『閉ざされたドア』(後編)


< 19 >

「まあ、その……自分が苦しんでいるのは……後悔、たぶんそういうものじゃないかと思うんだが……」  デンヴァーは空のパイプを打ちつけて灰を落とした。
「後悔だって? 笑わせるなよ」力強い声が返ってくる。
 グラニスの気持ちは沈んだ。「後悔……と言ったところで、信じてはくれないんだろうな」
「これっぽっちもな。君は行動の人だろう。後悔ということばがそのまま信じられるような人間なら、とてもそんなことを計画して、しかもやり遂げられるとは思えない」
 グラニスは唸った。「そうだ……。後悔だなんて嘘だ。ちっとも思ってやしない」
 詰め直したパイプを加えるデンヴァーの口元は、疑わしげに引き結ばれていた。「なら、動機はなんだ。動機がないはずはない」

「これから話すよ……」グラニスは、練習したとおりに戯曲の失敗と生きていくことが嫌になったことを話し始めた。「こんどは信じない、なんて言ってくれるなよ」哀れっぽくどもってみせながら、話を終えた。
 デンヴァーは考え込んでいる様子だった。「そんなことを言うつもりはない。奇妙なことはこれまでずいぶん見てきた。いつだって人生から降りたいという理由はあるものだ。驚くのは降りずにいることに、そりゃたくさんの理由があることのほうだよ」

「書くことにうんざりした、ということを信じろと? ああ、信じるよ。それから君に引き金を引く度胸がない、だって? とんでもない。そんなこと簡単さ。だが、それだけをもってして、君が殺人者だと断定することはできない――君は絶対にやってない、ということも証明できないが」
「やったんだよ、デンヴァー。正真正銘」
「かもしれん」なおも考えていた。「少し聞きたいことがあるんだが」
「なんでも聞いてくれ。遠慮なしに」グラニスは無意識のうちに笑い声をあげていた。

「よし。君の妹さんに、いったいどうしたんだろう、と思わせずに、どうやって試運転を何度も繰り返すことができたんだ? あのころの君の夜の習慣はよく知ってる。夜遅く出かけることなんてまずなかった。習慣を変えることで、妹さんは驚いたりしなかったのかね?」
「驚いてない。というのも、そのときは出かけてたんだよ。レンフィールドから戻ってすぐのころ、ケイトは田舎のほうの知人のところへよく会いに行っていたんだ。その前にこっちにいたのは一晩か二晩だった――前というのは、私が例のことをやる前ということだが」
「それで、その晩は頭痛がして、早くに休んだんだな?」
「そうだ。ひどく痛んだらしい。だからそうしたことには全然気がつかなかったんだ。それに妹の部屋は、アパートの裏手にあったし」

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 デンヴァーはふたたび考え込んでいるようだった。「それで、君が戻ったとき……妹さんは何の物音も聞いてないんだな? 君は気づかれずに家に戻った?」
「そうだ。すぐに仕事に戻ったよ。出かけたときに中断したところからまた始めたんだ。そうだよ、デンヴァー、君は覚えてないか」グラニスの語調は、急に熱っぽいものに変わった。
「覚えてる?」
「そうだよ、私はどうしてた? 君が来たとき――あの夜、二時か三時の君のいつもの時間だったな?」
「そうだ」デンヴァーはうなずいた。
 グラニスはちょっと笑ってことばを続けた。「着古した部屋着、それにパイプだ。一晩中書き物をしていたみたいだったな、そうじゃなかったか? ところが実際は、十分かそこらしかそこにいなかったんだ」
 デンヴァーは組んでいた足をほどくと、もういちど組み直した。「君が何を覚えていると言っているのかわからないんだが」
「なんでわからない?」
「おれが行ったのが、その晩――というか、つぎの日の夜明け前だったんだな」

 グラニスは椅子に座ったまま、ぐるりと向きを変えた。「そうだよ! だからこそ私はここにいるんじゃないか。君が審問で証言してくれたからだよ、じいさんの相続人全員があの晩何をしていたか調べられていたときに――その晩、家に寄ったら私がいつもどおり机に向かっていた、と証言してくれたのは、君じゃないか。もしほかの事件がなかったら、あのことはさぞかし君のブンヤ魂に訴えたことだろうと思うんだがな」
 デンヴァーは笑顔になった。「もちろんおれのブンヤ魂は、さびついちゃいないさ。なるほど、そのアイデアは独創的だな。アリバイを立証した人間に、こんどは罪があることを認めさせようっていうのは」
「それ、それなんだよ」グラニスの笑い声には、勝ち誇ったような響きがあった。

「なら、もうひとりのやつの証言はどうなるんだ――あの若い医者だよ。なんという名前だった? ネッド・ラネイだ。おれが証言したのを覚えてるか。高架駅でそいつに会ったんだ。おれがこれから君のところでパイプを吹かしに行く、と言ったら、そいつは『いいですね、あの人はいましたよ。二時間ほど前に家の前を通りかかったら、いつものように、ブラインドに影が映ってましたから』と言ったんだ。それに、道の反対側のアパートに住んでいた、歯の痛い女性のこともある。その人も医者の証言を裏付けたんだったな」
「ああ、その証言も覚えているよ」
「で、それについては」
「簡単なことさ。出かける前に部屋着とクッションで、急造の人型を作ったのさ、ブラインドに影が映るようにね。夜更けに自分の影を見ている連中がいたのは知っていた――そういう人を頼りにしたのさ。どんなあやふやな影でも、何か映ってさえいれば自分だと思ってくれるだろう、とね」

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「簡単なことだと言ったな。だが、その歯が痛い女性は、その影は動いたと言っていたぞ――前へかがんだ、ちょうど、居眠りでもするみたいに、と」
「そうだ。彼女はまちがっていないよ。人形は動いたんだ。たぶん、とくべつ重たい荷馬車か何かが、もろい建物にぶつかるかどうかしたんだよ、とにかく人形に衝撃が加わった。だから私が帰ってみたら、人形は前のめりになっていた。半身を机に突っ伏すようにして」

 ふたりの間に長い沈黙が訪れた。デンヴァーがパイプを詰め替えるのを、グラニスは胸をとどろかせながら見ていた。なんにせよ、こいつはあざけったりバカにしたりすることはなかった。結局、人生に起こりうる摩訶不思議なできごとに関しては、法律より、ジャーナリズムのほうが深い洞察ができる、ということなのだろう。人間を突き動かす衝動は数限りなく存在する、ということを、あらかじめわきまえているせいだろうか。
「で、どうだろうか」グラニスは口ごもりながら言った。
 デンヴァーは立ち上がり、肩をすくめる。「あのなあ、いったいどうしたんだ。全部白状しちまえよ。神経がイカレちまったか。おれが知ってるやつに、会いに連れて行ってやろうか。元プロボクサーだがな。不思議なことに、そいつはおまえみたいに自分の穴の中に入り込んじまってるやつを、引っ張り出してしま……」

