドルネームに関しては、メールをくださる方の一種のFAQともなっているので、説明しておきます。
そもそも「教えてgoo」というサイトに登録したときに、「ニックネーム」を決めなければならなくて、あたりを見まわして、自分の着ていたTシャツの胸元に目が留まった。そのときに着ていたのが、映画〈ゴーストバスターズ2〉のロゴTシャツだったのである。
(※参考画像http://dvd.cside1.com/jaktdoml/ghos2482.jpg)
正確を期すならば、この絵は「マシュマロマン」だったわけで、名乗るならそっちを名乗っても良かったのだけれど、まぁ、映画の最後でどろどろに溶けてしまうマシュマロマンよりは、インチキ臭いビームを出してやっつけるほうがいいかな、と、適当にでっちあげたのである。マシュマロの綴りが "L"がひとつだったかふたつだったか "MA-"のあとに"R"が入るんだったか、よくわからなくなったから、というのも、理由としてはあるかもしれない。
ともかく、パソコンに突如出現したエラー表示の意味を検索していたら、たまたまたどりついたそのサイトがおもしろくて、つい、回答したくなって登録した名前を、かれこれ三年も使っていることになる(最近はあまりやってないけど)。そのTシャツは襟元がよれて、すっかり部屋着になってしまった。
その昔、よく使っていたハンドルは漢字名で、なんとなくそちらの方が好みだったこともあるけれど、「陰陽師」というのはその「ニックネーム」の和訳でもあり、同時に頂き物でもあって、大切に思っていたわけなのだ。で、ブログを始めるに当たって、これをタイトルにしてみた。
「日常」というのは、毎日書くぞ、という決心のあらわれであって(笑)、当初から日記を書くつもりはなかった。たまに穴埋めとして、身辺雑記的なことを書くことがあっても、基本的に、日記はやめておこう、と思った。
翻訳の勉強をしたい、と思っていても、なかなか続かないし、読者がいれば張り合いもある。あとは、本を読んで、ああでもない、こうでもない、と考えたことを「エッセイ」のように書いていけないだろうか、たとえば青山南のように。そんなふうに思ったのである。
ブログの原稿もずいぶん溜まった頃、読みやすいように、と、サイトのひな型を作ってくださった方もあった。そこから、現在の、サイトにまずアップして、そこから手を入れて完成に漕ぎつけて、サイトのほうで一括して読めるようにする、という形式が、そうやってできていった。
もちろんこのやり方だと、どうしてもブログのほうはα版みたいなものになっていく。そういうものを公開することに意味があるのか、という疑問はもちろんあるのだけれど、β版だけをアップしていこうとすると、そんなものはいつまでたっても書けっこないのである(笑)。これは、基本的に大変ものぐさなわたしの性質に由来するものとも言えるが。
だからどうか、そんな下書きみたいなものは読みたくない、と思われた方は、サイトのほうへお越しください。
サイトのほうもそれなりに原稿が溜まってきて、そうでなくても種々雑多なことを書いているあれこれがずいぶん雑然としてしまって、整理が必要なんだけれど、まぁぼちぼちとやっていこうかと思っている。あと、英語のテキストの訳が知りたくて、検索でこのブログに来た人は、ブログのほうは言葉の詰めも甘いし、誤訳はそのままにしてあるので、サイトのほうを参考にした方がいいかな、とも思うけれど、多くは見るだけ見て、礼のひとつも言わない不心得者なので、いちいちそんなことは教えてやらないのだ(笑)。
でも、「複数の学生が同じ間違いを犯していて、それをたどったらそちらのサイトに行き着いた。誤った知識を垂れ流すのはやめてほしい」という学校の先生から抗議のメールがそのうち来るかもしれない、と密かに怯えてもいるのである。
2006-06-05:仮説を立ててみた
実は、わたしが密かに確立をもくろむ理論がある。
今日は、サイトの更新もできなかったことだし、つなぎとして、その理論(現段階は仮説)を発表しよう。
同じものを食べている両者は似てくる。
ということである(いてっ、何か飛んできた)。
いやいや、怒ったりせずに、ちょっとわたしの話を聞いてほしい。
ときどき電車やエレベーターのなかで、年配のご夫婦を見ていると思うのだが、ものすごく似ているケースが多い。雰囲気が近い、というより、とにかくそっくりなのである。
