閉ざされたドア 前編


イーディス・ウォートンの短編"The Bolted Door"『閉ざされたドア』(※ブログ掲載時より改題)の翻訳をお送りします。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アメリカとヨーロッパを往来しつつ、さまざまな作品を発表したウォートン。映画『エイジ・オブ・イノセンス』の公開も記憶に新しいところですが、日本ではそれほど有名な作家ではありません。
邦訳は『エイジ・オブ・イノセンス』が新潮文庫で、同じ作品ですが『無垢の時代』というタイトルで荒地出版社から。あと『歓楽の家』『イーサン・フロム』も同出版社から出ています。
『閉ざされたドア』は未訳。
ウォートンの作品のなかでは比較的初期に当たる1910年刊行の"Tales of Men and Ghosts"に所収された作品です。
原文はこちらで読むことができます。

http://www.eastoftheweb.com/short-stories/UBooks/BoltDoor.shtml

少し長いので、全体の半分で前編と後編に区切ってあります。また、章の途中で部構成が変わっている箇所がありますが、これは原文にならっています。


『閉ざされたドア』

 

イーディス・ウォートン

I.

<1>

 心地よいランプの明かりに照らされた書斎を行きつ戻りつしていたヒューバート・グラニスは、足を止めて、暖炉の上の置き時計と腕時計をくらべてみた。
 八時三分前。
 もう三分もすれば、著名な法律事務所アスカム・アンド・ペティローのピーター・アスカム弁護士が、時間きっかりにアパートの呼び鈴を押すことだろう。アスカムが時間に几帳面で助かった。どっちつかずの状態は、グラニスの神経にとって、徐々に耐え難いものになっていた。呼び鈴の音は、最終幕が開く合図だ。これより先、二度と上がることのない幕の――神かけて、もう二度と。

 ふたたび部屋の往復が始まった。ドアの反対側まで来るたびに、フィレンツェ様式の鏡――以前ディジョンで見つけた年代物の上等なクルミ戸棚の上にかかっている――に映った自分の姿が目に入る。細身ですばやい身のこなし、念入りにブラシをかけた服を着込んではいるが、皺の刻まれた顔、こめかみには白髪が混じる。鏡に向かうと、いつも反射的に背筋を伸ばしてしまう猫背。疲れた中年男がいた。途方に暮れ、打ちのめされ、疲れ果てた男だ。

 そうやって自分の姿を見定めるのも三度目か四度目を数えたころ、ドアが開いた。安堵のあまり逆に胸を高鳴らせて、やってきた客を迎えようと振り返った。だが入ってきたのは、召使いただひとり、苔に覆われたようになめらかな古いトルコ絨毯の上を、音もなく近寄ってくる。
「アスカム様よりお電話がございました。急な御用が出来なさったそうで、八時半までお越しになれないとのことでした」
 落胆したグラニスは返事をする気にもなれない。反射的に動いてしまわないよう自分をコントロールすることが、だんだんむずかしくなっているのだ。きびすを返して背を向けたグラニスは、肩越しに言った。「結構。食事を遅らせてくれ」

 傷ついた召使いの視線が背中に痛い。旦那様は以前はいつだって、大変穏やかにお話になる方だったのに――グラニスの態度が変わったことは、みんなもう気がついていて、階下でもあれこれ取りざたしているにちがいない。おそらくはその原因にも薄々気づいているのだろう。ライティング・テーブルの前に立ってイライラと机を叩きながら、召使いが部屋を出ていく音がするのを待った。椅子に身を投げ出すようにして腰をおろし、両肘をついて、組んだ手の上に顎をのせる。
 あと三十分もたったひとりでこれに向き合わなければならない!
 アスカムは何の用事で遅くなったんだろう、と苛立ちまぎれに考えた。仕事上の用件であることは、まちがいなかろう。――時間に厳しい弁護士が、夕食の約束を遅らせるほどのことなのだ。ことにグラニスは手紙で「あとで仕事上の話があります」と言っておいたのだから。

<2>

 だが、こんな遅い時間に起こった仕事上の用件とはいったいなんだろう。
弁護士を呼ぶ惨めな人間がもうひとりいたということか。どのみち自分は、来てほしい理由をそれとなくさえ言ってはいないのだ。どうせアスカムは、遺言状にもうひとつ変更を加えたいんだろう、ぐらいにしか考えていないにちがいない。確かに自分は十年ほど前、小規模の地所を相続したときに、遺言状を飽くことなく手直しし続けた過去がある。

 

 不意に思い当たって、グラニスは思わず立ち上がった。血色の悪いこめかみに血が上ってくる。自分が六週間前、センチュリー・クラブで弁護士に言ったことばを思い出したのだ。
「ええ――わたしの戯曲は採用されたも同然なんです。契約を検討する段になったら、すぐにお電話しますよ。演劇関係の連中なんて、まったく信用ならない。間を取り持ってくれる人は、あなた以外考えられませんから」
もちろんアスカムは、会いたいと言っているのはその件だと思っているのだ。そのことを考えるとグラニスは、声をあげて笑い始めた。奇妙な、芝居に出てくるような笑い声、メロドラマに面食らった悪役が不意にあげる、はじけるような笑い声。そんなことをしている愚かしさと不自然さが恥ずかしく、グラニスは腹を立てて唇を固く引き結んだ。おつぎはモノローグでも始めるつもりか。

 左手を下に回してライティング・テーブルの上側の引き出しを開けた。右隅にはフォルダーに綴じてある分厚い原稿があり、結わえた紐の内側に、手紙が滑りこませてある。原稿の隣には、小型のリボルバーがあった。グラニスはこのふたつ、奇妙な組み合わせをしばらくじっと見ていた。紐の下から手紙を抜き出し、ゆっくりと開く。手が引き出しに触れたときから、自分がそうすることはわかっていた。視線が手紙をとらえたときは、抗うことのできない力が働いて、どうしても読み返さざるを得なくなってしまうのだった。

「ダイヴァーシティ・シアター」のレター・ヘッドの下には、四週間前の日付が入っていた。

親愛なるグラニス様

先月一杯、熟考を重ねた結果、これは使えない、上演することはできないと判断いたしました。ミス・メルローズとも議論いたしました。私どもの劇場には、敢えて博打を打とうとするものはおりません。残念ですがミス・メルローズも私と同じ考えです。ミス・メルローズが怖れたのは――私も同じ意見ですが――詩ではないのです。私どもは、詩劇ならば、上演に向けてできる限りのお手伝いをしたいと思っております。一般の人々も詩劇を待ち望んでいるでしょう。人々の待ち望むものを最初に提供する上での、財政上のリスクは、喜んで負うつもりでおります。けれどもこの作品が、待ち望まれたものであるとは思えないのです。実際のところ、あなたの戯曲には、詩を受け入れるためのドラマ性に欠けています。その欠点は全編を通じてのものです。着想はすばらしいのだけれど、未だ産着を着た赤ん坊の状態を脱してはいないのです。

