感情的?or 理性的?? ――女はほんとうに感情的か
ときどきわたしは闘うために歌う
道具なら何だって武器になるのだから
構え方さえ間違えなきゃね
―― Ani Difranco "My I.Q."
1.女は感情的?
たまに「女というのは感情的で……」という物言いを耳にすることがある。通常生物学的には「女」に分類されるわたしとしては、そうした意見表明はあまり好ましくはない。だが、好ましくはないけれど、片方の眉(わたしは左側しか上げることができない)を上げる以上の反応は、相手の真意を確かめてからにしようと決めている。
相手はわたしにケンカを売ろうとしているのか。そう言いたくなるような事情があるのか。相手の言葉の「女」には、わたしが含意されているのか、わたしではない具体的な「誰か」が想定されているのか、あるいは特に誰ということはない、ばくぜんとした「女一般」を指しているのか。
相手はふだんから女性蔑視的な発想をしがちな人なのかどうかも考慮しておかなければならない。物の見方考え方がステレオタイプに陥りがちな人か、言葉遣いや言葉の選び方が元来粗雑な人なのか。ふだんのその人からすれば異例の発言に属することだってあるだろうし、たまたま虫の居所が悪かったのかもしれない。偏頭痛がひどかったり、胃が痛かったり、体調が悪いときは、自制心のハードルが下がって、ふだんならありえないような失言をしてしまうこともある。「女というのは感情的で……」と書いてあるパッケージに、いったいどんな中身が入っているのか、とにもかくにも確認しておく必要がある。
だって中身も見ずに、ムッとして叩き返すようなことをしてしまえば、それこそ相手の主張する命題「女は感情的である」を証明することになってしまうではないか。「女=感情的」などと粗雑な主張が受け入れがたいのであれば、何よりもまず、このわたしが感情的ではない対応をすべきだろう。
とはいえ「女は感情的」といわれてムッとしてしまうのはどうしてなのだろう。どうして「感情的」という言葉から、否定的なニュアンスを受けとってしまうのだろう。
2.「感情的」は批判的?
同じ「感情的」という言葉を使っていても、「感情的になっちゃいけない」というときと、「感情的には理解できる」というときの「感情的」では意味合いが異なる。前者の「感情的」の対義語が「理性的」であるのに対し、後者は「気持」の同義語として使われている。二十代以下だとこのような場合は「気持的には理解できる」と言うのかもしれない(わたしの年代になると、この表現は「意味は理解できるが気持的には気持悪い」)。
後者の「感情的」にマイナスのニュアンスがないのに対し、前者の「感情的」にははっきり否定的な意味合いがある。対義語を見てもあきらかなように、「感情的だ」という表現は「理性を欠いている」と言っているわけだ。
a. 言葉から考えてみる
では「理性的」というのはどういう状態なのだろう。辞書を見ると「感情に走ることなく、理性に基づいて判断し行動するさま。」(「大辞林 第二版」)とある。どうやらこんな言葉の背景には、車のようなイメージがあるらしい。つまり、人間を動かす判断や行動をつかさどる場所には、「理性」と「感情」という「ブレーキ」と「アクセル」がついていて、ちょうど坂道を下るときのように少しブレーキを踏みながらアクセルを踏んでいる状態が「のぞましい状態」というところなのだろうか。
ただ、「ブレーキ」と「アクセル」という言葉自体に、「どちらが上か」という評価は含まれていないのに対して、「理性」と「感情」といういと、なんとなく「理性」の方が上等なような気がするし、さらには「理性的」と「感情的」になると、あたかもマルとバツのようにはっきりとした評価がこめられている。
b. 語源を見てみよう
そもそもこの「理性」のもとになった "ratio" という言葉、西洋ではギリシャ時代から、人間だけが備えているもので、ほかの動物にはない特性であると考えられていた(アリストテレスは「人間は理性的動物である」と言った)。それから啓蒙時代から近代を経て、さまざまな変遷をたどってきたのだが、明治時代に日本に入ってきたとき、西周がえいやっと「理性」という言葉にしてしまったのである。
「理性」という言葉は、「(車の)ブレーキ」のように、それのみの特性(「車を停止させる」)を取り出して説明できる言葉ではない。たとえ表面に「感情」という言葉を出さなくても、そこには「感情的でないもの」という意味が込められる。だから辞書を引いても「本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力」(大辞林)と定義されている。つまり、「理性」「感情」と名前のついた何ものかがあるわけではなく、「理性」と「感情」という関係の内にしか存在しない言葉なのである。
ところで、アリストテレスの「人間は理性的動物である」という言葉は、同時に「人間以外の動物は本能のおもむくままである」ということを言っている。ここで対置されるのは「理性」と「本能」であって、感情ではない。というのも、ギリシャ人たちは、動物には感情があるとは考えていなかったからである。ここでの「理性」の対義語は「本能」だ。つまり、動物か人間か、という対立軸を置くと、「理性」対「本能」、同じ人間同士では、「感情」対「理性」という対立関係がある、と言えるだろう。ギリシャ人たちは、感情というのは、外界の刺激を受けて受動的に起こってくるものだから、能動的に推論していく能力である理性を上に置いたのだ。
つまり、ギリシャ人たちは、本能を制御し、さらには外界からの刺激に反応して起こる感情をも制御し、能動的に理性を働かせる人間を、「人間らしい人間」すなわち「理想の人間像」に置いたのである。「理性」に対して「感情」に低い評価が与えられるのもムリはない。そもそも大昔から西洋人はそんなふうに考え、明治時代に日本人も「理性」という言葉と一緒にその考えを輸入してしまったのだから。
c. 何様のつもり?
