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「事実」とはなんだろうか


1.実話か虚構(フィクション)か

ずいぶん前の話だけれど、『一杯のかけそば』という話が話題になったことがある。なんでこんな話が、と思っているうちに、それがフィクションだとわかり、この間まで「感動した」「わたしも泣きました」と言っていた人が、手のひらをひっくり返したように批判を始め、作者の私生活まであれこれと暴かれたのではなかったか。
ともかく批判していた人の中には「実話だと思っていたのに裏切られた」という反応が少なくなかったような気がする。

似たようなケースは外国の本でも起こり、これも知っている人も多いと思うけれど、ジャン・ジオノの短編小説『木を植えた男』、これも日本では最初実話という形で受け取られたようだ。
ためしにアマゾンで検索してみると、読者レビューが載っていて、「事実ではなくても」といった、なんとなく微妙な発言がいくつかあった。

これは何も日本だけに限った話ではないようで、リリアン・ヘルマンの『未完の女』が発表されたときも、作中の一編「ジュリア」が「事実」か「フィクション」かをめぐって大変な話題になり、モデル探しも行われ、モデルと目される人物が本を出して、「自分は“ジュリア”ではない」と明言する顛末となった。そういうなかでメアリー・マッカーシーのように「ヘルマンの書くものは"and"から"the"に至るまで大嘘」という手厳しい批判を投げかける人物まで現れた。

『アメリカ短編小説傑作選』の2000年版の編者ギャリソン・キロワーはこんなことを言っている。

 人は物語が現実的であってほしいと思う。ソローが言ったように、リアリティこそわれわれが切望するものなのである。もし人に物語を聞かせて、相手がそれを気に入れば、彼らは物語のスタイルに世辞など言わず、「それ本当?」と言う。それが作家にとって、あなたは真実を書いていますよという最高の賛辞である。単に感情を表現するためだけに物語を利用しても、人は気に入ってくれない。

(秦 隆司訳 DHC)

わたしたちはなぜ「それ本当?」と考えてしまうのだろうか。
なぜ本当であってほしい、と願うのだろうか。

『一杯のかけそば』や『木を植えた男』、『ジュリア』などの例は、わたしたちにふたつのことを教えてくれる。
1.わたしたちは、「事実」と「フィクション」を対立するものととらえている。
2.わたしたちは、「事実」の方が「フィクション」より価値があると考えている。

本を読むときも、人の話を聞くときも、わたしたちはこの話には読む、あるいは聞く価値があると思って読んだり、耳を傾けたりする。

フィクションは読まない、という人は、おそらくここで振り分けているのだ。「事実」を扱わないものは読む価値はない、という。

小説は読まないけれど、歴史小説や自伝・評伝は読む、という人は、登場人物が「実在」したか「虚構」であるか、という観点から振り分けている。

リアリズム小説は読むけれど、SFやファンタジーのような「荒唐無稽なもの」は読まない、という人は、「現実に起こりうる」か「現時点では、実際には起こりえない」という観点から振り分けている。

あるいは、フィクションを読んだ。大変おもしろかった。そういうとき、フィクションとはわかっていても、これはどこかに事実があるのではないか、作者の実体験が反映されているのではないか、と考える。つい、主人公=作者と考えてしまう。

どこまでいっても事実かフィクションか、という価値判断はついてまわる。

だが、この「事実」というのはなんだろう。ほんとうに「フィクション」と対立するものなんだろうか?
それを考えてみましょう、というのが、このコラムの趣旨である。


2.「事実」はだれが判定する?


とりあえずこの文章を読んでみてください。

 ズックの革鞄二つを振分けにし、毛繻子の蝙蝠傘をぶら下げて、二十八歳の夏目金之助が下りの汽車で神戸駅に着いたのは、明治二十八年四月八日の午後五時ごろであった。
 四国へ渡る汽船は、この時間もうないので、はじめから今夜は神戸の宿に泊って、明朝一番の船に乗るつもりでいる。

 すると、線路をへだてた向かいのプラットフォームに、ただならぬ人だかりがしている。どうも旅行客ばかりではないようだ。それでしばらくそっちへ眼をやっていると、やがてその人混みがどっと崩れて、それを追いのけ追いのけ、巡査の一団がやって来た。
 巡査ばかりではない。そのまんなかに、編み笠をかぶった赤衣の男をとりかこんでいる。どうやら手錠をはめられた囚人らしい。

「ありゃ何かね」 と、夏目金之助は、ちょうどそこを通りかかった駅員にきいた。

「あれは……あいつにちがいない」
 駅員も好奇心にみちた眼でみやって、
「こないだ下関で李鴻章をピストルで撃ちよったやつがありましたやろ」
といった。
「あの犯人がけさ早く船でここの港に着いて、神戸署で休憩したあと、これから東京ゆきの汽車に乗せられるんですわ」
「東京へ」
「いえ、東京は通過するだけで、そのまま北海道の監獄へ送られるとか、そんな話ききましたが」
「ははあ」

 その男のことは、金之助も新聞で読んで知っている。
 去年からの戦争の勝敗がこの二月に明らかになって、三月十九日清国の講和全権李鴻章一行が下関にやってきて、日本側の全権伊藤博文、外務大臣陸奥宗光と談判にはいった。ところが三月二十四日、会場となった春帆楼から、支那風の輿に載って旅宿に帰る途中の李鴻章に、群衆にまぎれてれて接近し、ピストルで狙撃した男がある。
 汚れたアツシを着、縞綿ネルの股引に紺足袋、草履ばきという若い男であった。弾は李鴻章の顔面に命中し、いちじは談判のなりゆきもあやぶまれる騒ぎになった。

…(略)…

 たしかに上州出身の壮士気取りの小山六之助という男で、明治二年生まれというから自分より二つ年下になるが、若気の至りにしても軽率なやつだ。

 夏目金之助はそんなことを考えながら、神戸駅を出た。ひとまず知り合いに紹介された宿屋にゆくつもりだが、護送される若い囚人のことなどより、もう彼の心は、あした渡る四国の松山への希望と不安と好奇心でいっぱいであった。彼はそこの中学の英語教師として赴任するのであった。
 神戸駅ですれちがって、帝大出の夏目金之助は西へ、無期徒刑の小山六之助は東へ。

