この話したっけ
ここには自分の思い出や、身の回りのことについて考えてみたことなど、比較的軽めのエッセイが置いてあります。

本を読んで心を動かされると、そこに書いてあることをもっと深く知りたい、あるいはそれによって揺り動かされた自分の感情を深く理解したいと思うものではないでしょうか。「読みながら…」のページが、そんなふうに本を媒介にして、考えること、理解することに焦点を置いた文章だとすると、こちらは本から離れて、自分が日常的に気になっていることや自分を作り上げている記憶に目を向けています。

だれもが、自分の立っているところからしか、考えることはできません。ところがわたしたちの立っている場は、ほんとうに狭く、限られたものでしかありません。

小学生のころ、本で読んだり人から聞いたりした意見を口にすると、「自分で考えましょう」と言われたものです。本で読んで覚えた少しむずかしい言葉を使うと、「自分のことばで書きましょう」と言われたことも。それでも、たとえ小学生の世界に起こったことであっても、そこで自分が体験したことの意味を知ろうと思えば、別の経験と、そのときの自分の内側にはなかった言葉が必要です。

過ぎてきた出来事、ふとわき起こった疑問、そうしたものは、自分の内に積み重なった時間と経験と理解をふまえて、もう一度考えられても良いのではないか。そうして、それを大所からではなく、また、小さな場と限られた時に立って話してみたい。

わたしはいつも、そんなふうに思っています。

小さな場所から小さな声で語るわたしの言葉は、あなたへ届くでしょうか。

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「褒められること、叱られること」 … 2010-5-13


 過ぎた日々のよしなしごと

人は、何で自分の思い出を語るんでしょう。ずっと、聞くのが馬鹿らしい三大話は、ノロケ話、夢の話、思い出話だと思っていたんです。まあ、ノロケも夢も「思い出話」の下位カテゴリ、といってもいい。となると、思い出話というもの自体が退屈なんでしょうか。
反面、尊敬する人や好きな人、親しい友だちや家族の思い出話はちがう。もっともっと聞きたいと思います。というのも、そんな人の思い出話は「その人がどんな人か」を教えてくれるものだからです。
一方、過去形で書かれた小説というのも一種の「思い出話」と言えます。わたしたちはその思い出話を聞きながら、主人公のことを知っていき、すべて読み終わったあと、それを鏡にして自分を振り返る。
思い出話というのは、自分の中へどんどん降りていって、「その人がどんな人か」を物語るものです。そうして、それを読む人は、おそらくそれを鏡にして、「自分がどんな人か」を振り返る。
ここにはさまざまなわたしの経験がつまっています。そうしてそれが読んでくださる方の記憶の呼び水となることを願ってやみません。

◆ クリスマスに思う……2004.12.23
◆ The Working Song……2004.01.05
◆ 'TWAS DA NITE ――クリスマスの思い出……2005.12.13
◆ いくつもの正月……2006.01.06
◆ ヴァレンタインの虐殺……2006.01.31
◆ いっしょにゴハン……2006.03.17
◆ 病院で会った人々……2006.05.07
◆ わたしが出会ったミュージシャンたち……2006.06.01
◆ 夏休みが長かった頃……2006.08.24
◆ あの頃わたしが読んでいた本……2006.10.20
◆ 家のある風景……2006.11.26
◆ 正月の時間……2007.01.13
◆ 卒業の風景……2007.03.04
◆ 晩ご飯、何食べた?……2007.11.12

 考える日々のうたかた

ここは、初期に書いたどこにも収まらない、あれやこれやの文章を集めています。なんというか、こういう文章はもう書けないだろうな、という感じはします。自分のあらかじめ持っていた手札を並べただけのような文章、自分の内に生まれた問題意識が、どこへどう向かっていくか、制御しきれていないような文章。手を入れて書き直したいものもあるのですが、何か、自分の出発点として残しておきたくて。