さて、このような「理性」や「感情」に「的」をつけると、あるものや人を「その状態にある」と決定し、評価することになる。「その発言は感情的だ」とAさんが言うときは、Aさんが相手が言ったさまざまな言葉のなかから、ある一部分をとりあげて、「理性的」「感情的」というふたつのカテゴリのどちらかに振り分けているのだ。
ところが言われた側としてみれば、それまで対等な立場で話していたとばかり思っていたAさんが、急に「上から目線」で自分の話を切り分け、一部を取り出して評価し始めたことに、まず違和感を覚えるだろう。
そこで「理性的」という肯定的な評価が下されると、まあいいか、ということになるけれど、「感情的」という批判的な評価が下されると、ムッとしてしまう。ちょうど試験でいい点数を取る子供は試験制度を批判することがなく、悪い点数しか取れない子供が「こんなもんで人間の価値は計れねえ」と言って腹を立てるように。
とはいえ「その発言は感情的だ」という指摘であれば、「感情的」という評価は発言の一部に限られる。だが、「あなたは感情的な人だ」という評価は、その人の人間性を批判していることになる。「アンタはあたしの何を知ってるのよ」と、横面をひっぱたいてやってもいいかもしれない。もっともその行為は相手の評価を裏書きすることになってしまうが。
さらに「女は感情的だ」という言明となると、いかなる人物でも「女」という性別に生まれついた以上は、理性的に思考することも判断することも行動することもできない、と言っているに等しい。一発殴られても文句は言えない言いぐさではあるまいか。
3.ほんとに「女は感情的」?
これまで見てきたのは
〈i〉「女は感情的」という言葉には、「それに対してこの自分を含む男は理性的/このわたしを除いた他の女は感情的」という意味が含意されている。
〈ii〉さらにこの「感情的」という言葉自体に否定的な評価がこめられている。
ということだった。
だから「女は感情的だから、人の微妙な心理のあやを汲みとることができる」という肯定の文脈で、この言葉が使用されることはない。あるとしたら、そういう使い方をする人は、人とは多少言葉のセンスがずれている人とみなされるだろう。そんな人には「情緒が豊か」とか「豊かな感受性のもちぬし」という異なる表現が日本語にはあるんだよ、と教えてあげるといい。
「女は感情的だから」に続くのは、あくまでも否定、さらに「冷静な話ができない」というように、これから先のコミュニケーションをうち切るという意思表示が続いていくのだ。これでムッとしないのは、マザー・テレサぐらいかもしれない。
では、「女は感情的」という傾向はほんとうにあるのだろうか。
中学のころ、こんなことがあった。
ある女の子がわたしの取った行動に対してイチャモンをつけた。わたしはそれが単なる難癖、言いがかりにすぎないことを、時系列に沿って指摘していった(そういうことをするから……)。すると彼女は泣き叫びながら、「そんなこと理屈じゃない!」とのたもうたのである。つくづく、感情的な女はいやだと思った経験である。
だが、そういうわたしも、いっときの感情にまかせて、できもしないことを「やる」と言ってみたり、目上の人に食ってかかったり、わざと人を怒らすようなことを言ったり、怒鳴ったり、物を投げたり、電柱を蹴り飛ばしたり、電話を叩き切ったり、このリストはまだまだ続くがここらへんでうち切ろう。要するに、あとでほぞをかむようなことを何度も何度もしでかしたのだ。そのたびに、また感情的になってしまった、自分はなんでこんなに学習能力がないのだろう、と屈辱をかみしめたものだ。
だが、わたし感情的になってしまったのは、女だからだろうか。
そうは思わない。
たとえば会議などの席で、少しでも批判的な意見がでると、噛みつくような反応を見せる男性は「感情的」ではないのか。すれ違いざま、肩が触れた、ガンをつけたとケンカを始める男たちは「感情的」ではないのか。電車のなかでかけている電話を注意され、いきなり怒り出す男性は? 掲示板の書き込みで、自分とはちがう意見に対して「バカじゃないのか」と侮辱をもって対応する男は? それに対して、よくも言ったな、と同じ侮辱でもってやり返す男は?
