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鶏的思考的日常 ver.9〜忘れたっていいじゃないか、鶏だもの 編〜



2006-12-16:火の話

わたしのところでは暖房は石油ファンヒーターを使っているのだけれど、これはつけるときと消すときの二回、灯油の臭いがする。いま「とうゆのにおい」と打って変換させたら、ATOKは自動的に「臭」という字を選んだのだけれど、わたしにとって、この灯油を燃やすにおいはそれほど「くさい」ものではないのだ。

というのも、このにおいをかぐと遠い昔の冬の朝を思い出すからだ。
朝起きて、自分の部屋を出て一番に感じるのが石油ストーブのにおいだったのだ。わたしはいつもそのにおいで冬になったことを実感していたように思う。
結露に覆われた窓、そこから差し込む、弱い、ぼやけた朝の日差し。

いまではたいてい暗いなか起きて、まず明かりをつけ、それから暖房のスイッチを入れ、PCの電源を入れて起動させる。そのうちボッと音がして、ファンヒーターに火がつき、灯油のにおいが部屋にたちこめる。子供のころと様子はすっかり変わっているのだけれど、それでもそのにおいは、あのころの冬の朝をそっくりとよみがえらせる。

中学になると教室の暖房はカチカチとやかましいセントラル・ヒーティングだったけれど、小学生のときは大きなダルマ型ストーブだった。太いガス管がついていて、それに足を引っかけないように、やかましく言われた記憶がある。その大きなストーブの周りは、金網の柵で囲ってあった。雨の日などは濡れた手袋や靴下をそこにかけて乾かしている子もいた。

家のストーブは、真ん中だけがオレンジ色に染まるもので、炎を見ることはなかったのだが、教室のストーブは、胴のところに開いている小さな窓から、ちろちろと立ち上る炎が見えた。座る席によっては、その炎がよく見えて、授業そっちのけで、細かく形を変えていく火を飽きず眺めていた。スイッチを入れて間もないあいだは、澄んだ青い炎がゆらめく。やがて青はだんだん褪せてゆき、やがてオレンジ色と黄色、端はほとんど白に近い炎になるのだった。

西洋の本には、よく「暖炉」というものが出てくる。暖炉の前には揺り椅子が揺れ、あるいは暖炉の前で人は向き合って話をしたりする。
なによりもステキだと思ったのは、そこで煮炊きもすることだった。暖炉の上に、ナベがかかっていることもあるし、そこでジャガイモや肉をあぶったりもする(ローストビーフというより「仔牛のあぶりにく」と書いてある方が、ずっとおいしそうに思えた)。 そういう光景にあこがれ、なんとかそんな煉瓦造りの暖炉を見たいものだと思ったけれど、なかなか日本の家屋ではそういうわけにもいかず、未だに「火が燃えている暖炉」というものは見たことがない。

もちろん日本の昔話にも暖炉に相当する「いろり」は出てきて、そのまわりでご飯を食べたり、お話を聞いたりするのはどれほど楽しいだろう、と思ったものだった。こちらもやはり現物は見たことがない。

火というのは単に暖を取り、煮炊きする、という実用上の機能として求められているだけではないのだろう。火を見ているだけで心は暖められるし、キャンプファイヤーなどということを考えると、その場にいる人々を結びつける働きもあるのだろう。ゴールディングの『蠅の王』では、火は子供たちを「獣」から守ってくれるものだし、儀礼的な場ともなる。エチオピアの民話では、寒い夜を耐える貧しい青年を支えたのは、自分のために燃やされている向かいの山の火だった。そうして火は、遠い昔には人々の守護神的な存在でもあったのだ。

日常生活から「火」というものがどんどんなくなっていって、わたしが日常的に目にするのも料理をするときぐらいだ。それも、ふだんは鍋の下、火の加減を調節することはしても、炎を見ることはない。
最近では松葉を燃やしてもダイオキシンが発生するとかで、焚き火を見ることさえまれになってしまった。

クリスマスが近くなって、あちこちでライトアップもされているのだけれど、どれだけ派手な電飾も、一本のロウソクにともった火の美しさにはとうてい及ばないような気がする。

鶏頭




2006-12-06:本屋の話(コメント追加)

わたしが学生のころは、まだ就職活動というのは大学の最終学年になって始めるものだった。それまで漠然とは考えていても、最終的にどうするか、決定を下すのは、四年になってから、それも、夏になったごろではなかったか、と思う。もちろんその前の段階から計画的に就職活動を始めていたクラスメイトたちもいたのだろうが、類は友を呼ぶ、というか、わたしのまわりには「就職」「就職」と、気合いが入っていた人間はいなかった、ということなのだ。

そのころ、何かあると「古本屋をやりたい」と言っている人間がいた。
狭い店舗を借りて、自分が読んだ本、友人が読んでいらなくなった本をとりあえず集めて売る。そうやって、少しずつ売買する本の冊数もふやしていく。
ついでに、中古LPも売る。
店ではジャズを低い音で流すのだ(わたしは本屋に音楽はいらない、と反対した)。
店の一角には机と椅子も少しだけ置こう。コーヒーも飲める喫茶コーナーを作る。

本気でそう考えていたというより、就職活動、というか、社会に出て、企業の一員となって働く、ということをひるむ気持ちのほうが大きかったのだろう。授業のあとで一緒に昼を食べに行ったり、お茶を飲みに行ったりするたびに、彼は古本屋の話をしていた。

店の本棚は木製がいい。
文庫本は一冊百円でワゴンに置く。
おまえが店、出したら、オレ、サンリオ文庫、何冊かやるわ。サンリオ文庫やったら目玉になるやろ。
あ、あたし、バナナケーキ焼いて持っていってあげる。喫茶コーナーで出せばいい。 みんなそれぞれにアイデアをだし、その「どこにもない古本屋」の話はどんどん具体的になった。
それでもいつも、「そんな店、出しても、客はオレらだけやな」
「××なんか、いちんちじゅう張りついとりそうやな」というあたりで現実に戻り、立ち上がって、それぞれの生活に戻るのだったが。

