ここでは Carson McCullers の"A Domestic Dilemma"の翻訳をやっています。
カーソン・マッカラーズの短篇をここで翻訳するのも「木・岩・雲」、「過客」に続いて三作目です。
1940年、二十二歳で『心は孤独な狩人』を出版して華々しいデビューを飾ったマッカラーズの翌年の作品です。「木・岩・雲」(1942)「過客」(1950)などとともに、1951年に発表された短編集『悲しき酒場のバラード』に収められました。
「過客」では、青年期を過ぎ、迫り来る老いと死の足音を聞く主人公が、別れた妻とつかのまの邂逅を果たしますが、ここに見られるのは、もしかすると十年前の彼らの姿なのかもしれません。
人と人とはわかりあえず、互いに対する慈しみさえもが、食い違いの原因となってしまう。マッカラーズはやがて離れていくふたりが、それでも一瞬重なり合う、そこを起点に、ささやかで脆い、蜘蛛の糸のように繊細な、小さな物語を紡いでいきます。
なお、ブログでは当初「家族の問題」というタイトルで訳していましたが、ここでは「家庭のジレンマ」と改題しました。
原文は
http://www.carson-mccullers.com/mccullers/DomesticDilemma.html
で読むことができます。
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家庭のジレンマ
by カーソン・マッカラーズ
木曜日、マーティン・メドウズは、家へ帰る急行バスの第一便に間に合うよう、早めに職場を出た。そのときはまだ、薄紫の夕日が少しずつぼやけながらも雪解けの通りに名残りをとどめていたが、バスが街なかのターミナルを出るころには、すっかり宵闇がたれこめて、街の灯がきらきらと輝いていた。
木曜はメイドが半日しか来てくれないので、マーティンはできるだけ早く家に戻りたかった。というのもこの一年、妻があまり――調子が良くなかったのだ。今日はひどく疲れていたので、通勤仲間の会話の輪からも外れ、バスがジョージ・ワシントン橋を渡るまで、新聞にじっと目を落としたままでいた。ひとたび9−W高速道路に入ってしまえば、復路も半ばまで来たような気がして、いつも彼は息を深く吸い込むのだった。自分がいま吸い込んでいるのは、まぎれもない田舎の空気なのだと、マーティンは信じていた。たとえ寒い時期のいまは、車内のタバコ臭い空気のなかにほんの一筋混ざっているだけであったとしても。
以前はここらあたりまでくると、気持ちもほぐれ、満ち足りた思いで家のことを考えたものだった。だが、この一年というもの、家が近づくと、気持ちは張りつめるばかりで、道中が終わるのが少しもうれしくない。この夜、マーティンは顔を窓に寄せ、殺風景な野外や、通り過ぎてゆく町の寂しい明かりを見ていた。月が暗い大地や、ところどころに残る雪を青白く照らしている。マーティンの目に、今夜の田舎の景色はむやみにだだっ広く、荒涼たるものに見えた。紐を引いて降りる合図をするまで、まだ数分の余裕があったが、網棚から帽子を取り、新聞をたたんでオーバーのポケットに入れた。
家はバス停から一ブロック離れたところにあった。近くに川が流れていたが、家があるのは川岸まではいかない場所である。居間の窓からは、通りをはさんだ家の庭や、その向こうのハドソン川が見えた。モダンな感じのこぶりな木造家屋は、小さな庭付きの敷地に建っていると、変に白くて真新しすぎるように思える。夏のあいだは柔らかな芝生は色鮮やかで、マーティンも庭を縁取る花壇や、アーチにはわせた蔓バラを丹念に世話した。だが、寒くなったここ数ヶ月のあいだに、庭はすっかり寂しくなって、なんだか家がむきだしになってしまったようだ。今夜は小さな家の部屋という部屋に、明かりが煌々とついていて、マーティンは玄関へ足を速めた。階段を上る前に歩を止めて、乳母車を邪魔にならないようにのけておいた。