「なにを言うんだ……」グラニスは最後まで言わせず立ち上がった。そのままふたりはにらみ合う。「信じてくれないんだな」
「そんな大ボラをどうやったら信じられる? アリバイに穴なんかないんだぞ」
「だからいま、どれもこれも十分説明したじゃないか」
 デンヴァーは頭を横に振った。「君がどうにかして信じさせようとしていることに気づかなかったなら、もしかしたら信じたかもしれん。それがネックになったな」
 グラニスはうめき声をあげた。「そんなつもりはない。私が有罪になりたがっているとでも言うのか?」
「あたりまえじゃないか。もしだれかが君を告発したのだったら、その話だって捜査する必要があったかもしれないがな。実際、子どもでも思いつきそうな話じゃないか。君の作り話の才はたいしたものではないな」

 グラニスは不機嫌な顔でドアを出ようとした。議論してどうなるというのか。だが戸口まで来ると、急に気が変わった。「デンヴァー、たぶん君が正しいんだろう。だが、たったひとつでもその証拠があるか? 私の陳述を調査員に見せてやってくれ。言ったとおりの陳述を。バカにしたければしたらいい。ほかの人間にも、私のことを知らない人間にも、機会を与えてやってくれ。そうした人間が議論したり検討したりできるようにしてほしいんだ。君が信じようが信じまいが、そんなことはちっとも気にかけちゃいない。大陪審が納得してくれればそれでいいんだ。私のことを知っている人間を来させないでくれ。君が疑っていると、まわりにも伝わってしまうからな。うまい話だとは思ってないさ。最初から信用してもらえないんじゃないかと思っていたからな。結局その話では、自分自身さえ納得させられなかったってことさ。君が納得できないのもそのせいだ。悪循環ってやつだな」グラニスはデンヴァーの腕に手をかけた。
「速記者をよこしてくれ。私の陳述を記録させてくれ」

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 デンヴァーはいい顔をしなかった。
「あのとき、あらゆる証拠が徹底的に調査されたのを忘れてしまったようだな。考えられるかぎりの手がかりが追求されたじゃないか。君がレンマンを殺したと世間が考える条件は、十分揃っていた。君か、ほかの誰かがな。世間は殺人者を知りたがっていた。一番ありそうもない人間だってかまわなかったんだ。だが、君のアリバイは完璧だった。いま話してくれた内容で揺るがすことなんか、できっこないさ」デンヴァーは自分の冷たい手を、相手の燃えるように熱い指に重ねた。「さあ、家に帰ってもうちょっとましなものにするんだな――そうしたら、また来るといい。そのときは調査課に出してやるよ」

IV

 玉のような汗がグラニスの額からしたたり落ちる。数分ごとにハンカチを出して拭かなければならなかった。
 地方検事にこの事件を訴え出てからすでに一時間半、落ち着いて話を進めてきていた。幸いアーロンビー検事とは、会えば挨拶を交わすぐらいの面識はあったので、ロバート・デンヴァーと話をしたその日のうちに、さしたる苦労もなく個人的に会うことができたのだった。
家へ帰って服を着替えると、朝まだき、早々に家を後にした。アスカムが精神科医を連れて来たらどうしよう、と、いても立ってもいられなかったのだ。差し迫る危険をかわす唯一の方法は、良識があり公平な人物に、自分の有罪を立証してもらうことだけだ。たとえこれほど人生に絶望していなかったとしても、いまや電気椅子だけが拘束衣を逃れる唯一の道であるような気がした。

 額の汗をぬぐうためにことばを切ったグラニスは、アーロンビー検事が腕時計に目を走らせたのを見逃さなかった。仕草の意味を悟ったグラニスは、訴えるように片手をあげた。
「なにもいま、信じていただけるとは思っていません。けれど私を逮捕して、事件を調査してもらえないでしょうか」

 アーロンビーは白髪まじりの濃い口ひげの下で、微かに笑った。血色が良い顔は、活気にあふれてはいたが、専門家の鋭い目も、ひとの気持ちを察することにかけては、厳正なプロとは言いがたいようだ。
「ともかく、あなたをいますぐに収監する必要があるとは思いません。もちろんあなたの陳述を検討することはお約束しますが……」
 助かった、という思いが、急激に胸にこみあげてきた。自分を信じていなかったら、そんなことは絶対に言うまい。

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「わかりました。もうお引き留めはしません。いつでも私は自分のアパートメントにおりますから」そう言うと住所を渡した。
 地方検事はこんどはさっきより親しげな顔になって微笑んだ。
「今夜、一時間か二時間、お出かけになる気はありませんか? レクターでちょっとした夕食会を開くんです。ほんのささやかな集まりですよ。ミス・メルローズもお出でだ。ミス・メルローズはご存じですよね、あとは友人がひとりかふたり。もしいらっしゃるのでしたら……」

 自分がどんな回答をしたかもはっきりとは意識しないまま、グラニスはよろめくように部屋をあとにした。
 四日間待った。恐怖に満ちた四日間だった。最初の二十四時間、アスカムの精神科医が来たらどうしよう、という懸念が片時も離れることがなかった。それが過ぎると、こんどは自分の告白を聞いても何も感じなかった地方検事のことが、腹立たしくてたまらなくなってきた。もし捜査するつもりなら、どう見積もっても、もっと前に聞きに来ているはずだ……。おまけに夕食会に誘うなど、自分の話をいかに何とも思ってないか、はっきりと示しているではないか。

 有罪になろうとこれ以上続けても意味がないのではないか、と、無力感が襲う。自分は生きることに鎖でつながれてしまった――「意識の囚人」。この文句をどこで読んだのだったか。ともあれ、彼はその意味するところを学んだのだった。

まんじりともできない夜、燃えるような頭に、これが自分だという強烈な意識、これ以上削りようのない、確固とした「自我」が、いままで感じたことがないほどはっきりと感じられる。しかもその意識は、いつの間にか現れて、逃れることもできないのだ。心というものがこれほどまでに、自己を認識したり、暗く曲がりくねった自身の奥底を見通したり、という込み入ったことをやってのけるとは、いままで考えたこともなかった。しばしば、なにものかにまとわりつかれている、手や顔や喉の奥に何かがしがみついている、という感覚に、短い眠りを破られた――頭がはっきりしてくるにしたがって、それは自分自身の大嫌いな部分、分厚い粘着性の物質のように、自分に張りついている性格の一部だったことがわかるのだった。

 朝のまだ早い時間、窓際に立ったグラニスは、通りが目覚めるのを見ていた――道路を掃除する者、ゴミ集めの荷車を引いていく者、黄ばんだ冬の朝の陽のなかを、せかせかと脚を運んでいくみすぼらしい労働者たち。あのなかのひとりだったら――だれでもいい、あのなかのだれかになって、自分のチャンスに賭けてみることができるなら。みんな労働者、哀れな運命を抱えている人々だ。利他主義者や経済学者が言う、嘆き悲しみ、不満をくすぶらせる犠牲者だ。だが、もし自分自身の重荷を振り落として、その代わりにあのなかのだれかの重荷を背負うことができたら、どんなにうれしいことだろう。だが、そんなことはできないのだ……彼らもまた強固な自意識を抱えている。だれもが自分の醜いエゴと手錠でつながれているのだ。だれかほかの者になりたいなどと願ってなんになろう。ただひとつ、絶対的に正しいのは、存在をやめることだ……。
そこにフリントが風呂に湯を満たすために入ってきてたずねた。朝食はスクランブル・エッグになさいますか、それともポーチド・エッグになさいますか? 