いま、新古書店という、昔はなかった古本屋があちこちにある。とりあえず、月に数回はのぞいてみているのだけれど、どこも有線を音量をあげてかけているので、やかましくてたまらない。マンガと文庫がほとんど、ハードカバーの翻訳書など、よくよく話題になったミステリかスティーヴン・キングあたりしかない。なかなかおもしろい本にはめぐりあわない。
ほとんど、わたしなどから見ると、本屋とは言えないような場所だ。

いまは本屋らしい本屋というと、大型の店舗ばかりになってしまった。そういう場所ならほしい本もまず揃っているし、あらかじめインターネットで在庫状況を検索で確かめることもできる。相談にものってもらえる。それでも、贅沢なもので、こんどはそうなってしまうと、目指す本がないとおもしろくないし、逆に「思いがけない本」「予想もしていなかった本」にめぐりあうこともない。
ジュンク堂など、椅子が置いてあってありがたい店ではあるのだけれど、わたしが昔愛していた池袋のリブロに寄せるような思い、あの翻訳書が置いてあった棚のまるごとを自分のものにしたいと強く願うような、そんな個性がないのが残念なのだ。

古本屋になりたい、と言っていた彼は、確かコンピュータ関係の会社に就職したはずだ。
古本屋の夢はどうなっただろうか。

【コメント欄から】

古本屋での客の作法  by ゆふさん  2006-12-16 15:29:51

古本屋の店主が古本屋経営の裏側についてあれこれ書いた本を読んだことがあります。その時、ギクッとしたことが二つ。
(書名・著者名は忘れました。また、その著者がやっている店は、特定の分野の本をマニアックに置いている店ではなく、一般的な?古本屋だと思われます)

その一
「買う気のない本を触るな。古本は触れば触るほど傷んだり汚れたりして商品価値がさがるんだ。返品できる新本とは違うんだ(大意)」

これは、「はい、ごめんなさい」です。買う気はないけどとりあえず手にとって開いてみることがよくあります。
で、ですけど、買わないだろうと思いつつも手にとってみたらやっぱりどうしても欲しくなって、ということがないとは言えないわけでして、これは「買う気のない」というのをどこいらへんで線引きするかが問題ですね。いずれにしても、なるべく丁寧に扱いますから少しは大目に見てほしいです。
陰陽師さんは、買う気のない本を触りますか(笑)

その二
「「どんな本をお探しですか」と訊くと「べつに…」と答える客がいるが、目的もなしに古本屋へ来るバカがあるか(大意)」

これはかなりの驚きでした。いや、客がじゃなくて、古本屋の言い分が。私はいつも漠然と古本屋へ行っていて、そのことに何の疑問も持っていなかったので。
だけど、世の良識家のみなさんは探している本がある時にだけ古本屋へ行くものなのですか。それとも、(私と違って)体系的な読書をしているような方々は常に「探している本」の懸案を抱えているってことですか。まさか、私みたいに漠然と行く客は高い本を買わないから嫌われているってことじゃないですよね?
なんとなく入った古本屋で「思いがけない本」「予想もしていなかった本」にめぐりあうことは楽しいことですし、それは、けして儲かるとはいえそうもない古本屋経営に、(僅かですが)潤いを与えることにもなると思うんですけど、どうなんでしょうか。

古本屋の床にいきなり這いつくばる陰陽師様、古本屋の客の正しい振る舞い方についてご教示くださいませ。

古本屋の日々 by 陰陽師 2006-12-17 07:31:54

ゆふさん、おはようございます。

わたしが古本屋に一番足繁く通ったのは、おそらく高校生のころだろうと思うんです。 もちろんそれ以降もいろんな古本屋に通ったんですが、「古書街」全体に愛着を持っていたのは、おそらくその時期だろうと。

まず、ある程度、時間は余裕を見ていくわけです。
たいていは休みの日の朝から。
とにかく歩きますから、靴は当然、スニーカー。
両手が空くように、デイパックを背負って。
埃が目にはいるかもしれないから、コンタクトははずして、眼鏡で。
髪の毛が垂れるとじゃまだから、きちんとゆわえて。
当然、床にはいつくばるから、ジーンズで。

そうやって、装備万端整えて、東西線の九段下でおりて、地下鉄の階段をのぼって、武道館とは逆方向に、お堀を横目に坂をだらだら下っていって。交差点を渡ると、まず一軒目が見えてくる。そうやって、道路沿いに、一軒ずつ攻略(笑)していくわけです。

所詮は高校生ですから、自由になるお金もたかだか千円とか二千円ぐらい。目指すものといっても、何か安いペーパーバック、これはもうなんでも良かったし、あとは、品切れ状態の文庫本、たとえばフィッツジェラルドだのデイモン・ラニアンだの、はたまた都築道夫の「なめくじ長屋」のシリーズとか、まあ限られているわけです。

それでも店頭にどさっと置いてある文庫本や新書コーナーに目を走らせているだけで、いろんな著者とタイトルだけは頭に焼きついていく。
そうしながら、わたしはアナトール・フランスの『神々は渇く』を見つけ、あるいはフランク・ノリスの『死の谷』を見つけ、ホッブスの『リヴァイアサン』を見つけ、Langston Hughes(ラングストン・ヒューズ)の"The Big Sea" を見つけ、のちのちまで絆を結んでいくことになります。

図書館が学校だったように、やっぱり古本屋もわたしの学校でした。自分がいまいるところの向こうには、広く豊かな世界が拡がっているのだと、いわば身をもって学んでいったのだと思うんです。