子供たちは居間にいたが、夢中で遊んでいるのだろう、表の扉が開いたのにも気がつかない。マーティンは、何の異常もなく、いつも通りに愛らしい子供たちを立ったまま見つめた。子供たちは蓋つきの机の一番下の引き出しを開けて、クリスマスの飾りを引っぱり出していた。どうやらアンディがクリスマス・ツリーのプラグを差しこんだのだろう、緑と赤の電球が、居間のじゅうたんを、季節はずれの祝祭の光で照らしている。アンディはマリアンヌの木馬に、どうにかして豆電球のついたのコードをはわそうとしていた。マリアンヌは床にすわって、天使の羽をむしっている。驚いた子供たちは、おかえりなさい、と歓声をあげた。マーティンがまるまるとした小さな女の子をひょいと抱き上げると、今度はアンディが脚に体当たりした。
「パパ、ねえ、パパ、パパったらぁ!」
マーティンは女の子をそっと下に降ろすと、今度はアンディを抱いて、振り子のように大きく数度、揺すぶってやった。それからクリスマス・ツリーのコードを拾い上げた。
「こんなものを出して、どうしようっていうんだ? パパが引き出しへ戻すから、おまえも手伝っておくれ。おまえは電気のソケットをいじるようなバカな子供じゃないだろう? この前、パパが何て言ったか、思い出してごらん。大切なことなんだよ、アンディ」
六歳の男の子はうなずくと、机の引き出しを閉めた。マーティンは柔らかな金髪をなでると、細いうなじに手を当てたまま、しばらくじっとしていた。
「ぼうず、晩ご飯はもう食べたか?」
「口がかーってなっちゃった。トーストがからかったんだ」
女の子がじゅうたんに足を取られてつまずいた。転んだ瞬間のあっけにとられた表情は、すぐにくしゃくしゃになって涙がこぼれた。マーティンは両腕に抱き上げ、一緒に台所に入っていった。
「見てよ、パパ」アンディが言った。「あのトーストだよ」
むきだしのホウロウ天板のテーブルには、エミリーが子供たちのために用意した夕食が載っている。二枚の皿には朝食のシリアルと卵の残骸、銀のマグには牛乳の飲み残し。もう一枚の大皿には、一口かじったままのシナモントーストが一枚、放り出してある。マーティンはかじりかけのトーストのにおいをかいで、自分でもこわごわかじってみた。そのままトーストはゴミ箱行きとなる。
「ふう……まったく……なんてことだ」
エミリーはカイエンヌ・ペッパー(※赤トウガラシの粉)とシナモンの缶を間違えていた。
「もうね、からくて飛びあがっちゃった」アンディが言った。「お水飲んで、走って外に出て、はあっーて口を開けたよ。マリアンヌはちょっとも食べなかった」
「“ちっとも”」とマーティンは言葉を直してやった。無力感に襲われて立ちつくしたまま、台所の壁を見まわす。「まあ、それはそれとして、だな。……さて」と、やっとのことでそれだけ言った。「ママはいまどこにいる?」
「上のパパたちの部屋」
マーティンは子供たちを台所に残して、階段を上がり、妻のもとへ向かった。ドアの外で怒りが鎮まるのを待つ。ノックもせずになかに入り、後ろ手にドアを閉めた。
エミリーは居心地の良い部屋の窓辺に置いた揺り椅子に腰を下ろしていた。タンブラーで何か飲んでいたらしく、彼が部屋に入ったとたん、あわてて椅子のうしろの床に置いた。うろたえ、ばつの悪そうな表情を浮かべていたが、なんとかそれを隠そうと、わざとらしく陽気な声を出した。
「あら、マーティ! もうお帰り? そんな時間だなんて気がつかなかったわ。下へ行こうと思ってたの……」よろよろと彼の方へ寄っていき、シェリーのきついにおいのするキスをした。棒立ちのマーティンがそれに応ようとしえないので、一歩さがって神経質そうにクスクス笑う。
「どうしたの? そんなところに立ってると、まるで床屋のサインポールみたい。調子でも悪いの?」
「調子が悪いかだって?」マーティンは揺り椅子におおいかぶさるようにして、床のグラスを拾い上げた。「おれが吐きそうなのがきみにわかるか――おれたちがみんな、どれだけひどい気分か」
エミリーの不自然で軽薄なしゃべりかたにも、いまではすっかり慣れてしまった。こんなおりに出てくるイギリスなまりは、お気に入りの女優の真似をしているつもりらしい。「何のことを言ってるのか、わたくしにはちっともわかりませんことよ。ひょっとして、シェリーをグラスにほんの少々いただいたことをおっしゃってるのかしらね。指一本分のシェリーをね――二本だったかもしれないけど。ですけどそれがいったいどんな罪に当たるのかしら。教えていただけませんこと? わたし、全然平気なのに。まったくなんともないのよ」