  <3>

これがグラニスさんの書いた初めての戯曲なら、書き直してください、と言うかもしれません。けれども、これまで拝見した戯曲のいずれも、まったく同じなのです。グラニスさんも『風下の海岸』がどうなったかは覚えておいででしょう。制作費の一切をご負担してくださいましたが、あの作品は、たった一週間さえも劇場を満杯にできませんでした。おまけに『風下の海岸』は現代の問題劇でした。なんとかやっていこうと思えば、無韻詩よりもはるかに楽なのです。まだ試していらっしゃらない種類の戯曲がある、と言っているわけではないのです。……

 グラニスは手紙を畳むと、丁寧に封筒に収めた。なんでまた読み返したりしたのだろう。一行一行、すべて暗記しているというのに。一ヶ月前にこれを目にして以来、夜ごと、まんじりともできない瞼の裏側に、炎に包まれた手紙が浮かび上がってくるというのに。
「これまで拝見した戯曲のいずれも、まったく同じなのです」
 それがあいつらの、十年間休むことなく、精魂込めて書いてきた仕事に対する仕打ちなのだ。
「グラニスさんも『風下の海岸』がどうなったかは覚えておいででしょう」
 ちくしょう、忘れられるとでも思っているのか。いまになって抑えつけていた感情がどっとこみあげ、あらゆることがよみがえってきた。何度頼んでも上演を拒まれたこと、自分が費用を負担すればいい、自分が相続した遺産のうちの一万ドルを、成功のチャンスがあるかどうか試すために使うんだ、と突然決意したこと。熱に浮かされたように準備をし、舌が干上がるほど緊張した「開幕の夜」。さんざんな失敗。ばかげた報道。慰めてくれる友人を振り切って、こっそりとヨーロッパへ逃げ出したこと。

「まだ試していらっしゃらない種類の戯曲がある、と言っているわけではないのです」
 そうだ。確かに、どんな種類も試してみたのだ。喜劇、悲劇、散文体と韻文体、軽い前座劇、短く激しい劇、中産階級の生態をリアルに描いたもの、叙情的でロマンティックなもの……そうやって最後に、一般受けをねらって「自分の才能を売り渡す」ことはもうやめよう、自分の芸術理論を五幕の無韻詩劇の形式にして、世間を圧倒しよう、と決心したのだ。

 十年をかけたのだ……十年間、粘り強く取り組んできて、それが報われることなく終わったのだ。四十から五十にかけての十年間……人生最良のときではないか。さらにそれ以前の歳月、夢見るだけだった年月、吸収し準備することに費やした日々を勘定に入れるなら、人生の半分と言えるだろう。人生の半分を浪費してしまったのだ。

 ならば残り半分はどうしたらよいのだろう。そう、ありがたいことに、自分はそれを決めてしまったのだ。振り向いて、不安げに時計をちらりと見た。八時十分すぎ……たった十分間で、自分の半生を嵐のように駆け抜けたとは。このうえ二十分もアスカムを待っていなければならないのだ。グラニスの場合、交友関係が狭くなるのと反比例するかのように、どんどんひとりになるのを怖れるようになったことが、良くない傾向のひとつとしてあらわれていた。

 

 なぜ自分はアスカムを待っているのだろう。自分で問題を解決しようとしないのだろう。なにもかもに、ことばにできないほどうんざりしているのに、悪夢のようないまの生活から逃れるために、他人の力が必要なのだろう。

<4>

 グラニスはもういちど引き出しをあけて、リボルバーに手をかけた。小さく薄っぺらな象牙の玩具――疲労困憊した人が打つ、皮下注射のための注射器。一方の手でそれをゆっくりと持ち上げた。もう一方の手は、耳とうなじの間、後頭部の薄い髪の毛をかきわけて探っていく。銃口をどこにあてたらいいかは、正確に知っていた。以前、若い外科医に教えてもらったことがあったのだ。その場所を探りあて、リボルバーを持っていく。だがそこからどうしても進めない。

 拳銃を握る手がわななき始め、その震えは腕を伝って心臓に達し、鼓動を猛り狂わせ、喉元に吐き気となってこみあげる。弾薬の臭いは鼻を突き、弾丸が頭蓋骨を砕くさまを思うと胸が悪くなり、額から吹き出した冷や汗は、がくがく震える頬を伝って落ちるのだった。

 呪いのことばを吐きながらリボルバーを置き、香水をしみこませたハンカチを出して、震える手で額とこめかみを拭う。無駄なこと――そんなことなどできはしないのは、わかっていたではないか。自分に始末をつけようとすることも、名声を手に入れようとする努力と同じく、空しい企てだった。自分に真実の人生を歩ませることもできず、これまでの人生にけりをつけることもできない。だからこそ、アスカムに助けを求めたのだ……。

 アスカム弁護士は、カマンベールチーズとブルゴーニュワインが出てくるころあいに、自分が遅れたことを詫びた。
「使用人のいるところでこんな話をするのは気が引けるんだが……、実際、かなり奇妙な件で呼ばれたのです」
「そのことなら、気になさらんでください」グラニスは快活に言った。食事をすませ、連れができたことで、普段の応対に戻っていた。人生がふたたび喜ばしいものに感じられたわけではなく、単に自分自身を奥深くに引っ込めたにすぎなかったのだが。機械的に人づきあいをしていくほうが、自分のなかの奈落を人目にさらすことよりも簡単だった。
「夕食を待たせるなんて、まったくけしからんことですよ、とくにあなたのような芸術家の食事となると、なおのこと」アスカムは最高級のブルゴーニュワインをゆっくりと楽しんでいた。「実は、アッシュグローブ夫人に呼ばれたんです」
 グラニスはびっくりして、急に顔を上げた。一瞬、動揺のあまりに我を忘れた。

<5>

「アッシュグローブ夫人ですって?」
 アスカムは笑顔を見せた。「興味をお持ちになるとは思ってましたよ。世間の評判になるような事件には、たいそう関心がおありになることは知っていましたから。もちろんこれはまったく職務外の事件ですが――うちの事務所では犯罪事件は扱いませんからね。あの人は友人として私に意見を求めたのです。アッシュグローブは家内の遠縁にあたるのでね。それにしても、まったくのところ奇妙な事件ですな」召使いがまた入ってきたので、アスカムは急に口をつぐんだ。
「コーヒーはこちらでお召し上がりになりますか」
「いや、書斎へ持ってきてもらえないか」グラニスはそう答えると立ち上がった。先に立って、内密の話ができるカーテンで仕切られた部屋へ戻っていく。アスカムの話の続きに、興味が掻き立てられていた。
 コーヒーと葉巻が給仕されている間、グラニスはそわそわしながら、手紙にざっと目を通したり――ありきたりのどうでもいい手紙と請求書ばかりだった――夕刊を取り上げたりした。広げた夕刊の見出しに目が留まる。

 

ローズ・メルローズ、詩劇上演を計画
待望の詩人、見つかる

 胸をとどろかせながら、先を読んだ。あまり聞いたことのない若い作家の名があがっており、戯曲のタイトルに続く「詩劇」のことばが、目の前で踊った。グラニスは夕刊を落とした。気分が悪くなり、吐き気がした。本当だったのだ。それでは……ローズは「やる気」だったのだ。儀礼的にそう言ったのではなく、ほんとうにローズの信頼を得られなかったのだ。