自分がほんとうに興味のあることや話して楽しいことは、まわりのだれともシェアできないのだという鬱屈や、漠然とした将来の不安みたいなものに押しつぶされそうだったわたしが、それでも根っこのところで、世界というのはすばらしいもので、自分は受け容れられているのだ、みたいな確信を持っていられたのは、図書館や、本屋、それも新刊やベストセラーや雑誌で埋まっているような蛍光灯のまぶしい本屋ではなく、池袋の地下のリブロの一角だったり、神田の東京堂だったり、神保町の古書店街があったからだろうな、と思います。
シマッタ、これはネタにできた(笑)。

はてさて、ゆふさんがご紹介くださった古本屋さんですが。
なるほど、その人は古書商いをそういうものとしてとらえているのだろうな、という感じです。

文章を書くにしても、楽器を演奏するにしても、絵を描くにしても、あらゆる表現活動というのは、本質的に自己言及(自分自身を語ること)という要素を含んでいるものです。たとえ「わたしは〜である」みたいな書き方をしなくても、否応なくその人の手ざわり、声、感じ、におい、なんと言ってもいいんですが、「なにものか」は確実に伝わる。 おもしろいけれど、反面、自分のことをかんがえると、こわいものだ、とも思います。

おそらくその方は、どちらかというと割の合わない古書商いというものを、それなりの情熱と誠意を持って、していらっしゃるのだろう、と。
それでも、おそらく一冊の本に、自分の根底が揺らぐほどの経験をしたことのない人、一種の消費財として、本を売っている人なのだろうと思います。
別にそういう人はそれでいい。同じように、割安な消費財を求めてやってくるお客さんを相手にしていてください、って。

ただ、その人が日本語にあまり通じていないのも確かだな、と(笑)。

> 「どんな本をお探しですか」と訊くと「べつに…」と答える客がいる

この「べつに…」は、英語で言う "Just looking." と同じ。
店に入って "May I help you?"(なにかお探しですか)と聞かれて、店員に相手をしてほしくないときは、"Just looking." (見てるだけ)と答えます。つまりこれは、放っておいてください、自分で見てまわります、という意味なんです。
そんな申し出は親切なようで、ちっとも親切じゃない、単に差し出がましいだけ。用事があれば、客の方から聞いてくるでしょう。
相手が闘う哲学者、中島義道先生だったら、怒鳴られてしまうかもしれません。

というか、小学生のころ、塾帰りにマンガの立ち読みをしていたら、しばらくすると店のおばちゃんがハタキを持って出てきて、「そろそろどれを買うか決めてね」と言って、立ち読み客を追い払っていたのと同じような気がするんですけど……。
その人、立ち読み客を追っ払いたくてそう言ってるんじゃないですか?
だけど、チェッ、もう少し読みたかったのに、と思いながら本を棚に戻して、当然買うこともなく、そそくさと店を出ていたわたしたちですが、その店はコミックスを袋とじすることはしていませんでした。いまにして思えばいい店だったんだな、と思います。 ああ、たぶん、わたし、一冊もそこで買ってません(ゴメンナサイ〜)。

特に、最近はサーチエンジンという便利なものがありますから、具体的に書名がわかれば、本屋なんて行く必要がないんです。わからないから本屋に行くのだし、極端な話、自分が何を求めているのかもわからない、本の背中を見て、あるいは中を開いて端書きに目を走らせて初めて、ああ、こういう方面を読んでいったらいいんだ、と思いつくことだってあると思うんです。

古書店渉猟の楽しみというのは、つまるところ

> なんとなく入った古本屋で「思いがけない本」「予想もしていなかった本」にめぐりあうことは楽しいことですし

ということではないかと。
店は変わっても扱う本はどうしようもなく画一的になってしまった通常の書店では、こんな楽しみをもはや味わうことはできないものですからね。

神保町はもうずいぶん行っていません。
わたしが通っていた頃でさえ、年中スキー道具のバーゲンをやっている、原色のスポーツ用品店が徐々に浸食していたように思うのだけれど、いまあそこらへんはどうなっているんだろうなあ。交差点の三省堂のちょうど向かいにイートインのパン屋があって、そこでよくコーヒーを飲みながら、お金があるときはサンドイッチ、ないときはロールパンをふたつ(笑)食べていたのを思い出します。

そこらへんでおサイフ、一度落としたことがあるんです。本を買ったあとで、もう二百円ぐらいしか入ってなかったんだけど(笑)、いまでもクマちゃんの絵がついた黄色いサイフのことは覚えています。

鶏頭




2006-12-04:検索の話

わたしが「検索」というか、サーチエンジンを初めて使ったのは2000年に入ってからだ。

翻訳というのは、おっそろしく些末な知識を必要とするので、それまではひとつの単語の意味を調べるために、図書館に行っておびただしい関連書物に目を走らせた。そうやって「マイランタ」が胃薬の製品名であることをつきとめ、「ディヴィッド・スペイド」という名前のコメディアンがいることを知り、moldingを辞書でひくと載っている「刳型」とか「廻り縁」という日本語が、天井と壁の接合部を意味する、ということを覚えたりしたのだった。そんな日本語さえ知らない単語が、ありがたいことに、図書館のレファレンス・ルームにある建築用語辞典などの専門用語辞典には、英単語と一緒に図解入りでどんなものか載っていた。もちろん『絵でひく英和大図鑑 Word's Word』は発売と同時に買って、洋服の部位や帆船の各部分、拳銃の構造など、大変世話になった。

ところがサーチエンジンを使えば、単語を入力するだけでたちまち多くのサイトがヒットする。"T.J. O'Pootertoot"のように、それだけではわからない単語も、中身を読んでいくうちに、それが何であるか見当がついてくる。世の中はこんなにも便利になったのか、と、感涙にむせびたくなるほどだった。まぁ泣くことはなかったけれど。

そのころはまだブリタニカ(英語版)も無料で、これもずいぶんお世話になった。 そうやって、見つけたサイトがおもしろくて、「巡回」するサイトもできていった。 ともかく、サーチエンジンのおかげで、調べものが単に楽になっただけでなく、ウェブの世界で迷子にならずにもすんだのだ。