「だれが見てもわかるぐらいにはね」
バスルームに向かうエミリーは、しゃんとした姿勢を崩さないように慎重に歩いた。蛇口をひねり、両手で水をすくって顔に浴びせ、バスタオルの端で軽く押さえて拭く。整った顔立ちは若々しく、染みひとつなかった。
「ちょうど下へ降りて、晩ご飯のしたくをしようと思ってたところだったの」ぐらりと体が傾き、ドアの枠につかまりながらバランスを取った。
「晩飯はおれが作る。きみはここにいなさい。持ってきてやるよ」
「そんなことはダメ。ねえ、そんな話、聞いたことがある?」
「頼むよ」マーティンは言った。
「もう、ほっといてよ。何ともないんだから。下へ降りようと思ってたとこなんだから……」
「おれの言うことを聞いてくれ」
「大きなお世話」
よろよろとドアの方へ行きかける彼女の腕を、マーティンがつかまえた。「きみがそんな状態でいるところを子供たちに見せたくないんだ。少しは分別を働かせてくれよ」
「そんな状態ですって!」エミリーは腕を振り払った。怒りのために声が高くなっている。「え? 昼間っからシェリーを二杯か三杯飲んだからって、あなた、あたしを酔っぱらい扱いするわけね? そんな状態ってどんな状態よ! いやあねえ、あたし、ウィスキーなんて、ボトルにさわったこともないのよ。あなただって知ってるでしょ、バーで強い酒をあおるような女じゃない。それをあなた、なんてこと言うのよ。ディナーの前のカクテル一杯だって飲んでないのに。あたしがときどきグラスに一杯だけ、シェリーを飲んだぐらいで。ね、おうかがいしますけど、それがそんなにみっともないことなの? そんな状態ってどんな状態よ?」
マーティンは、妻を落ち着かせるための言葉を探した。「ここだとふたりきりで落ち着いて食事ができるじゃないか。さあ、お嬢さん」エミリーがベッドの端に腰をおろしたので、彼はドアを開けると急いで部屋を出た。
「すぐ戻ってくる」
下へ降りて、夕食の支度に忙しく体を動かしながら、マーティンは、どうして自分の家族にこんな問題が起こってしまったのか、これまで幾度も考えてきた問題に、また心を奪われていた。彼自身、以前からかなり飲む方だった。妻とまだアラバマにいたころには、丈の高いグラスになみなみと注がれた酒やカクテルを、ごく当たり前のように何杯も重ねた。何年ものあいだ、夕食の前にかならず一杯か二杯――もしかしたら三杯ぐらいは飲んだし、大ぶりのグラスで寝酒もやった。休日の前の晩ともなれば、ふたりともかなりご機嫌になったし、いささか酩酊したこともあったかもしれない。だが、彼にとってアルコールは問題にはならなかったし、家族が増えるにつれて、家計を圧迫するようになった厄介な出費というだけだった。妻が明らかに酒を過ごしているのに気がついたのは、マーティンがニューヨークに転勤になってからである。昼のうちからもう杯を傾けていることも目立つようになっていた。
問題の所在が明らかになったところで、マーティンはなんとか原因をつきとめようとした。アラバマからニューヨークへ引っ越したせいで、精神がひどく不安定になったのだ。南部の小さな町の、家族やいとこ、子供の頃からの友だちを中心にして築かれた、のんびりと暖かな人間関係しか知らなかったエミリーは、北部のはるかに厳しく孤独な環境に順応することができなかったのだ。母親としてのつとめも家事も、エミリーにとってはわずらわしいばかりだった。パリス・シティへの里心がつのって、東部郊外で友人を作ろうとしない。読むものといえば、雑誌と推理小説だけ。内面の空虚は、アルコールででもごまかさなくては、どうにもならなかったのだ。
妻の酒の上での失敗があらわになるにつれ、マーティンもいつのまにか、前と同じようには妻を愛せなくなっていた。何度となく、自分にも説明のつかない激しい憎悪にかられ、アルコールが導火線となって、見苦しいほど怒りを爆発させた。生まれつきエミリーに備わっている、飾らない、素直な資質とは裏腹に、思いがけないほど野卑な面が潜んでいるのにぶつかったこともあった。酒を飲むことで嘘をつき、気づかれずに飲むためには、彼を騙すこともしたのである。