 漱石年表によると、彼が松山の外港三津浜に着いたのは、四月九日午後一時過ぎとある。

「ぶうと云って汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。野蛮な所だ。もっともこの熱さでは着物はきられまい。日が強いので水がやに光る。見つめていても眼がくらむ。事務員に聞いてみるとおれはここへ降りるのだそうだ。見るところでは大森ぐらいな漁村だ。人を馬鹿にしていらあ、こんな所に我慢が出来るものかと思ったが仕方がない。威勢よく一番に飛び込んだ」

さて、上記の引用文から、事実とフィクションを選り分けてみてください。

引用は山田風太郎『明治バベルの塔』(ちくま文庫)所収の短編『牢屋の坊ちゃん』の冒頭部分である。そうして引用最後の「」でくくってある部分は、原文に引用された夏目漱石の『坊っちゃん』の一部である。

まず最初の一文
「ズックの革鞄二つを振分けにし、毛繻子の蝙蝠傘をぶら下げて、二十八歳の夏目金之助が下りの汽車で神戸駅に着いたのは、明治二十八年四月八日の午後五時ごろであった。」
これはどうだろう。

あとの方に出てくる「漱石年表によると……」という記述を信じるならば、「明治二十八年四月八日の午後五時ごろ」「神戸駅に」「二十八歳の夏目金之助が下りの汽車で」「着いた」、これはとりあえず「事実」と言えるのかもしれない。もしかしたら、確認できる年表があるかもしれないし、あるいは漱石自身が書簡など、当時の記録を残しているのかもしれない。
では振り分けにした「ズックの革鞄」「毛繻子の蝙蝠傘」はどうだろうか? これは、当時の風俗を考えると、十分その可能性はあるけれど、ほんとうにそのときの金之助がそういう格好をしていたのだろうか。これは「事実」かもしれないし、「事実でない」かもしれない。わたしたちに判定はできない。

少しあとの「去年からの戦争…」以下の文章はどうだろう。
これはわたしたちは「下関条約」として知っている日清戦争の講和条約のことだ。
この狙撃事件は「歴史的事実」として、歴史の本には記述されている。
実際に、その小山六之助は三月二十四日、李鴻章を狙撃し、無期徒刑囚として網走刑務所に送られた。
これは事実だ。

ならば小山六之助が四月八日午後五時ごろ、神戸から汽車に乗ったのだろうか。
これは何とも言えないが、資料が残っていれば「事実」かフィクションかの判断がつく。

では、夏目金之助は、小山六之助と神戸駅ですれちがったのだろうか。すれちがわなかったのだろうか。これを「事実」であるか、「事実でない」か、わたしたちは確定することができない。後の漱石がこのことを記していないことを考えると、そのような「事実」はなかったのかもしれない。あるいは、偶然に行きあわせたけれど、漱石はそのことを忘れてしまった、あるいは人だかりの原因を知らないままだったので、特に記憶にもとどめなかったのかもしれない。これが「事実」であった可能性は誰にも否定できないのである。

では、最後に風太郎が引用している『坊っちゃん』の記述。
これは純然たるフィクションの一節である。けれども、「事実」ではないのだろうか。後に漱石となる夏目金之助が実際に見た光景の描写ではないのだろうか。実際に見た光景ならば、「事実」ではないのだろうか。

ここで明らかになったことをまとめてみよう。

・ある出来事が「特定の出来事」となるためには、まず第一に、それを目撃−体験する人がいなければならない。

・その出来事は、目撃−体験された人によって、語られる(そうしてその語りを記述する人がいる)か、記述されなければならない。

・さらに、その「語り」や「記述」は第三者によって「事実」である、と判定されなければならない。

この三つの段階を経なければ、「事実」としてあとに残っていかないのだ。
ところが、アーサー・C・ダントは、単独の「事実」では、歴史となり得ない、という(※「物語をモノガタってみる」参照)。起こってからしばらくたって、ほかの出来事と関連づけることによってのみ、歴史となり、この歴史を記述しようと思うと、必然的に「はじまり」と「終わり」を持つ「物語」の構造をとる、というのである。

となると、歴史小説と、小説の体裁をとらない歴史のちがいはどこにあるのだろう? あるいは、逆に考えると歴史小説とそれ以外の小説のちがいは、いったいどこにあるのだろう?


3.「歴史小説」って何?


ギボンの『ローマ帝国衰亡史』(ちくま文庫)第一巻の巻末解説で、翻訳にあたった中野好夫は、このように明言している。「訳者は本書をあくまでも歴史文学として訳出した」。どこが文学だというのだろうか。もう少し中野の説明を見てみよう。

 哲学者ラッセルが「芸術としての史書」と題した晩年に近いエッセイの中で、興味深い回想を述べている。ゼノピアと呼ぶ三世紀のパルミラ女王、美貌で、文化保護者で、しかも権力欲のために結局は国を滅亡に導いたある女傑に、たまたま彼が興味をもち、「ケンブリッジ古代史」本でその関係記事を読んだという。が、結果は完全に索然とした印象で失望した。そこで、かつて読んだギボンを思い出し、改めて再読してみたところが、たちまちその人間像が躍如として蘇ったというのだ。「ギボンは彼女をめぐって彼の感情をはたらかせている。彼女とともにその宮廷にいたら、どんなであったろうか、それを想像して描いているからだ。彼はただ既知の事実を、冷ややかな年代気風に羅列するのではなく、生々とした想像力をもって描いているからだ」というのである。これではすでに文学の領域。

なるほど。「冷ややか」なのが歴史書で、「生き生きとしている」のが歴史小説なのか。
だが、網野善彦の『異形の王権』はどうだろう? これは歴史の研究者が著した歴史書ではあるけれど、もうよだれが出るほどおもしろい。網野の描く後醍醐天皇は、実に「生き生きとしている」。では、これは歴史小説なのだろうか。わたしが知らないだけで、こんなふうにわくわくするほどおもしろい歴史書、逆に「冷ややかな」歴史小説もあるのではないだろうか。

さて、もう少しちがう角度から見てみよう。これは「歴史小説」だろうか?