それからさらにしばらくして、いろんな意味でゆとりができたころ、自分もウェブ世界の一員として、ささやかながら情報を発信し始めた、ということになる。

ところがわたしの場合、翻訳を除けば、自分が書くもののほとんどは、本から得たものだ。
このあいだ「報道の読み方」で何人かの方のブログをソースとして引用させていただいたのがほとんど初めてのようなもので、それ以外はほとんど本からの引用が元になっている。
というか、わたしが文章を書くのも、読んだことをもっと深く理解したい、自分のものにしたいから、ということが大きい。

だれだって自分がわかることしかわからない。
どんなに重要なことが書いてある本を読んだとしても、自分が理解できる範囲を超えてわかることはできない。

昔の旧制高校の学生というのは、一種の「修行」として、むりやりむずかしい本を読んでいた、という話を聞く。それで精神を鍛えていたのだ、というのだけれど、わたしはそういう読み方をしたことがないので(すいません、軟弱者です)、それがどのくらい「精神」の鍛錬になったのかはよくわからない。

わたしは鍛錬のために本を読みたいわけではなくて、知らないことを知りたいから、読むわけだ。もう少し正確に言うと、読まない状態でいれば、自分が何を知っていて、何を知らないかもわからない。
自分のよく知っていることしか書いてない本は、つまらない。
そうではなくて、自分がここまではわかるけれど、ここからはわからない、ということを教えてくれる本を読むと、ほんとうにうれしくなってしまう。そうして、その著者の手引きに従って、少しずつ分け入って、それでもわからない、その自分のわからなさを言葉で埋めていく、そういう作業がしていきたい、と思っている。

だから、書いているときというのは、いつも「わかった」ところと「わからない」ところの中間地点で宙ぶらりんでいるから、たいてい、書いたときに自分でも何を書いているのかよくわかってはいないのだ。そうして、書き終わって、つぎのところへ行ったとき、振り返ってみて、やっと、自分が何が書きたかったかがおぼろげにわかってくる。そんな書き方をしている。
果たしてそんなものを人に見せていいもんだろうか、とも思うのだけれど、やはり、チラシの裏ではなく、人からの評価を受けるものとして書くことに、わたしの内では意味があるのだろうとも思っているわけだ。

インターネットでは「情報」を手に入れることはできるけれど、やはり「情報」は「情報」で、自分のわからないことがわかったり、どこまでわかっているかがわかったり、というものではない。そこまで体系的なものはないし、この先にどんなものがあるかを教えてくれるところがあるだけだ。「つぎにどんな本を読んだらいいか」「どういう方向の本を探したらいいか」という道しるべはとてもありがたいけれど。

だから、検索でわたしの書いたものにたどりついて、もし興味を持つことがあったら、わたしが書いたものは「情報」なので、そこからぜひ引用した本の方を読んでほしい。 おそらく学生の方だと思うのだけれど、何度か、本の何ページにあるか、という問い合わせを受けたことがあって、もちろんメールで聞かれれば答えるけれど、それをどうするのかなぁ、と思ってしまう。そんなふうに「情報」だけ手に入れて、それで終わりにしてしまうのは、あまりにもったいないのだ。

「検索」で手にはいるのは、情報だけだ。
いかに「情報通」になったとしても、そんなものはその人と何の関係も持っていかない。情報は、行き過ぎるだけだ。
そうではなく、その人の内に蓄積され、そうしてほかの蓄積したものと結びつくことができるのは、やはり本を読み、それも一冊や二冊ではなくある程度系統的に読むことによってしか可能にはならないと思う。
「わかること」と「わからないこと」のあいだに橋をかけていくような、そんな読み方をしようと思えば、やはり本に依拠していくしかないのではないか、と思うのだ。

古くさい考え方かもしれないけれど、わたしはそういうことに関しては、古くさくて上等だと思っている。

鶏頭




2006-12-03:悪いものは悪い、じゃなくて

まえにも書いたことがあるのだけれど、山口文憲(なんと肩書きをつけたらいいのだろう?)は『読ませる技術──書きたいことを書く前に』(ちくま文庫)のなかで、電車の中でのマナーについては、どうやってもうまく書けないから書いてはいけない、と書いていた。

たぶんその理由は書いてなかったと思うのだけれど、おそらく「マナーが悪い人が悪い」という結論にしかなっていかないからなのだと思う。
その途中を、ほかの現象と結びつけたり、以前と比較してみたりしても、どこまでいっても「マナーが悪い人の物語」のヴァリエーションは拡がりようがないのだ。

これは「電車のマナー」だけの話ではない。
「歩道を歩く」に置き換えても可能だし、別にマナーに限らず「日本語の乱れ」だっていいのだけれど、ひとたび「良いか悪いか」の枠組みでものごとをとらえようとすると、物語はおそろしく単調なものになってしまう。

電車の中で携帯電話を使うのは悪い。
いじめは悪い。
児童虐待は悪い。
ゴミの不法投棄も、動物虐待も、環境破壊も、日本語の乱れも悪い。

まあ、もちろんその通りだ。

だれが書いたって「悪いものは悪い」、それ以外に書きようがない。
けれど、そんなものを一体誰が読みたいだろう。

他人が読みたかろうが読みたくなかろうが、悪いものは悪い、と声をあげていくことに意味がある、という意見があることは理解できる。
そうすることが必要な場合もあるのかもしれない。
だからわたしはそうする人を否定はしないけれど、あまりそういうものが読みたいとは思わない。

わたしたちが何かを読むときは、情報や知識を得たい、あるいは楽しみたい、という目的がある。つまり、それが読む価値があると思わせてくれる「何ものか」を求めているのだ。ところが誰が書いても同じ、新しい発見もない、となると、なんでわざわざそんなものを読まなくてはならないのだろう。