なんのことはない。感情のある人は、ということは、つまり誰だって感情的になりうるのだ。だが、「男は感情的」とはあまり言わない。「メンツをつぶされたなんてくだらないことでケンカを始めるなんて、ほんと、男は感情的ね」と言ってもいいはずなのに。
a. 文豪に聞いてみよう
ところで有島武郎が「私の父と母」というエッセイで、「要するに、根柢において父は感情的であり、母は理性的であるように想う。」とおもしろい結論を出している。
この結論にいたるまでに、有島は父と母の性質の特徴を列挙していく。
父は「内部には恐ろしい熱情をもっ」ており、「着想」は「独創的」で、「孤独」で「正直」で、「人に対して寛容でない偏狭な所があった」。だが、特に気を許した肉親などに対しては「性質の純な所が、外面的の修養などが剥がれて」「無邪気な善良な笑い方」を見せることもあった。
一方、母は「濶達な方面とともに、人を呑んでかかるような鋭い所があ」り、なんとか当時の教育が求める型に自分をあてはめようとしても、「性質の根柢にある烈しいものが、間々(まま)現われ」て、「若い時には極度に苦しんだり悲しんだりすると、往々卒倒して感覚を失うことがあった」が「生来の烈しい気性のためか、この発作がヒステリーに変わって、泣き崩れて理性を失うというような所はなかった」。さらには「想像力とも思われるものが非常に豊か」で、「ないことをあるように考える癖がある」。そのため「実際はないことを、自分では全くあるとの確信をもって、見るがごとく精細に話し」ていることが嘘の場合もあるのだが、「母自身は嘘を吐いているとは思わず、たしかに見たり聞いたりしたと確信しているのである。」
このような特徴をもとに、有島は「根柢において父は感情的であり、母は理性的である」と結論づけているのだが、両親ともに、深く豊かな人間性を感じることはできても――同時に、愛情深いと同時に冷静に両親を観察している子供有島の視線を感じることはあっても――これだけの資質を「感情的」「理性的」の言葉に押し込めることには、無理があるように感じるのだ。有島自身も、このエッセイの中で「感情的」「理性的」という言葉に重きを置いているようには感じられない。つまりは両親にそんなラベルを張ろうとはしていない。
b. 男心と……
人間が感情を持たないということはありえない。男であれ、女であれ、わたしたちは外的な刺激を受けて感情が生じる。そうして、自分に生じた感情を理解することができれば、コントロールもできる。これが「理性的」と呼ばれる状態だ。仮にその現れ方に特有の傾向があるにせよ、感情が生じ、思考が感情をコントロールしなければ、逆に思考が感情によってコントロールされてしまうことには性差はないだろう。
つまり「女は感情的/男は理性的」という言葉が正しいという客観的な根拠はどこにもないのだ。「男心と秋の空」がいつのまにか「女心と秋の空」となったように、いずれ「男は感情的だから」と言われるようになるかもしれない。
その証拠に、昨今では「感情的にふるまう」というよりも、「キレる」といったより直裁的な言葉の方が多く見受けられる。こちらはユニセックス、男も女も、子供も老人も、至るところで「キレ」ているではないか。
4.「女は感情的」と言う人物は理性的か?