 わたしは政敵殺害の知らせを、イタリアへもどる船の甲板の上で受け取った。わたしは愕然とした。だれでも敵にわずらわされなくなればほっとするにきまっているが、わたしの後見人は彼の行動の引き起こす遠い結果に対して、老人らしい無関心ぶりを示したのであった。つまり、彼はわたしがまだ二十年以上もこの殺害のもたらす影響を被りながら生きてゆかねばならぬことを忘れていたのだ。わたしはアウグストゥスの記憶に汚点をつけたオクタウィウスの追放のこと、他のかずかずの罪をつぎつぎひき起こしたネロの最初の犯罪のことを考えた。またドミティアヌスの晩年を思い起こし、この人並みはずれて悪いわけでもない凡庸な男が、恐怖に悩まされ恐怖の種をまきながらしだいに人間らしさを失い、ついには森の中でおいつめられた獣のように宮殿のただ中で斃死したことを考え合わせた。

(マルグリット・ユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』多田智満子訳 白水社)

ここでの「わたし」とは、ローマ帝国の全盛期を築いた、いわゆる五賢帝のひとり、ハドリアヌスである。ユルスナールの小説は、老年になり死を前にしたハドリアヌスが、みずからの生涯を回想する、という体裁になっている。ここに登場するアウグストゥス、オクタウィウス、ネロ、ドミティアヌスもすべて歴史上の登場人物であるし、それぞれが過去の歴史的事件に対応する記述となっている。

けれども、「わたし」という一人称をどう考えたらよいのだろう。果たして、実際にハドリアヌス帝は、政敵殺害の知らせを聞いて、「愕然とした」のだろうか? 知らせを聞いて、自分が就任するまでの帝国の歴代皇帝のありように思いを馳せたのだろうか?
ありうるかもしれない。けれども、わたしたちはローマ人ではない。ローマ人が、こうした歴史感覚を持っていたかどうか、知りようがないし、ハドリアヌス帝がほんとうにこう考えたかどうか確かめることもできない。この部分はむしろ「心理小説」と呼んだほうがふさわしい。この作品は、ハドリアヌス帝の名を借りた「わたし」の心理が、「歴史的人物」や「歴史的事実」を散りばめながら、克明に描かれる「心理小説」でもあるのだ。

そう考えると、いわゆる「小説」のなかにも、歴史的事実が重要な役割を果たしているものが少なくない。たとえばミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』は、1968年のチェコへのワルシャワ条約機構軍が軍事介入していったことが、繰りかえし描かれる。けれども、一般にこの作品は「歴史小説」に分類されることはない。フランス革命を背景とした小説、第一次、第二次両世界大戦を背景に、実在と虚構の人間を取り混ぜて描いた小説なら、枚挙に暇がない。

つまり、歴史書と歴史小説の境界も、歴史小説とそうではない小説の境界も、きわめて曖昧なものなのだ。

では歴史ではなく、同時代に起こり、目撃者も証言者もたくさんいる「事実」に基づき、事実以外のものは排除した作品はどうだろう。これはフィクションとはっきり線引きができるのではあるまいか。つぎはそういうものを見てみよう。


4.「事実」でもあり、フィクションでもあり


ノンフィクション・ノヴェルの嚆矢となった『冷血』は、まず冒頭に作者の謝辞が掲げられている。そこでカポーティは協力してくれたさまざまな人々に感謝しながら、「本書の中の材料で私自身の観察によらないものはすべて、公の記録から取ったか、もしくは、直接関係した人々とのインタヴュー、むしろ相当長い期間にわたって行われた無数のインタヴューの結果から生まれたものである」として、この作品が作者のフィクションではないことを明らかにしている。

『冷血』が扱うのは、1959年11月15-16日、アメリカ中西部カンザス州ホルカムという田舎町で起きた一家四人の惨殺事件である。

カポーティは二ヶ月後、『ニューヨーク・タイムズ』紙上で事件のことを知り、調査を開始する。探偵を雇い、ありとあらゆる人に面会した。特に、ふたりの犯人が逮捕されてからは、処刑直前の彼らを独房に訪ねて面談を重ね、さらに処刑にも立ち会う。そうして、六千ページにも及ぶ資料を収集したのである。
その綿密な調査記録をもとに、カポーティは「ルポルタージュ」「ドキュメンタリー」ではなく、自分の作品を「ノンフィクション・ノヴェル」と呼ぶものに仕上げたのである。

新潮文庫版『冷血』の巻末解説には、瀧口直太郎によって「ノンフィクション・ノヴェル」の特徴が三点にまとめられている。

「1.作者は作品の中に登場すべきでない。」

実際にこの作品の中には、インタヴューという形式をうかがわせる部分があっても、それは実に控えめで、あたかも自然に語ったかのような印象を受ける。たとえばこのような部分。

「ときたま、ぼくは一日に六十マイルも運転することがあります」彼はある知人にいった。「そのため、ものを書く時間があまり残らないんですよ。日曜だけは別ですがね。さて、十一月十五日のあの日曜日ですが、ぼくはここの部屋にすわって、新聞に眼を通していたんです。

おそらくこの「知人」というのが、インタヴューにあたったカポーティ自身のことであろう。だが、「私」という一人称を登場させないことによって、客観性をより高めているのである。

「2.選択によって作者の見解を示す。」

六千ページという膨大な資料を、343ページの作品にまとめあげるにあたって、資料は入念に取捨選択された。その選択は、すべてカポーティによって解釈され、分類され、取捨選択に付せられたのである。

「3.創作的処理を必要とする。」 それは、たとえばこのような部分に見て取ることができる。

 リヴァー・ヴァレー農場の主人ハーバート・ウィリアム・クラターは四十八歳だったが、生命保険にはいるため最近健康診断をもらった結果、自分がすばらしく健康なのを知った。縁なしの眼鏡をかけ、五フィート十インチをちょっと切れるくらいの、普通の身長にすぎなかったが、男の中の男といった風采をしていた。肩幅は広く、髪の毛は黒ずんだ色を保ち、顎の角張った、自信に満ちた顔は、健康色にあふれた若さを失わず、真っ白な歯は、まだクルミを平気で噛み砕くほど強かった。

これが「創作的処理」と言えるのは、実際にはカポーティはこのクラターには会ったことがなく、というのも、クラターは被害者であって、その生前の様子をカポーティが知っているはずはないからなのである。
おそらくインタヴューや写真によって、カポーティは生きたクラター像を思い描き、それを作家的手腕でもって「生き生きと」描写した。それが上記のような記述となってあらわれている。