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 五日目にグラニスはアーロンビーに宛てて、緊急の用件であることを告げる長い手紙を書いた。つづく二日間は、もっぱらその返事を待って過ごした。手紙が届いたそのときを逸するのが怖くて、自宅からほとんど出ることもないほどだった。 地方検事は手紙を寄越すだろうか。それとも、その代理の者、警官や「秘密捜査員」、あるいは想像もつかないような法の密使を送ってくるのだろうか。

 三日目の朝、フリントがそっと――まるで主人が病気ででもあるかのように――読みもしない新聞を広げていたグラニスのいる書斎に入ってきた。フリントは名刺が載ったトレイを差しす。
 名前を見ると、J.B.ヒュースンとあり、その下に鉛筆書きで「地方検事局より」と走り書きがある。胸を高鳴らせて立ち上がり、通すよう、身ぶりで命じた。

 ヒュースン氏は華奢で顔色の悪い、目立たない感じの五十がらみの男だった。人ごみのなかで、かならずひとりはいる見本のような人物である。
「刑事として成功するタイプだな」グラニスは握手しながらそう思った。
 ヒュースン氏はその外見にふさわしい簡単な自己紹介をした。地方検事に言われて「内密の話」をグラニスさんとしに来たんです、レンマン殺害の件で出した陳述を、もういちどお話していただけませんか。

 ヒュースンの態度が非常に落ち着いており、合理的かつ柔軟なものだったので、グラニスの自信はふたたびよみがえってきた。仕事を知っている男だ――あのバカバカしいアリバイを見破るぐらい、わけはないだろう。グラニスはヒュースンに葉巻を勧め、自分でも一本火をつけた――自分の冷静さを証明するために。そうしてもういちど話を始めたのである。

 先へ行くにつれて、これまでよりずっとうまく話していることをはっきりと感じた。まちがいなく、練習が功を奏したのだ。さらに、聞き手が距離を置いた公平中立な態度を取ってくれたこともありがたかった。ヒュースンは少なくとも、頭からグラニスの言うことを信じまいと決めてかかってはいないようだったし、信用されていることが伝わってきたおかげで、これまでより明晰で、首尾一貫して話すことができた。そう、今回のグラニスの話は、確かに説得力があったのである……。

V

 グラニスはうらぶれた通りを絶望的に端から端まで見やった。隣には、突き出した目が光る若い男が立っている。滑らかな肌をしていたが、ひげそりは滑らかとはいかなかったらしい顔が、にこやかに微笑んでいた。青年の機敏な目がグラニスの視線の先を追いかける。
「番地はおわかりですね?」と、元気のいい声で聞いた。

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「ああ――104だった」
「それじゃ新しい建物が立ったから、その番地はなくなったんです。きっとそういうことなんでしょう」
 青年は頭をうしろにそらして、半分出来上がったレンガと石灰岩づくりのアパートメントの正面を見上げた。いまにも倒れそうな安アパートと厩舎の家並みにつづいて、薄っぺらな気品を張りつけた建物が立とうとしている。
「その番地でまちがいはないんですね」
「そうだ」グラニスは落胆して答えた。「万が一、ちがっていたとしても、その駐車場はそこのレフラーの店の真向かいにあったんだ」そう言って、向かいの朽ちかけた厩舎を指さした。染みだらけの看板には『馬の貸し出しと預かり』と書いてあるのがかろうじて読める。
 青年は通りを走って渡った。「そうですね、あそこでその駐車場の手がかりが、なにか見つかるかもしれません。レフラーの店――あそこと同じ名前だ。駐車場の名前は覚えてるんでしょ」
「もちろん、はっきりと」

 グラニスはエクスプローラー誌の「もっとも頭の切れる」記者の協力を得てから、ふたたび自信を取り戻していた。自分で自分の話が信じられないかぎり、だれもが信じずにはいられないような話でも、信じない人間は出てくる。
ピーター・マッカランが目を凝らして耳を傾け、質問し、手早くメモを取るのを見ていると、安堵の気持ちで胸がいっぱいになった。すぐさまこの事件に「ヒルのように」――とは、彼自身の弁である――飛びついたマッカランは、喜び勇んで話に応じ、興奮気味に本気で取り組む、「ここから事実の最後のひとしずくまで搾り取るつもりです。それが終わるまでどこにも行かせやしませんからね」と約束するのだった。
いままでグラニスの話を聞いても、だれもこんな態度は取らなかった。アーロンビーから寄越された刑事も、メモさえ取らなかったのだ。しかも刑事が来て一週間が経っても、検事局からは何の音沙汰もない。どう見ても、アーロンビーもこの件から手を引いてしまったのだ。
けれどもマッカランは手を引かないと言う――彼だけは! 嬉々としてついてきたマッカランと、昨日は丸一日一緒に過ごし、いったん別れた後、ふたたび証拠を追うためにやってきたのだった。

 だがレフラーの店では結局、何も得られなかった。そこはもう貸し馬屋を営んではいなかった。取り壊しが裁判所命令で決まっており、判決から施行までの間、雑多な物置場、壊れた台車やカートの隔離所になっていたのだ。そこの管理をしている耄碌しかけた老婆は、向かいのフラッド駐車場のことなど何も知らない――いま建築中のアパートの前に、何が建っていたかさえ、記憶にはないようだった。

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「まあそのうちどこかでレフラーも捕まえられると思いますよ。もっと大変な仕事だってやったことがあるんですから」いささかも気落ちすることなく、マッカランは明るく言った。
 六番街に向かって通りを戻りながら、少しだけ自信のなさそうな口ぶりでつけ加えた。「そのシアン化物の入手経路を教えてもらえれば、そこからつきとめていくのは、ぼくが引き受けるんですがね」
 グラニスの気持ちは沈んだ。そう――そこが弱点なのだ。自分でも最初からわかっていた。だがいまだに、毒物のことがなくてもこの事件をマッカランに納得させることができるのではないか、と考えてもいたので、もういちど家へ戻っていっしょにわかったことをまとめてみないか、と熱っぽく誘った。
「すいません、グラニスさん、オフィスでやらなけりゃならないことがあるんです。それに、取りかかる新しい材料もないのに、そんなことしても仕方がないでしょう。明日か明後日、おうかがいしますよ」
 マッカランは路面電車に飛び乗ると、わびしげに見送るグラニスをそこに残して去っていった。

 二日後、ふたたびアパートメントにマッカランはやってきたが、溌剌とした表情はいくぶん翳っていた。
「さて、グラニスさん、詩人のことばを借りれば、“星のめぐりは汝が身に良からず”です。フラッド駐車場の足跡が消えちゃってるんです。おまけにフラッドを通じて、車も売っちゃったんでしたよね?」
「そのとおりだ」グラニスはうんざりして言った。
「だれがそれを買ったんでしょう、ご存じですか」
 グラニスは眉をひそめた。「ああ、フラッドだ――そうだ、フラッドが自分で買い戻したんだ。私が三ヶ月使ったあとで、もういちどフラッドに売ったんだ」
「フラッド? またあの野郎か。ぼくはフラッドを、街中捜し回ったんですよ。ああした業種っていうのは、それこそ地面に呑み込まれでもしたみたいに消えちまうんだ」
 意気消沈したグラニスは、ことばもなかった。
「これで毒物に戻ることになりましたね」マッカランはそうことばを続けて、ノートを取り出した。「もういちど、話してもらえますか」