人間が感情を持つ以上、男女に区別なく感情的になりうる、ということはわかった。では、「女は感情的」という客観的な根拠もないのにそんなことを言う人は、理性的といえるのだろうか。
女性を「感情的」と批判しようとする行為は「感情的」ではないのか。
ちょうど「落書きするな」という落書き、「静かにしろよ」という怒鳴り声、「A子ちゃんは人の悪口ばかり言うのよ」という悪口、「わたしは口が堅い」という宣伝、「あたしって神経質でさあ」という無神経な発言、「正しいか正しくないかなんて簡単に決められることじゃないんだよ」という決めつけ、「もうあなたとは口を利かない」とわざわざ言いに行く人、「おまえケチだな、おごってくれよ」と自分の財布はこっそりふところの奥へしまいこむ人……これらと同じ矛盾にはまりこんでいるのではないだろうか。
a. 「この壁に落書きするな」
落書きをやめさせようと、「落書きするな」と壁に書いて、結果的に落書きを増やしてしまう。どうしてこんなことになってしまうのか。
それは、わたしたちが相手と同じ言葉を使っている以上、相手と同じ基盤に立たざるを得ないからだ。ちょうど壁に書いた以上、何を書いても「落書き」になってしまうように。
「感情的/理性的」という言葉をたとえ「上から目線」でものごとを評価しようと思っても、わたしたち自身が「神の視点」に立つことはできない。相手に対する「感情的」という評価自体が感情的でもある自分の下した評価なのである。
となると、そもそも評価や批判そのものができなくなるということなのだろうか?
b. いま、感情的になってるよ
たとえば腹を立てて泣き叫んでいる人がいたら「感情的になっちゃいけない」と落ち着かせることは必要だ。けれどもそれは、「いま、自分がいるこの時間の、この場所において、あなたは感情的になっているよ」と言っているだけであって、相手の人格を「感情的」と見なしているのでもなければ、「女というものはそういうものだ」と決めつけているわけでもない。なんとか自分がいまいる状況を、少しでも「よい」ものにしようとして、相手に働きかけているのだ。
「あなたという人は感情的な人だ」と評価することは、相手の裏も表も、過去も未来も知っていなければ、できないことだ。「女は感情的だ」という評価は、感情のある人間には下せない。けれども「いま、わたしの目の前にいるあなたの発言は、わたしには感情的なもののように思える」と言うことは、自分にもできる。そうしてそのことは、十分に理性的な行動であるように思える。
5.そういうあなたはどんな人?
では最後に、「女は感情的だ」という人が出てきたらどうしたらよいのか、考えてみることにしよう。ひとつの対処法はこれだ。
「何をバカなことを言ってんの? ソフィア・コワレフスカヤを知らないの? 米沢 富美子を知らないの? シモーヌ・ヴェイユは? ジュディス・バトラーは? 知りもしないで偉そうな口を利くんじゃないよ、このうすらトンチキ」
いや、わたしは生まれてからこの方、啖呵というものを一度も切ったことがなくて、そもそもしゃべり方がトロいので、一度くらいはこんなことを言ってみたいというだけなのだが。
ともかくこの方法はそのときはとてもスッキリしそうではあるけれど、あとあと厄介なことになりそうな気がする。罵倒というのは、結局暴力と同じで、力にものを言わせて、相手に自分の優位を誇示してみせることにほかならないのだから。
「女は感情的だ」という言葉によって自分の優位を示そうとする相手に、こちらの優位を示したところで、これまた同じ穴のムジナにしかならない。すると相手は、ふたたび自分の優位を示そうとして、さらなる感情的な言葉やほんとうの暴力に訴える可能性もある。
逆に「その発言こそが感情的だ」と冷静に訴えたらどうだろう。そんなときの自分の内部では「自分の方が正しいのだから、相手をそこに導いてやらなければ」という気持が生まれているはずだ。これは、ことによったら殴りつけるよりもいやらしい。
だとしたらどうしたらいいのだろう。
「どうしてそんなことを言うの?」と聞いてみるのは、もしかしたら有効かもしれない。相手が「いま・ここ」でそんなことを言うことにどんな理由があるのか。相手を評価するのでも、導いてやるのでもななく、自分ではない相手を理解するために。相手の発言の内にどのような中身がこめられているのかを知るために。
そうすることでこそ、いまのところある種の共感を持って語られることの多い「女は感情的だ」という誤った認識を、ほんの少しでもくつがえすことができるのではないかと思うのである。少なくともそう考えているあいだのわたしは、理性が容認するようなやり方で、相手と話をすることができるのではないかと思うのだ。
もしかしたら、相手の返答によってはつぎの瞬間、感情的になってしまうかもしれない。それでも、いま、このときだけは。そうして、あらゆる関係というのは、そのたびごとに、結んだりほどいたり、また結び直したりするものではないかと思うのだ。