 グラニスは、わざとぐずぐずしているようにさえ見える召使いに向かって、
「フリント、今夜はもう結構。戸締まりは私がしておこう」と言った。
 フリントのやつ、おとなしく言うことを聞いているような顔をしているが、実は驚いているんじゃないか。いったい何があるんだろう、旦那様は自分が邪魔になるようなことでもするのだろうか、などと。おそらくフリントは口実を見つけて、様子を見に戻ってくるだろう。突然グラニスは、自分がスパイの網の目に取り囲まれているような気がしてきた。

 ドアが閉じるが早いか、グラニスはアームチェアに腰を下ろし、アスカムの葉巻から火を借りようと身を乗り出した。
「アッシュグローブ夫人のことを話してください」ひび割れた唇から出たような、固い自分の声が耳に響いた。 「アッシュグローブ夫人ですか。さて、お話するようなことはそれほどないのですが」
「それは、話せない、ということですか」グラニスは笑顔を見せた。
「そうではないと思いますよ。実のところ、夫人は弁護士を選ぶためのアドバイスを求めてきただけです。内密にしておかなければならないようなことは何もないんですよ」
「で、どのような印象をお持ちになりましたか、夫人に会って」
「印象ですか。率直に言って、おそらくなにもわからないでしょうな」

<6>

「と言うと……?」グラニスはつぶやくと、葉巻をふかした。
「私の確信は揺るぎません。アッシュグローブを毒殺したのがだれであるにせよ、やり方を知っている者の犯行であることはまちがいない、そのことを考えれば、決して犯人はあがらないでしょう。それはそうと、これはすばらしい葉巻ですな」
「お気に召しましたか。キューバから取り寄せているのです」つられてグラニスも深々と吸い込んだ。
「それでは、賢い犯罪者は決して捕まらない、という説を信奉なさっている、というわけですな」
「もちろんそういうことです。ご自身の場合もそうだ。この十二年間というもの、重大な殺人事件が一件も解決されていない」アスカムは紫煙の向こう側でなにやら考えていた。
「たとえばご家族のことです。手元に資料があったんだが忘れてしまったな。ジョゼフ・レンマン老人が故殺された件を考えてみましょう。あの事件がいつか解明されるとお考えですか」

 アスカムのことばが続いている間、グラニスはゆっくりと書斎を見回していた。あらゆるものが、見慣れた、いやがうえにも馴染みになった顔つきでこちらを見返している。この部屋を見るのなんて、もううんざりだ。古女房の顔のようなものだ。ゆっくりと咳払いすると、アスカムの方に目を戻して言った。「私がレンマン殺害事件を説明してみましょう」
アスカムの目に火がともった。犯罪事件に寄せるグラニスの関心を、分かち合おうというのだ。
「なんとなんと。いままでずっと意見をお持ちだったのですかな。これまでおっしゃらなかったのが不思議だ。さぁ、どうぞお話になってください。レンマン事件のある側面は、アッシュグローブ事件にも似ていないとは言えませんな。ご意見が参考になるかもしれません」

 グラニスは口をつぐむと、その目は本能的に、ふたたびリボルバーと原稿が並んで収まっているテーブルの引き出しへと向けられた。ローズ・メルローズに別の戯曲を書いてみせたらどうなるだろう。それから机の上の手紙と請求書に目を転ずると、生活のほとんどを占める死んだような日常のあれこれ――来る日も来る日も同じ、ロボットのような仕草を繰り返す――が、儚い幻想を追い払った。

「意見ではないのです。ジョゼフ・レンマンを殺した人物を知っているのです」
 アスカムはゆっくり楽しもうと、楽な姿勢になってすわりなおした。
「ご存じだ、と。だれのしわざなんです」と笑った。
「わたしです」とグラニスは立ち上がった。
 目の前に立ったグラニスを、まじまじと見上げていたアスカムは、すぐにはじけるように笑い出した。
「ほほう、それはすばらしい。あなたが殺したんですと? おそらくは遺産を相続するため、ですかな? ますます結構。続きをどうぞ。秘密を打ち明けてください。一切合切、話してくだすってかまいません。告白は魂の平安に願ってもないことですからな」

<7>

 グラニスはアスカムが喉の奥から最後まで笑い声を絞り終えるのを待ち、片意地な調子で繰り返した。「私が殺したのです」
 ふたりはしばらくの間見つめ合ったが、こんどはアスカムも笑おうとはしなかった。
「グラニス」
「わたしが殺したんです。おっしゃるように、金のために」
 ふたたび沈黙が訪れた。グラニスは意識のどこかで楽しんでいることを漠然と感じながら、アスカムの表情が、楽しげなものから不安げなものへと変わっていくのを見ていた。
「何の冗談ですかな。よくわからないんだが」
「冗談ではないんです。ほんとうのことなんですよ。わたしが殺したんです」最初の苦痛に満ちた、喉から絞り出すような声音も、繰り返していくうちに、だんだん楽なものになっていた。
 アスカムは消えてしまった葉巻を口から離した。
「どうしたんです。どこかお悪いのですか。いったいどうしてしまったんです」
「まったく異常はありません。私がいとこのジョゼフ・レンマンを殺したのだし、殺したということを知っていただきたいのです」
「知ってほしい、と?」
「そのとおり。だからこそ、あなたをお呼びしたんです。生きるのに疲れた。自殺しようにも、怖じ気づいてしまってダメなんです」あたかも喉の奥にあったつかえがすっかりとれたかのように、グラニスのことばは淀みもせずに流れ出る。
「なんということだ、なんということだ」アスカムは喘いだ。
「ただ思うのは、これが第一級故殺であることは間違いありませんね? 告白すれば、まちがいなく電気椅子送りになりますね?」
 アスカムは長いため息を吐いた。それからゆっくりと言った。
「おすわりになってください。とにかく、話をお聞かせ願おうじゃありませんか」

II

 グラニスは自分の過去を、簡単なあらすじにまとめた。
 手始めに、大人になるまでのあらましをざっと語る――苦しい労働と貧困の歳月であったことを。
グラニスの父は、人好きのする人物だったが、「否」と言うことができないたちで、絶対に拒否しなければならない場面で「否」と言えなかったために、死後、非嫡出子と、抵当に入れられた地所を残したのだった。法律上の家族は、気がつけば巨額の負債に呑み込まれそうになっており、若きグラニスは、母と妹を養っていくために、ハーヴァードを辞めて、十八歳の身を株式仲介人の事務所に埋めなければならなかった。仕事は死ぬほどいやだったが、常に貧しく、心配事は際限もなく降りかかり、体調も崩してしまった。数年後母親が亡くなったが、まだグラニスの下には、治るあてのない神経衰弱を抱えた妹がいた。