 

 グラニスは話を繰り返した。
当時、毒物を手に入れることはとてもたやすいことだった。おまけに自分はその痕跡をうまく闇に葬ったのだ。
毒殺することに決めると、すぐに知り合いのなかに、だれか化学薬品の製造に携わっている者がないか探した。ジム・ドーズというハーヴァードの同級生が染色業界にいた。おあつらえむきにね。だが、土壇場になって、どう考えても容疑は条件をすべて備えている自分に、まっさきに向かうだろうということが頭に浮かんで、もう少しあからさまではない方法をとることにした。
友人の中に、キャリック・ヴェンという医学生がいた。不治の病に冒されていたために、仕事に就けずにいたんだ。趣味というのが物理学の実験で、簡単な実験室を持っていた。当時、日曜日の午後はそこを訪ねて葉巻を吹かすことにしていたのだが、ヴェンはいつも、ストイフェサント・スクウェアの古い屋敷の裏に建てた実験室に腰を落ち着けていたよ。実験室の端には中味の詰まった薬品棚があり、劇薬の棚もあった。
キャリック・ヴェンは風変わりな男で、その好奇心は休む暇もなかった。だからヴェンのところには、日曜日ともなると、訪れた人でよくごったがえしていたね。ジャーナリストや三文文士、画家のような、さまざまな表現形式を実験している人々の愉快な集まりだったんだ。
出入りする人間があまりに多いので、気がつかれないうちに部屋を移るのなんて簡単だった。ある日の午後、ヴェンがまだ戻っておらず、ほかの人間もいなかったのを幸いに、戸棚からこっそりと薬品を取り出し、ポケットにしまい込んだのだ。

< 27 >

 だがそれも十年前のこと。気の毒なヴェンが長引く病気で亡くなってからずいぶんになる。ヴェンの父親もまた亡くなって、ストイフェサント・スクウェアの屋敷は下宿屋に変わってしまった。移り変わるニューヨークのなかで、名もない人々のささやかな歴史など、スポンジが水を吸うように跡形もなく吸い取られてしまったのだった。楽天的なマッカランでさえ、薬物から証拠をつかむのが絶望的だということは理解したようだった。
「これで三番目のドアまで目の前で閉まっちゃっいましたね」ノートをぱたんと閉じると、のびをして、明るく好奇心に満ちた目を、グラニスのしかめ面から離して休ませた。

「失礼だけど、グラニスさん――お話の弱点はおわかりでしょうね?」
 グラニスはがっくりと肩を落とした。「ありすぎるほどだ」
「そうですね。でも、なによりも弱い点がある。何でまたこんなことを明るみにしたいんです? なんでまた自分から進んで縛り首の輪の中に頭を入れようとするんですかね」
 グラニスは絶望的な目を向けた。この頭の回転が速く、軽妙で不遜なマッカランを、どうしたら納得させることができるだろう。元気のいい獣のような生命力に満ちあふれている者はだれも、死への渇望が動機だ、などと言われても信じはしないだろう。頭をしぼってもっと説得力のある説明を考えようとしたとき突然、マッカランの表情が和らぎ、うぶな感じやすさが表れた。

「グラニスさん……これまでずっとその記憶に苛まれてきたんですか」
 一瞬、目を見張ったグラニスは、すぐにそのことばに飛びついた。「そうなんだ……その記憶が……」
 マッカランは、熱心にうなずいた。「自分のやったことがどこまでもつきまとってくるんですね? 夜も眠れなかった? 告白すべきときが来たと思ったんですね?」
「告白しなければいけないと思ったのだ。わかってくれるかね?」
 記者は握り拳でテーブルをドンと叩いた。「当然です。暖かい血が一滴でも通う人間ならだれだって、身を苛む怖ろしいまでの後悔を想像できないはずがありません」

 マッカランのケルト民族としての想像力に火がついた。グラニスは胸の内で彼のことばに感謝する。アスカムもデンヴァーも、このアイルランド人記者が飛びついた動機に納得などしなかった。確かにマッカランが言うように、ひとたびなるほどと思わせる動機を見つければ、事件が困難であればあるほどそれが刺激になって、がんばろうという気になるものなのだ。
「後悔――後悔」そのことばを舌先で転がしながら、心理学研究の端緒ともなった大衆演劇のアクセントで繰り返してみる。その一方でひねくれた気持ちで独り言ちた。「もしこの発音だけで人を感動させることができるのなら、すぐにでも六つの劇場を満員にできるだろうに」

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 このときからグラニスには、マッカランの好奇心を感情の側から満たしてやれば、仕事にもいっそう熱を入れることがわかった。そのうえ一緒に食事をしてからミュージックホールか劇場へ行くというおまけまで手に入れたのである。
自分が相手の関心の対象であると感じること、相手の心の中に映った自分の姿を確認することが、グラニスにとって必要になっていた。マッカランの注意を事件に釘付けにすることに、後ろめたい喜びを感じていたのである。さも道徳的に苦しんでいるかのような、苦悶の表情を浮かべてみせるのは、胸躍るゲームのようなところがあった。もう何ヶ月も劇場には足を踏み入れていない。だが、マッカランの視線の先にいたいという気持ちに支えられて、なんの意味も感じられない舞台を前に、しかつめらしく寛大な態度で最後まですわっていたのだった。

 幕間にマッカランはグラニスを楽しませようと、観客の逸話を聞かせた。観客全員を知っていて、その外観に隠された秘密を教えてくれる。グラニスは辛抱強く耳を傾けていた。その種のことにはとうに興味はなくしていたが、マッカランの興味の中心にはグラニスがおり、どんな話も間接的に自分に関係してくることを知っていたのだ。
「向こうの人を見てください――三列目に小さくて干からびた感じの人がいるでしょう、口ひげを引っ張っている。あの人の回想録は、出版する価値があるでしょうね」マッカランは最後の幕間で急に言い出した。
 視線の先を追ったグラニスは、それがアーロンビーのオフィスからやってきた刑事であることに気がついた。一瞬、目の前が真っ暗になるような、ゾッとするような感覚に襲われた。