その点、年齢が若くなると、いくら一緒にいてもちっとも似ていない。確か志賀直哉の『網走まで』ではなかったかと思うが、両親と子供の三人連れを見ていると、父親と子供は似ている、母親と子供も似ている、なのに両親はちっとも似ていないので驚く、といった内容の記述があったように記憶しているが、血のつながりがない場合、十年、二十年程度ではだめなのだ。
一緒にいると似てくるんだろうか。
もうひとつ、わたしには疑問があった。
映画やアメリカドラマで見る日系アメリカ人というのは、両親ともに日系であっても、日本に在住している日本人とは顔がずいぶんちがう。
これはなぜなんだろう。
ハワイ在住の日系人も、混血でなくても、どこかちがう感じがする。
わたしは以来、さまざまな場面において、観察を繰り返し、検討を重ねてきた(含嘘)。
そこで、あるとき以下のような文献を読んだのである。
中島らもがどこかで書いていたのだが(典拠となるべき本は発見されなかった)、かつて中島らもが家で飼っていたウサギに、エサとしてドッグフードを与えていたのだそうだ。すると、性格の荒い、毛もごわごわしたウサギになった、とあった。
ここでわたしは一種の仮説を立てた。
これはイヌ化したウサギとは言えまいか。
つまり、ドッグフードを食べることによって、ウサギはイヌに似てきたのである。
アメリカにいる日系人の顔が日本人とちがうのは、アメリカ型の食事を取っているせいではあるまいか。
年配の夫婦が似ているのは、同じ食事を取っているせいではあるまいか。
さらに、わたしの推測を裏付けるサイトも発見した。
昨日もちょっと紹介した caveさんの「偏屈の洞窟」のキンギョを、ちょっと見ていただきたい。
http://www.j-cave.com/aquarium/kingyo/kin18.html
中央にいる30cmを超えるキンギョ、キンギョというより、コイそっくりではあるまいか。
この時期、caveさんはコイのエサを与えていらっしゃったのだ。
そうしてその子供たちにしても。
http://www.j-cave.com/aquarium/kingyo/kin31.html
はっきり言って、ウチのキンギョとは全然顔がちがう。
ただ、最近ではコイのエサからキンギョ用に変えられたらしい。
http://www.j-cave.com/aquarium/kingyo/kin46.html
このページにその記述がある。
そうなると、キンギョの顔も変化していくのだろうか。
わたしの仮説を裏付けるためにも、このcaveさんのサイトはこれからも目が離せないのである。
2006-05-31:いい人、悪い人
その昔、衛星放送でアメリカのTVムービーを見た。
スティーヴン・キング原作の、たぶん「スタンド」というタイトルだったと思う。
主人公のゲーリー・シニーズは、最初、ガソリンスタンドで働いていたから。
キングものの映像化は、たいてい滑り出しはおもしろくて、途中、あれあれ、ということになって、最後はアメコミみたいなモンスターが出てきて、わたしの生涯の6時間(たいてい連続ものだから、そのくらいになってしまうのだ)を返してくれ! と言いたいものになってしまう。
それでもやはりキングと聞けば、つい見てしまったのは、キングが日本に紹介され始めた頃に読んだ『クージョ』や『シャイニング』や『呪われた町』や『ゴールデン・ボーイ』なんかが圧倒的におもしろくて、あのころのイメージがどうしてもぬぐいきれなかったからだと思う。さすがに今は本は読む気にはなれないけれど。ほんとうに、初期のキングはおもしろかったもんね。
ともかく、「スタンド」の話だ。
記憶だけで書いているので、細かいところがちがっているかもしれない。
ともかく、全世界を疫病が襲い、人がバタバタと死に絶える。ゲーリー・シニーズだけは生き残り、夢のお告げを受けて、ある方向を目指していく。すると同じように、夢に導かれてその場所へ向かう人たちに出会うのだ。そうして集まった人々は、新しい国を作るべく、直接民主制を敷いて、話し合い、自分のできることを持ち寄りながら、「理想の国」を築いていく。
一方、生き残ったのはそういう人ばかりではなかった。「理想の国」の対極にあるような、「悪の帝国」の建国めざして、悪いやつらが続々と集まってくる。その「悪いやつ」というのが、ハーレー・ダビッドソンに乗ってレザー・ジャケットに身を包んだイージーライダーといったところ。もうそのイージー・ライダー軍団を見たあたりでわたしは笑ってしまったのだが、そこでふと思ったのだ。