 自分自身が病に臥せって半年休養しなければならなくなったあと、また仕事に戻ったのだが、これまで以上に懸命に働かなければならなかった。グラニスには、ビジネスのこつがどうしても飲み込めなかった。数字に暗く、商取引の勘所を押さえるということがまったくできないのだ。グラニスは海外へ行きたかったし、執筆がしたかった。このふたつを心底、願っていた。だが、不幸な歳月は続き、中年近くになっても、金を儲けることもできなければ、健康状態を完全に回復することもできず、病的なまでの絶望感に打ちひしがれていた。書こうとはしてみたけれど、仕事場から家に帰るころは、疲れ切って頭も働かない。一年の半分は、自宅のあるアップタウンに暗くなるまで帰れずにいた。帰ってからできることといえば、夕食の席に着くための「身繕い」と、そのあとで妹が単調な声で夕刊を読むのを聞きながら、寝椅子に横たわってパイプをふかすことだけ。夜、劇場に出かけたり、外食したりするのも、ごくごくまれなこと。さらにまれなことではあるが、ひとりかふたりの知人と、「快楽の場」として知られているところへ探索に出かけ、さまよい歩くこともないではなかった。

ある夏のこと、グラニスとケイトは、一ヶ月間海辺で過ごした。疲労困憊していたために、何日もうとうとと過ごしていたのだが、ある日、魅力的な娘に恋をした。だが彼女にいったい何を与えることができるというのか。おそらく娘もグラニスに好意を持っていたのだが、ふたりがともに礼儀正しかったおかげで、駆け落ちすることにもならなかった。どうやらグラニスの代わりになる者は現れなかったらしく、その後娘は結婚もせず、太り、白髪交じりになり、慈善事業に精を出すようになる。だが、彼女に初めてキスしたときの愛らしかったこと。
 浪費された人生が、そこにもひとつ、とグラニスは思い起こすのだった……。

 

<8>

 グラニスがなにより情熱を傾けたのは、舞台だった。戯曲を書く時間と自由が得られるのなら、魂とて売り渡したことだろう。舞台への情熱は、グラニスとともにあった。思い出せる限り、いかなるときも本能の深いところを占めていた。時が経つうち、その情熱は病的に、常に取り憑いて離れない妄想になりつつあった。だが年を追って、経済状態はますますそれを許さないものとなっていく。

気がつくと中年になっており、妹のやつれた容貌が、その間の推移を物語る。十八歳の妹は美しく、グラニスと同じくらい情熱に満ちていたのだ。それがいまや底意地の悪い、平凡で、取るに足りない女になっている。妹も、人生のチャンスをふいにしてしまった。しかも、可哀想なことに、ほんのささやかな望みを形にするのに必要な資産さえなく、そのチャンスさえ得ることができないでいる。中年となってさえ、もう少し、旅行ができたり、元気だったり、金があったりするだけで、妹もずいぶんちがってくる。若やいで、好ましい女になるのに、と思うと、グラニスは腹が立ってたまらない。経験から学んだ最大のことは、老けたか若いか、というのは、固定的な状態ではない、ということだった。健康か病気か、金持ちか貧乏か、によるのだ。老けたか若いかは、その人が手に入れた分け前の結果でしかない。

 ここまで話したグラニスは立ち上がってマントルピースにもたれ、身じろぎもせず、すわったまま一身に耳を傾けていたアスカムを見下ろした。
「それから私たちが、母の従兄弟であるレンマン老人が住むレンフィールドに行った夏が来ました。一族の誰かがかならず老人の世話をするんです。たいていは姪のうちのひとりがやっていましたが。けれどもその年は、みんなよそへ行くことになった。姪のひとりが、もし二ヶ月間、自分の仕事を替わってくれるなら、そのコテージをわたしたちに貸そうと申し出てくれたのです。もちろん、私にしてみれば、街から二時間もかかるレンフィールドは、煩わしいことでした。けれども亡くなった母は、一族のしきたりを、そりゃもう大切にしていましたし、老人にもいつも親切だった。私たちにお呼びがかかったのもあたりまえのことだったのです。それに、家賃も助かりますし、空気が良いところは、ケイトに良かったので。そこで、わたしたちは出かけたのです。

「あなたはジョゼフ・レンマンをご存じありませんでしたね。そうだな、アメーバみたいなある種の原生動物を、巨人が顕微鏡で覗いたような感じ、とでもいったらいいでしょうか。大きくて、境目がはっきりしておらず、動きも鈍い。私が覚えているのは、体温を測るのと『聖職者』という雑誌を読む以外、何もしなかったことですね。そうそう、メロンだ。メロン作りが趣味だったんです。高級種の、野外栽培できない種類のメロンです。レンマンはガラスの温室で育てていた。レンフィールドに何マイルもある温室を持っていました。広い自家農園のまわりを、キラキラ光る温室の大群が取り囲んでいました。全部メロンを育てていたんです。早生種、晩生種、フレンチ種、イギリス種、国産種、小型のものに超大型種、形も色も品種も、あらゆるものが揃っていました。メロンは子どものように、かわいがられ、大事にされていたのです。専門家が面倒を見ていました。メロンの熱を計ってやる医者がいたかどうかまでは定かではありませんが。なんにせよ、そこは温度計だらけでした。おまけにそのメロンは、そんじょそこらのもののように地面にごろごろしてるわけじゃないんです。ガラスの部屋で、ネクタリンみたいに扱われていました。実の重さに耐えられるように、四方から十分に陽も空気も行き渡るように、ひとつずつ網で吊り下げられていたんです。

< 9 >

「レンマン老人はメロンみたいだ、とよく思ったものでした――肉厚で青白いイギリス種、というところでしょうか。じいさんの命は、なんの感動もなければ動くこともなく、黄金の網のなかでぬくぬくと気持ちのいい空気を浴びて、下劣な地上の心配事から煩わされることもないままぶら下がっていたんです。生活の基本ルールは、自分を『煩わせないこと』だったんですよ。私にもそうするようにアドバイスしてきたのを思えています。ケイトの病気のことを話したことがあるんですよ、ケイトには気晴らしが必要だ、とね。『わしは絶対に悩むことのないよう、気をつけておるのだ』とかなんとか、悦に入って言うんです。『肝臓に一番良くない――なんじゃ、おまえにも肝臓があるとでも言うのか。まぁ、わしの言うことを聞いて、気持ちを前向きに持つんじゃな。おまえが幸せな気持ちでおると、ほかの者もそうなってくる』
じいさんがしなきゃならんのは、ただ、かわいそうな娘が休みの日をどこかで過ごせるよう、小切手を書くだけのことだったのに。

「なによりも辛かったのは、その金は、すでに半分、私たちのものだった、ということです。ケチなじいさんは、死ぬまで、私たちやほかの人間のものをただ預かっているだけだったんです。ところがやつの命は、私やケイトの命より、ずいぶん頑丈にできていた。おまけに待たせている私たちを笑いものにしたいのか、ことさらに気をつけていたんです。私たちの飢えた目は、やつにとって強壮剤なんだ、といつも思っていました……。