事故はそのころ起こった。一年ほど前、仕事から帰った彼を迎えたのは、子供部屋の悲鳴だった。お湯を使わせてもらったばかりの、濡れたまま、裸の赤ん坊をエミリーが抱いていた。赤ん坊が滑り落ち、まだ脆弱で傷つきやすい頭をテーブルの角にぶつけたところだったのだ。蜘蛛の糸のような一筋の血が、細い髪の毛のあいだを伝っていた。すすり泣くエミリーは、酩酊している。そのときマーティンは、この上なく尊い、傷ついた赤ん坊をそっとあやしながら、この先、いったいどうなるのだろうと暗澹たる気持ちに襲われたのだった。
翌日、マリアンヌはすっかり元気になっていた。エミリーは、もう二度と酒には手を触れないと誓い、数週間はしらふでこそあったが、気を滅入らせ、ふさぎこんでいた。それからまた始まったのだ――ウィスキーやジンではない――たくさんのビール、シェリー、外国産のリキュール。一度などは帽子の箱にペパーミントのリキュール、クレームドマントの空き瓶が隠してあるのを見つけたこともあった。
マーティンは家事全般を完全に任せられる、信頼できるメイドを見つけた。ヴァージーもアラバマ出身だったが、マーティンはニューヨークでメイドを雇おうと思えば、ふつうどれだけかかるものか、あえてエミリーに教えてやろうとはしなかった。エミリーの飲酒はいまではまったくの秘密となり、彼が家に戻る前にすべては終わっていた。たいていはその影響も、ほとんど気がつかないほど――動きがいくぶん鈍かったり、まぶたが重そうだったりする程度である。トーストにカイエンヌ・ペッパーをふりかけるようなめちゃくちゃをすることはめったになく、マーティンもヴァージーが家にいるあいだは心配しなくてすんだ。だが、そうはいっても彼の内に不安はつねにあって、いつしか予期せぬ事故が起こるのではないかという恐れが日々の底を流れていた。
「マリアンヌ!」あのときのことを思い出すと、矢も盾もたまらなくなって、安全でいることを確かめようと娘を呼んだ。小さな女の子は、とっくにケガも治っていたが、父親にしてみれば、だからといって、いささかも愛おしさが減じたわけではない。娘は兄と一緒に台所にやってきた。マーティンは食事の支度を続けた。スープの缶を開け、あばら付きの肉をふたつフライパンに入れる。それから食卓の椅子に腰かけて、マリアンヌを膝にまたがらせた。アンディは父親と妹を見ながら、週の初めからぐらついている歯を指で動かしていた。
「やあ、アンディ・キャンディ」マーティンは言った。「あの時代遅れのやつは、まだおまえの口にしがみついてたのかい? こっちへおいで、パパに見せてごらん」
「引っ張る糸を持ってるんだ」アンディはポケットからもつれた糸を取り出した。「ヴァージーがね、歯をこの糸でしばって、反対側をドアのノブにくくりつけて、ドアを思いっきりバタンって閉めなさい、って言ったんだ」
マーティンはきれいなハンカチを出して、ぐらぐらしている歯を念入りに調べた。「こいつは今夜にはアンディ君の口のなかから抜けるだろうね。さもなきゃ家族がひとり歯の木になっちまう」
「何だって?」
「歯の木だよ」マーティンは言った。何かに噛みついた拍子に、一緒に歯を飲み込んじゃうとするだろう。そしたらアンディ君のお腹のなかで歯は根っこを生やす。それから歯はどんどん伸びて、木になる。歯の木ってのは葉っぱの代わりにちっちゃな尖った歯が生えてるのさ」
「うへえ、パパ」アンディは言った。だが汚れた小さな親指と人差し指は、しっかりと歯をつかんだままでいる。「歯の木とかないよ。だっておれ、そんなん見たことないから」
「“歯の木なんてないよ、だってぼく、そんなもの見たことないからね”」
不意にマーティンの身に緊張が走った。エミリーが階段を降りてくる。ふらつく足音を聞きつけたマーティンは、恐怖に駆られて思わず小さな男の子を抱きしめた。部屋に入って来たエミリーに目をやると、仏頂面でひどく緩慢な動きをしている。どうやらまたシェリーのボトルを傾けたらしい。エミリーは引き出しを力まかせに引っ張り、食卓の準備を始めた。
「そんな状態だって!」はっきりしない声でそう言った。「あんたが言ったことよ。あたしがこの言葉を忘れるなんて思わないで。あんたが言った汚い嘘を、あたしは金輪際忘れやしないから。そのうち忘れるだろうなんて考えは捨てた方がいいわ」
「エミリー」彼は懇願した。「子供たちの……」