悪いヤツが集まっても、悪の帝国なんていうものは建国できない。
というのも、悪いヤツは働かないからだ。何かエサをちらつかせて労働させようとしても、なにしろ悪い人間だもの(相田みつを風)、まじめに働くはずがない。
そもそも国が成り立たないのだから、「悪の帝国」にできることといったら、たかが知れているだろう。集まって麻薬をやったり、ものを盗んだり、喧嘩したり、婦女暴行したり、殺し合いをしたり、が、関の山で、たとえばナチスがやったようなことは、絶対にできない。
つまり、「悪の帝国」を築こうと思ったら、ある程度は「善良な人間」、まじめで、勤勉で、働き者で、ただし、命令に背いたり、疑問を持ったり、考えたり、批判したり、という精神を持たない、そんな人間を国民として抱えなければ、国としてそもそも成り立っていかないわけだ。
となると、「理想の国」と「悪の帝国」のちがいはどこか。
どちらも「善良な人間」によって維持される。その「善良な人間」が考えることができるような教育システムが整っていること、さらに、批判が認められていること、そうして、建設的な意見や批判を国の運営に反映させていくシステムが整っていること、ぐらいしか、「理想の国」と「悪の帝国」を隔てるものはないような気がする。
いわゆる「伝記」というジャンルの本がある。外国の自伝や評伝には、たまにとんでもなくおもしろいものがあるのだけれど、日本にはあまりおもしろいものがないような気がする(といっても、わたしがまだ読んでないだけかもしれないので、おもしろい自伝や評伝をごぞんじのかたは教えてください)。
特に、最悪なのが(おもしろくない、という意味で、です)、子供向けの「偉人伝」というやつ。これは子供を本から引き離すということを目指しているとしか思えないぐらい、犯罪的なほど、おもしろくない。
で、こんな本には、あたりさわりのないことしか書いていない。たとえばよく言われるのが、野口英世は一般に思われているほど立派な人間ではなかった、ということなのだけれど、この「一般に思われている」イメージの多くは、子供向けの偉人伝によって、形成されているのにちがいない。とにかく、よくがんばった、よく勉強した、だから偉い人になれました、めでたしめでたし、ってほんまか?
ここで、善い人、悪い人、をもう一度考えてみる。
キングの「スタンド」に出てきた「悪い人」というのは、そのほとんどが、「悪い」というより、「反社会的な人」と言うべきだろう。社会の一員であるという自覚に欠け、あるいは一員であることを積極的にボイコットするような。
であれば、「悪い人」というのは、いったいどんな人なんだろうか?
そもそも、「善い」「悪い」の判断をくだすのは、一体だれなんだろうか?
ここでありがちなのが、「人に迷惑をかける」という「理屈」だ。
けれども、それが「迷惑であるか、迷惑でないか」というのも、一体だれが決められる?
電車で大声でわめく人がいた。
これが赤ん坊なら?
急に激痛に襲われた人なら?
痴漢の被害に遭った人なら?
電車があまりにスピードを出したので、運転手か車掌に警告しようとしている人だったら?
大切な書類をさっきのタクシーのなかに置き忘れて、それをいま思い出したとしたら?
さらに、それがあなたにとって大切な人、愛する人だったら?
見るからに好意を持てなさそうな外見の人だったら?
聞いた「わたし」が睡眠不足でイライラしていたら?
臨時収入があって、太っ腹な気分でいるときだったら?
わたしたちは、自分の、そのときの気分でしか、判断できないのだ。
つまり、「善い人」「悪い人」がいるわけではない。
そうして、「善い人が集まったから理想の国ができる」わけでも、「悪い人が集まったから悪の帝国になる」わけでもない。
池波正太郎は「仕掛け人・藤枝梅安」のシリーズで、繰りかえし、「人間は、いいことをしながら悪いことをする、悪いことをしながら、いいことをする」と書いていた(これも記憶だけで書いているのでちがうかもしれない)けれど、「いいこと」「悪いこと」があらかじめ決まっているわけではない。できれば自分にも、周囲にも良い結果となればいいなあ、と思いながら、さまざまなことを考えても、結果としてどちらに転ぶかは、保証のかぎりではないのだ。それでも、考えないよりは、考えた方が、あきらかに悪くなる可能性を潰すことはできるのではあるまいか。
結局言えること。
善い人、悪い人、なんているわけではない。
え、それでもあの人は良い人だと思う人がいる?