「ともかく、やつの虚栄心を足がかりに、なんとか取り入ることができないものだろうか、と思いました。おべっかを使って、さもメロンに興味があるかのようなふりをしてみたんです。やつはそれを真に受けて、何時間もメロンの講義をしてくれましたよ。晴れた日には、こまつきの椅子に乗って温室まで行くと、よたよたと中を歩きながら、後宮を行く太ったトルコ人のように、メロンをつついたり、流し目をくれたりしてましたっけ。メロンを育てるのに、どれほど金がかかっているか自慢しだしたのには、老いさらばえた胸が悪くなるような女たらしが、快楽のためにどれほど金を使うか自慢しているところを思い出しました。自分のメロンは、ほんのひとくちたりとて食べられない、もう何年も、食事はもっぱらバターミルクとトーストだけ、というのを聞いて、その連想は完璧だと思いましたね。
『じゃが、どのみちわしのたったひとつの楽しみじゃ。それに溺れていかんという理由など、どこにある?』と、感傷的なことを言っていましたっけ。この私は、自分のやりたいことなんて、これまで一度だって夢中になるほどやれたことがないというのにね。メロンを維持する費用だけで、ケイトとわたしは神のような生活ができたかもしれないのに。

「夏も終わりに近いある日でした。ケイトが、具合が悪くて、母屋まで身体を引きずっていくこともできない、午後からジョゼフじいさんの所へ行って相手をしてくれ、と頼んできたのです。気持ちのいい、穏やかな九月の昼下がりでした。ローマカサマツの下に寝ころんで、空を見上げながら、宇宙のハーモニーが心に浮かんでくるのにまかせたくなるような日だった。おそらくあることを思いついたのも、そのせいだったんでしょうね。
じいさんの趣味の悪い黒グルミ材でできた書斎に入っていこうとすると、庭師のひとり、ハンサムで声の大きなイタリア人が、私をなぎ倒さんばかりの勢いで、部屋から飛び出してきたんです。温室で何度も会っていたのに、会釈もしない、こちらを見ようともしないので、変だと思ったのを覚えています。

< 10 >

「ジョゼフじいさんは暗くした窓を背に、いつもの場所にすわっていました。太った手は、ぶくぶく膨れ上がったチョッキに差しこまれ、『聖職者』の最新号が手元に置いてありました。そのすぐ横には、おおきな皿に、まん丸いメロン――これまで見たこともないほどよく実ったメロンがあったんです。それを見て、じいさんをその気にさせることができるにちがいない、と考えて、有頂天になりそうでした。なにしろ頼み事をするつもりでしたので、運良くいい気分でいてくれて喜んでいたのです。そのとき、じいさんの表情に気がつきました。いつもの卵みたいにつるんとした顔が、歪んですすり泣いていたのです。私が入っていっても泣きやむ様子もなく、度を失ったようにメロンを指さしました。
『見てくれ、これを……こんな美しいものを見たことがあるか? こんなに実の詰まった、こんなにもまるまるとした……こんなにも美味そうな、滑らかな手触りをしたものを』
“これ”という代わりに“この女”とでも言いたげな口調で、老いさらばえた手を伸ばしてメロンを撫で回すのを、むりやりそしらぬ顔をしていなければなりませんでした。

「それからじいさんは何が起こったか教えてくれました。そのイタリア人は、メロン園のために特別に寄越された庭師でした。カトリック教徒を雇うなんて、じいさんの主義には反していたんですが、そのお化けメロンの面倒を見るために、特別に契約したんです。メロンの化け物というのは、ごく早い時期から、ほかのどれよりも肉厚で汁気の多いものになる、品評会では賞をかっさらい、土地の園芸紙に写真と賛辞が載るものになる、ってことが分かるんですね。イタリア人はよくやっていましたよ。責任感があったんでしょうな。とにかくその日の朝、メロンを選ぶよう命じられたんです。翌日の郡の農産物品評会に出品することになっていて、もぎたてのブロンド美人を、じいさんがじっくり愛でることができるように持ってこい、というわけです。ところが採っている最中、このカトリック教徒がなんたることか、落としてしまった。じょうろの尖った注ぎ口の上に落としたもんだから、固くて青くて丸いメロンは深手を負って、台無しになり、文字通り地に落ちたメロンとなったんです。

「じいさんは怒りのあまり、茫然自失していました。ぶるぶる震えているし、しどろもどろだし、息も絶えだえ、という具合でしたね。ちょうとイタリア人を呼びつけて、その場でクビにしたところだったんです。労賃も払わなけりゃ、つぎの雇い主への紹介状もなし。レンフィールドの近所をうろつきでもしたら、警察に捕まえさせてやる、と脅かした。『絶対にそうしてやるからな――ワシントンに手紙を書くぞ――金もないごろつきなど、強制送還させてやる。金があれば何ができるか、やつに目にもの見せてくれるわ』ってね。
十中八九、あくどいことばかりやっている黒手団がらみの仕業にちがいない、あいつがギャングの一味であることなんか、すぐにわかるだろう。ああいうイタリア人連中というのは、たった25セントのために人殺しをするんだ。警察を呼ばなくては……。
そのうちじいさんも自分が興奮しているのが怖くなってきたんです。『落ち着かなきゃならん』なんて言ってました。熱を計り、ベルを鳴らして飴を持ってこさせ、『聖職者』に救いをもとめようとしました。メロンが運ばれてくるまで、ネストリウス派の記事を読んでいたんです。じいさんが続きを読んでくれるように頼んだので、一時間ほど読んでやりました。薄暗い、空気のこもった部屋は、太った蠅が落ちたメロンのまわりでこそこそと羽音をさせているのが聞こえていましたっけ。

< 11 >

「その間ずっと、じいさんの言ったことが、メロンの周りを飛び回る蠅の羽音のように、頭の中でぶんぶんと鳴っていました。
『金があれば何ができるか、やつに目にもの見せてくれるわ』
そうなんです! じいさんにこそ、それが見せてやれたら。化け物のように肥大した自己意識の新たなはけ口として、じいさんが持っている力を使えば、人を幸せにしてやることだってできるんだ、ということを教えてやれるなら。
私は自分とケイトの窮状を訴えようとしました。自分が身体を悪くしていること、苦労している割にうまくいかない仕事のこと、書きたいという気持ち、名をあげたい、という思い……。つっかえつっかえ、借金を依頼しました。
『かならずお返しします。書きかけの戯曲を抵当にして』と言って。

「じいさんの冷たいまなざしはぜったいに忘れないでしょうね。卵みたいに滑らかな表情に戻っていました。膨れ上がった頬の上で、まるで滑りやすい城壁の上に立つ歩哨のようなじいさんの目が、こちらにじっと注がれてたんです。
『書きかけの戯曲か……。おまえの書いた戯曲が抵当とな?』恐ろしいものでも見たような、まるで私から狂気の徴候でも嗅ぎ取ったかのような目つきでしたね。
『ビジネスというものを、わかっておるかね?』と、口調だけは穏やかでした。
私は苦笑しながら、『いいえ、それほどには』と答えました。

「じいさんは後ろにもたれると、目をつぶりました。
『こう興奮させられ通しでは、わしは参ってしまう。失礼して昼寝の用意でもさせてもらうよ』
そうして私もイタリア人のように、よろめきながら部屋をあとにすることになったのでした」