「“シーザー、もし彼が話すことができたなら――”」マッカランは語調を変えた。「どなたかもちろんご存じですよね、ジョン・B・ステル博士です。国内でも最大の精神鑑定医だ」
 グラニスはハッとして、目の前に並ぶ頭の間から、もういちどよく見ようと身を乗り出した。「その男というのは――通路から四番目の? それはちがうんじゃないかな。あれはステル博士じゃないだろう」
 マッカランは声をあげて笑った。「そりゃ法廷で何度も見てるんですから、顔を見ればわかります。精神鑑定が必要な大きな事件ともなると、ほとんどあの人が証言してるんですから」
 身震いするような冷たいものがグラニスの背筋を伝ったが、グラニスは頑固に繰り返すばかりだ。「あれはステル博士なんかじゃない」
「博士じゃないって? おやおや、ぼくは知ってるって言ってるのに。こっちに来ますよ。もし博士じゃなかったら、ぼくなんかと話したりしないから」
 小柄な干からびた男はゆっくりと通路をこちらに向かってやってきた。マッカランの側まで来ると、軽く目礼する。
「こんにちは、ステル先生。相変わらずガリガリですねぇ」マッカランは明るい調子で悪態をついた。J・B・ヒュースンは笑顔でそれに応え、歩み去った。

< 29 >

 グラニスは痺れたようにすわっていた。まちがえようがない。アーロンビーが自分のところに寄越した男だ。精神科医が刑事に化けていたのだ。では、アーロンビーも正気を疑っていたのだ――自分の告白を狂人の繰り言と受け取ったほかの人間と同じように。これを知ったグラニスは、心底怖ろしくなった。精神病院が大口を開けて、自分を待ちかまえているのが見えるような気がした。
「あの人にたいそう似ている人間を知っているんだが――J・B・ヒュースンという名の刑事だよ」
 だが聞く前からマッカランの答えはわかっていた。「ヒュースンですって? J・B・ヒュースン? そんな名前の人間は聞いたことがないなあ。だけどあれはJ・B・ステルでしたよ、名前を聞いてすぐに自分のことだとわかったし、それに応えたのをあなただって見たでしょう」

VI

グラニスが地方検事の口から直接事情を聞くことができるまで、数日を要した。アーロンビーに避けられているのか、と思いかけたところだった。
 だが、実際に顔を合わせてみると、いささかも困惑している様子のない明るい表情をしている。椅子を勧めると、机から身を乗り出して、顧問医師が患者を励ますような笑みを浮かべた。

 

 すぐさまグラニスはまくしたてた。「先日あなたが寄越した刑事は……」
 アーロンビーは手をあげてなだめようとする。
「……わかってるんですよ。精神鑑定医のステルだ。どうしてそんなことをしたんです、アーロンビー」
 相手は動じない。「まず最初にあなたの話を調べてみました――ところが何も出てこない」
「ほんとうに何も?」グラニスは乱暴にことばをはさんだ。
「まったく何も。もし証拠があるんだったら、いったいどうしてそれを持ってきてくれないんです。あなたがピーター・アスカムに話をしていたのも知っています。デンヴァーにも、それから『エクスプローラー』の小僧っ子、マッカランにもね。だれか事件を立証してくれる人がいましたか? だれもいない。となると、わたしはどうしたらいいんでしょう」

 

 グラニスのくちびるは震え始めた。「それでもなんであんな、私をぺてんにかけるようなまねをしたんです」
「ステルのことを言ってるんですね? そうする必要があったんです。それも私の仕事の内でね。それに、ステルは刑事でもあるんですよ、もしそのことをおっしゃっているのなら。鑑定医はみんな」
 くちびるの震えは一層激しくなり、その震えが顔全体に拡がって、あごががくがくとわなないた。乾いた喉の奥から、むりやり笑い声を押し出す。「ほほう……で、やつはいったい何を嗅ぎつけたんです」
「あなたから? ステルはオーバーワークだって言ってましたよ――過労と過度の喫煙。いつか博士のオフィスをちょっとのぞいてごらんになったら、あなたのような症例の記録を何百と見せてくれるでしょうね。それにどういった治療が必要か、アドヴァイスもしてくれるでしょう。幻覚症状のもっともありふれたもののひとつですよ。まあそうはいっても、おひとつ葉巻でもどうぞ」

< 30 >

「だが、アーロンビー、私はほんとうにあの男を殺したんだ!」
 机に広げていた地方検事の大きな手が、ほとんど気がつかないくらいに微かに動いた。するとその直後、呼び鈴に応えたかのように事務員が顔をのぞかせる。
「失礼、グラニスさん。人を大勢待たせてるんです。いつかの午前中、ステルのところへ行ってください」アーロンビーはそう言って、握手をした。

 マッカランは自分には手に負えなくなった、と認めないわけにはいかなかった。アリバイに何の穴も見つけることができなかったのだ。雑誌の仕事が忙しくて、これ以上解決しようのない謎にかかずらわって時間を無駄にすることはできないと、グラニスを訪れるのもやめてしまった。こうしてグラニスは深い孤独のなかに落ち込んだのである。
アーロンビーのところへ行ったあと一日、二日は、ステル博士の影に怯えていた。精神鑑定医の診断を、アーロンビーが偽らなかったとどうして言えるだろう? もし自分がほんとうは刑事ではなく、精神科の医者に尾行されていたとしたら。真相を確かめるために、ただちにステル博士を訪ねる決心をした。
 博士はグラニスを親切に迎え入れ、前回の会見を悪びれる風もなく振り返った。
「そういうことが必要な場合もあるのですよ、グラニスさん。手段のひとつとして。で、あなたはアーロンビーを脅かしたそうですね」

 グラニスは何も言わなかった。彼としては自分の罪をもういちど言明した上で、以前ステルと話したあとに考えたことも含めて、新たに話し合ってみたかったのだ。だが、あまりにしつこく言って発狂の徴候と受け取られでもしたら大変だ、と思って、ステルがそれとなく言ったことを、笑顔で受け容れるふりをした。
「では先生は、精神疲労であるとお考えなんですね――それ以上のものではない、と」
「そうです。そのうえで、タバコをお止めになったほうがよろしいでしょう。相当にお吸いですね」

 

ステルは治療法を説明し始めた。マッサージや体操、旅行、そのほかさまざまな種類の気分転換を推奨し、……しないと、……が不足すると……。
 辛抱しかねたグラニスが遮った。「そんなもの、どれも大嫌いだ。旅行なんてうんざりです」
「ふむ。なら、もう少しスケールの大きな趣味はどうでしょう。政治とか、社会改革や慈善活動に携わられては。なんでもいい、ご自身の外に関心を向けられることです」
「はいはい、わかりましたよ」グラニスはうんざりしてきた。
「なによりも、意欲を失わないことです。あなたのような症例は何百と見てきたんですから」ステルは敷居のところまでくると、明るくことばを添えた。

 

 戸口の階段に立ち止まってグラニスは笑った。自分のような症例を何百も、か。殺人を犯した男、罪を告白した男、そしてだれにもそれを信じてもらえない男の症例を。世界中探したって、一例だってあるわけがなかろう。芝居のなかで使えば、さぞやおもしろい象徴になるだろう。人間の良心を理解できない、偉大なる精神鑑定医!