けれども、以下のような記述はどう考えたらよいのだろうか。

 いやちがう、おれは想像しすぎているんだ。ディックはそんなこと――「しゃべっちゃうこと」――などけっしてしまい。考えてもみるがいい、これまでに何度ディックがこういうのを聞いたことか、「ぶんなぐられて目が見えなくなっても、おれはやつらにゃなんにもしゃべらねえ」もちとん、ディックは「ほら吹き」だった。ペリーにはわかってきたことだが、ディックの強がりは、自分が文句なしに優位に立っている場合にだけ本物だった。

この部分は犯人の片割れ、ペリーの心情を描いた箇所である。カポーティは明らかに犯人のふたりを描き分けている。それぞれとインタヴューを重ね、たとえそれが証言された内容であっても、カポーティは自分が得た印象によって、ペリーとヒコック(作中ではペリー・スミスが「ペリー」という名前で記述されるのにたいして、ディック・ヒコックはほとんどの場合、「ヒコック」という姓のほうで記述される)の人間像を作り上げていき、それを元に、インタヴューや証言を取捨選択した、とも言えるのだ。

さらに、事件が起こるまで、この事件の登場人物が、あたかも小説の登場人物のように、事件が起こっていく時間軸に沿って配置され、紹介されていく。そのことによって、倒叙ミステリを読むように、どのように事件が起こっていくのだろう、というサスペンスを持って、読者は作品を読み進めていくことになる。

つまり、文体においても、構造においても、小説とは区別のつけようがないものなのである。

事件は確かに起こった。
事件について語る人々も現実に存在した。
こうした事実を、作者の得た印象を元に、創作的に処理された作品をも「事実」と呼ぶべきなのだろうか、それとも「ノンフィクション・ノヴェル」という種類のノヴェル、すなわち「小説」と理解すべきなのだろうか。

ここでも、「事実」と「フィクション」の境界は、曖昧なものなのだ。


5.私小説は「事実」の小説か?


確かに「実際に起こった事件」にもとづいている、という保証は、普通のフィクションには持ち得ない魅力である。『冷血』とそっくり同じ構造を持っている、現実の事件には基づいていないルース・レンデルの作品『ロウフィールド館の惨劇』(角川文庫)はタイトルを見てもあきらかなように、いかにもミステリとして扱われる。原題の "A Judgement In Stone" は、おそらくはカポーティの『冷血』の原題 "In Cold Blood" を響かせているはずなのに。

けれども、たいていのフィクションは、実際に起こったできごとをもとにしている、とも言えるのである。
確かに、誰もが知っている事件ではないかもしれない。けれども山田風太郎が『牢屋の坊ちゃん』のなかで引用した漱石の『坊ちゃん』の部分は、おそらくは漱石が実際に目撃し、記憶に留めた出来事を描いているのだ。これも紛う方なく「事実」に基づいている。

だが、わたしたちはその部分を「事実に基づく」とはあまり考えない。おそらく漱石が現実に経験した出来事の少なからぬものが、『坊ちゃん』初め多くの作品に挿入され、あるいは描写されているはずだ。けれどもわたしたちは『道草』などの一部の例外を除いては、その作品を「漱石が遭遇した出来事」あるいは「事実」を描いた作品とは見なさない。それはなぜだろうか?

『それから』に書かれたことに有り得べからざることはない。出てくる人も皆人間である。しかし何処かつくられた感じがする。之を譬えるに自分は運河を持って来たい。運河も自然の法則に従っている。しかし人間の作ったものだ。何処から何処まで人間の考でつくられている。作者は『それから』を書く時、すべて書くことを意識していたにちがいない。……余りに用意がゆきとどいている結果、何処となく作ったものと云う感じを与える。之は『それから』に於ける技巧上の唯一の不注意と思う。

(武者小路実篤『「それから」に就て』)

武者小路実篤は、漱石の作品は「作ったもの」を感じさせる、すなわち「事実」が「虚構化」されている、と指摘する。さらにそれを「不注意」と言っているのだ。
ここにあるのは「事実」と「虚構」は対立的なもの、「虚構化」を感じさせてはならない。「虚構」に基づくより「事実」に基づいた方が自然だ、という思想だ。

この武者小路の一文は、中村光夫『明治・大正・昭和』(岩波同時代ライブラリー)の中に章の初めのエピグラムとして引用されている。この引用を受けて中村光夫は日本では小説はこのように読まれてきた、と指摘する。

たとえば武者小路さんの小説を読めば、武者さんが、ほんとにこういうことをしたんだなと思って読むし、志賀さんの小説を読めば、志賀直哉の生活はこうだったんだなと、そんなふうに考えて、そういうところに感動したり、反撥したりする。これが我国の私小説の鑑賞法であります。

これは考えてみますと、小説というものの定義に反する小説です。小説というものは、古今東西、いつ見ましても、ある仮構の物語を作者が書いて、したがってその中に描いている生活と作者自身の生活は別ものである、ということが暗々裡に前提とされているわけでありますけれども、そういう小説の前提をこわした小説、それが日本の私小説だということになります。

つまりここで武者小路が「つくりもの」と批判しているのは、中村の言う「暗々裡の前提」を批判している、ということになる。
そこから中村の論は、私小説批判、具体的にはその「皮切り」である田山花袋の『蒲団』批判へと続いていく。

この中村の論を押し進めていくと、小説は虚構を扱うものであったはずが、日本では自然主義文学などというものが起こったために、作家の「事実」を扱うものに変質していった、ということになる。

だが、『蒲団』は果たして「私をそのまま作品の前面に押し出して、私の考えたこと、したことを嘘を混えずに書」いたものだったのだろうか。

これまで日本の自然主義文学=私小説は、田山花袋の『蒲団』をもって始まると考えられてきた。私小説とは、ここでは「作者=主人公であり、作品は作者の経験のありのままの告白である」ような文学であるとおおざっぱにとらえることにする。

まず、『風俗小説論』のなかで、中村光夫は田山花袋が『蒲団』を書くに至った背景事情を述べた『東京の三十年』から引用しながら、その作品の背景にあった花袋の思想をあきらかにしている。

「丁度其の頃私の頭と体とを深く動かしていたのは、ゲルハルト・ハウプトマンの "Einsame Menschen" であった。フォケラァトの孤独は私の孤独のような気がしていた。それに、家庭に対しても、事業に対しても、今までの型を破壊して、何か新しい路を開かなければならなかった。幸いにして私は外国――殊に欧州の新思想を歪みなりにも多い読書から得ていた。…私も苦しい道を歩きたいと思った。世間に対して戦うと共に自己に対しても勇敢に戦おうと思った。かくして置いたもの、壅蔽して置いたもの、それを打ち明けては自己の精神も破壊されるかと思はれるやうなもの、さういふものをも開いて出して見ようと思った」(「東京の三十年」)