「××が悪い」ということが、その人とどんなふうに関わっているのだろう。
「××が悪い」という人は、その出来事をどこに立ってみているのだろう。
そういう書き方があるはずだ。
ところが多くの「××が悪い」という文章には、肝心のその点が書いてない。

「勧善懲悪」というタイプの物語がある。
水戸黄門でもウルトラマンでもいいんだけれど(ずいぶんちがうけれど)、そういう物語では、ほとんど例外なく、共同体の外部にいる超人的な力(あるいは権力)を持つ人物が、悪い人間を懲らしめ、去っていく。
そこでは「悪い」ものはつねに百パーセント完全に悪く、その悪さえ取り除かれれば共同体に平和は訪れる。
そうして、それを見ているわたしたちは、その物語のだれとも関係のないところから、すべてを見通す視点から、その物語を眺めている。そうして、水戸黄門だとか、ウルトラマンだとかの側に立って、ぼけーと(あるいは一生懸命声援している人もいるのかもしれないけれど)見ているわけだ。
「善−悪」の枠組みが決まった外側から眺めていることができるから、ただ何にも感じないで、爽快感だけ感じていればいい。

けれど、現実には、わたしたちは多くの場合、「水戸黄門を支持しながら見ている観客の位置」には立つことができないんじゃないんだろうか。
捨て猫に胸を痛める一方で、ゴキブリをスリッパで叩き殺し、スーパーで肉やハムを買っている。
環境破壊は悪いといいながら、エアコンを使い、車に乗る。
そういうことに気がついてしまうと、ちょっと後ろめたいし、あんまり大きい声で「あれが悪い」なんていうことは言えなくなってしまう。

ところが、ごく例外的に「水戸黄門を支持しながら見ている観客の位置」に立つことができるケースがあると、つい、「悪いやつ」を声をあげて指弾してしまうのだ。
たとえば電車の中のマナーが悪い誰かを見つけたときとか。
学校を卒業してしまい、教職にも就いていない人、子供もおらず、関係者もいない人の「いじめ問題」とか。

それでも、そういう声はどれだけ大きくても、「水戸黄門を支持しながら見ている観客の位置」にしか立っていないから、解決にはつながっていかない。
解決ができるのは、当事者だけだ。
ほんとうに解決しようと思ったら、何らかの形で当事者になっていく方向を模索していかなければならないし、そうなると、物語の外側に立って「良い、悪い」などと単純に言うことなど、できなくなってしまう。
いろんな責任を引き受けながら、人からの批判にさらされながら、それでもどうしたらよりマシな方向に持っていけるか、考えるしかない。
自分はこの問題とどう関わっているのか。
これを考えるところからしか、話は始まっていかないのではないのだろうか。

ウルトラマンの内部から見れば、ウルトラマンだって実存的な悩みを感じているのかもしれない。
なんで自分は自分がたった3分しかいられない場所で、こんなにも苦労しなければならないのだろうか、と、運命を呪っているかもしれない。
自分が倒した怪獣の怨念を背負って生きているのかもしれないし、うなされることだってあるだろう。
ウルトラマンは、おそらく「怪獣が悪い」とは思っていないような気がする。

鶏頭




2006-12-02:キンギョが病気になりました

先日から一匹、着底していたキンギョがいたんです。
尻尾やヒレに白い斑点ができているから、おそらく白点病だろう、もっときついキンギョの病気もたくさん経験しているわたしとしては(キンギョ界の苦労人と呼んでください)、たいしたことはないだろうと思って、水槽に塩を入れたり、ヒーターで温度をあげたりしてたんですが、いよいよ具合が悪くなって、治療用水槽を用意しなくちゃならない感じになってきた。
仕方ないから、仕事から帰ってやりました。

バケツに、水槽の水を半分くらい移して、ヒーターをぶちこみ、そこに病気のキンギョをいれてやります。それにすこしずつカルキ抜きをして温度調節をした水(プラスお湯)を加えてやるんです。キンギョに負担にならないように、すこしずつ、時間をかけて水合わせをしてやるわけです。時間にして、Rushのアルバムを"2112" →"Grace Under Pressure" → "Signals" と続けて聞けるぐらい(笑)。
それから計量スプーンで量ったメチレンブルーを入れてやります。

こうなってくると、親水槽のメンテナンスもしなきゃなりません。
ほかのキンギョたちに病気が伝染ってないか、チェックもしなきゃならないし。
同じように水合わせして、バケツで塩水浴させてやりながら、いまさっきまで水槽を洗って、砂利を煮沸消毒していました。

パスタ用のでかいナベにお湯をいっぱいわかして。
肘まで水に漬けて。
何の因果で……、と、キンギョを飼い初めて二百回目ぐらいに思いました。 もう、すんげー疲れました。
へろへろです。

ということで、今日のログは、これだけです。
そのうちキンギョが恩返しに来てくれるかもしれません。
そしたら、その話を書きましょう(笑)。

鶏頭




2006-11-25:見ている子供たち

しばらく前から朝日新聞の一面に「いじめ(て/られて)いる君へ」という読み切りのコラムが連載されている。各界著名人がおそらく中学生ぐらいの読者を想定して語りかけていて、正面写真がかならずついているのは、おそらく直接、顔の見える人間が語りかけている、という体裁を取っているからなのだろう。

最近、新聞の購読数は明らかに落ちていて、わたしの住むアパートでも、同じ階の並びで新聞を取っているのは、わたしのところのほか、もう一軒しかない。その家はリタイアしたご夫婦が住んでいらっしゃるところで、新聞を支えている年齢層というのは、かなり高くなっているのではあるまいか。
わたしは文句を言いながらも、結構な新聞読みなので、さしあたっては購読を続けるつもりなのだけれど、実際、ニュースを知るだけなら、インターネットのニュース配信でだいたい十分なのかもしれない。
忙しいなか、毎朝新聞を読むような人というのは、今日的には、限られて来ているのかもしれない。