それは、あなたにとって都合が「良い」人か、そうでなかったら、それはたぶんその人が「好きだから」なんじゃないかな。
2006-05-26:ペーパーナイフの贅沢
これといって贅沢なものは持っていないわたしだけれど、持っているもののなかで、一番使っていて贅沢な気分を味わえるものが、ペーパーナイフだ。かなり前の誕生日に、プレゼントとしてもらったゾーリンゲンのペーパーナイフで、ふだんは皮のキャップをかぶせて、ペン立てに突っ込んである。
最近、私信を受け取ることもまれになって、もっぱら切るのは、第三種郵便、ダイレクトメールはたいてい封も切らず屑かごに直行するのだけれど、クレジットカードの請求書や、電話料金や携帯料金の請求書、届いた雑誌の封といったところだろうか。それでも、30cmほどの長さの、ある程度、重さがあることが心地よいペーパーナイフを手にとって、封筒の隙間に刃先を差し入れ、すっと切り開く。
ペーパーナイフが紙、それも、少し厚手のクラフト紙や画用紙を切っていくときの感触というのは、独特なものだ。カッターナイフを使うと、切れ味が良すぎるために、逆に折り目に沿ってまっすぐ切ることがむずかしい。切り開くのではなく、カッターの方が、紙を勝手に切りに行ってしまうのだ。かといって、定規などを使うと、こんどは切れ味が悪すぎて、力も必要になるし、途中で皺が寄って止まってしまったり、のこぎりの刃のように切れ端が波形になったりして、これまた具合が悪い。ペーパーナイフを使ったときの「気持ちよさ」というのは、ペーパーナイフにしかないものなのだ。
以前、翻訳の『ネコマネドリの巣の上で』を訳していたとき、憎きバロウズ夫人の殺害計画を胸に秘めたマーティン氏が、バロウズ夫人宅で凶器を物色する場面で、ペーパーナイフに目が止まる、ということがあった。
これを訳しながら、わたしも机の前にあるペーパーナイフを手にとって見たのだが、とてもではないけれど、凶器の候補にすらあがりそうもない、先の丸いものだ。どうやったってこれで人間を刺すことはおろか、かすり傷ひとつ負わせることはむずかしいだろう。それとも、もっと他の、凶器にもなりうるほどのごついペーパーナイフもあるのだろうか。それでは日常の扱いにはずいぶん危なっかしいような気もする。
昔の本は袋とじになっていて、それを一ページずつペーパーナイフで切り開きながら読んでいたらしい。おそらくそれは、紙の悪いペーパーバックなどではない、厚手の質のいい紙の本だろう。それはそれで手間ではあっても、たいそう贅沢な気持ちが味わえたことと思う。その時期、本を読む喜びの何割かは、間違いなく、切り開きながら読む、という動作にあったことだろう。
袋とじといって思い出すのは、ビル・バリンジャーのミステリ『歯と爪』だ。これはわたしが小学生の頃から本屋の棚に並んでいたもので、アガサ・クリスティーやエド・マクベインを一冊ずつ読んでいくのを楽しみにしていたわたしは、この本の存在は、早いうちから知っていた。書棚から抜くと、文庫本の後半五分の一ぐらいのところから、確か青い紙でくるんである。そうして帯には意外な結末が待っている、途中でやめることができたら、代金はお返しします、と書いてあるのだ。そんな演出をしなければならない本に、一抹のうさんくささを覚えたわたしは、何が書いてあるのだろう、そんなにおもしろいんだろうか、と思いながらも、結局は読まないままになっている。この文章を書くために検索してみたところ、当時の本の多くが品切れ状態になっているのに、この本は、アマゾンでもまだ取り扱っているらしい。やはり演出が効いたのか、あるいはほんとうにおもしろいのか。
ただ、記憶によると、青い紙はありふれた色つきの西洋紙だったように思う。ペーパーナイフで開いてみても、そんなに気持ちよくはないような気がする。だから、「袋とじをペーパーナイフを使って」開けるために、長い命脈を保っているこの本を購入しようとは思わない。
もしどなたか読んだ方がいらっしゃったら、感想、教えてください。
2006-05-25:「事実」ってなんだろう
一昨日までここで連載していた「月明かりの道」、いま推敲しているのだけれど、確かに芥川龍之介の『藪の中』と、いくつかの類似点を指摘することができる。
ともかく、今日はそんな話がしたいのではなくて。
「事実」というのはなんだろうか、という話。
その昔、こんなことがあった。
授業のあと、とあるクラスメイトからこんな話を聞いた。
彼女(仮に、ミナコとでもしておこう)はとある小劇団の俳優が好きで、ずっと追っかけのようなことをしていた。その彼から手紙が来て、今度ある公演のチラシが入っていたらしい。手紙には、ヨロシク、とあったので、彼女はいさんでチケットを買って、ついでに新しく服も買って、花束を持って見に行った。
その俳優は喜んでくれて、公演が終わると打ち上げがあるから、そこにおいでよ、と耳打ちしてくれたらしい。
だから、彼女はその場所である居酒屋に行って、一緒に楽しいひとときを過ごした、というものだった。
後日、別の人間から、その話を、まったく別の角度から聞いた。
その子は例の小劇団の劇団員に友だちがいる関係で、チケットの販売を手伝ったり、公演のときは椅子を並べたり会場の設営をしたり、という位置にいるらしかった。
その彼女(こちらはレイコとでもしておこう)は、ミナコのことを口をきわめて悪く言った。
ミナコは手紙をもらった、って言ってたけど? とわたしが言うと、だって彼って××(某新興宗教団体)だから、選挙のときとか、ファンの子みんなに、「今度の選挙、よろしく」ってハガキ出してるのよ、ファンの子も、たいていはそれを知ってて、○○クン、ってしょうがないわね、って言いながらもチケットを買ってるわけ。だけどミナコったらさ、それを真に受けてて、バカじゃない?