…中略…

「蒲団」を読んで見ても、また右に引いた彼の言葉からも、まず明かなのは、花袋が感動し、模倣したのは、戯曲にかかれたヨハンネスであり、この戯曲を書いたハウプトマンではない、ということです。
「フォケラァトの孤独は私の孤独のような気がしていた」というところから、花袋はこの作中人物を操る作者の手付には眼をとめず、いきなりヨハンネスを実演してしまったのです。その実演がそのまま芝居になると思いこんでしまったのです。

 作者みずから作中人物と化して躍ることで、小説をつくりあげ、併せてそこに作品の真実性の保証をみることに、花袋から田中英光まで一貫した、我国の私小説の背景をなす思想があると思われます。

確かに主人公の年齢、家族構成、勤め先など、発表当時の花袋と重なる部分も多い。
現実に、花袋は岡田ミチヨという内弟子を取っていた、ということもある。
そうして、当時の多くの人々は、作者=主人公時雄と理解し、花袋の勇気ある告白に喝采を送ったのである。

中村は花袋の『蒲団』を外国文学を誤って理解し、「事実」を「告白」しさえすれば小説になるという「私小説」の源流となった、と批判する。

だが、私小説=事実の告白で、私小説以外の文学は「虚構」である、と割り切ってしまっていいものなのだろうか。

後藤明生の『小説――いかに読み、いかに書くか』(講談社現代新書)では、一章を割いて「事実かフィクションか」というタイトルで、田山花袋の『蒲団』が、従来考えられていたように、必ずしも「事実の告白」ではなかったことが論考されている。
後藤は『蒲団』の以下のような特徴を指摘する。

(1)新旧世代の分離、断絶を捉えた小説である。
(2)これは、そういう時代背景の上に巧みに仕組まれた三角関係の小説である。
(3)ハウプトマンの『寂しき人々』を、なかなかうまく下敷きにして、「近代化の曙期」明治時代の日本に当てはめた小説である。
(4)中村(※光夫)説では、作者=ヨハンネス(『寂しき人々』)=竹中時雄であり、したがって作者と作中人物との距離が皆無であり、作品全体が作者の「主観的感慨の吐露」ないし、モノローグに終始している、というが、必ずしもそうではない。
(5)この小説における「自然主義」は、二つの意味に解釈できる。一つは、叙事、叙景が、人間の内部(意識)とまったく無関係におこなわれる、という意味での自然描写、および人事の記述である。
(6)もう一つは、「人間獣」のホンネという意味での「自然」である。ただし、このホンネは必ずしも経験された「事実」とは限らない。いわば「可能性」としてのホンネである。したがたがってこれは、素材そのものが事実か否かとは無関係に、「私小説」とはいえない。

とくに、三角関係、つまり、作中の芳子には「同志社大学神学部の学生」である田中秀夫という恋人が、作品の中には登場する。だがしかし、この「田中秀夫」がモデルとなったような実在の人間がいたかどうか、これまで問題となってこなかったことを後藤は指摘するのである。これをもし三角関係の小説と読めば、作中の「時雄」の役回りはきわめて滑稽な「ひとりよがりの勘違いおじさん」(※これはわたしの言葉です。念のため)ということになってしまう。

花袋は「かくして置いたもの、壅蔽して置いたもの、それを打ち明けては自己の精神も破壊されるかと思はれるやうなもの、さういふものをも開いて出して見よう」と言って、『蒲団』を著した。
けれども、この「かくして置いたもの、壅蔽して置いたもの」が、そのまま花袋の「事実」であったとはいえないのだ。

後藤は、「『蒲団』は必ずしも経験された事実そのままに描いたものではない」と指摘する。芳子のモデルとされる岡田ミチヨが「私は本当に『蒲団』の女主人公でせうか」と疑っている手記を引き、さらには三角関係の一方の頂点である「田中秀夫」が、これまで「私小説=作者の告白」として読まれてきたために、まったく見落とされてきたのではないか、とするのである。

『蒲団』にはこのような部分がある。

 中根坂を上って、士官学校の裏門から佐内坂の上まで来た頃は、日はもうとっぷりと暮れた。白地の浴衣がぞろぞろと通る。煙草屋の前に若い細君が出ている。氷屋の暖簾が涼しそうに夕風に靡く。時雄はこの夏の夜景を朧げに眼には見ながら、電信柱に突当って倒れそうにしたり、浅い溝に落ちて膝頭をついたり、職工体の男に、「酔漢奴! しっかり歩け!」と罵られたりした。急に自ら思いついたらしく、坂の上から右に折れて、市ヶ谷八幡の境内へと入った。境内には人の影もなく寂寞としていた。大きい古い欅の樹と松の樹とが蔽い冠さって、左の隅に珊瑚樹の大きいのが繁っていた。処々の常夜燈はそろそろ光を放ち始めた。時雄はいかにしても苦しいので、突如その珊瑚樹の蔭に身を躱して、その根本の地上に身を横えた。興奮した心の状態、奔放な情と悲哀の快感とは、極端までその力を発展して、一方痛切に嫉妬の念に駆られながら、一方冷淡に自己の状態を客観した。

 初めて恋するような熱烈な情は無論なかった。盲目にその運命に従うと謂うよりは、寧ろ冷かにその運命を批判した。熱い主観の情と冷めたい客観の批判とが絡り合せた糸のように固く結び着けられて、一種異様の心の状態を呈した。

 悲しい、実に痛切に悲しい。この悲哀は華やかな青春の悲哀でもなく、単に男女の恋の上の悲哀でもなく、人生の最奥に秘んでいるある大きな悲哀だ。行く水の流、咲く花の凋落、この自然の底に蟠れる抵抗すべからざる力に触れては、人間ほど儚い情ないものはない。  汪然として涙は時雄の鬚面を伝った。