 グラニスはマントルピースから離れ、部屋を横切って、デカンターと炭酸水が用意されているトレイのところへ行った。自分用に、丈の高いグラスに炭酸水を注ぎ、それを飲み干すと、アスカムの消えた葉巻に目を留めた。
「火をつけるのは、別の葉巻にしたほうがいいでしょう」

 弁護士が首を横に振ったので、グラニスは話に戻った。自分に取り憑いて離れない妄想のことや、レンマンが拒否した瞬間、殺意の衝動がどのように芽生えたか。やがてグラニスはこうつぶやいたのだ。「神様、あなたが手をお下しにならないのでしたら、私が代わりましょう」
グラニスの口調は、先へ進むにつれて、穏やかなものになっていった。まるでなすべきことが決まったとたん、激しい怒りも治まったかのように。こうして老人を「片付ける」にはどうしたらよいかという問題に専念することになった。そんなとき思い出したのは、老人の叫び声だ。
『ああいうイタリア人連中というのは、たった25セントのために人殺しをするんだ』
だが、具体的な計画は浮かばない。インスピレーションがわいてくるのを待つしかなかった。

 グラニスと妹のケイトは、メロン事件から数日して街に戻った。けれども休暇から帰ってきた従姉妹たちが、折にふれ、老人の状態を知らせてくれた。三週間後のある日、グラニスが家に帰ってみると、ケイトがレンフィールドからの知らせに興奮している。例のイタリア人がまた現れたらしいのだ。なんでも家に侵入して、書斎にまで入り込み、「脅し文句を吐いた」のだ、という。家政婦が、「何か恐ろしいもの」を見て、白目を剥いて喘いでいるジョゼフ老人を発見したらしい。医者が呼びにやられ、襲撃はひとまずけりがついた。警察はそのイタリア人に近隣一帯から立ち退くよう警告を出した。

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 ところがジョゼフ老人は、それ以来衰弱が「神経」に来て、トーストとバターミルクの食事を取っても味が分からなくなってしまった。ところが医者が別の医者を呼ぶと、こんどは診察が老人の楽しみとなり、ふたたび重要人物の気分を味わった老人は、興奮するようになった。医師団は家族に、まったく心配はない、と請け合った。元気すぎるほどだ。そうして、患者に対しては、もっと多様な食餌療法をするよう勧めた。つまり、老人に「食べたいと思ったもの」は何でも食べるよう、勧めたのである。そこである日、おそるおそる祈るような気持ちで、メロンの小さな一切れを食べることに決めた。儀式のように育てられたメロンは、家政婦や浮き立っている従姉妹たちの目の前で食された。そうして二十分後、老人は死んだ……。

「当時の状況を覚えておいででしょう」とグラニスは続けた。
「なぜ容疑者は、すぐに例のイタリア人ということになったのですか? 警察が警告を与えたにも拘わらず、『例の件』以来、屋敷の周りをうろつきまわっているのを目撃されている。噂では、台所の下働きと関係があった、ということなんですが、そうなると後のことは、簡単に説明がつきます。けれども警察が事情聴取のためにイタリア人を捜したが、見つからなかった――煙のように消え失せていたのでしたね。確かにレンフィールドから出ていくように『警告』はされていた。そうしてやつもその警告を受けとめたからこそ、だれもふたたびその姿を目にしなかった」

 グラニスはことばを切った。アスカムの向かいの椅子に腰を下ろすと、しばらくすわったままで頭を後ろに倒し、慣れ親しんだ部屋の中を逆さまに見た。何もかもが歪んで、見たことがないもののようだ。見慣れない、それぞれに自己主張するものたちが、首を伸ばして自分の話を聞こうとしているように思えた。
「メロンに薬をいれたのは私です」とグラニスは言った。
「私がそのことを後悔している、などと思わないでください。『自責の念』なんかじゃありません。わたしは吝嗇なじいさんが死んで、喜んでいるんです。ほかの人間の手にお金が渡ったのもうれしい。でも、私の遺産は何の役にも立たなかった。妹は悲惨な結婚をして、死んでしまいました。そうして私は、ほしいものをなにひとつ手に入れることができなかった」

 アスカムはグラニスから目を離さずにいた。やがて訊ねた。
「なら、あなたの目的は何だったんですか」
「ほしいものを手に入れたかったんです――夢見たものは、手の届くところにあった。気晴らし、休養、人生、私たちふたりのためのね――何よりも、私自身のために、書く機会がほしかった! 旅行はしました。健康も回復した。そうして家に帰って、机にかじりついて仕事をしたのです。十年間身を粉にして書き続けた結果、何の見返りももなく、微かな成功の希望さえ費えた。私の作品を見ようとする者はいないでしょう。いまや私は五十です。私は敗者だ。それもよくわかっている」グラニスはがっくりと肩を落とした。「何もかも終わりにしたいのです」そう言って、ことばを切った。

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III

 アスカムが帰っていったのは、真夜中過ぎだった。
 帰りがけ、グラニスの肩に手を置いて、
「地方検事なら縛り首にしてくれるかもしれませんがね、医者にかかってください。医者ですよ」と、大きな声でそう言うと、とってつけたような笑い声を響かせて、コートを羽織って出ていったのだった。
 グラニスはひとり書斎に戻った。まさかアスカムが自分の話を信じないとは、まったく思いもかけないことだった。三時間も説明したのに。微に入り細に入り、辛抱強く、痛々しいまでに、細部に至るまで繰り返し練習しておいたのに――だが、並大抵のことでは信じない弁護士の目だけは、一瞬たりともごまかすことはできなかった。

 初めのうち、アスカムは説得されているふりをしていた。だがそれも、と、いまになってグラニスにもわかるのだが、単に彼の本心をさらけ出させるためであり、論理破綻させるためにしかけた罠だったのだ。
 その企てがうまくいかなくなったので、つまり、グラニスがまごつくような質問にも、ひとつひとつ臆することなく向き合い、反論したので、突然仮面をかなぐり捨てて、愉快そうに笑いながらこう言ったのだ。
「グラニスさん、まだまだ立派な戯曲が書けますよ。あなたがこうしてお話してくださってることは、まったくたいしたものだ」

 グラニスは荒々しい仕草で向きを変えた。最後に戯曲を笑いものにされて、怒りに火がついたのだ。世界中がグラニスの失敗を共謀して嘲ろうとしているのだろうか。
「私がやったんです。私がやった」グラニスは苛立たしげにそうつぶやいたが、その怒りもあざ笑う他者の内側には通じないのだった。
アスカムは微笑みを浮かべてこう答えた。「幻覚症状について何か読んだことはおありですかな。法医学の文献で良い本を持っていますので、よろしければ一冊か二冊、届けさせましょう」

 ひとり残されて、ライティング・テーブルの椅子に腰掛けたグラニスは、縮み上がった。アスカムは、自分が気が狂ったと思っている。
「なんということだ。みんながおれを気違いだと思ったらどうしよう」
 冷たい汗がどっと出る。氷のような手で顔を覆って震えながらそこにすわっていた。だが次第に、千回も練習したときのように、ふたたび自分の話は疑念を差し挟む余地のないものに見えてきて、どんな刑事弁護士でさえ信じてくれるにちがいない、という気持ちもよみがえってきた。