「子供たち――そうだわ! あんたが小汚い細工をしてるの、あたしが気がついてないと思ってた? ここであたしのかわいい子供たちを手なずけて、あたしから離れていかせようとしてるんだ。あたしが何も気がついてないなんて思わないでよね」
「エミリー! 頼むよ――頼む、上にいておくれ」
「そうやってあんたあたしの子供たちを手なずけて――あたしだけのかわいい子供たちを――」大粒の涙がふたつ、彼女の頬を転がり落ちた。「あたしのかわいい坊や、あたしのアンディを、あたしからそっぽを向かせようとしてるんだ」
酔いの衝動にまかせて、呆然としているアンディの前にエミリーはひざまずいた。子供の両肩に手をのせて、かろうじて体の均衡を保っている。「アンディ、よく聞いて――あなたのパパが言うような嘘っぱちに耳を貸しちゃダメよ? パパの言うことなんて信じてないわよね? ねえ、アンディ、ママが降りてくる前に、パパは何て言ってたの?」途方に暮れたような顔のアンディが父親を見上げた。「教えて。ママは知りたいの」
「歯の木のお話」
「何、それ?」
アンディが父親の言葉をそのまま繰りかえすと、エミリーは、怯え、信じられない、とでも言いたげな表情を浮かべ、オウム返しに言った。「歯の木?」体がぐらりと傾いて、もう一度子供の肩につかまり直した。「何の話をしてるんだかちっともわかりゃしない。だけど聞いて、アンディ、ママは全然大丈夫でしょう?」あふれた涙が母親の頬を濡らすのを見て、アンディは後ろに下がった。不安になったのだ。エミリーはテーブルの端につかまって立ちあがった。
「ほら! あんたがあたしの子供にあたしからそっぽを向くように仕向けたんだ」
マリアンヌが泣き出したので、マーティンは腕に抱き上げた。
「そういうことか。あんたは自分の子を取ったらいいわ。あんたって人は昔っからすぐにえこひいきするんだから。いいわよ。だけど少なくともあたしにはこの坊やを残しておいて」
アンディは父親の方へにじり寄り、その脚にふれた。「パパ」彼も泣き出した。
マーティンは子供たちを階段のところまで連れて行った。「アンディ、おまえはマリアンヌをお部屋に連れてってやれるね。パパもすぐ行くから」
「だけど、ママは?」アンディはささやくように聞いた。
「ママは大丈夫だ。心配しなくていい」
エミリーは台所のテーブルに身を預け、曲げた肘に顔を埋めて泣いていた。マーティンはスープをよそってその前に置く。あえぎながらすすり泣く声を聞いているうちに、彼の気持ちもなんとも落ち着かないものになっていた。その原因が決して褒められたものではなかったにせよ、子供たちに対する愛情を爆発させた彼女に、胸の奥のいつくしみの情を揺さぶられたのである。そんなことはしたくなかったはずなのに、エミリーの黒い髪にそっと手をのせた。「体を起こして、スープを飲むといい」顔を上げたその顔は、後悔と慈悲を請うような表情が浮かんでいた。アンディが二階へ上がったせいか、それともマーティンの手がふれたことで、気分が変わったのか。
「マ……マーティン」彼女は泣きじゃくっていた。「あたし、恥ずかしい」
「スープを飲みなさい」
その言葉に従って、あえぐ息の合間にスープをすする。二杯目のカップが空になると、夫に引かれて寝室へ上がっていった。いまはもうおとなしく言われるままになっている。マーティンがナイトガウンをベッドにのせて部屋を出ようとすると、アルコールによる精神的動揺のためだろう、また新たに悲しみが噴き出した。
「あの子、行っちゃった。あたしのアンディが、あたしを見て背を向けた」
いらだちと疲労のせいで声がとがってしまうのはどうしようもなかったが、それでも慎重に言葉を選んで話した。「きみはアンディがまだ小さい子だということを忘れちゃいけない――あんな場面を見ても、何がなんだかわかりゃしないよ」
「ねえ、あたし、そんな場面を見せちゃったの? ああ、マーティン、あたし、子供たちの前で“あんな場面”って言われなきゃならないようなことをしちゃったの?」
その怯えきった表情を見て、胸がまた揺さぶられかけたが、同時に、思いがけず笑いがこみあげそうになった。「もういいんだよ。寝間着に着替えて寝なさい」
「あたしの子供があたしに背を向けて行っちゃった。アンディがママの顔を見て、背を向けた……」