中村光夫はこの場面をこのように指摘する。

 おそらく『蒲団』のなかの一番見事な描写は、愛弟子の恋人の情況を知つた時雄が泥酔して芳子の仮寓を訪ねるあたりですが、その途中の神社で泥まみれに寝転んで泣く場面にたつた一行、「汪然として涙は時雄の鬚面を伝つた。」といふ、作者が主人公の滑稽を意識しかけたかと思はれるやうな章句があります。
 しかしこの元来他人の登場しない独白小説で、「髭面を伝ふ涙」は作者自身の笑ひすらよびさまさず、逆にこの言葉の象徴する時雄の甘えた自意識は、そのまま誰の手も触れられずに終わります。
 この主人公が実生活に演じた事件の滑稽さがまつたく作者の眼を逃れて、喜劇の材料が無理押しに悲劇的独白で表現されたところに、我国の私小説が誕生したのです。

だが、もういちど『蒲団』を読み返してみると、「実生活に演じた事件の滑稽さがまつたく作者の眼を逃れて」いるとまで言い切れるのだろうか。

現実に花袋がこのように泥酔して愛弟子の仮寓を訪ねたかどうかはここではひとまず置く。
だが泥酔した人間が、氷屋ののれんを「涼しそうに夕風になびいている」として見ることがあるだろうか? 外部の視点がなければ、「電信柱に突当って倒れそうにしたり、浅い溝に落ちて膝頭をついたり、職工体の男に、「酔漢奴! しっかり歩け!」と罵られたり」している主人公の描写はありえない。
あるいは「汪然として涙は時雄の鬚面を伝った。」の一文にしても、「髭面」という一語をわざわざ書き加えるのは、外部の、高みに立って、事態を眺めている視点があるからこそ、ではないのか。「独白」ならば、涙があふれることはあっても、「髭面を伝」う、という描写にはならない。

ここでわたしが指摘したいのは、「(※私小説を是とする思想の背景にあるのは)自分のことを自分で書くくらい間違いのないことはない。事実である以上、嘘があるわけはないという考え方です」と中村は言うのだけれど、「自分のことを自分で書く」時点で、すでに「他者の視点」は不可避的に入ってきてしまう、ということなのである。

「作者に起こったありのまま」を「告白」したはずの私小説でさえ、情景描写があり、他者の眼が導入されている。そんなものは、実際の「私」の経験ではありえない。一種の「虚構化」がほどこされているのだ。そうして、この「虚構化」は、書くこと本来が不可避的に持っていることなのではないのだろうか。


6.「事実」から隔てられる文章、「事実」に基づく虚構


わたしたちは、見たり、聞いたり、体験したり、その体験を通じて考えたことや感じたことをだれかに聞いてほしくて、それを言葉にし、話したり、書いたりする。

話すときでも、「見たこと」「聞いたこと」「感じたこと」のすべてを言葉にするわけではない。無意識のうちに言わずにすますこともあるし、自分でも気がつかないうちにあることがらを隠すこともある。意識的に、隠してしまうこともある。

さらに、それを文章にしようとしたら、もう一段階のプロセスがある。
「書き言葉」は「話し言葉」とはちがう。一定の「文体」というものを持つ。
だからこそ、文体のストックのなかった明治時代に、二葉亭四迷を初め、多くの作家たちが文体を作り出すための、「産みの苦しみ」を経験したのである(自然主義文学もその過程のなかから生まれた)。

つまり、文章は、先行する文章の模倣しかできないのだ。

ためしにわたしたちが小学校に入って「作文」の授業で書くことを学び始めたときのことを思い出してほしい。句読点の位置を初め、語尾の統一や、あるいは感情のあらわしかた、「きょう、わたしががっこうへいったときに…」といった、行動や経験の扱い方、おびただしい約束事を教わったことを。
文章というのは、そうした約束事の組み合わせで成り立っているのだ。
それが「先行する文章の模倣」であるということだ。

文章は二重の意味で「事実」から隔てられている、きわめて人工的なものなのである。

ところで、コミュニケーション行為のさいに、わたしたちは無意識のうちに暗黙のルールに従っている。
「このコミュニケーションは、わたしたちにとって意味がある」というルールだ。そうして、意味を持つように、お互いに協力しあっている。
仮に「昨日のサッカー、残念だったね」(※これを書いたのは、ワールドカップのオーストラリア戦のつぎの日だったのです)とあなたが言ったことに対して、相手が「その話はしたくない」と答えるようなときですら、あなたは「こいつはコミュニケーション行為を妨害した」と腹を立てるかわりに、(ああ、この人は、負けたのが悔しくてしょうがないんだな)と判断して、話題を変えるだろう。このように、相手がこのルールに従うことを拒んでいるという明白な確証が得られない限り、わたしたちは、相手もルールに従って、同じゲームをしているのだ、と、判断するようにできている。相手の話は「聞くだけの価値がある」と判断するのだ。

本を読むときも同じである。
わたしたちは「この本は読む価値がある」というルールに従って読んでいる。

本のタイトルも、このルールを補強してくれるものだ。『ローマ帝国衰亡史』というタイトルは、おそらくローマ帝国の最盛期からはじまって、終末にいたるまでが記されているのだろう、と思うし、『時間の比較社会学』は、おそらくさまざまな社会が、それぞれに「時間」をどんなふうにとらえているかが記されているのだろう、と思う。

ところが小説の場合、何にこの「価値」を求めていったら良いのだろうか。
夏目漱石、トルストイ、ドストエフスキー、フォークナー、いわゆる「文豪」の作品なら「間違いはない」。
けれども、フィリップ・ロスの『ポートノイの不満』はどう考えたらいいんだろう?
カート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス 5』は?

このとき、「実際にあったこと」「事実に基づいた」という惹句は、まったくのフィクションには持ち得ない魅力になっていく。

けれども、その反面、「事実にもとづかない」フィクションというのも存在しないのである。

カート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』はこんな書き出しで始まる。

 ここにあることは、まあ、大体そのとおり起こった。とにかく戦争の部分はかなりのところまで事実である。当時知りあいだった男のひとりは、自分のものではないティーポットを持っていたかどで実際に銃殺されている。またひとりは、戦争が終ったら殺し屋を雇って怨みのある連中をみんな消してやると実際にいきまいた。その他もろもろ。ここではすべて仮名を用いた。(伊藤典夫訳 ハヤカワ文庫)

「わたし」が捕虜としてドレスデンに抑留されたこと、そこで連合国による1945年の大空襲に出くわしたこと。そうしてこのような文に続いていく。

 人はふりかえってはいけないとされている。わたしも、二度とふりかえらないつもりだ。  とにかく、わたしはこの戦争小説を書きあげた。つぎは楽しい小説を書こう。  これは失敗作である。そうなることは最初からわかっていたのだ。なぜなら作者は塩の柱なのだから。それは、こう始まる――

聞きたまえ―― ビリー・ピルグリムは時間のなかに解き放たれた。

そしてこう終わる――

プーティーウィッ?