少なくとも近所で見る限りでは、中学生がいる二軒は、新聞は取っていない。
そんな状況で、実際に中学生が読むのかどうなのか、かなり疑問なのだが、なかにはそれを読んで、なるほど、と思う子がいないとも限らないし、伝染しやすいネガティヴな情報を、自殺のニュースなどという形で振りまいているのだから、それと反対の読み物があるのは、バランス的にはいいのかもしれない。

ただ、わたしが思ったのは、その記事の効果のことではない。

「いじめ」というのは、いじめる側と、いじめられる側しかないわけではないだろう。 おそらく、割合からいけば、傍観者である子が一番多いのではないのだろうか。

いまの「いじめ」は、過去のそれとはちがう、とよく書いてあって、そうなのかもしれない、とも思う。それでも、クラスの全員が一致してひとりの人間をいじめる、ということはまれで、いじめるグループがいて、いじめられる被害者がひとりいて、まわりはそれを知りながら、かわいそうに、と思っても、自分に火の粉が飛んでくるのがいやさに、ただ、見ているのではないのだろうか。

そうして、そんな子はどんな気分でいるのだろう、と思うのだ。

ジョディ・フォスターが主演した『告発の行方』という映画がある。
これはレイプされた女性が、レイプした加害者ではなく、まわりで唆した男たちを教唆罪で告発していくものだった。
まわりで煽る人間がいなければ、加害者もレイプ行為にまでは及ばなかった、という判断が下されるのである。

観客の存在によって、逆にわたしたちは思ってもみなかった行動に出てしまうことがある。
つい、期待に応えてしまったり、期待とまではいかない、場の空気、としかいいようのないものに流されて、冷静な判断を失ってしまったり、あるいは、見ている人に向かって、自分はこんな人間だとアピールするために、行動をとることもあるだろう。
観客、というのは、そこにただいるだけで、自発的に何もしなかったとしても、行為者にとって大きな影響力をもってしまうのだ。

たとえばクラスにA君という子がいるとする。
A君は、些細な逸脱をしている。校則より髪がほんの少し長いのかもしれないし、校則では認められない色の靴下をはいているのかもしれないし、i-podをこっそりかばんにしのばせているのかもしれない。

このA君が悪い、と、B,C,D君らが糾弾を始めるとする。
このとき、残りのクラスメイトは「観客」である。
「観客」に対し、B,C,D君らは、糾弾の正当性を訴えるために、一層糾弾は激しくなっていくとする。B,C,D君に対する賛同者は増え、徐々に勢力は拡大していくかもしれない。糾弾の声はいよいよ苛烈に、いよいよ執拗に、片時もA君を許さないものになっていくかもしれない。 この段階では、もはやA君が謝ろうが(一体だれに?)、反省の弁を口にしようが、何を言っても、火に油をそそぐばかりとなってしまうかもしれない。
「悪かった」と言ったところで、「反省もしてないくせに」と揚げ足をとられ、一層の糾弾の正当化に利用されるだけかもしれない。

ここでも、「観客」の存在は、糾弾する側にとって、大きい。
そしてまた、糾弾される側、A君にとっても「観客」の存在は大きいだろう。彼からすれば、観客の目は自分を排除する視線でしかないはずだ。

さて、「いじめ」というのは、いったいどの段階から該当するのだろう。
A君は、B,C,D君らは、観客のクラスメートらは、どこから「いじめ」であると判定するのだろう。

実際に現場の雰囲気を知っているわけではないので、もしかしたらこんなものではないのかもしれない。
けれども、もし「いじめ」がこんな状態で始まっていくとしたら。
排除している側が「いじめている」とまったく自覚していないケースだって、なくはないと思うのだ。
ましてその場にいることで、直接何もしていなくても、結果として加担することになってしまった側としてみれば、自分に一体何の関係があるのか、と言いたくもなるかもしれない。

こういうことをどう考えたら良いのか、わたし自身よくわからないのだけれど、少なくとも、そういう状態にある人間に「やめる勇気を持とう」と呼びかけることなど、まったく意味をなさない、ということだけはわかる。

ただ、「いじめ」という物語の枠組みがここまで大量にストックされてくると、みんなに糾弾されて、息苦しさ、やりきれなさを覚えているA君は、すぐに「これはいじめだ」と気がついて、声をあげることができるかもしれない。
大量にストックされているせいで「いじめは悪い」と結びつきやすいために、とりあえず「いじめ」の声を聞いて、止めに入る誰かが登場するかもしれない。
たとえそれが根本的な解決にはほどとおいにせよ、対処療法的な役には立つのかもしれない。

おそらく、これだけ「いじめ」をめぐる物語がストックされていくと、そんなわかりやすい形での「いじめ」は、おそらく減っていくだろう。
けれども、つぎにそれがどんな形をとって現れてくるかは、だれもわからないのだ。

鶏頭




2006-11-24:情けないわたしとしては

「オイルショック」の話は、何度も聞いたことがあるし、どういうわけかトイレット・ペーパーや洗剤、砂糖までが店頭から消え、買い物カゴをさげた主婦らしい人が、何かを引っ張り合っている写真まで見たことがある。
なぜ中東戦争の影響で砂糖がなくなる、という話になったのか、いまだにわたしはよくわからないのだけれど、ともかく、「その当時の日本人は、風説で不安を煽られ、買いだめに走ったのだ」ということを、授業やらなにやらでしきりに耳にした。
つまり、当時のひとびとは、なんというか、ナイーヴだったのだ、といった見方である。

ところが、こうしたことは、ある年を境に、ぴたりと言われなくなったように思う。
そのある年、というのは、わたしはいまでもはっきり覚えているのだけれど、1993年のことである。

わたしはこういう記憶のしかたをしているのだけれど、1991年は湾岸戦争の年だし、1992年は小中学校が土曜日が休みになった年だ(当時小中学生相手の塾の先生をしていたのだ)。そうして、1993年は異常気象の年なのだ。夏に雨ばかりが続いて、夏らしい日がほんの数日しかなく、その結果、秋になって米がなくなる、という騒ぎになったのである。