エミリーはまたアルコールによる悲しみの波にとらえられていた。マーティンは部屋を出ながら言った。「頼むから、もう寝ておくれ。子供たちも明日には忘れてるさ」
そう言いながら、ほんとうにそうなのだろうか、と彼自身がいぶかっていた。あの場面がそんなに簡単に記憶から滑り落ちていくものなのだろうか……それとも、無意識の底に根を張り、未来永劫、そこに巣くうのだろうか。 マーティンには何とも言えなかったが、あとの場合のことを思うと気分が悪くなった。エミリーのことを考える。一夜明けての惨めな気分が手に取るようにわかった。正常に戻った意識が、断片的な記憶をもとに、暗い忘却の底の恥辱に容赦ない光を浴びせかけるのだ。おそらくエミリーはニューヨークの事務所に電話を寄越すだろう。二度――もしかしたら、三度、四度と。マーティンにはそのときの自分のばつの悪い思いがいまから予想できた。事務所の連中は何か勘づくだろうか。秘書はずいぶん前から自分の抱えている問題を知っている。つかのま、彼は自分の運命を憤り、苦い思いをかみしめた。
だが、ひとたび子供部屋に入ってドアを閉めると、その夜初めて温かな思いに満たされた。マリアンヌは床にころんと転がってはひとりで立ちあがり、「パパ、見てて」と叫ぶ。また転がり、立ちあがり、繰りかえしながらかならず父親を呼ぶのだった。アンディは子供用の低い椅子に腰かけて自分の歯を動かしている。マーティンは浴槽にお湯を張り、洗面所で自分の手を洗ってから、アンディをバスルームに呼んだ。
「もう一回歯を見てやろう」マーティンは便器の蓋に腰をおろし、両膝でアンディの体をはさんだ。子供が口をあんぐりと開けたところで、マーティンは歯をつかんだ。ぐらぐらと動かして、すばやくきゅっとねじってやると、真珠のような乳歯が抜けた。最初、怖そうだったアンディの表情は、じき、びっくりしたような顔に、それからぱっとうれしそうな顔に変わった。アンディは水を口に含んでから、洗面台にぺっと吐きだした。
「見てよ、パパ! 血が出たよ。マリアンヌ!」
マーティンは子供たちを風呂に入れてやるのが好きだった。お湯のなかに立つ剥きだしのやわらかな裸体を見ていると、えもいわれぬほどのいつくしみがこみあげてくるのだった。エミリーは彼がえこひいきすると言ったが、それはおかしな言いぐさである。マーティンは息子のすんなりとかたちのよい男の子らしい体に石けんをぬってやりながら、これ以上はありえないほどの愛情を感じていた。
とはいえ、ふたりの子供たちによせる自分の感情の質が異なっていることを、認めないわけにはいかなかった。娘に寄せる愛は厳粛なもので、いくばくかの切なさと、痛みにも似たいとおしさが混ざっていた。男の子には、思いつくままのおかしなあだ名で呼んでいたが、女の子に対しては、マリアンヌと以外呼ばなかった。そうして、まるで愛撫するかのようにその声は発せられるのだった。マーティンは赤ん坊のまん丸いおなかや、かわいらしい小さな外陰部のひだを軽く叩いてふき取ってやった。洗ったばかりの子供たちの顔は、ふたりとも愛されて、ぱっと花びらが開いたように輝いていた。
「ぼくね、この歯を枕の下に置いとくんだ。二十五セントもらえるから」
「どうしてだい?」
「パパ、知ってるでしょ。ジョニーだって歯で二十五セントもらったんだ」
「だれがその二十五セントを持ってくるんだい?」マーティンはたずねた。「パパは夜中に妖精が残していくんだと思っていたんだけどな。だけど、パパの頃は10セントだった」
「幼稚園じゃそういうことになってるけどね」
「じゃ、誰が置くんだ?」
「親だよ」アンディが言った。「パパだ!」
マーティンは上掛けをマリアンヌのベッドにたくしこんだ。娘はもう眠っている。息を殺して身を寄せ、マリアンヌのおでこにキスをし、こちらを向いているちいさなてのひらにもキスをした。頭の横に手を投げ出して、すやすやと寝入っている。
「おやすみ、アンディ・マン」
むにゃむにゃという声がそれに応えた。そのまま一分ほどが過ぎ、マーティンは小銭を取り出すと、25セント硬貨を一枚、枕の下にすべりこませた。常夜灯だけにして、子供部屋を出た。
