2.わたしを「蕎麦屋」に連れてって
アン・タイラーの『ブリージング・レッスン』は、実に味わい深い、いい小説で、タイラーはどれもおもしろいけれど、『夢見た旅』『アクシデンタル・ツーリスト』『ここがホームシック・レストラン』そうしてこの『ブリージング・レッスン』がやはり白眉ではないかと思う。一緒に、まったく意味のない空想なのだけれど、太宰治が読んだらどう思っただろう、と考えるのだ。というのも、タイラーの小説は太宰が言った「世間とは個人じゃないか」という発想が根本にあると思うからだ。
朝起きて、食べて、寝ての繰りかえしの日々のなかで、ケンカしたり、行き違ったり、怒ったり、八つ当たりしたり、相手のことをたいせつに思っているのに気持ちは伝わらず、誤解したり、嘘をついたり、期待したり、期待されることに苦しんだり、思ったことを言わずに胸の内に留めたりしながら、登場人物たちは少しずつ変わっていく。何もかもが時間のなかにあるのだよ、と、そうして、時間とはひとがそのなかで変わっていくということなのだよ、と書いてあるタイラーの小説を読んで、すべてが起こったあと、最初から書き起こす「手記」という形式、その意味で、最初から最後まで変わりようのない人間の小説をいくつも書いた太宰は、何を思うのだろう、と。
さて、無意味な空想は置いておいて。
この『ブリージング・レッスン』は、長い年月を共に過ごし、ゆっくりと老境に入っていこうとする夫婦が主人公である。夫のほうはうっかり者で底の浅い妻を軽んじているところもあるのだけれど、妻の方は、口が重く容易に本心を言葉にしない夫の心境を、彼が思ってもみないほど、正確に把握している。というのも、夫の方は(本人は気がついてないのだが)、そのときの気分が、つい、口笛の選曲に現れてしまっているからなのである。
夫のアイラという人物は、頭も良くいろんなことが見えながら、一方で胸の奥に深い失望も抱えている陰影に富む人物なのだが、彼の気持ちが口笛ひとつで丸見えになってしまうという落差がおもしろい。とはいえ、そんなことは実際によくあることなのかもしれない。CDひとつとっても、何を聞くかはそのときの気分をかなり忠実に反映するものだから。
以前、大学の寮にいたころ、隣の部屋の子がよくラジカセの音量をあげて、大きな音で音楽を聞いていた。彼氏とうまくいっているあいだは、“A〜面でこーいをしってっ、ウ〜インクゥのマシンガンで”などと脳天気な曲が流れていたのだが、徐々にうまくいかなくなるにつれ、曲は“うらみま〜す、うらみま〜す”と、中島みゆきに変わっていったのである。以降三ヶ月ほど、わたしは隣の部屋から聞こえてくる中島みゆきのさまざまな歌と一緒に暮らしたのだった。
そのなかで、わたしは「蕎麦屋」という曲が好きだった。
「蕎麦屋」 作詞 中島みゆき
世界じゅうがだれもかも偉い奴に思えてきて
まるで自分ひとりだけがいらないような気がする時
突然おまえから電話がくる 突然おまえから電話がくる
あのぅ、そばでもくわないかあ、ってね
べつに今さらおまえの顔見てそばなど食っても仕方がないんだけれど
居留守つかうのもなんだかみたいでなんのかのと割り箸を折っている
どうでもいいけどとんがらし どうでもいいけどとんがらし
そんなにかけちゃよくないよ、ってね
風はのれんをばたばたなかせてラジオは知ったかぶりの大相撲中継
あいつの失敗話にけらけら笑って丼につかまりながら、おまえ
あのね、わかんない奴もいるさって あのね、わかんない奴もいるさって
あんまり突然云うから 泣きたくなるんだ
風はのれんをばたばたなかせて ラジオは知ったかぶりの大相撲中継
くやし涙を流しながらあたしたぬきうどんを食べている
おまえは丼に顔つっこんでおまえは丼に顔つっこんで
駄洒落話をせっせと咲かせる
聞いていて、この微妙な距離感がいいなあ、と思ったのである。こんなふうな距離感でもって、人と関係が作れないものなのかなあ、と。
相手のことが気にかかる。だから、気をつけて見ている。そうすると、相手のきつさしんどさも見えてくる。そういうときに、すっと手をさしのべる。そのさしのべ方も、押しつけがましいものではなく、そんなことをやっている自分に照れてもいるような。
けれど、現実にはそんなことはできるものではなかった。気にかかる相手は、距離を置いて見ていることなどできなくなって、どうしても距離を縮めたくなり、あれこれと差し出がましい口を利いてしまう。近くなった相手には、つい、いろんなことを要求してしまい、要求がかなえられないと腹を立て、結局、互いに充たされない思いばかりがつのっていく。自分からそんな手をさしのべられないように、だれもそんな手をさしのべてはくれない。そのころは相手が男であれ女であれ、そんなふうな関係を作っては壊ししていたような気がする。
それからずいぶん時が過ぎて、中島みゆきの曲も忘れてしまい、自分がそんなことを願っていたことすらも忘れてしまったころ、ふと、そんな手がさしのべられたのである。まったく思いもかけないところで、まるでこの歌のように。シチュエーションはずいぶん異なってはいたけれど、それでもわたしは不意にこの歌のことを思い出したのだった。
そうして、この歌がはっきりとは言葉にしなかった「それ」、歌の主人公を泣かせもし、電話をくれた「あいつ」が遠慮がちに差し出した「それ」を、わたしもまた受けとったのだった。
情況がたとえ変わらなくても、誰かがわかってくれるというだけで、世界はまるっきり変わってしまうのだ、と。