< 31 >

 グラニスはそのタイプの人間から、喜劇が生まれる多大な可能性を感じた。
 そこから歩いていくうちに、感じていた恐怖も氷解し、やがて、ものうい感覚が戻ってくる。ピーター・アスカムに告白して以来、初めてやることがなくなってしまった。この数週間というもの、必要に迫られて休むことなく行動を続け、ここまで来た。そうして自分の生活はふたたび淀み、沈滞する。街角にたたずみ、通り過ぎる人並みを見つめながら、緩慢な意識を抱えて、自分はどのくらいの間、耐えていられるのだろうか、と打ちひしがれた思いで自問してみた。

 ふたたび、自分で自分に片をつける、という考えがよみがえる。だが、グラニスの肉体は、そうした考えを受けつけようとしないのだ。他人の手による死を願ったのに、その願いもかなえられない。
自分の肉体が一線をどうしても乗り越えられないばかりでなく、グラニスを踏みとどまらせているのには、もうひとつの理由があった。自分の話が正しいことをなんとしても証明しなくては、という激しい情熱に取り憑かれていたのである。いいかげんな話をする夢想家として片付けられたくはない。たとえその結果、自分を殺すことになったとしても。自分が死に値する人間だということを、社会に証明するまでは、死ねないのだ。

 新聞社宛に長い手紙を書いた。だが、第一回が掲載されて解説が載ったあと、検事局から短い声明が出されると、世間の関心も霧散し、手紙の残りが印刷されることもなかった。
アスカムが、後生だから海外にでも行ってください、と言いに来た。ロバート・デンヴァーも立ち寄って、冗談を言ってはグラニスを妄想から解き放とうと試みた。だが、彼らのもくろみがほかにあるのでは、と疑うグラニスは、ステル博士がふたたびやってくることを警戒して、自分の口を固く閉ざすのだった。

外に出ることを禁じられたことばは、頭のなかでつぎつぎと新しいことばを生み出していき、まだいくらでも出てきそうだった。彼の「内なる自我」は活発な議論が生まれる場所となり、長時間に渡って、自分の犯行をもとに練り上げた声明を、声に出して言ってみては、書きつけた。休むことなく声明に加筆を続け、練り上げていったのだ。だが、こうした活動も、聞く者もいないところでは、無視され、忘却の淵に沈められてしまうような感覚が生じるのはいかんともしがたく、徐々に停滞していった。
憤慨のあまり、たとえ別の犯罪を犯すことになったとしても、自分が殺人者であることを証明してみせる、と誓った日もあった。眠れぬ夜、その思いは、自身の暗闇のなかで赤く燃えた。だが、日の光はその思いを溶かしてしまう。実行するには衝動に欠け、だれでもいいから殺す、という考えは、あまりにおぞましい……。結局、自分の話に真実味を持たせるためにあがく試みは、また振り出しに戻ったのである。
ひとつの水路が閉ざされるやいなや、別の水路を求めて、サラサラと流れ落ちる砂のような人間の猜疑心に孔をうがとうとした。だが、あらゆる出口は塞がれて、人類全体が、ひとりの人間から死ぬ権利をだましとるために、一致団結しているように思えたのだった。

< 32 >

 

 こうして情況が手に負えないものになったために、グラニスは自制心の最後の一片を失った。
ほんとうは自分が、ひとを笑い者にするための実験の犠牲者だとしたら。見物人に取り囲まれて笑われている、まんなかの哀れな生き物が自分で、意識という固い壁に向かって盲目的に突進を繰り返しているのだとしたら。
いや、そんなことはない。人間はそこまで一様に残酷ではない。無関心という滑らかな表面にはひびが入っているし、弱さや同情という割れ目がそこかしこにある……。

 自分の失敗は、多少なりとも自分の過去に繋がりがある人々に訴えたことだ、とグラニスは考えるようになった。そういう人が見る自分の生き方と、秘めた、道を外れた行いとは決して一致しない、そのことが最終的な反証となったのだ、と。一般的な傾向として、習慣という目隠しの細い隙間から見える光景が、その人の生活のすべてだと思いがちである。自分の行動をその狭い隙間から見ると、おおよそ穏当な人物の姿が浮かび上がるのだ。自分のどんな経験をも受け容れられる、自由なものの見方をする人間のほうが、話を理解しやすいだろう。通りでぼんやりチャンスを待っている人間のほうが、前例に足を取られがちな訓練を積んだ知性のもちぬしより、説得するのが簡単ではなかろうか。
グラニスの中に芽生えたこの思いつきは、南洋の植物のように、つぎつぎと新しい考えの種を生んだ。そうして通りを歩き、辺鄙な場所にある肉料理屋やバーに出かけては、自分の秘密を打ち明けられそうな、公平で見知らぬ人間を探したのだった。

 最初はだれもが話を聞きたがっているように見えた。だが肝心なところにくると、どうしても躊躇してしまう。危険はあまりに大きく、おまけに最初の人選が、決定的に重要なのだった。頭の悪そうな人間、臆病そうな人間、寛容さに欠けそうな人間はだめだ。求めたのは、想像力豊かな目、皺の寄った額だった。自分が打ち明けていいのは、人間の意志がもつれにもつれて行くさまを熟知している相手だけなのだ。並みの人間が見せる、鈍い、おためごかしの表情にはうんざりし始めていた。一度か二度、漠然と、それとなく、話し始めたこともある――あるときは地下の肉料理屋で、隣にすわっていた男に。またあるときは、イーストサイドの波止場でブラブラしている男に近づいていって。だが、いずれの場合も失敗の予感に襲われ、話し始める寸前に止めてしまったのだ。
人にかつがれるのではないか、と怖れる一念から、いざというとき、話し相手の表情を読むことに、異常なまでに鋭くなり、また、あらかじめ代わりにしゃべる一連のことばを用意して、冷笑したり、疑われたりするような気配が見えるやいなや、舞台のせりからいつでも退くことができるようにしておいたのだった。

< 33 >

 グラニスは一日のほとんどを通りで過ごし、夜遅くなってから、自分のアパートメントの静けさと秩序正しさ、物言いたげなフリントの視線を疎ましく思いつつ家路につくようになった。住み慣れた場所とはひどく隔たった世界で生活していると、ときどき、輪廻転生を生きているような不思議な感覚が襲う。ひとつのアイデンティティから別のアイデンティティへと人目を忍んで渡り歩いているような――さらに、逃れることのできない自分自身がもうひとり!

 生き永らえる人間が味わう屈辱。生きる情熱など、金輪際よみがえることはない。現状と惨めったらしく折り合いをつけていくことなど、ほんの一瞬たりとも考えることはなかった。死にたかった。死を願う気持ちは変わらず、揺るぎもしない。死、それ自体のために死を求めていたのだ。だが、いまだにそれは、自分の手から逃げおおせている。もちろんいつも、運命の暗黒星に全面的に身を委ねていたわけではない。それが証拠に、いつか小さな火花が起こるまで、数百万の無関心な人のなかでだれかひとりが立ち止まり、耳を傾け、信じてくれるまで、グラニスは自分の話を頑固に、疲れを知らぬように繰り返し、無関心な耳に注ぎ、鈍い脳に叩き込んできたのである……。