もちろんこの1.部分から、すでに小説は始まっている。この部分は当然作者ヴォネガットの「ありのままの告白」ではなく、一種の仕掛けだ。それでも、ヴォネガットは第二次世界大戦中にドレスデンに抑留された経験を持つ。つまり、ビリー・ピルグリムという時の流れを巡礼する時間旅行者が主人公の物語、「プーティーウィッ?」という言葉で終わる小説は、作者の実際の体験に基づいているのだ。

たとえそれがSFの枠組みを用いていようが、あらゆる作品は人間の行動を描いている。現実の人間の行動を模倣している。その意味で、たとえ「ビリー・ピルグリムという時間旅行者」が虚構の産物でも、『スローターハウス5』は「事実に基づく」作品なのである。


7.物語・事実・真実


もういちど、振り出しに戻ってみよう。
物語とは何だろうか。

物語とは、アリストテレスが言うように、「はじめ」と「終わり」で区切られた出来事である。
わたしたちは出来事を、ひとかたまりの「出来事」として認識する。
連続のひとつながりのあれやこれやに「はじめ」と「終わり」という切れ目を入れて取り出すのである。そうしてたいていこの「はじめ」と「終わり」は「原因」と「結果」として認識されている。

つまり、わたしたちが「出来事」を「出来事」として認識するやりかたは、「物語として認識する」ということなのである。(※参照「物語をモノガタってみる」

「事実」とはなんだろう。
ここでは「実際に起こったことがら」ぐらいに理解することにしよう。
「実際に起こったことがら」を言葉にする人は、その出来事を「はじめ」と「終わり」、言い換えれば「原因」と「結果」を自分の判断で定めて、「出来事」と認識し言葉にする。
ここで「実際に起こったことがら」は物語となる。

さらにそれを記述しようとするとき、もう一段階、「言葉の文章化」という虚構化の手続きを経なければならない。
たとえ、それはどれだけ「事実ありのまま」と体験した「わたし」が思ったとしても、二重の段階での虚構化が加えられているのだ。

では、それをなぜわたしたちは小説を読んで、「これは事実にちがいない」と思ったり「事実のはずがない」と思ったりするのだろうか。
「事実」と小説の関係について、石原千秋は『大学受験のための小説講義』(ちくま新書)のなかでこうまとめている。

リアリズム小説とは、出来事がいかにも現実に起きたように書いてある小説で、目に見えるものだけを「客観的」な「事実」として書く技法によって成り立っている。しかしその実、リアリズム小説は目に見えないもの、すなわち登場人物の「気持ち」を読み取ることを重視した小説でもあるのだ。なぜそうなるのか、説明すればこうなる。

 リアリズム小説の書く「事実」はたしかに「事実」である。しかし、「事実」が人生にとってどういう意味を持つのかは人の「気持ち」が決めることだ(ここで言う「気持ち」とは、少し高級な言い方をすれば「内面」であり、もっと高級な言い方をすれば「自我」である)。「事実」が人生にとって持つ意味こそが「真実」と呼ばれるものである。人間を外側から見たように書くその技法とは裏腹に、目に見えない「気持ち」にこそ「真実」が宿っていると考えるのが、リアリズム小説なのである。ここに、受験小説で「気持ち」ばかりが問われる理由がある。

これは、わたしたちが現実に自分が見聞きしている「事実」を、出来事とする認識のやりかたでもある。
わたしたちは自分が見聞きしたことを、原因と結果を持つ物語として認識する。そうすることで、なにをしようとしているかというと、そこに「目には見えない真実」を見いだそうとしているのである。そうして、その「真実」とは、自分が決めることなのだ。

「人間、所詮、金だ」という人にとっての「真実」とは、「所詮、金」ということである。その人は、自分の「真実」を補強するために、自分の見聞きしたことに「原因」と「結果」という切れ目を入れて、「出来事」として取り出す。

「わたしは小さい頃の不幸な体験によって、人生を大きく狂わされてしまった」という「真実」を持つ人は、それを補強するために、自分の過去に起こったことに「原因」と「結果」という切れ目を入れて、「出来事」として取り出す。

「あの人は自分にとってかけがえのない人だ」という「真実」を持つ人は、その人のかけがえのなさを、自分の過去に起こったことに「原因」と「結果」という切れ目を入れて、「出来事」として取り出す。

小説を読んだときも同じようにそのなかに「真実」を見つけようとするのだ。
『坊っちゃん』を、「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」から「おれは食うために玉子は買ったが、打つけるために袂へ入れてる訳ではない。ただ肝癪のあまりに、ついぶつけるともなしに打つけてしまったのだ。しかし野だが尻持を突いたところを見て始めて、おれの成功した事に気がついたから、こん畜生、こん畜生と云いながら残る六つを無茶苦茶に擲きつけたら、野だは顔中黄色になった」(引用は「青空文庫」)というところを取り出し、「一本気な主人公が、結局は敗北することになるけれど、それでも正義を貫く」という「真実」を見つける人もいる。
あるいは、「この婆さんがどういう因縁か、おれを非常に可愛がってくれた」から「死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。」という部分を取りだして、「無償の愛」という「真実」を見つける人もいる。

あるいは、『坊っちゃん』を事実にもとづかない、と考える人は、山田風太郎が引用したような、現実にその場を見なければ書けないような部分は読み流してしまう。
武者小路実篤のように、『それから』を「運河」ととらえる人は、そういう「はじめ」と「終わり」を引き出してから、その「真実」を見つけたのだ。

さらにわたしたちは、その「真実」が自分にとってばかりでなく、普遍的な「真実」であると考えたい。「現実にあったこと」「小説の外でも真実であること」としたい、という欲望を持つ。
だからこそ、小説を読んだあとに、ああ、あの人はまるで『坊っちゃん』に出てくる「野だいこ」だ、と人に当てはめてみたり、ああ、この情況はまるでハムレットみたいだ、と情況をなぞらえてみたり、あるいは森鴎外を『舞姫』の太田豊太郎と同一視して「あいつは文豪とかいうけど、とんでもないやつだ」と思ったりするのだ。

よく「真実はひとつ」という言い方がある。わたしたちもそう思っている。だからこそ、逆に『藪の中』のような小説が、小説として成立するのだ。
けれども「真実」が、人の数だけあったら?