ああ、わかってくれた人がいたんだ、と。
ただそれだけで。
おそらくそのとき、わたしがまったくそういうものを望んでいなかったから、望むことなど、思いつきもしなかったから、さしのべてくれた手に気がつくことができたのだ。
ひとに何かをしてほしい、と思う。相手がそうしてくれるとうれしいし、ありがたい、助かったと思う。けれど、それはどこまでいってもギブ・アンド・テイク以上のものではない。自動販売機にお金を入れて物を買うように、「お願い」を投入口に入れて、相手から何かが返ってくるのを待つ。望んだものが出てくればうれしいけれど、そのうれしさは、「満足」、自分の欲望が満たされたよろこびでしかない。
ひととひとの関係から生まれるのが、そういう「満足」だけ、というのは、どこかちがうような気がする。わたしたちはほんとうにそういうものを求めて、ほかのひととつきあっているのだろうか。それだと、より大きな「満足」を引き出すために、対策を練り、作戦を考えるようになってしまうんじゃないか。そういう状態は、「人を利用している」と呼ぶものではないのだろうか。
あるいは、わたしはこれだけしてあげた。だからあなたもこれだけ返してちょうだい、と要求、もしくは期待する。そういう等価交換を求めるような関係は、相手を、人間ではなくて、自動販売機とみなしているのと同じじゃないんだろうか。
そうした利用や等価交換の関係から離れようと思えば、結局は、相手に何かを求めることをやめることしかないのだろう。
だが、たとえ純粋に相手のために何かをしてあげたい、と思うときでも、どうしても感謝の言葉や喜ぶ顔を期待してしまう。ありがとうの一言でいい、ほんの少しの笑顔でいい、と。
わたしたちはつながりを持っていたい相手に、何かを求めずにはいられない。それが、おはよう、という言葉に返ってくる、おはよう、であったとしても。
永井均は『子どものための哲学対話』でこう言っている。ここで「ペネトレ」と「ぼく」が呼んでいるのは、彼の対話相手であるネコのこと。
ぼく: 猫のことは知らないけど、人間は、自分のことをほんとうにわかってくれる人がいなくては、生きていけないものなんだよ。
ペネトレ: そんなことはないさ。そんな人はいなくたって生きていけるさ。それが人間が本来持っている強さじゃないかな。ひとから理解されたり、認められたり、必要とされたりすることが、いちばんたいせつなことだっていうのは、いまの人間たちが共通に信じこまされている、まちがった信仰なんだ。 (永井均『子どものための哲学対話』講談社)
これを初めて読んだときはすでに子供という時期を過ぎて久しいころだったけれど、もし子供のときこれを知ってたいら、ずいぶんいろんなことが楽になっただろうに、と思ったものだ。
それでもいまはやっぱりこんなふうに思うのだ。
それがたとえ「まちがった信仰」であったとしても(というか、永井さんはここで子どもに「強くあれ」と言っているのだろうとわたしは思うし、その激励はとても胸に響くのだけれど)、「自分」という意識のなかには、「ほかのだれでもない」ということが同時に意味されていると思うのだ。だとしたら、自分が、自分である、と思う気持ちのなかにはすでに「この自分をわかってほしい」という思いが織りこまれているはずではないか。
問題なのは、わかってほしい、認めてほしい、という気持ちを、まるで自動販売機に向かうように、相手にぶつけてしまうことなんじゃないだろうか。ぶつけずにはいられない。だけど、それだけじゃない関係もあるんだ、と頭の隅に留めておくこと。
だから、「蕎麦屋」なのである。
こういうふうに、求めていないとき、突然かかってくる電話のために、やっぱりわたしたちは、生きているのではないか。
待っているときには、絶対鳴らない電話を。
わたしたちは、もしかしたらその電話のことを忘れるために、日々の生活を精一杯送っているのかもしれない。そうして、偶然、ひょっとしたら、わたしたちの「自分のための精一杯」が、どうかした拍子に、誰かにとっての「電話」になるのかもしれない。そんな意図のまるっきりない「電話」。相手のため、と思っているあいだは絶対にできない「電話」。
さて、この相手は「丼に顔つっこんで」何をたべているのだろう。
この歌の女性(たぶん)は蕎麦屋で「たぬきうどん」を食べるような人だ。だから相手である「おまえ」も、蕎麦なんて食べてはいないのではないか。「顔をつっこんで」は、顔の前に持ち上げて、かきこんでいる姿をあらわしていると思うのだ。この「おまえ」が食べるのは、やはりカツ丼以外ではありえない、というのが、わたしの大胆な推測である。
ということで、今日の晩ご飯はカツ丼だったのである。
【11月2日の晩ご飯】
◆カツ丼: ※これはほとんど料理とは言えません。
1.とんかつを買ってくる。ええ、お好きなところでどうぞ。
2.薄切りにしたタマネギを、だし汁+しょうゆ+みりん+さとうで煮る。
調味料は一人分でだし汁75cc、しょうゆ大1、みりん、さとう各1/2くらい。
ここでヒガシマル薄口しょうゆを使うとgood! とわたしは思う。
3.切ったとんかつを入れて、ちょっとだけ煮る。
4.卵でとじる。三つ葉をぱらぱら、でできあがり
つけあわせ:酢ダコ(タコとキュウリとワカメとショウガを三杯酢で和えた)
明太子、小松菜と豆腐の味噌汁
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