マーティンは台所をあさって遅い食事の用意をしながら、ふと、子供たちが一度も母親のことも、ふたりにはおよそ理解できないもめごとについても、口にしようとしなかったことを思い出した。いまという瞬間に夢中になっているうちに――歯や風呂や25セント硬貨――子供の時間は移ろい、流れてゆく。こうしたささやかなエピソードも、速い流れに運ばれてゆく浅瀬の木の葉のようなものなのかもしれなかった。そのあいだに大人の謎など、岸に打ち上げられ、忘れられていくのだろう。マーティンはそのことを神に感謝した。
だが、自分自身の怒り、押さえつけられ、これまで表に浮かび上がってこなかった怒りが、ふたたび頭をもたげた。彼の若さは、大量の飲酒という浪費のせいで、少しずつすり減っていき、壮年期の基盤さえもが、密かに崩されつつある。そうして、子供たちだ。いまはまだ何が起こっているかわからないことが免疫になっているが、その時期を過ぎてしまったら――もう一年かそこらしたら、いったいどうなるのだろう。テーブルに肘をついたまま、彼はうまいとも思わず、ただむさぼった。ほんとうのことを隠し通すことはできない――やがて、事務所でも、町でも、彼の嫁がふしだらな女だという噂は広まっていくだろう。ふしだらな女。そうして彼も彼の子供たちも、これから先、坂道をくだるように、ゆっくりと破滅への道をたどることになるのだろう。
マーティンはテーブルをぐいと押して立ちあがると、大股で居間へ入っていった。目は開いた本の行を追っていたが、頭のなかでは悲惨な情景がくりひろげられていた。川で溺れる子供たち、妻が往来で醜態をさらしているところ。寝る時間になるころには、激しい怒りが胸を圧迫する重しとなって、脚を引きずるようにして階段を上った。
部屋は暗く、半ば開いたバスルームから一筋の明かりが漏れていた。マーティンはそっと服を脱いだ。自分でもいぶかしいことに、彼の内にほんの少しずつ変化が生じていた。眠っている妻のやすらかな寝息が部屋に静かに響く。ハイヒールとそのかたわらの無造作に脱ぎ捨てられたストッキングが、音もなく彼に呼びかけているようだった。下着は乱雑に椅子の背に放り出したままになっている。マーティンはガードルとやわらかな絹のブラジャーを拾い上げ、しばらくそれを手にしてたたずんでいた。
その晩、彼が妻をちゃんと見たのはそれが初めてだった。彼のまなざしが、形のいい額やくっきりと弧を描く眉に注がれる。眉はマリアンヌにうけつがれていた。かたちのいい鼻が先だけちょっと反っているところもそうだった。息子には高い頬骨と、とがったおとがいの面影がある。妻は細身でありながら豊かな胸をしていて、その体はやわらかな曲線を描いていた。妻の穏やかな寝顔を見つめているうちに、これまでの怒りの名残りまでも消え失せた。いまはもう相手を責めたりとがめたりする気持ちとは、はるかへだたったところにいた。マーティンはバスルームの明かりを消して窓を引き上げた。エミリーを起こさないように気をつけながら、静かにベッドにもぐりこむ。月の光で最後にじっと妻を見つめた。彼の手は傍らの肉体を求め、このうえなく複雑な愛の作用によって、悲しみと欲望は同じものになった。
The End
まるでやもりのように
日本では1950年に庄野潤三が
家庭の危機というものは、台所の天窓にへばりつている守宮(やもり)のようなものだ。
それは何時からと云うことなしに、そこにいる。その姿は不吉で油断がならない。しかし、それはあたかも家屋の内部の調度品の一つであるかの如くにそこにいるので、つい人はその存在に馴れてしまう。それに、誰だってイヤなものは見ないようとするものだ。
という一節から始まる短篇『舞踏』を発表した。庄野の作品の表からは、やがてやもりは姿を消すが、マッカラーズの作品にはどれもこのやもりが姿を現している。まるで国は異なっても、家庭小説というのは「それぞれにちがう」この“やもり”を描いていくものなのだ、とでも言うように。
郊外の小ぶりな家に暮らす、まだ若さの残る有能な夫と美しい妻。愛らしく元気な子供たち。端から見れば非の打ち所のない一家なのに、やもりがしっかりへばりついているのだ。
マーティン・メドウズは、メイドのいない木曜日、一目散に家に帰り、部屋を片づけ、妻の面倒を見、食事を作り、子供たちの世話をする。酒浸りの妻に代わって、なんとか生活を成り立たそうと苦闘する。