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「問題は、アスカムが刑事弁護士ではなかった、ということだ。しかも友人だ。友だちにこんな話をするなんて、おれはなんと馬鹿だったんだろう。よしんば話を信じたとしても、そんなそぶりを見せるものか。本能的にすべてを隠蔽してしまうだろう……。だが、その場合……もしおれの言ったことを実際は信じたなら……精神病院に閉じ込めるのが親切だと考えたなら……」 グラニスはふたたび震え上がった。「なんということだ。専門家を連れてきたら……精神科医とかいう手合いだ。アスカムとペッティローの手にかかれば、どんなことだってできる。いつだって、何を言っても通るのだ。もしアスカムが、おれを収容した方がいい、とでも言ったことなら、明日から拘束衣を着せられることになるだろう。おまけにやつにしてみれば、親切でそんなことをするのだ――もしおれが殺人者だと信じたとしても、そうするのが正しいと思って」

 そのことに思い至ったグラニスは、心底凍りつきそうになった。爆発しそうなこめかみを、両の拳で押さえつけ、考えようとした。初めて、アスカムが自分の話を信じてくれなければいい、と願った。
「だが、信じたのだ……そうだ、信じたのだ。いまになってみればよくわかる。首を傾げて、おれを奇妙な目で見ていた。ああ、どうしたらいいんだ。どうしたらいいんだろう」
 顔を上げて時計を見た。一時半。アスカムがことは緊急を要すると考えて、精神科医を引きずり出して、一緒に戻ってきたらどうしよう。グラニスは弾かれたように立ち上がった。そのはずみに、テーブルから朝刊を払い落としてしまう。それを拾い上げようと機械的に腰をかがめたとたん、連想が生じた。

 もういちどすわり直して、椅子の脇のラックの電話帳に手を伸ばす。
「3−O−10……をお願いします。……はい」
  胸の内に浮かんだ新たな着想は、沈滞していたエネルギーに活を入れた。自分は行動を開始する。行動を、いますぐに。先の行動を計画することによってのみ、自分自身を逃れることのできない一連の行動に投げ入れることによってのみ、グラニスは無意味な日々のなかで自分を先に引っ張ってきたのだった。霧の垂れ込めた波の高い海に届く、穏やかな港の灯りのように、いつも新たな決断が胸の内に生まれた。長く苦しい日々のなかで訪れる、まったくちがった局面、こうしたつかの間の小康状態に、いつも助けられてきたのだった。

「調査部ですか。デンヴァーさんをお願いします。……やぁ、デンヴァー……そうだ、ヒューバート・グラニスだよ。……君がつかまって助かった。まっすぐ家へ帰るのかい? ちょっと君に会うことはできないだろうか……そうだ、いまだよ……話ができるかな。ちょっと急ぐんだ。……そうだ。第一級の『記事』を提供できるかもしれん。……いいとも」
グラニスは笑顔で受話器を置いた。調査部の編集長に電話すると思いついたことで、すっかり満足していたのだ。ロバート・デンヴァーこそ、自分が必要とする人間にほかならない。

 グラニスは書斎の電気を消し――機械的な動作がここまで頑固なことに、奇妙な気さえする――玄関ホールに出て、帽子とコートを身につけると、アパートを出た。ホールでは眠たそうなエレベーター・ボーイが、グラニスを見て瞬きをしたが、また、組んだ腕の中へ頭をがくっと落とした。グラニスは通りへ出て、五番街の角で徐行運転しているタクシーを呼び止め、アップタウンの住所を告げた。どこまでも伸びていく大通りは、墓地のなかの古い通り道のように、薄暗く、人気もなかった。

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 二人の男は握手を交わすと、デンヴァーは掛け金を手探りして鍵を開け、グラニスを明るいホールに案内した。
「邪魔じゃなかったかって? ちっとも。明日の朝の十時だったらそうだったろうが、いまがおれの一番元気な時間帯さ。昔からそうだったろう?」

 ロバート・デンヴァーと知り合ってから十五年になる。デンヴァーがジャーナリズムの階段を一歩ずつ上って、オリュンポスの頂上たる調査部の編集室にたどりつくまでを、グラニスはずっと目の当たりにしてきた。白髪頭でよく太ったデンヴァーは、飢えた目をして、家に帰る途中、戯曲に向かって奮闘しているグラニスのところへ「ぶらっと」寄っていた若い記者だったころの面影をほとんど残していなかった。帰路の途中にはグラニスのアパートがあり、窓に明かりが点ってブラインドに映る影を見てはなかへ入って、パイプを吹かしながら、森羅万象についてよくふたりで話し合ったものだった。

「おやおや……なんだか昔に返ったみたいだな。古き良き習慣の逆だが」デンヴァーは親愛の情をこめてグラニスの肩を叩いた。「おまえを引っ張り出した夜のことを思い出すな。それはそうと戯曲の方はどうなった? 戯曲があるんだよな。ほかの男に『赤ん坊はどうしてる?』と言うのと同じくらい、おまえにこのことを聞くのはまちがいのないことなんだよな」
 デンヴァーは人の良さそうな笑い声をあげ、グラニスはこいつもずいぶん太ったものだと考えた。グラニスのボロボロになった神経にさえ、デンヴァーのことばにまったく悪意がないことはわかっていたが、それも無価値な自分を際立たせることにしかならない。デンヴァーは自分が成功しなかったことなど知りもしないのだ。このことは、アスカムの皮肉より、グラニスにはこたえた。

「入れ入れ」そう言いながら、葉巻とデカンターのある小さな明るい部屋へ招き入れる。肘掛け椅子をグラニスの方へ押してきて、もうひとつの椅子に自分が腰を下ろすと、満足そうな声をもらした。
「さて、と。好きなようにやってくれ。で、話とやらを全部聞こうじゃないか」
デンヴァーはパイプの火皿ごしに笑いかけ、グラニスは葉巻に火をつけ、こう独り言を言った。
「成功した人間は満ち足りているが、時として愚かでもある」
 それから向き直ると、話を始めた。「デンヴァー、聞いてほしいことがあるんだ」
 マントルピースの上で、時計がリズミカルに時を刻む。小さな部屋はしだいに紫煙が垂れ込め始め、煙越しのデンヴァーの顔は、雲が流れる空に浮かぶ月のように、ところどころで霞んでいた。時を告げる鐘の音――ふたたびリズミカルなチクタクいう音。部屋の空気は次第に濃く、重いものになっていき、グラニスの額には、玉のような汗が浮かんできた。

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「窓を開けてもいいか」
「ああ、かまわんよ、空気がこもってるからな……いや、おれがやろう」
デンヴァーは上側の窓枠を下げると、自分の椅子に戻った。
「さあ、続けてくれ」ともうひとつのパイプを詰めながら促す。デンヴァーの落ち着き払った態度は、グラニスのカンにさわった。
「信じてくれないのなら、話をしても仕方がない」
デンヴァーは動じる気配もなかった。「信じてないとだれが言った? 終いまで聞かなきゃ、何も言いようがないじゃないか」