 ある穏やかな三月の日だった。グラニスはウエストサイドの桟橋を、人の顔を見ながらぶらぶら歩いていた。もはや人相を見るのも専門家の域に達している。無分別に突進したり、怖じ気づいて後ずさるようなこともない。いまでは求める顔も、幻となって表れるほどはっきりとわかっていた。その顔が見つかるまで、話しかけるつもりはない。みすぼらしい、悪臭の漂う通りを東に向かって歩きながら、今朝がその日だ、という予感めいたものを感じていた。もしかするとその期待も、あたりに漂う春の気配から生まれたのかもしれない――ただ、これまでにくらべて、穏やかな気持ちでいられたのは確かだった。
 ワシントンスクエアに入り、そこをななめに横切って、ユニバーシティ・プレイスを北に向かう。その通りにいるよそとは異質の通行人には、いつも引きつけられてきた。ブロードウェイを行く人のように慌ただしくないし、五番街を歩く人ほど閉鎖的で秘密めいたふうもない。グラニスはここでも人の顔をみながらゆっくり歩いた。

 ユニオン・スクエアまで来ると、突然また憂鬱な気分がぶり返してきた。教会で祭壇から神のお告げが下るのを、あまりに長い間待ちわびている信者のように。もしかしたら、最後までそんな顔は見つけられないのではないか……。予感は薄れていき、疲労感を覚えた。はげた芝生と曲がった木の間を進んで、空いた席を探す。少女がひとりすわっているベンチの横を通りかかった瞬間、ひもでぐいっとひっぱられでもしたかのように、グラニスは少女の前で立ち止まった。少女に話をすることなど、夢にも思ったことはない。だから通り過ぎる女の顔など、これまでほとんど見たこともなかったのだ。自分の事件は、男の犯行だ。女性が助けになるだろうか? だが、この少女の顔はたぐいまれなものだ――穏やかで懐の広い、澄み切った夜空を思わせる。宇宙、距離、神秘のイメージが百ほども浮かんでくる。たとえば、少年のころ見たことのある船が、見慣れた埠頭に停泊している。だが船の汽笛は遠くの海のささやき、マストから張った索の向こうに見えるのは、見知らぬ港……。
 確かに、この少女ならわかってくれる。グラニスは静かに近づいていき、帽子を取って、身なりを改めた――少女が一目で「紳士」と思ってくれるように。

< 34 >

「これまでお目にかかったことはありませんが」とグラニスは隣にすわると、こう切り出した。「お嬢さんの顔は、たいそう知的でいらっしゃる……私がずっと探していたのは、お嬢さんのような顔なんです……どこもかも探して歩きました。つまり私が言いたいのは……」
 目を丸くした少女は、ひどく驚いて逃げ出そうとした。
 狼狽したグラニスは、数歩遅れて走り出すと、乱暴に腕をつかんだ。
「お願いです――ちょっと待って――聞いてください。ああ、悲鳴なんてあげないで、頼むから」つい彼も怒鳴ってしまう。
 グラニスの腕に手がかかる。振り返るとそこに警官がいた。即座に自分が逮捕されることがわかり、内部で強ばっていたものが溶け出してきて、涙があふれた。
「そうなんです――私は罪人なんです!」
 野次馬が集まってきて、少女の怯えた顔が人波に消えたのがわかった。だが、自分は少女の顔のどこがそんなに気になったのだろう。自分をほんとうに理解してくれるのは、この警官だ。彼はおとなしく警官に従い、野次馬があとをついていった。

VII

 気がつくと、グラニスはすばらしい場所にいた。同情に満ちた多くの顔が自分に向けられていて、自分の話を聞かせるのはここしかない、という思いはかつてないほど強くなってくる。
 最初、自分が殺人で逮捕されたわけではないとわかったときには少なからぬショックを受けたが、駆けつけたアスカムが、彼には休息が必要なんです、それから自分の声明を「再検討する」ための時間も、と説明してくれた。話を繰り返していると、ちょっとした混乱と矛盾が生じてくる。そのため、グラニスは広くて静かな建物、空き地もあって、周囲には木も植えてある場所に移ることを喜んで同意した。そこには自分のように知的な話し相手がたくさんいて、同じように自分の事件に対する声明を用意したり、書き直したりしている者もおれば、グラニスが読み上げるのを、興味を持って聞く用意がある人々もいる。

 しばらくの間、グラニスも満足して、ここでの毎日の流れにゆったりと身を任せていた。熱心に話を聞いてくれる人々は励みになったし、なかには非常に聡明で役に立つ助言をしてくれる人もいたが、徐々に、あのおなじみの猜疑心が頭をもたげて来た。もし聞き手が誠実でもなく、自分で言うほど力も持っていなかったら。延々と続けてきた話し合いもなんにもならず、この長い休養のおかげで、意識はどんどんはっきりしていき、何もしないでいることはますます耐えがたいものになっている。
ある一定の期間が過ぎて、ようやく外の世界からの訪問者が、グラニスの隠遁所を訪れることが認められることになった。そこで自分の犯行を、長文かつ論理的構成を持った文書にして、人目を忍んで、希望の使者の手に滑り込ませることにしたのだった。

< 35 >

 この仕事を実行するために、グラニスは改めて忍耐を強いられたが、いまや訪問日を待つためにのみ生きていた。風に押し流される雲間から見えたり消えたりする星を探すように、目の前を過ぎてゆく訪問者の顔を確かめる。
 ほとんどが見知らぬ人ばかりで、自分の友人に較べて知的な感じがしない。けれどもそうした人々が、外界と自分を結ぶ最後の手段、紙の小舟を不思議な潮の流れに乗せて、人生という外洋へと押し出すように、自分の「声明」を浮かべる秘密の水路なのだ。

 ある日、グラニスの注意を引くものがあった。見慣れた輪郭、明るい飛び出した目と、剃り残しの目立つあご。飛び出して、ピーター・マッカランの行く手を遮る。
 マッカランはいぶかしげにグラニスを見たあと、握手の手を差し出しながら、驚かされたのをとがめるように言った。
「なんでまた……」
「私がわからないのか? そんなに私は変わったかね?」相手の驚きが伝わって、グラニスもためらった。
「とんでもない。ただずいぶん穏やかになった……楽になったような感じがしますよ」と笑顔になる。
 手がぶるぶる震えて、ポケットから折り畳んだ紙を取り出すのもむずかしいほどだった。そうしているうち、マッカランには背の高い連れがいて、深い、同情心にあふれた目をしていることに気がついた。これこそは自分が待ち望む人物だ、という確信で、胸の鼓動が速くなる……。

「差し支えなければ……マッカラン氏のご友人ですね?……これを見てください……もしお時間があれば、事件について若干まとめたものなのです」声もその手と同様に、激しく震えていた。もしこのチャンスを逃せば、自分の望みは永久に絶たれてしまう。マッカランと連れは顔を見合わせ、それからマッカランは腕時計を見た。 「もうしわけないんですが、いまここで話しているわけにはいかないんですよ、グラニスさん。友人には約束があるし、時間がないんです……」
 グラニスは紙を差し出している手を引っ込めない。「もうしわけないが……きちんと説明できているはずなんです。どうかお受け取りください」
 連れは優しくグラニスを見た。「わかりました……お預かりしましょう」受け取ると手を離した。「では、ごきげんよう」
「ごきげんよう」グラニスも繰り返した。
 二人が長く明るい廊下を遠ざかっていくのをじっと見送っているうちに、ほおを涙が伝った。だがその姿が見えなくなると、グラニスはくるりと向きを変え、自室に向かって足取りもせわしなく歩き出す。ふたたび希望が芽生え、すでに新しい声明の構想が練られつつあった。