だから、わたしたちは話をし、本を読む。自分にとっての「真実」が他人にとっても「真実」だと確認したい。あるいは、他人の「真実」と自分の「真実」を重ねあわせ、その歪みを補正しようと、自分の「真実」を曲げることすらやっていく。

同じ出来事に直面しても、人はまったく異なる「出来事」としてさまざまなことを書き残す。
山田風太郎の『同日同刻 ――太平洋戦争の一日と終戦の十五日』(文春文庫)を見ると、そのことがよくわかる。

山田は前書きでこのように記す。

私は当時の敵味方の指導者、将軍、兵、民衆の姿を、真実ないし真実と思われる記録だけをもって再現して見たい。しかも、同日、できれば同刻の出来事を対照することによって、戦争の悲劇、運命の怖ろしさ、人間の愚かしさはいっそう明らかに浮かび上がるのではないだろうか。

こうして、さまざまな人の、さまざまな「昭和十六年十二月八日」と、「昭和二十年八月一日−十五日」が描かれていく。
これは、山田風太郎の手による「はじめ」と「終わり」を持つ物語である。
けれども、同時に、わたしたちは、どんな歴史年表を見るより、このさまざまな人によるさまざまな言葉の中に、「歴史の真実」を見る。

わたしたちは「出来事」を物語として理解する。
あの人はどんな人か、あるいは自分はどんな人間か、というのも、物語として理解する。
そうして、この物語にもとづき、虚構化というプロセスを経た小説を、やはり物語として理解するのだ。

この物語は自分ひとりにしか意味がないものではないことを確かめるために、わたしたちは保証を求める。「これ、本当でしょう? 事実でしょう?」そうやって、確認しながら、再度、自分の物語を紡いでいくのだ。

冒頭に引いた『牢屋の坊ちゃん』では、なぜ夏目金之助が「ズックの革鞄二つを振分けにし、毛繻子の蝙蝠傘をぶら下げて」いるのだろう? 物語の進行には直接関係のないこの描写は、なんのために必要なのだろう?

それはリアリティを増すためだ。けれども、わたしたちが「リアル」と感じるのは、現実ではないものに対してである。「あの映画、すごくリアルだった」と言うことはあっても、いま目の前で現に起こっている出来事や、自分が実際に見聞きした出来事を「リアル」と感じることはない。この「リアル」とはいったい何なのだろうか。

 詩人(作者)の仕事は、すでに起こったことを語ることではなく、起こりうることを、すなわち、ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で起こる可能性のあることを、語ることである。なぜなら、歴史家と詩人は、韻文で語るか否かという点に差異があるのではなくて…(略)…、歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語るという点に差異があるからである。したがって、詩作は歴史にくらべてより哲学的であり、より深い意義をもつものである。というのは、詩作はむしろ普遍的なことを語り、歴史は個別的なことを語るからである。

 普遍的とは、どのような人物にとっては、どのようなことがらを語ったりおこなったりするのが、ありそうなことであるか、あるいは必然的なことであるか、ということである。

…(略)…

 以上に述べたことから明らかなように、詩人(作者)は再現をおこなうゆえに詩人であり、しかも行為を再現するのであるから、詩人はそれだけいっそう、韻律をつくる者であるよりも、むしろ筋をつくる者でなければならない。

(アリストテレス『詩学』第九章『アリストテレース詩学・ホラーティウス詩論』所収 松本仁助・岡道夫訳 岩波文庫)

この部分でいまなお意味があるのは、「詩作は歴史にくらべてより哲学的であり、より深い意義をもつものである」という部分ではなく(笑)――ここでは「再現」と訳してあるけれど、アリストテレスの“ミメーシス”は「模倣」と訳されることの方が多い――この「模倣」ということである。

アリストテレスは、作者は現実に起きたことを模倣するが、それだけでなく、ありそうな人物を産みだし、さらにその人物に、ありそうな行為をさせなくてはならない、という。現実を模倣しながら、現実を、現実以上に劇的に描き出さなければならない、と言っているのである。おそらく、わたしたちが「リアル」と感じるのは、こういうものを目にしたときなのだ。

『ユリシーズ』について書いていたとき、詩人のエズラ・パウンドは「われわれは言葉に支配されている。法律は言葉で書かれている。そして文学はこれらの言葉を生きた正確なものにしておく唯一の手段である」と断言した。

(ジョージ・スタイナー『言語と沈黙 ―言語・文学・非人間的なるものについて』由良君美他訳 せりか書房)

文学が唯一の手段かどうかはわからない。わたしにはそんなことは言えない。たとえば『山の人生』は、一般には文学には分類されないだろう。
柳田國男は『山の人生』(『柳田國男全集4』ちくま文庫)をこんな事件から書き始める。

 今では記憶している者が、私のほかには一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞で切(※原文は石偏)り殺したことがあった。

 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。

 眼がさめてみると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かして居るので、傍に行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことが出来なくて、やがて捕えられて牢に入れられた。

 この親爺がもう六十近くになってから、特赦を受けて世中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持で蝕ばみ朽ちつつあるであろう。

柳田はもともと文学に親しく、花袋らとともに、「新体詩」の詩集を出したりもした。そうした深い交遊のある花袋にこの事件を話したところ、花袋は「こういう奇抜な話は小説にはならない」と言った、というエピソードが残っている。

この章の末尾に書かれた文章は、花袋への返答とも読むことができるだろう。

 我々が空想で描いてみる世界よりも、隠れた現実の方がはるかに物深い。また我々をして考えしめる。これは今自分の説こうとする問題と直接の関係はないのだが、こんな機会でないと思い出すこともなく、また何人も耳を貸そうとはしまいから、序文の代りに書き残しておくのである。

わたしはむしろ、この「事件」という物語のなかに、人間のリアリティを読みとった柳田と、読みとらなかった花袋という、それぞれの資質の違いを感じてしまう。あるいは、物語の中に響く、普遍的な人間の声を聞き取ることができた柳田の耳の鋭敏さと、花袋の鈍さ、と言ってもいいかもしれない。

「真実」は、いつでも「わたしの真実」だ。
そうして、「わたしの真実」は、「わたし」を物語る。




初出 June.7-14,2006 改訂 June.16,2006

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