◆ 本に線を引きますか……2004.12.23
◆ 2005年の初めに……2004.01.05
◆ 英語大変記……2004.01.17
◆ 死者とともに生きる……2005.08.16
◆ 買い物ブギ……2005.09.29

 教えるわたし、教えられるわたし

「日常生活」という言葉があります。この言葉にはいったいどんな形容詞がかぶせられるでしょう。「バラ色の日常生活」というのは、微妙におさまりが悪い。「元気いっぱいの日常生活」これだと小学一年生でしょうか。
大人であるわたしたちの「日常生活」というのは、「砂を噛むよう」だったり、「味気ない」だったり。やらなければならないこと、あらかじめ定められたことが幾重にも張り巡らされ、自分のものではない要求に応えることに汲々としている……そんな日々のことなのかもしれません。
そんな網の目の外に出ようと思えば、郊外にドライブに行ったり、山へ登ったり、海に潜ったり、海外へ出かけたり、そんなことが思い浮かびますが、ほんとにそうなんでしょうか。そうやってお金と時間を使って、戻ってくるのはまた同じ場所。そこで、自分をどんどん小さくして、何も考えないようにして、砂を噛むような日々に耐える?
たぶん、ちがうと思うのです。日常生活を豊かにする、というのは、人との間に、教え、教えられるという架け橋を築き上げていくことなんじゃないか。わたしはそんなふうに思っているのですけれどね。

◆ わたし、プロになれますか?……2005.10.07
◆ 伴走者として……2006.09.20
◆ 信頼ということ……2007.02.05
◆ 仕事を考える……2007.05.06
◆ 時間とわたしたち……2007.05.20
◆ 読む空気、生まれる空気……2007.08.21
◆ ネット時代のお作法・不作法……2008.04.29
◆ 転がる石としてのあたしらの人生……2008.06.08
◆ ここより先、怪物領域……2008.08.14
◆ 便利な、不便な話……2009.03.30
◆ 感情的?or 理性的?? ――女はほんとうに感情的か……2009.12.29

 お金とわたしたち

わたしたちは毎日のようにお金を使います。二千円、と表示がされていれば、多くの場合、その額に不審を抱くこともなく、無造作に千円札を二枚取り出して支払いをすませます。けれども二千円を払った食料品のあれこれと、一冊の本と、一枚のCDと、スカーフが、果たして同じものなのでしょうか。数日間で食べ尽くしてしまう牛肉とタマネギとニンジンとセロリと卵と、繰りかえし聴くCDが同じ値段は腑に落ちないような気もする一方で、わたしたちはプレゼントの「お返し」を考えるときは、相手から贈られたものとほぼ同じぐらいの額の、別のものを選びます。ここでは「花束」と「ネクタイ」が、同じ価値のものとして扱われている。
「百万ドルの夜景」や「慰謝料」のように、本来お金に換算できないはずのものにも値段がつく一方で、それに対して割り切れない思いを抱くこともある。
身近なお金は、実はとても不思議なものです。そんなお金を、できるだけ具体的なところから、身近なところから、考えていきたいと思っています。

◆ 望遠鏡的博愛……2007.12.27
◆ 自転車置き場と「正しい」距離……2008.03.11
◆ うわさ話の値段……2008.03.29

 三十年後の「しぐさ」たち

中学の時、多田道太郎の『しぐさの日本文化』を初めて読んだとき、目が開かれたように思いました。しゃがんだり、寝ころんだりの身近な「しぐさ」から、こんなにもいろいろなことを考えることができる、いろんなことがわかってくる。本を読んでいて、はっとして、自分の世界が広がるように思ったんです。
『しぐさの日本文化』が最初に書かれたのは、1970年のことです。それから三十年を経て、この本で描かれた「しゃがむ」こと、「頑張る」ことはどうなったか。並べるのもおこがましい話ですけれど、「三十年後のしぐさ」をこれからも少しずつ、見つけていきたいと思っています。

◆ 坐ったままでどうぞ……2008.02.21
◆ 「がんばれ」の代わりに……2008.06.25
◆ 「あいづち名人」への道……2008.08.04

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