でさ、当日、ミナコが来てさ、ピンクハウスよ、もう全身、びらびらの。ちっとも似合ってないのに。
花束渡して、写真撮ってもらって、それで満足すりゃいいのに、打ち上げにまで押し掛けてくるのよ。ど厚かましいったらありゃしない。
このとき、わたしは同じできごとでも、見る位置が違えば、まったく違う出来事に見えるのだな、とつくづく感心したのだった。
「事実」というのは、いったいどこからどこまでを指すのだろう?
・○月×日、劇団△△が公演を行った。
・ミナコがピンクハウスの洋服を着て、花束を抱えて見に行った。
・公演後の打ち上げに、ミナコも参加した。
けれども、わたしたちは普通、自分が遭遇した出来事を、このような形で考えない。
おそらく、ミナコにとっては、彼女がわたしに話してくれたのが、彼女にとっての「事実」であるし、レイコにとっては(「ど厚かましい」という感想はさておくとしても)関係者でもないのに打ち上げに参加したファンがいた、というのが「事実」なのだろう。
そうして、このどちらがより「真相」(というものが仮にどこかにあるとして)に近いのかは、誰も知ることができないのだ。
たとえばこのあと、ミナコがこの俳優と、仮にボーイフレンドガールフレンドの関係になったとする。あるいは結婚したとする。すると、わたしは、ああ、やはりこの俳優はミナコのことを特別に考えていたのだ、と思い、レイコの「ど厚かましい」は、意地悪な物の見方だな、と考えるだろう。
あるいは逆に、ミナコのほかにもこの俳優から「手紙」をもらった、という女の子の話を聞いたりすれば、ミナコの「思いこみ」だと考え、レイコの言った「打ち上げに押し掛け」た、と考えるだろう。
「事実」というのは、「それが誰が見たものか」によって影響を受けるだけでなく、過去のある時点で起こったことのはずなのに、その後に影響を受けるのだ。
さらに、こうも考える。
わたしがこの「事実」に関して、このようにとらえることができるのも、ひとえに、芥川龍之介の言葉を借りれば「藪の外」にいるからだ。
わたしがミナコやレイコと同じように、現場に立ち会っていれば、おそらくはミナコとも、レイコとも異なる「事実」を目撃するはずだ。そうして、それがわたしにとっての「真相」となり、「藪の外」にいるときのように、「どちらの話が真相に近いのだろう」と考えることはない。つまり、わたしの「事実」が「真実」になってしまうからだ。
あるいは、わたしはミナコとも、レイコとも、ほぼ等距離といっていい立場にあった。特にどちらと仲がいい、という関係でもなかったために、どちらかの話を、これはほんとうだろうか、とか、嫉妬みたいな感情があるのではないか、とか、自分自身の判断を交えずに聞くことができた。これがもし等距離でなければ、ずいぶんまた受ける印象も変わってくるだろう。
こう考えると、「何がほんとうのことなのか」「何が事実なのか」というのは、きわめて不確かで、曖昧なもの、さまざまな要素のからみあったもの、と言うしかなくなってくる。さらに、「真相は『藪の中』だなぁ」という客観性を維持できるのは、「藪の外」にいるときだけなのだ。
わたしたちは自分が遭遇した出来事、目の当たりにしたものを「事実」と、つい考えてしまいがちなのだけれど、「事実」というもののあやふやさ、当てにならなさ、ということは、頭の隅に留めておいたほうがいいのだと思う。
(※のちの「「事実」とはなんだろうか」の問題意識の、そもそもの発端になった文章です)