< 36 >

 建物の外では、二人の男が立ったままでいた。マッカランの連れは、鉄格子のはまった、どこまでも単調につづく窓の列を、物珍しげに見上げた。
「で、あれがグラニス?」
「そうだよ――グラニスだ。かわいそうなやつ」
「まったく奇妙な事件だな。こんなことは前代未聞だろう。まだ自分がやったと信じているのかい?」
「もちろんだよ」
 連れは考えこみながら言った。「それを裏付ける証拠もないんだろう? だれもどこから手をつけていいのかさえわからなかったんだろう? 穏やかで昔気質の人間のようだが――そんな思いこみをどこで拾ってきたんだろう。何かひとつでも証拠が見つかったのか?」

 マッカランはポケットに手を突っ込んで立ったまま、頭を上げて鉄格子の窓をじっと見つめていた。それから明るい目に厳しい色を浮かべて、連れの方に向き直った。
「それがこの話の奇妙なところなのさ。いままで誰にも言ったことはないが……ぼくは証拠を握ってるんだ」
「なんだって? そりゃすごい。何だ?」
 マッカランは赤い唇をすぼめて口笛を吹いた。「ま……思いこみじゃなかったってことだよ」
 そのことばに連れはひどく驚いた――マッカランに向き直って、薄い色の目を大きく見開いてじっと見つめる。
「確かにやつはじいさんを殺したのさ。ひょんなことからほんとうのことがわかったんだ、ほとんど手を引きかけたときに」
「ほんとうに殺したのか――自分の親戚を」
「間違いない。ただ密告なんてしないでくれよ。こんな奇妙な事件にはお目にかかったことがない……。で、どうにかしたのかって? いや、だけど、どうしろって言うんだよ。気の毒なおじさんを縛り首にするなんてこと、できるわけないだろ。まったく。だけど、まぁやっこさんが収容されていて良かったよ。とにかくあそこにいりゃ、安全なんだからな」
 連れの長身の男は、手の中でグラニスの声明を握りしめたまま、深刻な顔つきでその話を聞いていた。
「だったら――これはそっちで収めておいてくれ。気分が悪くなる」ぶっきらぼうにそう言うと、マッカランに紙を押しつけた。ふたりの男は向きを変えると、無言で門を出た。

(了)


あとがきの代わりに――『閉ざされたドア』と「動機の語彙」

動機は、ある行為の「原動力」となる内的状態というよりは、人々が自己および他者の行為を解釈し説明するために用いる「類型的な語彙」である。

(C.W.ミルズ『権力・政治・民衆』みすず書房)

イーディス・ウォートンのこの短編を読んで最初に思い出したのは、ミルズの「動機の語彙」ということだった。

グラニスは人を殺した。戯曲を書くために。
殺人は成功し、罪に問われることもなく、グラニスは遺産を手に入れる。それをもとに、創作活動に没頭した。
ところが十年後、戯曲はどれもつかいものにならない、と最終的に宣告されて、グラニスは自分の人生にけりをつけることにする。どうしても自殺はできない。ならば罪を告白することで、法的に自分を抹殺してもらおうと決意するのである。

ところがだれもこの「告白」を信じてくれない。アリバイよりも、証拠よりも、いまになってグラニスが「告白する動機」がわからないからである。
グラニスは「告白」を受け容れてくれる者を探そうとする。やがて、その結果よりも告白を受け容れさせること自体が目的となっていく……。

***

社会学者のミルズは、「動機」というものは、行為者の内側にあるものではない、外側にあるものだ、という。
どんな社会にも、動機に関するさまざまな「類型的語彙」が存在する。
たとえば人を殺すのは「金のため」「嫉妬のため」「怨恨のため」そして最近新しく登場した、といえるのだろうか、「快楽のため」。
人々はそうした既成の語彙を用いて、他者および自分自身の行為を解釈し説明し、その行為を理解しようとしている。
つまり、そうした語彙が社会にストックされているから、その語彙を使って、わたしたちは他者の「動機」を推し量り、逆に自分の行動を、まず自分自身に説明しようともするのである。
他者の行為にうまく動機を付与できなければ、私たちはその行為の意味をとらえそこなうことになり、したがって適切な対応もできなくなるのだ。
また自分自身の行為の動機を、自分および他者にうまく説明できないようなとき、その行動を差し控えたりもする。
どちらにおいても私たちは動機に関する「類型的な語彙」に頼ろうとする。

だが、動機などというものは、結局のところ、「仮定されているもの」に過ぎないのではないか。この意味で動機の表明は「他者へのアピール」であり、「行為の戦略」なのである。

***

わたしたちは、他者の行動を理解したい、と思う。行動を理解する、とは、その行為の意味を、すなわち、その動機を理解することにほかならない。
あの人がこちらを見た。何か用があるんだろうか。目つきが険しい。何か悪いことをしたっけ?
あるいは、事件が起こる。新聞に決まって書かれるのは「動機の解明が待たれる」ということである。その「動機」にうまく当てはまることばが見つからないとき、社会はいらだつ。

だが、ほんとうに「動機」などというものがあるのだろうか。
動機とは、結局のところ、行為を触発する内的状態として「仮定されているもの」に過ぎないのではないか。

グラニスの告白の「動機」というのは、いったい何なのだろう。
誰もがそれに意味を付与できない。グラニスもさまざまに戦略を練り、アピールをしようとするのだが、うまくいかない。
結局、「動機」なんてそんなものなのだ、ということを1909年に書いたウォートン(ミルズの論文より50年ほど前!)の人間を見る眼、というのはすごいと思う。

***

 イーディス・ウォートンは1862年生まれ。ニューヨークの上流階級に生まれ、社会的必要性のために不幸な結婚をし、やがて離婚する。当時の因習的な上流社会では、そうした生き方は許されず、ヨーロッパへ渡り、作家生活に入る。

 ウォートンの作品はどれも、急速に変化していく社会の流れに距離を置いた主人公たちが、それでもどうしようもなく押し流されて、やがて「諦め」の感情に身を委ねていくさまが描かれる。読後しばらく、なぜリリー・バート(『歓楽の家』の主人公。家名の復興を一身に担う、落ちぶれた上流階級の娘で、後ろ盾がないため結婚相手を見つけることができず、社会的に転落していく)は、イーサン・フローム(『イーサン・フローム』の主人公。不毛な結婚生活に見切りをつけ、愛人と心中しようとするが失敗する)は、ニューランド・アーチャー(『エイジ・オブ・イノセンス』の主人公)は、そうなってしまったのだろう、と、どうしても考えずにはいられない。

もちろんヒューバート・グラニスも同じこと。もし、マッカランが見つけた「証拠」を握りつぶさなかったら、グラニスはどうなっただろうか。

ミステリとして読むと、粗も目立つ作品ではあるけれど、行動をなんとかして「意味づけよう」とする人間の性質と、それを裏切り続ける人間の行為の「わからなさ」が心に残る佳品だと思う。






初出Jan.27-Feb.6, 2005、改訂Feb.10, 2005



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