別に米がなくても痛くも痒くもなかった当時のわたしは、米がない、だとか、タイ米はまずい、だとかいう大騒ぎを、自分にはまったく無関係の出来事として、外から眺めていた。
その年の秋ぐらいから徐々に騒ぎは大きくなり、スーパーの店頭からも米は姿を消し、輸入米が並ぶようになるまで、わたしはほとんど米を口にしていなかったかもしれない。それでもパンだってスパゲティだってうどんだっていくらでもあるので、自炊をしている身には、一向に痛痒を感じなかったのである。
やがて、評判の悪いタイ米も買ったし、カリフォルニア米もオーストラリア米も買ったような気がする。だからどうした、という記憶はほとんど残っていない。

近所に米屋があった。 それまでは、そんなところで米など買ったことがなかったわたしは(たいていスーパーで、2kg入りの小さな袋を買っていたのである)、そこに米屋がある、ということさえ知らなかった。ガラス戸のはまった古い構えの店は、たとえその前を何度通っても、興味を引いたことがなかったのである。

それが、その年に限って、にわかに注目を集めるようになってしまった。
「つぎの発売日は×日」という張り紙が、冬頃には出て、その日には店の前に長蛇の列ができるようになったのである。入荷のルートがある、というより、売り惜しみをしているらしい……などという噂も耳にしたが、ともかく、そこまでして国産米を買いたい、という気持ちはどうしたって理解できなかった。

それがある日、同じ寮に住む寮生に、一緒に米を買いに行こう、と誘われた。
彼女は、どうしても米がないと、ご飯を食べたような気がしないのだ、という。並んでまで買いたくない、とわたしは断ったような気もするのだが、もしかしたらそんなに国産米が特別においしいのか、確かめてみたい、という気持ちもあったのかもしれない。どういう流れだったのかは覚えていないのだけれど、ともかくわたしたちは連れだって「入荷」の日に、そこに並びに行ったのだ。

すると、その米屋の親爺が、並んでいる客に向かって、説教するのである。
あんたたちも米屋のありがたさがよくわかっただろう、とかなんとか、そんなことを言うのである。
ほんとなら、ウチの米は、ずっとウチを大切にしてくれはったお得意さんだけに回してあげたいのや。それをあんたらにも分けてやろう、ゆうのんやからな。ありがたい思うてもらわなな。

わたしはそれを聞いて、それ以上自分の番が来るまで待つのもバカバカしくなって、ひとり先に帰ってしまったのだった。ただ、苦労して手に入れた子からは、やっぱり国産米はちがう、あなたももうちょっと我慢したらよかったのに、と言われたときは、内心、その「おいしさ」は多分に苦労した経験が反映されているものではないか、と思ったのだった。

やがて94年の暑い暑い夏が来て、やがて新米が出回るようになる。
米屋の前はまた閑散とし、開いているのか、閉まっているのかわからないような状態になっていった。あのとき、辛抱して並んだ人も、米屋の親爺のイヤミを我慢した人も、二度とそこで買おうとは思わなかったにちがいない。

しばらくわたしはよく考えたものだ。
米屋の親爺にとっては、もしかしたら販路を拡大するチャンスだったのかもしれなかったのに。
確かに、長年、自分の店を無視し、スーパーになくなったからといってやってきたような連中に、自分が扱う大切な商品を売りたくなかったのかもしれない。
その気持ちはわからなくはない。それでもそれを客にぶつけて、何の良いことがあるだろう。
「わが世の春」は長くは続かない。やがて秋が来るし、新しい収穫もあるのだ。

米屋の親爺ひとりがどうかしていたわけではない。
タイで実際に食べている人がいるものを輸入して、まずいだの臭いだのと言っていたことも、国産米をどうしても子供に食べさせてやりたい、と何時間も並んだ人も、冷静に考えてみれば、どうかしていたのだ。
わたしはたまたまいろんな回り合わせから、その騒動の外にいることができたけれど、やっぱり巻き込まれて「どうかしてしまう」ことだってあるだろう。

そうやって、時ならぬ米騒動の年は終わっていった。
けれども、そのことでみんな学んだのではなかったのだろうか。
それまでは、オイルショックのときの騒動を見て、みんな自分とは関係のない、昔のバカな人々、と思っていたことが、自分たちにも、実際に起こるのだ、ということを。
そうして、いま取った行動は、おそろしいことに、確実に将来にはね返ってくるのだ。
どうしたらいいかわからないとき――
結局は、日常的にわたしが他者と共有している知識に照らし合わせてみるしかないのかもしれない。

たとえば、人には親切にしておいた方がいい、とか。
自分はある状況においては、愚かなことをしてしまうから、他人の愚かさを笑ってはならない、とか。

そんなことを考えていると、あまり「ザマアミロ」と気持ちがスカッとしたり、他人に引き比べて自分を誇りたくなったりすることはできなくなって、なんとなく、いつも少し自分が情けなく思えたりもするのだけれど、そのカッコ良くない自分、ちょっと情けない自分をつねに忘れないでいるかぎり、そんなにとんでもないことにはならないのではないかな、と思ったりするのだ。

(※後日談:このログはブログ掲載時に、コピペに失敗したまま、画面を確認せずにアップしてしまい、ほんとうに「情けないわたし」ということになってしまったのである。自分が失敗するということをわかっているのなら、確認すればよさそうなものなのだけれど、それさえも忘れてしまうのだ。で、天を仰ぐのである。ああ、またやってしまった。まぁいいや、忘れてしまおう。
「だって、鶏頭だもの ――とりを」)

鶏頭




2006-11-13:言葉の話(一部補筆)