今日は、カイエンヌ・ペッパーをトーストに振りかけるぐらいですんだ。だが、つぎにはいったい何が起こるかわからない。つぎにエミリーが何をしでかすか、子供がどんな事故に遭うか。大きくなっていく子供たちは、母親の姿に一体何を見ることになるのか。だが、その恐れをなし崩しにするただひとつの方法は、今日の生活をきちんと回していくことなのだ。食事を作り、子供たちを風呂に入れてやり、寝かしつける。マーティンは、そんな日々に自分の若さがすり減らされていくことに腹を立てているが、生きていくというのは、本来、そういう具体的なことどもを積み重ねていくなかにしかないのかもしれない。マーティンはまだ気がついてはいないが、誰の生活も同じように一寸先は闇であり、闇だからこそ、具体的な生活を積み重ねていくしかないのだ。
マッカラーズは子供たちの仕草、酔っぱらって、壊れたレコードのように同じことばかりを繰りかえすエミリーの言葉、食事の支度をするマーティンのようすなど、細かな描写を積み重ねていく。相手に腹を立てていて、まったく笑うような場面ではないのに、相手の言葉にふと笑いを誘われてしまう場面など、おそらくだれもが思いあたる経験があるはずだ。この短篇の魅力が、子供たちの愛らしさをはじめとした、こうした細部の描写にあることは言うまでもない。マッカラーズ自身は子供を持たなかったけれど、作品には子供がよく出てくる。抽象的な子供ではなく、丸く、独特の重さを持ち、暖かく、すべすべした皮膚と、細い絹糸のような髪の毛を持つ、肉体を備えた子供だ。おそらくその重さやにおいや、手ざわりをいつくしんだとしか思えないマッカラーズの描写は、わたしたちにその重さ、暖かさ、なめらかさにふれた記憶を呼び起こす。
誰かを大切に思う。その気持ちをつなぎとめておきたくて、「愛」という名詞を使う。いつのまにか、そこに「愛」なるものがあるかのように思えてきて、失ったり減ったり、なくしたり取り戻したりできるかのような錯覚がうまれてくる。
だが、「愛」も「憎しみ」も、言葉でしかないものなのだ。相手とのあいだに一瞬一瞬生まれては消えるもので、ときによって「愛」と「憎しみ」は同じものとなり、「悲しみ」と「欲望」は同じものになる。
マッカラーズはタイトルに「ジレンマ」とつけた。社会生活と家庭、飲酒する妻への憎しみと子供たちへの愛情、現在の生活と将来への不安、妻に対する愛と憎悪、主人公はさまざまなジレンマを抱える。だが、そのジレンマも、根を辿っていくと、ひとつのものなのだ。
一寸先は闇だからこそ、人は自分の気持ちを言葉につなぎとめ、相手との関係も、言葉につなぎとめて固定しようとする。だが、そもそも無理のあることで、その固定には困難がつきまとう。それでも。その困難を引き受けながら、一日、一日を積み重ねていくことが、先の見えない航海のたったひとつの羅針盤になっていくのかもしれない。
マッカラーズには "Who Has Seen The Wind?"(『誰が風を見たでしょう?』)という同じように酒の問題を抱え、若さを失い、危機に瀕した夫婦を描く1956年の短篇があるが、こちらには子供は出てこない。生活が安定したら、作るはずだった。だが、その安定は来なかった。代わりにアルコールがあいだに入ってきたのだ。それでも主人公はなんとか生活を続けようとする。食事の支度をしようと冷蔵庫を開ける。たとえそこにあったのが、何日も前のチキン・レバーの残りでしかなかったとしても。
やもりがそこにいること、そこからどこにも行かないことを知っていた庄野潤三は、やもりから強いて意識を背け、静かな、二重の意味で「有り難い」日々の生活を書き続けた。一方のマッカラーズは、やもりを見続け、やもりの出てくる作品を含め、多くはないが忘れがたい作品を残し、実質十五年ほどの短い作家生活を終える。
先のことはわからない。明日、今日と同じように太陽が上るかどうかすら、ほんとうはわからない。それでも、わたしたちは明日が当然来るかのように、今日をふるまう。胸の内の不安を「やもり」に託して。そちらを見ないようにして。
初出Nov.25-Dec.01 2008 改訂Dec.07, 2008
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