 グラニスは感情をあらわにしたことに気恥ずかしさを覚えながら、話を続けた。
「ごく単純な話さ。じいさんが『ああいうイタリア人連中というのは、たった25セントのために人殺しをするんだ』と言ったときから、一切をなげうって、ただ自分の計画に没頭した。まず、一晩のうちにレンフィールドを出て、戻ってくる方法をみつけなければならなかった。それには、車を使ったらどうだろう。車――だれでも思いつくんじゃないかな。どこから金を調達したのかと思うかもしれないが、ともかく、私は千ドルかそこらの貯金はあったんだ。そこで必要なものを見つけようと、あちこち探し回った。中古のレース用の車だ。運転のやり方は知っていたし、実際に試してみて、うまくやれることもわかっていた。景気が悪いときだったから、言い値で買うことができた。そうやって、よそへ隠しておいたんだ。どこかって? まあ、家族用ではない車を停めておく、何も聞かれたりしないたぐいの駐車場さ。私の従兄弟で元気のいいやつが、ドッジを練習させてくれたし、その奇妙な隠し場所を見つけるまで、孤児院の赤ん坊の世話でもするみたいに車の面倒を見てくれたよ。
それから一晩のうちにレンフィールドを出入りする練習を始めた。道はよく知っていた。その元気なやつと一緒に、よく走っていたからね。深夜に走ることも慣れていた。距離は90マイルを超えているし、三回目の走行で、二時間を切ることができた。ただ腕が痛くて、次の朝服を着るのに苦労したがね……。

「それで、イタリア人が脅かした、という知らせが来てから、すぐに行動しなければならないと思った。じいさんの部屋へ侵入して、撃ち殺し、逃げることを考えたんだ。それには大きな危険が伴うけれど、自分ならなんとかやってのけるだろう、と思ったんだ。それから、やつが病気だ、診察を受けている、という知らせだ。運命が味方してくれたにちがいない、だったらなんとしてもやらなければ! と思ったんだよ……。

< 17 >

 グラニスはことばを切って、額の汗を拭った。窓を開けていても、部屋は涼しくならないようだ。
「じき、じいさんの状態がましになった、という知らせが来た。そのつぎの日、仕事から帰ってみると、ケイトが笑いながら、じいさんがメロンをひときれ、食べることになった、と教えてくれたんだ。家政婦からの電話があったらしい。レンフィールドは大騒ぎだ、と。医者みずからがメロンを選び出したらしい。小さなフレンチ種で、大きめのトマトと同じくらいの大きさのものらしかった。じいさんはそれを明日の朝、朝食に食べるんだと。

「すぐに、チャンスだ、と思った。これ以上はないほど、完璧なチャンスだ。レンマン家のやり方はよくわかっていた。家に持って帰ったメロンは一晩置いておくにちがいない。食料貯蔵庫の冷蔵庫のなかで。冷蔵庫のなかにひとつしかないんだったら、目指すメロンはすぐにわかる。屋敷では、メロンがどこにでも転がっているわけではなかった。ひとつずつ識別されて、番号がふってあり、分類されていたのだ。じいさんは使用人がメロンを食べてしまうのではないか、という恐怖に取り憑かれていて、それを防ぐために、あらかじめ百もの方策を取っていたからな。そう、だから目指すメロンはまちがいなくわかると思った……それに、毒殺の方が射殺より安全だと思ったのだ。じいさんの寝室に入り込み、やつが騒ぎ立てて家の者を起こさないようにするのは、悪魔でもなきゃできることじゃない。だが、ただ食料貯蔵庫に侵入するだけなら、たいした苦労はいらない。

「しかも、その夜は曇っていた。なにもかもが都合が良かった。落ち着いて食事を終えると、机に向かう。ケイトはいつもの頭痛が出て、早くに休んでしまった。ケイトが寝室に下がるや、私は家を抜け出したんだ。変装道具を持ってね。赤毛のつけひげと、丈の長い妙な外套だ。それをカバンに押し込んで、駐車場に向かった。駐車場には、会ったこともない、ほろ酔い加減の修理工がひとりいるだけだった。それもまたありがたかった。修理工はしょっちゅう入れ替わっていたし、その新参者は、その車がおまえのものか、とかなんとかうるさく聞いてくることもなかったからね。とにかくそこは呑気な場所だったんだ。

「ともかく、私は車に飛び乗って、ブロードウェイを北へ向かい、できるだけ急いでハーレムを出られるように車を走らせた。暗かったけれど、自分を信頼して速度をぐんぐんあげた。森影に入るとほんの短い間だけ車を停めて、ひげと外套を身につけた。それからすぐにまた走り出す。レンフィールドに着いたのは、十一時半だった。

< 18 >

「レンマン家の地所の裏手の暗い小道に車を置いて、家庭菜園をこっそり抜けていった。闇の中でメロンの温室がきらっと光った。メロンも私が何を知りたがっているかわかってるんだ、と思ったのをよく覚えているよ……。
厩舎の脇で犬が唸りながらやってきた。でもにおいで私がわかると、飛びついてきたが、すぐに戻っていった。家は真っ暗だった。屋敷ではだれもが十時には寝てしまうんだ。だがうろついている使用人がいるかもしれない。台所の下働き女中がイタリア人を引き込むために、降りてきていないとも限らない。もちろんその危険は冒さなければならなかった。
足音を忍ばせて裏口にまわり、植え込みに身を潜めて耳を澄ました。屋敷の中は静まりかえっている。私は反対側へ渡って、食料貯蔵庫の窓をこじ開けて、よじ登った。ポケットの小型懐中電灯を出すと、帽子で覆いをして、冷蔵庫までそろそろと進んだ。ふたを開けると……そこには小さなフレンチメロンがあった。……たったひとつだけ。

「じっと耳を澄ました。きわめて冷静だったよ。それから薬の瓶と注射器を取り出して、何箇所かに注射した。なかでの仕事を全部終えるまでに、三分もかからなかっただろう。十二時十分前には車に戻っていた。なんとか音をさせないように車を小道から出して、村沿いの裏道に入り、できるだけ急いで村から出ようと走った。途中、一度だけ停車して、池につけひげと外套を沈めた。重石のために大きな石を用意しておいたんだ。そいつは死体みたいに膨らんで沈んでいったよ。それから二時には戻った私は机に向かっていた」

 グラニスはことばを切って、煙で霞むデンヴァーの方を見やった。だが、相変わらずデンヴァーはとらえどころのない表情のままだ。
 ついにデンヴァーが口を切った。「なんでそのことを話す気になった?」
 グラニスは驚いた。アスカムにしたのと同じような説明を繰り返そうとしたが、不意に思った。もし自分の動機が、弁護士さえも納得しかねるものだったとすれば、ましてデンヴァーを納得させることはできないだろう。ふたりとも成功した人間だし、成功した人間には敗者の屈折した苦悩など理解できまい。グラニスは新たな理由を急いで探した。

(以下後編へ)






初出Jan.18-26, 2005、改訂Feb.8, 2005