こんな経験はないだろうか。

行ったことのない場所を地図をたよりに訪ねていく。たとえば駅を出てからでもいいのだけれど、見知らぬ土地、見知らぬ場所で探す目的地は、ひどく遠い。
ところがやっとのことで探り当て、用事が終わって戻る道のりは、どういうわけか、行きにくらべてひどく短いような気がするのだ。もう駅についてしまった、こんなに近かったのだろうか。行くときは、迷ったわけでもない、いまと同じ道をたどっていたのに。 そんな経験である。

自分がそれほど方向感覚の確かな人間ではないせいなのかもしれないけれど、知らないところに出かけて、帰ってくるたびに、こうした経験、「帰り道は近い」ということを思ってしまうのだ。

つまりこれは、言葉を換えれば、知っている場所は近い、知らない場所は遠い、ということになるだろう。つまり、わたしが感じる「遠さ」「近さ」とは、目的地を知っているか、いないかに左右されるのだ。

わからない状態、というのは、つらい。
わたしはときどき検査を受けるのだけれど、その結果が出るまでの二週間ほどは、実にきつい期間を過ごすことになってしまう。何度検査を受けても、そのあと結果がでるまでは、何をしていても気持ちはそちらに向いてしまうし、もし結果が悪いものだったら、と、考えても仕方がないことを、いつのまにか考えてしまっている。いったんネガティヴな方向に向かった気持ちをまた立て直していくのは、簡単なことではない。
いつも思うのだけれど、その二週間は、ほんとうに長い。

もし言葉がなかったら、わたしたちはいろんなことを記憶することもできなかっただろう。
出くわすことは、いつだって新しい体験で、それが自分にとってどういう意味かを考えることもなく、ただそれを体験し、忘れ、思い出すこともなく、繰りかえすことなら動物のように「習慣」としてストックされるのかもしれないけれど、それも、一年前のあの日、あのとき、という形では決して記憶されず、そうして、こんなふうになにもかもが白紙のような状態では、わからないことがあたりまえで、そういうことを不安に思うこともない。

そうなのだ。
わたしたちがわからないことが不安なのは、過去の経験は自分のうちにストックされ、すでに「わかったこと」に分類されているからなのだ。
駅から目的地まで行く一回限りの経験であっても、わたしたちは、この道を通って、信号を渡って、三つ目の角、コンビニのあるところを右折して……という形でその経験をストックする。そうして、帰りにはそれを逆にたどっていけばいいわけで、すでにそれは「知っていること」なのだ。
こうして、知っていることが増えていけばいくほど、わからないことは不安になる。そうして、将来のt1時においてわかることがわかっているから、いまからそのt1時までは、宙づりにされてしまうのだ。その宙づりの状態がつらいということなのだろう。

けれども、考えてみれば、何ごとであれ、わたしたちは先のことはわからない。
わからないからこそ、予想をたて、刻み目をつけた時間を、未来にもあてはめ、過去の出来事から法則を見出して未来に当てはめようと、因果関係をさぐり、あるいは占いをし、ジンクスをでっちあげ、生まれた日時から太陽や月や星の位置を割り出してそれで何かを引っ張り出し、血液型やら、はてはコックリさんのお告げまで頼りにしようとする。 時間が過ぎて、かつての未来が現在に、一瞬のちには過去になっていっても、あいかわらず未来は未来のままで、わたしたちはそちらを不安の眼差しで見ている。
将来どうなっていくかを知ることができるt1時が来ないから、宙づりにされているわけではないけれど、それでも漠然とした不安をさまざまなことのうちにまぎらせている。

けれども、そのt1時が具体的にいつかわからなくても、それを意識しながら日々生きることを余儀なくされている人がいる。
余命を宣告されて生きる人、そして、その介護をしながら看取る人だ。

わたしはだれかを看取るという経験を、まだしたことはないけれど、これはつらいことだろう。
身近な人が日々弱っていくのを見ながら、同時にその宙づりにされた状態がいつまで続くのかわからない。その状態からの解放を願うことすら、できない。
その道のりは、どれほど長いことだろう。
介護の場にある人や、重い病気を抱えた人、話は少しちがうけれど、いじめを受けている人、そういった目に見えない不安感ではなく、具体的な苦しみのなかにいる人は、ある意味で、「先」のことが確実にわかっている。

だんだん弱っていく身内を明日も世話をしなければならない。
明日も体が苦しい。
明日もいじめられる。

具体的にわかっている苦しみを「明日もつづく」と待ち受けなければならない人は、どれほどにつらいことだろう。漠然とした不安ではなく、昨日経験したことを、もういちど今日も、明日も経験しなければならない、「わかっている苦しみ」を待つ、という経験。
いっそ、「先」がわからなければ、いまのその苦痛の何割かは軽減されるだろう。
言葉を持ち、経験を言葉に換えてストックしていく人間は、過去を未来に投影させて、その影の中を歩いていくしかないのだけれど、それは、かならずしも実体のない不安ばかりではないのだ。

けれどもわたしたちは、やはり言葉を持っている、と思う。
その日のつらさや苦しみを言葉にして、世界に出現させることができる。言葉を持っているおかげで、その経験を保存しておくことができるのだ。
去っていく人を、そこに留めることはできないけれど、去っていく人の思い出を言葉のうちに留めることならできる。
言葉にして取りだしたつらさは、ひとと分かち合うこともできるはずだ。
先のことはわからなくても、言葉につなぎとめた「いま」は、そこに並べて、またいつでも取りだして、眺めることができるのだ。
それは、渦中にある人を慰めるには、あまりに力が足りないものかもしれない。けれども、言葉のおかげで、「なにものか」は残るはずだと思うのだ。

わたしにはその経験を過去にされた人の、あるいは、いまその渦中にある人の、苦しみも辛さも実際にはわからないけれど、そうして、その苦しみや辛さをどうすることもできないけれど、言葉が、あなたとともにありますように、と祈る。

いつか、また、そのお話を、教えてください、と。

鶏頭




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